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「想うものの欠片」第一話プロローグ

すべてを見通す青年
すべてを愛する少女
すべてに優しい少年。
三人が出会ったとき、世界は大きく動き出そうとしていた。

産業が発達し始めた世界。
馬車と自動車が並走し、蒸気機関車が都市を結ぶ。

機関車整備工をしながら、建築技師を夢見る少年タース。
見ることのできないものを見、触れることのできないものを感じる美少女に出会ってから、すべてが変わる。壮大な冒険物語




「想うものの欠片」
第一話 プロローグ

その街の夕焼けは、大陸で一番のミモノであると評判だった。西へと低く続く丘陵地、その先に広がるリール海。西の果てまで続くそのエメラルドの海には、今まさに、沈みかかったオレンジの太陽が名残惜しむかのようにその色を水面に振りまく。
それはざわめく白い波と、丘陵地に続くオリーブの緑、家々のレンガ色の屋根を綺麗に染めて、すべてを一色にしようかとも思えた。
ゆらりと髪を揺らす風に青年は目を細めた。

肩でうねる銀色の髪を一つに束ね、黒い硝子の眼鏡の奥で、翡翠色の瞳が何かを見据える。隣に立つ少女は、柔らかい色合いの髪をふりんと揺らして、青年の美しい横顔を見上げていた。

彼らは、ティエンザ王国西端の街ポオトを見下ろす高台の宿に到着したばかりだった。
案内してくれた主人がうやうやしく退室すると、青年はまっすぐ窓に向かったのだ。しばらく立ち尽くしていたので、少女は傍らに自分の居場所を作った。
そうして美しい夕景にうっとりとし、嬉しくなって隣の青年の手に手を合わせようとする。
青年がポツリと言った。
「魚臭い」
美しいものはえてして、美醜に興味はないとも言う。青年は容姿に相応の無遠慮な感想を述べた。
「きれいなのに、シーガさま」
つなごうとした手を止めて、少女が面白そうに大きな瞳を瞬きする。
シーガと呼ばれた青年はきびすを返すと、窓を閉めなさいと少女に指示した。着ていた軽い生地のコートを脱ぐと、壁に付けられたフックにかけた。
少女が窓の脇にある開閉用のレバーをぐるぐると回し、それにあわせて、外に向けて開かれていた観音開きの大きな窓は、ぎしぎしと音を立てながら閉まっていく。海からの風が硝子の向こうに追いやられた。

「嫌な街です。昼間は海からの魚と潮の臭い風、夜には街から海ににごった空気が流れる。おぞましいですね」
青年の想像した夜の街は、酒場や観光客の織り成す酒と香水の匂いにも似た異臭、ごった返す夜店の食べ物、貧しいスリの子供、街角の娼婦、それらの街明かりをふんぞり返って見下ろす貴族たち。すべての営みが汚らしく感じるのだ。

「うふふ。シーガさまは人が嫌いですもの。でもシーガさま、夕焼けはきれいだと思いますの」
少女が名残惜しそうに引いたカーテンの間から顔だけ突っ込んで、まだ窓の外をのぞいている。室内はランプの灯りだけとなった。ランプオイルにラベンダーの香油を混ぜてあるのだろう、炎が揺らぐたび、かすかに香りがする。
「ミキー、私が嫌いだといえば嫌いなのです。お前の考えは関係ないですよ」
ミキーは小さく首をかしげた。
「では、私も嫌いになりますの。嫌な街ですの」
「…」

にっこりと満面の笑みをたたえた少女に、シーガはじろりと厳しい視線を投げる。それでも少女はニコニコしていた。
「価値観を同じくして相手に媚ようというそれが、私は嫌いです」
「はい、私も…」
「…相手になりませんね」
笑顔のまま同じ言葉を繰り返そうとするミキーをさえぎって、青年は自分の場所と決めたベッドに座り、そのまま横になった。

少女は、少し足りないところがあるのかもしれない。
年の程は十代前半に見える。やわらかな亜麻色の髪を二つに束ね、それが背の中ほどまでたれて揺れる。くりくりした瞳で青年を見つめ、ニコニコと嬉しそうに笑っている。白いレースの縁取りのあるブラウスに、黒いワンピース。その裾から黒い半ズボンが、ちょうど膝の上辺りまで来ている。少し大きいのだろうか、余計に少女を華奢に見せた。

「あ、そうですの。シーガさまが買ってくださった新しいお洋服!着てみますの!」
荷物の入った大きなトランクが、宿の主人に運ばれたときのまま部屋の入り口の脇に置かれていた。思い出したのか、少女はそれの留め金を外した。
「嬉しいですの」
パチ。
「きゃ!」
トランクは中身の重みで片側が一気に開き、本やら着替えやらが少女を押しのけるように転がりだした。
「ミキー、何度目ですか」
「えへへ、びっくりした」
悪びれない少女をシーガは半身を起こして睨みつけていた。今は眼鏡を外していた。翡翠色のきれいな瞳に見つめられて、ミキーは少し頬を染めながら、いそいそと転がった荷物を拾い集める。
「いっぱい転がっちゃった。大変大変♪」
半分がぱったり開いてしまった大きなトランクを、どうしようかと少し思案し、立ったままのもう半分を横たえようとする。
「ええと」
半分にもまだ、革のバンドで不自然にとどめられた荷物が残っている。

ライトール公国の名店レザンの革職人によって作られたものだ。それ自体が重厚なつくりで、荷物を合わせれば少女の体重をはるかに超えているのではと思われた。
「危ないですよ」
「んきゃ!!」
青年がつぶやくように言ったとたん、少女は倒そうとしたトランクを支えきれずに、下敷きになりそうになって、床にしりもちをついた。重いトランクはドンと階下まで響く音を立てる。
「やん、びっくりしました」
「…」
それでも青年は一向に手伝おうとはしない。少女が再び転がりだした雑多なものを拾い集めるのをじっと見ていた。

コンコン。

少女がトランクを広げている目の前、部屋の扉がノックされた。
「誰です?」
物憂げに、シーガはごろりと転がってうつぶせになると、組んだ腕の間からじろりと扉を睨んだ。
「シーガ様、お迎えの方がお見えです」
宿の主人のようだ。
シーガが何も言わないうちに、ちょこちょことトランクの向こうに回りこんだミキーは、扉を開けた。
「おや、お嬢さん、取り込み中にすみませんね」
宿の主人がミキーの肩に手を置く。主人の足元には小さな少女のものだろう、靴下がきれいに丸められたまま、転がっている。
「いいですの」

ミキーがにっこり笑い返すと、宿屋の主人はまるで少年のように頬を染めた。少女の愛らしい笑顔は、あらゆるものの心を奪う。冷たい視線でそれを眺めている青年を除いては。
「迎え、とは」
青年の言葉に我に帰ると、主人は照れたようにちらちらと少女を見ながら言った。
「ロゼルヌ卿のお使いでございます」

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「想うものの欠片」第一章プロローグ 2


この小さな港町ポオトは海岸線の北半分が遠浅の海と美しい砂浜、岬を境に南は切り立った石灰岩の崖になっている。
そこを切り出した港は、航路の利便性が重宝され、この国有数の港とされている。西に海を臨み、東はサティモ山脈を背負っている。遠い昔には小さな国家の首都であった時期もあったという。古来から海とともに生活してきたポオト人は素朴で情に厚く誇り高い気質を持っている。現在ティエンザ王国に統一されて三百年以上が過ぎているが、未だに選民意識は強い。

海と自然を尊ぶ彼らは観光客を嫌っていた。この街に生まれた船乗りや漁師は観光客に対してぞんざいな態度を隠さない。彼らの仕事は観光客を呼んで街にお金を落とすことではないのだ。ゆえに移民の商人たちを嫌った。商人の組合である商業会と漁師の団体である漁業会とは常に対立していた。

しかし、街を代表するボール競技のチーム、「ポオト・ルクス」を応援する時だけは違う。

昔から盛んだったこのボールを足で蹴る競技は、ティエンザ王国で正式に国技とされ、王国認定のチームが全国で五十を超える。その頂点を決める大会ではポオトは常に五本の指に入る。

この街に住むポオト人たちにとって、その競技を応援することは、何よりも重要なことだ。他に楽しみがないといってもいい。東の高台にある競技場で試合が行われるときには、港には船がひしめき、沖に出る船は一艘もないという。
街を代々治める領主ロゼルヌ一族はポオト・ルクスのオーナーでもあり、積極的に盛り上げることで商人たちと漁師たちを一つにまとめあげてきた。
その十八代領主、アラン・ロゼルヌが今回の依頼主だった。


ぶるぶるとエンジンを響かせる車の後部座席で、革張りのシートに背を任せ、シーガは不機嫌だった。木枠に革を打ちつけただけの車輪は石畳の振動を直に伝える。ぎしぎしときしむようなその機械の乗り物を、シーガは嫌っていた。

「シーガさま、車ってすごく揺れますのね」
「お嬢さん、揺れますがね、これでも最新式なんですよ。これからは自動車の時代ですよ。王都では自動車のために、道路の石畳に砂をまいて平らにしているくらいですから。この街で今、自動車を持っているのはロゼルヌ卿と商業会会長のスタリングさんくらいのものですが、これから増えるでしょうね」
「嫌いなものは嫌いです。もう少し、揺れないように丁寧に運転しなさい」

運転手は困り果てる。
「そんな無茶言わないでくださいよ」
「じゃ、ミキーがしてみたいです!」
「お、お嬢さん、冗談言わないで下さい」
ミキーはまんざら冗談ではないらしい。面白そうに座席越しに運転手の手元を覗き込むと、ハンドルに手を伸ばそうとする。
「あ、危ないですよ!」
「あん」

運転手に手を払われるとつまらなそうに座席に戻り、落ち着きなく見回す。今度は窓に張り付いて街を眺める。普段は馬車しか使わない。初めての乗り物に興奮している。
その姿は運転手の笑みを誘ったが、青年は苛立ったようでため息の後に一言つぶやいた。

「嫌いです」
「見てください、シーガさま!速いですー!すごいです!お馬さんも追い越しましたの!」
「自動車は気分が悪くなります。だから、馬車がいいと言ったのに」
「はやーい!目が回りますのー!」
かみ合わない会話はいつものことだ。

「運転手!後どれくらいですか」
夜だというのに黒い眼鏡をかけた青年を面白そうにミラー越しに見つめて、運転手は口元のひげを揺らした。
「旦那さま、あと少しの辛抱でございますよ。ほら、競技場が見えてきました」
蒼い顔の口元を手で塞いで、シーガは運転手のさす正面の景色を見つめた。

それは、改装中だという、この街の競技場だ。円形の石造りのそれは、城壁より立派な石壁を半分ほど崩した不気味な様子で、暗がりの中にたたずんでいた。
工事用のテントの小さなランプの明かりだけが、あたりを照らしている。
落日の名残を残す夕闇の空に黒々とそびえる。古い建物の放つ瘴気に、シーガは眉をひそめた。車のライトがテントの前で出迎える人影を映し出す頃には、シーガはますます気分を悪くしていた。

「う、最悪ですね」
「シーガさま、ミキーは何だかドキドキしますの!分かりますの!」
喜んでいるのかなんなのか、少女は青ざめる青年の手を両手で握り締める。

ミキーの耳にも、何かが聞こえていた。それは、これまでの経験からユルギアに違いなかった。
シーガと同じものが聞こえることに、彼女は喜びを感じている。そのあどけない表情を見るとシーガは余計に疲れを感じた。
それは、聞けるものと聞けないものがいる。気付かぬものと気付くもの、と置き換えてもいい。少女はただ、気付くだけだ。
シーガはそれを感じ取ると同時に吐き気に襲われる。それが慣れない車のせいでないことは経験で分かっている。シーガは理解できるもの、ミキーは理解できないもの。そこが二人の違いである。

「…」
「シーガさま?お手手が冷たいのです。嫌なユルギアですの?」
「…うるさいと言っています。ミキー、お前は何の役にも立たないのだから、せめて黙っていなさい」

瘴気を放つその古い建物をシーガは見ないよう、見ないようにと顔を背けていた。
「旦那様、さ、降りてください。私はこちらでお待ちしております」
運転手が後部座席の扉を開けた。
引っ張られるようにして、青年と少女は車から降りた。
「まったく、こんな仕事請けるものではありませんね」
「でも、シーガさま、石を感じるってそうおっしゃったですの」
「…自動車に乗るくらいなら、石などどうでもよかったのです」
ミキーは首をかしげた。

依頼の封書が届いた時には、とても嬉しそうだったのだ。
探している大切な石が関係するのだと話していたのに。
「シーガさま、うそつきですの?石と自動車とどちらが大事ですの?」
「…うるさい。人は矛盾するイキモノだ。お前とは違う」
悪戯を見つけられた少年のように一瞬表情を歪めると、すぐにまたいつもの冷静な顔をする。ミキーは垣間見える青年の表情を楽しむかのように、その顔を真似して見せた。
もちろん、シーガは無視している。
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「想うものの欠片」第一話プロローグ 3



出迎えた男は工事責任者のダーレフといった。日に焼けた腕を差し出して半ば強引にシーガと握手を交わした。
「しかし、なんですな、予想していたよりずっとお若い」

ひげの下で笑う男に、シーガは黒い眼鏡の奥から睨んでいた。
「こんな、生っちろい腕で、本当に大丈夫なんですかねぇ」
「あなたのその言い分は私を選んだロゼルヌ卿をも批判しているように感じられますが」
シーガの一言にダーレフは肩をすくめて、人の悪い笑みを浮かべた。
「こりゃ旦那、お気を悪くなさったのでしたらすみません。ま、見てください、この有様で」


男が歩く後を、シーガとミキーがついていく。
競技場の敷地は、鋼鉄のフェンスで囲まれている。大理石の彫像を左右にあしらった門から入っていくと、石畳の歩道に沿って小さな石の灯篭が心もとなくろうそくの炎を揺らしていた。炎につれて揺られるシーガの影をまたいでみたり、踏んでみたり。ミキーは楽しそうについてくる。

「経費削減って言う奴ですかね、きっかり、日付が変わる頃に燃え尽きるようにされているんでさ。テントだけは、何とかランプを許していただけましたがね。なんですな、このポオトの街は豊かだって聞きましたが、領主がこれほどけちだとは思いませんでしたよ。これじゃ、街の業者が請けないわけですな。私の町はここよりもっと小さいですがね、領主さんが発電機を造らせましてね。町の仕事を請けるときには、そいつのおかげで夜も明るくてね。助かりますよ。仕事柄あちこちの町に行きますがね、今じゃ都会と田舎じゃまったく違う。いや、私の町が都会だなんて言っている訳ではないですがね」

男は外壁の石材を積み上げた山の脇を抜けて、テントの脇を通り過ぎる。そこから先は灯篭がないために、ダーレフの持つ小さなランプ一つになった。

「工期が決まってるんでね、こっちも慌ててるんです。そんで、宿の親父に到着次第知らせてほしいと伝えてあったんですよ。ロゼルヌ卿は商工会の連中と会合とかでしてね。まあ、何を話し合っているやら、怪しいもんです。知ってますか、旦那、この街で商売やるには商工会にかなり払わなきゃなんないそうですよ。ま、おかげで娼婦はそれなりの玉が揃っていますがね」

「うっとうしい限りですね」

「ですよねぇ、商工会がこんなに力を持ってる街は珍しいですよ。俺の街なんか、茶飲み会に毛が生えたようなもんでして、いえね、従兄弟がそれに参加してましてね」

「…少し黙ってもらえますか」

どうやら青年がうっとうしいといったのは、男に対してだったらしい。男は袖を引き、口に人差し指を当てている少女に今やっと気付いた。
「あ、こりゃ、すみません」
少女がにっこりと見上げる。

その大きな瞳は闇の中でランプの光を受けて艶やかに見えた。赤い唇が妖艶ですらある。男はごくりと生唾を飲み込んだ。
袖を掴んでいた少女の手を取ろうとした。
するりとかわして、少女はちょこちょこと青年の脇に駆け寄る。
ダーレフは胸を押さえた。鼓動が高まっているのだ。心臓でもおかしくしたのかもしれない。

月明かりもない夜。
どんよりと湿った空気にシーガは辟易していた。
その風には、海のものでも人のものでもない何かが含まれている。
ダーレフは簡単に作られた木の柵をぎしぎしと動かし、その隙間を通り抜けて壊れかけた競技場の正面入り口に二人を案内した。

そこにも大理石の彫像が二つ黒い影となって立ち、数段の階段を上ると立派なアーチが出迎える。彫刻は美麗で、ところどころ古びてはいるものの荘厳なそれは壊すには惜しいものだ。神殿にも似たつくりだ。切り出した石だけで組まれたそれは、自重でアーチを支えている。内部はさらに暗く、足元も見えないシーガとミキーは、知らず知らずに手を握り合って歩いていた。

「立派でしょう、この石は遠いゴーランの街から切り出して運ばれたそうです。今じゃ同じものを手に入れることは出来ないんでね、できるだけ再利用するって話ですよ。しかし、旦那、そのけったいな眼鏡はなんです?そんな黒いんじゃ、何も見えないんじゃないですか」
男は、足元を確認し、二人にも見えるよう、出来るだけランプを持ち上げながら振り返った。

「すべてが見えたからといってどうなるものでもありません」
青年の言葉に、ダーレフはまた肩をすくめた。
「ほら、コレですよ」
男がランプを左右にゆっくり振って見せた。

入り口のゲートを抜けるかどうかというあたりだろう。向こうには開けた芝の原が月明かりに夜露を光らせていた。その手前、建物の石組みを覆うように黒々とした植物の根のようなものがはびこっていた。床の石材を浮き上がらせ、壁を突き抜けている。それは、太いところでは大人の胴ほどの太さがあり、細く伸びた先は火箸ほどだ。幾重にも分岐し、崩しかけた城壁の石を抱え込んでいる。

「これですよ。見たことない木でしてね、コレに斧を入れた職人は皆何かしら怪我をするんで。もう、わしのとこじゃ怖がって誰も手を付けたがりません。一週間手を付けられずにいる間に、ずんずん伸びましてね。今じゃ、この競技場の建物内側を覆いつくしているんです。本当の根っこが何処にあるのかもわからない次第で」

ダーレフは天井に這う植物を見上げた。ぎしり、と木の根が動いたように感じた。軽口を叩いていた男も一瞬表情を引きつらせ、木の根が抱え込んだ石がボロボロと小さな欠片を落とす場所を大きく迂回した。
それに習うように少女も見上げた。

シーガだけは、天井には視線を向けず足元の木の根をじっと見つめ、深いため息をついた。
「どうです、旦那。どうにかなりますかね」
「…ロゼルヌ卿に、話さなくてならないな」
「へえ!コレが何だかお分かりですか!」

感心したようにダーレフが大きな声を出した。
その声は反響して、奇妙な山彦のような声を返す。
「静かにしなさい。とにかく、今日は帰ります。ロゼルヌ卿に明日馬車で、いいですか、馬車ですよ。迎えに来るように伝えてください」
「へ、へえ!」
シーガがダーレフのランプを奪い取ってきびすを返したので、男はおびえたように高い声を出して青年の後を小走りに追いかける。
同様に、慌てて走り出した少女が転びそうになるのを助けながら。
いつのまにか少女は怯えて無口になっていた。何度も、振りかえっては競技場を見つめた。

次へ 




「想うものの欠片」第一話プロローグ 4


翌朝ミキーが自分のベッドから起き出した時には、すでに青年の姿はなかった。
慌ててブーツを履くと、真っ白な膝までの夜着の上にブラウンのニットコートを羽織ると部屋を飛び出した。
「どちらに?シーガさま?」
二階にある部屋のすぐ前は吹き抜けを囲むように回廊があり、少女は木製の手すりに寄りかかると、階下の宿の主人に声をかけた。
「あの、おはようございます!」

主人は声の主が分からなかったようで、きょろきょろと禿げかかっている頭をかきながら見渡す。
「ええと、今行きますの」
少女が階段を降り始めて気付いたのか、主人がカウンターから出てくると階段の途中のミキーに挨拶した。
「おはようございます。どうなさいました、慌てて」

丁度主人と同じ目の高さのところでミキーは留まると、結っていない髪を思い出したのか慌てて前髪を手でなでる。
その仕草がかわいらしく、主人は表情をほころばせた。
「あの、あの、シーガさまがいらしゃらなくて!」
少女は大きな瞳に涙を浮かべていた。
「シーガ様よりご伝言をいただいておりますよ」
「あ、あの、シーガさまはどちらにいらっしゃいますの?」
少女の手が主人の手を両手で包んだ。羽織っただけのコートの胸元で白い夜着がちらちらとのぞく。
「大丈夫ですよ。シーガ様はお出かけです。ロゼルヌ卿からのお迎えがいらして」
「お、お帰りは?何時ですの?どうしてミキーを置いていかれたのですか」
少女は泣き出しかけていた。

「落ち着いてください。お手紙を預っておりますよ。こんな可愛らしいお嬢さんを置いていかれるはずはないでしょう?すぐにお戻りになりますよ」
「…」
「本当に、心配をかけて、悪い方ですねシーガ様も」
主人は心からそう思った。この少女が青年の従者なのか二人の関係は不明だが、見知らぬ宿に一人残されて不安がることは十分承知のはず。それを黙っておいていくのだから、無愛想な青年の性格を疑いたくもなる。
ぶつぶつ言いながら主人はカウンターに戻って、その奥から紙を丸めた筒を取り出した。細い白絹のリボンで結んである。
ミキーはそれを両手で受け取る。

服の袖が長いためか、指が三本しか見えない。いじらしく感じて、主人は目を細める。少女はぺこりと礼儀正しくお辞儀して、部屋で読むつもりなのか階段に向かう。
その後姿に、主人は朝食を運ぶと声をかけた。
少女は一旦、階段の途中で止まり、下から手を振る主人に、小さな手を振って応えた。

無愛想な青年のお供にしては、少し変わっていると主人は思う。青年の様子から裕福な家庭であることは確かだ。普通、貴族の子息は同年代の従者を伴うものだ。護衛でもあるし話し相手でもある。女性を伴う場合は恋人だったり伴侶だったり。それでも身分の高い人々は男女二人では旅をしない。必ず従者が付く。

自動車で移動するにしろ、馬車で移動するにしろ、大衆の利用する乗り合い馬車を使うはずのない彼らは、運転手あるいは御者が必要になるからだ。二人が黒い小さな馬車で到着したことは知っていたが、御者の姿はなかった。

御者だけ安宿に泊まらせることもあるが。
それにしても、様子から兄弟ではない。親子ほど離れているわけではなさそうだが、恋人には幼いだろう。お供にしては頼りない。
少女の鈴の音のような声を思い出す。今年十五になる自分の娘とは随分違う。
「何、にやにやしてんだい?」
キッチンの奥から、おかみさんがエプロンで手を拭きながら出てきた。
「あ、いやなんでもない」
「おかしな人だよ、熱でもあるのかい?顔が赤いよ」
言われて初めて、主人は自分の頬が火照っていることに気付いた。
本当に不思議だ、熱でもあるのだろうか。
「あれ、本当に熱があるよ」
女将さんが額に手を置いて驚くと、主人は急にけだるくなる。二階の客に食事を運ぶよう頼むと自分はカウンターの奥のイスに座りこんだ。何度も自ら額に手を置いて不思議そうにため息をついた。


ミキーは、部屋の端に置かれたテーブルを、明るい窓際に引きずってくる。よいしょと小さく声を出しながら、イスをそこに添える。テーブルの上をハンカチで綺麗にふき取る。

イスに座ると、先ほどの筒になった書簡をそっと置いた。
嬉しげにリボンをそっと引く。
つるりと解ける瞬間を楽しむように目を細める。
「うーん、シーガさまの香りがするの」

くんくんと深く鼻で息を吸って、それからにっこりと笑う。ニットコートのお尻のあたりがむくむくと動いた。ふわふわした髪の中から、たれた大きな耳がピクリと姿を現していた。
小さな物音も彼女の大きな耳には届く。白いウサギの耳のようなそれが、ぴくんと立ち上がった。
階段を誰かが上ってくる。
部屋の前に立った。

慌ててイスからおりると、髪からはみ出した真っ白な耳を慌てて隠した。コートのすそからちらりと見える白い尾も数回なでるように押さえつけると、少女は戸口の前に立った。
ちょうど、ノックの音が響いた。
「お嬢さん、お食事をお持ちしましたよ」
「はあい」
開くとすぐに目の前に少女がいることに驚いたおかみさんが、トレーをひっくり返しそうになってミキーは慌てて支えた。
「ありゃ、すみません」
「いいんですの」
トレーを受け取ると、ミキーはにっこり微笑んだ。
女将さんは一瞬、目を見張って少女の手を見た。少女はありがとう、と笑って扉を閉めた。
トレーをテーブルではなく床に置くと、ミキーは再び嬉しげに書簡の乗ったテーブルに向かう。

「わかっちゃったかなぁ」

そうつぶやいて、自分の手を見つめた。小さな白い手。そこには、少し長い関節のない柔らかな指が三本だけ。表面は艶やかな絹、中は真っ白な綿。三本指の手のひらを握ったり開いたりしながら、少女は再び開きかけた手紙に向かう。

「シーガさまがおそばにいれば、ばれないのになぁ」
もう一度手紙に移った青年の香を楽しんで、それから開く。
中身を読んで。何度も大きな目を瞬きした。

次へ 

「想うものの欠片」第一話プロローグ 5




「ごちそうさまでしたの」

少女がカウンターにトレーをことんと置いても、誰も出てこない。きょろきょろと見回し、人影もないので、ミキーはくるりと身を翻して飛び跳ねるように宿の玄関に向かった。楽しそうに宿の玄関の泥落としにブーツを二回こすり付ける。朱に塗られたかわいらしい木枠の扉を押し開くと、高い位置に付けられた小さな鐘がちりりんと鳴る。


正午過ぎの街は、暖かい日差しの下、穏やかに静まり返っていた。
少女は白いレースの縁取りのついた絹の帽子を目深にかぶり、白いブラウスに黒いワンピース。その下に黒い半ズボンという昨日と同じいでたちで宿の前の通りに立った。高い場所にあるこの宿からは、緩やかに下る入り組んだ細い路地や家々の屋根、広場や公園で子供たちの遊ぶ姿が手に取るように分かった。


街の繁華街は港から程近い辺りに湾を囲むように広がっている。ここからは小さく屋根が見えるだけだ。東の山に向かって街並みはだんだん古く、くたびれてくる。周辺の家々には漁の後だろう、網を長く伸ばして繕う漁師の姿が見えた。魚のにおい、昨日シーガが嫌がっていたものはこれかしら、とミキーは遠くからそれを眺めた。
少女はこてこてと歩き出し、石畳の白い石を選んで踏みながら広場を目指していく。


街の繁華街に近づくたびに街は新しく小奇麗になっていった。石造りの白い壁、オレンジ色の屋根。窓の木枠はどれも赤い色で窓枠には決まって白と黄色と紫の小さなビオラが植木鉢ごとつるされていた。何軒も連なっていると、とても綺麗だ。
花の香りに、くんくんと嬉しそうにしながら、少女は程なく目指す広場までたどり着いた。


それは教会の隣にあった。
教会の礼拝堂の脇の細い道から回りこんで、石段で五段数えて降りると、針金で作られたフェンスで囲まれた四角い広場があった。柔らかい土の感触にミキーは二度、足を踏みしめる。
四角いそこは、ボール競技の小さな練習場のようになっていた。
十数名の少年たちがボールを蹴って追いかけている。


「お前、なんだ?」
ミキーの後から石段を降りてきた少年が、丸い鼻をこすって立っていた。


「あのね、お願いがあるんですの」
十五歳くらいだろうか、黒髪の日に焼けた少年はミキーの顔を見るなり、真っ赤になって、数歩、後ろに下がった。
「テデ!何してんだ、遅いぞ!うちのチーム五人しかいないんだ、負けてるよ」


丁度、転がったボールを取りにきた別の少年がミキーの隣で立ちすくんでいる少年に声をかける。
テデと呼ばれた彼は、まるで魅入られたようにミキーから目が離せない。
「何してるんだ、誰だこいつ。よそ者と話してると親父に怒られるぞ」
日に焼けた漁師の子だろう、赤毛の少年は駆け寄るとテデの腕を引いた。怪訝な顔をしてテデが見つめる少女を睨んだ。が、それも長く続かなかった。

少年の青く澄んだ瞳に、ミキーはくん、と首をかしげて微笑む。白い頬、艶やかな唇、そして吸い込まれるような瞳、亜麻色の巻髪がゆらと揺れて、日差しの反射なのかまぶしくて仕方ない。赤毛の少年は凛々しい眉をだらしなく下げて、何度も瞬きした。


分かりやすく言えば。恋に落ちていた。


「お、…お前、どっから来たんだ、誰なんだ?」
たどたどしく言葉をつなげて、そこまで言うと、少年はやっと息を吸った。
「何だよ、ルーファ。誰だよそいつ」
「おい、試合途中だぞ」
「なに、どうしたんだ?」
口々に好き勝手なことを言って少年たちが駆け寄ってきた。
あっという間に、ミキーは八歳くらいから十六歳くらいまでの少年の輪の中心にいた。
みんな、ぽかんと、口を開けて少女を見ていた。


「ミキーといいますの。昨日、この街に着いたの」
にっこりと少女が微笑むと、ルーファと呼ばれた少年が、赤毛をかきむしりながら笑った。
「あ、あのさ、もしかしてこの街に住むの?」
「すげー、可愛い!」
少年たちは互いに押し合って前に出ようとしていた。
「見えないよ」
「おい、前に出るなよ!」
「押すなって!」
「ルーファ、お前父ちゃんに知らせないとさ、新しい住民は登録が必要なんだ」
テデが赤毛の少年の長袖のシャツを引っ張る。
「何処に住むの?」
「海区だよな!挨拶に来たんだろ?」
「まじかよ、お前の父ちゃん、漁師なのか?」


いっせいに皆に声をかけられて、ミキーは困惑した。
「まあ、待て!いっぺんに話したら困っちゃうだろ!俺が代表で話す!」
ルーファがミキーの正面に廻ろうとする少年たちを背中で押さえると、少年より頭一つ小さいミキーを覗き込むように見つめた。


「お前、ずるいぞ!」
背後からの年上の少年に、ルーファはきっと睨み返した。
「文句あるのか?」
ルーファは年上の少年と同じくらいの身長がある。少年にしてはがっしりした腕を胸の前で構えて見せた。喧嘩したいならするぞ、という意思表示だ。少年たちの中で中心的な存在なのだろう、年上の少年も口を尖らせつつ一歩下がった。


「俺、ルーファっていうんだ。親父が漁業会の会長なんだ。この街で分からないことがあったら俺に聞いてくれよ、何でも教えてやるぜ」


ミキーが帽子を少しずらして、少年を見上げると白い頬が日にさらされて眩しい。いっせいにおおーと、少年たちのため息がもれた。
少女は真っ白な柔らかそうな頬を薄桃色に染めて、くるりとまつげの長い大きな瞳で少年たちを見つめた。柔らかな亜麻色の巻き髪が頬と胸元に揺れる。少女が瞬きするたびに、少年たちは吸い込まれるように見入った。
幾人かは、初恋とはこれだとばかりに胸を躍らせたに違いなかった。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 6




「あのね、私、競技場の工事のお手伝いに来ているの」
「え?」
少年たちの笑顔が曇った。


ルーファが少女の肩に手を置いた。
「あのな、俺たち漁業会の仲間は競技場の改修に反対なんだ。建物自体は何にも問題ないんだ。なのに、商業会の奴らが、客を呼ぶためにもっとたくさん人が入れるようにするって言う話だ。結局奴らは金儲けだけなんだ。伝統ある競技場を壊すなんてさ。お前の父ちゃん、工事業者なのか」
ミキーはこくんと頷いた。
「確か、隣町から呼んだって聞いた。この街じゃ、引き受けるとこがないからな」
ルーファが淋しげに手を離して、一歩下がった。


「じゃ、お前は何の用でここに来たんだ?」


「あの、お願いがありますの。工事は今止まっていますの。もうずっとお手入れしていないのに競技場の芝がとっても綺麗だから、遊びたい子に来てもらいなさいって言われたの」
シーガさまに、とその一言は小さくなる。

「入れるのか?」ルーファが目を丸くする。
競技場は街の代表チーム専用だ。漁業会の会長である父が大会の前の花束を持つ役を一度だけやらせてくれた。それ以来、足を踏み入れていなかった。
ボール競技を楽しむ少年たちにとって、その競技場は憧れだ。


「本当なのか?本当にあのきれいな芝生の上でボールを蹴ってもいいのか?」
「はい。壁は壊れかけているけれど、芝生はとっても綺麗なの。まるで誰かがそこでボールを蹴ってくれるのを待っているみたいだって言って。誰でも使っていいって言ったの」
なるべくたくさんの人に、そう手紙にはあった。
だから、目に付いたボールを蹴っている人すべてに声をかけるつもりだ。

ルーファの表情が明るくなった。
普段は見ることしか出来ない芝生の生えた球技場。そこでボール競技が出来る。少年たちは互いに見合わせると、ルーファが頷いたのをきっかけに歓声を上げた。
階段を駆け上って、まるで競争のように礼拝堂の前に置かれた自分の自転車にまたがる。自転車のないものは誰かの後ろにしがみついた。


「俺の自転車に乗せてやるよ」
ルーファはミキーの手を引いた。
少女の手が真綿のように柔らかだったので、思わず手を離す。
「うふふ」
笑うミキーと目が合って、真っ赤になるとついて来いとつぶやくように言って先に階段を上る。ミキーはチョコチョコとその後に付いていった。


自転車は心地よい午後の風を切って走る。
「うわー、気持ちいいですの!」
「お前、軽いな!誰も乗せてないみたいだ」
少女がそっとルーファの腹に手を回すので、少年はドキドキしていた。
甘い香りがする。


競技場は繁華街を通り抜けた先、南の丘にある。
もともと高台にあったルーファたちのテリトリーから競技場まで、ずっと緩やかな下り坂だ。
石畳で時折自転車はごとごとと揺れたが、そのたびにミキーはキャと笑った。通り沿いの建物は、広い通りに出ると急に大きくなった。どれも三階建てくらいで、尖った屋根、やはり赤い窓枠に白い壁。隙間もないくらいびっしりと並んで、パン屋さんだったり花屋さんだったりする。軒先に風見鶏が付けられたカワイイ磁器のお店にミキーは目を吸いつけられる。
「素敵」
「ん、まあ、な。俺たちとは、人種が違うんだ」
「ジンシュ?」
「ここいらは商業区。俺たち海区の住民とは生活が違うんだ」
「と、止めて!!」
ミキーが急に大きな声を出した。


「何だ!?」
ルーファは慌ててブレーキをかける。バランスを崩しそうになって手にじわりと汗をかきながら、何とか通りに立つ街灯の柱にぶつからずにすんだ。
「びっくりするな、危ないだろ」
ルーファが後ろを振り向くと、少女はちょうど、ぴょこんと飛び降りたところだ。


「ルーファ、惜しかったよ!みっともないとこ見損ねた」
声のしたほうは、公園だった。奥には教会の蒼い尖塔と十字の御印がある。公園はそのまま、墓地と隣り合わせになっている。


美しい花壇に囲まれて、死した者への楽園を約束するかのようだ。白い腰高のフェンスに囲まれた敷地には並木が風に揺れ、その木陰では犬を散歩させているご婦人が、日差しを避けるための小さな傘を肩に乗せていた。
優雅な休日の昼下がり。ミキーの泊まっている宿のあたりとは印象が随分違う。


声の主はルーファと同じくらいの歳の少年で、金色の髪をさらりと流して、腰に手を当てて笑っていた。
「シド、うるさい!」
ルーファがにらみつけた。
「あの、シドさんもボール蹴りするんですの?」
ミキーがちょこちょことそちらに向かおうとするので、慌ててルーファはミキーの手を取った。柔らかな白い手は長いブラウスの袖に隠れている。力を込めれば折れてしまいそうなくらい、はかなげだ。


「誰だよそいつ、ルーファの女か?」
シドが腰の高さの木の柵に上半身を預け、ゆさゆさ揺らしながら笑う。
「なんだよ、シド、誰と話しているんだ」
シドの後ろから、シドと同じ海の色のシャツを着た少年たちが集まってきた。

皆同じ服装だ。足元は膝下までの綿の靴下に高級な革の運動靴。ルーファはきゅと唇をかむ。海区の少年で靴下を持っている子は一人か二人。ほとんどが裸足に兄弟のお下がりの靴をはいていた。
裕福な商業区の子供たちは、自分たちとは違う。けれど、生粋のポオト人である俺たちは、どんなやつらより強い。そう言い聞かせられて育っていた。


バラの生垣に囲まれた緑の芝生の広場で優雅にボールを蹴るやつらとは友達になんかなれない、それが海区の少年たちの掟だ。
商業区の少年たちを睨むと、ルーファはミキーを引っ張って、その場から放そうとした。


「うわ、すげ、カワイイ」
「誰だよ!その子」
「ルーファ、お前乱暴するなよ!」
「そうだよ、放せよ!」
「嫌がってるだろ」
わいわいと騒ぐ少年たちに、今度は大人たちも集まってきた。
少年たちのボール蹴りを見に来た親たちだろう。今日は、商業区の休日だ。
「何を騒いでいるんだ、シド。あ、やあ、ルーファ。こんなところで珍しいね。おや、その子は見かけないが…」
シドの父親が隣に立つと、被っていた帽子を取って、まじまじとミキーを見つめた。


「こんにちは、スタリングさん」
ルーファは憮然としたまま挨拶を交わす。一応父親の面子もある。苦手な商業会の会長でも、下手な態度で父親の格まで下げるわけには行かない。
「ミキー、この人が商業会の会長さんで、ランカ・スタリングさんだ。シドのお父さん。スタリングさん、この子、競技場の工事関係者の方の娘さんなんだ。ミキー、ええと」
「ただのミキーですの」
にっこりと微笑まれると、スタリングさんも少し頬を赤くした。
「あの、皆さんボール蹴りをしますの?」
「あ、ああ、そこの赤毛のチームみたいなへぼじゃないぜ」
シドが言って周りが笑った。これ、と父親はたしなめてはいるものの、表情は笑っていた。


ルーファは悔しげに拳を握り締める。つないだ手にそれを感じて、ミキーは隣のルーファを見あげた。次に、大人たちを見た。
「競技場で、一緒に遊びましょう」
ミキーの言葉に、静まり返った。
「芝生がとってもきれいだから。今なら誰でも遊べますの」
「競技場は…、よくないよ」
それは、ルーファたちが見せた反応とは少し違った。
シドは顔を青ざめさせていた。


「ミキー、こいつらまで呼ぶことないさ。行こうよ、俺たちだけでやろうぜ」
「ま、待てよ!ルーファ、あそこは、その」
シドは柵を乗り越えて歩道に止められたルーファの自転車を押さえた。
「なんだよ、邪魔すんなよ」
眉を険しくする赤毛の少年に、シドは何度も瞬きして、真剣に見つめた。
「シド、放っておけよ、自業自得さ」
少年の一人が言う言葉に、シドはきっと睨み返した。
「バカいうなよ!死んだ人もいるんだ!あんな危ないところ、子供だけで行っていいわけないだろ!」


言い返すシドに、一番驚いたのはルーファだ。自転車にまたがったまま、蒼い目をまん丸にしていた。
「なんだ、それ」
「ルーファ、お前の仲間だけで行ったのか?止めたほうがいいぞ!あそこ、ユルギアが出るんだ!もう、何人もけが人が出ていて、だから、工事も街の業者は請けないんだ!」

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 7




ユルギア。
それは不可思議な現象や物事の根底には必ず関っているといわれている。伝説の存在。
人間が恨みなど強い思念を持つと生まれるのだ。地域によっては神に逆らった人間が命を落とすとユルギアに生まれ変わるなどとも伝えられる。何かよくないことが続くと、悪いユルギアに付きまとわれているなどとうわさされるのだ。
実態はあまり知られていない。


ルーファはにやりと笑った。勝ち誇った表情だ。
少し大胆になって、荷台に横向きに座ったミキーの手を自分の腹に回させると、少年たちに余裕の笑みを向けた。


「ユルギア?何言ってんだよ、信じてるのか?そんなの。弱虫だな!俺は行くぜ。もう皆先に行っているんだ」
「ルーファ!」
「ミキー、行くぞ」
少女は慌ててルーファにぎゅっと捕まる。
「みなさんも来てほしいですの」


ミキーの言葉にシドは思わず数歩下がる。表情は怖いものを見た顔だ。
ミキーはにっこり笑った。
「大丈夫ですの」
自転車がぐんと進みだして、ミキーの澄んだ声と長い亜麻色の髪がゆらりと流れていく。見送る少年たち。


ルーファは三区画ほど離れた競技場の大きな影をまっすぐ見つめていた。
「な、ミキー、お前はユルギアを信じるのか?」
「ユルギア?はい、信じますの」
「本当に、いると思うか?目に見えない力とか、死んだ人間の怨念とか、普通じゃないイキモノとか」
「はい。神話にもたくさん出てきますの。ルーファは怖くないですの?」
自転車のスピードが上がった。


「ユルギアの物語はさ、人々に対する戒めのための空想上の生き物だって言うぜ。悪いことをしてはいけないっていう。神に逆らうものは人間ではいられないんだ。でもさ、神様だって、いるかどうか怪しいんだ。本当は神様って礼拝堂や聖堂にはいなくて、みんなの心の中に正しい神様はいてさ、それを信じて祈るんだ。あ、コレは親父の受け売りだけどな」
「心の中にもユルギアはいるんですの?」


「神とユルギアは違うさ。俺の親父は海の男なんだ。海に出るとさ、本当に、人間なんかちっぽけだって思い知らされるって言っていた。危ない目にあったり、嵐に出会ったりすると神に祈る余裕なんてないんだって。生きることのほうが大切に思える時だってあるんだ。それで精一杯働いて無事に戻れた時に、心から神に感謝するんだ。だから親父は礼拝堂には行かないけど、いつも心の中でお祈りしているんだってさ。商業会の連中はバカにするけど、親父は牧師さんより神に近いところで生きているんだと思う」


少年が話す父親の姿を想像して、ミキーはうっとりと目を閉じる。心地よいお話を聞いている気分だ。
「お父さんのこと大好きなんですね、素敵ですの」
「へへ、なんか、照れるな」


競技場の前は丸い模様を大理石で彩った広場で、その真ん中を曲線を描く水路が横切っている。ぐるりと競技場を囲むように作られた、馬二頭分くらいの幅の水路だ。
昨日見た灯篭は、それを渡る橋の欄干にある魚の姿を模したかわいらしい彫像だった。競技場の正面に向かう橋の下では、山から海への水だろう、心地よい音を立てて流れている。海に向かって傾斜しているこの街では、雨水を逃がすための水路があちこちにある。


橋を渡ったところにダーレフが立っていた。
橋の真ん中に立つ少年たちと睨み合っている。
少年たちはルーファの姿を見つけると、口々に早く来いよと騒ぎ立てた。


「このおっさん、通してくれないんだ」
「どうなってんだよ、入れるんじゃないのか?」
ルーファが自転車を止めて後ろを振り返ったときには、すでにミキーは橋に向かって走り出していた。いつ自転車から降りたのか、ちっとも分からなかった。
「おじさま、シーガさまのご命令なのです」
道を開けた少年たちの真ん中をミキーが駆けつけると、ダーレフは眉をしかめた。
「俺は感心しないぜ、お嬢さん」
「大丈夫ですの。シーガさまの言う通りにしないととっても怖いですの」
少女が男の手を取って、大きな瞳で見上げる。その真剣な表情に、ダーレフは再び鼓動の高まりを感じて、思わず手を引いた。


「入っていいですの?」
男がしぶしぶ頷くと、ミキーは後ろを振り返ってルーファに笑いかけ、自らも男の脇を抜ける。
「ありがとうございます!」


にこやかに少年たちに挨拶されて、男は黙ってその姿を見送っていた。
それから、自分の手を額にあてた。
くらりとめまいまで感じる。少女に感じる動悸もおかしい。微熱があるのだが、それももしかしてあの黒い植物のせいなのかもしれない。そう感じたダーレフは、この際、仕方がないとシーガの方針に従うことにした。


あの植物に絡み取られた通路を抜けて、暗がりから日差しのある競技場へと少年たちは駆け込む。
昨夜感じた恐ろしさも今は微塵も感じられない。ミキーは不思議そうにそれを見上げた。気にせずに通り抜ける少年たちの瞳は、まっすぐ緑の芝生に向いている。心がまっすぐだからかしら、と少女は首をかしげた。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 8


「うわー!すげー!広い」
眩しさに、ルーファは立ち止まった。
「綺麗だなぁ!」
ぐるりと取り囲む観客席、一層式ではあるが、傾斜の急な観客席はまるで城壁のように芝生のグラウンドを囲んでいた。何度か観戦に来たときは、あちらから見下ろしていた。あのときよりずっと、広く感じた。

「ルーファ、早く!」
「ああ!」
先を行く少年たちにそう叫ぶと、ルーファは通路を抜けたところで立ち止まっているミキーを振り返った。
「な、日の当る、俺たちから見えるとこにいてくれよ。もし、なんかあったら嫌だからさ」
信じないといいつつも心配する少年に、ミキーは目を細めて飛び切りの笑顔で答えた。
優しい父親を想像できる。
少年を見送ると、ミキーは直ぐ前に広がる芝を踏みしめた。向こうから少年たちの楽しいそうな歓声が聞こえた。さっそくボール競技の試合を始めたらしい。白いボールを追いかけてルーファも元気に走っていた。
ミキーは足元をじっと見つめながらとことこと芝の上を歩いた。石畳とも土とも違う。柔らかい感触に嬉しくなって、ぴょんぴょんと二度、そこで飛び跳ねてみた。
「うーん、靴脱ぎたい!靴脱ぎたい!」
「芝の上ははじめてかい?」
気付くと隣に青年が一人立っていた。
金色の短い髪、がっしりした体格。濃い茶色の目で、少女を見ていた。
落ち着いた穏やかな声に、ミキーは胸に手を置いて一つ息を吐いてからこたえた。
「はい、芝生の上は気持ちいいですの」
「はは、そうだね。ここに夜露が降りるとね、早朝はとても美しいんだよ」
さわと、風が吹く。青年の視線に釣られて、ミキーも一面芝生のグラウンドを眺めた。今は眩しいくらい昼の日差しが差し込んでいる。
とくりとくりと、心臓が高鳴る。
傍に立つ青年。
静かで、穏やかなユルギア。
それでも、ミキーはどうしていいのか分からない。
シーガさまのお手紙には、そのことは書いてなかった。青年の手が、ミキーの小さな肩に乗る。じわりと、重苦しい気分が伝わる。
「いい試合だね、もう少し傍に行こう」
青年はニコニコ笑っている。嬉しそうだ。
「はい」
緊張しながらもミキーは逆らえない。
「不思議だね、君はとっても小さいのに、すごく魅力的に見える」
「そ、そうですの……」
「可愛らしいのに、どうして隠すの?その大きな耳」
青年のユルギアが耳元をくすぐる。
ミキーはぎゅと目をつぶった。
シーガさま、シーガさま!怖いですの…


「あ、あいつら!」
ふいに背後で声がして、ミキーの傍らをシドが駆け抜けていった。追いかけてきたのだろう、大人たちも一緒だ。きょろきょろと見渡しながら、それでも日の当る芝生に出ると誰もが足元を確かめる。
だれも、少女と青年には気付かないようだ。


晴天の下の球技場はまるで彼らを歓迎しているかのように心地よい空気が漂っていた。
「ルーファ、止めろよ!」
シドがルーファの腕をつかむ。
「平気だって、シド!やっぱり全然違うんだな、芝生の上ってさ!なあ、シド!一緒にやろうぜ。今日こそ決着をつけようぜ!」
赤毛の少年は頬を上気させ、満面の笑みを浮かべていた。
ルーファがそんなふうにシドを誘うのは珍しいことだった。それが嬉しい気がして、シドは仲間を振り返る。皆も、芝生に触ったり、足の感触を確かめたり。そう、ボールを蹴りたいのだ。
「よし、分かった!」


そうなると話は早い。少年たちは海色のシャツ一色のチームといろいろ混じったルーファたちのチームとに分かれて四角いフィールドのそれぞれの持ち場に広がっていく。そこに、一つのボールが投げられた。試合が始まったようだ。
走り回ってボールを蹴る子供たちを、シドの父親スタリングも一緒についてきた大人たちも穏やかに笑いながら見つめていた。
ルーファが先頭をきってボールを蹴りながらゴールに向かう。ゴールの四角い枠の前では、大きな体の少年が腰を低くして待ち構えている。
威張るだけあって、ルーファは上手かった。後ろから追いすがるシドをかわすと、ルーファはくるりとターンして、仲間にパスを出した。受け取った少年はゴールに向かってボールを勢いよく蹴りこむ。
惜しくもゴールの枠から少しだけ外れた。
「おー!」
見ていた大人や子供たちが歓声とどよめきとで彼らのプレーに応えていた。
漁師の子供たちは痩せてはいるものの、すばしこくて、シドのチームの子供たちより明らかに身体的に優れているようだ。ボールを取って走り出せば一直線にゴールの近くまで攻め込む。それに比べてシドのチームはボールの扱いが上手い。商業区の学校には専属の指導者がいるのだろう。皆、同じくらい上手だ。シドはテデがまっすぐ突っ込んでくるところを上手く奪うと、きれいなパスを仲間に繰り出す。そうして自分もゴールに向かって走り出した。
「シド!走れ!負けるな」
ランカ・スタリングは思わず大きな声を出す。
それにつられるように、一緒に来ていた大人たちも、口々に海色のシャツを着た少年たちを応援し始めた。
その次にシドに向かって蹴られたパスをルーファが奪い取る。まるでたくさんのルーファがいるかのようにどこにいても目立つ。
再びゴールに迫ったルーファは、シドを正面に一旦止まる。足元にはボール。
「そんな奴、突き飛ばしちゃえ!」
テデが怒鳴った。
「よっし!!」
ルーファは一旦左に抜けようと見せて、逆に体を切り返した。
「っと!」
慌ててシドが止めようと足を出すと、それは出遅れてルーファの足元をさらった。
「ファール!ファールだぞ!」
転んだルーファに駆け寄って、少年たちが口々に怒鳴った。
この位置では、ゴールに直接シュートできる。
ファールをもらえば、ルーファたちには大きなチャンスだ。
「違うよ!今のはファールじゃないよ」
今度はシドのチームが騒ぎ出す。
「レット、審判してやれ!」
スタリングがレストランを経営する太った男に声をかけ、じゃあ、と審判員の資格を持つレットが腰を上げた。
「ようし!仕切りなおしだ!」
レットが厨房の見習いを怒鳴りつけるような大声で告げると、どこから引っ張り出してきたのか、正式に試合時間を計るための大きな砂時計ががらんと返された。
笛が鳴る。

見に来た大人たちも、その音に興奮するのか表情を輝かせた。
少年たちはポオト・ルクスの応援歌を合唱し始め、大人たちもそれに合わせて歌いだした。お互いそれぞれのチームを応援しているのだが、彼らの知っている応援歌は同じだ。
同じ歌を歌いながらも、自分の子供たちがチャンスとなればそれは歓声に変わり、危なくなれば再び同じ歌を歌う。
漁師たち、商人たち。交互に歌う応援歌は競技場に響き渡る。

本物のポオト・ルクスは遠征中だ。この街に帰って来るのは数ヶ月先のこと。その間、寂しい思いをしていたのだろうか、応援歌を聞きつけて、街の人々が集まりだした。
歌声と声援は風に乗り、街を流れる。まるで人々を競技場に誘い込むように。
いつしか競技場は、在りし日の雰囲気をまとっていた。
「おや、久しぶりにポオト・ルクスの応援歌が聞こえると思ったら」
そういいながら、年老いた老人が、杖をつきながら入ってきた。ミキーの立つフィールドの端をよたよたと通っていく。
「おじいちゃんったら、母さんの声は聞こえないのに、応援歌だけは聞こえるのね」
呆れて笑いながら、老人の世話をしているのだろう孫らしい女性が後についてくる。
「ほれ見なさい。未来のポオタスたちじゃ。血が騒ぐのう!」
ポオト・ルクスの選手のことを町の人間は敬愛を込めてポオタスと呼ぶ。
まさしく、ポオト・ルクスに憧れる少年たちの幾人かは、いずれこの芝を違った形で踏みしめることになるだろう。

おじいさんや街の人は皆、憑かれたように少年たちの競技に見入っていた。誰も、ミキーが小さく震えていることに気付いてくれない。
青年のユルギアはミキーの髪をなで、帽子の下の隠れた耳を引っ張り出そうとしていた。
「いやですの…」
震えているミキーに青年は悪びれもせずニコニコしている。
「本当に可愛いね」
「君はやらないのかい?」
ミキーに、声をかけた人が居た。


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「想うものの欠片」第一話プロローグ 9




ミキーは呪縛に解かれたように、慌ててそちらに駆け寄った。
シドの父親、ランカ・スタリングがミキーのほうを見ていた。
「はい、見ているだけでいいですの」
半分しがみ付くようにする少女に驚いて、スタリングは笑った。
「あ、ああ、君じゃなくて」
シドのお父さんが、ミキーを通り越して先ほどの青年に声をかけたのだと気付いて、少女は恥ずかしそうに笑った。この人には、見えている。ユルギアが。ミキーは首を傾げつつも、ほっとしていた。


「僕ですか?」
青年はむしろ嬉しそうに、声をかけてきた四十代後半の男性の傍に歩いてきた。
「ああ。その服装は昔のポオト・ルクスのユニフォームだね。懐かしい。どうだい、一緒にやったら?楽しいぞ」
「僕はいいんですよ、子供たちの試合を邪魔しちゃいけませんから」
「ふん、遠慮深いなぁ。私が君くらいの年のころには、ボールさえ蹴られればどこでも誰とでもやったもんだ。子供相手ならなおさら、負ける心配がないからね」
ランカ・スタリングは青年に悪戯っぽくウインクして見せた。スタリングには青年がユルギアだと分かるはずもない。
「そうですか。友人にそういう奴がいますよ。ボールを見ると子供みたいになってしまう。あなた、彼にどこかにていますね」


青年が笑って答えた。すっかり、ミキーのことは忘れてしまったかのようだ。
「よかったですの……」
ポツリとこぼすと、帽子を直す。馴れ馴れしい青年のユルギアに、帽子を取られるところだった。悪意はないのだろうが、思うままに行動する彼らは獣に近い。
ほう、と甘い綿菓子のようなため息をついて、少女はそっと青年のユルギアを見つめた。


本来、普通の人にユルギアが見えることはない。稀に姿を見せる時には、何かしら理由がある。青年はまるで実体を持っているかのようにはっきりとした姿で、スタリングの言葉に答えた。
二人は楽しそうに会話している。まるで、旧知の友人のように。


「私はこれでも昔は選手だったんだよ。そこそこ活躍したんだ。当時は私からボールを奪えるのは神くらいだと、そう、信じていた。あの頃はね。それにしても、久しぶりに来たな。もう、そうだね、二十年になるか。私の走ったフィールドで、今息子がボールを蹴っている。なかなかいいもんだね。そうだな、壊される前に、最後に見ておくのもいいのかもしれないな」
感慨深くつぶやくスタリングに、青年が悲しそうにつぶやいた。
「壊される、ですか……」
おおー!歓声が上がる。
ちょうどシュートを決めて、ルーファは高々と手を上げてミキーに笑いかけた。
ミキーはルーファの笑みに両手を振った。
それを見て仲間が自陣に戻りながら、冷やかし半分でルーファの肩にタックルをかける。
シドと目が合うとルーファはにやっと笑って見せた。



その頃。
アラン・ロゼルヌ卿は、ただならぬ面持ちで馬車の座席に身を沈めていた。
隣に座る青年は無表情なままだ。
「大体、シーガ、君を雇ったのはファドナ様の推薦があったからだ。昨夜、ユルギアを見たのならどうしてその場で退治してくれないのかね!わざわざ昼間、しかも子供を使っておびき寄せようなどと。どういう考えなのか理解できん」
「退治ではなく、調査依頼でしたが?それに、あのユルギアは条件が整わなくては出て来ません。子供たちは必要です。何か問題でも?」


シーガは表情一つ変えずにロゼルヌ卿を見ていた。その、黒い眼鏡の向こうの瞳にはどんな表情が浮かんでいるのか分からない。
それもまた、卿を苛立たせる一つだった。
「例えば、だ。私は信じていないが、万が一にも君の意見が正しくて、競技場にユルギアがいたとしてだぞ。わざわざ子供たちを使うことはあるまい!子供たちに危険が及んだらどうするつもりだ」
「さあ?私はユルギアも好きではありませんが同じくらい子供も嫌いです」
ロゼルヌは天を仰いだ。
「いいかね、シーガ。私は、ユルギアなど信じてはおらん。競技場は、取り壊さなくてはならん。老朽化が進んでいる上、先日落石で人が一人死んだ」
シーガが目を細めた。


「いつのことです?なぜ、それを早く私に教えてくださらなかったのですか」
「先月のことだ。死んだのは管理人の老人だ。早朝の見回りの最中に落石に運悪く当ったらしい。発見されたときには死んでいたのだ」
ロゼルヌ卿が視線をそらす。
シーガはまた、小さくため息をついた。
「競技場でおかしなイキモノが工事の邪魔をする、ユルギアかもしれないから調査してほしい。そういう依頼だと、聖女ファドナから聞いています。なのに、その件を話してくださらなかったのはなぜですか?」
「私は、ユルギアなど信じてはおらん。管理人の事故とは関係ないと思っている。工事業者が気にしているだけだ」
青年が、黒い眼鏡を外した。


矛盾だらけの男の背後には、様々なものが見えていた。影だけのようなもの、時折きらりと光って男の首の周りから腕までを流れる水のように走るユルギア。意思を感じさせないくらい小さなものもある。多くの人、物事に関わって生きる者ほど、多くを引き連れている。だからといって、生活に支障が出るほどのものは見当たらなかった。
本人の強い意志にも関係があるのだろう。
ユルギアは大まかに言えば人間の残留思念。
すぐに消えるものあれば、長く残るものもある。
影響されやすい人間は、自らの思念の力が弱い場合が多い。


シーガは先ほどから、近寄ろうとして近寄らない老人らしき影に気付いていた。波のように、押し寄せては去っていく、彼の思念はロゼルヌ卿に悪意を持っていた。
だからこそ、ロゼルヌはこの場を嫌がり、近寄ろうとしない。
心当たりがあるのだろう。感じるのかもしれない。
老人は死んだという、管理人のように感じられた。
シーガは目を細めた。
「そうですか。なるほどね、それで納得できましたよ。あなたの傍にいる白髪の老人の意味が」
「!?」


領主は目をむいて青年を睨む。銀色の髪、翡翠色の瞳、典型的なシデイラの民であるシーガにも、初めて会う異民族であろうが、なんら態度を変えずに接してきた豪胆な男だ。


しかし、今は違った。
シーガの言葉は、背筋を寒くさせた。ロゼルヌ卿は口を閉じ、しばしシーガを見つめた。
シデイラは異教徒。ユルギアを見るという彼らを、通常は忌み嫌う。


この競技場の怪しげな植物を工事業者がユルギアだと騒ぎ立てた。そのため、ロゼルヌは教会を頼ったものの、異教徒排斥を訴えるロロテス派の司祭は相手にしてくれなかった。ユルギアなどいない、それが彼らの言い分だ。仕方なく、隣国の同じ教会に連なるミーア派の大司祭、聖女ファドナに手紙を書いたのだ。
そうでなければ、こんな得体の知れない男を雇うなどしなかった。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 10

10


シーガは再び眼鏡をかけた。
「ユルギアは皆何かの思念を持っています。いえ、思念のみと言っていいでしょうか。恨み、悲しむ。人は自らの死に臨んで最も強い思念を抱くといえるでしょう。だから、ユルギアは死んだ人の思念であることが多い。そのユルギアはあなたに言いたいことがあるようですよ。通訳しましょうか?」


「ユルギアが話すと言うのか!司祭たちでもユルギアの声を聞くなど聞いたこともないぞ!」


「くく、司祭と一緒にされても…高名な司祭たちがユルギアなど相手にすることはありません。聞こえいても無視するでしょう。私は聞こえるものには耳を傾ける。たとえ死んだ老人の呟きだろうとね」
くくく、と青年はいかにも面白そうに笑っていた。
ロゼルヌ卿は日に焼けた頬を薄くなった額まで赤くして怒鳴った。
「嘘だろう!人をからかうのもいい加減にしろ!薄気味悪い、シディが!」


シーガの笑いは大きくなった。シディ、それはシーガの民族シデイラを卑下した呼称だ。しかし青年は面白そうに笑っていた。
「っははは。ロゼルヌ卿、あなた面白いですよ。いや、この街に来てよかった」
「うるさい!」
領主は馬車が止まると同時に、シーガを押しのけるように外に出た。
とたんに、領主の顔色が変わった。
「なんだ?」


歓声と歌声はうねりとなって競技場を揺らしているようだった。
「なんでこんな騒ぎになっている!」
忌々しげに傍らに並んで立ったシーガを怒鳴りつけた。
「シーガ、直ぐに止めさせるからな!分かっているな!」
シーガは憤るロゼルヌ卿を無視して競技場のほうに歩き出した。
「ユルギアなど、信じないからな!」
ロゼルヌ卿は青年の背中に怒鳴った。そして、黒褐色の古びた石造りの建造物を見上げた。
「忌々しい…」
かつて、卿自身もボール競技の選手であった。四角張った顔立ちのいかにもポオト人の男性らしい容姿だ。堀の深い顔立ちに鼻梁が濃い影を落とす。口をへの字にしたまま、青年の後を追って橋を渡り、競技場の入り口へと入っていった。


あの黒い植物はまた伸びたのか、通路の天井を覆いつくしているように見える。薄暗い中、明り取りのはめ込みの窓からの光が斜めに差込み、ちょうどその下に差し掛かると青年の銀の髪が揺れた。
「ロゼルヌ卿、あなたは面白い人だ」
そう言って振り向いた青年のコートがゆらりと風に揺れた。


建物の中ゆえ風はない。
ロゼルヌ卿はそれに気付いた。いつの間にか響いていた歌声も聞こえず、静まり返った通路内で、風もないのにシーガの服がなびく。
再び、シーガの髪がまるで風に弄ばれるかのようにゆらいだ。
「うるさい」
青年の小さな呟きに、髪はぴたりと止まる。
若い領主は憮然としていた。


「何の悪戯だ、シーガ。何を仕組んでも私はユルギアなど信じない。古代の神々も、神王も単なる宗教上の象徴に過ぎない。山から掘り出される鉱石で自動車が走る時代だ。この国にも王都には機関車が走り、蒸気を利用した飛行船も飛ぶ。この進んだ時代に乗り遅れまいと、諸侯はこぞって技術者を募り、自らの領地を新しい機械で潤そうとする。このポオトでも新しい蒸気船を開発している」


青年は黙っていた。黒い眼鏡の奥の瞳は無表情だ。
「いいか、負けてはならないのだ。この時代を生き延びるためには、より便利な海路と陸路を手に入れなければならない。進んだ技術によって大量輸送が普及し始めたこの国にあって、山と海に挟まれたこの街は時代から取り残されつつある。ユルギアなど、怖がっているわけにはいかない。古臭い考えを捨てなければ、新しい世についていけないのだ。私には、この街に責任がある」


太いロゼルヌ卿の声が天井に反響した。
シーガはふん、と小さく笑った。
美青年といっていいシーガの愁いを帯びた笑みに、ロゼルヌはぞくりと何かを感じた。視線がつい、彼の口元を見入ってしまうのは眼鏡のために瞳を見ることが出来ないからだ。表情を読もうとそこに目が行く。
そして緩やかな笑みを浮かべる唇は妖艶な雰囲気を漂わせているのだ。
男は目をそらして吐き出すように言った。


「なんだ、何か文句でもあるのか」
「いいえ。私もユルギアは嫌いですよ。ユルギアは思念を持った獣です。赤ん坊に近い。単純な思念だけでつまらないものです。あなたのような人間の思念が覗けたらと思いますよ。きっと、醜く淫らで、悲しく切ないでしょう」
ロゼルヌ卿は怒りに任せて青年に掴みかかろうとしたが、足元を一瞬駆け抜ける風を感じて立ち止まった。
黙り込む。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 11

11


シーガは競技場の歌声、風の音、海の音を意識した。
今ルーファに手を振っているミキーが帽子の下の耳をぴくりとさせてシーガの存在に気付いたことすら、聞き取っていた。二人は互いにそういう部分でつながっていた。


シーガが競技場の芝生に足を踏み入れた時には、黒い服の少女が駆け寄ってきていた。抱きつこうとするので、額を押さえる。
「シーガさまっ」
短い手をパタパタと伸ばす仕草はかわいらしい。
「尾が出ていますよ、みっともない」
「あ!」
慌てて自分の後ろを見ようとくるりとその場でミキーは廻る。
「あれ?あれ?」
「随分、集まりましたね」
シーガは感心したように見回した。


観客席は封鎖されているために、四角のフィールドの外側は人でいっぱいだった。早朝の漁を終えたのか漁師の一団らしい男たちも、声を張り上げて自分たちの息子を応援していた。
ちょうど、競技の残り時間一パイントを告げる鐘が鳴らされた。
競技の時間は専用の砂時計で二十回返して測る。残り一パイント。パイントとは砂時計に入っている砂の量を表す単位だ。一パイントは生まれたばかりの赤ん坊と同じくらいの重さで、それを詰め込まれた酒の小樽位はある砂時計が専用の台座の上でがらんと向きを変えた。最後の一パイント分、砂が落ちきるまでが勝負だ。
点数は二対二。同点のようだ。


「ふん、子供同士の競技にこれほどの声援を送るとは」
言葉とは裏腹に誇らしげな領主に、シーガが答えた。
「ご存知ですか。この競技場でこれほどの歌声が響く理由を」
「声が反射するつくりになっているのだろう?人間の技術はすばらしい」
シーガはふっと笑った。
「いいえ、これもユルギアです。たくさんの人々の想いがこの競技場の石くれ一つ一つに染み込んでいる。それは、この競技場で試合が行われるたびに揺り起こされ、まるでこの座席全部に人がいるかのように響かせる」
「信じないぞ。お前はそのうち、陽の光すらユルギアだと言いかねん。いいから、お前はあの木を何とかするのだ」


「こりゃ、領主様、ごきげんよう。さ、どうぞどうぞ、前へ。そこじゃ見えないでしょう?なかなか、いい試合になっとりますよ」
パン屋の主人が観戦する人並みの一番後ろにいて、ロゼルヌの声に気付いて振り向いた。
続いて、隣にいた漁師の老人、学校の先生。小さな子の手を引いた女性。
皆に口々に挨拶され、握手し前へ前へと送り出され、ロゼルヌはいつの間にか観戦する人の列の一番前に立っていた。
傍らに立つシーガは黙り込んで、その隣の少女はルーファの姿を見つけて手を振る。
商業会会長のスタリングと、その隣に立つユニフォーム姿の青年がロゼルヌに気付いて、隣に移動してきた。
喧騒の中、領主はスタリングと話すために声を張り上げる。
「お前も来ていたのか」
「ええ、いいものですね、この雰囲気は。街中のものが集まったみたいですよ」
嬉しそうに微笑むスタリングにアラン・ロゼルヌ卿が眉をしかめた。


「残り、一パイントを過ぎたあたりだった」
シーガがぽつりと言った。
喧騒の中、その声は不思議なほどロゼルヌの耳に響いた。
「覚えていませんか、ロゼルヌ卿。二十年前、ですね」
ロゼルヌ卿の表情が硬くなった。
スタリングも、シーガのほうを振り返った。


「二十年前のこの日。ちょうど決勝でしたね。ポオト・ルクスは宿敵と同点だった。満員の観客の見守る中、残り1パイントを切ったところで異変が起きた」
シーガの話に、ロゼルヌ卿とスタリングは視線を合わせた。確認するように。
「何の、ことかね」
ロゼルヌ卿はシーガをにらみつけた。当時は子供だったはずの青年が二十年前のそれを知っているはずはなかった。どこかで古い新聞記事でも拾い読みしたのか。
シーガは切れ長の瞳を細め、むしろ面白がっているように話し出した。


「当時のポオト・ルクスでロゼルヌ卿、スタリングさん、あなた方はこの芝生の上に立っていたはずです。そして、彼も」
スタリングは隣に立っていたポオト・ルクスのユニフォームを身につけた青年を振り返った。
「はい」
青年は嬉しそうにシーガに答えた。
「な、何を言う!君は関係ないだろう!何しろ二十年前だ、君はまだ小さな子供だったはずだ」
ロゼルヌが青年を睨んだ。
「ロゼルヌ卿、ユルギアは歳をとりません。年月がたち、競技場のユルギアを吸収して確かに姿は少し変わったかもしれません。しかし、紛れもなく彼はあなた方と一緒にボールを蹴っていた。あの時心臓の病で倒れ、そのまま命を落とした選手ジエ・キリエです」
ユニフォーム姿の青年は不思議そうに自らの心臓の辺りを押さえていた。


「な、まさか!」
ロゼルヌ卿が一歩下がる。
スタリングは青ざめたものの、何度かの瞬きの後に青年に近寄った。顔を観察すると、思い当たる容姿であったようで、青年の手を取ろうとした。
「そうだ、ジエだ、私のチームメイトだった!ジエだ!私はランカだ、ジエ、覚えているかい?」
スタリングがかつてのチームメイトを抱きしめようとしたが、その手は空を切った。
「!」
「スタリングさん。彼は二十年前に亡くなっているんです。何か、心残りがあったのでしょうね。この競技場でもっとも強い力を持つユルギアです。彼は競技場に昔から染み付いているユルギアと同調しています。それが、これを作ったと考えられます」
青年は背後の黒い植物を親指で指し示した。


「嘘をつくな、そんなこと、ありえん。この植物をユルギアが作ったのだと?そのユルギアがジエだと言うのか!嘘だ!そんなはずはない!二十年前に死んだジエが、どうして今ユルギアになって出て来るんだ!おかしいではないか」
ロゼルヌ卿が、シーガのコートの胸元を掴んだ。
貴族であり領主であり、もとポオト・ルクスの選手でもあった。立派な体躯と強い意志を持つ顔をしていた。今のロゼルヌ卿に先ほどまでの姿はない。何かにおびえ威嚇している。安っぽい獣。
シーガは目を細めてその姿を楽しんでいた。


「競技場を取り壊すことで、彼だけじゃない、数え切れないユルギアが目覚めました。皆、競技場に住んでいるのです。誰だって、心地よいベッドからたたき起こされれば、苛立ちもしますよ。あなたが、彼らを起こしたのです。何事も理由なくしては起こり得ません」
「信じないぞ!」


ロゼルヌ卿は、突き飛ばすようにシーガから離れると、一歩下がる。背後に立っていたパン屋の主人に背が突き当たった。
主人は何も気付かないようだ。聞こえていないのかもしれない。
声援を続けていた。


慌てて周りを見回したが、ロゼルヌたちに興味を示す人は誰もいない。競技場を揺るがしている歓声は、まさしくユルギア。その力がシーガたちを取り囲んで、彼らは今や孤立していた。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 12

12


「そうか…」
ランカ・スタリングは、もう一度懐かしいユニフォーム姿の青年の手を取ろうとした。ジエもまたランカの手を握り締めようとする。彼らは親友だった。
「あの…」
再びすり抜けるのをやるせなく見ていたミキーがジエの手を右手にとった。少女はユルギアの手をしっかりと握った。そしてスタリングの手を左手にとって、そのまま上下からはさむように二人の手を合わせた。
スタリングの右手と、ジエの右手が触れ合った瞬間、スタリングの脳裏に二十年前の記憶が駆け巡った。
色鮮やかな、まるで今まさにその時であるかのような映像が心に沸きあがる。


突然だった。


その年のチームは、過去最強を歌われていた。
国内リーグでは敵なし。
その決勝も守勢一方の相手を攻め続けていた。
青い空の日だった。午後の日差しに競技場の座席がうす黄色く照らされて。応援の街の人間はポオト・ルクスのチームカラーのオーシャンブルーのタオルをふって、大声で歌を歌っていた。それは、芝生の上で走っていると、潮風に流れて、まるで波のうねりのように見えた。
先ほどのプレーで、相手選手と接触したスタリングをジエが手を差し出して助け起こした。


「後、1パイントだ」
「勝とうぜ」
そういったジエの表情が、一瞬で蒼白に変わった。
助け起こしてくれていた手の力が抜けた。
「ジエ!」
スタリングは仲間を、親友をゆすった。彼は胸を押さえたまま、うずくまり。


医者とチームスタッフが病院に運んだが、そのまま逝ってしまった。
どれほど、泣いたことか。
チーム一の頭脳を誇り、いつも冷静に皆を引っ張り、穏やかな性格は皆に好かれていた。歳は一番若かった。当時、まだ二十三歳だった。
スタリングは三つ年下の彼を尊敬していた。
頬に、あの時と同じ熱い涙が伝った。


ジエは不思議そうにスタリングを見ていた。
「ランカ、試合はどうなったんだい?」
ジエはスタリングに語りかける。
スタリングは首を横に振った。
ジエの少しぼんやりとした顔は、悲しそうに歪んだ。


「ジエ、君がいなくなって僕らのチームが勝てるわけがないだろう!君が生きていてくれたら!試合の結果なんか、どうでもいいんだ。君が逝くには早すぎた!」
「…そうか。負けてしまったのだね」
「すまない。あの後、君のことを思って、誰もが試合どころじゃなかったんだ。私は試合など放っておいて、君のそばについていたかった。二度と会えなくなると分かっていたなら…。すまない、私がどれほど悔やんだことか」
「スタリング…」
ミキーにはジエの表情が笑ったように見えた。自分を思ってくれる親友に心打たれているのに違いない、少女は何度も何度も涙の出ない瞳を瞬いた。


くく。
笑うものがいた。
「スタリングさん、ユルギアは思念だけです。自分が死んだことなど理解していませんし、悲しんでもいない。彼の死を悲しんでいるのは彼ではなく、あなただけなのですよ」
ジエは首をかしげながら苦笑いするシーガを見つめた。
「シーガさま意地悪ですの」口を尖らせるミキー。
「な、なにを言う!彼は私の親友だ!」
「…そうか、負けてしまったのか」
「ジエ?」
ランカ・スタリングの目の前で、ジエの姿が薄くなった。ミキーが悲しそうに消え往くユルギアを見つめた。


「もう、いいでしょう?ジエ、あれを消してください」
シーガはジエの肩に手を置いた。シーガもまたユルギアに触れることが出来るようだ。消えかけていた青年がまた、元の通り、まるでそこに生きているかのようにはっきりとする。ジエは少し驚いた顔をしながらシーガを見つめた。
シーガは観客席を這い回っている黒い植物を指差していた。


「あれを、消してください」
ジエの表情に色がなくなった。何色かも分からぬ瞳はシーガではない何かを見つめるように恍惚としていた。
「…負けた」
ユルギアの想いは、ただそこだけにあるようだった。
シーガはジエの思念が薄くなるのを感じながら、小さく舌打ちした。それ以上顕在化させているとこちらの力を浪費する。ふと、息を吐いてあきらめると、肩に置いた手を離す。
「だから、獣だというのです。役に立たない…」


きゃー!
歓声に悲鳴のようなものが混じる。
隔てていた扉が開かれたかのように、場内の歓声が耳に流れ込んできた。
誰かが倒されたのだと、男が怒鳴る。白熱する試合は、いつしか不穏な空気を競技場に放っていた。


痛そうに足を押さえてシドが座り込んでいる。
彼を庇うようにチームメイトが転ばせたテデに詰め寄った。
「なんだよ!」
「お前、汚いぞ!」
突き飛ばされ、よろけたテデはやり返そうとして、ルーファに止められた。
「落ち着けよ、テデ!相手にするな!」
そこにすかさず商人たちの野次が飛んだ。
「ルールを教えてもらってから出て来い!」
「なんだと!お前ら」
大人たちも、けんか腰になる。


その様子を聞いているのか、ジエはそちらを見ていた。もう、その金髪の向こうに芝の緑が透けて見えていた。
「ジエ?」スタリングはジエを振り向かせようと声をかける。
「そう、ちょうど、この時間だった。あの日もよい天気で。ファールの判定にもめて、ひどく荒れた試合になっていた…」
ジエの静かな言葉に、スタリングは嬉しそうに目を見開いた。
「思い出したかい?ジエ」
ふいにジエが胸を押さえて座り込んだ。
あの時のように。
「ジエ!」
そして、あの時のように、スタリングが助け起こそうとした。


だが、その手は空を切った。
ジエの姿は消えていた。
「ジエ!」
叫んだスタリングの手は、むなしく空を掴む。


静寂。


先ほどまで地鳴りかと思われるほど競技場を揺らしていた歌声や歓声が、突如消えた。それはシーガたちを囲んでいたユルギアが、霧が晴れるように消えうせたように感じられた。ロゼルヌ卿は辺りを見回した。
隣に立っていたパン屋の男が、じっと、固まったかのようにフィールドを凝視していた。


「ルーファ!」
誰かが叫んだ。
言い争っていた街の人々も、芝生の一点を見つめていた。


赤毛の少年が一人、芝生の上に倒れていた。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 13

13


「畜生!誰だ!ルーファになにしたんだ!」
そう怒鳴って、人の波を無理やり掻き分けて飛び出した男がいた。先ほどまで大人たちの言い争いの中心になっていた目立つ男だ。
ルーファの父親だろう。同じ赤毛で、日に焼けてたくましい。


「何言ってる!勝手に倒れたんだ!勝手に入るな!試合中だぞ」
審判をしていたレットが男をさえぎりながら怒鳴る。丸く太ったレストランの店主は、背の高い赤毛の男を全身で押さえつけようと手を広げた。
「貴様、ちゃんと見てろよ!」
男は審判に掴みかかる。


「ルルド、審判は絶対だぞ!」
背後からの野次に、ルルドと呼ばれた男は声のしたほうを睨んだ。商業者たちの白い顔がいっせいに男を見ている。
「急に倒れたのよ!」
「いいから、早く誰か!」
「ちゃんと食わせてるのか?腹へって動けないんじゃないか」
若者が揶揄を飛ばす。
「やあねぇ」
ルルドが後ろから組み付いて止めるレットを、殴り飛ばした。その勢いのまま、揶揄した青年に掴みかかる。
どよめきが広がる。
「なにすんだこの野郎!」
ルルドに商人たちが詰め寄ったときには、漁師たちもそれを左右から囲むように集まっていた。


「ルーファ!」
「おい、しっかりしろよ!」
大人たちにかまわず、少年たちは集まってぐったりしたルーファの肩をゆすった。
「ルーファ」
シドが助け起こす。
「触るなよ、シド!」
テデがシドの肩を突き飛ばそうとして、かわされて転びかけた。
シドはそんなこと意に介せず、ルーファの額に手を当てる。
「ひどい熱だ、ルーファ、俺だ、シドだよ、分かる?」
「なんだよ、お前!」テデがシドの背後から手を伸ばそうとしたが、他の少年が止めた。
少年たちは皆、敵味方関係なく、じっと見守っている。
テデも頬を赤くして、ルーファの方に向き直った。
「お、俺だって、心配なんだ!」口を尖らせた。


ミキーが駆け出そうとするのを、シーガが留めた。
ワンピースの襟首をつかまれ、少女はあん、と残念そうに振り返る。
青年は厳しい表情のままだ。
「近寄ってはいけません」


オトナたちがいがみ合う中、ロゼルヌ卿だけがシドの脇に膝をついて、ルーファの様子を見てくれた。
「大丈夫、脈はある。皆落ち着いて!ひどい熱だ。ランカ、ルーファを病院に!」
ロゼルヌ卿がきびきびと指示を下した。
「ルーファ!」
その様子に気付いたのか、赤毛の日に焼けた大男がシドから奪い取るように少年を抱き上げた。
「俺が運ぶ!」
ルルドが怒鳴る。
その手をロゼルヌ卿はしっかりと掴んで引き止めた。


「ルルド、車のほうが早い!私の車、ああ、ダメだ、今日は馬車だったな!シド、君は付き添ってくれ、ランカ!車で来ているか?」
「父さん、早く!」
ジエの消えた場所で膝をついたまま呆然としていたスタリングの肩を、シーガが叩いた。
「!は、ああ、はい!」
ランカ・スタリングは立ち上がると手招きするシドとロゼルヌに駆け寄っていった。
「商業会の恩は受けないぞ!」
少年の父親は止めるロゼルヌ卿を振り払った。


「スタリングさん、そんな荒くれ者に車を出してやることはない!昼間から酒臭い息をしているんだ!酔っ払いめ」
レットが向こうから怒鳴った。大人たちはまだ言い争いや掴み合いを続けていた。
「そうだ、お前たち漁業会が街の品を下げているんだ!どうせ病院の金だって払えないさ!」
口々に悪口を言う商人たち。
「なにを言ってやがる!お前らが店の看板を下ろす時間に俺たち漁師は起き出して漁に出るんだ!お前らが休日なんていっている今日だって俺たちは一仕事終えてきているんだ!一日の終わりに酒飲んで何が悪い!」
「お前ら商人が潤うのは俺たちが命張って港に荷を運ぶからだ!偉そうにしやがって!」
漁師たちは日に焼けた腕を振り回して怒鳴り散らす。
興奮してしまっている大人たちは、二つの塊に分かれて互いを罵り合っていた。


「醜いな」
シーガはルーファに近寄ろうとするミキーを押さえたまま、街の人々から離れて競技場の真ん中に向かって歩いていった。


赤毛の少年を抱き上げたルルドは、シーガたちと反対に、競技場の出口に急ぐ。あの、通路だ。他の通路は工事用に閉鎖されていた上から植物に絡みとられ、どこも使えなくなっていた。シーガは競技場の真ん中に立つと、耳を澄ます。
同じものが、ミキーにも聞こえていた。
苦しそうなルーファの息遣いすらも。少女は息を詰めてじっと聴覚に神経を集中させていた。


「待ちなさい!私の車に」
スタリングだ。
「スタリング、お前の車などに乗せん!」
ルーファを抱き上げたままのルルドにスタリングが追いすがった。
何度振り払われても、執拗に赤毛の漁師に掴みかかった。
「頼む!二十年前と同じにしたくない!」
「!?」
ルルドがかつての名選手、ランカ・スタリングをにらみつけた。
「二十年前?あんたは、確かに名選手だった!皆に応援されて、ポオト人の誇りだった!それが、今やこの街に移り住んだ他所者の味方じゃないか!金持ちになると変わるんだな!あんたの親だって爺さんだってみんな漁師だったのに!」
何の関連もないことだった。


傍らに付き添ったシドが顔をしかめた。
「ルルドさん!父さんは毎年この日に、二十年前に亡くなったジエ選手のお墓に会いに行っているんだ!ルルドさんたちは行ってくれたの?応援したって言うけど、チームの勝利のためだけだろ!父さんはジエ選手を助けたかったんだ!今だって、ルーファを助けたいんだ!俺だって、同じだ!ポオト人は情に厚くて友達を大切にするんだろ!」


地鳴りがした。
「俺はルーファを友達だと思ってるんだ!職業とか住んでいる所とか関係ないだろ!」
怒鳴りながら、気付くとシドはよろけてルルドにすがるような格好になっていた。
「え?」
「なんだ?」ルルドは周りを見回していた。
「地震だ!」
地面が揺れていた。圧倒的な力で何もかもが揺り動かされる。


「!いかん!」
ロゼルヌ卿が叫んだ。スタリングたちはちょうど壊れかけた通路の中だった。
ルルドの足元にも拳ほどの石くれが転がってきた。


「危ない!」
「崩れるぞ」
ルーファを抱えたルルドは庇うようにその場に座り込んだ。シドも、スタリングもロゼルヌ卿も。
天井から土煙を上げて崩れた石が落ちてくる。
さらに揺れが激しくなった。

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「想うものの欠片」第一章プロローグ 14

14

ごごご、と地鳴りが続く。
崩れかけた客席にひび割れが走る。土煙を上げて崩れていく。


激しい揺れに街の人々はその場に座り込んだ。這って逃げようとするもの、子供を抱き寄せようと叫ぶもの。
芝生の地面が盛り上がる。それが亀裂を走らせ黒い土を晒したかと思えば、ぐんと沈んだ。


その中に、ただ一人、銀色の髪の青年だけが、まるで何も気付かないかのように競技場を見つめて立っていた。彼の黒いコートは、ふわりと風にゆれ、取り囲むように空気の渦が流れる。


外への通路の中。
固く目を閉じたシドが、恐怖の中、死を覚悟した時だった。


不意に揺れがおさまった。シドはルルドとともにルーファを庇うように覆いかぶさっていた。シドの青いシャツは土ぼこりで真っ白に汚れていた。
「シド、…?」
冷たい石の通路に自分が横たわっている理由も、父親とシドが自分を庇うようにしている理由もよく分からずに、ルーファは視界を何度も瞬きして拭った。自分の上にいるシドの腕を力なく握り締めた。


「あ、ああ。ルーファ、気が付いたんだな!びっくりしたぜ、お前倒れたんだ。今、病院に運ぶからさ」
金髪の少年が嬉しそうに笑うので、ルーファは照れくさそうに目をそむけた。
その様子を見ていたルルドは逆に落ち着いたのか、黙り込んでいた。
「ほら、行くよ、父さん!」


シドは座り込んだままの父親の肩を叩いた。
「スタリング、無事か?車は何処だ?」
スタリングはロゼルヌ卿の声に数回頭を振って立ち上がった。肩から、背から、砂埃が煙を上げながら落ちた。
「助かったのか…」
「崩れるかと思った、よかった、父さん早く外へ」
シドが笑った。
大人たちも安堵の表情で、再び出口を目指して歩き出した。
ルーファはルルドに抱き上げられたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。何かが動いた。
「…?」
黙って天井を指差した。
「ルーファ?おい?」
シドがルーファの視線の先を追った。
「うわ、すごい、これ!」
シドも天井を指差した。大人たちもその視線の先を見上げた。


通路の天井は一面黒い植物の根で覆われていた。網の目のように伸びた植物の隙間で、崩れかけた石がビシと音を立てた。隙間から落ちかけた岩に、また一筋の根が絡みつく。
まるで、崩れるのを防ごうとするかのようだ。


「今のうちです、早くここから離れてください」
シーガの穏やかな声はまるで染み渡るように皆に響き、人々は無言で足を速めた。
競技場で座り込んでいた街の人々も、不思議そうにあたりを伺いながら、誰も口を利かず競技場の外へと向かう。いつの間にか集まっていた数百人、いや、千人はいるだろうか。列を作って先にルーファたちの消えた通路に向かった。
その背中を見つめて、シーガはコートにかかった埃をはらった。
傍らに座り込んでいるミキーは、恐怖にこわばったまま身動き一つせずにじっとしていた。


シーガは銀の髪をかきあげた。視線は誰もいない観覧席に向かっていた。
「さて。まだ嫌がるのですか」
シーガがまるで目の前かのように話しかけた相手は、ミキーにも見えていなかった。
「あなた方がなぜこれほど力を得たのか、それを知りたかったのですが。亡くなった管理人の方、あなたのお話は分かりました。それでも、この競技場は壊されると思いますよ。真実が明らかになっても、工事は止まりません」
「ねえ、シーガさま。どなたとお話してますの?」


青年が遠く向こうの観客席を見ているようなので、ミキーも芝生に座ったままそちらを見つめる。誰も座っていないようだ。何か、どんよりとした生ぬるい空気がミキーの周りを囲んだ。ふわ、と不意に起こった小さな風にミキーの髪が揺られた。
「怖いですの」
青年のコートにしがみついた。
「ミキー」
シーガはしがみつく少女を引き剥がす。


「皮肉ですね。この競技場を残したいと願うユルギアたちの行動が、街の人々を救った」
「偶然ですの?」
「ミキー、彼らの願いはただ一つです。ここで人々の声援と歌声に合わせて歌っていたかったのです。その思念に、殺された老人の思念が毒をさした。老朽化を理由に取り壊されてしまう。落石事故があったという。それが真実ではないことをユルギアたちは訴えているのです」
「…真実ではないですの?」
シーガはみしみしと木の根を軋ませる落石をじっと眺めた。


いかに力強い木の根とはいえ、この競技場すべてをそれだけで支えるのは難しい。時折枝の折れるような乾いた音が響く。落ちかけた落石にさらに二重三重に黒い根がわたる。
すでに、観客席は途中から大きな段差が出来、崩れ落ちようとする通路を黒い植物が覆いつくしていた。客席の階段は半分落ちて、落ちかけた石にも植物がまきつき、まるで不気味なオブジェのように不器用な形で揺れていた。
再び、小さな地震があった。
競技場全体を包もうとする植物が、ぎしぎしときしみ、さらに崩れる石を追いかけてまた巻きつく。

「御覧なさい、ミキー。いくら支えても、壊れてしまったものは元には戻らない。ユルギアたちも分かっているでしょう。彼らの黒い木々で覆われた客席に、彼らの大好きな観客は戻ってこない」
ぐるりと取り囲む観客席を青年が見回す。
いつの間にか傾いた日差しに、空は白い雲が流れていた。
目の前で最後を迎えようとしている巨大な建造物と対照的に、空は大陸一の美しい夕日に染まりつつあった。

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「想うものの欠片」第一章プロローグ 15

15

緑の芝生に、ポツリと青年と少女だけが競技場の最後を見守っている。
彼らの影も、足元に長く伸びている。


「分かっていますよ。あなた方が教えてくれた。老朽化ではない。落石も事故ではなかった。本当はロゼルヌの手によって殺されたんです。管理人の彼は国からの鉄道敷設の視察団をここに案内した。視察団の目的もロゼルヌ卿の目的も分かっていた。管理人はこの競技場を愛していた。建替えに反対する漁業会に知らせようとしたのでしょう。ロゼルヌ卿が金のためにこの競技場を壊そうとしている、とね」
風が、ゆらりとシーガの服を揺らした。


「それで、殺してしまったんですの?ひどいです」
ミキーが憤慨したようにぷんとすると、風が今度はミキーの髪をくすぐった。
「ロゼルヌのすることは、金のためです。けれどそれは、この街のためでもあります。ひいては街の人々のため。そして、あなた方が最後の力を振り絞って、崩れ行く競技場を守ってみても。あなた方の望むものは得られません」
静かに語るシーガに、まるで突風が吹いたように髪が、服が巻き上げられる。
小さな竜巻が彼を囲んでいるようにも見えた。
「シーガさま!」
「ミキー、離れていなさい。すぐに治まりますよ。もう、時間はないのです」
それを象徴するかのように、シーガの背後で砂時計の砂が落ちきろうとしていた。
風に巻き上がった小さな小石に頬が切れたのか、シーガの白い頬に赤い血が一筋滴る。
「シーガさま!」
「もう、諦めなさい。この競技場は壊れてしまいました。地震は誰のせいでもありません。時は流れるのです。崩れたものは、あなた方の力では直すことは出来ません。いずれ、ロゼルヌ卿が新しい競技場を作るでしょう。あなた方が染み付いたこの石材は再利用されるといいます。その時まで、しばらく静かに見守りなさい。いずれまた、客たちと一緒に歓声を響かせるときが来るでしょう」
青年が、微笑んでいた。
これまでの彼とは思えない、優しく美しいその表情。
ミキーはこの表情が大好きだった。
普段は見られない、愛情にあふれた青年の表情に、いつの間にか胸の前で手を握り締めている。胸が温かくなる。


ふ、とシーガを取り囲んでいた風が止んだ。
彼の足元の芝は丸く円を描いて一方向に倒れ、それを中心に小石がばらばらと落ちていた。
青年が歩き出し、石壁に取り付いて崩れる石を支えている黒い植物に、そっと触れた。
すでにいつもの表情に戻ったシーガは、静かに語りかける。


「通常、ユルギアは実体を持たない。思念の作り出すエネルギーに過ぎない。それが、触れることのできる実体を持つなど、ありえない。教えなさい。石を持っていますね?」
シーガの触れる部分が青く光った。青年の手のひらの内側から静かな蒼い光がこぼれた。
ミキーは何度も瞬きして眩しそうにそれを見ていた。


「やはり、ありましたか」


光が消え、青年の手のひらには小さな青い輝石が乗っていた。
青年の手がそれをそっと包んだとき、地震に似た地響きがとどろいた。余震かもしれない。
「!?」
「きゃあ!」
ミキーは縮こまったまま、耳を押さえて青年に擦り寄る。
シーガは少女を抱きしめたまま、翡翠色の瞳でじっと植物に宿ったユルギアたちの答えを待っていた。


「……だめですね。力を使い果たしたようです。消えました」
青年のつぶやきと同時に、黒い木々は急速につやを失っていった。内に抱えていたユルギアたちが目に見えない水蒸気となって天に昇るように、競技場全体をつつむ空気が歪んだ。
「あ!」
ミキーが小さく叫んだ。
その瞬間だった。
競技場が、木々に支えられていた石柱が崩れ、観客席が崩れ落ちた。建物が、崩壊したのだ。
競技場の真ん中で、二人はその光景にただ立ち尽くしていた。


その音は、街中に響いた。
倒れた家の前で座り込んでいた男も、津波に洗われ、横倒しになった船を呆然と見ている漁師も、子供を抱きしめ街をさまよう女性も。皆が、その音に気付いて競技場を見上げた。
競技場は瓦礫の山となり、潮風が抜けるたび白い土煙を漂わせていた。


津波が街の半分をなめ、もろい石灰の海岸線は崩れ、街は大きな被害を受けていた。特に港に近い繁華街は津波の被害が甚大だった。
漁師たちの住む高台は、古い家が倒れたものの、それほどひどくはなかった。
古人の知恵がそこに生きている。不便な山手にポオト人が住み着いたのは、決して偶然ではない。
このとき、街の人々のほとんどが競技場に集まっていたため、奇跡的にも誰一人として命を落とすことはなかった。まるで、競技場に守られたかのようだと、後に噂されることになる。


地震から二日後。
シーガは領主の館を訪ねていた。
館はそれほど損傷はなかったもの、ロゼルヌの座る背後の大きなステンドグラスに、いくつものひび割れが走っていることで揺れの激しさをもの語っていた。
黒檀の大きな執務机に向かいながら、ロゼルヌ卿はペンを走らせていた。


「ロゼルヌ卿」
正面に立つシーガが声をかけると、一瞥をくれてまた、手元の書類に向かう。
先ほどから、その繰り返し。
シーガの表情が曇る。
「だから、お前に払う報酬などない」
シーガは呆れて、つかつかと領主に近づく。
それを避けるように、アラン・ロゼルヌは立ち上がると、背後の窓辺に近づいた。
「見たまえ。この街はかろうじて崩壊を逃れた」


館の広い庭は、家を失った街の人々に解放されていた。船の帆布を使ったテントが、いくつも立ち並ぶ。崩れかけた塀の脇で、ランカ・スタリングと教会の神父が配給のスープを配っていた。炊き出しは街の女たちの仕事なのだろう、敷地の片隅では大勢の女たちが忙しそうに働いている。
災害で家を失ったものの、人々の表情には笑みが昇る。たくましい海の民たちだ。
領主の覗き込むステンドグラスの窓を遠めに眺めたままシーガはけだるそうに口を開く。


「地震と津波で家を追われたのは街の人々です。あなたではありません。そして、私に約束した報酬はあなたの資産からすれば極わずか」
いつか工事業者のダーレフが言っていた。ケチだと。
「わずかだろうと、その金があれば、今ここで寝泊りしている大勢が助かる。申し訳ないがな、シーガ。あそこにユルギアがいたのかどうか、私は未だに分からないんだ」
「ほう、眠っていらしたとは知りませんでした」
「それにな。工事予定の競技場は崩壊した」
「それは、好都合ですね、ダーレフも喜んでいるでしょう」
「つまり、工事自体が無くなったのだ」
「…詐欺のようにも、聞こえますが。ダーレフの請負も反故にするおつもりですか」
シーガの怒りを含んだ言葉にロゼルヌ卿が振り返った。
ここ数日の疲労が頬に出ていた。目も少しくぼみ、やつれたようにも見えた。


「話したくは、ないのですが。ロゼルヌ卿。私がなぜ二十年前のことを知っているか、お教えしましょう」
「いらん」
領主は耳を塞ぐように両手で頭を抱えると、再びイスに座り、机の上の書類をじっと見つめている。

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「想うものの欠片」第一章プロローグ 16

16

「私には大勢の声が聞こえます。ユルギアたちの声です。彼らは好きなことをいっている獣に過ぎませんが、その中から得る情報も多い。たとえば。競技場が壊れた後に国が鉄道を敷設しようとしていること。それに伴って、この街に大きな金が流れ込むこと。そして、そのためにあなたは管理人を手にかけたこと。ああ、あなたは平気ですね。すでに二十年前に一人殺していますから」
ドン!と、ロゼルヌが机を叩いた。
「…なにを、言っている?」
にやりと、シーガは美しい笑みを浮かべる。翡翠色の瞳は笑っていない。
「薬、飲ませましたね」
次の瞬間には、ロゼルヌはシーガの目の前に迫っていた。瞳の奥に暗く揺れる影に、シーガは殺意を感じた。人間の思念ほど複雑で醜いものはない。それを聞くことの出来ないことが残念でならない。
「くく」
シーガの瞳はそこで笑った。


「あれは!私も飲んだのだ!外国の珍しい薬だと!それを飲むと試合に集中できるのだと言われた。私は風邪気味で調子の悪かったジエにも、一粒与えた。もちろん私も飲んだのだ!まさか、それが原因だなどと!誰も証明できる者はいない」
骨ばったロゼルヌの大きな手が伸ばされる。肩に触れる寸前で、シーガは一歩下がる。
「では、なぜあなたは怯えているのですか?二十年前ジエの後に試合に出たあなたはほとんど走らなかった。恐れたのでしょう?ジエの二の舞を踏むことを。そして先日、ジエのユルギアにあなたは異常に怯えた。ご自分で認めたようなものでしょう」
「貴様は!」
「別に私はあなたが誰を殺そうとかまいません。政府に訴えるつもりもない。ただ、約束は守っていただきたい、それだけです」


青年は面白そうに笑っている。
相手が怒鳴ったり気分を悪くすればするほど、面白みを感じるらしい。
アラン・ロゼルヌは憎憎しげに青年を睨んでいたが、ふと、表情の力が抜けた。
目を細めた。
「では、私がお前を殺してもかまわないということだな?」
「…殺せるものなら、ですが」
青年は近づく領主を、腕を組んで見守っていた。
青年の黒いコートがふいに揺れた。
風はない。
「止めた方が、いいと思います」


青年の落ち着き払った様子にロゼルヌ卿は何を思いついたのか、机の方に戻った。引き出しから銃を取り出した。そのまま、にやりと笑って青年に銃口を向ける。
銃身の短い銃。ライトール公国御用達のレミント社製、高級品だ。
「いいか、黙って出て行くなら、命は助けてやる。貴様にやる金はない」
くくく。
シーガは笑う。
「ここで死ぬなら、それが私の運命なのでしょうね。ですが、あまり、そういう気はしないのです。なにしろ私は、神に愛されているようですから」
ふいに、館が揺れる。
「!」
ガシャン!
部屋の隅に立てかけられていた額縁が倒れた。
「また地震ですね、危ないですよ」

青年は笑う。
ロゼルヌはシーガの頭上で揺れるシャンデリアを見上げた。クリスタルのこすりあう甲高い音がまるで小鳥の群れのざわめきのように聞こえた。
かと思うと、不意に派手な硝子の割れる音が耳を突き刺す。それは、人の思考を一切断ち切るような癇に障る音だった。肌のあわ立つ感覚にシーガの笑みも消えていた。


何かがロゼルヌの背にのしかかった。
弾みで銃を一発。それは目の前の黒檀の机に醜い穴を開けた。
ロゼルヌは絨毯を目の前に見ていた。
膝をついていた。
何かがのしかかって、動きが取れない。
体を起こそうと右腕を背後の何かに押し当てると、鋭い痛みが腕と足首に走った。
「う、なんだ?」


「それは神の使徒を描いたステンドクラスですか。お怒りに触れた、ようですね」
見上げるとシーガが机越しに上から覗き込んでいた。銀の髪にステンドグラスを透かした赤い光が揺れた。背後の大窓から割れたステンドグラスの半分ほどが落ち、のしかかっていた。分厚いガラスをケイムと呼ばれる金属でつなぎ合わせたそれはとてつもない重量になる。
それが、膝をつく男の背を覆うようにのしかかっていた。鋭い破片で切れた足はどろりと赤い血を流していた。
ロゼルヌは青年をにらみつけた。
青年は小さく息を吐いた。


「私は殺されないで済んだようですね。代金は、そうですね、その銃をいただきましょう。貴方が良心の呵責に耐えられずに自殺などしないように、丁度いいですね」
「く、私は、何も悪いことなどしていない…た、助けてくれ」


ロゼルヌ卿はシーガが机を回り込んで、床に落ちている銃をそっと拾い上げたのを悔しげに見つめていた。伸ばした手は完全に無視されていた。そして。拳銃、青年の手、腕、肩、顔に視線を動かして、翡翠色の瞳と目が合うと、ロゼルヌ卿は力を失ったように顔を伏せた。
男が握り締めた拳に何を思うのか、シーガはまた小さく笑う。


「誰も、あなたが悪いなどと言っていませんよ。ご自身がそう思っているだけです」
助けようともせず立ち上がった青年に、窓からの風が吹いた。
風に乗って、階下の避難民の声が響いた。


「おい、スタリング、大丈夫か。お前、寝てなくていいのか?」
「ルルド、来てくれたのか」
「ああ、船の修復を手伝ってくれれば、魚をやるぜ。今日は街の奴らに食わせるってんで、張り切って漁に出たんだ。大漁だぜ」
「ああ、いいだろう、何人か募るよ。助かる、商業区はほとんど全滅だからな」
青年は広い屋敷の遠く離れた庭で二人が固く握手したのを感じながら、部屋を後にした。
ポオトの街は一つになりかけていた。
肩を震わせ、動けずにいるロゼルヌ卿のことなど、彼の意識からなくなっていた。
風とともに青年の耳にたくさんの音が入り込む。
視界に映る余計なものを見ないために、再び黒い眼鏡をかけた。
その銀の髪にまとわりつくように風がからんだ。
「魚臭い…」
眉をしかめる。

続きに雑記書いてみました↓

第一話プロローグ、次で終わりです♪ 

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「想うものの欠片」第一話 プロローグ17

17
病院の窓辺には、オレンジの色のガーベラが日の光を目いっぱい浴びていた。海を見下ろすことの出来る庭には、家を追われた人々が小さなテントを並べている。
それでも、子供のはしゃぐ声、ボールを蹴る少年たち。
街の人々は生き生きとしていた。
そんな様子をぼんやり見ながら、ルーファはまた、寝返りを打った。体を起こす。
「ルーファ、まだ、寝ていなきゃダメだろ。流行り病かもしれないって先生が言っていたよ。宿屋の主人も、ダーレフさんもまだ寝込んでいるんだ」
テデだった。少年は水差しを持って病室に入ってきたところだった。
あの日から三日が経っていた。ずっと高熱にうなされていたためか、ルーファは記憶がぼんやりしていた。どうして、病院にいるのか、まだよく分かっていなかった。
「…俺、夢見たのかな。すげーかわいい女の子に会って、競技場で試合して…」
テデが太めの眉をぴくぴく動かして鼻の穴を膨らめた。
「なんだよ、笑うなよ!」
「あはは。お前、相当いかれてる!今、来てるよ。あの子」
テデが面白そうにルーファの肩を何度も叩く。
病室の白い扉がそっと開いた。
亜麻色の髪がくるくると揺れて、少女が顔をのぞかせた。ルーファの頬にさっと朱が走る。嬉しそうな笑みに、テデが呆れるほどだ。
「!ミキー!」
笑い返す少女の背後、シドが頭一つ上からのぞいた。
「シド!お前、なんだよ!」
シドは手に持った果物の籠をテデに渡すと、ミキーとともにベッドの傍らに座った。
「顔色もよくなったね、三日も熱が下がらないから、心配したんだ」
「お前が?」
「そうさ、悪口言う相手がいなくなったら困るだろ」
にっとシドが笑った。
「いなくなるわけないだろ!」
ルーファも口を尖らせながら笑っていた。
ミキーは嬉しそうに、首を右に左にかしげると、胸の前に合わせていた手をそっとルーファの手に重ねようとした。
「ミキー」
「きゃ!」
背後から響いた静かな声に、少女は飛び上がるように立ち上がった。
「え、誰?」
病室の戸口に立つ背の高い青年に気付いて、ルーファは怪訝な顔をする。
銀色の髪は一つに束ねられ、揺れるたびに香るような気分になる。翡翠色の不思議な瞳。青年が睨むと、少女は立ち上がってそちらに駆けて行った。
ルーファはシーガに覚えはなかったが、ミキーが青年の手を取って寄り添って見上げているのを見て心が痛んだ。ミキーが青年を慕っているのはすぐに分かった。美少女の背後の美青年。悔しいくらい自分と違う世界にいると感じていた。
青年は病室に入ってくると、ゆらりと上質なコートをはためかせて少年たちを見下ろした。

「ルーファくん、すみませんでしたね」
「え?」
ムットした表情を隠そうと、ルーファは平然を装っている。
「ミキーは知恵熱を引き起こします。特に君みたいな少年にね」
「!?」
少年は真っ赤になった。それではまるで、自分がミキーに邪な望みを持っていたかのようではないか。もちろん、少年なりのときめきはあった。それは否定できない。
ルーファは憮然として黙り込んだ。
シーガは少年の表情を楽しんでいた。
「あのね、ルーファ。私たち、今日発つの」
「ミキー、どこに行くんだ?」
ルーファは顔を赤くしたまま、青年を無視して少女に声を書ける。
「あのね」
「ルーファ、君にいいことを教えてあげるよ」
シーガがさえぎった。
「なんですか、邪魔しないでください」
「くく。競技場の跡地にね、鉄道が通るんだよ。ロゼルヌはそのつもりだ。もちろん、商業会も賛成でね。知らないのは君たち漁業会の人たちだけだ」


黒い馬の引く小さな馬車で、ミキーは潮風と遠ざかる街の夕日を眺めていた。窓枠に腕を預け、遠い瞳は何かを思い出しているのだろうか。
「くくく、面白い。向こうに着いたら、新聞を買いましょう」
少女は上機嫌のシーガを背中で感じていた。
「シーガ様、あの後、ルーファたち怒っていましたの。よくないですの。せっかくシドと仲良しになったのに、また喧嘩になりますの」
「そうですか?気になるのなら、お前をおいていってもいいんですよ」
「!意地悪ですの!」
いっ、と変な顔をして怒る少女をシーガは面白そうに眺める。
「私は親切に教えてあげましたよ。領主が街の人々を騙して競技場を取り壊した。知らずにいる少年に本当のことを言ったまでです。ロゼルヌ卿は報酬を渋りましたしね」
シーガはふてぶてしいロゼルヌ卿の顔を思い出していた。黙っているなど約束した覚えはない。それに、いずれ。その真実は人々の前に現されるのだ。
「そうですの?そうするとミキーのお洋服、買っていただけないですの?」
「鉄道、ね。悪いものではないのかもしれませんが」
「ミキーのお洋服は?」
「蒸気機関が造られ、発電機が発明されてからというもの、この世界は大きく変わりだしました。それに乗り遅れまいとする領主は、ロゼルヌだけではないでしょう。それもまた時の流れ。私はどうでもいいのです」
相変わらず、会話はかみ合っていない。
「次はルパの可愛い帽子をと思っていましたのに」
「それより、ミキー」
窓の外を見ていた少女は、背後の青年の声音に不穏なものを感じて窓枠にしがみついた。
怒られる。
「ミキーは、何もしてませんの!」
「ミキー、あれほど人に触れるなといったでしょう?ルーファは軽かったからよかったものの、もう少しひどかったら本当に死なせていましたよ!戻ってみれば宿の主人も倒れていて。以前宿中の人に高熱を出させて、世話をしてもらえなくて困ったでしょう!お前は人に触れてはいけない」
「ミキーのせいじゃないですの!」
「ミキー?素直に言うことを聞かないとお前の中の石も、取り出しますよ?石を失ったユルギアがどうなるか、分かっていますね?」
「いやですのー!シーガさまはあの黒い木からもらいましたです、ミキーのはダメ!あげないです!」
必死に自分を抱きしめるように縮こまる少女に、ふいに興味を失ったかのようにシーガは視線を遠く山の向こうに向けた。小さく息をつく。
「結局、石の由来は分からずじまいですね。石は、まだどこかにあります。これだけではないはず…」
腕を組んで座席にもたれ、青年は黒い眼鏡の奥で目を閉じた。

ミキーはシーガの横顔を眺め。一度首をかしげて、それからにっこりと笑った。
「シーガさまには触ってもいいですの?」
そっと三本指の柔らかな手を青年の頬に当てる。
目を閉じたままの青年はじっとしている。
ミキーは嬉しそうに青年に抱きつこうとした。

第一話 了

第二話へ続く

「想うものの欠片」地図!?です

地図、無謀にも作ってみました…(というか、作っておかないと自分も分からなくなりますので…半分自分のため♪)ほとんど出てこないかもしれませんが、この世界「ノワールト」といいます…

お話が進むにつれ、地図も書き加えていきます!とりあえず、西端にポオト、作りました!

20070611075841.png

「想うものの欠片」第二話 ①

プロローグではシーガ、ミキー、そしてこの世界をご紹介しました♪さて、やっと三人目の主人公、登場です…


第二話「トント、そして三人」


「タース、これ、昼飯に持っていけよ」
床に膝をついて車輪の下に顔を突っ込んでいた少年に、四角い顔の男が声をかけた。
少年は太い車軸に手を突いて、ひねるように突っ込んだ右手でその奥でボルトを締めなおしていた。
絶え間なく動く機械の音で、聞こえないようだ。
男は面白そうに笑うと、手に持っていた紙袋を少年の道具の脇においた。ひとつ伸びをして。昼の休憩に向かう。


そろそろ暑い季節だ。
眩しそうに男が見る天井はガラス張りで、雨の日も風の日も作業にもってこいだが、暑い季節は蒸し風呂で、地獄のようだ。むき出しの鉄骨の梁が長く続く。そこに這う電線が、ところどころ金具で引っ掛けられている。
電線の先は最新式の発電機だ。彼らの整備する機関車と同じ蒸気で発電する。
工場長のゲーベルさんがティエンザ王国の工業都市に注文したものだ。そんな遠い街で買わなくたって、僕たちだって作れるのに、男はそう言った少年を思い出した。
タースはまだ十五歳。これといって資格は取っていないが、飲み込みは早い。
彼が二十歳になる頃には立派な機械工になっているだろうと男は踏んでいる。娘は一つ上の十六歳だが、下手な街の若者に引っかかるくらいなら、タースにやったほうが安心できるというものだ。
少年が一緒に働き始めて半年。仕事にも慣れてきて、人となりにも納得した。そろそろ、家族に合わせてもいい。タースの家族にも会ってみたい。
勝手な想像をしている親方セルパの企みなど気付きもせず、少年は今、修理中の蒸気機関車から体を引っ張り出した。

ちょうど昼の時間を知らせる教会の鐘が三回鳴らされた。


「ふあ、腹減った」
タースは工具をキレイに布でふき取ると、大切に工具箱にしまった。借りている道具だ。大切にしなければいけない。そういったところがセルパに気に入られているとも知らず、タースは工具箱と傍らにあった紙袋を持って工場を出る。
途中、出入り口にある工具置き場にきちんと返すと、嬉しそうに袋の中身をのぞいた。


「やった!ハムだ!」
淡い海の色の瞳を輝かせて、歩きながらハムと玉ねぎのサンドされたパンを取り出す。かぶりつく。ピクルスが少し辛くて、それがまた食欲をそそる。
セルパ親方の奥さん、エイナの手作りの料理はいつも美味しい。
工場を出て、少し歩いて港の見える高台の公園に来る。少年は公園の水道の蛇口をひねると、顔を半分ぬらしながら飲む。
そうしてまた、一口、サンドウィッチをかじる。
お行儀のいいことではないが、普通の十五歳。気にするはずもない。
昼の時間の公園は案外、人が少ないものだ。ざっと今見渡しても、視界に入るのは図書館の守衛だけだ。皆、自分の家に昼食と休憩のために帰る。少年にはそれはなかった。帰っても、誰がいるわけでもない。

公園のいつもの木陰に座ると、食べ終わって伸びをするまで足元の鳩が三回首をかしげた。紙袋を丁寧にたたんで脇に置き、そのまま、被っていた帽子を顔の上に載せてごろんと横になる。


ライトール公国。首都のライト公領は大陸一の都会。公国を横断するトラムミスと、縦断するトラムティスの二つの鉄道を結ぶ駅がある。駅周辺は大きな建物が立ち並び、たくさんの人と物が集まる。大聖堂、三つもある大学。国の機関の建物は政府庁舎と裁判所と税務署。国立の図書館に美術館。それらには漏れなく広い公園が付いていて、この時期はジャスミンが白い小さな花を咲かせる。揺れるたびに強い芳香が漂う。
少年の横たわる公園も例外ではない。


少し強すぎる花の香りに、寝ていられなくなってタースはむくりと起き上がった。
顔を洗って、図書館に行こう。そう思い立つ。そう、この公園は図書館の庭にあたる。レンガの大仰な建物は四階建てで、入り口の大きな三角屋根には学問の神様とやらのレリーフが刻まれている。肩で鳩の世話をしながら、学びたい者を例外なく見守っているようだ。
ぬれたままの手で黒い髪をかき上げて、タースはそれを見上げた。
貧しい彼が入れてもらえる政府の建物は、ここと刑務所くらいのものだった。
静かな図書館で、いろいろな国のいろいろな街の歴史、そしてそこの建物の絵を見るのが好きだった。いつか、建築士になろうと、少年は考えていた。いろいろな街に行って、歴史ある建物の修復をするような仕事。けれど、それには資格がいる。大学に行かなくては資格試験を受験することも出来ない。働いて、お金をためて。やりたいことがたくさんあった。


図書館に入る前に、作業服のズボンを数回たたいて埃を落とす。
守衛は黙ってそれを見ていた。
太い柱の間を抜けて暗いエントランスに入ったときだった。ちょうど、タースと同じタイミングでエントランスに入った影があった。
見ると少し年下くらいの女の子。黒いワンピース、その下に半ズボン。足元はこの暑いのに膝下までのブーツ。髪はマロンクリームみたいな色で二つに縛られていた。
歩くたびにぴょこぴょこと音がしそうなほど、その姿はお人形のようだった。見とれていたタースは、二つ目の柱の脇を過ぎるときに、柱の横に立ててあった受付の案内看板に膝をがちとぶつけた。
「って」
くすくす、といつもの顔の受付の女性が笑った。
「タース、なにを見とれているの」
手招きされたので、仕方なくタースはガラス張りの向こうにいるジャムさんの前に立った。


ジャムさんは十五のときからもう二十年近く、この図書館の受付をしている。半年前から、昼の時間に顔を出す少年に、何かと話しかけてくる。昼休みは客が少ないのに外出させてもらえないからつまらないという。元来おしゃべりなのだろう。
「今の子、カワイイでしょ?最近よく見るのよ」
「あ、そう」
気にしないフリをしつつも、少年が少女の後姿をじっと眼で追っているので、女性は噴出す。
「ふふ、声かけてみたら?同じ年くらいじゃないかしら。いつも三階の古書のコーナーにいるのよ。ほら、あのフロアなら人がいなし。ちょうどいいじゃない!滅多にいないわよ、あんなかわいい子」
小さな硝子の窓から無理やり手を伸ばして、少年の二の腕をバシバシと叩く。
人のことより自分の結婚のことを心配するべきじゃないのか、と思ったものの、タースにはそれを口にする勇気はない。
「いいって、そんなこと出来ないよ」
「んま!男の子でしょ!?十五にもなって、女の子に声かけることも出来ないなんて、恥ずかしいと思わないの?」
急に憤られても困る。
「だから、さ、別に…」
「そんな勇気のない男ばかりだから、世のいい女は苦労するの!」
誰のことを言いたいのか、少年は的が外れ始めたジャムの話から逃れようと、とりあえず頷くことにした。
「わかったよ、ちょっと見てくる。それでいいだろ」
口とは裏腹に意外だったようで、女性は一瞬あっけにとられ、それから顔を赤くして、行ってらっしゃいと手を振った。


「なんだか、なぁ……」
階段を昇りながら、タースは少し伸びた黒い髪をかき混ぜた。
女の子が気にならないわけではない。一応、男だ。
でも、初対面で、ちゃんと顔を見たわけでも話したわけでもない。
何の情報もないのに、そうそう、上手な誘い文句があるわけでもない。最後の踊り場で手すりに手を付いた辺りで、嫌に緊張している自分に気付いた。
本当に、声をかける必要なんかないのに、なんだろう。
自分が馬鹿に思えて、後数段で三階というところで、立ち止まった。


やっぱり、止めた。
向きを変えたところで何かが聞こえた。
少女の声のようだ。凛としたきれいな声で、それは小さかったけれどはっきりと聞き取れる。
「お願いです…」

次へ 

「想うものの欠片」第二話 ②




誰かと、話している。
他に人はいないように思っていたので、話しかけなくてよかったとタースは胸をなでおろした。数歩歩き出して。また、聞こえる声に足を止めた。
「いやですの!放して…」
鼓動が高まる。
これは?
何かが起きている。

重い静寂を押しのけるように、タースは向きを変えると一気に階段を駆け昇った。
正面の扉をぎっと開いて、目の前の書架の列を見回した。
どこだ。


何かの気配のするほうへ。響く足音も気にせずにタースは走った。
天井までありそうな書架がいくつも立ち並ぶそこは薄暗い。窓は掃除が行き届かないのか曇っていて、昼間のはずなのにまるでうっそうと茂る森に立っているかのようだ。
右手の奥。書架の間で、少女を見つけた。

こちらに背を向けて、誰かに話しかけていた。
相手の姿はここからは見えない。
「あの!」


振り向いた少女を見て。
タースは後悔した。


少年の中で何かが崩れてしまったようだ。
少女の美しい瞳に見上げられ、動けなくなっていた。耳元で鳴る心臓の音で息苦しいのに、肺は呼吸する方法を忘れてしまったかのようにじっとしている。
「どなた?」
少女の声で我に帰って、タースは大きく息を吐いて、それから吸い込んだ。
カビの匂いのする湿った空気も、今は美味しく感じた。
まだ少し、荒い息のまま、タースはなんと言おうか思案しながら口を開いた。
「え、ええと。その。声が聞こえて」
少女はにっこりと笑う。その首の傾げ方がまた、少年の心臓を躍らせた。
「ごめんなさいですの。図書館では静かにしなきゃですね」


「ミキー、いいから来なよ」
少女のものでない声、ちょうど十歳くらいの男の子の声のようなものが、少女の向こうから聞こえた。タースは首を傾けて、覗き込んだ。
「嫌ですの。ちゃんとお話してくださらないとシーガさまに叱られますの」
「おいらは知らないね、そんなの。いいからさ、ミキーも一緒においでよ、楽しいよ」
よく見えなくて、タースは二歩、少女に近づいた。
「あ、あの、あなた、この声が聞こえますの?」
少女が振り向いた。
その向こう。
金色のイキモノが立っていた。
「あ?なに、そいつ」
イキモノがしゃべったようだ。髭を揺らして、鞭のような尻尾をぺんと床に当てた。苛立っているかのようだ。


「お前こそ、なんだ?」
タースはそう言うと、思わず床に膝をついてそいつを見た。
金色の毛皮、タースのモモくらいまでの身長。小さな耳、長い髭、尖った鼻、前足はミキーの手をとり、後ろ足二つで立っている。
どう見ても、でかいネズミ。


声をかけられて、そのイキモノは飛び上がった。
そう、文字通り、飛び上がって、次の瞬間には尻尾の先が書架の向こうに消えるのが見えた。素早く走り去ったのだろう。
タースは何度も瞬きして目をこすった。
「あなた、ユルギアが見えるのですの?声が聞こえるですの?」
ミキーと呼ばれていた少女は、座ったままのタースの肩に手を伸ばした。ひどく興味があるようで、抱きつかんばかりの勢いに、タースは真っ赤になって立ち上がった。
「え?え?今の、ユルギア?動物の姿してた」
「あれはこの図書館のユルギアですの。悪いユルギアではないですが、遊びたがりで、何度遊んでも約束を果たしてくれなくて。困っているですの。シーガさまに頼まれて、昔の資料を探しているですの」
動物のユルギア。
そう聞いて、タースの表情は曇った。
「あれも、ユルギアなんだ」
「あの、あの!あなたもシデイラですの?」
少女が抱きついた。
思わず後ろにあった書架に背をぶつけたタースは一瞬見せた真剣な表情を消した。
それどころではない。
目の前の少女の柔らかな体に心臓がどうかなりそうなのだ。


「だ、あの、僕は違うよ!その」
「違うですの?」
「シデイラの血は、流れてるけど」
少女はタースの腹にしがみ付いたままだ。
「あ、あの……」
「シーガさまと同じ匂いがしますの」
うっとりとした様子でミキーは亜麻色の髪を何度も少年の胸にスリスリとする。
たまらなくなって、そっと突き放すと、タースは荒くなった息を落ち着けようと胸に手を置いた。


「あの、お茶しますの!一緒に」
少女は長すぎる袖の下から三本だけ指を見せて、少年の手を握り締めた。
少女に請われるまま、タースは階段を降りて、ジャムさんが何か言っているのも耳に入らずに図書館の一階にある喫茶コーナーに入っていった。

次へ 

「想うものの欠片」第二話 ③



少女はミキーという名で、年齢も苗字も教えてくれなかった。
毎日、図書館に通っているのだと笑った。
冷たく冷やした紅茶のグラスを、何度も口に運びながら、タースは生まれて初めてのデートをしている自分に気付いた。同時に、少女に抱いた感情にも気付く。
それからはもう、なにをどうしゃべったのか覚えていない。
ただ、お互い楽しい時間を過ごせたことだけは自覚があった。
ミキーは始終ニコニコしていて、透き通った声で頼んだ飲み物も飲まずによくしゃべった。
ほとんどがシーガさまという彼女の雇い主のことと、お気に入りの洋服とブランドの話だったが、それはかえってタースにとって見知らぬおとぎ話を聞くようでドキドキさせた。
午後三時の教会の鐘が鳴らなかったら、仕事のことなど忘れているところだった。


午後はなぜか仕事が進まなかった。
親方に何度か、大丈夫かと問われ、大丈夫だと笑っていたけれど、そのうち、体全体がおかしくなっているように感じた。
午後四時を回るころには、立っていられないほどになっていた。
機関車の黒く塗られた車輪が二重に見えて、さすがにタースは作業の手を止めた。
給水車の屋根に上っていたが、震えて力の入らない足で、なんとか足場を伝って降りると、地面につくなりへたり込んだ。


「タース!」
親方が肩を支えて、何か言っていた。
「すみません、僕、調子が……」
「タース、お前ひどい熱だ、病院へ行こう」
親方が作業員をもう一人呼んで、二人で両側から支えてくれた。
「直ぐそこ、確かあったな」
親方の声に、先輩の声。
「はい、あの角の建物が国立病院ですよ」


タースはくらくらする頭の中で何か思い出さなければいけないことがあると考えていた。
病院、病院。そればかりが回っている。
気付いたのは、診察室で横になっているときだった。


心配そうに覗き込む親方。医者だろう、灰色の髭があごまでまとわり付くように伸びている初老の男。男の持つ注射器で、一気に思い出したのだ。
「あ、僕、ケトンの入ったの、ダメです…」
医者の手首を下から押さえて注射を止めた。ケトンは通常使われる解熱剤に入っている成分だ。タースはそれが体にあわない。
「え?そうかい」
医者の穏やかな茶色い瞳が一瞬見開いた。
親方がどう思ったかは、知りたくなかった。だから、顔を見れずにいた。
「なんだ、お前シディなのか?」親方がつぶやくように言った。
まぶたの奥が重く目を開けるのもつらかったが、タースはここできちんと言わなければと覚悟を決めた。
「…はい。半分、シデイラの血が」
「ほお、珍しい!混血か!」
声を上げたのは医者のほうだった。
顔を動かして、親方の方を見た。
いつもと表情が違った。


「あの、すみません、黙っていて」
憮然とした様子で親方は腕を組んだまま言った。
「別に、謝ることはないさ」
言葉とは裏腹に、その後の親方は黙り込んでいて、興味深そうにタースの診察を続ける医者とは対照的だった。
医者は、ケトンの入っていない薬では、直ぐに熱は下がらないから、と入院を勧めた。
原因も分からないし、と、そう言う表情が嬉しそうで。タースは余計に気分が悪くなった。
「あの、僕、お金がないから入院できません。すみません、帰ります」
無理やり起きようとする少年を医者が抑えた。
「まあ、今は無理だ。お金のことは気にしなくてもいいよ。ご両親はどちらに」
「…いません。二人とも十年前に、亡くなりました」
タースの言葉に医者はますます嬉しそうな顔をした。
あまりにもその表情があからさまだったので、タースが顔をしかめたほどだ。しかしそれも熱のためと解されたのか、医者は嬉々として入院の手続きを進めていた。


シデイラ。それは、山岳民族。この大陸で最も高い標高を持つシデイラ高地に昔から住んでいた。しかし、他の民族の神が一つであるのに対して、シデイラの民だけは自然信仰、山とか風とか、草、水、太陽、そういったものを大切にしていた。
唯一神が世界中で統一され、一つの教会の元に信仰が集まった時代から、シデイラの民は異端者扱いされてきた。ユルギアと会話する特殊な力があるとされ、神秘的な銀の髪、翡翠色の瞳は美しく、過去には他民族の狩の対象となった。
今ではほんの少しの人々が、教会が管理する広大な北の土地シモエ教区で保護されている。十数人に満たないというから、いずれ絶滅するのだろうといわれている。
保護されている民は他の民族との婚姻は許されていない。
だとすると、タースの存在は珍しい。
シデイラの民はケトンという解熱剤の成分を受け付けない。服用すると命を落とすこともある。自分も同じなのかは分からないけれど、試す必要も勇気もない。ずっと隠し通してきたのに、タースは熱を出した自分を呪った。


風邪など引いていないはずなのに。どうして急に。
このまま、公国の研究機関でもあるこの国立病院に捕まってしまうのだろうか。
絶望的な気分で目を閉じて、ため息を一つ吐き出したときだ。
「この子はわしらが預かっているんだ。養子だ。つれて帰るよ」
親方だった。
自由をくれる一言だった。

次へ

「想うものの欠片」第二話 ④




「ありがとうございます」
帰りの馬車の中で、自分の荷物の入った袋を枕に横たわりながら、タースは馬を操る親方の背に心から礼を言った。
親方は黙っていた。
不安もあるが、嬉しさのほうが大きかった。


「僕の、両親は」
「言わなくていい」
さえぎった親方の一言が、表情が見えないために怒っているのか、笑っているのか分からず、さらに少年の不安をあおった。
シデイラの民はシディと呼ばれ、蔑まれている。ユルギアと話すことで気味悪がられて、まるで不幸を運ぶ厄介者のような扱いを受ける。
それは、幼い頃から身に染み付いていた。


仕事は、続けられそうもない。
やっと、この都会に出てきて、やっと落ち着ける仕事が出来て、いい人たちにめぐり合った。自分のしたいことも見つかって、充実していた。
それが、すべてなくなる。
両親が死んでから、これまで生きていくためにいろいろなことをした。盗みを働いたこともある。詐欺まがいのことだってした。そのどれも、罪悪感などなかった。
そうしないと生きていけなかったから。法律で守られていないのだから、自分が法律を犯すことに何の抵抗もなかった。
けれど。
優しくしてくれた親方を騙していたことが。シディであることを黙っていたことが、ひどく心を痛くした。
「明日は仕事を休め」
親方がぽつりと言った。
辞めろ、と聞こえた。
たまらなくなって、タースは鼻をすすった。
気付かれまいとぬぐっても、涙がまたあふれてくる。
「今夜は、うちに泊まるか」
親方が振り向いた。
その顔は穏やかに笑っていた。
「親方…?あの、僕、シディ、ですよ?」
すっかり鼻声の少年に、男はふと笑った。
「ばか、それが何だってんだ?お前はタースだろ。俺が半年かけて教えてきたこと、何にも分かっちゃいねえな。まだまだ、教えなきゃならんことがたくさんあるぜ」
少年は涙をぬぐって笑った。
人として、生まれ変わったかのようで。嬉しかった。


セルパ親方の家は、工場から馬車で少し南に走った、静かな住宅地にあった。親方に支えられて、白い門を通って芝生のきれいな庭を横切る。丁寧に整えられた庭をみると、家庭の円満さがうかがえるようだ。奥さんのエイナさんはニコニコして出迎えてくれた。
二階の一室をあてがわれて、横になる。
気を使わなくていいから、とにかく眠ることだとエイナになだめられ、タースは目を閉じた。
遠い街の大学へ行っているという長男が子供のころ使っていた部屋だという。白い窓枠、同じ色の本棚。そこに並ぶ学校の教科書。子供のころのものだけれど捨てられないのだろう。温かい家庭の匂いを感じて、タースは幼い頃を思い出していた。
温かい記憶と、両親をなくしたときの悲しい想い。
熱のせいか、耳鳴りがしている。
時折、聞こえるはずのない声やささやきが耳を掠める。ユルギアだろう。
また、明日ですの、と。ミキーの声がよみがえった。そういえば、彼女もユルギアと話をしていた。彼女も混血なのかもしれない。
心地よい少女の声に、深い眠りに落ちていった。

「だわ」
だわ?
女の子の声のようだ。
タースはぼんやり目を開けた。
心地いいベッド。キレイな天井。
ああ、親方の家だったな…。そう思い出したとき、また、声が聞こえた。
「シディなんて、気味悪いじゃない。私いや!そんな子が私の隣の部屋で寝るの!?絶対許せない」
セルパ親方にはタースより一つ年上の娘がいると聞いていた。
はあ、と息を吐いて。タースは起き上がった。
まだ、少し、目が回る感覚があったけれど、ゆっくりした動作なら立ち上がって歩くことも出来そうだった。
数回、深呼吸して立ち上がると、タースは荷物を持って、階下に向かった。
自分のせいで温かい家庭に水をさすことはない。


「ライラ、お前は何にも分かっていない」
セルパが低い声で言った。
「シデイラの民がなんだって言う?タースは真面目ないい子だ」
「そうよ、ライラ。人を差別することはよくないことでしょ?あなたがそんなことを言うなんて、母さんは悲しいわ」
「だって、嫌なものはいや!」

立ち止まって聞いていたタースは、ちょうど階段を昇りだした娘、ライラと鉢合わせした。
「き、きゃあ!」
悲鳴を上げられ、どうしていいか分からず、ただ立ち尽くす。
ライラは親方より奥さんに似ていて、少しタレ目の甘い栗色の髪の少女だった。
シデイラでなくても、見知らぬ男が自分の部屋の隣にいるだけで嫌だろう。
階段を駆け下りていく少女を見送って、タースはため息を一つ吐き出した。
帰ろう。


「ライラ、どうしたの!」
階下に降りると、夕食のいい匂いがした。ジャガイモとまめと鶏肉を煮たスープのにおいがしていた。
「タース!大丈夫か?」
一階に下りると、直ぐそこはリビングで、ソファーに座っていたセルパが少年に気付いて立ち上がった。まだ少し、心もとない足元に気付いたのか駆け寄った。
「あ、はい。大丈夫です。僕、自分の家に、帰ります」
ライラを抱きしめていたエイナが目を丸くした。
「何を言っているの、タース君!ダメよ!」
娘をあっさり置き去りにして、エイナはタースの前に立った。
身長はタースのほうが少し高い。それでもまるで小さな子供にするように、エイナは少年の額に手を当てた。
「ほら、まだ熱があるわ」
「どれどれ」
セルパも同じことをする。
タースは二人をかわるがわる見ていた。
あまり、経験のないことだったから。


「食欲はあるのか?」
「そうよ、ちょうどスープが出来上がったし、ライラも戻ったし、ね、一緒に食べましょう」
二人の優しい言葉に、タースは持っていた荷物を後ろに隠した。

二人がいていいって言ってくれているのに、変にかんぐって帰ろう何て、僕は大人気ない。そう思うと恥ずかしくなった。
それに、この機会を逃したら、こんな風に優しくしてくれる人に出会えるのは、いつになるのか分からない。いや、もうないのかもしれない。
半年、雇ってくれた親方に感謝する意味でも、ここは甘えるべきなのだろう。

次へ

「想うものの欠片」第二話 ⑤


ライラは食事はいらないと言って、二階の部屋に入ったきり、降りてこない。気にはなったが、親方が放っておけというので、とりあえずタースは目の前の美味しい料理を胃に収めることにした。
「タース、明日はまだ、体を休めるべきだぞ。仕事への復帰はあさってからだ」
「親方、でも僕は……」
「いいか、タース。お前がなんであろうと、俺は今まで半年お前を見てきて、頼りにしているんだ。週末までの今の仕事、あれはお前に任せたんだったな?」
「あ、はい」
「任せたんだから、ちゃんと最後までやれ。それにな、お前の腕を見込んでやってほしい仕事はたくさんあるんだ。寝込んでいる暇なんかない。一人暮らしなんだろう?ちゃんと食ってないから熱なんか出すんだ。なんなら、お前、借りているアパルトメントを引き払って、ここに来い」
少年はエイナの顔を見た。
エイナは穏やかに笑った。
「でも……」
タースは言いよどんだ。
「ライラのことは気にしなくてもいいさ。恥ずかしいんだろう、あの子はどうも、晩生でね」
「あら、あの年頃はあのくらいでちょうどいいんですよ。これでタース君にそつない挨拶でもしようものなら、いつの間にそんな娘になったのかって、あなただって驚くでしょ」
奥さんの言葉に、親方は少し顔を赤くした。先ほどから飲んでいる麦の酒のせいではない。
そんな顔のセルパを初めてみて、タースは少し笑った。

家では、お父さんなんだな。


美味しいスープをもらって、体が温まったところでシャワーを借りた。エイナは熱を心配したが、仕事で埃だらけのまま、あの部屋にいるのは気が引けた。タースは少しだぶついたセルパの夜着を引きずるようにして、階段を上る。向かって右側の扉が少し開いて、暗い階段の踊り場に部屋の明かりが漏れた。ちょうど部屋を出ようとしたのだろう、ライラが顔をのぞかせて、慌てて引っ込めた。
息を潜めて扉の向こうにいるのが分かる。タースが、部屋に入ってしまうのを待っている。
二つの部屋は向かい合わせ。階段を真ん中に左右に分かれる。タースは階段を昇りきったところで、立ち止まった。
「あの、ごめんね。君の生活を乱したいわけじゃないんだ……その。親方も奥さんもすごくいい人たちだよね。二人が本当の親だなんて、君がうらやましいよ」
扉の向こうから、返事はなかった。


「……、お休み。明日僕は家に帰るよ。朝早く出るから。気にしないで」
自分の部屋の扉を開けたとき、背後でも扉が開いた。
「タースって言ったわよね。私のせいで出て行くのは止めて。あてつけみたいで嫌だわ。それに、パパとママはいい人だから、きっとあなたのパパとママにもなってくれるわ。私は別にそれでかまわないの。兄さんが家を出てから、二人して私にかまうの、少しうっとうしいくらいだったから。ちょうどいいわ」
口調は冷たいものの、ライラは決して嫌な顔をしていなかった。照れたように目をそらす。
タースも笑い返した。
「ありがとう」
「別に、私があなたに何かしてあげるわけじゃないんだから!」
「うん、でも、嬉しいから」
そこで、少年はだるいのか、扉に体を預けた。
「あ、ごめんね、早く寝てね、そうだ、ちゃんと窓閉めた?母さん、いつも昼間に開け放つくせがあるから。気をつけないと夜の間に震えるはめになるのよ」
そういってライラはタースの脇を抜けて、タースの部屋に入ると窓を閉めた。カーテンを揺らす夜風に室内はすっかり冷え切っていた。
「ほらね」
腰に手を当てて笑うライラは、かわいらしく見えた。
「ありがとう」
部屋の入り口の脇においてあるランプに、マッチを擦って火を灯すとそれをタースの枕元に持ってくる。ベッドサイドのテーブルに置いて、少年を改めて見つめた。
ライラは目を丸くしていた。
「タース、あなたって」
タースはだるいのでベッドに座り込んでいたが、ライラの前で横になるのは気がひけるのか、膝に両手を付いて、首をかしげた。
その様子に、ライラは少し慌てたようだ。
「な、なんでもないわ。でも、シディって、もっと恐ろしい感じの人だと思ってた」
目をそらせるライラに、タースは笑った。
「僕、半分はライトール人の血が流れているから」
「そ、そうなの。だから、そんなきれいな黒髪で、瞳も、翡翠色っていうより、もっと青みの勝った不思議な色なのね」
タースはライラの頬が赤くなるのを黙って見つめていた。

容姿の事を女性に褒められることはたまにあった。図書館のジャムさんも、不思議な瞳の色だと喜んでいた。それが、女性には受けがいいのだと気付いたのはもっと幼い頃だ。
かといって、それでどうにかしようというほど、興味のある女性にも出会わなかったから、タースにとってそう言う類の言葉は笑って受け流すことになっている。

「うん、そうだね、変わった色だって言われる」
「そうね、雑誌で見た、リール海の色に似ているわ」
「そう?見たことないから」
「え?知らない?リール海は世界一美しい海なのよ!ティエンザ王国の西の海で、白い砂石灰の海岸線。家は皆白い壁にオレンジの屋根。蒼い海と空!もう、バカンスを過ごすにはこれほどいいところはないっていうのよ」
女性はこういう話になると元気になる。
昼間のミキーを思い出していた。
「でもね、この間の地震で、すごく被害を受けたんですって」
こういう話も女性は好きだ。
「ティエンザ王国で有数の港だし、有名な観光地でもあるから、復興と同時に王国では鉄道を引いて、もっと便利にするらしいわ。ああ!行って見たいなぁ!」
タースは微笑みながら、目をこすっていた。
くしゅん!
押さえるまもなく、くしゃみが出た。
「あ!ごめんなさい!寝て!さ、ほら」
ライラに肩を押されて、タースはベッドに横たわった。
まるで母親の真似事をするかのようにライラは毛布を少年にかけると、満足そうにぽんぽんと優しく上から叩いた。
「おやすみなさい」
笑うライラの表情は、とても素直な少女のものだった。
ぽんぽんと叩かれた毛布の心地よさに、タースは直ぐに眠りに落ちた。

次へ♪

「想うものの欠片」第二話 ⑥



次に目覚めたとき、タースは自分がどうしてこの家にいるのかを、もう一度思い出さなくてはならなかった。深く、たっぷり眠ったからだ。
重かった頭もはっきりしていて、タースはまだ少し熱はあるものの、エイナに断って自分のアパルトメントに荷物をとりに行くことにした。
親方もライラもすでに出かけていて、こんなに日が高くなるまで寝ていた自分が少し恥ずかしくなる。

学校に出かける前に、ライラが母親にタースのことを話したらしい。
エイナはにこにこして、
「娘はわがままに育ったけれど、根はいい子だから、仲良くしてやってね」
と言った。
その言葉が微妙に気にかかりながら、タースは通りを歩いていた。
昨日の病院の前を通り過ぎて、右手に公園が見えた。図書館。
昼前の日差しが公園の白い石畳を光らせて、タースは目を細めた。


そういえば、昨日ミキーと約束した。
また、図書館で会おうって。
少女を思い出すと、とくん、と心臓が鳴る。
彼女はシデイラを尊敬しているといっていた。彼女のご主人がシデイラらしいことを言っていた。彼女なら絶対に差別なんかしない気がした。
タースは自然と図書館に向かっていた。


ミキーが図書館のユルギアに頼んでいること、そのために図書館に通っているのだということを思い出して、タースは昨日見たネズミのでかいのが気になりだしていた。
あいつが悪さしたのかもしれない。だから、急に熱が出た。
ユルギアはいろいろな不思議な力を持つ。物理的に人を傷つけたり、人の心に入り込んだり。悪意の塊のようなユルギアは人を襲ったりすることもある。


図書館の前で、いつも通りの守衛さんに挨拶をすると、タースは涼しい日陰の室内に入る。
ジャムさんが手招きしていたが、今日のタースは手を振るだけで、近づこうとしなかった。
その場所から、「あの子、きてますか?」と問うとジャムさんは意味深に笑って、また三階よと笑った。


心臓の音がやけに耳に付くのを無視しながら、少年は階段を昇る。
また、声がした。
ミキーの声。
また、ネズミの奴と言い争っているようだ。タースは急いだ。


「ですから、お願いですの、古いお手紙を見たいだけですの」
「だからぁ、おいらは知らないってば。じゃあ、見せてあげたら一緒に遊んでくれる?」
甲高いネズミの声。
「ほら、それってさ、汚い字でなんか書いてある奴だろ?多分、どこかで見かけたんだ。一緒に探してくれたら見つかると思うんだ」


ミキーだめだ、そいつの言うこと真に受けちゃ、ダメだ。
念じながら三階の扉を開ける。
「ええと。一緒にって、どこを探すんですの?」
ミキーは何の危機感もない様子だ。タースは一直線にこの間の場所へと走る。
「おいでよ、おいらの世界だ」
ミキーの小さな悲鳴と同時に、タースは空気がずんと重くなったのを感じた。
よどんでいる。
嫌な、空気。
ユルギアの奴!
「待てよ!」
昨日の場所に駆けつけると、狭い書架の間、少女の細い手が本棚の一番下の段から伸びていた。
ありえないことだが、まるで本棚の一箇所に、ミキーが吸い込まれていくように見えた。
「ミキー!」
駆け寄って、とにかくその手を取って引っ張る。
その手は、分厚い本に挟まれた棚の隙間、小さな真っ暗な空間から伸びていた。
ぐっと、ひっぱっると、ミキーのもう一方の手も出た。助けを求めるように、白い細い手が空をかく。
「ミキー!大丈夫か!」
両手を取って、タースは精一杯引っ張る。
「邪魔するなよ!」
ネズミの声がして、座り込んでいるタースの肩に、上の棚から本が落ちてきた。
「うわ!」
それでも、手を離してはいけない。
放したら、ミキーはどこかに行ってしまう。
二度と出られなくなってしまうかもしれない。
「ミキー!」
「…た、タース」
顔が出た。
暗い闇はそこに真っ黒な煙が詰まっているかのようだった。煙はゆらと揺れたと思うと、弾けるように一気に飛び散った。急に軽くなって、ミキーの体が飛び出した。
派手な勢いで背後の書架にぶつかって、本が落ちる。
「危ない!」

バサバサ!
いくつも、重い本の衝撃を背に受けながら、タースは必死に少女を抱きしめた。
腕の中の少女は、思ったよりずっと小さく、軽く、弱弱しい。
守らなきゃ。
そう思わせた。

。。。。。

「タース」
ミキーの声に、少年は二回瞬きした。
目の前に、ミキーの顔がある。
大きな瞳がじっと見つめていた。直ぐ間近に少女の息を感じて、とくん、と心臓が泣いた。


「大丈夫ですの?」
タースは顔を上げて、自分の周りに散らかったたくさんの本を見回した。
あの棚の暗がりは、今はただの本棚の隙間になっていた。
背中がずきずき痛んだ。
「いて…」
体を動かそうとして、一瞬痛みに顔をしかめ、タースは大きく息を吐いた。
腕のなかでミキーがふわりと動いて、そのたびに不思議と甘い香りがした。


「あの、大丈夫ですの?お熱は?ミキー、いつもシーガさまに怒られるのです。でも、シデイラは平気だと聞きましたの」
何を言っているのかよく分からないまま、タースはうなずいた。背中の打ち身が痛んだが、そんなこと、顔に出したら心配させてしまう。笑った。
「う、うん?大丈夫、だよ。あのネズミ、君をどこに連れて行こうとしたんだ?」
ミキーは恥ずかしそうに笑った。
「あの、トント、彼の名前ですが、トントは自分の巣穴があって、そこにいろいろな本を持ち込んでいるんですの。探しているものが見つからないので、彼が持ち込んでいる中にあるのではないかと思っていますの。どうしてもそれを見たいってシーガ様がおっしゃるから」


はあ、と大きく息をついて、タースは体を起こして、そっと背後の書架に背を預けた。
少女は、膝をついて座り込んだまま、タースを心配そうに覗き込んでいる。


こんな可愛らしい少女に、そんなこと命令するなんてどうかしている。


「ミキー、そのシーガさまはここには来れないのか?君が来るより、そいつが来たほうが早いんじゃないか?」
ミキーは困ったように笑った。
「あの、トントは私のこと好きなので、それで私に適役だって。シーガ様が」
「!なんだよ、それ!」


ユルギアは基本的に単純だけれど、だからこそ、怖い存在だ。話しても無駄なことが多い。理屈なんか通じないし、自分たちの感情、つまりユルギアを作り出した思念と同じ感情しか理解しない。時には人を食らうほど恨みや憎しみで凝り固まったユルギアもある。
トントが遊びたいというなら、彼はその感覚しか理解できない。ミキーが何をどう説明したって、お願いしたって、決して協力してくれることなんかない。
シデイラなら分かっているはずだ。
生まれたときから身の回りのユルギアの声を聞いて、姿を見て、まるで隣人のように付き合っていくのだから。
タースは鼻息を荒くして、ミキーのご主人だというシデイラを想像した。
どうせ、ろくでもない男だ!

次へ(7/1公開予定♪)

「想うものの欠片」第二話 ⑦

こんにちは~らんららです♪
実は今日より、平日夜間、PC禁止令が同居人より発令されました(><)なので、小説の更新はタイマー頼み。早朝と週末にのみ、皆さんのところに遊びにいけます…シクシク。なので、コメ返しとか、遅れ気味かもです…許してください!それでも、皆さんのお言葉に励まされて書き続けているのです…コメント嬉しいです、待ってます~♪





「シーガさまは、図書館が苦手ですの。他にも、人の思念がたくさん集まる場所が嫌なんですの。気分が悪くなるですの。だから、代わりにミキーが」
「おかしいよ、そんなの!いいよ、僕が話すよ!さっきだって危うく向こうに引っ張られて連れて行かれるところだったんだ!危険なことさせて!」
「…怒らないでください」
「怒ってるよ。ミキー、そいつに会わせてくれよ。僕は許せない」
少し、けだるかった思考が興奮のためか冴えている。
タースは立ち上がると、ミキーの手を引いて歩き出した。
少女はチョコチョコとついてくる。


「ミキー、ちょっと、待っていて」
タースはミキーの肩に手を置いて、言い聞かせるように言うと、受付のほうにかけていった。その姿をミキーは首をかしげながら見ていた。


シデイラの人は他の人と違う。ミキーはまた、手を握ったり開いたりして感触を確かめた。少年の手に感じるものは間違いなくシーガと同じ感じ。それは、ミキーを嬉しくさせた。


「あらぁ、タースくん、なあに?一緒に帰るの?」
ニコニコして笑うジャムに、タースは怒ったままの表情で言った。
「あのさ、三階に変な奴が出たんだ、捕まえようとしたけど逃げられちゃって。警備の人呼んでほしいんだ。僕、あの子を送っていくから」
「まあ、なあに、そんなことがあったの?警備の人は夜しか来ないから、そうね、誰か男の人に様子を見てきてもらうわ」
「え?ほら、入り口に一人守衛さんが立ってるじゃない」
タースが言うと、ジャムは目を丸くして。声を小さくして耳元で話す。
少し、香水の香りがした。
「タースくんも見えるのね?あれ、ユルギアらしいの。見える人と見えない人がいて、害は無いから放っておくしかないんだけどね」
「ユルギア!?」
「し、大きな声出さないでよ。びっくりでしょ?私は見えないんだけど。お客さんで何人か見える人がいてね。あら、怖くなっちゃった?」
「あ、へ、平気だよ」
「うふふ、彼女の前じゃ、怖がってなんかいられないわね、がんばってね」
真っ赤になったタースを見て、ほら、早く行ってあげて、と手を振った。


「ごめん、待たせた。行こう」
タースは笑顔でジャムに手を振って、それからミキーの背に手を回して玄関を出ようとする。
「あの、どうしたですの?」
「ん、怪しい奴がいてミキーが危ない目にあったって、伝えておいた。崩れた本も直してもらわなきゃいけないしね」
小さくウインクする少年に、ミキーは何だか面白みを感じて、にっこり笑った。


大きな硝子の扉をぎっと鳴らしながら開いて、タースとミキーが外に出ると、ちょうどふわりと風が吹いた。
「君、送っていこうか」


守衛のユルギアだった。
二人を見下ろしている。背の高いがっしりしたおじいさんだ。毎日ここに立っているのを、タースは見ていた。
「あ、大丈夫です、僕が送っていきます」
タースはミキーを背後に隠すようにして、守衛さんから遠ざけようとした。
「まあ、そう言わずに」
おじいさんは帽子を取った。
ぞわりと、タースの背筋に何か走った。


おじいさんは穏やかな顔で少年を見ていた。そして、背後のミキーをじっと見つめた。
「可愛い子だねぇ」
にこにこしながら、強引にタースを押しのけようとする。
「え?」
触れられるんだ!
ユルギアなのに?
考えて一瞬遅れた。
そいつはタースの脇を抜けてミキーのほうに向かう。
慌てて、腕をつかんで引き止めた。


「あ、シーガ様!」
少女の声に、タースが振り向く。隙を突いて守衛がタースの肩をドンと押した。
「待てよ!」
慌てて、タースは守衛を横から引っ張ると、ミキーのほうに向かうそいつに寄りかかるようにしてタックルした。
もつれて二人は玄関の石の柱に背中をぶつける。
「いて、何だよ!あんた」
目の前の守衛を押さえつけて、タースが睨んだ。
「タース!また明日ですの!」
ミキーのあどけなく嬉しそうな声がした。
あれ?


振り返ると、階段の下、黒い小さな馬車から、少女が手を振っていた。
一瞬、その向こうに男の影。シーガ様ってのだ。
馬車は白い馬が一頭。黒い服の小柄な御者が鞭を鳴らし、走り出した。
呆然と、馬車を見送っていた少年に、守衛が言った。
「放してくれんか」
「!あんた、なにするんだよ!それに、そんな格好のユルギア、見たことないぞ」
「何のことじゃ」
老人の守衛はぼさぼさした白い眉毛の下の碧の目をぎらりとさせた。
一瞬、タースはぞくりとする。
ユルギアだよな。タースはもう一度、老人の腕を触る。
「何じゃ、お前。どうしてわしが見える。わしはここにもうかれこれ…」
顔をしかめて放し始めた守衛は、言葉を止めた。
ユルギアに違いない。タースは不思議な感覚にぞくぞくしていた。
過去ユルギアに、触れたのはたった一回。
とても恐ろしいユルギアだった。
後にも先にも、実体を持つユルギアはそれだけで、たいてい、姿があっても実体はなかった。触ろうとしても触れないはずだった。


「かれこれ…」
老人は繰り返していた。
「なんだよ」
「思いだせん」
タースの力が抜ける。
「あの、おじさんはユルギアでしょ?」
「ユルギア?なにをいっている」
「あ、そうか。ええと、どうしてここにいるんだ?」
ユルギアにはこういう聞き方が一番手っ取り早い。自分がユルギアであるという自覚はないうえに、自分のこうしたいという思念だけだから、それ以外のことには理解がない。
守衛のユルギアは首をかしげて、髭の口元を手で覆って考え込んだ。
「どうして…だろうな」
「あの、何かしたいんだよね?目的があるんだろ?」
「ああ、そうじゃな。わしは立っているよ、ここに」
意味が分からなくて、タースはため息をついた。
話す必要もないかもしれない。ただ、そこにいたいだけなら、何の害もない。


「そういえば、どうしてミキーに近づこうとするんだ?」
立っていれば満足なはずなのに、どうしてミキーを追いかけようとしたんだろう。
おじさんは髭をピクリと動かした。
「あ、まあ、ここじゃなんだから、公園に行く?」
見えない人からしたら、タースはおかしい奴だ。それじゃ、まずい。
少年の申し出に、老人のユルギアは胸を張った。
「何じゃ、わしはここにいる」
話が通じない。
「あ、そう。僕はタース。あなたは?」
「わしはここだ」
「ここ?ええと」
少年は守衛の制服の名札を見た。
「レンドル、さん」
「んー!それ、だったか」
もうすっかり、忘れているのだろう。
ただ、ここに立っていたいだけで、目的も理由も。長い年月の間に薄れて、きっと、ただ立っていられれば幸せなのだ。
タースは、目を細めた。
少し、うらやましい気分になる。


「ああ、シーガに会い損ねた。また、明日来るよ」
レンドルはもう、仕事に集中していた。帽子をきちんと直すと正面を向いている。
聞こえないようだ。
タースはあきらめて、自分の本来の用事を思い出した。


アパルトメントから、荷物を取ってこなければいけない。
遅くなると奥さんに心配をかける。
三時のお茶に、ケーキを焼くからと嬉しそうだった。


いつもの公園のジャスミンの香りが鼻について、タースは何となく見渡した。灰色の石を敷き詰めた歩道が園内をS字を描くように続く。それに沿って植えられているマメツゲが丸く刈られた姿を日差しに晒していた。いつもタースが寝転がる木陰がここからだとよく見えた。
いつもの鳩が、その場所を歩いているのも見えた。


ああ、昼休みに見ていた守衛さんは、レンドルさんだったんだな、そんな考えが頭に浮かぶ。ぜんぜん、ユルギアだなんて気付かなかった。


ユルギアは怖いとは思わなかった。それは小さい頃からだ。母親がシデイラだったからかもしれない。それでも、ユルギアが見えることは、そのままタースの混血を表してしまうから、なるべく気をつけていた。間違ってユルギアに声をかけたりしたら、周りの人間に知られてしまうからだ。

ユルギアより、タースをシデイラの混血だと知った人間の方が怖かった。敏感になって、どんな些細なユルギアも見逃さないように、いつも神経を尖らせていた。
なのに、目の前にいるレンドルさんに気付かずに毎日そばを通っていた。


くす、と笑みがこぼれた。
それだけ、僕は幸せだったんだ。この街で、親方の下で働いて。そして、もう隠さなくていい。その上、これからもこうしていけるのだと思うと、寒い日に温かい甘い飲み物を抱え込んで飲むような気分になった。
飲み干さないように、温かさをずっと感じていたくて、抱え込む。
手のひらが温かくなった。

遠く、機関車の汽笛が響いていた。

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「想うものの欠片」第二話 ⑧




その夜、夕食の手伝いをタースがしていると、ライラが学校から帰って来た。
「お帰りなさい」
そういったタースに、ライラは少し口を尖らすようにテレながら、ただいま、と言った。
「別に、あなたのために早く帰って来たわけじゃないから」
誰に聞かれてもいないのに、ライラはそう言うと、自分の部屋に駆け込んだ。
皿を運びながら首をかしげるタースに、エイナはくすくす笑っていた。


「でな、工場長さんが俺の作ったもんをみて、なんていったと思う?」
皆での楽しい食事は終わりに近づき、ワインを飲むセルパは上機嫌だった。
赤い顔で嬉しそうに語るセルパに、ライラが冷静に言った。
「お父さん、それ、三回目。もう答えも分かってるし、つまんない。タースも困ってるでしょ?酔っ払ったなら大人しく寝ちゃってよ」
想像以上にきつい言い方をするライラに、タースが目を丸くしていると、エイナが皮をむいた梨をテーブルに置きながら言った。
「ライラ、タースがびっくりしてるわよ」
「え?何が?」
自覚がない少女に、タースは言いようがなくてあせる。
「あ、え、いや、親方もライラには適わないんですね」
「え?どういうこと?」
ライラが眉をひそめて、タースを見上げた。少し上目遣い。
先ほどセルパのワインをグラスに一杯もらっていたから、酔っているのかも知れなかった。
「ええと。ほら、ライラ可愛いから」


全員が黙って、タースを見つめた。
「あ、あれ?僕、変なこと、言いました?」
さらにあせって、タースは三人の顔をかわるがわる見つめた。
セルパはじっと少年を見ていたが、手元にあったワインのボトルを掴むと、手に持っていたグラスに並々注いだ。ワイン用のグラスではない、水を飲むものだ。コップ、だ。それにたっぷりと、赤い色が揺れる。
それから、それを、どんと少年の前に置いた。
「え?」
「飲め」
「ええ?」
「男だろ!」
タースは助けを求めるようにエイナを見るが、エイナもにこにこして、もう、十五歳だからね、と笑った。
十五歳から、家での飲酒は許される国だ。通常、家庭内なら保護者が一緒だからだ。
「美味しいのよ」
ライラが自分のグラスを揺らしてみせる。
タースは、目の前の揺れる赤い液体をじっと見つめた。
実際、感覚の鋭い少年には、すでに強いアルコールの匂いが心に警鐘を鳴らしていた。


これを飲んだら、どうなるんだろう。


コップに、手を添えて。
もう一度、三人を見る。
期待に満ちた視線を感じて、タースは目をつぶった。
一気に、飲む!
つもりが。
むせた。
三人が楽しそうに笑うのを聞きながら、タースは目を回していた。


「弱いなぁ」
セルパの言葉に、エイナは笑った。
夜風が冷たくなってきていたので、窓を閉める。
二人はタースの部屋にいた。
セルパが酔っ払った少年を、ベッドに運んだのだ。
少しだけ飲んだワインで火照っていた顔も、今は落ち着きを取り戻しているようだ。本来のヤマツツジの白い花の色に戻っていた。少し長めの黒い前髪が頬にかかる。
エイナが、少年に毛布をかけた。
廊下からの小さなランプの明かりだけだが、静かに眠るタースの穏やかな顔が見て取れた。
「あなたとは違いますよ。まだ、子供ですし。こうして見ると可愛らしいわ」
「ふん、だけどな、男だ」
「あんまり、無理させないでくださいね。ライラとのことだってタース君に知れたら、居心地の悪い思いをさせてしまうでしょ?余計な気を使わせたくないわ。私たちが勝手に期待しているんだもの」
「ふん、けど、俺は、こいつならライラを任せてもいいと思ってる。こいつだって、まんざらでもないぞ、ライラのこと可愛いって言っていたからな」
「はいはい。さ、あなたももう寝たほうがいいわ。何だかんだいって一番手のかかる酔っ払いなんだから」
「リックみたいなこと言うな」
「はいはい」
セルパはエイナに支えられながら、階段を降りて言った。セルパは酔っている時だけ長男の名前を出す。
「あいつは、なんで出てったんだ」
「あなたが、後を継げって、大学には行かせないって、怒鳴ったからでしょ」
「…出てくことはないんだ、出てくことは」
「はいはい」
エイナは笑った。



「タース、昼飯だ、来いよ」
セルパがそう言って、工具をしまっているタースの肩を叩いた。
親方は昼には家に帰って食事をする。そして休憩を取って午後三時からまた、働くのだ。
「あ、はい、あの。僕、ちょっと図書館によってから…」
「なんだ、お前、図書館?」
ちょっと意外な顔をして、セルパは少年を見た。
「あの、僕、将来建築士になりたくて。いつも昼休み、図書館で本を読んでいるんです」
「ふん、勉強か」
親方の顔が曇る。
今までこの話はしたことがなかっただろうか、タースは首を傾げる。
「いいから来い。昼飯は皆で食べるもんだ!食ったら休憩する!ただでさえお前、伸び盛りなんだから、今無理してたらダメだ。必要な本なら買ってやる」
「あ、ええと」


タースはミキーのことが気になっていた。もちろん、ミキーのことがなければ建築の本を読むのだから、嘘は言っていない。買ってやるといわれても、そんなに安価なものばかりではない。図書館で好きなものを読めるのが、気楽でよかった。
どう断ろうか、迷っているタースにセルパは噛み付くように言った。
「建築士だなんて、お前、大学にでもいくつもりか?」
「え、あの、出来たら……」
「無理だ、お前今学校行ってないだろ?夜間でも行っておかなきゃ、大学の受験が出来ないだろう」
「あの、だからお金をためて、ミドルスクールの夜間に通って、それから受験資格取って……」
「無理だ」
頭ごなしに言われて、タースは黙った。
困難なことは分かっている。


「さ、昼飯だ。帰るぞ!」
強引に親方に引っ張られ、タースは重い足取りで家に向かった。
途中親方はずっと、俺がお前くらいの時は、と修行時代の話をしていた。親方はミドルスクールまでで、それ以上の学校へは行っていなかった。それでも腕さえあれば何とかなるもんだ、と。
タースは、数回、図書館のレンガ色の建物を振り返る。


今日もミキーは来ているのだろうか。
また、あのトントとかいう奴と交渉するのだろうか。
無駄なのに、危険なのに。


昼食の間中、少年が静かなので、エイナは何度も熱を測る。
「熱はなさそうね、食欲がないの?」
しきりとかまうエイナに、セルパはぶっきら棒に言った。
「ほっとけ、今日は午前中、きつかったからな。疲れたんだろ。昼寝して、午後の仕事に備えろよ」
先に食べ終わって、少年の背中をバシバシと叩いて、セルパは自分のお気に入りの昼寝場所、庭の木陰に向かった。
それを見送ってから、エイナはタースの顔を覗き込んだ。
「どこか、悪いの?」
「あ、いいえ。大丈夫です」
タースは、エイナが心配そうなので、目の前の食べかけのピザを一気に口に運んだ。
食べて、ジュースで流し込んだ。
「あら、無理しちゃダメよ」
むせる少年に、エイナは笑いながら背を叩いてくれた。
涙が出そうだ。
「いつまで食べてる!来いよ」
親方に呼ばれて、庭にしつらえたデッキにあるイスに座って、一緒に昼寝をした。
昼下がりの木陰で、ロックチェアの緩やかな動きに前髪が揺れるのを感じながら、タースは目を閉じる。
程なく、隣から、低いいびきが聞こえてきた。
目を開けて、少年は空を眺めた。


遠く見える駅の時計塔。鳩が飛んで、風が吹く。
ミキーのことを考えると、鼓動が早まる。
何度も目を閉じるが、眠れそうになかった。

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「想うものの欠片」第二話 ⑨

らんららです!本日、職場の健康診断です!久しぶりに体重を量ってみて…去年と変わってなくてホッと一安心♪




午後の仕事がひと段落したところで、セルパは工場長と届出のためにお役所に出かけることになった。新しい油圧機械を導入するための、輸入に関する手続きらしい。
また、隣のティエンザ王国から買うのだ。
二人を見送ると、タースは慌てて仕事を片付けて、先輩に断って図書館に向かった。


あのユルギアの守衛、レンドルさんはいなかった。
タースは不思議に思いながら、いつもの扉を開いた。

「あら、めずらしいじゃない!こんな時間に。今日は来ないかと思ったわ」


ジャムさんが笑う。その背後の彼女の上司だろう、ちょび髭の男が咳払いした。
普段、昼には休憩しているのだろう、見かけない顔だ。
タースはぺこりとお辞儀をして、ジャムさんには小さく手を振って笑うと、三階に向かった。


耳を澄ました。
また、何か聞こえるのではないかと。
今日は静かだった。


返って不安になる。


あのトントの巣がある辺りに向かう。空気が重い。


「ミキー?」
狭い書架と書架の隙間に人影があった。
「!レンドルさん!?」


守衛のユルギアはそこにぼんやり立っていた。
「何してるんですか?」
「あ、ああ、立っているんだ」


がく、と力が抜ける。
「場所が違うと思うけど?」
少年が腕を引くと、守衛の足元に本が散らかっているのが見えた。
「!?あ、まさか!ミキーは?あの女の子は?」


レンドルを押しのけて、この間の本棚の隙間をのぞく。真っ黒い煙がたまっているかのようにどろどろしている。
「レンドルさん!」
「あ。ああ、あの可愛い子。いいねぇ、何処行っちゃったかな」
「もう、いいよ!そこにいて!」


タースは、床に膝をついて、本棚の黒い隙間を覗き込んだ。
そっと、黒い煙のようなものに手を差し出してみる。
生ぬるい温かさを感じて、顔をしかめる。
もっと、奥に手を入れてみる。
腕のほとんどを入れても、棚の背板には手が触れない。
「ミキー!」
声をかけても、反応がなかった。
「トント!おい、出てこい!」
やはり何も起こらない。


タースは、ごくりと唾を飲み込んで。
顔を暗がりに突っ込んでみた。
何となく息を止めて、目をつぶった。
とたんに、ぐん!と引っ張られる感覚。
「うわー!」
後ろで誰かが足を引っ張ってくれたけれど、それも無駄だった。


目を開けると目の前は真っ暗。
何処まで続くかわからない穴の中に落ちていった。



「やーだなー!こいつ、呼んでないのに」
とん、と何かが腕を叩いた。
目を開けると、目の前は金色だった。
「?」
手を伸ばしてそれに触る。


「うや!触んなバカ!」
それは柔らかいふさふさした毛皮だった。
むぎゅと掴むと、逃れようとして、ばたばたと暴れる。


「ああ、トント…お前も、実体があるんだ」
タースは体を起こすと、頭を振った。
「ああじゃないよ!お前、呼んでないのに来るな」
ネズミはタースに掴まれた腹を大切そうになでながらひげをぴんぴん動かした。


「あ、ミキーは?」
膝を地面らしきところについて、タースがトントに触れようと手を伸ばすと、トントはびっくりしたように飛び上がって、よけた。
「ね、ミキーを知らないか」
「お前は、遊ぶのか?」
「え?」
「遊ぶ?」
トントは二本の後ろ足で立ったまま、尻尾をぺしぺしと揺らしていた。
その耳は興味深そうにぴくぴく動いて。


「ああ、お前ユルギアだったね。遊びたいの?」
金色ネズミはものすごい勢いで頷いた。
目が廻るんじゃないかと思うくらい何度も頷くので、タースはその頭を
ちょんと片手で押さえて止めた。


「じゃ、かくれんぼ。僕が鬼だから、トント隠れて」
「うん、うん!ほら、目を閉じて!十数えるんだよ。おいら、かくれんぼは得意だぞ」
「ああ」
タースは真っ暗な中、その場で顔を両手で覆うと、大きな声で数を数え始めた。


「よおし!!まだだめだぞ!数え終わったら、ちゃんともういいかいって言うんだぞ」
必死な様子のトントに、思わず噴出しながら、タースは頷いた。
「ほら、じゃあ、一からだ」
「いーち」
既にトントの気配は消えた。
「にー」
「さん」を数えたとき、タースは顔を上げた。そっと見回す。


暗いけれど、よくよく見ると低い天井はぬくもりのある紙で出来ている。丸い巣穴。トントが去っただろう方角に穴が続いている。
タースは続けて数を読み上げながら、そっと膝をついて這って行った。
穴はすぐに二股に分かれている。
右を選んで、タースが進むと、ぼんやりと明るい、丸く広くなった場所に、何かがいた。
数はまだ六。
タースは手前で止まって七を数える。
目の前のそれは、もそもそと動いた。
「!?」


さほど広くない、大人の人間なら一人が精一杯の通路に、それがこちらに向かって動いてくる。
慌てて、這ったまま後ろに戻ろうとする。
「きゅう」


そいつはのそのそと近寄ってくるが、タースの存在には気付いていないようだ。一定の速度で、迫ってくる。
分岐のところまで戻って、丁度、十を数えた。


「捕まえた!」
「うん?」
それは、男の後姿。黒いズボンの尻、黒い靴。振り向いた。
「レンドルさん!いつの間に?」
「ああ?」
守衛のユルギアは照れたように笑い、手に持った帽子を振って見せた。それも、狭い通路の中、膝と手を地面についた格好のままだ。

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「想うものの欠片」第二話 ⑩

10


「レンドルさん!?何してるの?」


「立って……」
「ないよね。ミキー、いるの?」
「見つからない。かくれんぼしたままだよ。あの子いいなぁ」


タースはレンドルの脇を這ったまま、すり抜けようとして、無理やり押しのける。狭い紙製の通路はゆらりと全体が揺れるような気がした。
「おいおい?」
「ちょっと、通してくれよ。もうちょっと向こうへつめて。ミキーはどこ?もっと奥なのか?」
強引に抜けた少年を見つめて、レンドルは笑った。

「探すのかい」
「ああ、あの、あなたは立っているのが仕事じゃなかったの?どうしてミキーに興味を示すんだ?」


薄暗い中、レンドルの顔が赤くなった。
「あの子は可愛い」
「……あ、そう」


バカらしくなって、タースはレンドルを放っておいて、穴の奥へと進み始めた。
入り組んだ紙で出来た通路は時に登ったり、下ったり。ずっと這ったままなので、ついた膝が痛み出す。


「ミキー?」
小さな声がどこかで聞こえた。
止まって、周りを見回した。背後にいつの間にかレンドルが付いて来ていた。
「何だよ、気持ち悪いな」
「まあまあ、わしゃ、これでも若い頃は」
「立ってたんだろ、あそこに」
タースは適当に相手をしながら進み始める。
「若い頃は兵隊じゃった。こうやって穴を掘ってナ、腹ばいになって進むんじゃ」
「ふーん」
何か思い出したのか。
「あの子はいつも図書館に通っておった」
「ふーん」支離滅裂だ。
「可愛い子じゃった。わしは約束したんじゃ、必ず帰ると」
「それで?」
可愛い子ときいて、タースは少し興味がわいた。出征の間、恋人が待っていてくれたんだろう。
「わしは帰った。じゃが、あの子は帰らなかった」
「え?」


タースは止まって、後ろを振り返る。どんとお尻を押されて、転びかけた。
「いて、レンドルさん、ちゃんと前見ててくれよ」
「行方不明だった。わしは図書館で、待つことにしたんだ。ずっと、毎日、毎日、立って、あの子を待っておった」
タースは、レンドルがうつむいたままなので、その場に座り込んだ。
体の向きを変えて、年老いた守衛を見つめた。
帰ったときに、レンドルさんが生きていたかは怪しいな、タースは彼の様子をじっと見ていた。時々、ぞっとするほどやつれて見える。生々しいキズが見えたり、きれいな優しい笑顔に戻ったり。あまりユルギアの中身を見たいと想わないのだが、話を聞いてしまったために、自然と意識が探ってしまうのだろう。
切ない気持ちも、感じられて。
タースはこういう話に弱かった。


「今でも、待っているんだ?」
少年の言葉に、レンドルは顔を上げた。
「そうじゃ、待っておった。わしは、ずっと」
「そう、いつの間にか待つことじゃなくて、立つことが目的になったのかもね」
額の汗を拭いて、タースが笑った。
その表情に、レンドルは大きな目を何度も瞬き、それから、タースと同じように上半身を起こした。かぶっていた帽子を取った。
「相手の人も、どこかで待ってるかもね」
少年の言葉に、レンドルは呆然と見つめたまま黙りこんだ。
「どうしたの?レンドルさん」
「待っている」
「レンドルさんって、本当に不思議なユルギアだよね。実体はあるし、自分の思念を忘れちゃうなんて、普通ユルギアはそれだけは忘れないのに」
「待っている?」
「うん、きっと。その人も多分、死んじゃっているけど」
ぐらりと、揺れた。
レンドルさんが立ち上がろうとして天井をぐんと押した。
「死んでいる?待っている?」
「うわ、ごめん、わかんないけど!暴れないでくれよ!壊れるよ!ここ、紙なんだから!」
「ぎゃー!何すんだ!お前何してる!」
背後からドンと何かに押されて、気付くと目の前にトントが立っている。
「壊すな!おいらの家だぞ!壊すな!!」
細い小さなネズミの手が背中をとんとん叩いた。
「ほら、僕じゃなくて、そっちのおじさんが」
「お前、壊すな!」
金色ネズミがレンドルの相手をしている間に、タースは急いで奥へ進む。
目的はミキーだ。ユルギアはああして、同じ思念を何十年と抱えている。数分付き合っただけですべてを解決できるほど、簡単なものじゃない。あまりのめりこむと、こちらの心が痛くなる。
ユルギアの話を聞いて同情なんかしている場合じゃないんだ。


「ミキー?」
耳を澄ます。
かすかに何か聞こえる。
紙を、破る音のようだ。
タースは入り組んだ狭い通路を、乾燥した手触りの紙の床を這っていった。
二つ目の分岐で左を選んで、少し下って。
その先に、少女はいた。
丸く広くなったそこに、立って天井に手を伸ばしていた。


「ミキー?何してるんだ」
「あ、タース。見つけましたの!これなんですの」
少女が天井を指差した。
覆うように張り巡らされたたくさんの紙、よく見ると文字が書かれているから本のページをちぎったものだろう。
手書きの文字が並んでいる。
ミキーはそれを背伸びしながらちぎり取っていた。
「届かないですの」
「これ?」
「タース、大きいですの」


タースは天井のミキーが剥しかけた本のページをそっと引き剥がした。
それは古い小さな手紙のようだった。半分は千切れている。走り書きの文字で、短い言葉が書いてある。


「神のご加護を。…どうかこの子に。名はシーガ。…どうか、お守りに持たせてください」


読めるところだけ読み上げると、ミキーが首を傾げる。
「タース、それ、下さい」
「あ、ああ。これなんだい?シーガって書いてあるけど」
「シモエ教区の保護施設の記録ですの。二十二年前、神暦482年ですの。シーガ様はご自分のご両親を探しているですの。差出人とか、署名とかないですの?」
ミキーは紙切れを受け取ると切れていることに気付いて、顔をしかめた。そんな顔も可愛らしい。
「どこかにあるよ、きっと」
タースは何となく興味がわいて、天井を見上げる。


「お守って、なに?今も持っているの?」
「シーガ様の大切な石ですの。拾われたときに握っていたんです。青い透明な綺麗な石を。それが何かの手がかりになると、そう思っているですの」
「青い石……?聞いたことないな。宝石じゃないんだ?」
言いながら、タースは天井の紙切れ一つ一つを順に指を差しながら確認していく。
「はい。小さな丸い石です」
「ふうん。シーガを拾った人はお母さんとかを見てないの?」
「わからないですの。シーガさまは聖堂で拾われて、そのまま聖堂で育てられましたの。今も義理のお母様がいらっしゃいますの」
「ふうん。でも、これ、シモエ教区のだって?」
「はい、シーガさまのお義母さまは偉い方ですの、だから、特別に聖堂で育てられましたの。法律でシデイラの方々はシモエ教区に行かなくてはならないから、保護された記録だけは保護施設に置いてあったですの。でも、十年前保護施設で事件があって、資料をこちらに移したそうですの」
タースは考えていた。
捜す親がいるだけ、いいのか。
それとも会えないのなら、死んでしまったのと同じ、かな。


二人は首が痛くなっても、一つ一つの紙切れを見て廻った。
足元の紙が時折薄くて、破りかけたり、引っかかって転びそうになりながら。
不思議なトントの巣穴は温かくも寒くもない。暗いけれどじっと目を凝らすと文字も読める。意思の力で、変えられるのだろうとタースは思った。
何しろ、思念だけのユルギアが作り出す空間だ。
試しに求めるものを頭に浮かべてみた。見つけられるかもしれない。
が、何も分からなかった。そう都合よくは行かないんだな。


「はあ、疲れたですの」
背後でミキーが座り込んだ。
「もっと、違う場所なのかな…」
「んー、なかなか大変ですの」
「そうだね、大丈夫?」
「タースは、優しいですの。お手伝いしてくださる」
「ん、ああ。まあね」


自分がどうしてそこまで、シーガの探し物を手伝っているのか、ふと疑問に思いながら、タースは固まって痛む首を回した。
「見いつけた!」
金色の塊がトンと、タースの腰にしがみついた。
「今度はタースが鬼だ!」
トントは尻尾をぱたぱたさせながら、見上げた鼻をひくひくさせて嬉しそうだ。


かくれんぼが続いているのか。
タースは何となく憎めない気分になって、トントの頭をなでた。丁度、小さな子供のようだ。このくらいの背だったら、六歳くらい、かな。小さな男の子の姿を金色ネズミの姿に重ねて、タースは膝を曲げて視線を合わせた。
「な、トント、今度は宝探しだよ」
「宝!!探す探す!」
また頭を何度も頷かせるので、止めてやる。

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「想うものの欠片」第二話 ⑪

らんららです♪前話、拍手いただき、ありがとうございます♪(どうやって感謝を表現しようかと想ったのですが、こうしてみました^^)嬉しいです~(><)喜んでくださる方がいるんだなって、勇気がわきます!がんばります!

11


「あのね、これ、宝の地図」
「!?これ?」
タースがミキーの手にあった紙切れをトントに見せた。


「ほら、ここから下にね、青いきれいな石のことが書いてあるんだ。それはとっても大切な石なんだよ。宝物だ」
トントは首をかしげた。
「分かる!おいらそれ、大切にしてる」
「え?」
「ほらほら!」
腹の辺りの毛皮を、自分で探ると、中に隠れていた首飾りを取り出した。
青い石のついた、首飾り。
それは、よく聞く宝石とは色が違った。透き通っていて、まるで海を閉じ込めたような、穏やかな青だ。
「なんで、それ、持ってるんだ?」
「へへ、おいら、図書館の隅で拾った」
「それなら、わしも」
「え?」
振り向くと、レンドルさんも守衛の制服の襟についた青い石をちらりと見せた。
「よし!宝探し!一番に見つけた奴が勝ちだ!」
言うなりトントは、鼻をひくひくさせながら、まるっきりネズミのように床を這い出した。
「ようし、ミキーもですの!」
少女も壁のあたりを丹念に調べ始めた。


レンドルはじっと、自分の石を見ていた。
ここに二人も石を持っている人がいる。珍しいものじゃないのか。
タースはレンドルの石を見つめた。
「レンドルさんは、どうしたの、それ」
タースの問いに、守衛のユルギアは照れたように笑った。


「あの娘にもらったんじゃ。出征の前じゃ。懐かしいのう、貴重な石を」
「それ、何なんですか?」
「知らんのか。これはシデイラが作る石じゃ。めったに出回らん。有名じゃろう?神の涙とも言われる、涙愛とかいての、ルリアイという」
聞いたことはない。見たこともない。
有名なはずはない。
知っていればシーガが探す必要はないのだ。
まだ聞きたそうな少年にレンドルは話し始めた。
「優しい娘でな」
「ええと、石のこと聞きたいんだけど」


「わしがまだ二十二のころじゃ。出征前にわしはあの娘に指輪を渡したのじゃ、メノウの指輪を。その店に行くと必ず奥の棚に飾ってあったルリアイを、店番に慈愛のルリアイと聞いてわしに贈ってくれた」
「慈愛のルリアイ?」
「ルリアイはシデイラの純粋な心が作り出す涙。奇跡の涙じゃ。一番多いのは母親が子供を産み落としたときに流す涙。我が子を思う母親の愛情の塊のようなものじゃ。それが慈愛のルリアイ。わしら人間にはよく分からんが、シデイラの作るルリアイには力があるという。だから、お守りとして好まれた」


「……レンドルさん、生まれたのいつ?」
「うーん。帝国が、誕生した年だったかの」
「!?レスカリア帝国!?それって、五百年前……」
言いかけてタースは口をふさいだ。


レスカリア帝国はこの大陸から船で一週間旅した先にある。大きな島国だ。神の使徒であるといわれる神王が皇帝だ。
この世界の宗教を統一した国。


宗教の頂点に神王がいるとされる。国自体が聖地のようなもので、これまで聖職者のみが渡ることを許されていた。謎に包まれた国だったが、最近、蒸気船と飛行船の航路が出来てから、だんだんとその様子が報道されるようになってきていた。
確か、レスカリア帝国は五百年くらい続いていると聞く。


レンドルがじろりと少年を睨んだ。
「なにを、言っとる。そんなはずはないぞ」


やっぱり、彼の探し人はきっと亡くなっている。そう、はるか昔に。
ひげをなでながらしげしげと少年を見ている老人に、タースは同情せずにはいられなかった。そんなに長い間、一人っきりで、ただ、立っていたのか。


「なんじゃ、その目は」
「いいえ、なんでもないです。レンドルさん、淋しくなかったですか」
「なにがじゃ?」
タースは老人の肩を優しく叩いた。怪訝な表情をしているレンドルさんに、タースは寂しさを感じる。
大切なものを失った悲しさも、一人で待つ淋しさもなくなっている。
ただ待っているだけで幸せだ何て、考えた自分がひどく情けなかった。


「あった!」
陽気なトントの声に二人は振り向いた。
「見てみて、見て!!これだよ、これ!おいらが一番だ!ほら、ほらぁ」
ネズミは壁の上の方に張り付いた紙を、背伸びしてそっと、はがそうとする。
「トント、僕が取るよ」
「やだやだ!おいらが見つけたんだ!おいらが取る」
そっと、そうっと、はがそうと、金色ネズミは小さな手をせいいっぱい伸ばす。


「あ!」
ミキーが驚いたように立ち上がった。
「うわ!びっくりした!びっくりして、破っちゃったじゃないか!!」
トントが手にした紙を振り回して怒った。


ミキーは何か他の事に神経を集中している。
「シーガさまですの!」
「え?シーガ?」
「ぎゃー!しまった!おいら、おいらってば、穴開けちゃった!」


トントの剥がした所から、中の空気が吸い込まれていく。
トントは慌てて塞ごうとその紙を元のところに戻そうとした。それは一旦張り付いたものの、くしゃっと丸まって巣穴の外に吸い出されてしまった。
「ああ!お手紙が!」
ミキーが慌ててそこに駆け寄る。
「うわ、へこんできた!ミキー危ないよ!」
ぎしりと、通路が傾いて、天井がぺこんと凹んだ。
「トント、直せないですの?お手紙はどこに行ったですの?」
「おいらの基地なのに!やだやだやだ!!」
気圧が下がったかのように、紙で出来た巣穴はさらに押しつぶされるようにべこりと天井を下げた。トントは凹んだ天井を押し上げようと手で支えようとした。
しかし、すぐに別のところがぺこんと凹む。
「やだやだ!おいらの基地が!」
混乱したのかトントはあちこち押し返そうと走り回る。けれど、トントが離れればそこはまた凹んでいく。
壁も狭まった。タースの足元の床も盛り上がる。
「危ない!出るんだ!」


タースはミキーの手を引いた。
「トント、お前も!」
後ろを這って進もうとするレンドル。トントはまだ、混乱して走り回っていた。
「トント!」
タースの声に、レンドルが振り向いて、トントをぎゅっと捕まえた。
「やだやだやだ!おいらの基地なんだ、おいらの大切な!」
「トント、基地がなくても遊べるよ!ほら、外でも鬼ごっこできるんだ、さ、早く!」
レンドルの手を引き剥がそうとして暴れていた金色ネズミは、そこでぱたっと動きを止めた。
「お前、外でも遊んでくれるのか?」
今度はレンドルを押しのけて前に出るとタースの背中に張り付いた。
「ああ、分かったよ、な、だから外に出よう!どっちが早く出られるか競争だよ」
「競争!!分かった!おいら早いんだ!行くぞ」
そう叫ぶなり、トントは通路を走り出す。さすがにネズミ、四足なら素早い。
タースはミキーを庇いながら、頭を押さえつける天井を押し上げて進む。柔らかいくせに押し戻してもまた直ぐ凹むそれのせいで、なかなか進めない。
「気をつけて、ミキー!」
「怖いですの」


巣全体が軋む。ぐらりと揺れたようだ。
「うわ!」
トントの声。
正面で、凹んだ壁と壁の間に、トントが挟まっていた。
「トント!」


助けようと手を伸ばそうとするが、ミキーをかばうので精一杯だ。
レンドルが背後からタースの脇の壁を押し広げてくれた。
柔らかくなった床に足を取られながら、タースはミキーを抱きかかえるようにしたまま、二歩。
手を伸ばそうとする。
「助けて!」
「もうちょっと」
後ろでレンドルがすぐに戻ってくる壁に業を煮やした。
「うおー!!」と怒鳴ると、締め付ける壁の一部を掴む。
「レンドルさん!?」
ビリ!
壁が、引き裂かれた。


「うわ!だめだよ!ばか!」
タースの声は遅かった。
レンドルの裂いた場所から一気に通路が萎んで行く。
タースはミキーを守ろうと、少女を抱きしめた。
周りの紙が迫ってくる。圧迫されて、苦しい。


「ミキー……大丈夫だから」
「タース」
腕の中で、少女が震えた。軽くて柔らかい体を守ろうと、タースはぐっと背中に力を入れる。息が苦しい。
「タース、タース、大丈夫ですの?」
「ん、大丈夫……」


紙の匂い、トントが何か叫んだ。
実体のないユルギアなら問題はないのかもしれなかった。
しかし、彼らには実体がある。
物理的に壊されてしまうことがあるのだろうか。
それは、僕らも……。
タースは目を閉じた。


耳に、何か響いた。
靴の音?
少年はうっすらと目を開けた。
目の前に、小さなネズミが首をかしげて立っていた。
白い、普通のネズミに見えた。
「?トント?」
手を伸ばすと、そいつはキーと鳴いて、走り去った。


「バカですね…」
聞き覚えのない声を聞いて、タースは飛び起きた。

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「想うものの欠片」第二話 ⑫

12


図書館のあの場所だった。両側の本棚を見上げて、その谷間の向こうに男が一人立っていた。腕には、少女が横たわっている。
「!ミキー!」
立ち上がって、一歩歩こうとしてよろけた。
棚に手を着いて見上げる少年に、男は冷たい視線を向ける。


「あんた、シーガなのか?」
青年はひどく綺麗な顔をしていた。白く冷たい肌、愁いを帯びたような翡翠色の瞳。銀の髪は長く伸ばされ、背で一つにまとめられている。上質な黒のシャツにベスト。背が高い。
「そうですが」
「あの、あんたが助けてくれたのか?」
青年は何も言わずただ、黙っている。不機嫌そうなしわが眉間に刻まれていた。
タースは見回した。レンドルの姿も、トントの姿もない。足元に、レンドルの守衛の制服が落ちていた。

「あ、レンドルさんは?トントは?」
「…ユルギアを名で呼ぶとは」
バカにしたように笑う青年に、タースは顔をしかめた。
「別に僕の勝手だ。二人はどうしたんだ」
「眠らせました」
「え?」
「消した、と言えば分かりますか?」
シーガはそう言って、ミキーを片手で抱えると、左手を開いて見せた。
青い石が二つ、ブローチになったもの、ネックレスになったもの。
トントとレンドルさんが持っていたものだ。
 

「ルリアイ……」
「なんです?それは」


青年はその言葉を知らないようだ。五百年前にはその名前が当然のように知られていた。ルリアイ、石の名だ。


「レンドルさんは知ってた。この石がなんなのか。なのに、消した?」


タースの睨みつける視線に少しだけ、目を細めて、シーガは言った。
「ユルギアが素直に眠るなど珍しいことです。私が来た時には既に、ユルギアたちは消えかけていました。私がしたというより、お前がしたのでしょう。ネズミに取り付いた少年のユルギア、制服をまとった老兵のユルギア。どちらもたまたま、石を持っていたがために実体を持った。本来あるべき姿に戻したのはお前です」
「どういうことだよ!」
「あれらの思念を打ち消すような何かを、お前が与えました。私に分かるのはそれだけです。私のせいにされても困りますね」
「なに言ってるんだよ!石がほしかったんだろ!だいたい、あんた、自分の親を探すのにミキーを使うなんて、こんな危険なことさせるなんて、どうかしてるよ!」


シーガは小さくため息をついた。
「お前には関係ありません。まったく、こんな気分の悪い場所に呼びつけて」
「……ごめん、なさい」
青年に抱きかかえられた少女は小さくつぶやくように言った。
「ミキー!」
タースが駆け寄ると、シーガはくるりと向きを変えた。
「近寄るな、雑種くさい」
「ざっしゅ!?」
タースは一瞬何のことか、飲み込めなかった。
雑種…。
去っていくシーガの綺麗な銀色の髪が揺れる。
保護区以外で本物のシデイラを見るのは初めてだ。
母さんと同じ、翡翠色の綺麗な瞳をしていた。
雑種……。
僕のことか!
そこで初めて、混血のことを言われたのだと気付いた。
むっと腹の奥が熱くなった。
「あいつ!」
既に、男の姿は無い。


シデイラの血を引くと、疎まれたり蔑まれたりすることは今までもたくさんあった。けれど、本物に雑種だとバカにされる筋合いはない!シデイラの血を引くために、どれだけ苦労していることか!


タースは階段を駆け下りる。
シーガは既に図書館の扉を開いて、外の日差しの下にいる。
ジャムさんがこっちを見ているのをちらりと視界の隅に感じながら、飛び出した。
「待てよ!」


門の前に小さな黒い馬車。シーガは既に乗り込んでいた。
タースが階段を駆け下りる。
走り出した馬車を悔しそうに見送る少年に、誰かが声をかけた。
「タース!」

振り向くと大柄な、作業服の男が立っていた。
「!親方…」





夕食も大人しいタースに、エイナはパンのお代わりを確認する。
タースは黙って首を横に振った。


親方に説明しようとしたら、この間と同じ口調で言わなくていい、と言われてしまった。
怒っているのは分かった。
仕事を済ませたにしろ、親方の許可を得ずに図書館に向かった。
すぐに戻るつもりが、気付いたら仕事の時間は終わっていて、心配した親方が探しに来たのだ。


タースは黙って親方の後について帰って来た。
親方は言った。
「図書館には行くな」
それが、タースの何を止めさせたくて言っているのかが、分からない。
勉強して大学に行きたい、それがいけないのか。
仕事を抜け出すのがいけないというのだろうか。
それとも、タースの様子から、シデイラに関係する何かだと勘付いているのだろうか。


どちらにしろ、タースには逆らうことは出来なかった。

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