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18世紀のフランスってこんな世の中①

まだまだ、仕事の忙しさは続いていますが。

そろそろ、新しい作品の準備に取り掛かっていて、資料を読んでいます。

18世紀フランスに似た世界(笑)が舞台。その頃はどんなものを食べ、どんな服を着ていたのかとか。
どんな建物に人々は住んでいたのか。
知りたいことは山ほどあるのに、まだまだ分からないことだらけ。

でも、新しいことを一つ知ると、妄想が膨らんでどきどきしちゃいます♪

世界史に詳しい方には今更、という知識でも、らんららは高校で「世界史」を選択しなかったので、一切勉強したことがないのです。
それこそ中学生レベル。一番苦手だった歴史の授業。それでも、物語を書くためにはがんばれたりするから不思議です。

世の親御さん、お子さんには物語を書かせる、どうです?様々な知識が欲しいと感じれば、自然と勉強するようになるのでは~?

フランスで「学校」、誰にでも等しく学ぶための初等教育が始まったのがどうやら18世紀。
フランス革命より少し前のようです。
宗教改革でプロテスタントが派生したために、カトリックとプロテスタントの双方は信者争奪戦になった。
信者になってもらうにはまず、聖書が読めなくてはいけない。当時の聖書はラテン語。日々はフランス語ともいえないような方言ばかり。生活に関係ない言葉を学ぼうなんて、余裕のある貴族やブルジョアしかいなかった時代です。
貧しい子どもたちに聖書を読ませるため、それが学校の始まりでした。

「子ども」を「大人と違う扱いの必要な存在」として認識されはじめたのもこの時代。親が子どもを学ばせる、学校にやる、という習慣が出来たのもこの時代。
それまでは単なる大人予備軍で、成長し働けさえすればよかったわけです。

それを思うと、現代社会は子どもたちに多くを与え、多くを望む。

それが幸せかどうかは、ま、分かりませんが♪
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18世紀フランスってこんな世の中②

ただ今がんばって執筆中です♪

今日はらんららの参考図書のお話。

『フランス革命史』ジュール・ミシュレ著

ミシュレさんは実際にフランス革命期に生まれた方です。パリの印刷工の息子として。貧しい中、一族の期待を背負って学校に入り、二十一で文学博士となった人物。
もともとが貧しい家庭で育っていたからこそ、そこに生きていた普通の人々にとって、フランス革命の時代とはどんなものだったのか、が生き生きと語られるのです。

らんららの知りたいのもそこにありますからね。

「パレ=ロワイヤルで、市役所でおこったことは知られている。しかし、人民の家の炉辺でおこったこと、それこそを知らねばならぬ」とミシュレさんは語ります。

「炉辺で、めいめいの人民が心の中で過去に対して最後の審判を下したのだ。…中略…強い男たち、我慢強い男たち、いままであんなにおとなしかったきみたちは、この日、神の怒りの一撃を打ちおろそうとしている。きみたち以外にたよる者もない家族の姿を見ても、君たちの心はくじけはしなかった。それどころか、眠れる子どもたちをもう一度眺めると、この日こそこの子どもたちの運命を決する日だと君たちの思いは高まり、この揺り篭から巣立つべき自由な世代の子どもたちを抱きしめた。」(『フランス革命史上巻』より抜粋)

そうして、パリの男たちはバスチーユへと向かった。
たいした武器など持たず、ただひたすら。

その市民に銃を向け、殺戮を続けることをフランスの衛兵は拒んだ。結果、バスチーユは陥落する。

人間味に満ちた物語が歴史の中には内包されていて。
知れば知るほどドキドキするし、逆にね、安易な気持ちで描けなくなる。

らんららが書こうとしている物語には、革命は世の中の動きとして主人公に影響してきます。でも、描きたい主題が違うので、実際の地名も、人名もぼかして描く予定です。
パリ⇒ファリとか。
オーストリア⇒アウスタリアとか。(笑
人物も、あ、これはもしやこの人?と気付いてくれてもいいし、気付かなくても楽しめるようにするつもり。
どちらにしろ、あんまり有名な人は描かないです。
それは、歴史家とその時代に実際に生きた人たちへの敬意です。

『音の向こうの空』第一話 ①

らんららです。


人生は冒険と恋と、そして幸せに満ちている!
舞台は18世紀フランス…に、似た世界(笑

侯爵家に雇われている青年楽士オリビエ。
音楽を奏でて生きていきたい…
穏やかな日々を送る彼にも、革命の余波が…。


どうぞ、お楽しみください♪


第一話:音、空、恋



シスルーの森のざわめきが午後の木陰にも風として流れる時刻。
しばしの別れを思い、オリビエは腕の中のぬくもりを確かめるようにもう一度抱きしめた。
「ん、楽士さん」
少女の柔らかい頬をむき出しの肩に擦り付けられ、オリビエは吐息を落とす。
「そろそろ時間だ」
「あん」
「ほら、司祭が来る時間だ。アネリア、起きて」
寄り添っていた二人は静まり返った礼拝堂の中庭から、身を起こす。
綺麗に刈り込まれた低木にかけていたシャツを手に取ると、オリビエはその脇に転がる少女の靴を彼女の足元に揃えて置いた。
まだ十六の少女、アネリアは乱れた胸元のボタンをしっかりはめなおし、スカートについた木の葉を払う。
オリビエも靴を履き終えると、少女の髪に絡む白い萩の花びらをとってやる。
「ね、明日も同じ時間に」
アネリアのおねだりは何時も青年の胸元にしっかりと両手で捕まって上目遣い。
その眼差しにとく、と鼓動を感じるが、オリビエは小さく肩をすくめてごめんね、と謝る。
「明日、侯爵様に新曲の披露なんだ。昼から午後にかけての小さな茶会がある」
「また侯爵夫人の熱い視線に耐えなきゃいけないのね。あの人がオリビエを見る目つきって同じ女性として恥かしくなるほどあからさまよ」
「君こそ、侯爵に気をつけなよ。前から思っていたけど、この家のメイドの服ってここがやけに空きすぎだよ」
オリビエは少女の胸元を軽くつつく。
「平気よ。これで愛しの楽士さんを誘惑できるなら」
アネリアはその武器をしっかり青年の胸に押し付け、口付けを交わす。そうかと思えば次の瞬間にはくるりとスカートを翻し、数歩先を歩く。午後の日差しに眩しい一瞬の姿は、花の香りのように心をくすぐり淡く消える。覚えた花の名をいくつも心に並べながらオリビエは少女を例えようとその香りを追う。
「侯爵様はね、ちょっと違うのよ」
「違う?」
「そうよ。侯爵様は、元軍人でいらっしゃるからか、すごく堅実な方よ。オリビエみたいにこんなとこばかり見てないもの」
「ひどいな」
苦笑する青年にアネリアは笑みを咲かせる。
ブルネットの巻き毛を遠く響く鐘の音が風に乗って揺らした。


温かい午後のひと時をメイドのアネリアと過ごすのは、オリビエの唯一の楽しみであった。密かに二人で侯爵家の敷地内にある小さな礼拝堂に忍び込み、回廊に囲まれた中庭で寄り添う。
見つかればただでは済まされないが、それは蜜のように甘い誘惑で、二人はもう二月程続けていた。

アネリアが厨房のある母屋へと向かうと、オリビエは離れの一角にある音楽堂に向かう。小さな六角形の建物は四階建ての離れの南東に張り付くように作られている。丸い屋根と風見鶏を乗せたそこはまるで鳥かごのようだと遠めに見るたびにオリビエは思う。そして、うんざりする。

分かっている。
自分に出来るのは、音楽を奏でることだけ。

それで一応は生きていけるのだから、幸せだと思わなくては。

次へ

tag : *

「音の向こうの空」第一話 ②



音楽堂の南側は庭に面している。小さな池や花壇を備えたそこは、茶会の会場ともなる。こうした場所はこの敷地内にいくつかあるが、オリビエが奏でるチェンバロ*の曲を聞きながらの茶会はここでだけ開かれる。
それも、必ず三十人以下の小規模なものだ。
(*チェンバロ=ピアノの元となった鍵盤楽器。弦を叩くのではなく、弦を引っ掛けることで音を響かせる)
以前、侯爵は友人のロントーニ男爵に「大広間でもオリビエの曲を」とせがまれたらしいが、侯爵は首を縦に振らなかった。貴族はそれぞれにお気に入りの楽士を抱え、その自慢のためにわざわざ他家のパーティーに同伴させるものもいるという。楽士が著名になるほど、抱える貴族は「芸術のよき理解者」との誉れを受け、鼻を高くするのだ。
オリビエの雇い人、リツァルト侯爵のその対応には、出し惜しみしているとか、変わり者だとか。
そんな噂が囁かれるのも当然だった。

オリビエは侯爵の対応は自分が未熟だからだと感じ取っていた。
悔しいが、オリビエ自身、まだ亡き父親に追いついていないと思っている。
今年十八になるが、楽士の世界では子ども扱いだ。
新しい楽器の発表会などに連れて行かれると、どうしても周囲の目は冷たく感じた。
「お父上譲りの腕前とか。ぜひ拝聴したいものですな」
そんなことを言われても、その場での演奏を侯爵は許さなかった。


オリビエはギシと小さく鳴かせて音楽堂の扉を開く。

音に気付いた。

白く彩色されたオリビエの、いや侯爵家のチェンバロの前に派手な赤がたたずんでいた。
「アンナさま」
振り向いた侯爵夫人の表情を見て、オリビエは足を止めた。
常なら彼に向けられる侯爵夫人の表情は笑顔だ。それが今は違う。
バン、と乱暴に鍵盤を手のひらで叩いて、夫人は靴音を響かせながら青年に歩み寄った。
今年三十五になる夫人は真綿のように真っ白な肌をした美女で、王家の血を少しだけ引く。その由緒正しき生まれの美しい外見を見事に裏切り、厚めの唇に塗りたくった紅がつやつやと青年に迫る。

次へ

「音の向こうの空」第一話 ③



「アンナさま、あの?」
「オリビエ、あの子には出て行ってもらうわ」
あの子…。
「それは」
「楽士オリビエは一人しかいないけれど、メイドの代わりなどいくらでもいる」
「!アンナさま、どうかそれは」
「では」
侯爵夫人の唇は弧を描くと横に伸び、パンドラの箱を思わせる。
「抱きしめて」

擦り付けられるふくよかな胸。
緋色のドレスの胸元ははしたないほど開かれていた。
オリビエは目のやり場に困り視線をそらすが、気付けば吐息が口元にかかる。
「あの子を辞めさせたくないのでしょう?」
妖艶なパンドラの箱はそう囁いてオリビエの口を塞いだ。



音楽堂の窓から庭に灯される外灯が見て取れる頃。オリビエは一心に鍵盤に向かっていた。心に思う音を一指一指つなげていく。はかなげで切ない弦の響きに、オリビエは磨り減ってしまった何かがまた心に戻ってくるような感覚を覚えていた。
この楽器の音はとても気に入っていた。
それは侯爵も同じで、今年の春の楽器の展覧会で二人同時にこれは、と目を合わせた。
オリビエの選択と自らの選択が同じであったことが嬉しかったのか、普段無口な侯爵が嬉しげに笑った。
「これに、お前の好きな絵を描かせよう」
そうして、美しい空を描かれた真っ白なチェンバロはこの音楽堂にやってきたのだ。
軽やかな音がこれほどまで伸びるのは、楽器のためなのか、建物の構造なのか。耳に沁みる淡い音を掬い取ってはまたこぼす。
夢中になって弾いている青年の手は見るものを魅了した。
先ほどまで、青年を欲のはけ口としていた侯爵夫人も、今は人形のように傍らにおり、その音の響き一つ邪魔しないように息を潜め聞き入っていた。

曲は激しさと切なさを増し、深い森に迷い込む。湿気を帯びた空気を振るわせる。雨粒のようなかすかな音が遠くから近づいてくる。
そして、遠ざかると、夜明けの涼やかな風が吹き、音は木の葉から垂れる一滴の水滴となって、曲は終わった。

ふう。

乱れた髪を気にもしないで、オリビエが眼を閉じたとき、背後から拍手が響いた。
音で誰か分かる。

オリビエは立ち上がると、拍手の主、扉の前に立つ侯爵を見つめた。
夫人も拍手で気付いたらしく、慌てて立ち上がると侯爵に駆け寄る。
オリビエは黙って一礼した。
「今日はことさら激しいな」
「恐れ入ります」
侯爵は傍らの夫人に腕をとられながら、視線はオリビエに向けたまま満足そうに笑った。
「明日の茶会には、今の曲は弾けまい。新しいものを」
「はい。三曲ほど用意してございます」
「うむ。楽しみにしておるぞ」
再び頭を下げる青年を置き去りに、侯爵は夫人を伴って出て行った。
オリビエはいつの間にかびっしょり汗をかいていることに気付く。
激しい怒りに似た思いを音にして吐き出せば、安堵が訪れた。
思いのまま弾き殴る曲は、人を惹きつけるが二度と同じものは弾けない。譜面に起こすことも出来ない。
侯爵はそれをよく知っていた。
そして、そういう曲を奏でる時はオリビエの心が平穏でないことも。

自らをさらけ出す演奏は終わってしまえば熱から醒めたような空虚な満足感を残した。オリビエのそれを侯爵はもう、五年も聞いている。夫人とのことも見透かされているのではと空寒い思いもあるが、侯爵が態度に出さなければ耐えるしかない。
貴族たちの華燭なお遊びはさまざまな欲を満たし時間をつぶすためにある。その嗜みの一つである自分の立場を嘆く必要もなかった。

そう、このときまでは。

次へ

「音の向こうの空」第一話 ④



任されている音楽堂の鍵を閉め、青年は帰途に着いた。
広い侯爵家の庭を横切り、すっかり夕闇に沈む中、通用門までたどり着く。

この時間に通いのメイドたちも帰るので、数人の女性の話し声が聞こえていた。
門柱につけられたランプの明かりの下、女たちの噂話が漏れ聞こえる。


ふと、オリビエは顔を上げた。
つかつかと足を速め、門の外で立ち話をする三人の女に声をかける。
「あの、今なんと」
「お、オリビエ様」
三人そろって慌てて口を塞ぐのだから、聞き間違いではない。
「アネリアが辞めさせられたと、聞こえました」
胸騒ぎは顔を見合わせる三人に頷かれた。そして、一人が意を決したように、オリビエのそばで小さく語った。
「あの、侯爵夫人に酷く叱られましてね、あの子も耐えていたんですけど」
「酷いんですよ、あの子は南の遠い町から里子として買われてきたんですよ、侍従長の子供同様なんです。ここが家ですし出て行けって言われてあてがあるわけでもないでしょう」
「それを夫人たら、この家に残りたければ北部の牧場へやるというんです。北のあそこは一年中寒くて、家畜の世話をしなきゃならない、とてもあの子が耐えられる場所じゃないです」
三人が順に話す間に、一人が、あという形で口を開けオリビエを指差した。
「それで、彼女は?」
「そうよ!あの子、こんなところは辞めてオリビエ様と結婚すればいいのよ!」
「そうだわ!」
残る二人が同時に叫ぶ。
三人の期待の視線を受けながら、オリビエは唇を噛んだ。夫人が二人の仲を知ったのだ、あれで収まるはずもなかった。迂闊だった。
「…それで、アネリアは今、どこに」
とたんに三人は顔を見合わせて。首をひねる。


明確な答えを待つつもりもなく、オリビエは再び門をくぐり屋敷に入る。門番の男が忘れ物かい、と声をかけたので片手を挙げて挨拶した。
オリビエはまっすぐ。
侍従長の一家と、大勢の下働きの人たちが住む建物へと向かった。侍従長は南の国の出身で、貿易商を営む両親を持つが、業績不振で五人兄妹の長男である彼がこの国に働きに出たのだ。以来この国に住み着き家族を持ち十年以上たっていた。彼のなまりのある口調と明るい瞳の色は南の見知らぬ国を思わせてオリビエをわくわくさせた。オリビエがここ、侯爵家に勤め始めた頃からの知り合いだ。扉を叩くと、侍従長の妻ヘスが丸い顔をのぞかせた。
「遅い時間にすみません」
「オリビエ様、こんなところにおいでになってはいけません」
ヘスは扉を開けるどころか追い返そうとする。

次へ

「音の向こうの空」第一話 ⑤



「しかし、あの、アネリアは」
「あの子は、明日北へ向かいます」
「ヘスさん、僕は彼女と話がしたい」
強引にでも、扉を押し開こうとする。
どん、と。開きかけた扉がまたも途中で止まった。
扉には、無骨な大きな手がかかっていた。
「会わせてください!」
「楽士様、あんたとあっしらは身分が違うんだ。構わんで下さい」
扉を頑として押さえつける男、下男のモスだ。昔から庭師の助手をして花壇の手入れをする姿を音楽堂から見ていた。たまに声をかけたり、話したりした。
無骨な物言いの男だが気の優しい男だ。
「モス、開けてくれ!」
ふと扉が開き、駆け込もうとするオリビエの肩をモスが押し出した。
「モス!」
そのまま階段の手前まで押され、モスの大きな背中の向こうで扉がガチャリと閉じられた。
「楽士様、落ち着いてくだせえ。わかってるだよ、あっしらは、あんたを恨んだりしません。仕方のねえことだ。あんたが悪いんじゃない。けど、あの子はここにいたら、これからもつらい目に会う」
「だから、僕が」
「無理だ、分かってるだ。無理してそんなことすりゃ、あんただって追い出される。あっしらと同じ、あんただって結婚するのも侯爵の許可がいるはずだ。無茶しちゃなんねえです」
モスを突き放そうとしたオリビエの拳が止まった。
「分かっていますよ、アネリアだって。しちゃなんねえことしたんだ、あんたは侯爵様のものだ。奥さんのものだ。アネリアは他人のもんに手を出したんだ。そりゃ罰せられる。あんたは若い年頃の娘には毒だ。そばにいればきっとまた、同じことになる。だから、もう、こんなところに来ちゃなんねえ」
いつの間にか、オリビエはその場に膝をついていた。
胸の前で組んだ手に力が入り、小さく震える。
「僕は…」
アネリアの声が思い出される。
ほんの、つい数時間前まで幸せだった。
幸せなひと時をすごしていた。
それは昨日も、その前もだ。
これまで続けてこられたのに、突然ここでなかったことになるのか。こんな最悪の形で。
ついた膝の下のレンガ。二人で寝転んだ中庭を思い出す。
昼下がりの日差しを吸い込んだ太陽のぬくもりが二人を温めた。
なのに今膝の下にあるそれは冷たく彼を拒絶した。そこに小さく、拳を打ちつけようとする。寸前で手首をモスにつかまれた。
「さ、立ってくだせえ。楽士様。あんたのこの手は、大切な手だ。怪我なんかされたらあっしら何人が鞭で打たれるか。あんたが無事で、よくお勤めしてくれることがあっしらを助けるんでさ」
モスの腕には昔の鞭の後が褐色の肌に桃色の傷を残していた。伝え聞く奴隷とは違うが、扱いは同じようなものだった。迷惑をかける。
自分の気持ちを押し通せば、彼らにも影響が及ぶのだ。
「…すまない。アネリアに、…いいや、何も。何も伝えないで欲しい。僕がここに来たことも言わないで。…そうだ、僕は、彼女を裏切った。だから、憎んでくれていいから、僕のことは忘れて…」

不意に髪をなでられた。
見上げると、モスがしゃがんで泣きそうな顔で笑っていた。日に焼けた顔がランプの明かりで照らされて鼻の頭がてらてらと光っている。
「それも、夫人から言われただ。あの人はあんたのことをペットかなんかみたいに話した。それで、アネリアは我慢できなくて口答えしたんだ。皆分かってる。だから、自分から悪者になることはない。あんたはいい人だ。ただ、そういう運命に生まれちまったんだ」
オリビエは黙って頷いた。
立ち上がると夜風が頬に冷たく触れた。


その夜。
オリビエは自宅でチェンバロに向かっていた。
何度も何度も、思いのままに弾きつづけた。
弾いても弾いても。
その夜だけはいつもの空虚な満足感を得ることはできなかった。
しまいには荒っぽく鍵盤をたたき、突っ伏し。
そのまま、寝室へと向かった。

次へ

「音の向こうの空」第一話 ⑥



翌日。まだ侯爵家は誰も目覚めていない時間にオリビエは音楽堂へと入っていった。
楽器の乾燥を防ぐために換気をし、南に面したガラス戸をすべて開く。朝の空気が室内に染み渡り、オリビエはゆっくり息を吸う。
少し重いまぶたを擦り、ぼんやりと朝日の差す窓辺に立つ。色の変わっていく空と明るさを増す庭をしばらく眺めた。

オリビエが今日の茶会のための譜面を再確認しているところに、メイドが二人準備だといって入ってきた。
いつもなら、と思い出す少女がいるはずもなく。けれどアネリアと同じ服を着るメイドたちにどうしても思い出さずにはいられない。
オリビエは胸のうちに湧き出す音を抑えきれなくなっていた。
昨夜、何度も弾き散らした。それでもまだ、同じ音が胸に残る。
二人のメイドがテーブルと椅子とを綺麗に磨き、花台に派手な薔薇を生けている間、オリビエは静かにチェンバロの調律をしていた。
弦を締め、緩め、青年の指が微細な響きを捉え音を変えていく。出来上がる一音は澄み切っている。それがまたオリビエの胸に昨夜の曲を思い出させた。
調律を終えると同時に指が奏で始めた。

アネリア。
花のように笑う少女だった。
黒い髪がしっとりと大人びて見せた。
瞳の青に空を見ながら、何時もそばにいたいと願った。
白い手は小さく、いつも荒れていて。それが愛おしかった。
オリビエの手は綺麗ね、好きよ、そういって青年の手を頬に摺り寄せた。

二度と、会えない。
僕だけが、のうのうと好きな音楽を続けている。


カタン。
床に落ちた小さな音にオリビエの指が止まる。

我に返ると、メイドの一人が慌てて倒れたモップを拾った。
「も、申し訳ありません」
慌ててわびつつ、オリビエより少し年上と思われるメイドは目元をぬぐった。
気付けばもう一人も、小さく鼻をすすった。
「あの、どうぞ、私たちは終わりましたので失礼いたします」
「あ、あの」
「アネリアは」とたずねかけて、聞いてどうするのかと自問し、オリビエは挙げた手を下ろした。
「いや、なんでもない」
二人が深々と礼をし、退室するのを音で感じながらオリビエはぼんやりとチェンバロの前に座っていた。
立てた反響板には澄み切った空。
蒼い空に白い雲。そこにはそれ以外何も描かなかった。通常はこの反響板の絵も茶会を彩るものなので花や美しい動物や風景が描かれる。だが、オリビエはごてごてしたものは嫌いだった。
侯爵が随分シンプルだなと笑い、同じく侯爵のお抱えの画家が「鳥でも描きましょうか」と申し出たが、オリビエは「鳥はいつまでも同じ空を飛んでいられないから、このままでいいんだよ」と応えた。画家は何か感じるところがあるのか黙って、強く頷いた。
自由な空に、憧れていた。


「君は」
もう一人、聴いていた人間がいたことには気付かなかった。
慌てて立ち上がると、楽器の向こうに男が一人立っていた。テラスから入ってきたのだろう。
栗色の髪を一つに束ね、背の中ほどまでにたらしている。黒いビロードのリボンで縛られた髪、シルクのシャツに同色のチーフを蝶々結びに縛っている。それは首都では上流貴族の間で流行しているのだといつか侯爵夫人が言っていた。上着の襟に施された金の刺繍。紺色のベスト。貴族だ。
三十代後半。彫りの深い印象的な顔の男だ。
「どの楽士に指導を受けたのかね」
「はい、私は指導というようなものは一度も。師と扇ぐとすれば、亡き父だけです」
男は組んでいた腕を解いて、オリビエの傍らに立った。あまりにもそばによるので、並んで背を比べるのかと思うほどだ。
思わず一歩下がる青年にくすくすと笑みをこぼした。

次へ

「音の向こうの空」第一話 ⑦



「似ているな。かのラストン・ファンテルの息子なんだってね」
「あ、はい」
オリビエは構えた。父の名を知る貴族は十中八九、生前の父親と比較し、まだ若いとけなすのだ。人生の何たるかを知らずして名曲は奏でられないと、一時間も話されたこともあった。
父親を超えられないのはオリビエも分かっている。
しかし他人にわかったようなことを言われるのはどうにも忍耐が必要だった。
だから自然と父親の話題は心を固くさせた。

「私はホスタリア・ロントーニ。幾度か君の演奏は拝聴しているよ。しかし、今日のは良かった。普段の君の演奏とは違うね。あれはなんと言う曲なのだ」
「ロントーニ男爵、お名前はお聞きしております。お恥かしいことに、即興の曲です。譜面もございません」
「ふん。では題名くらいはあるのではないか」
「いえ、それも」
「何を想って弾いていたのだ。メイドは聞いて涙した。私も切ない思いを感じたが。何を想ったのだ」
オリビエは黙った。
背の高い男爵は青年を見下ろしていた。
その黒い瞳は穏やかに笑っているが、さらけ出せといわれているようでオリビエは小さく眉をひそめた。
「ふん、そう睨むな。無礼な奴だな。では、私がつけてやろうか」
親しげに肩に腕を回してくる。怪訝な表情を隠しもせず、オリビエは低く応えた。
「…お好きに」
「そうか、ではその曲は私がもらっていいのだな」
「え?」
オリビエが改めて男の顔を仰ぎ見たとき、背後から大きな咳払いが響いた。
「これはこれは、ロントーニ男爵。何か重要なお話があるということでしたな、客間でお待ち申しておりましたが一向においでにならないので、探しましたよ」
「ああ、それは失礼。侯爵、ご相談の前に、もう一度確かめたいと思いましてね」
相変わらず肩に手を置かれているオリビエは、侯爵に朝の挨拶をしたいのに男爵の手を振りほどいていいものか迷っていた。
「ロントーニ男爵、オリビエは私の楽士。オリビエの曲はすべて私のものだ。勝手に題名などつけられても困りますよ」
隣で男爵が肩をすくめた。
「私も優秀な楽士を探していましてね」
「オリビエは譲らん」
オリビエが二人の顔を交互に見たときすでに、男爵の相談事には結論が下された。追い討ちをかけるように侯爵は念を押した。
「私はオリビエの音楽が好きだ。一曲たりとも他人に聞かせたくないと思うほどだ。よいかオリビエ、お前もそこを心しておくのだ。お前の手が奏でる全てが私のものだ」
は、とため息と共に男爵は肩をすくめた。

もったいない、小さくそう呟いたのがオリビエの耳に残った。

次へ

「音の向こうの空」第一話 ⑧



茶会が終わり、侯爵に案内されて客たちは母屋へと移動を始めた。
オリビエがこの日、披露した新しい三曲はおとぎ話の三人姉妹を花に例えた小品だった。ちょうどアネモネの花が庭に赤く揺れるので季節感のある明るくにぎやかな曲に仕上げた。
強くしなやかな長女、理屈っぽいが夢見がちな次女、そして無邪気で芯の強い末っ子。三人が森の中で不思議な屋敷を見つけ冒険する物語だ。
お客の半数は女性だから、女性が好きな題材、恋や冒険は昼の茶会には欠かせなかった。
いつもと同じ拍手を受け、客の中の小さな少女に花束をもらう。
漆黒の礼服の青年を少女は眩しそうに見上げていた。

客も侯爵も退室した。片づけを始めたメイドたち数人とオリビエだけが残っていた。オリビエがチェンバロの反響板をたたもうとした時だ。
またも背後に聞き覚えのある靴音。ロントーニ男爵だ。

ワイングラスを片手に、少し乱れた前髪をかき上げる。ポケットからのぞく白い手袋が酔ったようにゆらゆら揺れた。
「ふん、つまらん」

同伴の女性を何故連れてこなかったのかは知らないが、男爵はつまらなそうに始終酒をあおっていた。乱れた歩調を音で聞き分けて慌ててオリビエが支えると、男爵は手もとのワインをこぼしそうになりながら遠慮なく青年によりかかる。
「あの、少し休まれたほうが」
「ああ、そうする」

言うなりその場に座り込むと、一気に残ったワインを飲み干した。大理石の床にコツンとグラスを解き放つと、男爵は自らも大の字になった。
テーブルを片付けていたメイドたちが呆れたように見ていたが、オリビエは気にせず、グラスを拾い上げるとメイドの一人に渡そうとした。
と、片足が床に貼り付いた。

「わ!」
酔っ払いにからまれた足。そう気づいた時にはグラスを持ったまま冷たい床に転がっていた。悲鳴だったのか薄いグラスがはかなく砕ける音だったのか。
床に手をついて体を起こそうとしたが、酔っ払いに止められた。
「手が」
ちょうどオリビエが手をつこうとした下には硝子がきらと輝いていた。視線の定まらない酔っ払いの癖に男爵はオリビエの両手をつかんで子供にするように引っ張り起こす。
「あ、あの」
「大丈夫ですか!オリビエ様!」
メイドが駆け寄り、座り込んだ青年が見回す間に床は綺麗に片付けられた。
相変わらず男爵が手を取っているので、顔をしかめる。男二人床に座り込んで醜態としか見えないだろう。オリビエは酒に飲まれる大人が嫌いだった。自らがあまり酒に強くないせいか、酒場など近寄ることもない。
酒などに頼らなくとも、オリビエは音楽で心を癒した。
十八の青年にとって酔っ払って座り込む三十過ぎの男爵はみっともない以外に形容できないのだ。
「危ないところでしたなぁ、オリビエ」
「あなたが足を引っ張ったからでしょう?」
迷惑さを眉に乗せる青年を少し上目遣いで眺め、男爵は楽しそうに笑う。
「年中ここで音楽三昧か。どうりで足も細く、反射神経も鈍い」
「ご心配には及びません、音楽を奏でるのが私の務めです」
「手を庇うために剣も乗馬も禁じられている、のか」
「…」
「まだ十代だろう?汗を流すことも日の光を受けることも必要ではないか。ここは、まるでバスチーユのようだ」
首都で有名な監獄の名をひそやかに耳打ちする。
それは遠まわしに国王を批判している。
オリビエは顔をこわばらせた。

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「音の向こうの空」第一話 ⑨



「ご心配、…ありがたいですが。かの監獄は庭を散歩することも出来ないといいます。ここでは見知った庭師が美しく整え、私はその作業を一日中眺めることも出来ます」
今日の演目の花の名を教えてくれたのは庭師だ。
ふん、と男爵は眉を寄せた。
「散歩できようと出来まいと。投獄されていることは変わりない。私なら自由にしてやる。酒場で飲み明かしてもいい。女を買ってきてもいい、どうだ、私の牧場は海に面している。蒼い海と白い砂浜。そこを馬で駆けるのは気持ちいいぞ」
オリビエは男爵から離れて立ち上がろうとする。が、また腕をつかまれた。
「あなたは何をなさりたいのです?」
「女のような手だ」
ニヤと男爵の口元が笑うので、オリビエは思わず乱暴に振り払った。

「ロントーニ男爵、お加減はいかがです。ドクターをお呼びしましょうか」
侍従長のビクトールが立っていた。そのでっぷりと突き出た腹の後ろに先ほどのメイドたち。男爵の様子がおかしいと呼んでくれたのだろう。
「これは、失礼」
おどけた仕草で一礼して見せると男爵はよろけながらも音楽堂を出て行った。

「すみません、助かりました」
「変わったお方ですね。大丈夫ですか、オリビエ様」
「はい。あのビクトール。彼女は」

アネリアは。
「今頃はロンダンの街でしょう。トロッコで山に登るのです」
「そう…」
「水も空気も美味しいところですよ。冬は厳しいですが、今の季節はきっと美しい花畑が広がっています。きっと元気で幸せに暮らせます」
「そう、お前も淋しくなる、ね」
ビクトールは黙って青年の肩を叩いた。
それ以上二人とも何も言わなかった。


いつもならオリビエが自宅に帰る時間だったが、侯爵が今日のねぎらいにと食事を運ばせたので、音楽堂の片隅のテーブルでそれに向かっていた。
向かいに座るリツァルト侯爵はあごひげを盛んになでていた。
一人だけ黙って食べているのもやりにくい。視線が気になりながら、オリビエは二口目の肉を頬張る。
人が食べているのをただ黙って見ているというのも、不思議な趣向だった。面白いのだろうか。
時折視線を合わせると侯爵は食べなさいといわんばかりに少しだけ目を細める。
自分が餌を与えられた犬のようだと感じられ、オリビエはますます食欲がなくなる。
「男爵に迫られたそうだな」
むせかけて、水を口に運んだ。
「え、はあ、そういうんでしょうか、あれは」
「変わり者だ。かつて、お前の母親にしつこくしていた時期があった」
オリビエは顔を上げた。
「私の、母に?」
「そうだ。当時はまだお前の父ラストンと結婚する前のことだ。お前の母マリアが二十歳、ロントーニはいくつだったと思う」
「ええと、…」
「十二だ」
「は?」
「ませた奴だろう?」
くっと口だけで笑うと侯爵はオリビエの飲みかけた水を取った。
飲み干すと水差しからまた同じくらい注いだ。

「早熟が過ぎたのか。未だに妻を娶らない。私の兄と彼の父親が親しかったのでな、何とか似合いの女性をと進めたのだが」
「…あの」
「なんだ」
話の腰を折られて侯爵は憮然とした。
「侯爵様、私も、あの。結婚したい女性が」

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「音の向こうの空」第一話 ⑩

10

テーブルではグラスの水が静かに波を収めたところだった。
「だめだ」
「あの、一人前でないことは分かっています、ですが、その」
「料理が冷める。食べなさい」
「侯爵様、私には愛する女性がいます!」
いつの間にか胸の前で両手を固く握り締めていた。
そこに包む想いを強く強く固め、それは凍りついた雪球のように侯爵の額に革命的な一撃を。

「……どうか、アネリアとの結婚をお許しください」

「小娘に入れあげるのも一時。お前は家庭を築くためにここにいるわけではない。私のために曲を奏でるのだ。それ以外のことは許さん」

息すら、許されない気がした。

投じてもなお、拳に冷たさを握り締めたままオリビエはうつむく。額に当てた拳の下、溶けた雫が瞳を潤ませ睫を飾るが。侯爵は言った。
「言っておくが。このスープは冷めると不味いぞ」

オリビエは綺麗に飾られたトマトをひっくり返し、銀のフォークで突き刺すと口に運んだ。
飼い犬のような。愛玩動物なのだ。
オリビエは胃が要求しないにもかかわらずとにかくこの時間を早く終わらせたくて、もくもくと食べ続けた。
スープには冷めるまで手をつけない。そんな小さな反抗すら、目の前の侯爵は面白そうに眺めていた。

お遊びの、道具なのだ。

アネリア。

ごめん。

自分のナイフを持つ手にふと目が止まる。白い手。傷一つ、つけることを許されない手。音楽を奏でるためにある、手だ。
今もむせながらこぼれそうになる涙を音に変えたくて、生き物のようにうずうずしている。
鍵盤があればまた踊りだすのだろう。曲という形になれば、オリビエは何を叫んでも怒鳴っても許された。食後に披露した即興の曲に侯爵は黙って聞き入っていた。
オリビエは奏でるしかない。

切ない思いを。
自由な恋。
空を羽ばたく。

音だけは誰にも捕まらず空を翔る。

第一話 了

第二話へ♪

いかがでした?
ファンタジーではないのです。純文学系を目指したらんららの新しいバージョンとでも言えるのかな?
冒険ファンタジーが子どもたちも楽しめる、をモットーとしているのに比べ、ちょっとお姉さん的な作品です。いや、お兄さんか…
文学を意識しているので、余分な改行やわざと短い文章にしたりはしていないので。ちょっと読みにくいです。ごめんなさい。
赤毛のアン的な存在になるといいけど…目標は高い♪
ああ、がんばります~

「音の向こうの空」第二話 ①

―第二話『少女、歌、奏で』―


オリビエンヌ・ド・ファンテルが音楽に才能を持つのは生まれながらの環境といえた。

父はこの小さな二階建ての家で貴族やブルジョア階級の子供らに音楽を教えながら、侯爵家の楽士として勤めていた。王宮に招かれ音楽会の主役になったときもある。
少年だったオリビエはそれを誇らしく思っていた。

家では母親が父の演奏に合わせてよく歌を歌い、伸びやかなソプラノを真似しようとオリビエも子供ながらに声を張り上げた。母マリアは人前で歌うことははしたないと考えていた。だから彼女の歌声を知っているのは父とオリビエだけだった。

この教区の司祭である祖父の教育のせいか母マリアは誰にでも優しく、父が音楽を教える生徒たちにも慕われていた。幼いオリビエはそれに嫉妬し、そのどの生徒より優秀であろうとした。
誰よりも長く音に親しみ、歌い、奏でた。

学校は嫌いで、半日我慢するとすぐに近くの公園へと逃げ出していた。逃げ出した翌日には「ロバの席」に座ることになったが、それはあまり気にならなかった。怠け者の象徴として教室に設けられたその席は、丁度日当たりのいい一番前だった。

反対側に「栄誉の席」があったが、そこにいつも座る常連の男の子とは仲が良かった。先生が結婚式の手伝いに借り出された翌日などは、まだ酒臭い息をしてたまによろけたりするから互いに目を合わせてはくすくすと笑いあっていた。

基本的には個別授業。ラテン語もフランス語も得意だったオリビエは、祖父の影響で聖書もよく読めたし、怠け者だったが手のかかる生徒ではなかった。授業中も放っておかれることが多く、オリビエも出来るだけ質問しないようにと黙り込んでいた。

昼の十一時にいったん学校が閉じられる。寄宿している子どもたちは寄宿舎に食事に戻る。オリビエは母親にパンを持たされることが多かったが、大抵その時間に抜け出すと午後の授業に出席することはなかった。
ふらふらとどこかで時間をつぶし、こっそり家に戻る少年が一人でチェンバロに向かう姿を母親は黙って見守っていた。夕方からの家での音楽学校で、貴族たちに負けないようにとオリビエは懸命に楽器に向かっていたのだ。

ふと。
公園の風景を。あの時眺めていた道行く人々を音にしてみたくなる。

毎日、池の絵を描いていた老人。覗き込むと春なのに秋の風景だった。理由を問うと、納得がいかずに同じ絵を何度も修正し描き続けるうちに季節が変わってしまったのだと老人は応えた。
面白い気がした。彼にとってはまだ、秋なのだ。
彼の絵の中に描かれていた子犬は、その時には立派な成犬で毎日ご主人の派手な貴婦人に引かれて散歩していた。
少年にとって不可思議で面白い世の中の人々。彼らを曲にする。

そうして、オリビエはペンを執り、五線譜に音の印を並べていく。


窓の外はすでに夏の盛りを過ぎ、夕刻の風は涼しさを増した。今年もまた秋が近づく。

秋は苦手だ。
両親を失った季節だから。

ふと、公園の景色から余計な想いへと思考が飛んだことに気付いて、青年は頭を軽く振る。あれからもう、五年が過ぎようとしている。時は容赦ない。
そう、アネリアを失って半年になろうとする。
容赦ない。


次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ②

―第二話『少女、歌、奏で』―



ペンをインク壷に戻すと。オリビエは楽器に向かう。
譜を残しタイトルをつけなくては曲として残せない。けれど今は。この想いを音にしておきたい。

いくつか弾き、やはり書こうと手を止める。
調子の出ない日とは、こういうものだ。
と、開かれた窓の外から誰かの歌う声がした。
聞いたことのある曲だ。
歌詞もなくただ、ららら、と歌う少女。

オリビエは窓辺から外を眺めた。
わんわん!と激しくほえられた。

「あ、ごめんなさい!」
街の少女だ。アネリアと同じくらいか。白い犬を抱きしめ、こちらを見上げる。

真っ青というのか。空を映す瞳にオリビエは何もいえなくなった。
少女は立ち上がり、青年に微笑んだ。

「素敵な曲ですね、つい、口ずさんじゃった」
「あ、ああ」

あれは自分がついさっき思うがまま奏でた短いフレーズだったのだ。それすら記憶に遠いオリビエは少し呆けた様子で少女に見入っていた。

「侯爵様の楽士様でしょ?わたしキシュといいます。美しい音楽が大好きなの。この、ランドンもね」
ランドン、といわれ犬がワフンと嬉しげにほえた。

「あ、ゴメンナサイ。お邪魔してしまいましたね」
「いや、もう一度。歌ってくれないか」

少女は不意に頬を染めた。
いや、ついさっき通りに面した窓から音を拾って口ずさんだ、その上「つい」と悪びれずに笑って見せた。
なのに歌えといわれると躊躇する?
「あの、でも」
「いいから、もう一度」
オリビエは無性に、人が奏でる自分の曲を聞いてみたくなっていた。

「君、オルガンは弾けるの?」
「無理です、そんなの」
今度はぷんと口を尖らせる。ワフンと犬も同調する。
「じゃあ、歌ってみて」
とがった口が青年に見つめられて徐々に緩む。

「しょうがないな!笑わないでね」
不意に口調まで変わり、キシュと名乗った少女は後ろに手を回し、合唱の練習の時のようにふと腹に力を込めると歌いだした。
それは犬も聞き入る。

少女は才能があるのだ、一度聞いただけの曲を最初から、口ずさんで見せた。その上、オリビエが思うまま弾いた不安定なそれは、歌いやすく省略されるのか譜面に落としやすい。
オリビエは、窓から身を乗り出して、少女を誘った。
「ね、君、ちょっと手伝ってくれないか」
きょとんとしたキシュはすぐに仕方ないな、と大げさに肩をすくめ、テラスを回って犬と共に入ってきた。
「犬は外に」
扉を開けたオリビエが眉をひそめると、キシュはあら、と笑った。
「だめよ、ランドンは私の護衛だもの、私に何かあったらただじゃすまないんだから」
気付いて、オリビエは自分の突然の思いつきを恥じた。
見知らぬ少女を家に呼び込むなど、見ているものがいればなんと噂されるかわからない。これが侯爵の耳に入れば、何か良くない結果を生むかもしれない。

オリビエは戸口に立ったまま、チェンバロを珍しそうに眺め回すキシュを見つめていた。
どうしようか。
このまま帰すのもおかしいか。

次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ③

―第二話『少女、歌、奏で』―



キシュは少し日に焼け、顔にはまだそばかすが残る。十代前半だろうか。赤いうねりのある髪が華奢な肩にふわりと乗っている。ドレープを取った綿のブラウスの上からでも細身のしなやかな体型がわかる。クリーム色のスカートに臙脂色の細いリボンが結ばれている。

少女はチェンバロの風景画に見とれ、オリビエはその少女を見つめていた。

美しく整然と並ぶ弦に綺麗、と囁き、そのまま少女は歌いだした。
先ほどと同じ。
いや少し、また所々端折られているが。
聞き苦しくはない。

オリビエは我に返って、ペンを手に取った。
机に向かって譜面を書き付ける。
ふと歌が止む。

顔を上げると少女がオリビエの手元をのぞき込んでいた。
「それ、楽譜?」
「え、ああ」
「何の曲?」
「今、君が歌った曲だよ」
キシュは目を丸くした。
「聞いただけで譜面になるの!?」
「待って、聞いただけで口ずさむほうがすごいと思うけど」
「そんなことないよ、だって、曲を作ったのはあんたでしょ?作るのもすごいし譜面がかけるのもすごい」
「だから、それを一回聞いただけで歌える君もすごいよ。僕なんか弾いた先に全部忘れるから」

ぷ、と。
キシュは噴出した。
「え?」
そのうち、苦しそうに塞いでいた手も取り払い、少女は大声で笑い出した。
あはははは。
軽やかなアルトの笑い声は心地よく、最初は笑われることに納得のいかなかったオリビエも少女が痛そうに腹をさすって、こちらを見つめ、また笑い出したのには頬を緩めた。

「だって、だってだって!!忘れちゃうの?せっかくこんなに素敵なのに?自分が弾いた曲なのに?おかしい~」

「…弾くのに夢中だから」
青年のいいわけじみた口調にキシュは笑いすぎた瞳をこすって、青年が座る脇に立った。
「子供みたい。でも。素敵」
頬にキスを受け、オリビエはつい立ち上がる。
「な、なんだよ」
自分よりかなり年下だ。そんな少女に子ども扱いされた。
「あら、素敵な曲のお礼。私気に入ったな。ね、何て題名?」
また嫌なことを聞かれた気分で、オリビエは黙り込む。
想いを吐き出した曲に題名なんかない。

説明すればそれは、会えなくなったアネリアを思い出しての曲であったと自分自身も認めてしまう。秋が近づく淋しさにアネリアも加わった。そんなもの、見知らぬ少女に話せない。

「ねえ、何てタイトル?」
「いや、教えない。いいから、もう一度歌ってくれないか」
「いや。教えてくれないなら歌わない」
ワフンとタイミングよく犬も頷く。

白い毛むくじゃらを睨みつける。
「可愛いでしょ。なでさせてあげようか」
「結構」
動物には近づかない。間違って手を咬まれてはいけないから。
気まずい沈黙。

「もう帰るわ。曲は素敵なのに、性格は変」
う、と返事に詰まって、オリビエは呼び止め損ねた。

少女は行こう、ランドン、と護衛を従えて出て行った。
硝子のはまった扉の向こう、揺れる赤毛。
庭の風景と馴染んで消えた。



一人のその夜。
一階のリビングを兼ねる仕事部屋でオリビエは再び机に向かっていた。
ランプの明かりの下、ペンを走らせる。

不思議なことに少女が歌った曲は鮮明に耳に残り、ちょうど侯爵に命じられていた秋の曲の一つとなった。
自分が奏でるのと、人に奏でてもらうのとでは何かが違う。
冷静に聞けるのだろうか。
これまで湧き出した音を譜面に残そうと努力し、挫折したことを思うと、この発見は空を飛ぶ機械を発明したかのように心を軽くした。

キシュといった。あの少女に曲を聴いてもらい、歌ってもらえば譜面に出来る。これは、とてもいい思い付きだ。
今日は怒らせてしまったが、相手は子供だ。甘い菓子など用意してやれば、手伝ってもらえるのではないか。

ふと思いつき。
オリビエはその曲にタイトルを書き込んだ。
『秋風のタルト』
書いてから、子供じみているか、と迷ったがそのままにしてみた。

侯爵はなんと言うだろう。そのタイトルを告げる自分を想像し、気恥ずかしい気分にもなる。だが、甘く切ない秋の曲に、ほろ苦い焼き栗の入ったお菓子を思い出していた。
ふと空腹を覚え、温かい茶でも入れて、今日は休むことにした。

昼間、オリビエが出かけているうちに通いのメイドが用意してくれる夕食。今日はデザートに手をつけていなかったことを思い出し、自分で入れた紅茶と一緒にトレーに並べた。
二階の寝室に持ち込むと、悪いことと知りながらもベッドに座って膝の上にトレーを乗せる。

冷めた夕食を一人で食べるのは嫌いだったし、侯爵家で出された時も餌をもらう犬のような気分だった。
だから、この時の夜食は普段感じたことのない、奇妙な満足感があった。
温かい飲み物と甘いものが心に沁みるなど、初めて知った。

美味しいと、心から思った。

いや。
思い出したのだ。
子どもの頃、風邪を引くとベッドの上で甘いものを食べられた。躾に厳しい母親も、そのときだけは許してくれた。額の熱を測る母親の手。
火照った体に冷たくした甘い果物が喉を潤し、とても美味しかった。

記憶をたどる青年の膝の上で、退屈そうに紅茶のカップに湯気がたゆたう。

僕は、何かを忘れているのかもしれない。

次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ④

―第二話『少女、歌、奏で』―



翌日。
昨日と同じ時刻にオリビエは少女の姿を探し窓辺に立っていた。
朝のうちにメイドに頼んだお菓子は甘い香りを部屋に漂わせていた。

「どなたにさしあげるのですか」と丸い手を持つメイドのシューレン夫人は面白そうに青年を見上げた。オリビエは十三の時から世話になっている。彼女にしてみればオリビエは子供のようなものなのかもしれない。
仕事を手伝って欲しい子がいて、その子をお茶に誘うために欲しいのだと告げると「じゃあ、今日は私が残りましょうか。」と興味津々だった。なだめて帰らせたのはつい先ほどのことだ。

ワフン。

聞いたことのある鳴き声。
オリビエは窓から庭の向こうの通りを眺めた。
走る犬の少し後を、あの少女が歩いてくる。まだ表情は見えないほど遠いが視線が合ったと感じた。
夕闇が近い。隣の家の三本の糸杉の一つ目に隠れて姿が見えなくなる。すぐに現れ蒼いスカートが見える。二本目に隠れ。

現れない。
と、引き返す姿。

「ちょっと、待って!」
思わず大きな声を出して、窓から身を乗り出す。

糸杉の向こう。斜めに延びた影が三本黒々と赤茶けた小路に横たわるだけだ。
嫌われたのだろうか。
せっかく焼いてもらった菓子も意味がない。キシュ、といった。どこの娘だろう。
こうなったら家を探し出して正式に雇うか。そんな余裕があるかどうか分からないが、どうしてもあの歌声を聴きたい。
ワフン。

ワフン?

気付くと腰高の窓の外に犬がきっちり前足を揃えて座っていた。
嬉しそうに尻尾を振っていた。
「お前、もしかして」
オリビエがお菓子を一つ、窓の下に投げてやる。
ランドンは夢中でがぶりと飲み込んだ。
「飲み込んだ」
思わずそのまま繰り返す。
すでにランドンは何事もなかったかのような顔をしている。

なんだ、もっと味わえよ、シューレンさんの料理は美味しいはずだ。手が込んだお菓子なんだ。

尻尾を振って二つ目を要求するランドンをちらりと睨み、オリビエは二つ目を落とす。
わふ、と礼もそこそこに犬はまた、一飲み。
「咬まないと喉に詰まるぞ」
犬は首をかしげた。
「だから」
窓辺に乗り出すと、犬は急に立ち上がって前足を持ち上げる。
「わ!」
驚いて、数歩下がる。
犬は窓枠に両の前足を乗せると、嬉しげに顔だけをのぞかせて舌を出す。
「ランドン」

少女の声。
慌ててオリビエは窓に近づいた。
「君」
「こんにちは、変な楽士さん」
睨む真っ直ぐな瞳に、また言葉に詰まる。

変。その攻撃的な言葉はどういう神経から生まれるのか。理解できないから反論も出来ない。容赦ない攻撃を少女は繰り返す。

「そんなところにこもってないで、出てくればいいのに。ねえ、ランドン」
犬は先ほどの菓子の恩も忘れたのかすっかり少女にじゃれついている。
「それとも楽士さんは犬が怖いの?」
「そんなことはないよ」
「じゃあ、きて」
「来て?」

次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ⑤

―第二話『少女、歌、奏で』―



「うん、ほら、家の中ばかりだからそんな真っ白な顔して痩せてるのよ。貴族の奥様にはもてるかもしれないけど、街の子には全然魅力的じゃないわ」

ずいぶんな言われようだ。
似たようなことを先日男爵にも言われたために、自覚がないわけではない。

「意気地なしなのね」
「違う、犬はだめだ。触れないから」
「意味が分からないわ。行こう、ランドン。ねえ、なにもらったの?お腹痛くない?」
そんなことを言いながら、少女は歩き出す。

「ちょっと、待って!」
窓から叫んでも、少女はちらりと振り返るだけだ。

オリビエはテラスへと周り、一瞬躊躇したが、外へと走り出した。
「待てって!」

オリビエの家のさほど広くない庭を横切るように少女は通りへと抜けようとしていた。豆ツゲの小さな垣根をぴょんと身軽に飛び越えた。犬も続く。
「待て」
同じようにまたいで、オリビエは通りの石ころに躓きそうになりながら、追いついた。
息を切らせた青年に、犬が嬉しそうに近寄ってきた。

「わ、待て。やめろって」
立ち上がると犬はオリビエの腰に抱きつく。
「おい、止めろって!」
あはははは。
面白そうにキシュが青年の顔を覗き込んだ。

「やっぱり犬が怖いんでしょ?」
「違う!咬まれたらいけないから、触れない」
「なにそれ」
「いいから、こいつ何とかしろって!」

ふーん、ふーん、と首をひねりながら、少女は犬を呼び寄せた。
「変な人。ねえ、ランドン。咬まれるのが怖いくせに怖くないって言うの。変なの」
「あの、犬はどうでもいいんだ。君、もう一度歌って欲しいんだ」
「ますます変な人」
「頼むから。曲作りを手伝って欲しいんだ」
少女は黙った。

「僕は、弾き出すと夢中になっちゃうから、だから、君にそれを聞いて欲しくて。聞いて、歌って欲しいんだ。僕も君の歌なら譜面にできるんだ」



キシュに茶を入れてやり、犬がキシュの足元に寝転んで、やっとオリビエは自分のチェンバロの前に座ることが出来た。
少女は美味しいと何度もため息をつき、それを作ったメイドを尊敬すると繰り返す。
「変人なのに、お金持ちはいいわね。こんな美味しいものを毎日食べられるんだから」
「変人、は余計だと思う」
「変人は変人。私、これを作った人にお料理を習いたいな。なんていう人?」

少女の敬意はすっかりシューレンさんのもので、オリビエは複雑な気分だが、機嫌を損ねてもいけない。
「シューレンさん、っていうんだ。毎日来てくれる」
「どこの人?名前からすると外国の人みたいだけど。この町の人じゃないの?」
「え、近くだと思うけど」
「思うって?知らないの?」
呆れたようにキシュは紅茶のカップを置いた。
食べる手を止めて、青年を見ていた。
そんなに悪いことじゃないはずだ、とオリビエは思うが。

「朝、顔を合わせるだけだからね。僕は侯爵家に出かけるから、その間に家の掃除や夕食を作っておいてくれるんだ。彼女を雇ってくれているのも侯爵家だ。だから、どこのどういう出身の人かは知らない」
言いながら、言い訳に思えてくるのが不思議だ。十三の時から毎日顔を見ている。何をしなくても毎日来てくれるから、あまり意識したことがなかった。
誕生日すら、知らないな。

「…変なの。今度紹介してね。あんたのいない昼間に来るわ。いろいろ教えてもらおうかな」
完全に馬鹿にされている。ここは、我慢。我慢だ。
「メイドになりたいの?」
「ううん。ちがうよ。でもこんなに美味しいお菓子、自分で造れたら幸せだもん」
「あ、それはそうだね」
少女のもっともな発言にいちいち頷いている。
「ね、変人さん」
「…オリビエって名前があるけど」

「じゃあ、オリビエ。この間の曲、弾けるの?あれ、気に入ったな」
早速呼び捨てなのかとため息を漏らしながら、オリビエは手を鍵盤に置く。
あの曲は何度も弾いた。
「秋風のタルト」
弾き込んだために最初のような切なさは薄れている。けれどその分、穏やかな優しさのある曲になる。
「淋しい曲だね」
途中でこんな言葉を挟まれると、演奏は中断。

「あれ、止めちゃうの?」
「え」止めてはまずかったかとオリビエは首をひねる。
少女は紅茶を一気に飲み終わると、オリビエの傍らに立った。
「ねえ、もっと弾いて」
「いや、君が淋しいって言うから。気に入らないのかと」
「なに、つっかかったの、私のせい?」
「え、違うけど」
失敗したわけじゃない。
ただ、曲の途中で口を挟まれるなど、両親を亡くして以来なかった。
「じゃあ、弾いてよ」
「途中で何か言われると弾きにくいよ」
「じゃあ、歌わない」

次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ⑥

―第二話『少女、歌、奏で』―



何か、とてつもなく弱みを握られたかのような感覚に陥る。そんなに僕はおかしなことを頼んでいるのか。
無理難題なのか。
こんな年下の少女、音楽の何が分かるわけでもない少女の機嫌を取りながら曲を聞かせて宥めなければいけないのか。

考えてみれば、思うまま弾く曲は内容を問われても困る。ただ、人形のように繰り返して歌ってくれればいいのだ。だが、この少女はきっと、「何を思ったのか、何を表現したのか」としつこいだろう。
想像するだけでぞっとしないか。
これは間違っているんじゃないか。

似合いもしない、菓子を焼いて呼び寄せようなんて。
侯爵に知られたらまずいだろうし、こんな風に誰かに僕の曲を聞かせるのはどうなんだろう。男爵の件があってから、侯爵はますます他所で奏でることを嫌っている。一時は侯爵家に住まわせると言い出して。さすがにそれでは息が詰まるから、何とか宥めたのだ。

これが知れて侯爵家に閉じ込められるようなことになったら。僕は本当にかごの鳥だ。
外に出られず、憧れる空ばかりを曲にする。
自由に、なりたい。


ふ、と。
ため息と共に演奏の手が止まった。
いつの間にか指は心を奏でていた。


ら。

振り向くと少女は真っ直ぐ、真剣にオリビエを見つめながら、小さく曲を口ずさんでいた。
「君」
「キシュって名前があるよ」
「キシュ、今の」
「歌えるよ。歌って欲しいんでしょ?」
「…いいや、今のはいいよ」
あれは、取り留めない、どうしようもない想いが音になった。聞けば苦しい気分になるだろう。聞いて幸せな気分になれる曲でなくては、客には受けない。
「歌いたいの」

「え?」
いつの間にか少女の手が据わるオリビエの肩に静かに乗っていた。
少女が口ずさむ旋律はオリビエが思ったほど不快なものではなかった。

それは静かで低く、流れているかどうか分からない川面のようだ。そして少しばかりの小石に波立つ、脆さが垣間見える。やはり自分らしすぎて気分が乗らない。
「ごめん、それは」
少女は歌い続ける。
「キシュ」

最後の一音まで、キシュは歌いきった。
ほう、と息を吐き出して。少女は悲しげに青年を見つめる。
「これ、譜面にはしないのね」
「ごめん」

「とっても素敵なのに。聞いたら皆感動するわ」
「キシュ、そうだ。言ってなかった。僕の曲ね、君はきっと覚えてしまうだろうけど、誰にも言わないで欲しいんだ。僕以外の誰にも聞かせないで欲しい」
侯爵に知れたら。それは、気をつけなくては。
「なんで?どこで何を歌おうと私の勝手だわ」
頬を膨らませる。

「侯爵様に言われている。僕が、奏でるすべての曲は彼のものだから。許可なく侯爵様以外の人間に聞かせるのは禁じられているんだ」
キシュは口を尖らせた。膨らんだり凹んだりする少女の頬がなぜか視線をひきつけた。赤みを帯びた唇が胡桃割り人形を思い出させるのは何故だろう。

「その、僕が頼んでおいて悪いんだけど、僕の曲を僕にだけ聞かせて欲しいんだ」
少女はさらに首を三十度くらい傾けて睨む。

「だから。毎日美味しいお菓子を用意するよ。シューレンさんにお料理を教えてもらえるように頼んでおくから。だから」
「毎日なんて、無理」
「あ、そうか。君の好きなときに来ればいいよ。僕がいなくてもシューレンさんがいてくれるしね。気が向いた時に、聞いて歌ってくれれば」
「貴族様って、よく分からないけど。贅沢だよね」
「そうだね」
「だって、それじゃ私のランドンと同じじゃない」
「え?」
「オリビエは貴族様の犬と同じってこと」

次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ⑦

―第二話『少女、歌、奏で』―



少女の言葉がずっと耳に残る。

自覚しているところをつつかれる。分かっている、と自虐的に反芻している自分がいる。それは自分自身に弁解しているのと同様だ。自分にすら言い訳しなくては収まらないくらい、胸の奥では現状に苦しんでいる。
認めたくはないが。
息が詰まる。

キシュはあの後「でも、こんな素敵なペットなら、飼いたいって思うよね」
と。それは青年の表情を読んだ慰めかもしれないが。
先日と同様、今日はお茶とお菓子の礼だと言って、軽いキスをくれた。
それも慰めかもしれない。

情けない。十八にもなって、年下の少女に憐れみをもらうなど。
風の強いその夜。オリビエは生まれて初めて侯爵の命令で曲を作ったことを思い出した。
あれは、十三歳の秋。両親が亡くなって、一人途方にくれていたときだ。

遠い街の親戚たちが引き取り先をめぐってヒソヒソとキッチンで話し合っていた。僕は一人、チェンバロを弾き続けていた。
他に何も出来なかった。

父の葬儀に来ていた侯爵が音を聞いて訪ねてきた。
彼が僕を引き取ると言い出し、親戚は喜んで僕を差し出した。

リッツァルト侯爵は、僕に命じた。
明日、迎えをよこす。それまでに、両親へのレクイエムを作りなさいと。
僕は頷くしかできなかったけれど。
ずっと、奏で続けていたのは両親への想いだった。そのどの一小節でも二人への想いで一杯だった。

音楽を教えてくれたのは両親だ。僕は音で父さんと話しをしたし、楽器で小鳥の声を真似して見せれば母さんは鳥の名を当てて見せた。
この家で、僕が奏でる音全てが両親の思い出なんだ。
このチェンバロも、この指も、手も。すべて、両親が残してくれた。

翌日。侯爵が自ら迎えに来た。
僕はここで。両親の残してくれたチェンバロで弾きたいと言い、彼は頷いた。
あれは雨の日だった。

湿り気は音を曇らせた。
それでも、僕は弾きつづけた。湿気に弱いチェンバロの弦は、弾いているうちに乱れ、音も鈍る。それでも。
父さんが僕に語るのは音楽の話だった。
母さんが僕に教えてくれたのは優しい気持ちだった。
僕はその両方を音に変えた。

拍手を。
侯爵の拍手をもらって、初めて涙がこぼれた。

張り詰めた弦が、雨で緩むように。僕の心を溶かしたのは自分自身の曲と、侯爵の笑顔だった。抱きしめられ、子供のように泣いた。

侯爵は僕を侯爵家に住まわせるつもりだった。
でも、この家の、両親の残したチェンバロを放っておくことができないと訴えたら、ここに住むことを許してくれた。手入れを怠れば楽器は使えなくなる。
それを侯爵は良く知っていた。
感謝すべきなんだろう。


僕は、音を奏でることで生きていける。
そんな幸せは、他にないじゃないか。
どんなに自由でも、楽器がなくては僕は奏でられない。楽器を維持して、奏で続けるためには、侯爵の力が必要なんだ。
キシュは歌えるから自由なんだな。

強い意志を感じる子だ。赤い髪がまるで太陽みたいに暖かい印象を与える。
どんな生活をしているんだろう。何処に住んで、どんな両親がいるのか。
どんな環境でなら、あんなふうに強く、伸びやかに。そして歌えるように育つんだろう。

明るい太陽の下、犬と戯れる少女を想像した。
紅葉の始まる楡の木の下、白い犬と赤い髪の少女。
それを、明日、曲にしてみよう。

次へ♪

「音の向こうの空」第二話 ⑧

―第二話『少女、歌、奏で』―



オリビエの奏でた明るい日差しを思わせる曲は少女をひどく感動させた。
もちろん、シューレンさんのお菓子も一役買っていた。香ばしい焼き菓子をしっかり三つほど胃に納めると、オリビエのそばに立って曲を歌った。
歌い終わる頃にはオリビエの前には譜面が出来上がる。

「助かるよ、すごく聞きやすいんだ、君の歌。音程がしっかりして素直だし」
「そうでしょ?あたしが男の子だったらなぁ、聖歌隊に入るのに。あたしの町の教会は小さいけど、立派なオルガンがあるんだ。オリビエはオルガンも弾けるでしょ」
「あ、まあね。でも、教会には教会の専属のオルガニストがいるだろう?」
「いるわけないでしょ。あたしの住んでいる町は司祭さまが学校の先生だし、オルガンだって弾くんだから。聖歌隊だって子どもばかりじゃないんだから。うちの親父も歌うんだよ」
「すごいね。見たことがないなそういうのは」

特に最近は侯爵家でミサを受けるために街の教会の様子はまったく分からなかった。学校もオリビエが通ったのは市役所や裁判所に程近い街中の学校だった。男性教師と女性教師がいてそれぞれが男の子と女の子を教えていた。学校はそういうところだと思っていた。

「本当よ、同じ真っ白なローブを着るんだから。うちの親父のソプラノ、聞かせてやりたいわ」
「え、ソプラノ?君のお父さんって、カストラート*なの?」
そこでキシュが持ってきた麻の袋に残りの菓子を全部詰め込むのに気付いた。

「ばかね、冗談に決まってるじゃん。あれって子種がなくなるんでしょ?そしたらあたしいないでしょ」
澄ました顔で袋を抱えると私帰るね、と立ち上がる。

「何か、用事かい?」
「飽きたの。また気が向いたら来るわ。あ、そうそう、お菓子よりね、パンのほうが助かる」

*カストラート:ボーイソプラノを保つために去勢した男性歌手のこと(現在はもちろんない)



翌日からキシュはパンのために通うようになった。
始めのうちはオリビエの夕食用にと用意されたパンを渡していたが、それではさすがにオリビエも困った。
少し足りないとシューレンさんに頼んで、パンを増やしてもらった。

キシュは毎日ではないが、オリビエが帰ってくる頃に見計らったようにふらりと家の前に立ち、何も言わなくてもリビングに上がるようになっていた。
オリビエが曲を奏でれば、必ずそれを歌ってくれた。

「あーあ、お腹すいた」

少女は譜面を再確認しているオリビエの目を盗んで、こそこそとキッチンへと入り込む。アーチになったリビングとの境で一瞬立ち止まるから、さすがに躊躇するのかと振り返るのを期待したが、赤毛の後姿はおもむろに向こうに消える。

「キシュ、だめだよ」
遅れて追いかければ、用意されている夕食の硝子のふたを持ち上げてしっかりとハムを口にくわえていた。
「まるで野良猫だね」
呆れながらテーブルのランプに火を灯し少女の顔をのぞく。悪びれない様子でにんまり笑う。
レンガを積んだ炉の種火に薪を足し、火を起こすと鍋を上に置いた。

鍋のふたを開け、一度かき混ぜてからオリビエは少女と向かい合わせに腰掛ける。
キシュは膝を抱えたままイスに座って夢中で食べていた。そばで座って見上げていたランドンが、なぜかオリビエの脇に移動し同じように尻尾を振った。
相変わらずなでたりはしないが、オリビエはハムを一切れランドンの足元に落とした。


「どうしたんだい、お昼食べられなかったのかい」
犬の護衛を連れた野良猫を眺めながら、オリビエはお茶を飲む。
「今日は親父と喧嘩しちゃったの。だから、朝から帰ってないんだ」
「僕も良く叱られたよ、学校を半日で抜け出したりしたからね」

キシュはスープをすする手を止めて、上目遣いで見上げる。小さく肩をすくめるとスプーンをおき、黙って器ごと持ち上げて飲み干した。
目を丸くしてみている青年に、満足げなため息を吐き出すと伸びをする。

「本当に野良猫みたいだ」
「飼ってみる?」
キシュが立ち上がってオリビエの前にかがみこんだ。目の前に少女の白い胸元が見えたが、あまり色っぽいとはいえなかった。

「多分、手に負えないし、ひっかかれそうだ」
「ちぇ。泊めてもらおうと思ったのに」
「それはまずいよ」
「同じだよ、昨日外泊したから親父と喧嘩したんだ」
「外泊」
この歳の女の子にはあってはならないことだ。

細く清らかで真っ直ぐに見つめる太陽のような少女は、一方では濃い影を身にまとうのかもしれない。オリビエは幼い頃に良く通った街の教会を思い出した。ミサの日には聖母の像がランプに照らされ、なぜか恐怖心を感じた。
安らかな慈愛の笑みも、暗がりにあれば違うものに見えた。

「そ。男の子の家に泊めてもらったんだ。あんたは友達じゃないから、一応代金払ってあげようか」そういって自分の体を指差してみせる。
「お母さんが悲しむだろう。それに教会の教えに……」
「説教臭いな。あのね、オリビエちゃん。あたしももう十七なんだからね。恋人の一人や二人いてもおかしくないんだ」
「二人はおかしい」
「じゃ、三人。あんたも入れてあげようか」
「結構。それに、十七じゃないだろ」
「体が小さいのは痩せてるから。痩せてるのは貧しいから。貧しいのは」

そこで止まると、オリビエをじっと上目遣いで見上げた。青い空の瞳はランプの明かりでしっとりと潤んで見える。
「なんだよ」
「あんたたちがこんな贅沢しているから」

そう口を尖らせて、テーブルに残る料理を指差した。
「だいたい一人分でこれは多すぎるでしょ。いつも残してるんでしょ」

図星だった。食べきれないとシューレンさんに言ったことはあるのだが、成長期なんだとか、もっと食べないといけないとかで、どうしても減らしてくれない。

それが普通の分量なのかオリビエには分からないが、とにかく毎日あまってしまう。
それ以上に贅沢な内容と分量の侯爵家の夕食については以前アネリアがこぼしていた。

「いい?世の中には決まった量のお金と食べ物しかないの。それをね、あんたたち貴族がたっくさん持っているから、皆に回らないんだよ。わかる?怠惰と贅沢、それこそ教会の教えに反しているわよ」
「じゃあ、働き者のよき信者のキシュに、夕食半分食べてもらうってのはいい判断かな」
「さらに一晩の寝床を提供してくれるならね」
「それは断る。帰る家があるんだから帰りなさい」
「かわいくないの、年上ぶって」

つんとしてリビングへと歩き出しながら、少女は赤い髪を煩そうに束ねなおす。
その白いうなじは痩せて、確かに僕は贅沢なのかもしれないとオリビエに思わせた。

「おいで、ランドン」

振り向きもせず、ランドンのわんという挨拶を残してキシュは帰っていった。テラスの引き戸を開け放したまま小さくなっていく影は夕日になぶられオレンジに染まる。



そんな風にたわいない会話を楽しむ日もあれば、一曲だけ歌ってパンを持って帰る日もあった。
それでも、一人きりの家に帰るよりはキシュがいてくれたほうが楽しかった。
野良猫に餌をやる気分なのだと、オリビエもわかっていた。けっして懐かない野良猫ということも。


第三話は6月30日公開予定です♪

「音の向こうの空」第三話 ①

―第三話『春を待つ鳥』―



この地方の秋は短い。
リビングの暖炉に薪をくべるようになると、キシュは温かいオリビエの家にもっと長くいたがるようになった。

相変わらず住んでいる場所や本名ははぐらかされていたが、少女の服装が季節に関わらず変化しないことに気付いてオリビエはクリスマスまでに温かいコートをあげようと決めた。
小さい手はアネリアのようにかさかさとしていて、不器用にナイフとフォークを操るそれをつい、見つめている。

「これ、何?」
見慣れない食べ物があったのか少女はフォークの先でつついて転がす。皿の中のそれは赤い色をしたスープ。イファレアのミネストローネとも違い、大ぶりのジャガイモと牛の肉、人参や赤カブが入っていた。ビーツと呼ばれるその赤カブはこの地方では珍しいものなのかもしれない。シューレンさんの母国では良く食べられていると聞いていた。

「トマトのスープで肉と野菜を煮込んでいるんだ」
「だから、これ。この真っ赤な変な奴」
眉を寄せる顔が面白くて、つい笑う。
「何、ばかにして。いいよ、食べてやるから。これで死んだらあんたがあたしの親父を養ってね」
「分かった、ランドンもね」
「いい心がけ」
そういいながら、小さくきったビーツを口に含む。
じっと見つめる青年にキシュは上目遣いを返す。

「…なに?」
「美味しい?」
「嬉しそうに笑ってるの、なんか、腹立つんだよね。オリビエってさ、ときどきすごくバカにした目であたしのこと見てる」
「かわいいから」
なかなか慣れない野良猫が美味しそうに餌を食べてくれたら、普通は嬉しいと思う。

「なに。そのくせ、一度もキスしないの」
少女は口を尖らせる。後ろに縛った赤い髪が尻尾のように不機嫌に揺れる。
「してほしいの?」
「そうじゃないよ、でも、失礼な気がする」
「よく分からないな。僕は子供を相手にする趣味ないから」
「だからー。あたし、あんたと一個しか違わないって言ってる」

子ども扱いするといつも言葉はきつくなるけれど、けっして嫌そうでないとオリビエは理解していた。その証拠に顔は赤く高潮しているが赤い尻尾は大人しく肩にかかって動かない。

そのくるりとした毛の先が白い胸元に落ちているのを見ても、あまり心を揺さぶられることはなかった。わざとだろう、いくつかボタンを緩めてあるがその手には乗ってやらない。その方がキシュとの関係は上手く行くような気がしていた。

猫は媚びても捕まりたくないのだ。自由が好きだ。少女の我侭に「はいはい」と答えながら気が向いて甘えてくるのを待つ。そんな飼い主の気分だった。
確かに見下していると言えば、そうなのだろう。

痩せた小柄な少女。無邪気なきつい言葉を投げつけるのは幼いからだ。きっとすぐに意地を張って、かわいく頬を膨らます。それが想像できるからこそ、恋愛の対象とは思えなかった。

以前、ボーイフレンドがいるようなこともちらちらと話していたが、どこまで本当なのか怪しいとオリビエは思っている。男の子の友達はいるだろう。けれど、この子を女性として扱う勇気のある男はそういないと思えた。
何しろ、幼い。
今もオリビエの皿の肉を横取りしようとそっとフォークを突き立てている。

「欲しいならクダサイって、普通は言うんじゃないか?」
「奪うのがいいの。美味しいから」
「変な趣味だね」
「そう。なんでも無理矢理奪うのが美味しいの。クダサイなんて頭下げるくらいならいらないもん」
その変なプライドが幼稚。

運ぶ途中でフォークをするりと抜けた肉が派手にクロスを汚す寸前で、差し出した左手で受け止める仕草も、「あつっ」と慌てる様子も。

「ばかだな!火傷するよ、もう」
痛がる手を取って、水道のところまで連れてくる。
「ほら、冷やさないと」
小さな手に水をかけてやる。井戸水はこの時期は氷のように冷たい。
「ひゃっ!冷たいくて痛いよ!ばか」
慌てて引きかける手首を押さえて、しっかり冷やす。
「放してって!」
「だめだよ。ほら、じっとして」
背中ごと押さえつけると、押し黙ってじっと手を見ている。

「もう、平気だから。ねえ、このままじゃしもやけになるよ」
やけにしおらしい声を出すから、水を止めて乾いたタオルで拭いてやる。

「ほら、冷え切っちゃったじゃないか。オリビエのせいなんだから。だいたい、最初が大げさなんだから」
「大げさじゃないよ、女の子なんだから。綺麗でいないと」
「何、母親みたいなこと言ってるんだよ」
「君のお母さんもそうだろう?」
「いないから知らない。あ、なに?オリビエもそうしてもらったの?男の子なんだから綺麗でいなくちゃって?」

ふと、オリビエは水道の脇に置かれた白い花に目をやった。その日、両親の墓に手向けたのと同じ花だ。葬儀のときに、棺に投げられたのも同じ。
母は美しく眠っているようだった。
「……僕の場合は、演奏のためだよ。絶対にね、傷つけない」
「変なの」キシュは青年が曇った小窓の外の暗がりをじっと見ていることに口を尖らす。

「大切なんだよ。それは仕方ない。母さんが、寒い時期には必ず毛皮の一番高い手袋を買ってくれた。足はしもやけだらけになったけど、手だけはいつも綺麗だった」
「変」
「いいだろ?君より綺麗」
オリビエは手のひらをかざして自慢して見せた。人より少し長い指、程よく筋肉のついた手のひら。アネリアはかつて、とても綺麗だと褒めてくれた。
「ヘンタイ」
「ひどいな」
オリビエは笑った。

キシュが「親父」の話題を出しても、母親の話をしない理由がこのとき分かった。
いないのだ。それはオリビエも同じだった。生まれた子どもが成人できるのは七割に満たなかったし、大人が五十を超えて元気でいられるのも同じ程度だった。
だから、そういう話は珍しくはない。

「さ、デザートがまだだよ」
「あ、そうだ、今日はなんだろ!」
慌ててオリビエより先にテーブルに駆け戻ろうとするキシュの考えは予想できる。
オリビエの分まで口に突っ込むつもりなのだ。
「待てよ!」
「やだよー」
チョコレートで口の周りをべたべたにした野良猫に、オリビエはあきれて笑い出した。
「また、手を洗わなきゃいけないだろ?」

こんな楽しい夜が、ここ最近は日常なのだ。
クリスマスは侯爵家での夜会やミサで会えない。だから、その前に少女に似合うコートを用意してあげたい。

次へ♪

「音の向こうの空」第三話 ②

―第三話『春を待つ鳥』―



オリビエが誰かにクリスマスプレゼントを贈るのは初めてだった。

どうしたらいいのか分からず、とりあえず頼りになりそうなシューレン夫人に話してみた。
夫人は目を真ん丸くしていたが、エスファンテの街で手に入るだろうと教えてくれた。
オリビエはそう言われて黙る。

「あの。シューレンさん。僕、現金を持ってないんだ」
それはプレゼントの話以上に彼女を驚かせた。

必要なものはすべて、侯爵家で準備される。食事も衣服も日用品も、すべてシューレンさんを介して手に入った。本が読みたいと思えば、侯爵家の侍従長ビクトールに話せば、二、三日のうちに届けてもらえた。

自分で何かを買いに行く必要も、自由もなかった。
公爵夫人の買い物につき合わされ、一緒に山ほど服を買ってもらうことはあっても、自分で支払いをしたことはない。
それは、十三の時にすべての遺産を侯爵に預けた時からずっとそうなのだ。
不便でもなかった。

「それは、困りましたね。そのお嬢さんの服を買うのに、侯爵様のお許しが出るかどうかは…」
アネリアとの結婚を許してもらおうとした、あの時の侯爵を思い出す。
「ビクトールに言えば…」

ふと、アネリアのときのことを思う。
またか、と呆れられるだろうか。

別にアネリアとの間柄とは違う、ただの友達だ。

「僕にも、何か。そうだな、お金になる仕事があれば」
「オリビエ様、それは堅く禁じられておりますよ」
朝食後のコーヒーをもらいながら青年はため息をついた。

マイセンのカップに描かれた鮮やかな蘭の花が褐色の揺れる水面に現れては消える。
ここ数年、公爵夫人が夢中になって集めている品だ。フロイセンで作られる白磁の食器は銀食器より人気があった。
シューレンさんもその器にはことさら気を使うらしく、いつも食器棚の決まった場所に贅沢なほど場所をとって置かれていた。
「ね、シューレンさん」
「はい?」

「これ、売っちゃう?町に質屋があるよね。絶対にいいお金になると思うんだ」
欲しいといったわけでもないのにアンナ夫人が買ってくれたものだ。
「お、オリビエ様!!そんなことをなさるなんて、罰が当たりますよ!」
顔を真っ赤にして、シューレンさんが怒鳴るので、オリビエは冗談だとなだめる。

「オリビエ様。その、キシュという娘さんは学校に通っていないのでしょう?教会の教えを受けているとは到底思えませんし、貴方様に良くない影響を与えるのではないかと心配ですよ。その子のためにそんな恐ろしいことをおっしゃるなんて」
「分かったから。しないから、そんなこと。ゴメン。そう怒らないで」
そう、どうせできやしない。
「二度とそんな恐ろしいこと、おっしゃらないでくださいませ」
「約束するよ。だから、そんな風に怒らないで欲しいな」

丸い頬を赤らめて怒るシューレン夫人が哀れに思えてオリビエは背後から軽く抱きしめた。
少しだけバターの香りがした。

いつのまにか自分の身長が夫人を軽く追い越していることに気付いて、あれ、と声を上げる。「シューレンさんって、こんなに小さくて可愛らしかったかな」とつぶやくと「オリビエ様はもうご立派な紳士でいらっしゃいますよ。私はとっくに気付いていました」と笑う。

「お会いした時にはまだ、小さなお坊ちゃまでしたのにねぇ。夕方私が帰ってしまうのを淋しいとおっしゃってくださいましたね」
そうやって見上げる表情は、昔から変わらない。今も、悪戯な子供を見るように目を細める。淋しいなんて言った覚えはないぞと記憶を探る青年に夫人もいたずらな笑みを返した。
「冗談ですよ」

それでもその日以来、マイセンの食器の棚には鍵がかかった。
シューレン夫人がオリビエのことを思ってしたのだろう。あるいはキシュのことを心配しているのかもしれない。別段そのことを問いただす必要もないので、マイセンの美しいカップはもっぱら観賞用になった。

次へ♪

「音の向こうの空」第三話 ③

―第三話『春を待つ鳥』―


北の山々から冷たい風が吹き降ろされる季節。
その年は例年より早く霜が降りた。寒い時期には音楽堂にストーブが焚かれる。一年ぶりに火を焚くそれのために、煙突を下男のモスが掃除してくれた。
こんなものが引っかかっていましたと、主のいない鳥の巣を見せた。

「取ったのか?来年鳥が困るだろう」
真顔で元に戻す方法を考えるオリビエに、モスが煤だらけの顔に白い歯を見せて笑い出した。
「楽士様、本気で空っぽの巣のために、この冬ストーブなしで過ごされるつもりですかい?あっしは反対しませんがね、皆外套を着たまま震えて曲を聞かなきゃなんねえですよ?」

「……そんなに、笑わなくても。ちょっと、戻せるか考えただけだろ。あんまり綺麗に丸く出来上がっているからさ。鳥もバカだな、こんなところに巣を作ったって取られるのに」

「鳥は利巧ですよ、どんなに自由に空を飛んでても、羽を休める時期と場所が欲しいんでさ。今はもっと南の暖かいところに渡りの最中でさ。それにね、なくなりゃまた、作るんでさ。それが鳥ってもんだ」
オリビエはしげしげと丸い木の枝で作られた巣を見つめた。

「オリビエ様は、鳥が好きなんですね」
「あ、まあ、ね」
自由に、空を飛べるから。


「あっしはどうにも不憫に思いますよ」
「鳥が、不憫?」

「翼があるのは、飛ばなきゃなんねえからだ。それは、この地上で足をつけて生きていけねえってことでさ。不憫ですよ。いつだって死に物狂いで飛んでるんです」
モスの低いだみ声を聞きながら、オリビエはチェンバロの空を眺めていた。


その日、鳥の巣を持ち帰ったオリビエを、いつものように待ち受けていたキシュがからかった。
「素敵なリースじゃない、羽とかついているし、クリスマスにぴったり?」
「……」

何故持って帰りたくなったのか、オリビエにも分からなかった。綺麗に丸く作られたそれを薪と一緒に燃やそうとしたモスを止めた。帰る場所を鳥がなくしてしまう、そんな感傷を抱いた。冬の間預かって、春に元のところにおいてやれば鳥も戻るのではないかと。巣に宿る小さな命がちいちいと可愛らしい鳴き声を聞かせてくれることを想像すらした。
「どうしたの?オリビエちゃん、おかしいよ」
「いいんだ、これは」
「ま、ヘンタイの考えることは分からないけど」そうあきれる少女の脇で、ランドンは鼻を鳴らして青年の持つそれに興味を示す。
犬から避けて、キッチンの食器棚の上に隠した。

「何これ!」
オリビエをからかおうとさらについてきていたキシュがテーブルの上にぎっしりと積まれた色とりどりの箱に飛びついた。

丸いもの、四角いもの、小さいもの。どれも派手なリボンをつけてテーブルの上だけがパーティーのようだ。

「ねえ、オリビエ、これ何?贈り物?ねえ、何、なんなの!?開けていい?開けるよ?」
一気に子どもっぽくなる少女にオリビエは「手を洗ってから」とたしなめる。
「何、年上ぶって失礼な」と文句を言いながらも素直に手を洗ってくるのは、包みの中にお菓子があることを想像しているのだろう。
少女の予想通り、いくつかの箱にはキャンディーやクッキー、肉の燻製などが入っていた。

「これ、ねえ、こんなにたくさん、なんなの」
止めるまもなくキャンディーをポケットに詰め込んでいる少女にオリビエは湯を沸かしながら応える。
「侯爵家からのクリスマスの贈り物だよ」
「……オリビエって愛されてる」

まだ、遠慮の一つもなく包みを開け続けている少女は派手な飾りボタンと刺繍の入った上着を引っ張り出すと羽織ってみる。もちろん大きいために垂れた袖は少女の膝に行儀よく乗っている。すでにその膝には大きめの手袋とアルパカのマフラーがかかっている。真っ赤なヒイラギ模様のセンタークロスをびらびらと広げてランドンにかけようとする。
「キシュ、あんまり散らかさないで欲しいな」
「ね、ねえ、これ、いいな、素敵」
キシュが取り出したのは、深い紅色のコートだ。

「あれ、これオリビエには小さいじゃない、あたしもらってあげる」
「それ、新しいものじゃないんだ」
「いいよ、綺麗じゃない、素敵。ありがと、あたしにだってクリスマスは必要よね」
「僕から」
「え?なんか言った?」

「僕からの、プレゼントだよ。と言っていいかわからないけど」
オリビエはせっかく入れた温かいお茶も、置く場所が見つからず持ち上げたポットをまた置いた。

「さ、夕食。ほら、それ片付ける。リビングに持って行って。後で見よう、明日侯爵様にお礼を言わなきゃならないから。運んで」
「ねえ」

オリビエはまだ未開封の箱をいくつか抱えるとリビングのテーブルに運んだ。後から赤いコートを抱え、オリビエの上着を羽織った少女とテーブルクロスを背中に乗せたランドンが続く。
「ねえってば」

「ほら、そこに置いて。ああ、そのマフラーはシューレンさんの分だから、ちゃんとたたんで」
「ねえ、オリビエ!これ、このコート!」
「だから、君へのプレゼントだって」

気配を感じて少女のほうに向き直ると新しい上着が投げつけられた。

次へ♪

「音の向こうの空」第三話 ④

―第三話『春を待つ鳥』―


「キシュ、乱暴だな」

少女は先ほどまでのだぶだぶの上着少女ではなくなっていた。

リビングの窓に反射する自分をしっかり見ようと右に左に回ってみせる。しげしげと袖口のレースを眺め、次に胸元をなで、裾をひらりとさせてみる。
赤い毛織物のコートは上質ですんなりした腰のラインが華奢な少女を女性らしく見せた。胸元を飾る刺繍とレースはなだらかな丘を築き、その真ん中で小さな両手が組まれていた。
祈りに似たそれをする少女は聖女のような笑みを浮かべていた。

「ありがとう」

多分、初めてだったろう。
キシュがオリビエに礼を言った。

「あ、いや。その。ごめんね、それ、お下がりなんだけど。まだ袖を通していなかったはずだから」
「お下がり?これが?誰の?すっごい素敵だもの、このままお貴族様のパーティーにも出られそうよ」
「それ、母さんの、なんだ。五年前のだけど質のいいものだから」
どんと、少女に抱きつかれた。
「わ、キシュ……」
赤毛が耳元をくすぐった。
案外背が高いんだと、今更気付く。それともこの数ヶ月で伸びたのか。

「ごめんね、僕は自分で買い物できないから、どうしても新しいものは買えなかったんだ。それでも、何か君にお礼をしたくて。やっぱり、気に入らないかな、母さんのだから大きいと思うけど」
キシュは黙って首を横に振った。
「キシュ?」

押し付けられる額、頬。
泣いている?
嬉しくて?
あのキシュが?

だとしたらそれは奇跡というものだ。

不意に少女は顔を上げた。
期待する涙は見られなかったがいつもと少し表情は違った。

「あのね、そんなのもらえない。あんたバカよ。ヘンタイの上にバカ。形見でしょ?お母さんの」
「ん、まあそうだね。でも誰も着ないんだから」
「だめ、いらない。ちゃんと自分で買ってプレゼントして」
そう言われれば、反論は出来ない。
「……そうだね。ごめんね」

あれほど喜んでくれたと思ったのが、どうにも少女の気持ちは分からなかった。

乱暴に投げ返されたコートを抱え、オリビエは二階にある両親の部屋へ持っていった。冷え切った両親の寝室は、埃一つない。あのときのまま、いつでも使えるようにベッドにシーツも敷かれている。シューレンさんの優しさなのだ。
そこにオリビエが花を絶やさないことをシューレンさんも知っているのだ。

赤いコート。これをシューレンさんが見つけてくれて、これなら年頃の子に丁度いいですよと。キシュには大きいよ、母さんのサイズだよ、と笑うとシューレンさんは自分にそれをあてて見せた。

「ほら、オリビエ様、その子と私、あまり身長は変わらないのではないですか?だとすればぴったりでしょう?」
「あれ?」
「オリビエ様、貴方様の身長はもう、お父様を追い越していますし、つまりキシュというその子だって大人と同じです。もう立派な淑女ですよ。まあ、行動は子どもそのものですけどね」

シューレンさんの言うとおり、キシュに似合っていた。両親は常に自分より大きいものだと、そんな印象だったのに。いつのまにか自分自身も父親を追い越していた。
時が経っているのだ。


リビングに戻るとキシュは膝を抱えたままソファーに座り込んでいた。
オリビエが現れて助かったといわんばかりにランドンが足元に駆け寄り、尻尾を振った。
オリビエはランドンにはけっして手を触れないのに、なぜか懐かれていた。

「キシュ、夕食にしよう。お腹すいただろう」
「ほんと、馬鹿なんだから」
まだ、コートのことを言っているのだろうか。

「ほら、おいで。ごめんね、今度は何とか自分で買い物できるようになるから」
「あんたいくつ?お子ちゃまなんだから」
拗ねたままついてくる少女の肩に手を置いた。
「だから、謝るよ、そんなに怒らないで」

「だいたいさ、あんな素敵なもの見せといて。形見だって。ほんと馬鹿なんだから。貴族様と違ってね、あたしたちはパンのためにならなんだって手放すんだよ。あんなの家にあったら親父がさっさと売り払っちゃうんだ。もらえるわけないじゃない。ちょっと考えれば分かるでしょ?」

「え?」
「何、その顔」
気に入らなかったのでは、ないのか。
「形見じゃなかったら、売るの?」
少女は頷いた。
「そう。案外、優しいんだね。キシュ、今日はちゃんとお祈りしてから夕食だからね」
「なにそれ」
「僕はやっぱり感謝しなきゃいけないって思ったんだ」

「神様に?」
「そう」
両親にも、そして侯爵家にも。服を売らずに生きていける環境にある。

「もちろん、キシュにも感謝してる。一緒にいるのは楽しいからね」
「じゃあ、仕方ないわ、付き合ったげる。でもお祈りの言葉覚えてないから、オリビエが話してね」
「じゃあ、覚えようね」
「だからそれが見下してるっての」
「かわいいから、君」
「もうー」

次へ♪

「音の向こうの空」第三話 ⑤

―第三話『春を待つ鳥』―


クリスマスから新年にかけて、オリビエは侯爵家で過ごす。シューレン夫人に休暇を与える意味もある。その間侯爵家で行われる様々な催しにオリビエの曲は欠かせないものになっていた。クリスマスのミサではオリビエの奏でる聖歌は人々を泣かせた。

新年を祝う夜会でも、大広間でダンスが繰り広げられるその一方で、オリビエが演奏をする音楽堂にも客の足が途絶えなかった。皆、踊り疲れては飲み物を手にオリビエの曲を聴きに集った。

一年でこのときほど、これまで作った曲を総動員する日はない。楽譜が尽きれば即興の曲を奏でる。

侯爵の姪に当たる女性の子どもが、無邪気に窓からの雪を眺めるのを横目に見ながら、可愛らしい曲を奏でる。深々と積もる雪は窓の外を青く白く染めていく。夜の闇に音楽堂の明かりが漏れ、雪原に反射して煌く。

その子には今朝、雪だるまを作ってとねだられたばかりだった。オリビエが困っているとビクトールが代わりに小さな雪だるまを窓辺においてくれた。
今も小さなレディは窓の外の白い彼に新年の挨拶を告げているのだろう。


敷地内の礼拝堂で鐘が打たれ、新しい年の始まりを知る。

それを合図に、オリビエのこの年の仕事は終わる。
ふとため息と共に立ち上がり、まだ残っていた客に一礼する。

若い男女、先ほどの子どもが眠ってしまっているのを静かに見守る侯爵の姪。老夫婦。温かい拍手が鳴り止むとオリビエは焚き続けたストーブのために乾燥した喉を潤す。
空腹など感じている暇はなかった。
少しずつ人の気配が減る室内で、イスに座ったまま鍵盤をそっとなでる。

侯爵にもらったブルゴーニュの白ワインを庭の雪で冷やしていたことを思い出し、テラスに出る扉を開く。
差し込む冷気に頬が引き締まる。いっそ心地よさを感じてオリビエは一人テラスに立った。

かすかに届く大広間の人々のざわめきも、庭の木々が積もった雪を落とす音も。全てを心地よく変えてしまう。雪に埋め尽くされた庭は好きだった。音すら美しく変える。

「風邪を引くぞ」

振り向けば、見覚えのある栗色の髪。ランプを背にした影だけでも、分かる。

ロントーニ男爵。
ふと眉をひそめたがその背後に侯爵の姿を見つけオリビエはホッとする。いつだったか、ロントーニ男爵がオリビエを譲って欲しいと言い出したときには、あまり近づくなと侯爵に言われた。

二人は仲が良いのか悪いのか、オリビエには測りかねたが、侯爵家の夜会や茶会には必ずと言っていいほどホスタリア・ロントーニ男爵は顔を見せた。

次へ♪

「音の向こうの空」第三話 ⑥

―第三話『春を待つ鳥』―


オリビエがワインを取り出し、音楽堂に戻ると男爵は肩についた雪を払ってくれた。
「オリビエ、それを飲むつもりか」
侯爵が眉を寄せ、それを見た男爵は笑い出す。
「え、……あ!」

甘い白いワインは凍っていた。

「もうしわけありません、せっかくいただいたのに」
「これはこれで、おつかも知れませんよ」面白がって男爵が無理矢理コルクを引くと、凍りついたそれはぼろぼろと崩れた。
「あ」
「男爵、何をしている。そのようになったもの、飲めたものではない。新しいものを持ってこさせる」

侯爵に命じられたビクトールが三つのグラスと新しいワインを持ってきたときには、男爵は意地でも空けると宣言し、丁度残ったコルク栓を無理矢理ビンに押し込んだところだった。半分凍りついたワインはとろりとし、香りだけを楽しんだ男爵がオリビエに差し出す。
「え、……」飲めと?

侯爵に助けを求めるがいつもの無表情で自分のワインを口に運んでいる。知らん顔だ。せっかくのワインを、という多少の苛立ちも見て取れる。

仕方なくオリビエは男爵の冗談と知りつつもグラスに注がれた凍りかかったワインを口に含んだ。

それは当たり前だがひどく冷たく、そして濃厚な甘みを持っていた。時折触れる氷の塊がさくさくと舌を刺激し、そう、美味しかった。
「あ」

「どうした?感想は」
面白がっている男爵に、オリビエはしてやったりと笑って見せた。
「美味しいです。濃厚で甘みが増しています」
そして一気に飲み干してみせる。

「侯爵様にいただいたものですから、私が責任を持っていただきます」と二杯目をなみなみとグラスに注ぐ、というより落とすオリビエを目を丸くして男爵は見つめる。
男爵はからかうあてがはずれ、嘘をつくなとグラスを取り上げた。
「美味しいですよ、男爵」
口にすると同時に表情を変えるロントーニが面白く、オリビエは笑い出した。

「ほら、ね。まるで噂に聞くフロイセンの貴腐ワインのようではないですか。蜜を落としたようだ。本当に美味しいです」
「ふん、子供向けの味だな」
そういいつつも飲み干す男爵に悪戯な気分になる。
「では男爵もお好きなのですね」
「私を子ども扱いするか、お前は」
「美味しいものは美味しいです。あ、だめですよ、後は私がいただくんです」
ビンを取り合うようにじゃれる二人を、静かに侯爵が見つめていた。
珍しくオリビエの笑い声が響き、同等と化している男爵も楽しげに青年の肩を叩く。

オリビエは空腹と渇いた喉に染み入るそれが気に入って、酔いが回っていることにも気づかない。男爵が目を離した隙に最後の一口を自分のグラスに奪う。

「リツァルト侯爵、貴方も睨んでいないでご一緒にどうです。食事も宴会も、共に飲んで食べるから楽しいのですよ、そうだろう?オリビエ」
「え?あ?」
不意に同意を求められ、最後の一口を取り上げられないうちに飲み干そうとしていた青年は侯爵の視線に気付いた。
「あの……」
オリビエの表情が強張る。
それを見て取って、ロントーニは背中を二回ほど叩いた。
「ほら、それ。侯爵にも」
「え…」
オリビエが自分のグラスを改めて見つめた時には侯爵の大きな手が掴み取った。
「!」

ガシャン!

床に投げつけられたそれは見事なほど細かく砕け、足元に広がった。

「あ……」
立ち上がりかけたオリビエは侯爵の表情から目がそらせない。
「男爵、そろそろお休みになってはいかがかな」
静かな侯爵の言葉はランプの炎すら凍りつかせるように思えた。
オリビエはつい、調子に乗った自分をのろった。

「仕方ありませんね、では、休むとします。侯爵閣下、オリビエ、楽しいひと時だった」

そう残して、ホスタリア・ロントーニ男爵は音楽堂を出て行った。

残されたのは静寂。
立ったまま二人は黙っている。オリビエはうつむき、侯爵は見下ろす。
それはそのまま、二人の関係を物語っていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第三話 ⑦

―第三話『春を待つ鳥』―


「お前は、十六の時から私の前で笑わなくなったな」

オリビエが侯爵の前で笑わなくなったのがいつからだったか、それは本人も気付いてはいなかった。声を上げて笑う、それまでは嬉しいことがあればそうしていた。あの頃は自由かどうかなど気にする必要もなかった。

「は、あの、そうでしたか。すみません」
謝るようなことでないのに、謝ってしまう自分をおかしいと思いつつ、記憶をたどる。
「お前が誕生日を迎えた頃からだ」
それは、あの晩。
「アンナは上機嫌でお前に新しい上着をプレゼントした」
そうあの晩。
初めて、アンナ夫人と関係を持った。

オリビエは痛いほど肩をつかまれ、乱暴に引っ張られる。侯爵はオリビエを連れて音楽堂を後にした。
向かう先はどうやら母屋。オリビエに与えられた部屋も、そこにある。

あの時、けっして自分から求めたわけではなかった。侯爵が恐ろしかったし、自分の立場を考えればしてはいけないことだと十分分かっていた。
それでも、夫人の誘惑に負けたのは、初めて酔うほどワインを飲んだからだ。

足元で不快な音をさせるガラス片と、記憶が重なる。

あの日以来、僕は侯爵の前で心から笑えないでいた。
それを侯爵も気付いている。その理由も、気付いているのだろうか。

黙り込んでついてくる青年を、部屋に押し込むと、侯爵は「明日は休暇だ、ゆっくり寝なさい」と声をかけた。

結局夕食を口にせず、ワインだけを飲んだオリビエは異様な空腹感と気持ち悪さに寝苦しい夜をすごした。二度とワインで酔うような真似はしません、この年初めにオリビエは自戒の念と共に神に誓う。

第四話7月8日公開予定♪

「音の向こうの空」第四話 ①

第四話:思想の騎士、ファリの街


結局あの晩、侯爵がなにを言いたかったのかわからないままだったが、オリビエはいつも通りの春を迎えていた。

音楽堂に昼の日差しが差し込まなくなり、庭の木々が春の盛りを過ぎ緑一色に落ち着きかける頃、オリビエはキシュのおかげで多くの曲を作り上げていた。
それらはどれも好評で、父親を知る貴族にも「父親にないものを持っている」といわせたほどだった。

五月には王立アカデミーのコンクールの噂も聞こえ始める。アカデミーは由緒ある国立学術団体で、学問、文学、歴史、芸術様々な分野の第一人者が会員となり、王国の智の源となる辞書編纂やメセナと呼ばれる学問芸術振興を担っている。年間いくつものコンクールを行い、優れた人物や作品、慈善団体に援助を与えた。

音楽のコンクールは年に数回行われたが、春の音楽栄誉賞がもっとも権威のあるものとされていた。
外国の作曲家や演奏家も参加するほどだった。
その演奏会に行きたい、それはオリビエを高揚させる唯一の憧れだった。

三年前に一度だけ、侯爵夫妻の旅行のついでに連れて行ってもらったことがあった。会場はシャンファーネであったが、エスファンテよりずっと都会で国王の御前演奏会でもあった。
生まれて初めて見る華やかな演奏会、貴族たちに圧倒され、それでも演奏が始まるとオリビエは夢中になって奏者を見つめていた。
その手が膝の上で見えない鍵盤を打つのをアンナ夫人は笑っていた。
最優秀賞を受賞した作品を、滞在していたホテルで再現すると侯爵は気難しげに首を横に振った。
「お前の演奏ではない。真似をする必要はないだろう」
不興だったのだ。
以来、コンクールの話題は侯爵の不機嫌の元となり、コンクールに参加してみたいという小さな野望はオリビエの胸の中深くにしまいこまれた。


「オリビエならきっと優秀賞だよね、そうしたら援助金もらって、侯爵様の犬じゃなくなるじゃない。ねぇ、ランドン」
愛犬をなでながらキシュは言った。
「援助金だけで一生生活できるわけじゃないよ。侯爵様には感謝しているんだ。どうせ飼い犬なら美味しいものを食べさせてくれる飼い主がいいだろう?」
「現金で可愛くないなぁ」キシュは頬を膨らめる。

オリビエの家で夕食やパンを手に入れるようになったからか、それともそういう年齢なのかキシュは初めて出合った頃よりふっくらとし、頬のつやも眩しいほどになっていた。
無造作に束ねた赤毛も、きれいに結わえなおせば美しい女性に変わりそうな予感もあった。服の下に見て取れる痩せた体型も少しは丸みを帯びてきていた。

「なに?」
オリビエの視線に気付いて上目遣いの少女は、何をしたいのか胸元のボタンを一つ外す。
「そっちこそ、なんだよ、それ」
肩をすくめてオリビエが楽器に向かう。

その後姿に少女が顔をしかめて見せたのもオリビエには見えないが。わふとランドンの困ったような声に、見かけほどは成長していない少女を思い、密やかに口元を緩める。

「あ。やっぱりいやらしい顔した」
すぐ脇に立つキシュ。猫のようにオリビエについてきていた。
「いいや、面白いと思ってさ」

そう笑いながら笑みは音に流れる。指が奏で出せばオリビエの意識も視線も何もかもが、音楽に盗まれてしまうことをキシュは知っている。
最近は声をかけても無視されることもある。
奏でられたそれが、数日前に歌ったものだと気付き、キシュも声を合わせた。
二人と一匹のリビングに、少しだけ開けられた窓の隙間から春の夜風が流れ込む。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ②

第四話:思想の騎士、ファリの街


その日はなぜか、いつもと違う時間に侯爵が音楽堂を訪ねてきた。
もちろん彼の家だ、いつ何処に現れようと自由だが、午前のまだ朝の気配が残るうちからオリビエを尋ねるのは珍しいことだった。

濃紺のチョッキの金ボタンは丸く輝き、グレーのキュロットという姿だ。
侯爵はキュロットはあまり好きでないようで、普段は身につけない。オリビエや侯爵家の母屋に出入りする雇い人は男なら皆、キュロットの着用を要求された。夫人が好きなのだ。

だから、オリビエも今日はドレープのたっぷり入ったシャツに同色のリボンタイ、チョッキは臙脂。キュロットはアイボリーにグレーの刺繍が入ったものだ。裾をリボンで結んでいる。タイツは好きではないからブーツを履いていた。
侯爵は入ってくるなり、オリビエを立たせた。

「これから、首都に向かう。お前も来るのだ」
「え、しかし」
「服は持ってこさせよう。急なことだが、先日の茶会、王弟のロスレアン公が同席されただろう。どうやらお前の曲を気に入り、国王に進言したらしい。今朝方、国王からのお召しがあった」

国王リアン十四世。
実直な、まだ若い王だが、その王妃が遊び好きで有名だ。

宮殿では夜な夜な派手な舞踏会が開かれ、内宮貴族が集まるという。内宮貴族とは、領地を持たない貴族のことだ。王族に連なる血筋のものが多い。また、司教会の上層をなすものも貴族と同様の扱いを受けている。先日ここに立ち寄ったロスレアン公はそう言った種類の貴族だ。

リッツァルト侯爵のように領地を持つ貴族は、必然的に首都から離れた土地に住む。戦争が起こったりすれば、国軍をもてなす義務が課せられるなど大変なこともあるが、領地からの税を徴収する権利があるため、首都に住む内宮貴族よりは実情は裕福なのだ。

首都に住む貴族は、地方貴族を田舎者と侮蔑する傾向があり、よほどのことがない限り、侯爵も好んで首都に赴くことはなかった。
年に数回。アンナ夫人にせがまれて、買い物に出るくらいだろう。
まだ、オリビエは首都ファリに行ったことがなかった。


「あの、演奏会が開かれるのですか?」
侯爵は渋い表情をする。
いつもの、出し惜しみ、というものだ。

「お前は、向こうに着いたら病気になれ」
「え、あの」それなら行かなくても。

「王のご命令には従って連れて行ったが、体調不良で演奏は出来ない。よいか、そうするのだ」
「はい」
それはそれでいい。貴族たちが大勢集まる宮殿など想像できない世界だし、その上国王にお目通りなど、緊張するばかりだ。

侯爵の指示を受け、形ばかりだが譜面を用意しているところに、メイドが衣装をいくつか持ってきた。
丈夫なトランクにそれらを詰め込みながら、オリビエはため息をつく。
衣装にしみこんだバラの香り。これは、アンナ夫人が用意したのだと分かる。

「素敵な衣装ですね、オリビエ様」
メイドの一人が羨ましそうに絹のシャツをたたむ。
「そうかな、ちょっと派手だよ」
「あら、アンナ様がものすごく張り切っていらっしゃって。これでは足りないから向こうで新調なさると聞きましたよ」
「え、そんなに長期間なのかな。参ったな、聞いてない」

「あら、何かご予定でも?」
キシュに何も言っていない。

「悪いんだけど、僕の家に来ているシューレンさんに、伝言を頼めないかな」
「いいですよ。午後に街に出る予定ですし。久しぶりに彼女にも会いたいわ」
オリビエはシューレンに当てた手紙に、キシュが尋ねてきたら、急な旅行のことを伝えてほしいとしたためた。
また、彼女が遊びに来たら、仕事の邪魔にならない程度に相手をしてやって欲しいと付け加える。
世話好きなシューレンさんなら、キシュも機嫌を損ねることはないだろう。


四頭立ての馬車を二つ。馬に乗った従者が十人。
オリビエは侯爵の腹心で、この街の市長をしている人物と同じ馬車に乗ることになった。時々茶会で顔を合わせ挨拶する程度で、あまり話したことはなかった。

でっぷりとした腹を金ボタンの朱色のチョッキの下に蓄えたルグラン市長は、薄くなった頭部をかきながら愛想の良い笑顔を浮かべた。彼が身じろぐたびに馬車の座席は小さく鳥のような鳴き声をあげた。

オリビエは形だけの貴族の称号をもらっている。
ただ単に、「租税を払わなくて良い特権」を得るためだけの称号で、それは侯爵が両親を亡くしたオリビエのために用立ててくれたものだ。
どうやって国王の許可を受けたのか経緯は分からなかった。正式には、オリビエンヌ・ド・ファンテルである。オリビエは街の人々からは「ファンテル卿」と呼ばれていた。

「ファリ紀行には良い天候ですな、ファンテル卿」
だからルグラン市長もオリビエをそう呼ぶ。

「はい。突然のことで、まだ実感がわかないのですが。ルグランさんは何度かファリには行かれたんでしょう」
そこで、市長は眉を上げ、自慢げに鼻の下の髭を伸ばした。
「ファンテル卿は首都は初めてですかな」
「え、ええ。旅行はあまり」
旅行と言っても常に侯爵のお供だ。
自分のために街を離れたことなどなかった。

「では、驚かれますよ。このエスファンテが東の果ての田舎町だという意味が分かりますよ。ファリでは市民はみな、五階建てのアパルトメントに住んでいるんですよ」
「ご、五階!?」

侯爵の城も、数えればそれくらいはあるのかもしれないが、平民の住む家がそんな高さだとは想像もつかない。エスファンテの市の中心部、市庁舎でも三階建て。レンガを積んだそれはオリビエが見たことのある立派な建物の中で五本の指に入る。

「この街じゃ届く新聞は一つですがね、かの首都では十を超える新聞が発行されているといいますよ。今回呼んで下さったロスレアン公は、ファリの自宅を平民に貸し出して、アーケードを経営しているのですよ。カフェがありましてね。そこで弁護士やら司祭やら、はたまた女まで政治や思想を語るそうですよ。今じゃ、新しい話を聞きたいのならそのカフェ【エスカル】へ行けと言われるほどです」

新聞や政治の話はオリビエには遠い世界だった。
メイドたちの噂や、茶会の席の客たちの会話からちらちらとうかがい知る程度で、あまり興味もなかった。

「そうですか」
オリビエの感想がそれだけと知るとルグラン市長はうっすら笑って被っていた帽子を取った。
「失礼、今朝早かったのでね」
帽子を顔にかぶせ、眠ってしまった。

政治や思想。
自分とはもっとも無縁なものに聞こえる。

オリビエもまた揺れる窓に肩を預け、眼を閉じた。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ③

第四話:思想の騎士、ファリの街



この国には二つの権力がある。
教会と貴族だ。
そしてその頂点に国王がいる。

数百年前に当時の国王が神に似た存在であると自分を位置づけてから、国王を頂点とした身分制度が確立された。大まかに身分制度を説明すれば、国王のすぐ下に司教会に属する司教たち、そして貴族。その下には平民と農民がある。

司教とは貴族の家系から聖職者になったもののことで、同じ聖職者でも司祭は平民と同じ扱いであった。
貴族の特権は、「租税を納めなくて良い特権」があることや、「領地を持つ特権、その領地から租税を徴収する特権」などだ。細かいものになれば、帯剣の特権、家紋の特権、風見鶏の特権、狩猟の特権などもある。

人々は教会からの租税と、領主からの税、そして国税。三十の苦役を担っていた。
これらは小作農民や貧しい町民にとって重圧であった。

このところ発展してきた工業を経営する商人、弁護士や医師など、平民でありながら下級の貴族より資産を蓄えるようなものも現れていた。彼らはブルジョアと呼ばれ、下級貴族から特権を購入する裕福なものさえいた。

宮廷はここ数年、新大陸の独立戦争へ派兵したり隣国と競って新たな港を建造したりするなど浪費が続き、国庫は破綻しかけていた。
その上、昨年は酷い干ばつで、農村では餓死者も多いという。
オリビエは噂と今目の前に見える農村の風景を比較していた。

昼下がりの黄色い日差しの下、麦畑は緑色の穂を揺らした。人気のない田舎道。道の脇で牛を引いた老人が一人、オリビエたちの一行が通り過ぎるのをじっと待っている。その小さな姿はすぐに流れ去っていく。

東にはアウスタリア国の高い山々が真っ白い峰をそびえ立たせている。
このエスファンテ市は平地が多く、穏やかな気候と綺麗な水がある。昨年の干ばつでも侯爵が広い領地から徴収した麦の一部を村々の農民に配給した。
各地で起こっているという農民一揆の噂も身近ではない。
思想家が集会を開くような街でもない。遠い首都で始まろうとしている議会のこともオリビエにとっては他人事だった。


「ああ、すごい!」
何度目かのオリビエのため息にルグラン市長は髭を揺らして苦笑いする。
「ファンテル卿、子どものようですな」
「あ、でも、見たことないですよ、こんな美しい建物があるなんて!やっぱりファリはすごいな」

オリビエは馬車が駆け抜ける町並みに感動していた。道が石畳になったときには驚きと共にその振動に閉口していた。それでもファリに近づくにつれ増えていくアパルトメントや豪華な飾りのついた聖堂、赤く塗られた酒場の扉にも感心する。

通りでは馬車が群を成してすれ違う。そんな光景は見たことがなかった。

そして今、招待されたロスレアン公の屋敷で馬車を降りてオリビエはもう一度。すごい、を口にしたのだ。

「オリビエ、疲れたわ、手を引いてちょうだい」
アンナ夫人の声が響くとルグラン市長は下卑た笑いを浮かべ、肩をすくめる。そそくさとオリビエのそばから離れて馬車から荷物を降ろしている下男に声をかけていた。

侯爵はとそちらを伺えば、婦人のよき夫である侯爵は丁度ロスレアン公の執事の挨拶を受けているところだった。すでにこちらに背を向け、侍従長のビクトールを従えて案内に従って母屋の正面へと歩き出している。通常ならその隣に夫人も寄り添わなくてはならないのでは。婦人もそれに気付いたらしく、立ち止まるとオレンジのドレスを翻す。
が、彼女の視線は高く。
壮麗な母屋の建物を見上げていた。

空にそびえるような尖塔を持つ華やかな様式の古い建物は、白い壁に新緑の蔦をまとい、風に揺れるそれらは建物が息をしているように見せた。昔のバジリカだというそこには聖なる十字が高く掲げられている。さび付いたそれに白い鳩が胸を膨らませ佇む。

次へ♪

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