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『La croisade de l'ange 1:Reims』 ①

らんららです。
新しい物語。初めて、女の子が主人公!!
恋に冒険に、シャルルは大奮闘ですよ~!!


『Reimsランス』①


―13世紀フランク王国。かろうじて王国の形をとっているものの、まだ、多くの力ある都市に別れていた。諸侯が支配する都市、聖職者が支配する都市、それらとつながるたくさんの村落。それらは農業技術や流通の発達とともに成長し、まるで胎児のように多くの血液を必要としているようだった―



丘に駆け抜ける風が白馬のたてがみをかすかに揺らす。
吐く息が白いのは季節のせいではない。この土地は山々を見上げ、村落を見下ろす場所にある。昼前から林道に馬を走らせすでに日は高く頭上から照らす。
右に広がる牧草地で今、ぬくりと羊が一頭、首をかしげる。

無言の主人がなすがまま白馬は規則正しく歩を進め、かすかに霧の残る森に入っていく。しっとりとしたそこは背筋を寒くさせるが、震えたのは馬だけ。馬上の男は行く先に目的の修道院を見つけ手綱にも安堵が伝わる。

緑濃いこの土地は、森の修道院を門番のように置き、その背後に続く高地に街を構える。低地ならば城壁をめぐらすのが通常だ。だが、この街には切り立った断崖という天然の城壁がある。北にフランドル地方、南にシャンパーニュ、西にイル・ド・フランスを望むこのランスは国内で最大の権力をもつ大司教座がある。
ランス大司教の治めるこの街は、大司教座を支える参事会員が住まう小さな町だが、その配下の司教区は広く、貴族の所領や国王の王領をまたぐ形で広がっている。諸侯の支配とは別に宗教による支配がどの街も及んでいるのだ。男がそこに向かうのも、侮れないこのランス大司教座を味方にしておくための重要な目的があるからだ。羊たちの見上げる森の向こう、山間には巨大な大聖堂の二つの塔がのぞく。

男は修道院の門前で馬を降りる。それを待っていたかのように、修道院の中庭から子どもらが飛び出してきた。小さいものはまだ走る姿ももどかしい幼児、上は十歳は数えるだろう子どもらだ。騎士が珍しいのか、男の脇に駆け寄るとしがみついたり手を伸ばしたりする。
「こんにちは!あんた誰?」
「お菓子持ってる?」
「これ、本物の剣なの?」
「あっちへ行け、私は司教様に会いに来たのだ」
すがりつく子どもらを振り払うように足を速め、馬だけは迷惑そうに長い足の踏み場を選びながら男に引かれて進む。
回廊に囲まれた小さな中庭の真ん中に井戸。白い石を積み上げたそこに、子供が一人座っていた。ミモザ色の髪がふわふわと額にかかり、すみれ色に見える瞳がはっとするほど際立っていた。
「チビども、じゃまだってさ!」
通る声に子どもらが一斉に反応し鬼ごっこが始まったかのように散り散りに走り去っていった。ちびども、と呼ぶほどに井戸の子供が年上というわけでもない。
「お客様だよね。待ってて、今院長さまに」
子どもに何の権限があるのか。男はかまわず歩みを続ける。
「シャンパーニュ伯よりの使いだ。通らせてもらう」
サーベルの鞘がチカと鳴る。
子どもが立ちふさがった。
「待てって、言ってるだろ!この時間は聖堂でお祈りなんだ、強引だな!」
両手を広げ、精一杯大きく見せても男の腰ほどまでしかない。十一、二歳というところだ。
男はかまわず進もうとした。大人を邪魔する子供が悪いのだ。無造作に男の膝が子どもの腹に蹴り出される。
物陰から覗いていた子どもらが思わず顔を覆い、小さな悲鳴を上げた。

男は当然予想していた感触がないことに次の一歩で気付く。
目の前に、ぎらりと刃が輝くことも。
「な?お前…」
木漏れ日を弾く刃が自らの首にぴたりと当てられていることに男は我を忘れた。
相手は指で弾けばよろめくような子ども。短いズボンに少し大きすぎる半袖のシャツ。孤児にしては妙に身奇麗な少年。長い睫の瞳をそれと認めた瞬間、凶暴な怒りが男の身の内に湧き上がる。騎士の武器に手を出しそれを無礼にも大人の首に当てようなど。血を吸った剣に触れる子供の手は禁忌を侵すに似て見える。
「無礼な!」
男は怒りに任せ子供を突き飛ばした。大人の力に数メートル飛んだ。
が。
くるりと、手にしたサーベルの重さを反動に猫のように身を翻す。
つ、と後ろに引いた裸足の踵が地に落ち着くと、次の瞬間大きな一歩で間合いを詰め、サーベルを薙ぎ払う。
「わ!」
慌てて男が飛び上がらなければ、脛あてをしているとはいえ、片足を引きずることになっただろう。
「貴様!危ないだろう!」
「危ないのはどっちだよ!言葉が通じないなら、帰れ!僕は少し待って欲しいって言ってるんだ」
「シャルル!やめなさい!」
子どもの甲高い声は手を叩く音で遮られた。
興奮気味だった馬が鼻息を荒くしたのが耳に入り、男は大人らしからぬ行動だったと今更気付く。
ゴホンと一つ咳払いし、声の主、今正面のエントランスから姿を現した院長に目をやった。
白髪を綺麗に結った女性は白い衣装に身を包み、音がしないのではないかというほど優雅な動きで男の前に立った。子供は不満げに院長を見上げた。
柔和な女性はちらりとそちらに視線を落とす。僕は言いつけを守ったのですと言いたげな子供の表情、それから手に持つサーベルへと院長の視線が流れ。
ぱん!
あれ程機敏な子供に、身じろぎの隙すら与えず院長の手は白い頬を打った。
「シャルル!そのようなものを振り回すとは何事ですか!武器は俗人の持つ恐ろしい道具ですよ!」
ちぇ、と小さく肩をすくめた子供が差し出した「恐ろしい道具」を受け取ると、院長は男の前に差し出した。
「ご無礼をお許しください」
と丁寧に腰を折った。男は内心「あんたが一番無礼だ」と呟いたかもしれない。受け取りながら憮然とした表情は隠さずに本来の台詞を口にする。
「シャンパーニュ伯より、火急の報せです。大司教様にお会いしたい」
男の言葉に院長はかすかに眉をひそめたものの、背後に控えていた修道女に案内を命じた。

そっと。院長が振り返る前に姿を消そうと、シャルルは猫のようにふわりと駆け出す。
「シャルル!これ!水汲みは終わったのですか!」
こだます声は完全に無視して、シャルルは見送る子供らをすり抜けて走る。
「院長様、これ」と小さな少女が指差した手桶には摘み取ったばかりなのか白い小花が水の中に揺れていた。
「院長様のお部屋用だって、シャルルが言ってたよ」
この一個は私のなの、と少女は髪にさした一つを院長に見せる。
その可愛らしい仕草に院長は頬をゆるめた。


「お客さん、って柄じゃないよね」
シャルルが吐き出すそれに応えるのは足元を駆けるイタチ。長い尾を振り応えているように見える。
森を駆け、牧草地に出ると羊たちの間をからかうように走り抜ける。イタチは羊の背から背に、地に降りたかと思えば次にはシャルルの肩にいる。
牧草地を走り抜けた先は川が流れている。山地からの清流を集めたそれはたっぷりと深く、小さいくせに侮れない川なんだよ、とシャルルはイタチに語ったことがある。今日も深いよどみは緑色をしている。
お日様も照らせないくらい深いんだから。
川沿いを歩きながらシャルルはそんな事を思う。
視線を奪う川の流れは小さな木の葉で早さを見せつけ、その先へとシャルルは顔を上げる。
水車小屋、そこの番人がシャルルの午後の仕事だ。黒ずんだ木製の水車からとろとろと流れる水はきらきらと輝き、眩しくてシャルルは菫色の瞳を細める。
イタチも午後の仕事を承知しているのか、するりと先を走り水車小屋の扉の隙間から入り込んだ。そこに住みつく小虫や小ネズミが彼の主食。当然意気揚々と向かう。

錠前を首に下げた鍵で開くと、シャルルは重い引き戸に手をかけた。
水車小屋の中は外の水車の様子を見るための小さな窓が一つあるだけで薄暗い。鼻をつく穀物の匂い。これは好きだ。不思議と懐かしく気持ちが落ち着いた。生まれてすぐはこんな藁の上に寝かされるのだと誰かが言っていたから、そのためかもしれない。
梯子の上、中二階になっている梁の上をイタチが走り抜けた。
「いいなー、クウ・クルはご馳走食べてさ!」
言いながらシャルルは窓の近くに伸びる木製のレバーをぐんと引きあげた。がこ、と機械が音を立て、水車からの動力を石臼に伝える歯車を起こす。噛み合ったそれによってゆっくりと石臼が回り始めた。シャルルは脇に積まれた小麦の袋から小さなスコップで麦を掬う。ざざっと臼へとつながる桶に流し込めば、そのうち石臼から白い小麦粉がこぼれだす。
出来上がった小麦粉はきれいに集めて、別の袋に詰め込む。
そんな作業を半日繰り返すのだ。シャルルは束ねた髪を結いなおすと、また麦を掬う。

単調な作業だけれど嫌いではない。麦がつぶされて粉になるのはなんだか面白いし、これがあるからみんながパンを食べられる。
もう少しすれば今日の収穫を運ぶ人々がここに訪れ、シャルルに最近あった話を聞かせてくれるだろう。昨日は村はずれのシリィさんが、子羊が生まれた話をしてくれた。今度見においでと言ってくれた。今日は誰が来るだろう。
「シャルル」
ほら来た。

「ロンダ!」
シャルルは声を上げると戸口のかんぬきを取り除き、引き開けた。
「シャルル、いるか」
がっしりした青年が日に焼けた頬を赤くして立っている。脇のロバの引く荷台には麦の入った袋が積まれていた。
「約束のもの、持ってきてくれた?」シャルルがすがりつけば、青年はぐりぐりと子どもの頭をなでる。
「おう、苦労したんだぜ?途中でシャンパーニュ兵が検問みたいなことしていてさ。「騎士でもないのに何のために持って行くんだ」とかうるさくてよ。俺が枝切りに使うんだと言ったら似合わねえとぬかしやがった」
ほら、お前に似合う青にしたぜ、と青年が取り出したのは飾りのついた短剣。きれいな模様が色とりどりの絹糸で織り込まれている。柄には小さな房をつけた青い紐。
見るなりシャルルは顔をしかめた。
「なに、これじゃ女子供が持つようなもんだろ!僕がほしいのはもっとカッコイイ感じの、海賊とかが使うー」
青年はぎゅう、とシャルルを抱きしめると笑う。
「ばか、お前にはぴったりだろうが。貴族のお嬢様がいざという時のために飾りに持つもんだぜ」
「違うよ!もう!放せ、ばか!」
ぎゃ、と。大きな悲鳴を上げて青年は股間を抑えて座り込んだ。
「いってーな、シャルル。お前、本気で小生意気だな!女ってのはこうあるもんだって俺が教えてやろうか?ええ?」
「これが本物かどうか、僕が試してみるってのもいいかも」
青年が見上げれば目の前にシャルルは短剣を抜いて見せる。白銀の刃にゆがんだ風景が映る。
「おいおい、子供がおもちゃにするにはちょっと」
「ほんとだ、本物っぽいな、切れるのかな」
にっこりと。笑うシャルルの表情は可愛らしいだけに青年をぞっとさせる。時に無謀とも思われることもするのだ、この子供は。しかもあの院長に育てられ妙に素早い。
手にした剣を十分使いこなしそうだから、ぬっと突き出すそれに青年は思わず目を閉じた。

「ほら」
シャルルはそっと青年の頬にキスを。
「?」
「ありがとう。ロンダ。大切にするよ」
ロンダがそろりと目を開けば、眼前にシャルルの笑顔。膝を地に着いた青年の頭を抱えるように抱きしめるとくるりと身を翻す。
抜いたままの剣を掲げ、青空に光るそれを眺めた。
「かっこいいー、本物だ」
無邪気なシャルルに座り込んだロンダは呆れて頬づえをつく。
「女らしくしてりゃ可愛いもんを、なんでそういう風になったかね」
聞こえないふりをして、「代金はいいよね、だってさ、街で女に無駄金払うことを思えばましだし。大体、可哀想な孤児の僕から金を取ろうなんてひどすぎるし」シャルルはそんなことを一人空に向かって語っている。眺める短剣に満足した様子で、ふと思いつき荷車の麻袋を振り返る。
「ロンダ、運んでよ。早く」
好奇心いっぱいの子供にはかなわない。ロンダはぶつぶつ文句を言いながらも本来の仕事、麦の袋を肩に担ぐと水車小屋に運んだ。シャルルが麻袋の綴じ紐を真新しい短剣で切ってみたことは言うまでもない。
ロンダの持ってきた乾燥チーズを二人でかじりながら、持ち込まれた麦を三袋、全部粉にするまでシャルルはフランドルの都市アラスの話を聞いた。

交易が盛んなフランドル地方はこの大陸の一、二を争う大都市に発展しつつあった。低地を流れる河川を利用した交易が盛んだ。シャルルはイギリス王国からの積み荷や綿織物の値段の話など、なんでも聞きたがった。
都市の船一艘あたりの入港料にまで興味があり「カレスではその半分だって聞いたのに」とぶつぶつ話す。まだ小さい子供のくせにシャルルは都市の事情に詳しかった。
「シャルル。フランドルは今や商人の聖地だぜ?多少割高でもここで売ったほうが儲かる。行けば何でもそろう。お前にアラスの市場を見せてやりたいな」
「いいよ。どうせ、院長様が許さないからさ」
「ちょうどフランドル伯ジャンヌさまが市場に視察にいらしていたぜ、そりゃお前なんか屁とも思わないくらいお綺麗だったな」
珍しくシャルルが頬を赤くした。
「比べてどうすんのさ、院長様のほうがずっとお綺麗だよ」
「年が違うだろ」
「僕とジャンヌ様だって違うだろ」
まあな、とロンダは困った顔をして横を向いたシャルルの髪をなでた。
この男勝りの幼い少女は、フランドル地方一帯を治める伯爵家の当主フランドル伯ジャンヌの嫡子だという噂がある。噂だが誰も口にしない。つまり表にできないが真実なのだと街の皆は思っていた。
噂は本人も知っている。それを確かめるすべがないことも。
シャルルが事あるごとにフランドルの様子を聞きたがるのも、心のどこかで故郷を求めるのだろうと青年は思う。哀れだ、と。
赤子のシャルルが名を失い、この街の修道院に来た当時にはロンダもまだ子供だった。どこか高貴な生まれを思わせるシャルルの華やかな寝顔を、今も思い出す。

「さて、俺は帰るぜ。きっちり鍵閉めとけよ。なんだか知らないがシャンパーニュ兵がうろついていたからな」
「うん、わかってる。大事な麦と水車小屋だもんね」

青年を送り出し、シャルルは戸口で立ち尽くしたまま荷馬車を見送った。
傾きかけた日差し。牧草地と麦畑がきれいな四角を作って並んでいた。冷たい風の匂いを鼻で受け、くすんと一つ鼻をすするとシャルルは小屋に戻った。

フランドルに行くこと、いや、この街から出ることを院長は禁じた。
世界は広いのに。
生まれた所がどこだろうと、関係ない。行きたいところに行きたいだけ。隔離されているこの街はとてもせまく感じた。

次回7月13日公開です♪毎回このくらいの長さで、毎週月曜日、公開予定です~♪第二話こちら♪


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『La croisade de l'ange 1:Reims』 ②

『Reims ‐ランス‐』



夕闇が迫る前には小屋の中を掃除して、石臼を止める。ずっとにぎやかな音を立てていたそれが止まれば急にうら寂しくなる。
イタチが寝ころんでいた体を起こし、ふらりとシャルルに近づく。
「お前が何か話せばいいのに。そうしたら、お前と二人で僕は街を出るよ」
何か小さく声を上げ、イタチのクウ・クルは走り寄るとシャルルの背中を駆けのぼる。
ぴた、と背を打つ尾がいつもと違う様子だ。警戒している様子でシャルルの肩越しに遠くを見ている。
「なんだよ?」
がた、と。扉を開こうとする音。
「!?」
シャルルはそっと扉に駆け寄り、小さく開いた丸いのぞき窓の十字の格子を見上げる。シャルルの身長ではのぞきこめないが、相手がのぞけば影になるからわかる。
じっと見つめる。
窓をふさぐ影はない。
がた、と。またもや扉を開こうとする。
「だれだ!」
「あ、誰かいる」
問いかけの返事は子供の声だった。

シャルルは閂を外すと、少しだけ扉を開く。
立てつけの悪い重いそれは、コツがわからなければすぐに開けることができない。腰に短剣もある。シャルルはできるだけ威張った口調で声を張り上げた。
「誰だ!ここは用事のないものは入っちゃいけないんだ!」
「重要な用事があるんだ、開けてほしい」
向こうに見える影はやはり子供のようだ。
隙間からのぞくと真っ暗で。

お互いの顔の近さに気付くのに数瞬かかる。
「あ」
シャルルが飛び退くと、扉が開かれた。
駆け込んできたのは二人の少年。
一人は背が高く、もう一人はシャルルと同じくらい。
年齢も同じくらいに見えた。

「ごめんね、ちょっと追われているんだ」と背の低いほうが少しかすれた声で笑った。夕陽の残照で見る顔は小さく、涼しげな青い瞳が印象に残った。
「お、追われてる?」
なぜか多少、言葉が詰まる。少年二人の発音が柔らかくきれいなのに比べ自分がこの地方の方言でおかしいのだと瞬時に理解する。
よく見れば、二人とも絹のブラウスにひらひらとしたレースがついて、どう見ても貴族の子供だ。シャルルは貴族が追われている、つまり何か事件だと決めつけた。
それに拍車をかけるタイミングで少年が力強くうなずき「僕はロイ。こっちがルー。かくまってくれないか」とシャルルの肩に両手を置いた。
「わかった!いいから、その隅に。ここは鍵がかけられるから大丈夫だよ」
あわてて扉を閉め、閂をかける。
振り返ると、少年二人は物珍しそうにクウ・クルの前にしゃがんでいる。

「これ、何?かわいいな」
「クウ・クルっていうんだ。赤ん坊の時に拾って育てた。僕の手下で、白イタチさ。言葉が話せないのが残念なところなんだ」
いいながら、シャルルは二人をじっと見つめる。
ロイ、と名乗った方は寒がりなのか厚いコートの下にさらにマフラーを巻きつけていた。柔らかそうな薄茶色の髪、大きな蒼い瞳をしている。兄弟だとすれば兄に当たるだろうルーはロイより拳ひとつ分くらい背が高い。桃色の頬をして金色の髪に蒼い瞳。穏やかそうな垂れた目が笑うと小さくなる。ルーはクウ・クルにそっと手を伸ばし、首をかしげ見つめるイタチを抱き上げようとする。

育ちのいい貴族のお坊ちゃまたちだ。年に一度の司教座の大祭では大勢の貴族が詰め掛ける、だから貴族という人種を見たことがあった。それ以外に他から貴族が来るって言えば。

「聖別式があるのか?」
それにしては聖堂の掃除とか宿舎の手配とかそんな仕事が来てない。でもあれは奉納金がたくさん入るからお菓子とか果物とか、いつもよりおいしいものが食べられる。
「嬉しいな、この時期なら甘く煮詰めたリンゴのパイとかさ、食べれるかも」
涎をたらしそうなシャルルの笑みに少年二人はきょとんとしている。

「聖別式ってなに?」
甘い夢から覚まされ、シャルルはあわてて口元を拭った。
「あ、ええとさ。司祭様とか司教様とかの階級の高い聖職者が就任するときにする儀式のことだよ。神にお仕えする人は聖なる人になる。フランク王国のルイ八世陛下もここで聖別式をしたんだ。王様は普通の人じゃないから戴冠式の前に必ずこの式をするんだ。この辺りなら皆このランスの大聖堂に来る」
「ルイ八世の聖別式、見たの?」
ルーが頬を高潮させてシャルルに問いかける。
「無理言うなよ、僕が赤ん坊の頃のことだ。王様が変わるって話も聞かないし。……聖別式じゃないのか」
「多分ね」と。あっさりロイが手を振った。
「なんだ。がっかり。お前ら貴族だろ?」
シャルルが指差せばルーはあんぐり口を開けたまま。ロイがイタチをなでながら笑った。

「失礼な奴だな。オマエ呼ばわりされたことがないからな、ほら、しっかりしな、ルー。世の中にはこういうのもいるんだから。僕らは乳母の親戚のいるここに遊びに来ているんだ」
「乳母!」
異世界の響きにシャルルは声を高くする。
「し、声が大きいよ、見つかっちゃうだろ」
「そういえば追われてるって」
何にだろう。
ロイ、と袖を引くルーを無視して少年はイタチを抱き上げて腹を見上げている。
シャルルは扉の前に木箱を引きずってくると、踏み台にして覗き窓から外をうかがった。
斜めからめいっぱい顔を擦り付けてみても丸い世界には人らしき姿はない。

「あ、こいつオスだ」
「えー、でもここにおっぱいがあるよ」
シャルルの心配をよそに二人の貴族は珍しいのかイタチに夢中だ。ルーの肩にくるりと昇ったイタチを見て、ロイも手を伸ばす。が、気まぐれなイタチはつるりと落ちたのかと思えば次にはルーの頭の上に小さな顔を覗かせた。
「すばしこいな」
ロイがイタチを抱きとろうとしたが、飛び移ったクウ・クルはととと、とロイの腕から肩、背中を通じて石臼の上に飛び移った。
「ああ」と残念そうに声を上げると諦め、ロイは外を覗き込んでいる少年の方へと寄ってくる。

水車小屋の若い番人は似合わない短剣を腰に差していた。
何気なくそれに触れようと手を伸ばす。
「!」
次の瞬間、シャルルは木箱の上から飛びのいて、詰まれた麻袋に取り付いていた。
「君……」
何か言いかけ、ロイは急に笑い出した。
「!?なんだよ、ビックリさせるな」
「いや、あの、ぷ、ふふふ!イタチそっくり…」
「はぁ?」
ロイは面白そうに笑い続け、止まらない笑いはその内違うものに代わる。咳き込んで苦しげに丸めた背中を震わせている。呆れてシャルルがロイの背中をさすってやった。
「あ、ああ。ありがとう。あれ?君」
「何?」
シャルルの間近で見上げる顔は夕暮れと室内の暗さでよく分からない。けれど、貴族の少年はかすかにいい匂いがする。それはシャルルには経験の無いもので、触れている手も急に緊張する。
「君、女の子だ」
放った言葉と同時にロイの手はシャルルの頬を包む。小窓からの夕日で、シャルルの顔だけは相手にしっかり見えているのだ。
声にならない声を発して、シャルルの平手は思いっきりロイを殴り倒した。

「わあ!ロイ!」
駆け寄ったルーはしっかり頭にクウ・クルを乗せている。
それもまた、シャルルには癪に障る。
「も、出ていけ!バカ!追っ手なんかいないじゃないか!」
「ひどいな、これだから田舎娘は」
座り込んで頬を押さえるロイの一言は、この一幕に結論をつける。
つまり。
「出て行け!」

なのである。
シャルルに押し出され、頬を押さえたままのロイは「言われなくてもさ」とぶつくさこぼし、間に入ったルーは「まあまあ、いい加減戻ってあげようよ。皆もきっと慌てているし、あんまり怒らせると夜のデザートに響くよ」とロイの背中を押して出て行った。

「シャルル、ごめんね、僕らもちょっと冒険してみたくて。水車小屋とかイタチとか、初めてだったし面白かったよ」
拗ねて顔をそむけるロイとは全然違う。ルーは大人な顔をしてじゃあね、と手を振る。
すぐに人の気配がして、大柄な騎士と老婦人が二人に駆け寄る。
大切なおぼっちゃまたちを見つけてひと安心らしい。乳母らしき人に抱きしめられる二人を見てシャルルは目を細めた。

心配してくれる人が大勢いるんだ、あいつらには。

扉をしっかり閉める。
はあ、と。大きなため息をついたシャルルの足元に、クウ・クルが立ち上がり覗き込む。
「何?」
言いたげでも言えない動物なのだ。
「なんか文句あるのか?追われてるってあいつら、従者の目を盗んで抜け出してきただけなんだよ。だいたい、貴族なんだから護身術の一つも習ってるだろ、僕なんかよりずっと、そうだよ、剣術とかさぁ。男の子なんだから」
台詞をぶつけられてもクウ・クルは首をかしげるのが精一杯だ。

騎士は憧れでもある。だけど、資金がなければ馬すら手に入らない。騎士になれる貴族の男子について、うらやましい限りを並べ立て、シャルルが息を切らせる頃には夕闇が街を包み始めていた。
陽が翳っていることを思い出し、シャルルは慌てて小屋を出た。

夕食の時間に戻らなければ食べ損なう。それは修道院では当然のことで、だからクウ・クルを肩に乗せ修道院目指して丘を登る。急ぐ足に意地悪なほど森はすでに真っ暗だが、幼い頃から遊び場にしていたシャルルにとってそこは庭。月が昇り始めた空と、星とを時折眺めながら、目指す我が家に走っていく。
今日は変な人たちに出会った。
最初は威張ったシャンパーニュの伝令兵。次には貴族の生意気な少年二人。
あ、そう、ロンダが持ってきてくれた、あの蒼い剣は素敵だった。
もう一度それに触れようと、腰に手を。
「!?」
無かった。

「なんで!?どうして!」
確か、ロイが剣に手を伸ばした時には、気付いて飛びのいた。だから、あのときまではちゃんと、ここに。でも。他にいなかった。
「貴族のくせに泥棒?!」叫びは森に木霊する。


眠れなかった。
第一に食べ損ねた夕食。空腹に厨房を覗いたら料理頭のアンがちぎった食べかけのパンを差し出してくれた。それでも食べなきゃと思ったのに、どうやらそれが例のシャンパーニュからの伝令兵が残したものだと言われてしまえば食べる気も失せる。
「言わないで欲しかった……」
そうだよ、修道院にいるものが食べ物を残すなんて無作法をするはずもない。

第二に。
「あの、盗賊貴族!!いや、違う、あれきっと偽者貴族だ。きっとそうだ。本当は小麦を盗みに来たんだ。でも僕がいたから腹いせに短剣を盗んだんだ。絶対そうだ」
そんなはずはないだろうに、怒りは自分勝手な妄想を生んで、考えれば考えるほど腹の虫が呻き出す。

第三に。その夜は満月だった。
明るい夜は苦手だ。不吉な少し赤い月も嫌いだ。丸い顔して、僕を笑う。毎晩毎晩、僕を見ている。
そんな考えにいたって大きく溜息をつくとふと、腹が痛いのに気付く。
いや、空腹のせいだと思っていたから盗賊貴族を呪うことで紛らわしていたがいよいよどうにもきりきりしてくる。それもあんまり、体験したことのない痛み。

アンなら。優しいから、水の一杯くらいくれるかもしれない。

シャルルは子どもらがごろごろと転がっている寝所から一人抜け出した。
「よく眠れるな、こんな明るい月夜に」
八つ当たりの小さな呟きに誰かが「うんん」と寝言を返すから、シャルルは慌てて部屋を出た。

アンたち大人は回廊の北口から出た二階建ての建物に住んでいた。修道院に暮らし手伝いをする孤児たちと、雇われて働く彼女らは違う存在なのだ。
まだ明かりが灯っていることにほっとして、シャルルは回廊を急ぐ。
冷たい石の床は裸足の足をひどく痛くした。余計に腹が痛くなるようでシャルルは両手で抱えるように腹を押さえていた。
ふと、庭につながれたままの白馬に目が行く。馬は四頭いた。他にも仲間がいたんだな。
あの伝令兵。大司教様に用事なのだろうがこの修道院に寝泊りさせるということはあまり歓待されていないという証拠。いい気味だとも思うが、修道院としては迷惑、だと思う。修道院は基本的に俗世との交わりを嫌う。
シャンパーニュからの伝令。
気にならないわけじゃなかった。火急の用事だと。
シャルルは腹を抑えたまま、そっと馬に近づいた。正確には、馬の鞍にちょこんと座り込んでいる生き物に。

「何してるんだよ、クウ・クル。おいで」
白イタチは狭い鞍の上でくるりと一周回るともう一度シャルルの方を見つめ立ち上がる。
「分かったよ、馬が気に入ったんだ、それはいいけどさ」
手を伸ばすとぴょんと飛び移ってくる。
馬が鼻面をシャルルの方に向けると、クウ・クルは嬉しそうにもう一度馬の顔に飛び乗りまた鞍まで駆け上るとシャルルの方に飛び移る。ぐるぐると三回それを繰り返したところでシャルルが捕まえた。
「ほら、もういいから。おいで」

森で拾ったクウ・クルは馬の乳で育てた。だからか、馬が大好きだ。馬の方では彼のことをどう思っているのかわからないけれど。
ふと馬と目が会う。馬に罪はないが主人の伝令兵が気に入らない。
「なんだよ、何にもしないし。大人しくしてなよ、人の家なんだからさ」
自分の家でもないが。
シャルルは腹を両手で抱え、そろそろとアンの元へと向かう。


シャルルが扉を叩くと、眠そうな顔をしたアンが顔を出した。年は五十を数えているがどんな小さなことも嫌な顔をしないでやってくれる。だから頼りになる。
「あら、シャルル、どうしたの」
「あの」
もじもじと腹を押さえるシャルルに目を細め、裸足に気づくと自分がかけていたストールをシャルルの小さな背にかけてくれた。温かくてシャルルにはマントのようだけれどそれが嬉しかった。
「お腹がすいたのね?遅くまで遊んでいるからいけないんだよ。ほら、こっちにおいで。修道院の厨房じゃあげられるものは無いけどね。あたしの部屋なら少しばかりの蓄えがね」
ウインクする丸い頬にシャルルは思わず抱きしめたくなる。
と、引きずっていたストールを踏みつけた。
つんのめって、転びそうになるのをアンが支えた。

「あれ、ま。どうしたの。すばしこいあんたらしくないね」
「ええと、あの。お腹が」
「お腹?」
「ええと、この辺が」
ああ、と。アンは難しい問題を今やっと解いたという顔をして、シャルルを抱きしめた。
「え?」
「いらっしゃい、シャルル。あんたも女の子だったんだねぇ、よかったね」
よかった?
空腹でふらふらするし、お腹は痛いし。いいことなんかじゃないよ、そう言いたかったけれど、おぼつかない足元でシャルルはアンに引かれるまま、彼女の部屋へと連れて行かれた。


納得が、いかない。
アンが「これであんたも子供を産めるようになったのさ、男の子みたいだったし、やせっぽちだし、心配してたんだけどね」なんて説明してくれたけれど、シャルルの不機嫌は治らない。
「いやだ、スカートなんかはかない」
「だめだめ。赤ん坊みたいに裸でいるつもりかい?ほら、似合う」
喜ばれても嫌なだけ。ワンピースのトンネルをくぐって頭と腕を出すと、シャルルは口を尖らせた。
「男の子がよかった」
「女でよかったって思う日も来るさ」
「来ない」
アンはシャルルの小さい手に綿を詰めたふかふかの枕を持たせた。
「わあ、綿入りだ!」
「それ使っていいから。月のものが終わるまではあたしと一緒に寝ようね」

そんなんじゃ買収されないと頑張るものの、緩む頬と尖った口とで変な顔になる。めったに触れることのない綿入り枕を抱きしめて、シャルルはアンのベッドにもぐりこむ。
「いつ終わるの。明日?」
「たっぷり七日はかかるかね」
「ええええ!?そんなに血が出たら死んじゃう!」
大笑いされ、抱きしめられ、ふんわりした枕に顔を押し付ける。
「ねえ、アン。僕が、男の子だったら。よかったのに」
「そうねぇ、さぞかし、立派なだんなさまになったかもねぇ」
「違うよ。男の子だったら捨て子なんかにならなかった」

捨てられなかった。親がいた、きっとフランドルに住んでた。今日会ったあの貴族の子どもたちみたいだった。こんな、情けない気分でいることも無かった。

「シャルル……」
「捨てられなかった。男の子だったら、きっと」

違うといってもそれは嘘にしかならない。真実はアンも知らない。アンはただ黙って、悔しげに涙を流すシャルルをなだめてやる。

シャルルは女に生まれたことを呪いながらその夜は温かいアンの隣で眠った。嫌いだった満月も、空腹も。腹立たしいことも不思議と忘れていた。それ以上に自分に起こった変化の方が衝撃が大きかったのだから仕方ない。
今はただ、眠ることしか出来なかった。

続きは7月20日公開予定です♪


『La croisade de l'ange 1:Reims』 ③

『Reims ‐ランス‐』



いつものように走り回ることもできず、アンの手伝いをするように言い渡されて四日目。シャルルは早朝から厨房の隅でジャガイモの皮をむいていた。いくつもいくつも。数えるのも面倒なくらいになったころ、院長の部屋へと呼ばれた。
アンが戻ったらジャガイモのミルク煮を作ってくれると約束したので、シャルルは少々機嫌を直しスカートを手で押さえながら階段を上る。
「やだな、やっぱり。スースーする」
肩にこっそり乗ってきたクウ・クルは尻尾でバランスを取りながらなだめるようにシャルルの耳元にすり寄った。
黒っぽく塗られた両開きの立派な扉の前に立つと、クウ・クルをそっと両手で床に下ろす。
「待ってなよ。お前が入ると院長様怖いから」
開かれる扉の向こうを興味深そうに眺め、白イタチはシャルルを見送った。
「院長様、シャルルです」
あらあら、と。甲高い院長の声にクウ・クルはびくりとし、廊下をぐるぐると走り回った。


そんな声を、院長様が出すこと自体理解できない。シャルルは駆け寄った院長に思い切り眉間にしわを寄せて見せていた。
「似合うじゃない。やはり女の子ね」引き寄せようとする手を避けて、するりとシャルルは二歩下がる。
それがかすかに院長の機嫌を刺激したが、それくらいで怒鳴る人ではない。喧嘩したら街一番の剛腕だという噂だが、とりあえず修道女の鑑たる女性のはずだ。
「シャルル、お前はいくつになったかしら」
「…たぶん、十一です」知ってるくせに。
やけににこやかなのが気に入らない。何か企んでいるのかそれとも、仕方なくスカートをはくシャルルを面白がっているのか。人の災難を喜ぶなんて、それでも聖職者か。
「お前も晴れて立派な女性。実はね、お前を娶りたいという話はいくつか来ているのよ」
めと?
「はぁ!?」
院長の胸の前で組んだ手がうれしそうにわくわくしている、それは!
「お前は確かに見てくれがいいわ。でもそれだけじゃない。我が修道院で、私が育てたのですからね。信用が違うのですよ。感謝なさい。貴族様とはいかなくてもフランドルで広く商業を営むベーテールさんのご子息、街の中では一番広い農地を持つ豪農のルミルエさん。どちらも十分な結納を約束してくれていますしね、これからも我が修道院のためになる、よい縁談です」
十二を過ぎれば結婚する者も多い、だけど!
「ふざけるな!僕は結婚なんかしない!」
言い終わる前に気配が横切る。
鋭い院長の蹴りを飛びあがってよけると、シャルルは扉に向かって一目散。
「逃げても無駄よ。お前の帰る場所はここしかないのですからね」
くそ院長!と怒鳴った声が届いたかどうか。とにかくシャルルは煮えくりかえる腹をどうしてやろうかと叫びながら階段を駆け降りる。
通りかかったアンにぶつかりそうになって、踊り場におかれた花瓶をひっくり返した。ぶつかりはしなかったのにアンは弾みで持っていた織物を取り落とす。その上に派手な音を立てて花瓶が欠片と水とを振りまいた。
座り込んだアンの足元には花と水と花瓶の破片とでドロドロになった真新しい生地。
「な、何の騒ぎ!シャルル!」
やさしいアンも、せっかく作った織物が花まみれになったのには我慢が出来ない。

「だって!」僕は避けたのに!
「女らしくなさいって言っているでしょう!ミルク煮はお預けだからね!」
「!」
この世にいいことなんか一つもない!

シャルルは泣きながら駆けだす。どこがどうなのか分からない。とにかく走った。
お前の帰る場所は。そう、わかっているけど分かっているけど。


森を駆け抜けると、遠く水車小屋が見える。そこに行けば一人になれる。
シャルルはそこに向かって走った。

「待て!」
またない!
誰だか知らないけど僕はそれどころじゃないんだ。

思いっきり走っているのにその声は次に前から聞こえる。
目の前に馬、と気づくとどんと馬の白い足にぶつかった。その腹の向こうには見たことのある、皮の袋。嫌な予感が的中し、馬上からぐんと髪をつかまれた。
「ほお?お前、女だったのか」

あのシャンパーニュからの伝令兵だった。

パンを残す贅沢な嫌な奴。シャルルはそいつの黒いあごひげをじろっと睨んだ。高すぎてそのぐらいしか見えないのだけど。
「なんだ、そいつは」
「街の子か?」
しかも、男の背後には三頭の馬、つまり三人の騎士。面白そうに小さな獲物を眺めている。
「放せ!」
「ふん、可愛げがない。誉れ高いラエルの修道院も恥ずかしくて表に出せないわけだ」
「恥ずかしくなんかないよ!僕はフランドル伯の血を引くんだぞ!汚い手で触るな、馬鹿!」
手が緩むと同時にシャルルは駆け出す。
逃げても馬で追われればかなうわけもない。
「何を言っている、小娘が!」
背後で笑い声が小さくなる。

しばらく走って振り返れば、他に何か目的があるようで騎士たち四人は遠く麦畑の向こうへと向かっていった。
「畜生!!あいつら~むかつく」

シャルルは唯一の自分だけの場所、水車小屋に駆け込むと、扉を閉めようとした。
「待って!」

二度目だ。だから待たないってば!と、焦って閉めようとすれば重い木の扉は言うことを聞かない。
ぬと白い小さな手がそれを遮り、驚くシャルルを抱えるように押しのけて、ロイが飛び込んできた。
「ロイ!」
偽物貴族、そうだ短剣を盗んだんだこいつ。とシャルルが怒りを改めている間に、少年は扉をぴったりと閉め、閂をかけた。
今日は一人の様子。

ロイが振り返ると同時にシャルルはその肩につかみかかった。真っ白な絹のブラウスが慣れない手ざわりだったが、かまうことはない。
「おい、ロイ!僕の短剣を盗んだだろ!」
ロイは勢いに目を丸くして、それから改めてシャルルを上から下まで。
そう、眺めた。
「!!!!今、僕のこと舐めるように見ただろ」
若草色のスカートは緋色の糸で刺しゅうされて、上着には大きな襟が付いている。ああ、自分の姿を水に映したあの時の気持ちがよみがえる。
「最悪だ、気持ち悪いな!」
自分の姿が急に恥ずかしくなるとロイを突き飛ばし、シャルルは小屋の奥のほうへと進む。気になるスカートの裾を両手で押さえた変な恰好のまま。
女の格好をしているのを見られる、それがどうにも心地悪く、シャルルは小屋に来たことを後悔し始めていた。

窓の外をふと眺める。川の流れを水車の向こうに見つけ、深いそれを見つめていると少しだけ気持ちが落ち着いた。昼の光にきらきらときれいだ。
何やってるんだ、僕。
結婚なんか嫌だ。帰ることもできない、でも、ほかに行くところはない。
こんな、女の格好で。
情けなくなってきてシャルルは窓に身を乗り出し両手をだらりと下ろした。冷たい風が手に当たる。
「今日さぁ」
ロイに話しかけたつもりだった。
「おい、あそこだ!」
窓の外。河の向こうに先ほどの騎士たち。こちらを見て何か怒鳴っていた。
「何だ、あいつら!」
「捕まえろ!」と聞こえる。
捕まえる?
「おい、なんか変なのが来る」
シャルルは変なのに絡まれる前にここを出ようと振り返る。
少年は戸口に座り込んでいた。
「何してるんだよ、ロイ?」
そういえば何も口を利いていない。
少年は座り込んだまま、顔を上げた。窓からの日にさらされ、白い顔は彫像のように美しく、シャルルは思わず声を失う。
昨日は暗くて気付かなかった。
「あの、どっか痛いの?怪我した?ごめん、僕力が強いからさ」
動こうとしない少年に近づく。

「ごめ、ん。追われてる」
「…この前もそう言ってたよね」あれは嘘だった。
ロイは両手で顔を覆った。ひどく落胆した様子だ。
「この間のは従者、今日のは敵」
敵?
同時に何の音かと思うほど、扉が叩かれた。
古いそれは軋んでがたがたと隙間から外の明かりを漏らす。
「出てこい!大人しく出てこないと蹴破るぞ!」
あの伝令兵だ。
初めて修道院に来た時と違う、低く脅す声。
「出てこい!」
怒号に驚き、シャルルは反射的にロイにしがみついていた。
伏せていた顔を上げ、少年の驚いた顔はすぐに柔らかい笑みに変わった。
「ふふ、やっぱり女の子だ」
「ち、違う!」
何がどう違うのか説明は出来ない。
そんなことより。
シャルルは思いっきり顔をしかめていた。
「あんた、熱があるよ?すごい熱いよ!」
掴んだ少年の手は細く頼りない。儚く感じて、シャルルはひどく心配になった。
「敵って、追われてるって?」
「いいから。惻隠の心は仁の端なり、君を巻き込むわけにはいかない」
そくいんのこころ?
一瞬、外国語を聞いた気分になる。
「何難しいこと言ってるんだよ!出たらひどい目にあうよ!?」
殺されちゃう、かも。この土地は大司教が治める大司教座だから戦乱はない。だけど、一歩離れれば諸侯が領地を取り合って戦闘が繰り返されているという。傷ついた騎士や兵が村に紛れ込むこともまれにあった。

「あけろ!開けないと小屋ごと火を放つぞ!」
どかどかと殴りつけるように扉は叩かれ、それにあわせて埃がはらはらと落ちてくる。

「シャンパーニュ兵が大司教座の水車小屋に火を放つなど。できはしないくせに」と小声で呟き、ロイはふらりと立ち上がる。これ、と。蒼い短剣をシャルルに渡すと、戸口の前に立った。

「大丈夫だよ、私は。何の武器も持っていない子供を殺すとは思えない」そう微笑むと顔を上げる。
子供とは思えない静まった表情、まっすぐ扉を見据える瞳はきれいに澄んでいた。
丸いのぞき窓の向こうには、たぶん男たちの姿。ロイはそこに向かって声を張り上げた。

「大声を出さなくてもいい。今、そちらに行く。私を利用したければすればいい。ただし、ここにいる子は無関係だ。少しでも手を出せば、私は自ら命を絶つ」

た、絶つって。
シャルルは座り込んだまま、震えていた。手をロイに伸ばし立ち上がる。シャルルを背後にかばうように立ったまま、ロイはゆっくりと閂を外した。

扉が開く。
明るい外光に視界を奪われ、同時にシャルルは悲鳴を上げていた。
誰かにつかまれ、必死でしがみついていたロイの手も引き離される。
「ロイ!」
少年は軽々と男たちに担ぎあげられ、視界から遠ざかる。
ロイに乱暴なことするな、騎士の背中に怒鳴ってわめいた。


「やっと、静かになったか」
そう伝令兵が笑い。その背後に乗せられているシャルルは男の背中を叩いた。馬の背は想像以上に高さがある、飛び降りてやろうにも少し勇気が足りない。
「怒るな、お前、俺たちを蛮人か何かだと思ってるだろう」
「……そうとしか見えない」
肩をすくめて、男は前を行く騎馬を眺める。
そこには縛りあげられたロイが乗せられていた。ぐったりとして、一緒に騎乗している騎士に抱えられている。
「熱があるんだよ、乱暴なことしたら死んじゃうよ」
「死なれては困るな」
「じゃあ、もっと優しく」
「逃げられても困る」
シャルルはしっかりと抱えていた蒼い剣を手のひらに感じる。今、ここで、これを。
「フランドル伯ジャンヌ様もお前と同じ髪、同じ瞳の色をしておられる。まあ、年齢からみてもお前がその娘だと頷けないこともない」
ぽつりと、伝令兵がつぶやく。

この男、フランドル伯を知っている。シャルルはひそかにこぶしを握り締めた。

「状況を見ろ。お前は何も知らないんだ」
「お、教えてくれないだろ!?子供扱いしてさ!都合のいい時ばかり大人扱いで結婚とかも勝手に決めるんだ!」
くく、と。男が笑うのが伝わる。
「面白くない!笑うな」
「お前が本当にジャンヌ様の血を引くなら、俺がもらってやる」
!!!
思わず短剣を抜きかかる。
と、動けなくなった。
「短気なところも、女伯にそっくりか」

手ごと短剣を押さえ込まれ。騎馬を操りながら片手で押えられただけなのに、シャルルはもう身動きが取れない。悔しくて足をバタバタとさせた。

続きは7月27日公開予定です♪

『La croisade de l'ange 1:Reims』 ④

『Reims ‐ランス‐』




はあ!
シャルルの溜め息は諦めというより八つ当たりの感が強い。目の前の伝令兵の背中は動じないから余計に腹立たしく、ごつ、と背中に額をぶつけてよりかかる。傾きかけた日差しに、騎士のマントは暖かくなっている。
甘えたいわけじゃないが、なんだか急に疲れを感じ、そのまましばらく休憩。
ふと鳥の声に顔を上げ、晴れた空を見上げる。
騎士の背中越し、森の入り口が見える。昼間だというのに誰も見かけない。誰かいたら助けてもらうのに。
きょろきょろと見回すシャルルに気付いたのか、目の前の背中から声がした。
「気付かなかったのか?この収穫期に畑に一人も人がいないだろう?戒厳令が敷かれたのさ。郊外に展開する我らシャンパーニュの軍を恐れてな」

戒厳令?

く、と男が笑ったのが分かる。
「別に脅しているわけじゃないが、勝手に大司教様が警戒なさっているだけだ。……そうだ、お前。取引しないか」
言い出したのは伝令兵だ。
「俺たちはラエル修道院を通らずにランスに入りたい。道を知らないか」

誰が応えるもんか。そんなのないし。
シャルルはぷんと顎をあげた。

「おい、なんとか言え」
隣を進んでいた髭の騎士が、シャルルの脇を剣の鞘でつついた。
「伝令兵のくせに偉そう」
「お前のほうが偉そうだ、ガキが!」髭の騎士は怒りのままシャルルに手を振り上げた。
バンッ!!!
「いっ!?」
シャルルは知らん顔で伝令兵の腰のサーベルを抜き、盾にしていた。
思い切り素手でサーベルをぶったたいたのだ、痛いだろう、それは。
「よかったね、手がちょん切れなくてさ」
「こ、このガキ…」

伝令兵が背後を振り返った。
「おいおい、そいつは妙に素早いから気をつけろ」
シャルルも笑って髭の男に舌を出す。
「気をつけろー」
ぶっ!
急にバランスを崩してシャルルは男の背に鼻をぶつけた。
「いた~」
左手を掴まれて、右手だけでかろうじて男にしがみつく。

「何すんだよ、放せよ!落ちるだろ、手を放せ」
「騎士の剣に不用意に触れるな。それにな。俺は伝令兵ではない、言葉に気をつけろ」
「知らないよ、そんなの。名乗らなかっただろ、初めて来たとき」

「名乗らないときには理由があるものだぜ。ランス大司教に単身会いに行くのに身分の低いものでは無礼だろうが。そのくらい推測しろ。お前は何も知らないし、知らないままでいることだ」
無事でいたいなら、な。そう付け加える。

「そうやって、思わせぶりなこと言ってさ、でもわかってるんだ!修道院を通りたくないってことは後ろめたいからだろ、悪いことしてるからだ!でも無理だね、このランスは街を護るために修道院を置いたんだ。大人しい顔してたって、皆すごい強いんだから。院長なんか、鬼みたいなんだから!」
ぶ、と。伝令兵ではない名無し男は笑ったようだ。

「笑うな!由緒正しいランス司教座を外敵から守ってきたんだ、だから僕らも体術を習ってるんだ。東の国の、よくわかんないけど、すごいんだ」
ますます笑われ。
「修道院を敵に回すと、生きて帰れないんだから!」
興奮して怒鳴るシャルルに髭の騎士も、ロイをつれている大柄な騎士も笑った。ぐったりと目を閉じていたロイもうっすらを目を開けた。
「ロイ!」
ふ、と笑われた気がした。
「な、なんだよ!お前が笑うなよ!」

「シャルル、とか言ったな。俺たちは修道院の敵じゃない。ランス大司教からも通行許可をいただいている。ただ、お前がいるから通りたくないだけだ。お前が何も見なかったことにできるなら、今ここで解放してやる」

だけど!!
ロイはどうなるんだ?
「いたっ!?」
ぎり、と男が掴んだ手に力を込める。
シャルルの反論は止まった。
「約束できるのか否か?」
「痛いよ!!放せっ!はなせーぇ」
男の背中を左手で叩いても、掴まれた腕はひどく締め付けられるばかり。シャルルは痛みと悔しさに唇をかむ。

「シャルル、私は大丈夫。君は何も気にしなくていい。落ち着いて」
ロイの声に顔を上げると、我慢していた涙がほろとこぼれた。妙に大人びたロイの口調は綺麗な発音で耳に残る。騎士たちもなぜか黙り込んだ。

ロイはやっぱり何か特別なのだ。シャルルに威張って見せた名無し男に、
「手を放しなさい、仮にも騎士として叙任されたのだろう。私は子供を巻き込むなど不名誉なことは望まない」と。まるで、そう、まるでこの場で一番偉い人みたいだ。

しばらく無言で少年を見つめていた男は、肩の力を抜いた。
「ご自分では子供ではないとお思いですか」
「…解放してやってほしい、…お願いです」
噛みしめるようにそれだけ言うと、少年は目を閉じじっとしている。

青白い顔に木々の影がかかり、一層顔色を悪く見せる。いつの間にか森に入っていた。シャルルは慣れ親しんだ景色も馬上からでは随分違うのだと気づく。

「ま、貴方がそうおっしゃるなら」
寛大だねぇ、俺は。と騎士は呟きシャルルの腕を放した。
シャルルはこぼれかけた涙をごしごしとぬぐって、解放された手をそっと見る。細い手首は赤い跡が残り、じりじりと鈍い痛みを伝えていた。



温かいアンの隣、綿入り枕に頬をうずめる。眠れずにシャルルは顔を枕に擦り付けた。

結局、僕は森の中で解放された。
一人残され、とぼとぼと戻った。
散々院長に怒られて、外出禁止だとか言い渡された。

「他言無用だ」と念を押した名無し男と、連れ去られたロイが気になる。
名無し男は言った。僕はランスの人間なのだと。

シャルルは院長に叩かれた尻を無意識にさすりながら寝がえりを打つ。

僕はここで育った。ここの住人。あの伝令兵と同じ側、つまり、ロイの敵側の人間なんだ。
だけど。

だけど。

シャルルはそっとアンの隣を抜け出した。寝静まるのを待っていた。
「シャルル?」
「!……ちょっと。お尻が痛くて。井戸の水で冷やしてくる」
「大人しくしてなさいよ、子供は大人の言うことを聞いているのが一番幸せだよ」
半分眠っているアンは目を閉じたままそんなことをつぶやいた。すでに姿のないシャルルがそれを聞いているわけはない。

シャルルは使用人の館を抜け出すと、修道院の脇を抜け街へと歩き出した。
ロイは騎士のマントに隠されて、修道院を通り抜け市街のほうへと連れて行かれた。助け出せるとも思わないけれど、気になって眠れない、だから。

自分に言い訳をしながら、シャルルは目立たないように修道女の黒い衣装を頭からかぶり、暗い道をよたよたと進んだ。雨が降るのか、湿り気を含んだ重い夜風に大人の服は足かせのようだ。
遠く月明かりに大聖堂が見える。
市街の小さな二階建ての家々は、夜の闇に沈んで誰もいないかのように思える。大聖堂の薔薇窓だけが曇天の月のようにぼんやりと夜を照らした。
ローマの法皇様の次に偉い大司教様がこの地を治めている。大勢の司教や司祭がこの街の大聖堂に住まい、神に祈りを捧げている。時には争いごとを裁き、時には農民に施しもする。

大きな儀式や例祭があるときには修道院の子供たちも呼び出され、聖像を磨いたり古くなった蝋燭を取り替えて回ったりする。その時に一度だけ、大聖堂の奥、普段は聖職者しか出入りできない神の間と呼ばれるところに入ったことがある。神々しい高い窓のステンドグラスは縦に細長く、日を透かした「神の光」を天から注ぎ、祭壇が華やかに輝いた。あまりの美しさに、シャルルも思い出せば身震いがした。
「大丈夫、悪いことするんじゃないんだ、大丈夫」

巨大な二つの塔を抱える聖堂のファサードが見えてくると歩みは少し遅くなる。
どこから入ったらいいんだろう。
どこにロイはいるんだろう。

雲に届くくらい高い建物を見上げ、それからまたフードの下に顔を隠すとシャルルは聖堂の正面扉に向かう。
迷った末、結局いつものところから堂々と入って行った。祈るもののためにそこはいつも開かれている。
ひっそりと静まり返った礼拝堂は蝋燭の炎すら揺れないほど。じっとりと重い夜の空気に何もかもが寝静まっている。ふと。暗がりの視界に何かが横切る。
「!?」思わず声をあげかけ、小さい白いそれが自分の前に回り込んで、立ち上がる。
「なんだ、クウ・クルか。いないと思ったら、こんなとこに。お前、また、あいつらの馬にくっついていたんだろ」だとしたら、やはりここに彼らはいる。
警戒しつつもそれがシャルルだとわかったのか、白イタチはつるりと背中を上った。
「静かに」
クウ・クルは首をかしげる。
一人と一匹はずるずるとした衣擦れの音とともに聖壇の脇から聖堂内部へと入っていく。
きらびやかに塗られた礼拝堂が生きるもののための場所ならば、その裏側は死者のための墓地。安らかに眠るための道筋。死出への旅を思わせる暗い廊下を、少女は黒い衣装を引きずりながら進んでいく。見る者がいれば恐怖に声を失っただろう。


進むうちに鼻がむずむずしてきた。慌てて鼻をつまんでみる。
「んむむ」
立ち止り、修道女の衣装で顔を覆う。小さなクシャミがくぐもって漏れ、少し鼻をすすりながら少女は歩みを再開する。
確か、大祭のとき奥にある大司教様の寝所の近くまで行ったことがある。

階段をそっと上る。引きずる衣装がおもしろいのか、クウ・クルは裾に取り付いて、ゆらゆらと揺られていた。
階段の踊り場には上階からの明かりがもれている。誰かがいるのだ。
また、鼻がむずむずし鼻と口を押さえた。この古い服、何かついているのかな。かすかにカビ臭い。
「何か、音がしなかったか」と、男の声がする。
「気味悪いこと言うな、だいたい大司教様のご命令とは言え、夜通し見張るなんてさぁ。こういう場所は苦手なんだ、おい、置いていくなよ」
「ばか、お前がついてきたら二人いる意味がないだろうが」
「うるさい。一人でこんなとこ、いられねえよ」

二人分の足音と長く伸びた影が階段に近づくから、シャルルは慌てて一歩下がる。踊り場の暗がりに逃れようとし。ずる、と。
裾を踏んで階段を踏み外した。
「わぁ!」
少女の甲高い声と下敷きになりかけたイタチの鳴き声、ずるずると落ちる音。階段に反響し、なんともいえない不気味な音になった。

「なんだ!」と「うわ」と二人分の男の声が重なる。すぐに動き出す気配がないのは男たちも怯えているからだ。

いったぁ……。
数段分滑り落ちた尻をなでながら、シャルルは衣装を脱ぎ棄て駆け降りる。
裸足の足なら響く音はない。


シャルルはじっと、廊下の柱の陰に張り付くように隠れていた。
寒いのに、変な汗をかいて。じっと息を詰めているうちにぞくぞくと震えてくる。もじもじと裸足の足で足踏みを始めた。それでも気になって階段の方角から目が離せない。大聖堂の衛兵たちが見張っているってことは、そこにロイがいるのかもしれない。
自分の呼吸が太鼓の音のように耳に響いた。
クウ・クルがいる肩だけが温かい。


上階では衛兵の男二人が恐ろしげにランプを掲げてやっと階段を下りてきた。
「おい、こりゃ、なんだ?」
一人がくしゃみをしながら、衣装を気味悪そうにつまみあげた。修道女の衣装じゃないか?とこわごわもう一人が。また、くしゃみ。
と、衣装の中から小さな真っ白い生き物が飛び出してきた。
手に這い上るそれが怖がりの男に飛び移り、思わず悲鳴を上げた男は振り払おうと手を振りまわす。「なんだ、何がいた?」もう一人が掲げる明かりにも何も映らない。


シャルルは階段のほうをじっと見つめていると、上の階からくしゃみ、続いて衛兵の叫び声が聞こえた。
「なんだ、何がいた?」
目の前を階段を駆け下りてきた白イタチが走り抜ける。
あれ?
じゃあ、肩のこれは?
「お前こんなところで何をしている」
低い男の声に、今度はシャルルが悲鳴をあげた。




大司教との面識は一方的なものだった。
シャルルはこれまで何度も大祭や儀式で見かけたことがあった。しわくちゃなおじいちゃんだと思っていたし、重そうな衣装は金の刺繍がたくさんで、それが気になっていた。小さい頃から一度触ってみたかったのだ。
それが、いま。自分の目の前をするすると進む。
触る勇気も無いが。
「随分大人しいじゃないか」
背後であの名無し伝令兵が笑った。

こいつに捕まって、大司教様のお部屋に連れてこられたのだ。

三度目、シャルルの前でいったん大司教様の足が止まる。
金色の衣装が、また右から左に向きを変える。
踵のある綺麗な靴。それがうっすらとくぼみを残す厚い絨毯の模様をじとっと見詰めたまま。シャルルは顔を上げられなかった。遠くから見ているのは平気なのに、目の前にその人がいるかと思うと異様な緊張感に声も出せずにいた。

「この子が、かの方の存在を知っている、ということなのですね」
ゆっくりと少し古い言葉で語り、大司教は右に左に歩いていた足を丁度シャルルの前で止める。目の前の衣装を見つめたまま、シャルルはごくりと唾を飲む。
かの方って?
「ええ、大司教様。昼間、あの子と一緒にいました」
「シャルルと申したな。このことを修道院長のアデレッタには話したのですか」
シャルルが首を横に振ると、静かな声が降りてくる。
「このことは誰にも話してはいけません。そしてこれ以上知ろうとしてもいけません。それが出来るなら、お前にあの方の世話を頼みます」
あの方って、ロイのこと?
つい顔を上げ、シャルルはしわの中の小さな蒼い瞳と目があった。
それはかすかに笑った気がした。
「知らぬほうがよいこともある。できますか?」
黙ってうなずいた。
シャルルには反抗する理由は無い。

「いいでしょう。シャルル、あの方の身の回りの世話をしてもらいます。よいですね」
最後のよいですね、はどうやらシャンパーニュの名無し男に向けた確認らしい。
男は肩をすくめ、「どうせなら、私の世話をさせたいところですが」とにやりとする。
その視線がシャルルの全身を眺めまわしたようで、ぞっとした。思わず頸を横に振る。
大司教は少女と騎士を見比べ、
「ロトロア殿、昨夜は修道院にお泊めしたが院長より訴えが届いています。今夜はこちらでお願いしたいと。騎士らしからぬ振る舞いはお控えなさい」とたしなめる。
伝令兵が修道院でなにか悪さをしたのだとシャルルは勘を働かせる。あの院長が追い出そうというのだから余程のことだ。
「しかたありません。まだ、例のお話もお返事をいただいておりませんし、こうなったからには早々に心を決めていただかなくてはなりませんが」
「まだ、返答はできません。聖堂参事会が明日開かれます。そこでの協議の次第」と。大司教は目を閉じた。あげた片手が戸口の方向を差し、控えていた司祭が扉を開き、退室を促す。きらびやかな大司祭の部屋を伝令兵に引かれ、シャルルも立ち上がった。

連れてこられた時は引きずられていたし、どうしていいのか分からずうつむいてばかりだったが、今閉じようとする扉の向こうは見たことのないようなきれいな部屋だったのだと気づき、名残惜しそうに振り返る。
「ほら、早く来い。愛しの王子様に合わせてやるぜ」
伝令兵に腕を掴まれかけるが。
「別にそんなんじゃないよ」
ふ、とシャルルが身をそらし回り込むと、男は見失ったのか慌ててぐるりと後ろを向いた。騎士のくせに鈍い。
すでにシャルルは男が向かおうとしていた廊下の先を歩いていた。
「お、おまえ、いつの間に」
「遅いな、甲冑が重すぎるんだよ」
「ふん、急に元気になりやがって。イタチみたいな奴だ」
そういえば、ロイにも同じことを言われた。面白そうに笑った。
体調が悪いといっていた。大丈夫かな。
「ほら、早く。ロンロン」
「誰がロンロンだ!」
ロンダン?ロスロス?いくつも並べれば男はますます顔を赤くした。
「シャルル、調子に乗ると本気で痛い目を見るぞ」
「聖堂内だからね、悪いことしたら神様の目はごまかせないんだ」
「は、お子様だな!俺がどうして修道院に泊まれないか教えてやろうか?」
二人はいつの間にかかけっこのようになっている。
「尋ねてはいけません、がお約束だからさ」と耳をふさぎ舌を出す。どうせ、ろくでもないことだ。
「待て、ばか」
「こっちだ、ほら、衛兵が立ってる」
先刻は恐々昇った階段も、今は一段おきに駆け上がる。

ロイに会える。

続きは8月3日公開予定です♪

『La croisade de l'ange 1:Reims』 ⑤

『Reims ‐ランス‐』



室内はしんとしていた。
さすがに声をひそめ、シャルルが扉を開いた時には窓からの月明かりだけが室内にある。廊下のランプの明るさが敷物の上を走り、背後でそれを遮って覗き込んだ伝令兵の影が足元で動く。
「し」と。まるで白イタチにするように指に人差し指をあてる。
部屋は随分広かったが、衣装棚のようなものと、ベッド、小さな一人掛けの椅子が見えるだけだ。
ベッドの天蓋は様子を隠し、ロイの寝顔は見えない。
ふわと、夜風を感じ、「これじゃ寒いよ」とささやいて、シャルルは少しだけ開いていた窓をそっと閉める。小さな窓からは、目が回るような景色が見えた。
思った以上に高いところにある。逃げられる心配がないから窓も開けたままなのだ。
敵だとロイが言っていた。
『私を利用するならすればいい』あの時。捕まる寸前にそう、言っていた。僕を庇ってくれた。


振り返ると、伝令兵がベッドを覗き込んでいた。
「どいて」と、押しのける。
少年は静かに眠っていた。青白い顔は月明かりのせいなのか、それとも。
不安になってそっと額に手をあてる。
ひゅうと男が口笛を吹くから、シャルルは思い切り男の足を踵で蹴ってやった。
静かにって、言ってるのに!
「いてえな!」
余計に声をあげるから今度は腕をひっぱたく。
「この、ガキ!!いい加減にしろ」
「あ、わ、やめろ、起きちゃう」
「うるさい!」
せめてロイから引き離そうと男の皮の胸当てに両手をついてうんと押してみる。
やはり体格が違う。
「暴れるなよ、お嬢さん」と男はシャルルを抱き上げようとする。
「やめろ!放せってば!」

「その子に手を出すなと言ったはずだ」

少年の声に伝令兵が動きを止めた。宙に浮いたシャルルは思い切り男の腹をけり上げる。さすがに急所を狙わなかったのは、ロイの前だからか。多少の恥じらいは持っている。

「ぐへ」と腹を抱える男の前、ロイを庇うようにシャルルが立ちふさがった。
「あんたは出ていけ!大司教様に訴えるぞ!」
「ふん、せいぜい面倒見てやれ。どうせ」
言いかけて男は言葉を止める。
「何?」
「いや、なんでもない。じゃあな」

男が出て行くのをしっかり確認して、それからシャルルはゆっくり振り返る。
さっきから、自分の手を後ろから握っているロイ。それが、どうにも気になる。
熱い手をそっと両手で包むと、覗き込む。

「どうして、ここに」
ロイは起こしていた体をゆっくりと横たえるとシャルルを真っ直ぐ見つめた。
「ええと。お前のお世話係になったんだ。大司教様に命令された」
「…いらない」
「あ?」
「出て行ってくれ」
ちょっと待て、「僕はお前を助け出そうと思って!」
「無理だよ。どこかへ行け」
「なんだよ、その態度はさぁ!気になるだろ!?人の目の前で捕まってさ、敵だとか追われているとか。お前なんなんだよ!」
「君に名乗る気はない」
ぷいと向こうを向くと、ロイは毛布を頭から被った。
名乗るって、じゃあ、ロイって名前じゃないのか?
頬を膨らませたまま、シャルルはしばらく睨んでいた。なのに、相手は眠ってしまったのかぴくりともしない。
なんなんだ、心配して来てやったのに、この態度は。
「分かったよ、僕は帰る。バカらしい、振り回されて損しちゃったよ。夜中の聖堂に忍び込むなんて罰当たりなことしちゃったし」
むかつきをわざとらしい溜息で吐き出すと、シャルルは扉を開いて外に出ようとしたが。
重い扉はびくともしない。
「……、あのさ」
ロイは応えない。
「僕も、閉じ込められてるって、ことなのかな」
振り返ってみてもロイは動かない様子。
くそ!
「開けろ!ばか。ロンロン、開けろってば!」
派手に扉を叩いてみる。拳が痛いから、足で蹴る。裸足で痛いから体当たり。
どれも痛い。
ぎぎ、と。やっと扉が外から開かれた。
じろりと衛兵が覗き込み、「静かにしろ。俺たちは眠いんだ、明日にしろ」とあくびをしながら話すと有無も言わせず扉を閉める。
「ま、待って!」
がちゃん、と。閂をかける音。衛兵の足音は遠ざかっていく。

はぁ。
「僕まで閉じ込められちゃったよ。どうするんだよ、ロイのせいだ」
扉を背に座り込む。
誰も応えないとわかっていても腹立たしさに止まらない。
「大体さ、僕がなんで、こんなことになるんだ。水車小屋で偶然に出会っただけじゃないか。もともとロイは追われていたわけだし。僕がいてもいなくても捕まったかもしれないし。僕が責任感じてこんなことする必要なかったんだ。ただ、様子を見たかっただけなのに。これで僕に『ありがとう、嬉しいよ』とかさ、『助けて欲しい』とかさ。可愛げのあることでも言うならまだしも、迷惑って顔されてさ」
僕一人、バカみたいだ。
ちょっと、さ。気になったのが間違いだ。

シャルルは悔しくて滲んできた涙を抱えた膝に擦りつけた。

修道院に帰ったら院長様に怒られるのかな。大司教様の命令でここにいることになったんだから、大丈夫だよな。
…あれ?
大司教様は確か、誰にも話してはいけないって言っていた。じゃあ、僕、どういう話になるんだろう。院長様に怒られてその上どこかの男に売りつけるみたいに嫁がせるのかもしれない。
「それじゃ、僕、ぜんぜんいいことないじゃないか!」
しかもまた、少し腹が痛い。寝る前にアンに下着を替えてもらって身体をきれいにしてもらった。お腹が痛ければアンは背中をさすって一緒に寝てくれた。
なのに。
シャルルは泣き出していた。
「だから、女なんか、嫌なんだ」
「どうして?」
「わ!」
目の前にロイが立っていた。
驚いたけど、くやしいから平気な顔をしてみせる。
「……なんだよ」
「あ、いや」
「病人は寝てろ、ばか」
随分乱暴な口調になっている。そういうのはすべて、街からの行商人や聖堂で裁きを受ける罪人を真似ている。修道院でそういう言葉を使うものはいない。
それがまた、院長の不興を買うのは承知だけれど、大司教様のような綺麗な言葉だけじゃ言いたいことが言えない。
あまりの口調に以前のルーのように言葉を返せないでいるのか、ロイは黙ってシャルルを見下ろしていた。
睨んでみるのに、丸くしたままの大きな目でじっと見下ろされ、シャルルも我慢できなくなる。
「あのさ!」
ぎゅ、と。抱きしめられた。
あわわ?と声だか悲鳴だか自分でも分からない言葉を発してシャルルが突放すと、よろりとロイは後ろにしりもちをついた。
あ、病人だった。
何をしたいんだ、こいつ。
「お前、変態?」
シャルルの口をついて出たのはそれだった。

ロイは尻もちをついたまま「ぶ」と噴出すと、笑い出した。
笑うと止まらないのか苦しそうに腹を押さえ、そのうちまた、息が切れて咳き込む。
「ああー、バカ。笑うところじゃないし、自業自得になってる」
仕方なくシャルルが歩み寄り、背中をさすってやった。
苦しげに何度も咳をする。
ロンロンが言いかけた「どうせ、もう」が脳裏をかすめ。シャルルは首を横に振る。
そういう意味じゃない。大丈夫。
それでも、そういう咳をして死んでいった子どもを何人も見ていた。小さい子どもが病気で死んでしまうのはよくあることだ。十歳を過ぎれば身体も丈夫になるけれど、それ以下の子どもはとても弱い。

「ほら、大丈夫か?」
シャルルの言葉にロイは頷いた。
「君が出て行かないなら、ベッドを使うかい?」
「へ?」
ロイは真っ直ぐシャルルを見上げていた。間近にいると香水みたいな匂いがして、それはどうにもシャルルをどきどきさせた。
「ばか、病人から寝床を奪う真似するわけないだろ。僕は床で寝るよ」
「いや、一緒に寝ても大丈夫なくらい、広いし。私は構わない」
「嫌だ」
「なんで」
なんで、って。
なんでって「その…」
香水がドキドキする、なんて言えない。
「ほら、寒いから丁度いいよ」
ロイは先に立ち上がるとシャルルを引っ張る。案外力のあるそれにつられるように、シャルルもふらりと立ち上がった。
「あ、でもだめ!」
「なんで?ほら、早く」なぜかロイはやけに嬉しそうだ。
「お前さ、帰れとかいらないとか。ひどいこと言わなかったか?」
「帰れるのに残るのと、帰れなくなっているのとじゃ意味が違うから」
わけがわかんないぞ!
「難しいこと言うな、僕はお前を助けたいと思ってきたんだ、ありがとうとか言ってもらえないと嫌だ」
われながら駄々っ子のようなことを言っている、とは思うけど、さっきまでの情けない気分もここに来た原因もすべてロイにあるんだから、「ありがとう」くらい要求したっていいだろう。
ロイは怒るでもなく笑うでもなく、シャルルに言わせればそう、お祈りを教わる時の子どもたちみたいな顔をして言った。
「助けて欲しいとはいわない。だから礼は述べない。優しくして欲しいというならしてやるけど、優しくして欲しいとは思わない」
「お前よくわかんない」
「いいから、おいで。シャルル」

少し熱っぽいロイの手は、細く白く。シャルルは納得がいかない気分を抱えたまま、ロイの隣にもぐりこんだ。なんだかひどく疲れていた。毛布は暖かく、それ以上にすぐ隣に人がいるのはシャルルを安心させた。アンの横と同じだ。
「温かい」呟いたのはロイ。
「うん、アンと寝るときと同じだ」
「君には一緒に寝てくれる人がいるのか」
「いつもだよ。狭い部屋で孤児の子どもらと一緒に寝てる」
うるさいくらいだよ、チビたちは全部で十三人もいるんだ。とシャルルは天井に指で示してみせる。
「羨ましいな」シャルルの手を眺めて、ロイは呟く。
「貴族様のこういうベッドの方が、僕には羨ましいけど」なんたって、天蓋が付いていて、綺麗な模様が書いてある。
「広すぎる」
「……ふうん」
ロイが言いたいことが少し、分かる気がした。
いつもは子どもたちの寝息や寝返りの音に囲まれている。生き物の息遣いの中で眠るのは生まれる前の母親の中と同じだと、院長が言っていた。なのにここはひどく静かで、隣にロイがいなかったら世界で僕は一人きりと言う気分になる。
ロイがいつもそんなだとしたら。とても淋しい。
いつの間にか、ロイの少し甘い匂いはシャルルを落ち着かせていた。

続きは8月10日公開予定です♪


『La croisade de l'ange 1:Reims』 ⑥

『Reims ‐ランス‐』



陽に干される毛布の匂いにシャルルは目を開けた。鳥の声。
シャルルは飛び起きた。窓から眩しい朝日が差して、目の前の白い毛布をじりじりと温めている。
朝のお祈りの時間。寝坊だ!

「ん~」
隣には眠そうに額を枕に擦り付ける少年。真っ白なシーツと枕は眩しいくらいだ。
「あれ?」
あ、そうだった。景色に慣れなくて、どこにいるのか分からなかった。改めて白いシーツの雪原に丸くなるロイを見つめる。
「そうか、ロイの部屋だ。ほら、起きろ。朝だ」
「まだ眠いよ」
ロイは毛布を一人占めするつもりか引き寄せると、ぐるぐると毛布の殻に閉じこもろうとする。
「だめだよ、朝のお祈りの時間だ。修道院じゃなくてもお祈りは必要だぞ」
「勝手にやれば」
「難しい言葉は知ってるくせに、ロイは普通のことができないんだな」
ロイが毛布にこもっているからシャルルは放っておくことにした。方角は窓の朝日で大体分かる。壁に向かって膝をつくと、両手を組んで毎朝の祈りを小さくつぶやく。
習慣のようなもので、これをしないと朝食を食べてはいけない気がするから不思議だ。シャルルは祈りを済ませると、ぐるりと室内を見回し、続き部屋があることに気付いた。木の扉を開くとそこは小さな部屋で、大理石の床に水がめと桶がある。金で飾られたチェストがあり、その上にロイの着替えらしいものが置かれている。
小さな高窓からかすかに風が通る。
息を大きく吸い込むと、自分が何をするべきなのかを考える。
そう、まずは。


「あれ?スカートやめたんだ」
ロイの揶揄する言葉も無視。ロイの額に手を置いて、熱はないなとほっとする。
「お前の着替えを借りた。やっぱり、落ち着く」
「私のでもないけどね。スカート、あれ可愛くて似合っていたのに」
「院長様みたいなこと言うな。ほら、お前も顔洗ってきなよ。その間にベッドなおすし、汚れものを置いてきながら、食事もらえるように話してくる。逃げ出したいなら手伝うから」
さらりと物騒な言葉を付け足し、身を翻すなりシャルルは扉を蹴り上げた。
「おい!開けろ。ロンロン!」
叫んでは派手な音を立てるシャルル。
「ほんと、男の子みたいだな」ロイが面白そうに見つめている。
そのうち、「うるさいぞ」と怒鳴りながら、扉が開かれる。
衛兵の向こうにシャンパーニュの騎士を見つけるとシャルルの背後で少年は表情を厳しくした。
「よっ!おはよう、ロンロン」
「ロトロアだ、いい加減覚えろ」
「ロトロア、ラン伯の血縁のものか」
言ったのはロイだ。
「何、知ってるんだ?」シャルルが頭をぐんと押さえつけるロンロンに蹴りを繰り出す間にもロイはじっと男を見つめている。
「おっしゃる通り。今はシャンパーニュ伯ティボー四世にお仕えしている。ほら、シャルルお前は食事を運んで来い。おぼっちゃまのお着替えは俺が手伝ってやる」
「自分でできる」
「まあ、そう遠慮せず。ほら、シャルルお前はさっさと行け。厨房にうまい飯が用意されてるぜ」
「……、そ。ロイをいじめたら承知しないから、じゃあな!」
噴き出す男の声を背中に聞きながらシャルルは洗濯物のかごを抱えたまま外に出た。
衛兵がじろじろと見るが、ふん、とにらみ返す。

ロイの表情が印象に残る。ふざけた口調だったけどロンロンも何を考えているか分からない。大丈夫なのかな。早く逃がしてやらなきゃいけないんじゃないかな。
「あいつが意地っ張りだからだ」ぶつぶつと可愛げのない少年について思い出せることを並べながら、シャルルは急ぎ足で厨房へと急いだ。


二人分のスープも、見たことのない肉の焼いたものも、いい匂いをさせている。
立派な銀の皿は重たい。修道院で使う木の器とは全然違うんだ。綺麗だけど、重いよな。
一人ごとをスープにこぼしながら階段を上る。
「もうすぐ、食べれる、もうすぐもうすぐ♪」シャルルは重さに震えそうになる手を励まし、トレーを胸の位置に持ち上げて歩く。
部屋の前に衛兵はいなかった。
細く開いた扉、かすかに二人の声がする。
シャルルは足を止めた。



「お父様はそんなことをなさらない」ロイの高い声は落ち着いている。
窓からの風にのって、廊下にいるシャルルまで届いた。そっと隙間からのぞくと、ベッドに腰掛けて見上げるロイ、その前に腰に手を当てて立つロンロンが見えた。
「クリア・レギスで報告されているのです。書簡にも残っている。このやり様にシャンパーニュ伯は失望し、ランス大司教も共感なさっている。どうか、大人しく我らに従っていただきたい」

クリア、…レギス?ってなんだ?
シャルルはごくりと唾を飲み込んだ。
ロイにどんな関係があるのかな。
少年の表情は変わらない。じっとまっすぐロンロンを見上げていた。
「私にはなんの力もない」
「それはどうですかな、正統な継承権がある」
「無理だ。お前が言う通りならなおさら。そう、長くない、って。皆は思ってる」
「ふん…立派なお覚悟、とでも言ってほしいか。ああ、腹が減ったな。おい、シャルル。さっきから匂ってるぜ、立ち聞きしてないでさっさと運んで来い」
こちらを振り向いたロイとまともに目が合って、シャルルは思わず息を止める。
「お、お待たせ」
強引に笑顔を作るとシャルルは何食わぬ顔で小さなテーブルにトレーを置いた。
「重かったー」
「御苦労だったな」
って、僕はロンロンのために運んだわけじゃない。
なのに、テーブルに置かれたそれに祈りもせずに、男は無造作に手を伸ばす。

「それ、シャルルの分だ」
ぶ、と。ロイの言葉に男は呑み込みかけたスープをはきだした。
「あ、そうか?何だお前、なんで俺の分を持ってこない」
「あんたが一緒に食べるなんて、思わなかったし……」したくもないし。
「じゃ、お前が悪いな。もう一回行って来い」
はぁ?
「シャルル、私のを分けよう。行かなくていいよ。こっちにおいで」
黙ってうなずくと、シャルルはロイの座る隣に腰をおろし、男を睨みつけた。
「なんだ、そんなに欲しいなら、これ、くれてやるか?修道院ではどんなものもありがたく受け取るんだろう?」
先ほど吐き出したスープ。
ふざけるな。喉まで出かかったところで「ほら、これ」と。ロイが肩に手を置いてシャルルにまだ手をつけていないスープ皿を差しだした。噛みつかんばかりに睨みつけていたシャルルはロイの優しげな瞳に気づいて、力が抜けた。
捕まえられて、理不尽に閉じ込められて。それでも怒りもせず怒鳴りもせず、ロイは僕に優しくするんだ。
「子供同士、仲良しだねぇ」
「何事も自らに返る。ラン伯を継ぐのなら姿勢を正したほうがいい、と、言っても無駄だろうけどね」
ロイの言葉にぴくと男は表情をひきつらせる。
ロイは小声で祈りを終えると、パンに手を伸ばした。
「は、自らに返る、とするならお前さんは余程前世に悪事を働いたらしいな。生まれながらにそんな体だ」
今度はロイのパンを持つ手がかすかに震えた。
シャルルは「それも半分ちょうだい」とロイの手を掴んだ。ぎゅと握り締める。
「難しいことは分かんないけど。僕はロイのほうが好きで、ロンロンは嫌い」


少し間があった。
ロイの手が震えているのに気づいてスープから顔を上げる。少年は笑い出していた。笑い過ぎて、でもあの咳にはならなかった。楽しそうに声をあげて笑い、
「私も好きだ」とシャルルの頭を抱き寄せた。
派手に心臓が高鳴って、顔も赤くなっている気がしたけど、シャルルは正面で目を丸くしている男にふんと笑って見せた。
「ああ、下らん」そうつぶやくと目をそらし、男はリンゴを無造作に掴むと立ち上がる。
「どちらにしろ今夜の聖堂参事会で決まる。ま、シャンパーニュはここよりうまいものが食べられる。ぜひ来ていただきたいものですな」
ロイにそう話しかけ、シャルルには「お前も来るか?俺について」と付け加えるから、「嫌だね!」と男の背中に顔をしかめる。

「……シャンパーニュに連れて行かれるのか?」
そう尋ねると、ロイは急に表情を硬くした。
「それよりシャルル、スープが冷めるよ」
「あ、うん」
言いたくないのか。
シャルルはそれ以上追及せず、まずは腹を満たすことを優先した。
ジャガイモとトマトの入ったスープにはなぜか肉も豆も入って、具だくさんだ。
「おいしい」
「これに腸詰を乗せて焼くと、もっとおいしいよ」
ロイの説明は更にシャルルの妄想を呼ぶ。おいしい、おいしいと喜ぶシャルルを少年は眩しそうに見つめていた。



ロイは僕のこと友達って思うよね。
そう聞けば、ロイは頷いた。
好きだっていったよね。少し頬を染めて少年はまた頷いた。
「なのにさ!どうして、何にも教えてくれないんだよ!」

知ってはいけない、なんて大司教様の言葉は吹き飛んでいて、シャルルは一通り部屋を片付けて暇になると我慢ができなくなる。

ロイはベッドに座ったまま、あるいは寝ころんで。ずっとシャルルがすることを眺めていた。
堅く絞った布でテーブルを拭き、ベッドの支柱をきれいにするときにはシャルルに合わせてまるでクウ・クルみたいにロイもぐるりと回った。
「やってみる?」というと、うん、と。面白そうに布巾で木枠をなでていた。
にこにこ笑い楽しそうだ。偽物貴族(ではないようだけれど)のロイがなんだか弟分みたいでかわいかった。
シャルルの小さな手が荒れているのに気付くと、手を握って「痛そうだね」と温めてくれる。ロイは優しくて、難しい言葉を知っていて、温かかった。
なのに。
捕まっている理由とか、シャンパーニュに連れて行かれる理由とかをシャルルが尋ねると途端に冷たい態度をとった。
「さあ」
「知らない」
「言わない」
「君には関係ない」

「何で言わないんだよ!!もう!」
業を煮やして掴みかかると、あっさりロイはシャルルの下敷きになった。
馬乗りになったはいいが殴るわけにもいかず。
ロイは真っ白なシーツの中で淡い茶色の髪に縁取られた小さな顔をまっすぐ征服者に向けた。
「言わない」
「ロイはどこかの貴族の跡取りなんだ、だろ?継承ってそういうことだよね。それに、シャンパーニュ伯が関係するんだろ?クリアレギスって何?」
「……聞いていたんだ」
「いいからさ。教えろよ」
「嫌だ」
「あ、そう。そういう態度に出るならさ」
シャルルはにっこり。最高の笑み。
「?何……」
ロイの顔にキスできるくらい近付くと、さすがにロイも頬を赤くした。
街の男の人たちと同じ。シャルルはそういう悪戯が大好きだ。ロンダに同じことをしたときには逆に抱きしめられて、結局蹴りを入れることになったけど。

ロイの耳元に口を近づけて。
「くすぐっちゃうよ?」
ひゃ、とか変な声をあげて身をよじるから、抑えつける。
「ふふふー。こういうの大好きっ!修道院の子供たちをこれで全員降伏させたんだ」
「ま、待って!言うから!言うから!」

案外、すぐに降参。
「なんだ。つまんない」
ロイは力を抜いたシャルルを押しのけると、ベッドの隅に避難する。苦しそうに息を荒くし、胸を押さえていた。
「シャルル、目的が変わってる」
「え?そうだった?」
面白がっているのは明白。シャルルはふふんと笑いながらくすぐる手つきをしながら一歩踏み出す。ますます縮こまるロイは毛布を盾にして隠れた。
「大人の事情ってのもあるし。シャルル、知らないほうがいいこともあるって、思わないのかい?」
「知りたいものは知りたい」
「知ったら知らなかったことにはできないんだよ?都合良く忘れられるわけじゃないだろう?」
「そんなことない」
そんな脅しは怖いもの知らずのシャルルには効くはずもない。すでに大司教様との約束はしっかり忘れているのだ。
ロイは呆れたように溜息をついて、乱れた前髪をかきあげた。
「君は……。クリア・レギスってのはフランク王国の国王と有力諸侯や有力司祭が集まって開く会議のことだよ。そこで王国の政策が決められる」
「あ、そうか。クリア・レギス、国王会議だ。聞いたことがあった!そういえば!」
そうそう、とシャルルはあっけらかんと笑う。
「なるほど、君なら忘れることもできそうだね」
「嫌味だな。いいから早く、教えて」
「私を……逃がしてくれる、かな?」
簡単なことではない。このランスの郊外にラン伯の所領に属する城と街がある。そこからロトロアは来ているのだ。ロトロアはシャンパーニュ伯と臣従礼を結んでいる。ランスを囲むように軍を配置できるのもそのためだ。
「簡単なことではない」ロイはそこまで説明すると下を向く。
「それは最初からそう言ってるだろ」シャルルは当然といった顔でうなずくが。
「私を逃がすことで君に罰が科せられたらどうするんだよ」
「は?なんで?」
世話係を自称する少女がシャンパーニュ兵たちに問い詰められないはずはない。
「分かった、いいよ。やっぱり言わない。教えない。逃がさなくていい」
「なんだよ、信じないの?」
しっかりうなずく少年にむう、とシャルルは唸る。
まだ素直に言わないつもりの少年をどう攻略しようかと、口をとがらせ肉食獣のように鼻にしわを寄せて睨みつけた。ベッドの隅の獲物は毛布をしっかり巻きつけて防御の体勢。
どうするか。
と、何かに気を取られたのかロイは視線をシャルルの背後へ。
今だ!
毛布の端を掴んで思いっきり引っ張る。敵は毛布を取られまいと慌てて手を伸ばし、その手をつかんでっ!
のつもりが。
毛布と一緒にするりとロイはベッドから飛び出した。一歩遅く、シャルルは空になったそこにべたんとカエルのように転がった。
「あれ?」
振り向いたときには、形勢逆転。
目の前にロイの顔。
「わ」
にっこりと笑われて、馬乗りでもないのになんだか動けない。
ベッドの隅、片側には毛布の山が関所を作る。
どうしよう、って。いや、なんだ?
自分のうろたえる理由も何も理解できないくらいシャルルは慌てた。
ロイの顔は近いままで、だから、そうだ。だから身動きできないんだ!
押しのけようとすれば手を掴まれた。
ありゃ。
ロイはにっこり。目の前で綺麗な笑顔を作ってみせる。
「今度は私の番だね。……キスしていい?」
「はぁ!?」
シャルルは悲鳴らしきをあげていることに気づく。
それが、途中で途切れたことも。
口がふさがれている、ってことも。

必死に暴れて、やっと膝に手ごたえ。
ふわりと離れたロイは腹を押さえてベッドの向こうに立っていた。

ロイは傾きかけた日差しと同じように、少しだけ首をかしげて困ったように笑う。
「ごめん。泣かないで」

言われて、頬を落ちるそれに気づく。ぬぐおうとした。
拭う手の甲にまた一粒。
悔しいのか驚いたのか何なのか。生まれて初めて、本物のキスをした。
シャルルはベッドの上に座り込んで泣き出していた。
「ごめん、ひどいことした、ごめんね」
そう言ってロイが頭をなでて慰める。それでも、涙が止まらなくてシャルルはそれが恥ずかしくなる。だから、首を横に振ってとにかく涙を止めようと必死だ。
「僕、……だから、女なんて、泣くなんて」
「うん。ごめんね」
「男の子に、生まれたかった」
「うん、……え?」
「騎士になる、それで好きなとこに行く」
「シャルル、騎士になるのは」
「なる」
絶対になってやる。膝を抱えて顔を伏せたままのシャルルの隣に、少年が腰掛けた。
「騎士って言っても、いろいろあるよ。あのロトロアのように若い貴族が成人するまでの仕事として有力諸侯と臣従礼を結んで仕えるもの。諸侯の陪臣、自由農民が戦争のために駆り出されてその場で叙任されるもの。どんな立場でも騎馬に乗って戦う兵士は皆、騎士だよ。でも。そうだね。本来は貴族の男子が丁年を迎えるときに聖堂で叙任される、それが正式な騎士だね。三日もかけて叙任式をするんだ」
長いロイの説明は、なぜかシャルルの気を落ちつけた。
「丁年って成人のときと同じ?」
「うん。ふつうは二十歳だけど。そうじゃない場合もあるよ。たとえば貴族家系の継承者が若くして当主になる時とかね」
「ふうん。じゃあ、僕でもその叙任をされれば騎士?」
「うん、まあ、馬と武器くらいはないと恰好はつかないよね」
「それ、それだよね。馬がないし、買えないし。じゃあ、まずは独り立ちしてお金をためる!」
「違うよ、どこかの諸侯に雇ってもらうのが一番」
「騎士として?」
「最初は小姓だと思うけど。騎士見習いになれれば幸運だ」
「…かっこわる」
「恰好でなるものじゃないから。…シャルル、無理無理。君には」
「偉そうだな!ロイは叙任されたのか?」
仰向けに寝転んで体を伸ばしていたロイは、動きを止めた。
「……秘密」
からかえばシャルルはむきになった。頬を赤くして、口を尖らせるそれが可愛らしい。さっきまで突然のキスに驚いた可憐な少女だったのに、今は構うなと爪を立てる猫のよう。
「あ、そうなんだ!騎士なんだ!そんな小さいのにさ!」
「小さくないよ。君と同じくらいだし」
「ああ、そう、そうなんだ。貴族様だし!やっぱり僕、男の子だったらよかった!」
ロイはシャルルの理論に笑いだし、腹を押さえた。
「だから、なんでそうなるんだい?分からないよ」
「男の子だったら、僕はフランドル伯の跡取りだったんだ。たぶん」
「たぶん?」
「うん、噂だけだから。僕はフランドル伯ジャンヌ様の娘なんだ。女だったし、ジャンヌ様の夫、前のフランドル伯が十字軍遠征で捕虜になっちゃったから、政治的な問題とかで捨てられたんだ。きっと男の子だったら跡取りとして大切にされたんだ。当然、騎士だよ」
「ジャンヌ様に会ったことは?」
「ない」
ふと。ロイの笑顔がなくなる。
「……もう、私に構わないほうがいいね」
「は?」
「友達になったし、シャルルのこと好きだから忠告しておく。私のことは、忘れたほうがいいよ。私の存在も、ここにいたことも。これから私に何が起きても」

そんな。
少年はふんわりと笑う。それが、やけに白い顔をしているから、悲しそうだから。
シャルルはロイを抱きしめた。
「死んじゃうみたいなこと言うな!絶対に助ける。絶対に」
うつむいたロイの長いまつげに涙が見えた気がした。
落ち着いて気丈にふるまったって、僕と同じ歳の子供なんだ。大人たちがロイをどうしようとしているのか僕にはわからないけど、ロイはきっとわかっている。分かっているから、だから震えているんだ。
こいつが何者かとか、そんなのどうでもいい。助けてあげたい。


続きは8月17日公開予定です♪


『La croisade de l'ange 1:Reims』 ⑦

『Reims ‐ランス‐』



ランス大司教座、ノートルダム大聖堂。
十九の司教領と六つの地方貴族の領地からなる大司教座は、このフランク王国北部で最も力のある聖職者が治める土地。その大聖堂に、シャルルたちはいた。
夕刻が近づく。窓からは外陣の尖った屋根が見える。規則正しく並ぶ先に月が小さく光っている。
下を見ても突き出した彫像のおっぱいが見えるだけでとても降りられそうにない。
敷地の向こう、司教たちを乗せてきた馬車だろう、厩舎の前にずらりと並べられている。夜になれば聖堂参事会が開かれる。そのあと、きっと、何か。

シャルルはくるりと振り返る。
ロイはベッドにうつぶせに寝転んでこちらを見ていた。
「無理だと言っただろ。のぞいてみたけど、高すぎてくらくらした」
「ちょっと待ってろ。絶対に、何とかする」
返事など聞かない。
シャルルは扉をガンガン蹴って兵を呼び、「修道院に用事がある」と兵を押しのけるように飛び出していった。
衛兵は呆れた顔でシャルルを見送ると、室内にロイが残っていることを確かめて、扉を閉めた。ロイは毛布を抱えたまま閂の冷たい音を聞いていた。


シャルルは修道院に駆け戻ると真っ先にアンのもとへ。厨房は丁度夕食の準備で数人の使用人が忙しそうに動き回っていた。ジャガイモのスープの匂いを横切って、シャルルはかまどの前のアンの背中をたたいた。
「!!シャルル!あんたどこに行っていたのよ!」
大声に思わず目を閉じた。が、次に見上げたアンは満面の笑みを浮かべている。
「?あの、あのさ、服……」
「いらっしゃい、院長様があんたに用事があるって」
聞き返す間もなく強引に引っ張られ、院長の部屋へ。
「ま、待って、あの、ちょっと!」
「アデレッタ様、シャルルが戻ってきましたよ」
アンの声に慌てて立ち上がる派手な音で返事をし、「アン!逃げられないようにしっかり捕まえておきなさい!」と叫びながら、院長が扉を開いた。
怒鳴るから怒っているのかと思えば、違う。
気持ち悪いくらいにこにこと院長は笑った。
「待っていたのよ、シャルルー」
薄気味悪い院長の態度。
「あの、僕、用事が」
「いいから、いいから。貴方は何も言わなくていいの」

嫌な予感も、それどころじゃないんだけど、というシャルルの真剣な気持ちも、二人には全く通じない。
アンは何を言っても放してくれないし、院長はにこにこしながら奥の部屋から何やら大事そうに抱えてきた。
それがシャルルの目の前にふわりと広げられたのだ。
白い、衣装。

ふわふわとした小さなドレスは、シャルルの視界を妨げる。眼前のそれは見たこともないくらい薄い布地でよくよく見るときれいな刺繍がされている。ゆるく絞った袖、背中が妙にあいている気もするし、ギュッと閉めるようになっている窮屈そうな腰のリボンが大きい。
たぶん。花嫁衣装だ!
「ほら、ぴったりじゃない」
「あの」
「お前は何も言わなくていいのよ。明日にはお迎えが来ることになっているから」
明日!?
「なんだよ、それ!!」
豪農とやら?それとも商人だとか?そんなの勝手に決めて、絶対に逃げてやる。
シャルルは睨みつけた。

「いいのよ、お前が黙っていたのは許してあげるわ。まさか、あのロンダがねえ」
ロンダ!?え?
つまり?
「ロンダのお父様がね、正式にお前をとお話に来られたのよ。こんなじゃじゃ、いえ、元気のいい子を嫁にしてくれるなんて、ロンダも物好き……優しい子だわ」
「あのさ!勝手に決めるなってば!僕は」
「僕じゃない!私!」鋭い平手打ちを寸前で座り込んでかわすと、シャルルはアンの後ろに回り込んだ。
「いい加減にその男言葉はやめなさい!お前みたいな子をもらってくれるなんて後にはないのよ!」
この前言ってた二つはなんだったんだよ。
ロンダ、よりによって、あのロンダ…。
シャルルは少し考えた。
ロンダは優しい。ちょっとばかだし。僕の言うことを聞いてくれる。でも。

「やっぱり嫌だ!ロンダと結婚なんかしない!」
「もう決まったことです!」
「いやだ、それに、そのドレス大きいよ。絶対、僕には似合わない!」
「似合うわよ!ぴったりじゃない」
「着てみなきゃ分かんないだろ!」
「だめです、汚したらいけないでしょう!」
「じゃあ、やっぱり似合わないからいやだ。ロンダに返して」
「…仕方ないわね」
まあまあ、院長様、着てみたいというのだから。とアンがにらみ合う二人の間に入って、衣装を受け取る。「さあ、シャルル、こちらで」とシャルルを別室へと引っ張り出した。


アンの寝室には、大きな鏡がある。
シャルルは夕焼けとランプのうす明りだけの室内で、白いお化けみたいな自分の姿を睨みつけていた。乱れた金髪はたてがみが逆立ったみたいに見えるし、白い肌に白いドレスはなじみ過ぎて気味が悪い。
「なんでさぁ、勝手に決めるんだよ」
「あんたは知っているのかと思っていたのよ。ほら、ちょうど院長様が結婚の話を出して飛び出したでしょ?そのタイミングでロンダのお父様が来られたからね、あんたが縁談を嫌がってロンダのところにでも泣きついたのかと思ったの。いつの間にか好きな人を見つけてさ。院長様とね、男の子みたいなあんたでもやっぱり女なんだねぇって、感心していたのよ」
「違うよー、ロンダの思い込み。分かった、あいつこの間フランドルに出かけたから。このドレス、フランドルで買ってきたんだ、多分」裾をぴらりと持ち上げる。スースーするのを通り越してくすぐったい。
「あいつ、って。シャルル。未来の旦那様にそんな口調はだめよ」
ぎゅ、とリボンを絞められ。息が止まりそうになってシャルルはうめいた。
「フランドルで僕にって、きれいな剣を買ってきてくれたんだ。ほら、そこにある」
「あら、まあ」とアンは興味深げにシャルルの荷物からはみ出した、あの蒼い短剣を取り出した。
「きれいねぇ!それでなのね。シャルル。東の国では男性が女性にきれいな彫り物をした短剣を贈って求婚するのよ。これは、あんたに結婚の申し込みだったのよ」
「そう?」そんなはずはないと内心笑いながら、シャルルは剣を受け取った。蒼い石と絹糸を織り込んだ模様が、ぼこぼこと手のひらに当たる。
お土産がほしいかって聞くから、僕がかっこいい剣がほしいって頼んだんだ。
ロンダはお人好しだから嬉しそうに……。
女らしくしろと抱きしめられたけど、でも。
ふと脳裏にはロイの、あの時の顔。目の前にあったきれいな目。強引にキスしたくせに、困ったように謝った。
違う、違う。
首を横に振るシャルルに、帽子をかぶせようとアンが押さえつける。
「なに、これ、かぶるの?」
レースでできた帽子を頭に乗せ、脇のリボンをあごに回して縛ってみる。
「髪をきれいに洗わないとねぇ。可愛らしい花嫁さんになるわよ」
顔を隠すにはちょうどいい。
「何?」
「あ、なんでもない。あの、ちょっとトイレ!」
「駄目よ!我慢なさい!」
「嫌だ!」
慌てるアンを無視して、シャルルは部屋を飛び出した。




シャルルは走っていた。修道院をそのまま飛び出し、ランスの町を走り抜ける。
目標は大聖堂。
夕方の通りは賑やかだ。見知った商店の主人が声をかける。適当に手を挙げて応える。
ランプが揺れる軒下を走り、聖堂前の広場を横切って大きな門へ。
聖堂参事会が開かれる夜は、門の前に司祭が立つ。
顔見知りの司祭がシャルルを引きとめた。
「おやぁ、シャルルじゃないか。珍しい恰好して、やっぱり女の子だね、似合うよ」
「ごめん、通して」
「今日は参事会があるからね、奥の階段は使ったらだめだよ。裾を踏んで転ばないようにね」
ひどく真剣なシャルルが拍子抜けするくらい、穏やかに笑って見送る司祭。こんな時にのんきに笑っている。

「誰にも話してはいけません」大司教の言葉をふと思い出す。

つまり。誰も、知らない?

シャルルは立ち止り。ふと振り返る。先ほどの司祭が笑顔で手を振った。
知らないんだ。
向こうに見えるランスの街。小さく星が流れるような家々の明かり。二階建ての建物がほとんどで、三角の屋根の向こうの空は夕焼けの残りと深い青。
普段と変わらない。何も変わらない。皆にとっては。
なのに、僕はこんな衣装で。
ロイは閉じ込められていて、殺されちゃうかもしれないんだ。

僕が助ける。僕しか、ロイの味方はいない。
絶対に、助ける。

改めて胸元に抱えた短剣を握り締めると、シャルルはゆっくりと歩き出した。
シャンパーニュの騎士たち、ロンロンを入れて四人が敵で。後は衛兵二人と大司教様。
そう、それだけのことだ。
彼らの目さえ逃れられれば、大丈夫。聖堂参事会には大司教様も、ロンロンも出席するんだろう。だとすれば、敵は騎士が三人だけ。この広い大聖堂、僕のほうが詳しい。
大丈夫。


シャルルは息を整え、ゆっくりと外陣を歩いて行く。途中、裏庭に通じる出口から外に出ると、馬車がたくさん並ぶ厩へと立ち寄った。
「クウ・クル!」
呼ぶと白イタチが馬の背を三頭分ぴょんぴょんと渡りながら、シャルルの肩に飛び乗った。
「馬とじゃれるのは後で。お前は重要な役なんだからさ」
すでにシャルルの帽子にまとわりついて遊んでいるイタチに例のごとく一人話しかける。


厨房ではいい匂いが立ち込めている。
さっきまでシャルルの背中を規則正しくたたいていたクウ・クルの尻尾がぴたりと動きを止めて、周囲に興味津々だ。鶏肉の皿に気づいて近づきすぎないようにシャルルはぴたりと止まった。クウ・クルは皿が射程圏内に入れば遠慮なく飛びかかろうという仕草だ。
「だめだよ。後で」
「おや、シャルルじゃないか。どうしたんだい、それ」
顔見知りの焼き場の監督アンリが真っ赤にほてった頬をにこにこさせながら、焼きあがったばかりの鶏肉を大きなグリルパンに乗せて持ってくる。クウ・クルが鼻を突き出して匂いをかぐとアンリは笑って「ほれ、熱いぞ」と、小さくちぎった肉を差し出した。
「ありがとう、あの、夕食を」
「ああ、お客人の分だね。ちょいと待ってくれよ、参事会の前の会食が始まったんでね、そっちが優先なんだ」
「うん、いいよ」
シャルルは厨房の隅に積み上げられている野菜のかごの脇、酒の木箱の上に座った。
ドレスを着ていることなどすっかり忘れている。
クウ・クルは肩の上で手に持った鶏肉と格闘している。白いドレスはしっかり汚されているのに、シャルルは気づかず、頬杖をつくとぼんやりと忙しそうな男たちを眺めた。


ここ数日、そう、あの朝シャンパーニュの騎士、ロンロンに出会ってからだ。いろいろなことがいっぺんに起ったんだ。
ロンダが短剣をくれた。ロイとお兄さんのルーに出会って。僕が大人になって。院長様は僕を結婚させようとするし。僕は水車小屋でまたロイに出会った。
水車小屋。
鍵はずっと、シャルルが持っている。首に下げたそれはシャルルが水車小屋の管理を始めてもう、二年ほどずっとシャルルの胸元を飾っていた。

「おい、どうしたシャルル。ぼんやりして。シャルルらしくないな」
アランが二切れめの鶏肉をクウ・クルに差し出しながら、シャルルの頭をなでた。
「あ、うん、ちょっと疲れたんだ」そう、眠いような体が重いような。
「ほら、準備できてるぜ。重いけど大丈夫か?」
「大丈夫。僕、力は自信ある」
ふふ、と鼻で笑いながらアランの差し出したトレーを受け取った。

「ああ、シャルル、もしかしてお前、それは花嫁さんか?」
「そう、これはね、花嫁さんだよ」
そう呟きながら、振り返らずにシャルルは歩き出した。
重いトレーと料理の匂い、肩のイタチは嬉しそうに右に左にと行ったり来たり。
そんなことより。シャルルは考え込んでいた。


階段を上り、部屋の前では衛兵が二人、シャルルの姿を見ると目を丸くした。
「おや、どこの貴族様かと思ったぜ」
「お前、女だったのか」
胡坐をかいて座り込んでいる二人はシャルルのドレスの裾をつついた。
「めくったらスープを顔にぶちまけるぞ」
からかう二人を睨みつけ、早く扉をあけるようにとあごで示す。
「威勢がいいなぁ、お前面白いなぁ」
一人が笑いながら、鍵を開ける。重い扉が開かれる。ランプも灯されていない暗い室内の空気を深く吸い込んで、シャルルはぐっと腹に力を込めた。
「あ、そうだ。厨房でアランさんが、夕食が出来たってさ。交代で食べにおいでってさ」
ああ、わかった。そう答える衛兵の声を聞きながら、シャルルは静かに部屋に入る。背後で扉が閉まった。
暗がりのそこは窓からの街の明かりだけが見える。月だけがベッドに座るロイの姿をかすかに照らした。そこにいるのに振り向く様子もない少年。この静寂をシャルルは破る。
「夕食、持ってきた」
少し間があった。
「…来たんだ」
もう、来ないのかと思ったのだろう。
「何言ってるんだよ。僕はお前のお世話係だからね。約束したし」
ロイの声が沈んでいる気がして、シャルルは落ち着かない。
何かあったんだろうか。
また、体調が悪いんだろうか。
テーブルにトレーを置いているすきに、白いイタチがつるりとロイのほうへと駆けていく。
「わ、お前も来てくれたんだ」
嬉しそうなロイに少しだけほっとし。シャルルは暖炉に残る種火を火かき棒で引っ張り出すと、ランプに火をつけた。
持ち上げてテーブルへと移動する。ロイの顔が見えないのは不安だった。
「シャルル、その格好」
照らされたロイはこちらをまっすぐ見ていて、シャルルはなぜか照れくさい。
「見るなって」
「可愛い」
「あー、そういうのは聞きたくない」
ほら、食べよう。と、シャルルは一人先に席に着く。
「じゃあ、きれいだ」
「違う、それも聴きたくない」
ロイがゆっくりと歩いて、正面に座る。
引かれる椅子、それを持つ手。肩から降りてきたクウ・クルが二人の間のテーブルに後ろ足で立って左右を見比べる。
「じゃあ、もっと、ちゃんと見たい」
ぶ、と。飲みかけた水を吐き出して。シャルルはむせる。
「それはいいからさ、食べよう。急いで。時間がないんだ。食事の後に参事会が開かれる。たぶん、あと二時間くらいだ」
「まだ、そんなこと言ってる。僕のことは忘れるんだよ。忘れることができるって言うから、だから」
「だから?」
「……なんでもない」
視線をスープに落としたままの少年に、シャルルは派手にため息をついた。
「あのさ。僕は、たぶん。お前のことは一生忘れられない。この短剣も、きれいなドレスもさ、ロンダっていう幼馴染がくれたんだ。僕と結婚したいんだってさ。でも僕が思い出したのは、ロイのことなんだ」
「シャルル」
「助けるって決めたんだ。これで何もしなかったら、僕は一生後悔するし、それこそ思い出しても悲しいだけになるし。だからさ」
「君、何を言っているか、分かってる?」
「分かってるよ。僕はお前を助けるって言ってる」
「無駄だよ。もういいんだ。どうせ、いつか人は死ぬんだ。乳母がよく、僕に言うんだ。どんな人も、生まれたときに約束されるのは死ぬことだけだって。それが、早いか遅いかだけだって」
「自分こそ、何言ってるか分かってないね」
そんな風に覚悟するのは間違ってる。そんな覚悟をさせる周囲も間違ってる。だって、今ロイは生きてるんだ。
少年は首を横に振った。
「分かってるよ。私は要らないんだ。大勢いる兄弟の中、体の弱い私一人だけ北の王領で乳母に育てられた。両親にもほとんど会ったことがない。ルーだけは歳が近いから、時々パリから遊びに来てくれる」
「それでこの間は二人で抜け出したんだな。僕の剣も盗んだり……」
そこでロイが笑った。
「ごめん……本当は私も騎士の叙任なんて、されてない。見習いにもなれないし、剣に触れたこともない。それで、君のが羨ましくて」
「盗むことないだろ。僕だって初めての自分の剣なんだ」
「うん、ごめん。結局周囲に隠しておかなきゃいけなくて、ずっとマントにくるんだままだったんだ。悪いことはしちゃいけないね」
だよ。と頷きながら。シャルルは立ち上がりロイに背を向けた。
「?怒ってるのかい?シャルル」
シャルルはもぞもぞとドレスの裾をまくっている。ドレスの裾から細い足が出ていて、思わずロイは目をそらす。
「他に隠すところがなくてさ。はい」
ことり、と。テーブルに乗る堅い音でロイは顔をあげた。
シャルルはにっこり笑い、あの蒼い短剣を二人の間に置いていた。
「叙任式って、見たことあるよ。主の名において、我、汝を騎士に叙する。天則を守るべし、祈りかつ働く人々すべてを守護すべし。かなり古式で簡略だけど」
「え?」
見ている間にシャルルの細い指が水の入ったコップに吸い込まれ。あの短剣にぽたぽたと滴る滴。透明なそれについ、みいっているロイの首をぱん、と。手の平で思い切りたたく。
「わっ!?」勢いにロイは椅子から転げ落ちた。
「はい。騎士には、剣が必要だよ。馬はここのを借りればいい」
シャルルの差し出した短剣はランプに照らされきらきらと光る。
ロイは両手でそれを受け取った。
「…ありがとう」
「諦めるなんて、言うなよ。僕が助けるんだ。誰がどう思ったって、僕はロイに生きていてほしい」
シャルルは自分の生い立ちを重ねていた。貴族の母親は自分で子を育てないものなんだとアンが慰めてくれた。ロイも同じなのだ。名を失った僕と同じ。
ぎゅと胸が苦しくなるからシャルルは慌ててフォークを手に取った。
「とにかくさ、食べよう」ロイの視線を避け無理やり口に含んだ鶏肉は、涙の味がする。
「案外泣き虫だな、シャルルは。泣かないでって言ったじゃないか」
「泣いてないって!僕はお前を助けるって言ってるんだ。同じ死んじゃうかもしれないなら、僕の言うこと聞いてからにしろよ。いい?」
「ごめん。泣かせたいんじゃないんだ」
ロイの声が少し鼻にかかる。
本当に怖いのは、泣きたいのはロイのほうだ。僕が泣いてちゃだめだ。
シャルルはぐっと涙を拭うと話し出した。
「いい?ロイのことを知っているのは、僕と外にいる衛兵と、この聖堂のどこかにいるシャンパーニュの騎士たち。それと大司教様だけだよ。後の人は、ロイのことをお客さんだと思っているんだ。だから、騎士たちにさえ見つからなければ、あとは味方なんだ。僕も、ここにいたらきっと、ロンダと結婚させられちゃう。それは嫌だ。言っただろ、僕は騎士になる。だからこのランスを出る」
ランスを出る。
とっさに口をついて出た。それは、勢いに任せたものだったかもしれない。でも、声に出してから意味を反芻してシャルルの気持ちは落ち着いた。
うん、それでいいんだ。それでいい。
ロイはじっとシャルルを見つめている。シャルルがかみしめる鶏肉を水と一緒に呑み込むのを待って、口を開いた。
「一人で?」
「ロイがいる」
また、ロイは黙った。
「ね?」
念を押すと、ロイは頷いた。
「分かった」

続きは8月24日公開予定です♪

『La croisade de l'ange 1:Reims』 ⑧

『Reims ‐ランス‐』



「似合う、似合う」そうシャルルは笑った。
由緒正しい家系の男子たるものが女の格好をする、なんて。ロイがぶつぶつこぼしても少女は楽しそうに帽子のリボンを結んだ。
目の前の少女はいつの間にか真剣なまなざし。
菫色のそれは長いまつげに翳を受け、かすかな不安を思わせる。怖いのはシャルルも同じ。
「いい、最初が肝心なんだから」
ロイはこくんと頷いた。シャルルの手を両手で握れば、少女は照れたように視線をそらし、それでもしっかり握り返す。
ロイはトレーの皿の脇に、ナイフとフォーク、そしてあの短剣をそっと忍ばせる。皿とトレーを持つ手で何とか隠せそうだ。
白イタチはロイの肩で、じっとしている。襟巻きのようなそれも、少年の顔を隠してくれる。
「じゃあ、行くよ」
シャルルが扉の前に立つ。ロイ深く息を吸った。


夜半を過ぎ風が強まっている。足早に空を横切る黒い雲が時折月を隠す。昨夜と同じ、どんよりと湿った重い風が窓をたたいた。

「開けろ!」と、シャルルが叫び、足で扉をガンガン蹴った。
「うるさいな、今開ける」
交替で食事に行っているのだろう、腹をさすった衛兵が一人で面倒くさそうに閂を外し、扉を開いた。
その時にはもう、シャルルは駆け戻ってベッドに伏せている。

空になった皿とトレーを抱えた少女は白いドレスをうるさそうに振りながら、扉をすり抜ける。
「ひらひらと、蝶々みたいだなお前」
一人で退屈な衛兵は少女をからかってやろうと手を伸ばす。少女は白いドレスをふわりと揺らし、寸前でかわす。
「ちぇ、おい?」
見送る衛兵がじっと目を凝らす。
少女が先ほどと違う気がする。
あごに手を当て、思いついたように一歩踏み出した。
「おい、お前、待て」
ぴくりと、少女が立ち止まる。
「後ろのリボンが曲がってるぜ。直してやろうか」
いらない、と聞こえたようだ。少女が振り向かず階段の下へ消えていくと、「は、つまらん」と。衛兵は再びその場に胡坐をかいた。

白い衣装に身を包んだ少女、ではなく。
シャルルになり済ましたロイはほっと胸を押さえ、教えられたとおり階段をゆっくりと降りる。慣れないドレスは動きづらい。ランプの明かりの下、レースの帽子は上手く顔に影を落とし隠してくれている。
シャルルは衛兵さえ騙せれば大丈夫だと教えてくれた。

階段の下まで降りる。廊下の彫像の足元にトレーと皿を残し、短剣を腰に差した。
優美な曲線を描く天井が続く回廊。
その向こうの暗がりを眺め、ロイは肩のクウ・クルに話しかける。
「さあ、馬のいるところに連れて行ってくれ。馬が好きなんだろ」
シャルルに説明された時にはそんなこと、と思ったが。細い紐を首に括られたクウ・クルは、床に下ろされると気持ち悪そうに一度首を振った。それから何かを思い出したように鼻をひくひくさせながら歩き始める。
ロイは紐の先を持って、暗がりの聖堂内を静かに歩き始めた。
この回廊は作りからすれば、大聖堂の外陣と呼ばれるあたり。連れてこられた時は意識がもうろうとしていたから大聖堂の様子はわからない。年代を経た部分と新しい様式の部分が同居して、この大聖堂が長い時間をかけて作り上げられてきたものだとわかる。
天井が高すぎて、上のほうは真っ暗だ。その闇の中に夜空と月明かりをかすかに透かす大きな窓。かろうじてポツリポツリと置かれるランプと、それに照らされる白いイタチを頼りに進む。
強くなってきた風がステンドグラスを揺らし、ミシミシときしむ音は無気味に聞こえる。
びくびくしながらすすむ少年を引っ張るように、イタチはぴょんぴょんと走る。
普段からそうなのか、暗い聖堂内は人影がない。
ひやりと風が吹き、ロイは身震いした。昼間の日差しは暑いくらいでも、夜になればこの高地にあるランスはひどく冷える。
「ちょっと、待って」
かじかんだ手をランプの近くで少し温めた。
何をしているのかと興味深そうにロイの腹からよじ登ったクウ・クルに、「わ!」と小さく驚き、襟巻のように首を温めるそれにそっと触れる。
くすぐったいけど、温かい。
「いいな、お前。僕もお前みたいなのがいたらよかったな……」
胸が重苦しく、ロイは柱に寄り掛かって咳込む。
咳を吐き出すたび、じりじりと熱が上がるように頭のどこかがしびれていく。
しまいにはそこに座り込んでいた。

「ランスはでかい街だと聞いたのに酒屋もないのか。つまらん街だな」
「大聖堂の参事会員が作った街だ、司教座なんてもんはそういうものじゃ。皆何かしら大聖堂の世話をしておる、我が町の司教どのより聖職者らしい連中なんじゃ」
シャンパーニュの騎士たちだ。ロイは聞き覚えのある声に体を硬くした。
「…今何か、聞こえなかったか」

びく、と。口と咳を押さえ込んでロイは柱に背を押しつけ小さくなった。
カシャカシャと剣が揺れる音。二人の足音。
礼拝堂の身廊を、二人の男が歩いて行く。祭壇までまっすぐ伸びるそことロイのいる測廊は祈りをささげるためのベンチと大きな立柱で区切られているだけだ。蝋燭の揺れる光を遮る二人の影が、丁度ロイの右から左へと移動していく。
先ほどよりゆっくりした歩調。

「気のせいだろ…」一人の声が響いた時、不意に白イタチがくるっと飛び出した。
わ、クウ・クル!!
声にできない声で呼びとめても遅い。
「おい、なんじゃ今」
「走ったな、白いのが。ネズミのでかいのだ」
走り去った白イタチを追うでもなく、二人の騎士は聖堂の奥へとゆったりと歩いて行く。
「田舎はネズミもでかいらしいな。リシャールがいたら悲鳴をあげたかもしれんなぁ」若いほうの冗談にもう一人が笑う。暗がりに二人の会話だけが遠くなっていく。

しばらく息を殺しじっとしていたロイは、ふと息を吐くと周囲を見回した。
ランプが揺らめくだけの静かな礼拝堂はどんよりと重い夜の空気を抱え込んでいる。ジワリと冷える足元。慣れない白い衣装の裾をつまんで、少年はとにかく外に出ることにした。
案内のイタチはどこへ行ってしまったんだろう。
騎士たち二人が来た方向へ、聖堂の正面の扉へとロイは歩き出した。

正面の扉は両脇に松明が照らされている。聖堂参事会が行われる日は特別だ。
年若い司祭が夜も番をしていた。

その後ろ姿を認めてロイは立ち止った。
一人、それから向こうの扉の前に一人。そっと入り口から外をのぞき、観察しているとふわと強い風。ぽつと額に冷たいしずくが当たった。
「おお!雨だ、こりゃ濡れるぞ」
独り言をつぶやいて見張りの司祭が振り返る。
「!」
目があった。ちょうど帽子を両手で押さえ、ロイの顔は見えないはず。

「!おい、シャルル、まだいたのかい。雨がひどくならないうちに帰りなさい。せっかくの白い服が台無しだよ」
「……クウ・クルを探しているんだ」
帽子を直すふりをしながら、ロイはシャルルを真似る。暗がりに髪の色が違うことに気づかなければいい。
「ああ、さっきこっちからあっちへ走って行ったのを見たよ」
司祭が指差す方角。中庭の端の通路の奥。
「ありがとう!」
ロイは裾を両手で抱えると走り出す。
「おいおい、シャルル、女の子がなんて恰好だい。まったく」
高まる鼓動と強風に押されるようにロイは走った。頬や背中を打つ雨粒は、心臓の音に似ている。
時折足元の敷石に躓きそうになりながら。

息が切れ、そろそろ立ち止ろうかと思う頃。
「あ、馬の匂い」
そこまで来ると、もうロイにもわかる。
崩れる天候に不安げに鼻を鳴らす馬たち。息遣いが聞こえる。
細長い平屋の厩の中にはランプが灯る。ロイの身長くらいの高さののぞき窓から中の様子が見える。向こうには聖堂参事会のために集まった人たちの馬車が並ぶ。
夕食時。御者たちも休憩しているのだろう、人影はない。
ロイは馬たちの周りをぐるぐると回る。一頭、一頭、結んである手綱を解く。
「クウ・クル!いるのかい?」
返事はしない生き物だが。
「クウ・クル」
馬の間を歩きながらの三度目の問いかけに、何か白いものが馬の背をぴょんと飛び回るのが見えた。
「やっぱり、ここにいたんだ。おいで」
ロイは手ごろな馬に鞍を取り付けると、昇ろうとし。ずるりと落ちた。
「こ、この、ドレスって」
なんて動きづらいんだとぶつぶつこぼしながら、少年は何とかよじ登る。すでに馬の頭でくつろぐ白イタチは背後に乗った少年を振り返り、かすかに首をかしげる。
「シャルルは後から来る。大丈夫、ここでね、私がひと騒ぎ起こすつもりだから。その隙にあの子も逃げ出す」

ロイは馬に乗ったまま、隣の馬の尻を叩く。
驚いた馬がいななき、すぐわきのもう一頭にぶつかるから、その一頭も騒ぎ出した。もう一頭、さらにその隣の一頭と、ロイは届く限りの馬すべてを驚かせ騒がせた。数頭が走り出し中庭へ。十数頭の馬が興奮して建物の前を走り抜ける。先ほどの司祭が叫び声をあげた。
ロイは「もう少し、なにか」と周囲を見回し。
飼葉の山に、ランプを近づけようとした。
これを、落として割れば火がついて。
さすがに気が引ける。聖堂に火を放つのは、神に悪口を吐くのと同じだ。それに、明かりがなければ森から外に出られない。
迷ううちにランプが風に揺れた。強まったそれには大粒の雨が混じり、馬は落ち着きなく足を踏む。
ロイはランプを掲げたまま、聖堂の門へと馬を走らせた。大粒の雨に門番の司祭たちはすでに聖堂に避難したらしい。
女神が見守る立派な門の下、松明が雨粒にジュウジュウと白い悲鳴を上げる。その脇をロイは馬で駆け抜けた。



窓から精一杯身体を伸ばすと、革靴のつま先がコンと壁を打つ。ロイの服を着たシャルルは外の様子を伺っていた。先ほど、かすかにランプが揺れた気がした。厩の方角。
頬にぽつりと冷たい雨粒が一つ。雨は派手な音を立てて窓辺を打つ。空を見上げた時、馬の声が響き、誰かが騒ぎ出した。司祭たちが何人も、シャルルのいる部屋のはるか下を走っていく。
ランプを掲げ、右往左往する彼らの脇を、馬が一頭すり抜ける。
「馬が逃げ出したぞ!」

ロイは上手くやったんだな。
シャルルは自分の番だ、と。扉を振り返る。
どうやって扉を開かせようかと、思案しながら、そっと戸口の陰になるところに身を潜め、壁を背にぴたりと張り付いた。
「なんだ、何かあったのか」
そんな声が廊下から聞こえる。交代で食事をとっている衛兵は今は一人。一人くらいなら、扉を開けた瞬間にいつもの蹴りで不意打ちできる。逃げ出せる。ロイの安全を確保できたら、僕はこの騒ぎに紛れて逃げ出す計画。
が。
足音が遠ざかる。

「え!?」
一人しか残っていない衛兵がその場を離れたら、鍵を開けてくれる人がいなくなる。慌ててシャルルは大声を出す。
「おい、ここを開けろ」

だが、反応が無い。
衛兵はどこかに行ってしまったのか。
これじゃ、僕が出られない!




「ご期待には添えませんでしたな、ロトロア殿」
階段をゆっくりと昇る大司教は、金の衣装の裾を気にすることもなく。その引きずる音はロトロアを余計に苛立たせた。
「カペー王朝に反旗を翻す理由はない、それが聖堂参事会の決定です。あの子は、迷ったところを保護したということにさせていただきますよ」
穏やかに心なしか普段より饒舌に語る老人に、ロトロアは低い声で返す。
「……意気地のないことですな」
「今やフランク王国の宮廷は貴方がた諸侯が思う以上に力をつけている。ロトロア殿、二百年前に王国を成し、その国主たる王に従臣礼を行ったときから、世は統一の方向に向かっている。諸侯の間で相互に従臣礼が結ばれる中、カペー王朝に対する契約だけは別格。このランスで聖別を果たし、国王陛下は神に近い存在となられた。貴方がた俗人の諸侯は国王に従うのが佳きことだと思いますよ」
「は、カペーももとは一城主にすぎなかったというのに!」
「どちらにしろ我がランスは、シャンパーニュ側につくことはしません。あの子を我が所領で捕らえることで、我らを引き入れようとの貴殿のやり様。参事会を承服させるには少々狡猾に過ぎたと思われますな。街の外に軍を展開しているのも、我がランスに対する脅しともとれる。早々に、軍隊ともどもお引き取り願う」
「……」
「あの子はこの大司教座で保護します。シャンパーニュに連れ去ろうなど、乱暴なことを考えているのでしたら、いくらあなたでも無事にこの街を出ることはかないませんよ」
ロトロアは肩をすくめた。
そこまで言われては、憶えがあるだけに反論する意味もない。

踊り場の窓から騒ぐ人声が届くと、ロトロアは話題を変えた。
「おや、何か騒がしいですな」
大司教が窓に気を取られた瞬間、騎士は殴りかかった。指にはめた指輪が、鈍い感触を伝える。

どちらかというと大柄な大司教だが、戦闘に慣れた騎士にかなうはずもなかった。
踊り場の隅に気を失って横たわる老人を見下ろし、ロトロアはふん、と苦笑いをこぼす。
「さすがに、殺すわけにいかないのが、つらいところですよ。大司教様」
と、ちょうど降りてきた衛兵がそれに気づく。
「大司教様!ロトロア様、貴方はなにを…」
すでにロトロアは衛兵の懐に入り込んでいる。隙だらけの衛兵の腰から剣を抜き放つと、そのまま。騎士は、衛兵の腹に深く突き立てた。


「さて」
ロトロアは絶命した持ち主に剣を握らせると手についた血を大司教の金の衣装で拭い、再び上階を目指し階段を上る。その先に、子供らを閉じ込めている部屋がある。


『La croisade de l'ange 1:Reims』 ⑨

『Reims ‐ランス‐』



シャルルは扉の前でじっとしていた。
扉に耳を押し当てても、聞こえるのはごーという変な音だけ。騒ぎで立ち去ってしまったのか、衛兵がいる様子がない。
どうしよう。じっとしていると、カツカツと足音が聞こえる。
サーベルの鞘鳴り。
ロンロンだ!
もう参事会が終わったってことか!
シャルルは見回すが、逃げ場はない。
慌ててベッドにもぐりこんで毛布をかぶった。


寝たふりをするしかない。
息を殺して、毛布の下でじっとしている。

扉が開かれた。
室内に入ってくる、足音。武装しているのか、騎士の拍車がしゃりと嫌な音を立てた。
男の持つランプの明かりが頭上を照らす。

「おい」
ポンと肩を叩かれる。

どうしよう。
ぎゅ、と目をつぶる。
「おい、起きろ」
「…」
どっかいけ、ロンロン。シャルルの祈りもむなしく、騎士は毛布に手を伸ばす。
引きはがそうと掴み。
その瞬間シャルルは飛び出した。毛布の反対の端を掴み、勢いのままぐるりと毛布を騎士に巻きつけ、走り去る。
「おわ、シャルル!お前!なんでお前が!」
一歩踏み出そうとした瞬間、騎士は派手な音を立てて転んだ。足元にかかる毛布は踵の拍車に絡みついて芋虫状態だ。
「くそ!待て!」
シャルルは扉の向こうに姿を消す。

待つわけないだろ!

暗がりの階段の途中、シャルルはずるりと何かに足を滑らせた。
「わぁ!?」
人、みたいなものが。尻の下に。手をついた脇に、靴。
足が上に、ある?
じっと見つめ、暗がりに目が慣れるとそれが逆さまになっている衛兵だとわかる。
「…なんで、動かないんだよ…?」
手についた何か、ぬるっとしたそれが、独特の匂いをさせる。
血!?
し、死んでる?
そして、踊り場のこの金色の衣装は。
「大司教様!!」
思わず悲鳴を上げた。
ま、まさか、これ。ロンロンが殺したのか!?
振り返ると階段の上にその騎士の姿。慌てて立ち上がろうと壁に手をついた。
うめき声と同時に大司教の手がシャルルの足首をとらえた。
「ひゃあぁ!」
老人の血にまみれた手をばたばたと暴れて引きはがすと、転がるように階段に。
と、襟首をぐん、と掴まれた。

ロトロアはシャルルを押さえつけ、首に剣を押し当てた。
「シャルル、王子はどうした」
「お、おうじ?」
「あの子供だ。ロイは仇名、アンファン・ド・ロイ(王の子供)のことだ。フランク王国ルイ八世のご子息」
「ロ、ロイが…?」
この、国の、王様の。
「どこにいる!言え」
ひねりあげられた腕がきしんで、シャルルは悲鳴を上げた。
「や、めなさい」
足元で大司教が頭を押さえて体を起こした。
暗がりでもその小さな目が、しっかりと騎士を睨みつけているのが分かった。
「大司教様、ご無事で……」
「黙れ!シャルル、王子をどこに逃がした!このまま逃がせば、大司教、このランスでの一件は単なる迷子では終われませんよ?いいんですか?」
「うぬ……」
「こうなれば、王子を捕らえるしかないでしょう。このまま王子が王領へ逃げ帰ればランス大司教座は宮廷の敵となる。すでに後には引けないのです」
「ま、待ってよ!ロイを捕まえてどうするんだよ!だいたい…」
頬を叩かれ、シャルルは大司教の足元に転がった。
肩を支えられ、すぐ近くに見える大司教のしわ深い顔は、思いつめたようにこわばっている。
「大司教様!お願いだから、ロイにひどいことしないでください!」必死の頼みもロトロアが遮った。
「お前が逃がしたからだぜ、シャルル。大司教、わが軍をこのランスに侵入させることをお許し願いたい」
「やめろ!ロイを助けて!」
「シャルル、あの方をどこに逃がしたのですか。居場所を知っているのですか」
肩を掴む老人の手が、痛い。
どうして、どうしたらいいんだ。
「ロイを、助けてくれる?ロイは安全?」
「王子は我らシャンパーニュが引き受ける。それが一番でしょう?大司教様。ランスは無関係だった。それが唯一、この大司教座を救う道です」
「ひどいよ!馬鹿!絶対に、ロイは……」
「黙れ。来い、お前は王子の居場所を知っているんだろう?」
嫌だ、嫌だ!
どれだけわめいても暴れても、シャルルの力ではかなわない。しまいにはうるさい、と口をふさがれる。逆さまに見える背後では、ふらふらと大司教が立ちあがった。その顔には生気がなく、ロトロアの言いなりになることは疑いもなかった。


ロトロアはシャルルを馬に乗せ、騎士を集めた。聖堂の前の広場は、人影もなく。まだ寝静まるには早い時間だが、降り始めた雨と風、物々しい騎士たちを遠く窓の内側から密かに見つめている。
騎士の一人を郊外に待つ軍隊に走らせ、残りは捜索に向かうことになったらしい。
「いいか、暴れても絶対に殺すな。子供に抵抗され剣をふるうなど騎士にあるまじき行為だぜ」
子供を人質にする行為は騎士道に恥じないのか、とシャルルは布を巻かれた口でわめいたが、どうしようもない。
ロトロアはシャルルの口をふさぐ布を解いた。
冷たい夜風と大粒の雨が目に入り、シャルルは何度も瞬きした。はたはたと頬を打つ髪の向こう、街は暗く遠い雷鳴に怯えている。

泣いている場合じゃない。
僕が、ちゃんとしなきゃ、僕が。

「さて。シャルル。話してもらおうか。王子はどこにいる」
「い、言わない」シャルルはぎゅ、と唇をかんだ。
「強情だな」
背後から顎を掴まれ、シャルルは思わず指にかみついた。
「こ、この!」
がん、と頭を殴られくらりと視界が泳いだ。
斜めの景色が歪む。息が、できない。
目の奥がひどく熱くなって、シャルルは喉を締め付ける男の腕を引きはがそうとした。
それがふとゆるむ。
「はあ、う、はあ」
ひりひりと痛む喉、苦しさに男の腕にぐったりとしがみついていた。
脇に立つ騎士の一人がじっと見下ろしているのが見える。
誰も、助けてくれないんだ。
大人なのに、騎士のくせに。
ぼんやりとした中、耳元で「殺されたいか?」と男の声が響く。くらくらする頭にそれはひどく重い。
「ロイ…」
「そうだ、どこにいる」
「やだ」
「会いたいだろう?」
「いや……」どうして、どうしたらいいんだ。
「ふん、子供のくせにいい根性だ、女にしておくには惜しいな。……水車小屋だろう」
びくりと、不覚にもシャルルは動いてしまった。

「だろうなぁ。子供の出歩く範囲など高が知れている。お前が管理できる、唯一の場所なんだろう。そういや、以前もあそこに立てこもっていたし、ほら、ここにあった鍵がいまはない」
胸元を大きな手のひらで押さえられ、慌てて引きはがそうとした。
そう、いつもここに水車小屋の鍵がぶら下がっていた。それは今、ロイの手にある。
「違う!違うよ!」
「当たりだな。行くぞ、水車小屋だ」
二人の騎士を連れ、白馬はすでに見覚えのある道をまっすぐ、水車小屋のある郊外へ向かっている。
「単純だなぁ、子供は」
「嫌だ!駄目だよ!やめろ」
シャルルが叫べば叫ぶほど、騎士は楽しそうな笑い声をあげた。



街から水車小屋のある場所まで行くには、修道院の敷地を横切る必要がある。修道院の城壁はそのまま街の門なのだ。
二人の修道女が気づき、一人が立ちふさがる。もう一人は人を呼びに走ったようだ。

泣き叫ぶシャルルを馬上に見つけたアンが、何か叫んで騎士の前に立ちふさがった。
すでに大粒の雨にぐっしょり濡れて、それでも丸みを帯びた小さな手を必死に振り上げ、「お待ちください!その子を、シャルルをどうしようというのですか!」と。アンは、助けようとしてくれた。
「アン!助けて!助けて!ロイが」
言いかけた所で口をふさがれ、シャルルはもごもごと身をよじらせた。
「お待ちを、ロトロア様」
アンの後ろ、中庭を囲む回廊からゆっくりとアデレッタ院長が姿を現した。その左右に修道女たちが並ぶ。回廊の柱に掲げていたランプをかけ、影のかかる院長の表情は雨粒のカーテンの向こうでかすんでいる。
ふん、と騎士は笑った。
「大司教様の許可をいただいてある。このものは私がもらいうける」
「ロイを、助けて!」院長に訴えるシャルルの声は周囲にはううう、としか聞こえない。暴れてももがいても、背後からしっかりとまわされた腕、口をふさぐ手にどうしようもなくて、シャルルは泣いていた。
涙で曇る先にアンが院長と騎士を見比べている。
「そのものはこの修道院の子。行く末は私が決めます。放しなさい。どのような理由があっても、幼い子をそのように扱うのは騎士道に悖るでしょう」
アンが目を輝かせ、一歩歩き出そうとする、それを修道女の一人が無言で止めた。
ロトロアは、剣を抜いていた。
雨粒が鈍く光る刃を流れ伝う。
シャルルはその切っ先から目が離せない。

ただ、雨の音だけが周囲を支配し、誰ひとり、動くものもいない。

怖い。こいつは人を殺した、聖堂の衛兵を殺しておいて、平然と大司教様を脅しつけた。
ここでアンに剣をふるうのも平気だ。
シャルルは衛兵の血のついた自分の服に気づく。
雨に流れ、滲む。新鮮な赤。
不意に現実味を帯び、吐き気を感じた。
うう、と目を閉じ震える少女をさらに強く抱きよせ、ロトロアは笑った。

「では、院長。あなたにも責任を負っていただくことになるが。このものが大聖堂で起こした件により、我らもこのランス大司教座も被害を被ろうとしている。一修道院の問題ではない。罪人は裁かれる。たとえ幼い子供であろうとも、な。通してもらおう」
何が、罪人だ!
叫んでも通じない。
院長はじろりと今度はシャルルを睨んだ。
「お前は、また悪さをしたのですか!」
「院長様、シャルルはそんな悪いことをする子じゃありませんよ、何か理由が」
アンが院長にすがる隙に、ロトロアは馬の腹をける。

風が流れ、止まっていた時が動き出す。
「子供一人でランスを救えるのなら、安いものだろう!」
修道女の一人が槍を構える。
院長は不動。
その場の視線が院長一人に集まっているなか、三頭の馬は修道女たちを蹴散らすように中庭をすり抜けていく。
「シャルル!シャルル!」アンが叫ぶ。
それはすぐに雨と風の音に消えた。ああ、と。シャルルは目をつぶった。
悲しいのか、悔しいのか。
アンだけが最後までシャルルの名を呼んでいた。


暗がりの森の中、馬はまっすぐ里へと向かう。
森の道は、泥水の河。そこを馬は踏みしめ、走る。
もうすぐ、水車小屋についてしまう。
水車小屋にはロイが。
どうすれば、ロイを、せめてロイだけでも逃がすことができるだろう!


『La croisade de l'ange 1:Reims』 ⑩

『Reims ‐ランス‐』

10

雨が本格的に降りだした時刻。
ロイは水車小屋の扉を開け、馬をそっと引き入れた。
馬の額の上ではクウ・クルがぷるぷると水をはじき、馬はそれに応えるようにぶるぶると鼻を鳴らした。
「シャルル、本当に来られるのかな」
濡れて気持ち悪い帽子をとると、少年はドレスの裾を引きずったまま、小さな木の椅子に座った。重たくなった裾をギュッと絞るとばたばたと水滴が床を濡らした。
修道院の門は村に親戚を尋ねて行くと話す子どもの前で、閉じられることはなかった。
シャルルが育った修道院。本当に、ここから出て行くつもりなんだろうか。
そんな風に思いながら、馬を走らせた。

濡れた体は冷えてきていた。また熱が出てきたのか、気だるくなる。
「ほんと、どうしようもないな、私の体は」自嘲気味にため息を吐き、ロイは小麦の麻袋を見つけると膝にかけて暖を取った。

どん、と。扉を開こうとする音。
ロイは慌てて扉に近づき、様子をうかがう。
暗い外は何も見えない。
シャルルかな。でも、違ったら。
不意にせき込む。
まるでロイの心を読んだように扉の外から声が。
「シャルル、シャルルだろ?俺だ、ロンダだ」
男の声だ。
「夕方アンが家に来たんだ、お前、修道院を飛び出したって、その、……悪かった。突然で。怒ってるんだろ?」

ロンダ?
確かシャルルが結婚させられるとか言っていた、相手の名だ。
ロイは胸を押さえながら、相手を見ようと木箱を扉の前に引きずってきた。丸いのぞき穴にはちらちらとランプの明かりが横切っている。そっと覗くと、若い男と目があった。
「!」
「シャルル?か?おい、開けろよ、お前こんなところに閉じこもってどうするんだよ」
「あの」
「…ほら、こんなところにいるから、お前風邪ひいたんだろ。声がおかしいぞ、悪いようにしないから」
ロンダの口調が優しさを帯びる。この男はシャルルを大切に思っている。
「シャルルを、助けてほしい」
「助けるさ、だから、……え?」

扉を押さえていた閂を外す。がた、と開けば、男の手が押し開く。
「シャルル!」
駆け込んだ男は、見間違えたのかロイを抱きしめた。
「あの、違う、私は」
「私、ってお前……あれ?」
「すまない、あの。シャルルの」
「お前、誰だ!なんでシャルルの服を着ている!」
今度は突き放し、怒鳴りつける青年の勢いに押されながら、ロイはよろめいて座り込んだ。
「あの、落ち着いて聞いてほしい。私はシャルルの好意でここに逃げ込んだ。彼女ももうすぐここに来るはずなんだ。ここで待ち合わせて、一緒にランスを出て……」と、そこまでいいかけて、ロイは言いなおす。
「いや、シャルルがここに来るはずなのに、遅いんだ。もしかしたらシャンパーニュ兵に捕まってしまったかもしれない」
「シ、シャンパーニュ兵だと?」
ロイが頷くと、ロンダは腕を組んだ。
「で、お前は誰だ。俺はロンダ。シャルルの許婚だ」
「あ…あの」
「お前はなぜ、シャルルの花嫁衣装を台無しにして、あいつに俺があげた剣を持ち、ここで待ち合わせしているんだ。お前はあいつとどういう関係なんだ」
ロイはシャルルが持たせてくれた短剣をまじまじと見つめた。
結婚なんかいやだと言っていたシャルル。

「私が、巻き込んでしまったんだ。私の名は、明かせないけれど。私のせいでシャルルに危険が及んだ、だから、助けてほしい。私は、私は力が足りなくて」
一緒に、逃げようと言ってくれた。
誰かのぬくもりを感じながら眠れたのは、初めてだった。
ロイはうつむいて、目の前に立っていたクウ・クルの頭をなでた。
「私は、約束したんだ。シャルルがここに会いに来る」
そう、シャルルと一緒に、逃げる。

ロンダは手を差し出した。
「返せよ、それ」
ロイは短剣を、大切なそれを抱きしめる。
「シャルルが」
「誰がお前なんかにやるかよ!」
飛びかかった男はロイを突き倒し、強引に短剣を奪い取る。
「出ていけ!お前はこんなとこにいる人間じゃないんだろ!貴族様が、俺たち平民を巻き込むな」
少年の腕を掴むと、強引に立ち上がらせ、忌々しそうにドレス姿を睨んだ。
「ほら、この町から、出ていけ」
「だめだ、シャルルが」
「俺が言っておいてやる。お前が約束を破って逃げ出したとね」
「だめだよ、放せ!」
戸口に取り付いた手を引きはがされ、ロイは小屋の外に突き飛ばされた。
耳をふさぐような雨の音。泥だらけの手を握り締め。ロイは顔に滴る水を濡れた袖で拭った。ロンダは馬も外に追い出し、戸口に立ちはだかる。
「ほら、さっさと出ていけ。なんだか知らんが、お前がいるからシャンパーニュ兵がこの町を囲んでいるんだろう!行かないならとっ捕まえて突き出すぞ」

一緒に、と。約束したのに。
一人残せば罰を受けるかもしれない。
「シャルルを、助けてやって、ください」
豪雨の音が少年の声を遮っていた。ロンダは早く行けよ、と腰に手を当て怒鳴るばかりだ。

馬の頭に乗るクウ・クルは、濡れるのが嫌なのかロイの肩に飛び乗ると襟元に隠れようとする。
「…ごめん」
誰に告げたのか。ロイはそっと白イタチを抱きとると、地面に下ろした。
小さくてもドレス姿でも。騎士としての意地がある。馬の手綱を持ち鐙に足をかけ、何とか馬にまたがると、ロイは毅然と前を向いた。
背後のロンダの視線を感じながら、背筋を伸ばし馬を走らせる。決して振り向きはしなかった。



風が強まる。
シャルルはぐったりとし、もう抵抗する気力も残っていないようだ。
男の前の小さな体に風と雨を受け馬に揺られている。
乱れたミモザ色の髪。ふとロトロアはシャルルの言葉を思い出す。
ジャンヌ・ド・フランドル伯の、血を引く。
真実ならば利用価値がある。有力な諸侯の子女を娶ることは、家の繁栄につながる。
それに。
少年の服を身につける華奢な肩は雨にぬれ、白く細い首は頼りなげに震えている。今はまだ子供だが将来の姿を想像すれば悪くない。
ふと手を伸ばし、細い首に触れる。
「!」振り返る顔は雨と涙でぐしゃぐしゃだが、大きな菫色の瞳は夜に深い色をたたえ睨みつけた。
「どこまでも、気丈な女だな」ロトロアは面白そうに笑う。



「ロンダ!」
少女は水車小屋の前に立つ人影に、ロトロアが想像もしなかった名を口にした。
前方にはあふれんばかりの水をたたえる河に張り付くように立つ水車小屋。暗がりに、丸い影がそれと知れる。ランプの明かりが一つ、軒にあり、十代後半くらいの青年が飛び出してきた。水車小屋の扉は開け放たれている。
「どけ」シャルルを馬上に残しすらりとロトロアは地に降りる。すぐ目の前の青年は農夫らしい日に焼けた腕で掴みかかる。その拳は鈍い音を立て騎士の籠手に弾かれた。
「シャルルを放せ!」
「ロンダ、どうしてここに」
手を伸ばす青年に抱きつくように飛び降りようとする、シャルルのそれは騎士のサーベルに阻まれた。
切っ先にロンダは一歩下がった。
「ロンダ、ロイは、ここに男の子がいなかった!?」
もう二歩下がった青年は、表情をこわばらせ、腰に差していたものを掲げた。
それは、あの蒼い短剣。
「それ、ロイに渡したんだ!ロンダ、ロイは?会ったの?どこに行ったんだよ!」
シャルルが必死であればあるほど、ロンダの心を堅くしていく。冷たくしていく。
「あいつはなんだ、シャルル。なんであいつがお前の剣を持っている、あのドレスを着ているんだ!あいつはなんなんだ!」
「ロイは、ロイは」助けてあげたい、大切、な。
言いかけて、シャルルは言葉に詰まる。
自分にとって彼が何か、そんなこと考えたことはなかった。
ただ、「助けてやりたいんだ、そばにいたい」
そう口に出すと、それの意味が改めて胸を締め付けた。雨に冷え切った頬に、温かい涙がこぼれた。

「本気なのか。あいつとこの町を出るって、本気なのか!なんでだ!どうして」
ロンダの真剣な問いはロトロアの笑い声が打ち消した。
「ふん、もてるじゃないか、シャルル。おい、お前。ここにいた子供をどうした。隠しているなら、差し出せ。このランスに仇なすものだ。かくまう必要などないだろう?」
「……取引だ。シャルルを放せ、そうすれば教えてやる」
ロンダの顔は青ざめていた。
「だめだよ!ロイを助けなきゃ、ロイはこの国の」言いかけて、シャルルは口をつぐんだ。ロトロアが振り返ったその表情に鬼気迫るものを感じとったからだ。
知らないほうがいいこともある、と。ロイの言葉がよみがえる。決して名を明かさなかったのは、シャルルを気遣ってのことだ。
ロンダは震える手で、短剣を抜いた。
「なんだ、あいつは何者だ!この国の?」
くす、と笑い、騎士がサーベルを持ち替えた。
「!だめだよ!やめろ!ロンロン!」
「この国の王子、だといったら?」
ロンダが目を丸くするのと、ロトロアが襲いかかるのと同時だった。

シャルルの悲鳴は何も救いはしなかった。

わああ。
叫ぶ声は、泣きつかれたせいなのか、かすれ。呼んでも叫んでも、雨の中倒れている青年は動かない。ロトロアの腕にとらわれたまま、シャルルはただ泣いていた。
いつの間にか馬は街のはずれへと向かっている。シャルルが出たことのない、このランスの外へ。
「ふん。街道には軍隊が待っている。子供一人、逃しはしないさ……なんだ?」
なんだって?
背中から響く男の声に、シャルルはうっすら目を開けた。
朝から走りまわり、泣き叫び、疲れ切ったシャルルは目の前の馬の頭に、白い生き物がしがみついているのをぼんやりと見つめていた。
ああ。

クウ・クル、だ。

お前、ロイをちゃんと助けてほしかったのに、馬鹿。




次に目を開けた時も、目の前に白いクウ・クルの尻尾が見えた。
白い、中に。
白いイタチ。
お前、そうやってみると白くない。

白い?
修道院ではない、よね。
体を起こした。眩しい日差し。
窓辺から涼しい風が入り込み、日よけの布がパタパタと揺れた。
見たことのない部屋。床には異国のものらしい見たことのない模様を編み込んだ絨毯。高い天井にはステンドグラスの天窓。丸いそれはまるで聖堂の薔薇窓を小さくしたようなきれいな模様が描かれている。
壁は白く、シャルルの寝ていたベッドも白い。天蓋のある小さなベッド。続き部屋のついた、そうだ、まるで貴族の住む部屋みたいな感じ。
夢だったのかな。
僕は、やっぱりフランドルの貴族様、孤児も修道院もランスも全部悪い夢で。
なんて、ありえないか。

ふと涙がこぼれていた。
アン、院長様、大司教、ロンダ。村の皆。それに、ロイ。
ごしごしと目をこすっていると、扉が開いた。

「起きたか」
ああ、と溜息が先にこぼれた。
「ロンロンか」
「御挨拶だな、顔を見るなり溜息かよ。熱を出して寝込んだお嬢様にこれほど尽くした俺に向かって」
「…馬鹿らしい」
軽妙な口をきいても、中身は恐ろしい騎士だ。ロンダに刃を向けた。
「ロイは?」
「ああ、嫌なこと言うなお前。結局行方知れずさ。あの体でパリに戻れたとも思えん―」
捕まっていない、逃げ延びたのか。
ロイ、無事だといい。生き延びてくれたら。
「―まあ、どこかでのたれ死んでくれたならそれでいいが」
「ひどいこと言うな!」
「お前の期待に応えたまでだ。俺のことをひどい男だと思っているだろう?こっちに来い」
騎士は持ってきたトレーの上のものをテーブルに並べた。
食事のようだ。
一体何時なのか、ここがどこなのか、分からないが。男の服装は清潔な白いシャツに絹の上着。ここが男にとってくつろげる場所なのだとわかる。武装しなくていいのだ。腰には。
そこまで観察して、シャルルは男の腰にある短剣をじっと見つめた。
「ああ、これか。お前のだろう。俺には似合わんし、返してやってもいい。ほら、まず食べろ。三日も、寝ていたんだぜ」
三日。

少しくらくらする頭を振って、シャルルは裸足で床に降り立つと男が座る正面に席を取った。
お腹は素直に食べたいと要求する。
仕方ないか、と小さくつぶやくと、シャルルはまずパンを手にした。スープに浸し、口に含むと勢いが増す。
「おいおい、野良猫みたいに食べるなよ」呆れて笑う男を無視して、シャルルはとにかく体が要求するままに食べた。
最後にオレンジのジュースを一気に飲み干して、一仕事終えた気分で満足げな吐息を洩らす。
「さて。シャルル。俺はお前に寝床と食事を用意してやった。お前は俺に何をしてくれる?」
「はあ?」
「生きるためには働かなくてはいけない、それは修道院でも同じだったな?」
「まあ、そうだよ」
「じゃあ、俺のために働け。お前に選択の余地はないぜ。ここに名前だ。ほら」
いつの間に広げていたのか、テーブルには羊皮紙が一枚。
「……僕が字を読めないと思って、ばかにしてるだろ」
「してない」と言いながら、にんまりと笑っている。
シャルルは口を尖らせた。
「嘘だ!だって、これ、僕がお前と臣従礼を結ぶっていう、その代わり僕はリタって村の封を受け取るって!」
封とは村民から受け取る租税のことだ。それを受けるとはつまり、村の領主のようなもの。
「読めるのか、さすがラエル修道院だ。孤児にも文字を教えるとはな。どうだ、悪くないと思うが?こんな小娘に生活に困らないだけの収入を与えようっていうんだ。リタの村は二十戸ほどの山間の農村でな、俺の所領の代官が管理する。お前に手間がかかることはない」
主従関係を結ぶ代わりに領地を分けてくれる、というのか。シャルルは目を細め契約書を睨みつけた。通常の臣従礼ならそうだろう。
だけど、相手が僕。そんなの変だ。
「子供を対等に見てくれるのは、まあ、嬉しいけど。でも、嫌だ。絶対、何か企んでるし、僕はあんたに仕えるのは嫌だ」
「じゃあ、殺す。ランスで行方不明になった少年の正体を知っている、お前を生かしておく理由は無い」
……。
「騎士、に。騎士にしてくれるなら。女扱いじゃなくて、僕を騎士にしてくれるなら」
ロイと話した騎士のことを思い出した。
貴族に騎士として雇われる、それが一番の近道。
「騎士?お前が?」
間がある。男は額にかかった黒髪をうるさそうにかき上げた。シャルルはロトロアが真剣に考えてくれていることに気付いた。
「……笑わないんだな」
「ふん。初めて会ったとき。憶えているか?修道院で俺からサーベルを奪って見せただろう?不意を突かれたとはいえ、お前の身のこなしには感心した。まあ、使えないこともないかもしれん」
「…あんたは、なんで僕を捕まえてさ、なんで、こんな遠い町まで連れてきたんだ?なんで臣従礼なんか結ばせようとするんだ?子供くらいしか部下になってくれないから?」
ぶ、と。口に運んでいたワインを噴き出して、ロトロアはむせる。
「お前、ひどいいい草だな」
口元をナプキンで拭う男を、じっと。シャルルはまっすぐ見上げている。
冗談ではなく、知りたいのだろう。ロトロアは目を細めた。

「そばに置きたい。今はそれだけだ」
「意味が分かんない」
「その内、俺の好みの女に成長するかもしれんし、そうでないかもしれん。ただ、今は逃したくない。それだけだ」
……。
「それ、告白?」
男はまた、ワインを噴き出した。
派手にせき込んで、ロトロアはため息をつく。
「下らん。いいか。シャルル、お前がフランドル伯の血縁であるなら、娶ることでわが家系に益をもたらす。だが、捨てられた理由もあるだろうし、それが真実でない場合もある。そんなどこの馬の骨ともしれん奴と結婚するつもりもないから、今は様子を見ておく。かといって奴隷にするわけにもいかない。それだけのことだ。だいたい、女のくせに騎士になりたいなんて奴に誰が惚れるか」

口をとがらせ、シャルルはなぜか熱い頬をぺたぺたと両手で叩いた。
なんだか、悔しい。
「さて。シャルル。お前の本名を教えろ」
「へ?」
「契約書のサインには普通本名をかくだろう」
「他にないよ」失った名は、誰も知らない。

「そんなはずはないだろう?シャルル、ってのは男名だ。いくらなんでも、女の赤ん坊を拾ったときに男名をつけることはしないだろう?」
「でも他に知らない」
「……じゃあ、シャルロットとかそんなか?ガキのお前が発音できないから、シャルルで覚えたんだろう?」
「馬鹿にするな!」
「それとも、本当に男か?脱いでみるか?」
「ば、馬鹿!!シャルルはシャルルだ!」
「書けるのか?」
「だから、馬鹿にするな!ほら、こう書くんだ。僕の名前はシャルル」
「シャルル・ド・リタ。ってことになるわけだ」にやりと笑い、男はシャルルの横にサインをする。
「あー!」
サインの入った契約書を男がひらひらと見せた。同時にリタ村の小さな領主シャルルの誕生、ということになる。もちろん名ばかりだが。


ロトロアは立ち上がり、上からシャルルを見下ろした。強引にシャルルの両手を両手で握り締める。臣従礼だ。
「汝、我が従者と認める」と。勝手に宣誓した。


ひどいとか、嘘つきとか。わめいても怒っても、ロトロアは面白そうに笑ってからかうばかり。最後には拗ねてベッドにうつぶせに寝転んだシャルルに、男はあの蒼い短剣を渡した。
「契約成立だ。お前は今から、俺、ロトロア・ド・ルジエのセネシャル(側近)だ」
ロトロア・ド・ルジエ。広大なシャンパーニュの北東部、ランスに近いラン伯領の一部、ルジェ地方を治める。その当主ロトロアにシャルルは雇われることになったのだ。


男が去ったのち、シャルルは再びベッドに寝転び、抱き上げたイタチの白い腹に一通り男の悪口を並べ立てた。
「ねえ、ロイは、無事だよね?」イタチが答えるはずもない。ただ、尻尾をぶんぶんとふり、早くおろしてと身をよじり始めた。
ふん、と抱きしめると。迷惑そうなそれに構わず、シャルルは天井を眺める。
いつか、会えるかもしれない。ロイ。
生きていて、本当にこの国の王子様だというなら。いつか。
一人前の騎士になって、僕はパリへ行く。
ロイに、会いに行く。

窓からの風が、なんの匂いなのかやっと思い当った。
海、だ。
海が近い。
起き上り、窓から外を眺める。
白い建物が、丘陵地に沿って並ぶ。朝かと思えばどうやら夕陽だった。街の真ん中を運河が流れ、そのオレンジに光る道筋の先、遠い地平線に海を見つけた。たぶん、海。
かすかな波の音。生まれて初めて海を見た。
シャルルはこの新しい街、「ブリュージュ」が一目で気に入った。


La croisade de l'ange Chapitre 1 :『Reimsランス』 了

『La croisade de l'ange 2:Laon』 ①

『Laon ‐ランの風は苦く‐』


―13世紀、フランク王国。かつて権力を誇った広大なシャンパーニュ、そこから北に遡る海への玄関口、フランドル。元来の製造業に加え、港や河川を利用した商業の発達にともない経済力をつけるこれらの地方は、カペー王朝からすれば、見過ごすことの出来ない北東部の二大勢力である。
シャルルはシャンパーニュ伯の遠縁にあたるロトロアに雇われ、点在する王領の一つ港町ブリュージュに滞在していた―




港と運河。外国から運ばれる品々はこのブリュージュを経由して内陸へと川沿いに運ばれていく。緩やかな流れは昼下がりの日差しを弾いてきらきらと眩しい。星のように瞬く運河の中を白い帆を張った小さな船が行ったり来たり。
行ったり来たり。

ふと。眺めていた景色が真っ暗になる。
あれ?
頬杖をついていたシャルルは、うっとりと眠くなりかけた目を擦った。
真っ暗?
「シャルル」
「うわ!」
がたん、ガシャン、ばらばら。
分かりやすい音を響かせて、シャルルは椅子をひっくり返し、隣の席の机の上に飛び乗っていた。
しんとした教室内、シャルルが先ほどまでいた席では、司祭が呆れて額を押さえていた。
「なんだ、びっくりした、司祭様の法衣だったんだ。急に真っ暗になるからさ」
しんと静まり返っていた室内は、シャルルの声で時間を取り戻したようだ。
シャルル、バカだと誰かがつぶやき。くすくす、と笑う声。子供たちは、シャルルが「何だよ?」と睨めば大人しくうつむいた。
もともとシャルルは修道院でも一番だった。このブリュージュの教会学校でも、結局は男の子のように振る舞い、喧嘩でも誰もかなわなかった。
南の町から来たシャルルを遠い南国の獅子のようだと誰かが噂し、『リオン・ド・リタ』(リタの獅子)と変なあだ名がついた。
「シャルル、貴女はどうしてそう、普通の反応が出来ないのですか。降りなさい」
野良猫みたいですよ、まったく。ぶつぶつと小言を吐き出しかける司祭をシャルルは遮る。
「だって、先生が驚かすから」
司祭の小言をさっさと切り上げるつもりでシャルルは肩をすくめ、トンと机を蹴って、自分の転がった椅子の上に器用に片足で立つ。
「シャルル、授業の邪魔をするならリシャール様に言いつけますよ!退学ですよ!」
「はーい、いっ」と今度はちゃんと床に着地。そこで。
鐘の音。
昼を告げる、港の鐘の音だ。
「終わった!」
「シャルル!まだ、ご挨拶が」
「ありがとうございました!」

退屈な教会学校の授業をさっさと飛び出して、ロトロアの屋敷へと向かうのだ。今日は午後から大好きな乗馬。もう、退屈な勉強をしている余裕なんか無い。
足元をついて来る白イタチにちらりと視線を落とし、「今日は乗馬だよ、乗馬。お前も好きだよね、早い者勝ちだぞ」と競争を仕掛ける。
イタチは途中まで並んで走っていたが、シャルルが教会の門から飛び出したところで塀に駆けのぼり近道。
ジャンプ。
シャルルの肩にふらりと取り付いて、ずるをする。

「!お前、ずるいっ」
笑いながら、シャルルは運河沿いの道を走っていく。
少し先の橋を渡ればすぐ、ロトロアの別邸。シャルルはここに住んでいた。
背後に広い森を持ち、そこで狩りもする。所領のルジエからの業者を保護し、港での取引を斡旋する。フランドルの綿を仕入れて、ルジエで織物を生産する。そういった商業活動にちょうどいい拠点なのだという。
ブリュージュを治める国の代官(バイイ)が、別邸に招かれた時に言っていた。
「ロトロア伯はなかなかのやり手ですよ。シャンパーニュ伯のおそばに仕えるのもわかりますな」と。


門番が笑って手を振るそこを過ぎると、番犬のカロがいつの間にか競争に加わっている。楽しげな犬の鳴き声と一緒に大きな厩舎に辿り着く。期待に満ちて振り回される犬の尾に急かされながらシャルルは扉を引いた。
「いっちばん!」と。
両手をあげて飛び込んだ先。
シャルルは「あああ…」と満面の笑みを固まらせる。
その肩からするりと飛び出したクウ・クルは大好きな白馬ブロンノを見つけると駆け寄って額に上る。毛色が自分と似ているからか、クウ・クルは白馬が好きだ。
ブロンノの主人がそこにいた。
マントをつけたまま、少し伸びた黒髪を一つに束ね、相変わらず顎髭は年齢を上に見せる。長身の騎士。つまり。
「ロトロア、戻ったんだ」
騎士は大声をあげて飛び込んできたシャルルに唖然としていたが、噴き出す。
「お前……」
ひっひっ、と聞こえる変な笑い方をして、シャルルの主人は腹を押さえている。

くそ~変なとこ見られた。
赤くなる顔をごまかすようにシャルルは口を尖らせた。
「なに、戻るなら戻るってさ。なんだ、がっかり!」
「がっかりはないでしょう?シャルル。ロトロア様がせっかく十字軍遠征から戻ったというのに。命をかける戦場ですよ?待ちわびる美しい乙女がすることはまず熱い抱擁と、無事を喜ぶキスでしょう」

美しい乙女って誰のことだよ。待ちわびるって何を?

呆れる台詞を吐いたのはロトロアの向こうに控える騎士リシャール。ロトロアのセネシャル(側近)で、親友らしい。長いブロンドに通った鼻筋、優しげな美青年だが、華やかな顔から発せられる笑顔とその気持ちの悪い台詞がシャルルは苦手だ。それがシャルルの教育係だとかいうからロトロアも意地悪だ。
「そ。お帰りなさい。相変わらずお元気そうで」聞きたくないと言わんばかりに両手を頭の後ろで組んで、シャルルは自分の馬ロンフォルトに鞍をつけようと二人の脇を抜けようとする。
「待て、こっちに来い」
ロトロアに襟首を掴まれそうになるが、そんなもの。さらりと一歩でかわす。
皮の手袋は空を切り、ロトロアはしばし無言、少年の姿をしたシャルルを上から下まで眺める。それがいやだ、とシャルルは肩をすくめた。
「相変わらず、すばしこいな」
「だよ」
「色気も何もない」
「いらないから」
「もう十三歳だろ?」
「だね」
ロトロアが黙り。
シャルルも無言でにらみ返す。

「まあまあ、シャルル。ロトロア様も。少し早いですが昼食が準備させました、まず腹ごしらえということでいかがです」
リシャールの提案にシャルルもしぶしぶ頷く。まあ、お腹は賛成しているから。
シャルルは厩舎を出て歩き始める二人の後をついて行く。母屋では確かに、庭に据えられた窯から煙が立ち上っていた。庭で肉でも焼くんだろう。
シャルルは無意識に腹に手を当て、足も早まるから二人のすぐ後ろに立つことになる。
「リシャール、あれには手を焼くだろう。すまない」
「お許しがあるならば、シャルルを女性らしくさせる方法はいくらでもありますよ、ロトロア様」
にっこりと笑う青年は女性を口説く手練は人並み外れている。その気になれば子供の一人二人、なんとでもなります、と。そういう笑みだ。
「……好色な顔をするな、リシャール」
シャルルはそこだけはうんうんと頷く。

リシャールはロトロアより二つ年下の十九歳。優しげで綺麗な容姿、羞恥心のない台詞で屋敷中の女たちを夢中にさせる。常に誰かと恋愛しているという。性分だろうが、ことあるごとにシャルルの肩や手に触れようとする。それを避けようとするから、シャルルの素早さにも磨きがかかる。
集まれば騎士たちを値踏みする女たちを思い出す。誰にでも愛情と笑顔を振りまくリシャールが一番で、ロトロアは主人のくせにいつも二番なのだ。多少、憐れみもわくというもの。
「だいたい、そんなの(リシャール)をそばに置いとくから、女をみんな取られちゃうんだよ。だから、ロトロアは二十歳すぎても独身だし」
小声だったのに先を歩く男二人がちらりと振り返る。シャルルは慌てて視線をそらす。
「な、クウ・クル」と。そこにいもしない白イタチに話しかけるふりをする。
イタチは今頃、馬と戯れているに違いなかった。


昼食が終われば、乗馬のはずだった。
なのに、先生のリシャールがロトロアと話し込んでいるから、シャルルは仕方なく食堂の端に置かれているソファーに座る。その内眠くなって、横になる。庭先で真剣な顔をして話し合う二人を眺めている。
シャルルの希望で犬の形に刈り込まれた植木。隣に置かれたイスとテーブル。そこに二人の騎士は腰を据えている。日蔭のそこはさらりとした心地よい風が吹く。夏の終わりを示す虫の声が聞こえてくる。
かすかに声が風に乗る。

「では、戦線離脱、ということですか」
リシャールの問いに、ロトロアは肩をすくめた。
「ティボー四世のご判断だ。しかたあるまい。当然ながら、ルイ八世陛下はご機嫌斜めでな」
「でしょうね。招集した諸侯の中でもっとも力あるシャンパーニュ伯が我先にと帰還してしまったのでは示しがつかない」

この年、フランク王国の十字軍遠征に従軍した諸侯のうち、シャンパーニュ伯ティボー四世だけが早々に兵を切り上げたのだ。ティボー四世と臣従礼を交わしているロトロアも同行し、つまり戦線離脱を果たしてここにいる。
王妃ブランシュ・ド・カスティーユに一方ならぬ想いを抱くティボー四世は、当然ながらルイ八世に対して卑屈な嫉妬心を抱いていた。
気まじめで優秀な主君ではあるが、ティボー四世のその資質は恋愛に対しても同様に発揮される。結果的に感情が抑えきれなくなれば、他者からは理解されにくい衝動的な行動をとることになる。
ロトロアも詳細を知るわけではないが今回もそんな様子だと噂は届いていた。
ティボー四世が思いのたけを綴った詩を王妃ブランシュに送りつけたとか。それを王妃は迷惑がっているとかそうでもないとか。噂は限りない。

「ティボー四世にも困ったもんだぜ。また、例の女さ。あれに惚れこむ理由がわからん」
「ブランシュ様は魅力的ですよ、分かります」
リシャールにとってはどんな女性も魅力的なのだ。ロトロアは肩をすくめワインの杯を口に運んだ。
「ただ。恋愛を政治に持ち込むことが問題でしょう。ティボー四世は曲がりなりにもこの広大なシャンパーニュ地方を統べる方、ロトロア様も含め多くの諸侯の臣従礼(オマージュ)で支えられている。信頼を損ねるような行動は慎まれるべきです」
部下の率直な物言いにロトロアが目を細める。会話がわずかに途切れた。

リシャールはロトロアの視線の先、シャルルを見やった。
「場所を移しましょうか」
「……いや、後にしよう。昼間からする話ではない。お前の色恋沙汰のほうがましなほどだ」
「恋愛話は相変わらず苦手でいらっしゃいますか」
「何しろお前に比べて恋愛の経験は浅いからな。女は女、一皮むけばどれも同じだ」
リシャールは目を細める。この幼馴染の主君は、女の経験は負けず劣らずだが恋愛に疎い。夜の相手としてのみ女を扱うのだから、慕う女性もいつしか離れるが本人は平気なのだ。悪い人間ではないのだが。
貴族の結婚には政略が絡むのが当然。そう育てられたと言えないわけでもないが。
リシャールはちくりと嫌味を放ってみる。
「女は敵のように切って捨てるわけにもいきませんしね」
「お前、俺を何だと思っている」
「戦場では負け知らずの尊敬する我が主君、です」
「戦場では、か」
ロトロアの苦笑いにリシャールは数杯目のワインを主君に注ぐ。リシャールは控え目な優男に見られるが幼馴染のロトロアの前では本音を吐く。鋭い観察眼と冷静な判断、斜に構えた皮肉屋が顔をのぞかせる。それは時にロトロアにとっては苦い、だが苦いからこそ薬は効くのだ。
「良薬口に苦し」
リシャールと話すと、幼いころ乳母に言われた言葉をいつもロトロアは思い出す。
違う考えの臣下を重用できるのは主君の器量が大きい証。乳母の言葉をそう解釈したのは生まれて初めての臣従礼(オマージュ)をこの男から受けた時だ。歳の近い幼馴染がロトロアを「我が主君」と呼ぶことを決めたのと同様、ロトロアがリシャールを受け入れ理解することは当然の義務だ。

「ロトロア様の最大の敗因はあれじゃないですか?」
シャルルだけは切って捨てることができずにいる。ロトロアにとって単なる女ではないのだ。リシャールの期待はそこにある。
「シャルルがフランドルの血を引くとは、噂だけです。はっきりすればどう扱おうと自由です。ご命令があれば調査いたしますが」
「あれはあのままでいい」
「……一応女性ですし。そのために連れてこられたのではありませんか」
「いらん。騎士として扱うという契約だ」
子供相手のそれを律儀に守っている主君にリシャールは面白みを感じ、それはにやにやとした笑いを生む。
「何がおかしい」
「いいえ。シャルル、おいで」


すっかり昼のまどろみに浸っていた少女はピクリと、猫のように顔をあげた。
「なに?……馬?」
「うま?」
二人の騎士が同時に聞き返す。

「違うなら、いい。馬に乗れると思ってさ、学校も半日我慢したのにさ」
伸びをしながら、癖のあるミモザ色の髪をかきむしる姿に、「獅子の子のようだ」とロトロアは笑う。
「学校ではリタの獅子、リオン・ド・リタと呼ばれています。服装も男子のままですし、何度司祭から苦情を寄せられたことか。私はあきらめましたよ」
「僕は騎士になるからね」
リシャールの視線は憐れみを含んでいるが、シャルルが気づくはずもない。
「せいぜい立派な騎士になって俺を護れ」とロトロアが笑えば、「しょうがないな」とシャルルは顔をしかめ。
「余程誰も守ってくれないんだね」とシャルルが笑えば、「ふざけるな」とロトロアが顔をしかめる。
リシャールは二人の掛け合いに一人密かにため息をつく。

さて、第二章の始まりです♪
新しいキャラも登場して、物語は視野を広めていきます♪
歴史を知らなくても分かるようにと工夫していくつもりです…何しろ私自身、苦手だから(笑)
これから毎週月曜日更新です!
どうか、お付き合いを~♪


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ②

『Laon ‐ランの風は苦く‐』



その夜。ロトロアの帰還に合わせて湯が沸かされた。
普段、水で体を洗うのだが、ときどき沸かされる風呂がシャルルは大好きだ。修道院ではなかった風習で、どうやら南のローマ帝国では当たり前のものだそうだ。
以前はそうでもなかったらしいが、十字軍の遠征に初めて赴いた折、異国で風呂というものに浸かってからロトロアも家で浴びるようになったという。
「これだけは、ほんと、幸せだなって思うな」
シャルルは手伝ってくれる女中のルワソンに髪を洗われながらぼんやりと天井を眺める。ふわふわと湯気がのぼる様は見ていて飽きない。
「綺麗な髪ですね。お肌も柔らかくて」
そこで言葉が止まる。なに?と顔を上げるとルワソンの視線はしっかりシャルルの体を見ている。
忌々しい、胸元。用もないのにそこだけ見れば女なのだから腹立たしい。
「何?」
返事は大きなため息。
「布で押さえているなんて、苦しそうですよ。もったいない。レースのドレスをまとえばどんな殿方も放っておかないのに。ロトロア様もご存じないでしょう?」
そこを強調するために苦しいコルセットで腰を押さえる貴族女どものほうが理解不能、とはさすがに言わないが。無視しようとシャルルは目の前に登ってきたイタチに手を伸ばす。
ぐ、と。逃げそこなったクウ・クルは強引に湯船に入れられて、派手に暴れる。
「わ、こら、お前も綺麗になれってば!」
「きゃ、シャルル様。やめてください!イタチは熱いのが苦手ですよ!」
「でも」
「死んでしまいますよ!」
うひゃ、と。慌てて、湯船から取り出すと、クウ・クルはくったりとしている。
「おい、おい!?クウ・クル?」
恨めしそうに目を開けてシャルルを見上げるが、動こうとしない。そのうち目を閉じる。
「わ、うそ、しっかりしろ!どうしよう、ねえ!」
「お医者様じゃあ…だめですよねぇ」女中がイタチの額を恐る恐る触る。それでもクウ・クルは鼻をかすかにひくひくさせるだけだ。いつもなら、シャルル以外の人間には触らせないのに。
「そう、そうだよ!リシャール、呼んで、ねえ、あいつそういうのできるって聞いた」
裸のまま、イタチを抱えて飛び出そうとするシャルルを、女中は必死で抑えつける。
「待ってください、お願いです!シャルル様、落ち着いて!」
「クウ・クルが死んじゃう!!」
親友なんだ。
僕が一人じゃなかったのはこいつがいたから。
親がいないのは同じで。僕と仲間だった。


それより少し前。
よく晴れた夜空に明るい月が見えるロトロアの寝室。
広い室内の半分を占める書類や机、棚。そこに置かれたテーブルとソファーにリシャールとロトロアが座っている。
二人の前には一つの羊皮紙。窓からふわりと漂う夜風に揺れる。
丸められた跡を残し、今もランプの光にそりかえった白を光らせる。
湯を浴びてさっぱりしたロトロアは久しぶりに髭をそり、リシャールは「若返りました」とまじめに評した。
「もともと、若いんだぜ?」と答えたとしても相手は自分より二つ年下。ロトロアは目を細めるだけにとどめた。
これから話すものはそういう軽いものではなかった。

「ルイ八世陛下は、三日前に亡くなられた」
その事実はまだ、早馬での伝令が伝える一部の諸侯しか知らない。
前線に残っていたブルゴーニュの伝令が知らせてきたのだ。

「原因は?」
しばらく無言でそれを受け止め、噛みしめるように確かめるリシャールの問いに、ロトロアは首を横に振る。
「詳細は不明。だが。だからこそ、浮上しているのが」
リシャールはロトロアの顔に少し近づく。ロトロアの声が低く小さくなったからだ。

「シャンパーニュ伯ティボー四世が、毒をもったという噂だ」
「まさか」
「我らが戦線を離脱してから帰還するまでの七日の間に亡くなったというからな。可能性を否定することもできんが。まあ、真実などどうでもいい」
乱暴に聞こえるロトロアの言葉、何の考えがあってかとリシャールは黙って聞いている。

「ティボー四世がルイ八世と不仲だったのは真実で、誰もが知っている。その状況で毒殺であるなら。我らシャンパーニュが何を弁護しようとも無駄だ。所詮、噂など手足のない幽霊。存在の有無を論じても無意味。ティボー四世も正式に宮廷から訴えられているわけでもないものを、噂は違いますなどと否定することもできん」
「では。噂に手足が生え、正式な訴えとなったときには」
「十分反論できるよう、備えているところだ。最悪は、一戦交えることになるかもしれん。我らも備えるべきは備えなければならん」
「では」
「この王領でのんびりしているわけにもいかない。叔父上のもと、ランに戻る。少々厄介だが、まあ、仕方ない」
ロトロアの叔父、ラン伯は今年五十歳になる。父親を亡くしたロトロアにいくらかの所領とこのブリュージュの家を与えてくれた。
「子ライオンは連れて行くのですか」
「俺はお前をつれていきたい、となればあいつも連れて行くしかないだろ。ここに残しておけば他のものに迷惑だ、何をしでかすかわからん。それに。あれがどこまで覚えているかは知らんが、王子について余計な情報を漏らしたくはない」
「…そういえば。ルイ八世の王位継承はどなたが?」
「…継承権はルイ王太子にある。ブランシュが可愛がっているからな」
「ルイ九世の誕生、というところですか?まだ、十二歳でしょう?」
「ブランシュ王妃が摂政にでもなるさ。宮廷はわれら諸侯をクリアレギス(王国会議)より追い払い、今や身分の低い家臣たちを重用している。かつて、フィリップ・オーギュスト王に従い、この国を一つにと協力した重臣団は、今や無用の長物さ」
叔父上が聞けば憤慨しそうだがな、と。ロトロアは笑った。


扉をたたく音に二人の笑顔が止まった。
「ロトロア様、ルワソンです」
「どうした」
許しを得て女中が扉を開く。ととと、と裸足で走り込んできた小さい白い人間はランプの点在する室内を駆け抜け、二人の前のテーブルに。タオルに包まれた何かを置いた。
「なんだ?」
「だれだ?」

クウ・クルを!と甲高い声を聞いてやっと二人はそれが少女だと認識する。
真っ白なバスローブを引きずるようにまとい、濡れた髪は無造作に束ねて頭上にある。髪を結った姿を見たことがなかったためにそれと気付くのに時間がかかった。
落ちないようにとの配慮かしっかり結わえた腰紐は、かえって少女の腰を強調した。普段目にしたことのない少女の細い首と肩、形からそれらしいとわかる胸元のふくらみは、二人の男の視線をくぎ付けにするに余りあるほど瑞々しい。
「助けて!」
「あ?」
呆けて役に立ちそうにないロトロアから視線をリシャールに移し、シャルルはその袖を引っ張る。
「クウ・クルが死んじゃう!」
「死ぬ、って、何をしたんですか、シャルル」
「あの、風呂場で」
「湯につけたのですか?」
頷く少女は目に涙を浮かべている。
あまりにも普段と違う殊勝な姿に、ロトロアは凍りついたようにじっと見つめるだけで。リシャールが風呂に生きものをつけるなどという呆れた行為に同意を求めようとしても無駄。
「おぼれたのですか」
「分かんない、気付いたらこうなってた」
仕方なく、リシャールはイタチをごろりと転がして腹に指先をおいた。
「心臓は動いているようですし、呼吸もしていますね。しかし。濡れるとこんなに小さい生き物なんですね」
クウ・クルの毛皮は水を含んで、萎れた海草を巻きつけたようだ。心臓がひどい速さで脈を打ち、壊れてしまうのではないかと心配になる。
「陸の生き物を湯につけるなど、また、ひどいことを」
「…だって」
ぽんと、温かい衝撃を頭に感じてシャルルは顔をあげた。
ロトロアだった。顎髭がなくなっているからちょっと違うように見える。
「ウサギやネズミのような小動物はお前が思う以上に手足の力がないものだ。濡れて重くなった毛皮で身動きが取れないだけだ。暖かくしてゆっくり乾かしてやりなさい」
「…」
「なんだ?」
「…ありがとう」
珍しく素直なシャルルに、これまた珍しくロトロアも照れたような顔をする。
「この部屋なら丁度、暖炉がありますね。ルワソン、火を。では後はロトロア様にお任せします。私は仕事が残っておりますので」
にっこりと華やかな笑顔を残してリシャールは部屋を出る。
一緒に部屋を出た女中に、「シャルルにも温かいミルクを。温まるように少しばかりブランデーをおとして、ね」とウインクする。
意味を理解したようで、女中は急に笑顔を浮かべ、はい、と楽しそうに階下へと走って行った。

「さて、がっかりさせないで下さいよ、ロトロア様」
こういう場合、リシャールが想像するのは一つ。


周囲の勝手な期待など知るはずもなく、ロトロアと二人きりになったシャルルはゆっくりそっと、白イタチの体を拭いていた。
暖炉に火種と薪を入れてくれた女中は火箸をロトロアに持たせると、「私は風呂の始末がありますので、すみません、お願いします」と笑って部屋を出ていった。あまりやったことのない作業だが、仕方なくロトロアは暖炉の灰をかき交ぜて新鮮な空気を入れる。

「クウ・クル、しっかりしろ」
白イタチはタオルに横たわって、暖炉のすぐ前の床に置かれていた。
シャルルは真剣に横たわるイタチを介抱している。かすかにイタチが尻尾を揺らしたが、少女は気付いていない。その姿をしばらく眺め、ロトロアは飲みかけのワインを片手に隣に膝をついた。
「小さいくせに、立派に指があるんだな」
感心したようにロトロアはイタチの細い前足をなでた。
普段は触らせないのだから、珍しいのも仕方ないのかもしれない。二人は生まれたての赤ん坊を眺める夫婦のように、小さい命をじっと見下ろしている。

「俺が拭いてやるから、お前は自分の髪を乾かせ。風邪をひくぞ」
「だけど!」
「何のためにここに運んだのだ。助けを求めてきたんだろう?任せろ」
そう言われ、自分の濡れた髪からの雫がクウ・クルのそばに落ちたことに気づく。
シャルルは仕方なくそばを離れ、示されたタオルを手に取った。テーブルの上には美味しそうなミルクが置かれている。
泣いて叫んだからか、のどが渇いた。
少しぬるくなったミルクを抱え、一気に飲み干す。鼻が詰まっていたから匂いは分からなかったが、何か、違う味がする。
「変な味、これ」
振り返って訴えようとし。シャルルは止まった。ロトロアは普段の様子からは想像もできないくらい穏やかな顔でイタチの体をそっと拭いている。人差し指でこちょこちょと喉元をくすぐっている。武骨な手が小さな生き物を可愛がる様子は何か不思議な感情を沸かせた。
子供を寝かせる父親風。
しばし、見とれる。
「どうした?」
「……別に。かわいいだろ?」
「……まあ、野兎よりは小さいな」
「大きさじゃないだろ?意味が分かんないよ」
「なぜお前はこれを可愛がるのだ」
質問の意味が分かりづらかったのか、シャルルは戸惑いを見せた。
迷った末、話し出す。
「拾ったんだ。聖堂のあるランスの森での狩りは禁止されている。だけど、ある年野兎が増えすぎたんだ。一晩で畑の野菜が半分も食い荒らされたことがあって。村の皆に懇願されて、大司教様が一月だけ兎狩りを許可した。その時、クウ・クルの親は野兎用の罠にかかったんだ。僕が一番最初に見つけたから、僕がもらった。親にクウ、子供にクルって名前をつけたんだけど、怪我をしていた親はすぐに死んじゃった。全然慣れなくて、噛みつかれてばかりだったけど、嫌いじゃなかった。残されたクルはまだ赤ちゃんだったから、馬の乳で育てたんだ。僕と同じで親がいないから……」
「親と供に逃がしてやればよかったんじゃないか」
「!?」
「野生の生き物は捕らえて飼うものじゃないぜ。生きるか死ぬか、食うか食われるかの世界で生きている。神がそのように創造し、森に生かした。お前のしたことは魚を陸にあげるのと同じだ。お前がこれを可愛がろうというのは、親を殺した罪悪感か」
淡々と男は話す。
「う、うるさい!そんなんじゃないよ!僕が親を殺したわけじゃない!クウ・クルは友達だ!僕の親友なんだ」
「では、ただ可愛いからか?身勝手とは思わなかったか」

身勝手って、なんだよ!
まっすぐ、怒りでもなく憐れみでもなく、まじめな顔でシャルルを見つめるロトロアが憎らしくなる。
「僕は、悪い事なんかしていない、クウ・クルは親友だ。大切にしてきたんだ。ひどいよ」
「なぜ泣く?野生に戻れないように育ててしまったなら。お前は最期までしっかり見届けろ。お前が犯した罪の罰はお前が受ける。その覚悟がないなら、生き物を飼うなどするな」

シャルルは静かに息をする白イタチを見つめていた。涙で曇るから、ローブの袖で拭った。
温かい暖炉の光に、触れるクウ・クルはちゃんと温かい。
死んじゃったりしない。
「可愛がったそれが、死を迎えるときは必ず来る。今ここで死んでも泣いたりするなよ」
「死なない!」また、涙を拭う。
「シャルル。この世で約束されるのは死のみだ。後は自らが勝ち取る」
どこかで聞いた。
シャルルはごしごしと目をこすり、顔をあげた。目の前の男は何とも言えない顔をして、見下ろしていた。
この世で、生まれた時に約束されるのは「いつか必ず死ぬ」という事実だけ。死だけは平等に訪れる。
そう、語った。ロイだ。

きゅ、と胸が苦しくなる。
ロイはそんな風に諦めようとしていた。
「ロイみたいなこと言うな。だから、今、一生懸命がんばるし、大切にするんだ。それは間違ってない。死ぬのは誰でも一緒なら、僕は威張れるような生き方をして、死ぬんだ」
ふ、と。
目の前に影が差す。
床においた手の先にからんと、ワインのグラスが落ちた。
「え?」
抱きしめられていた。
「な、なんだよ!」
「お前は馬鹿で面白い。だから王子も動かされたのか。あの子にそんな勇気はないと思っていたのにな」
男の鼓動が耳をふさぐ。
「…放せって!」
「お前、後悔するなよ。騎士になるのも、俺のもとで生きることも。選んだのはお前だぜ」
「違う。だいたい、誘拐も同然なのにさ!僕に選択の余地があったとは思えないだろ。それでも、今、こうなったからには僕は僕のやりたいように生きるだけだ。後悔はしないよ。僕は騎士になる。それでパリに行く。ロイを探しに行くんだ」
ロイの名を口にすればどうしても、切なくなる。あのとき。一緒に逃げようと約束したのに。一人行かせてしまった。無事なのかどうかもわからない。

そういうことか、と低い声の吐息が耳元にかかった。
「やはり子供だな、好きにしろ。俺も好きにする」
「!」
押しのけようとしても。かなうわけはない。
男の手があごにかかる。目の前に迫る。シャルルは猫のように男の胸元をかきむしってみたが、引き寄せられ。目をつぶった。
「いてっ!」
とロトロアが叫んだ。
あれ?
自由を奪っていた力が消えた。
目を開ければ、飛び離れた男の手にはしっかり白いイタチが噛みついていた。
「あ!クウ・クル!」
「こいつ!放せ」
振りほどかれる前に自分からするりと飛び降り、そのまま、クウ・クルはシャルルの肩まで駆け上る。
大きな尻尾で肩をトントンと叩かれれば元気が出る。大丈夫。
「ふん、ろくでもないことするからだ。僕は契約では男なんだから、そういうことしたら契約違反だ。それに。クウ・クルは親友なんだ、飼ってるわけじゃないから」
プンと口を尖らせる仕草が、可愛いさを増すことをシャルルは気付いていない。大きめのローブに華奢な肩がのぞき。収まらない動機と興奮に乗ってロトロアも言い返す。
「ろくでもないのはどっちだ、そんな姿で誘っておいて、二度と俺の前でそういう姿をするな!女の格好も駄目だからな!そんな奴にロイが惚れるとでも思うのか」
ふと黙る少女に、ロトロアはまた大人げなく興奮した自分を顧みる。初めてシャルルに出会ったときと同じ。ため息とともにリシャールの言葉が脳裏をよぎる。
女は剣で切り捨てるわけにもいかない。
「もういい。部屋に戻れ、行けよ」
「ば~か!」
ロトロアはリシャールの言葉を反芻しながら、入ってきたときとは正反対に大威張りで部屋を出ていく少女を見送った。
「バカか、俺は」
小さくため息をつくロトロア。昔からそうだった。
泣いている女の子を慰めようと「泣くな馬鹿」と怒鳴りつけ、余計に泣かせてしまうような子供だった。


「お手柄だぞ、クウ・クル」
だいたいさ、と。肩に乗る親友に世の男の横暴さを愚痴る少女は、本人の希望とは裏腹にどう見ても普通に女性。今更体が熱く、頬が火照る。どうやら酒らしいものが入ったミルクを思い出す。
ずるがしこいな、絶対あれはリシャールだ。
のろのろと自分の部屋にたどりつくと、そのままベッドに寝転んだ。
ひんやりとしたシーツが心地いい。ここに来てからは当然となった綿入りの枕を抱きしめる。
ロイ。
会いたい。
想いがいつの間にか、切ない恋に変わっていることを。心の中では理解していた。

ここに来て間もないころロトロアが言った。ロンダはロイの存在を知ったから殺したんだと。だから、僕が口外することを禁じた。
あんな様子をしていても、殺そうとすればいつでも僕を殺せる。

ロイのことを誰にも話すことはできない。
だからこそ自分に誓う。
僕は、ロイを探し出す。僕しかいないんだ。あのとき助けるって約束した。
僕一人では飛び出す勇気がなかったランスを、ロイがいるなら出て行けると思った。一緒なら大丈夫だって。ロイも同じだったはずなんだ。

今、どこにいるんだろう。生きているのかな。

優しげな薄茶色の髪、薄い蒼い瞳。思い出すのはいつも、月明かりに照らされた静かな表情。静謐という言葉が似合う。
ぎゅっと。思い出を抱きしめてシャルルは目を閉じた。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ③

『Laon ‐ランの風は苦く‐』



シャンパーニュ地方の中核都市、ランへ向かうと聞いてシャルルの反発はほとんどなかった。
ランはシャルルが育ったランスからほど近い、イル・ド・フランスに隣接する都市だ。パリが近いと聞けば、反対する理由もない。
行程を馬車でなく、自分の馬に乗っていくというところも、騎士みたいだと気に入った。そうやってうまく言いくるめるのはさすが、リシャールの得意技だ。
シャルルのご機嫌をとらなくとも、強引に連れて行くことも可能だろうが、「拗ねた子ライオンを連れて歩くのは面倒ですから」とシャルルに新しい皮製のケープも用意してくれた。

あの夜以来、ロトロアの顔を見ると避けるようにするシャルルに、リシャールが「最近ロトロア様とお話をしないのですね」と探りを入れる。
「蹴られるのが怖くて向こうが近づかないだけだよ」とシャルルが笑って見せれば、肩に乗るクウ・クルも同じように威張って鼻をふんふんさせる。
それがどうにも面白いらしく、リシャールは肩を震わせて笑う。


「何がおかしい?」
ロトロアがまっすぐリシャールを見つめた。

パチ、と薪が炎を弾く音と同時に、リシャールは又シャルルの言葉と目の前のロトロアを比べ、あの晩の出来事を想像していた自分に気づく。何度想像しなおしても、シャルルの様子からすればロトロアは失敗したのだ。
ランへの到着を明日に控え、ロトロアは重臣たちと酒を飲んでいた。子どもは寝ろ、とロトロアがいい「言われなくても眠い」とシャルルも一人先に床に付く。
深夜の森の中、どこかで生き物が吠えた。
「リシャールはまた女のことでも考えていたんじゃないか?」
ふさふさした髭を胸まで伸ばした騎士がガラガラと笑った。
四人いるロトロアのセネシャル(※側近)のうち、もっとも古参のリシャールは年上の彼らの中にあっても平然と冗談を言う。
「とびきりの美女ですよ、特にバスローブ姿が愛らしくて」

ウインクにロトロアは眉を寄せ、髭の騎士キ・ギは「そりゃ、俺もあやかりたいもんだ」と大声で笑う。忌々しそうに咳ばらいをしたのは今年五十を過ぎるローレンツだ。白髪に見える金髪を短く清潔にしているローレンツはアイルランド人の血を引く。ロトロアの家令でもあり、会計も任されているだけあって細かい事にもうるさい。
「女に使う時間があるなら、もう少し腕を鍛えたらいかがかなリシャール。先日シャルルにしてやられたと聞きましたぞ」
「ああ、ありゃ強いぜ、リシャールじゃ無理だぜ」キ・ギが笑う。どうやら、髭の騎士は笑い上戸だ。ふほほと腹を抱えて髭を揺らす。
「だとしたらキ・ギもローレンツもかなわんということか?最年少が最強でどうする。リシャール、甘くし過ぎだぜ。あれに荷物も持たせていないだろう?騎士になると豪語するんだ、一人前に扱ってやれ」
ロトロアが笑うでもなく怒るでもなく、眉をひそめて話す。
「気まじめですなぁ、ロトロア様。元気はいいが所詮女。その内リシャールの床にでも通うようになりますよ」
キ・ギは自分の下卑た想像に満足なのか、手にしたワインの杯を一気にあけるとまた笑う。軽く酔っているのだろう、髭に滴った酒に気づきもしない。
肩をすくめたリシャールは「獅子を手名づけるのは命懸けです、遠慮しておきますよ」とロトロアを眺める。
その脇でローレンツは呆れたのか無視して地図を眺めている。
「だいたい、あんな子供をセネシャルになど、ロトロア様のお戯れもほどほどにしていただかねば」
騒がしいキ・ギがワインを口に運んだタイミング、老人がつぶやいたそれは妙に響き二人の家臣は慌ててロトロアの表情を伺った。
「あれは」ロトロアが目を細めた。
風に揺れた炎の陰がゆらりと青年の顔をなめる。なにか普段と違うものを宿しているかのようで、皆しびれたように見つめたまま、静まり返る。
キ・ギが飲み込むタイミングを損ねたワインを、妙にゆっくり飲み下した。

「あれはロイと同じ。王家でも伯爵家でも、王(キング)に化ける可能性がある手駒なら、多いほうがいい。幼いルイ九世を擁立するとなれば後ろ盾を買って出たい諸侯は大勢いるだろう。同じことだ。シャルルに可能性があるならば、フランドルの豊かな領地が我らの手に入る。先を見据えて行動するべきだぜ、ローレンツ。まあ、老い先短いお前では、そう遠い未来は想像できないかもしれんが。愚か者は寿命を縮める。気をつけるのだな」

ちらりと視線だけで老騎士を睨む。有無を言わせぬ低い声にローレンツはかすかに頬をひきつらせた。
ごくりとキ・ギが唾を飲む。
リシャールだけが緊張を解いて笑った。
「では大切に大切に、シャルルを一人前の騎士に仕立てて見せます」
「ああ。俺は寝る」
席を立ったロトロアを三人は身動き一つせず見送った。
お人よしに見える時もある、素直で育ちのいい貴族の若者、そう受け取られることも多い。だが、それだけでない面をロトロアは持っている。
ランスに軍を進めた時もそうだ。こうと決めた行動は苛烈を極める。
両親の死によって所領のほとんどを叔父に奪われた形になった、その経験がロトロアの性格を変えた。将来約束されていたはずの多くを失った男は、生きていくために何かを捨てたのかもしれない。
それゆえ、戦場では鬼神になりうる。
主君の怖さをセネシャルたちは理解している。

「さて、私が見張りますから、お二人はどうぞ、お休みください」
リシャールが小さくなりかけた炎に薪を一つ足して、二人を促す。
「なあ、今だにわからんのだ。リシャール、ローレンツ殿。ロトロア様はあの時、王子を誘拐してどうなさるおつもりだったのか」
「……なんじゃ、キ・ギ、お前はそれもわからんで参加しておったのか」
「ロトロア様に聞くわけにもいかんだろうが」恐ろしい。と、大男が髭をなでた。
「シャンパーニュ伯が、王妃ブランシュと関係があるという噂はご存じでしょう?」
リシャールの言葉にキ・ギは「ああ、まあ」と頷いた。髭をなでる。
「シャンパーニュ伯はあの少年を自分と王妃様との子と信じていらっしゃる。ロイは体の弱い子で宮廷から遠ざけられていた。だから自分の息子を手元で育てようとした。シャンパーニュ伯は噂の通り、ロマンチストで愛情に深すぎる方ですから。それを焚きつけたのは、たぶん、ロトロア様です。王子を擁護することは、王位継承権を大義名分にし王国の支配を狙うことができるからです。ロトロア様がその役を買って出て、密かに捕らえようとしましたが」
「王領の隣のランスに逃げ込まれた」そうか、とキ・ギは頷いた。
リシャールはにっこりと華やかな笑みをこぼし、続ける。
「それで、ランスも巻き込もうとした。そうすれば大司教は王家に口を閉ざす。秘密は守れるし、力ある司教座を味方につけることができる、そう算段したのです。計画は失敗に終わりましたが、結果的にあの件は闇に葬られましたしね、まあ、損も得もなかったわけですが」
「だが、肝心の子の生死が不明となればシャンパーニュ伯ティボー四世の不興を買ったんじゃないか」
「そこはロトロア様のことです、なんとでも」
「……恐ろしい方だ」
「半分は私が考えたのですけどね」リシャールがけろっと笑って見せるから、キ・ギは「あんたらにはかなわん、俺は酔っている、明日には何も覚えていないぜ」と伸びをした。

「どうぞ、お好きなように」リシャールが笑って見送る。
「ローレンツ様、大丈夫ですよ。ロトロア様はあのくらいではお怒りになりません」
先ほどから老人は黙り込み、焚き火をじっと見つめていた。
「分かっておる。幼少のころより見知っておるが、かつては優しい方だったのじゃ。立派になられたと喜ぶべきか……」遠く、ロトロアが休む茂みを眺める。乾燥した風が、冷たい晩秋の夜に吹き抜ける。
「父上の墓碑に誓ったんだそうです。いつか、叔父上からすべてを取り返すと。そのためならば、なんでもするのだと。根は優しい方ですよ、今も。たぶん今頃は、ローレンツ様、貴方に放った言葉を後悔しているでしょう」
「そうじゃな」
苦い表情を消せずにいる老人は、ロトロアの選んだ道を心配しているのだろう。
おやすみ、と声をかけ歩み去る老人。姿が闇に沈めば、リシャールはふと息を吐いた。


貴族に生まれたことが幸せになれる約束ではない。
それをロトロアは身をもって痛感した。両親を失い、当主として泣くこともできず、密かにリシャールのそばで泣いていた。親族に見知らぬ遺言書を突き付けられた。主要都市ランの伯爵家当主のはずが、小さなルジエの領地とその城だけを与えられ、体よく放り出された。幼かったロトロアについてきたのはローレンツとリシャールだけだった。

また呟くように音を立てる炎に、リシャールの美しい横顔が照らされる。
リシャールは十五歳のとき、ロトロアと臣従礼を結んだ。それはまだ若いロトロアを支えることになった。
「なんでもすると、誓われた。だから、私も貴方のためなら何でもすると決めたのです」
ロトロアの両親は、親のいないリシャールにも優しかった。


早朝、朝靄が残る森に「また貴様か!」と怒鳴るキ・ギの声。
ここ数日の朝の風景だ。
お気に入りの白馬ブロンノの脇で目覚めると白イタチは早速朝の狩りに出かけ。追いかけたられたネズミがなぜかいつもキ・ギのそばに逃げ込むのだ。枕もとでネズミとイタチが追いかけっこをすれば誰でも目が覚める。
「あっちへ行け!」と拳を振り上げるころにはイタチの姿はない。
行きどころのない怒りに「くそう」と唸る。その視線は茂みの向こう、馬のそばにたたずむ影を見つける。
「…シャルルか」
靄の中、朝日に照らされシルエットだけの馬たちのそばで、小柄な姿が鞍を乗せようと、背伸びする。
キ・ギはしばらく様子を見ていた。まだ身長が足りないのか、力がないのかシャルルは苦戦していた。馬小屋なら踏み台があるがここにはない。
「仕方ないな」
キ・ギが立ちあがった瞬間。
ふわりと風が吹いた。
靄の白い波が宙をなで、その向こうでシャルルの馬が少女のために膝を折る。
「あれ、座ってくれるんだ」
少女の声が風に乗り届く。
珍しいことだった。
賢い馬は未熟な騎手を乗せたがらない、膝を折ってまで従おうとするなど希。
「ありがとう、ロンフォルト」シャルルは嬉しげに馬にすがる。
「出来たよ、キ・ギ」
シャルルはこちらの視線に気付いていたようだ。
丁度朝日が少女を照らし、こちらを振り返る髪は眩しいくらい輝いて見える。
「できたよ!今日は!五日目にしてやっとだ!よかった。またロトロアに馬鹿にされるとこだった」
にっこりと、少女はキ・ギに笑いかける。
「あ、ああ」
眠そうに眼をこする髭の大男にシャルルは早速、朝の一戦を仕掛ける。
「キ・ギ、相手して!」
いいながら手刀を構えているのだから性質が悪い。
細い手の動きは一歩下がって避けたものの、間髪入れず放たれた素早い蹴りを腹にまともにくらう。うえ、と呻いて男は腹を押さえた。
「あ、ごめん。まともに入っちゃった」
「お前、なぁ!」
赤い顔でにらむと、キ・ギはシャルルに向こうを指差して見せる。
川の流れる方向、木立の向こうにロトロアの姿がある。剣を構え、素振りをしているようだ。かすかにひゅと風を切る音が聞こえる。
「俺じゃお前の相手は務まらん、ロトロア様にしてもらえ」
「えー、だってさぁ」
何となく傍には近づきたくない。
「乙女の恥じらい、というところですか?」
気持ちの悪い言葉を吐くのは決まっている、リシャールだ。
朝食の準備中なのか、木の枝数本と、ハムを切るナイフを持っている。
「可愛いところもあるんですね」

わざとだ、わざとあんなこと言って、僕に違うって言わせたいんだ、その手には乗らないぞ。
シャルルの決意が分かるのかリシャールはくすくすと笑いだす。
「顔が赤いですよ、シャルル」
「赤くない!やめた、お腹すいたからそっち手伝う!ハム切ってあげる」
「またハム相手にへたくそな剣術を仕掛けるつもりですか。駄目です、あんなボロボロにされたら食べ物に見えません」
走り寄るシャルルからハムを遠ざける。
「む、どんな姿でも食べ物は食べ物だよ!贅沢言っちゃいけないんだぞ」
「ロトロア様が食欲をなくされては困ります。お前の満足に付き合う気はありませんよ。ただでさえ」
そこで止める。
「ただでさえ、なんだよ?」
大体、ロトロアは贅沢なんだ。
シャルルは自分の不器用を棚に上げてそんなことを考えている。
「子供には分からないことです。ランに戻るのは、ロトロア様にとって嬉しいものではありませんから。少しは思い遣りなさい」
「…自分の生まれたとこなのに?」
「歓迎してくれる人がいるのなら、違うでしょうけどね」
「あ、嫌われてるんだ。叔父さんがいるんだろ?ロトロア態度大きいし、我がままだし」
言いかけて気付く。
見下ろすリシャールの表情が変わっている。時折見せる。深夜の聖堂にある聖母像みたいな静かな怖さだ。命を落としたイエスを抱きかかえ嘆く姿、腹の中の怒りは想像するに余りある。それでもただ、美しく嘆いている。
「シャルル。二度と言いませんよ。事情も知らない子供のくせに推測でもの言うのはやめなさい。ロトロア様を傷つけるような真似は許しません。お前はロトロア様の慈悲で生きているに過ぎない。ロトロア様の命令だから世話もするし相手もする。そうでなければこの場で打ち捨ててオオカミの餌です」
「そ、そんなに、怒らなくても」大体、事情とやらを説明されてないし。
深夜の聖母にはかなわない。しばしにらみ合ったが折れたのはシャルルだ。
「…ごめんなさい」
「罰です、ロトロア様を呼んできてください」
「はぁ?」
「早く。昨日お前が切ったハムのようにされたいのですか」
残酷なこと言うなー、とぼやきながら、シャルルは仕方なくロトロアのいるほうへと歩く。
ハムだってさ、僕を。ハム。
自分が切ったハムの惨状を思い出すと、ぞっとした。


きらと、朝日に何かが光り、シャルルは目を細めた。
木立の向こう、ロトロアはすらりと払ったサーベルを鞘に戻す。
木の枝にかけてあった緋色のマントを手に取ると肩にかける。
川風だろうふわと風になびき、赤い翼を広げたように見えた。片翼の、鷹を思った。
白い衣装、茶色のブーツ。
そう言えば遠征に行く前より少し痩せたかな、と。そんなことを思っているうちに目の前を通り過ぎる。
「ほら。行くぞ」
頭をぽんと叩かれ、「あ!そう、朝食だ」と。
我に返ったシャルルにロトロアは背を向けたまま笑った。
「早くしろ、食いっぱぐれるのは修道院と同じだぜ」
薄茶に枯れた低木の間を進む緋色のマント、後ろで結った髪が揺れる。
修道院。
ほんの、そう、二年前まで、僕はこんな風になるなんて思っていなかった。
目の前のこの男、ロトロアが現れて全てが始まったんだ。

「ロイに、会いたいか」
聞き違いかと、顔を上げた。

いつの間にか立ち止まっていたロトロアは、こちらを振り返っていた。
「そういう顔をしたぜ、今」
どんな顔だよ、と噛み付きたくなるけれど、それ以上に。
シャルルはよみがえっていた思い出と、この初めての土地の景色、ロトロアの笑顔に泣きたい気分になっていた。
心細い、とでもいうのだろうか。
僕がここにいて、こうして生きていることが、よかったのか悪かったのか。これで、いいんだろうかと。あまり深く考えないようにしてきた想いが、不意に湧き上がった。
「歴代のフランク王国国王の戴冠式は、ランス大聖堂で行われる。近々、ルイ九世が即位するだろう」
「ルイ九世?それ、それって、ロイ?」
ロトロアは肩をすくめた。
「さあな。うまくすれば戴冠式に参列できる。ランスに戻っても、お前は俺と契約している。それは忘れるな」
にやりと。同じ笑顔なのにさっきまでのロトロアと違う。
時折忘れてしまう。
あの日、ランスで。ひどい雨の中だった。
この男はロンダを殺したのだ。

シャルルはそれ以上、ロイのことを聞くことができなかった。

※セネシャル=本来は主膳長(給仕係の長?)という意味だったらしいです。これは、13世紀のフランク王国ではかなり高位の家臣のことです。この「セネシャル」と言いう名がそのままフランク王国南部では「国王の領地を治める地方代官」の代名詞のように使われてもいました。北部では「地方代官」は「バイイ」と呼ばれていました。このランやブリュージュは北部ですので、分かりやすくするために「地方代官=バイイ」「側近=セネシャル」と区別して呼ぶことにしました。言葉の意味って難しいですね。
日本語の「側近」でいいじゃないかって?
だって、かっこいいじゃないですか(笑)


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ④

『Laon ‐ランの風は苦く‐』



ラン。丘陵地と小高い丘、そんな言葉で説明できる平坦な街だった。東にはシャンパーニュへの山々、西にはイル・ド・フランスの平野を眺める交易の街。
北部のフランドルからクランク王国内各地へと物資が運ばれる拠点となる。内陸特有の強い風が一年中吹いているが気候は温暖。丘陵地を利用したブドウ畑が今は枯れた赤を見せる。すでに霜の降りたこの季節は新物のワインが出回り始める。商人たちはこの街で宿をとり、夜には果実味の豊富なワインをたしなむのだ。
ブリュージュとは違う、濃い灰色の石積みの建物を眺めながら、シャルルはきょろきょろと落ち着かない。それはクウ・クルも同じで、すぐ後ろのリシャールの馬エリアスに飛び移っては戻ってくることを繰り返し。しまいには「シャルル、イタチが暴れていますよ」と注意されるほどだ。
「だってさ」
旅の疲れも忘れたように、広場の市に目を輝かせる。
「ブリュージュでも市はあったでしょう?」
「だけど、なんか、違うよ。ほら、剣とか槍とかたくさん売ってるし!」
市場といっても食品や生活品とは違い、鍋や馬具、盾や剣など、道具を扱った店が多い。自然客は男性ばかりで、ざわめきも低い雷鳴のようだ。
「このランの近くに鉄鉱山があるんです。製鉄が盛んな村からここに運ばれる。この一帯で最も大きな鍛冶市が開かれます。だから、シャルル。武器を求める物騒な連中も多く集まる。気をつけなさい。馬と剣があれば騎士道をわきまえている、というわけではありません。お前もここでは男として通したほうがいいでしょうね」
ふうん。当然男装のままのつもりだから、シャルルに感慨はない。
ぽつぽつと人ごみの中、目に着く旗がラン伯の旗印なのだろう。青地と白地に分かれ、青地はフランス王家の紋章の金の百合。白地にはアヒルが三羽並んでいる。

「皆、ラン伯の兵隊なのかな」
リシャールはシャルルの横に馬を進め、歩調を合わせた。
「ええ。槍の穂先にある旗、あれで街がわかります。街ごとに二十騎は用意しているようですね」
「あれ?ロトロアのルジエは?僕らだけ?」
前後ろ、つながる騎馬の槍につけられた白地に蒼獅子の旗を数える。
シャルル、リシャール、キ・ギ、ローレンツ。そしてロトロア。
たった、五騎だ。
「ラン伯の命令では、我が町は五騎以内となっていましたから」
下手に増やしても減らしても、難癖をつけられるのが落ちなのだ。嫌な思いをしないためにも、そのあたりは守るしかない。苦い顔をする青年にシャルルは首をかしげる。
「徴兵が少ないのはラッキー?」
「他が二十も五十もいるのにですか?戦場でも活躍は難しいですし、不利なのは明白ですよ。ラン伯はロトロア様を警戒していますから。軍勢をひきつれてこられては脅威なのでしょうね」
「ふうん。他の城主の五倍も十倍も怖がられているんだね。剣を持つとロトロア、怖いからなぁ」
「……そう言われれば、小気味良く聞こえますね」
「そう?」
シャルルは首をかしげる。
叔父だというラン伯に歓迎されず、軍勢をひきつれることを恐れられている。そう言えば先ほどから、すれ違う騎士からあいさつを受けているロトロアはこの場の誰よりも上の立場みたいだ。今も、兜を日に煌めかした老人がロトロアを見上げて膝を折る。
「アンジュー伯の件以来だな、元気なようでなによりだ」と、ロトロアは笑いかける。
取り囲み、声をかける人々の中、また誰かが「今宵はシロンの店でどうですか、ロトロア様」と声をかけ、ロトロアは「ああ、あそこの羊肉は美味いからな」と手を上げる。誘った若者は嬉しそうに顔を赤らめ、仲間もはやし立てる。

「ロンロンは、人気なんだ?」
「ロンロンはやめなさい。ロトロア様は有名な騎士物語『ローランの風』の主人公のようだと言われますよ。ちなみに私はその美形の側近ミンヌのようだと」
「女役?」
「譲ってほしいなら、お前ももう少し綺麗にするんですね」
「いらないし」
自慢するところとは思えない。
「シャルルはそうですね、ローランを慕う少年剣士ラ・ステラというところでしょうか?」
「慕ってないし」
リシャール、綺麗で冷たい顔をしていながら少女趣味か。話し出すと止まらない様子で、主人公ローランがどういう人物なのか、ミンヌと恋に落ちそうで落ちない微妙なところが面白いのだとか。一人悦に入って語っている。
そんなことに夢中になれるなんて、リシャールは僕より断然女らしい。密かにそんな感想を持ち、シャルルの視線は人ごみを抜け出し、空を見上げる。午後の日差し、練りかけのパンを引きのばしたような雲が青を横切る。そう言えば、お腹がすいた。
ロイに会えるかもしれない、その期待に胸は膨らみ胃も騒ぐ。

ロイが元気で新しい王様になるのなら、例え傍にいられなくても僕は嬉しい。
僕があの時救い出そうとした行動は、間違ってなかったと思える。
晴れやかな秋の空が眩しくて、少しだけ涙がにじんだ。


ラン伯の城は、百年以上も経った古いものだった。四角い四つの塔を持つ要塞で、分厚い石の城壁に囲まれていた。城門の鉄格子の下をくぐると中庭には市場以上に多くの騎士や兵隊がいた。水場で馬を洗う騎士、飼葉を運ぶ使用人らしき男たち。女中たちは木枠に布を張ったテントの下でパンを切り分け、配っている。
「今日、ここでラン伯のあいさつがある。それが終われば、出陣の時まで郊外の陣営で待機することになる。まあ、我らはたった五騎。他の隊を預かることもないだろうし、気楽なもんだ」
ロトロアは笑って、娘の差し出すワインを手に取った。
キ・ギは全員の馬を引いて水場に向かい、リシャールはすでに女中たちに取り囲まれている。ロトロアには挨拶にと寄ってきた男たちが群がり、シャルルとローレンツだけが庭の隅でもらったパンを味気なくかじる。血気盛んな騎士たちには、老人と子供は目に入らない。

シャルルはつまらない気分で足をぶらぶらさせながら、少し大きいパンの塊を一気に口に頬張る。
隣に座る老人は目を細め、どうやらロトロアを見ている。
シャルルのパンをもらい損ねたクウ・クルが隣の老人の手元に狙いを定め、パンに向かって飛びかかる。驚いたローレンツは「ぬ!」と唸ってパンを取り落とした。
それはありがたく白イタチの腹に収まる。「貴様卑怯なっ」とクウ・クル相手に顔を赤くして飛びかかろうとする老人は、すり抜けられて転がっている。
シャルルの視線に気づくと、ふん、と鼻を鳴らし尻をさすりながら再びシャルルの隣に立った。
「あのさ、『ローランの風』でローレンツはどんな役なんだ?」
「ローラン…?ああ、あの女子供が読む読み物ですな」
「うん。僕はラ・ステラって役らしいよ」
「ラ・ステラはボクですよ」
え?
振り返れば、黒髪の少年がにこにこと笑っている。
たぶん、シャルルより年下。騎士見習いらしい服装に短いマント、腰には細身の剣が差してある。
僕は短剣一つなのに、と少しばかり癪に障る。
「お久しぶりです、ローレンツ様。隣、いいかな?ボクはジャン。あの物語では主君に忠誠を誓う少年剣士なんですよ」
リシャール様と、ロトロア様がローランならっていつも話しているんですよ。そう言って少年は頬を染めて笑った。ジャンと名乗った少年は自慢げに「ロトロア様は常に三つの剣を使い分けていらっしゃる。そんなところも主人公のローランに似ているんですよ」と。
「でも、一つはナマクラなんだ」シャルルが呟くと、途端に表情を硬くした。
「そんなことないですよ」
「知らないのか?あいつは抜かないための剣を一つ持ってるんだ。家に伝わるサーベルは戦闘用、獅子紋の長剣は常用の剣。あと一つの緋色の剣は抜かない剣だ。自戒だか何だか知らないけど」その剣が何を意味するのかは教えてくれなかった。ただ、抜かないと言った。それでも常に持ち歩いている。三つもあるなら一つよこせと言ったら「百年早い」と笑いながら言われた。
「君は、何者なんです?」少年はシャルルを睨んでふんと鼻息を荒くした。
「なんで、そんな言い方するんです。ロトロア様をあいつ呼ばわりなんて、許されることじゃないですよ」
「いつも注意しておるのだがな」とついでにシャルルの頭を軽く小突いたのはローレンツだ。
「いつも?ローレンツ様、この人は?ロトロア様のなんなのですか?」
ローレンツが「シャルル、シャルル・ド・リタというんじゃ」と勝手に応える。
リタの名をつければ、年齢にそぐわない領地を持つと分かってしまう。それがシャルルは嫌だ。
「リタ?君、まだ小さいのに封を受けているんですか!?」
年下のジャンに小さいのにと言われるのもどうかと思うが、ジャンの反応は予想通り。いぶかしげに睨むからシャルルもにらみ返す。人目を気にする性格ではないけれど、説明が面倒だから知られたくなかった。ローレンツは孫ほどの歳の二人に笑いかけ無邪気な追い打ち。
「シャルルはこれでもロトロア様のセネシャルなんじゃ。ロトロア様と正式な契約を結んでおる。まあ、珍しくお気に入りなんじゃ」
「なんだか、ずるいですね」
「…気に入られているわけじゃないと思うし。契約だってロトロアが勝手にさ」
いいながら少年の「ずるい」が気になる。ずるいってなんだよ、ずるいってさ。
「もしかして君、どこかの侯爵家の方とかですか?フランドルとか、ブルターニュとか?」
それなら納得とでも言いたいのか。ますますシャルルは苛立ちを腹に抱え込む。
「僕は孤児だよ。噂ではフラ……」
ごほん、とローレンツの咳払いが遮って、背中をどんと叩かれた。
いてっけほっ!とむせて、シャルルは舌を噛みそうになる。
フランドルのことは黙っていろと?
むむ、とこちらを涼しい顔で見つめる老人を睨み返す。

「孤児でもセネシャルって、……すごいですよ。ロトロア様、どうしちゃったんでしょう」
ジャンのすごいはシャルルを褒めていない。

こいつ、なんかむかつく。
ローレンツがシャルルを認めていないのは、以前から何となくわかっていたし、それはそれでいい。けれど、無関係なこの少年にとやかく言われる筋合いはない。大体、僕が決めたんじゃない、全部ロンロンが勝手に決めたんだ。

ジャンの神経質そうな大きな瞳は黒目がちで犬のようだ。いかにも自分はきちんとしているんだ、って感じ。イタチだとか獅子だとかに例えられる、野性味あふれる僕とは正反対だ。

そういう比較に意味があるのか分からないが、シャルルはどうにも隣に座るお坊ちゃんが気に入らなくなっていた。
家系を気にし比較しようとする類いは大抵が貴族の子弟。シャルルにとってはどれも同じに見える。教会学校にもそういう子どもが何人かいた。すべて決着は付けてある。このジャンも、シャルルにとって敵だ。敵と認識するからにはいつか決着をつけるわけだし、一応、そうでない場合に備え確認しておく。

「……ジャンはなんなんだよ?マントの紋章はシャンパーニュ伯のだよね」
ジャンは笑った。予想通り誇らしげに胸をそらす。
「僕はシャンパーニュ伯ティボー四世様にお仕えしているんですよ。亡くなった父がセネシャルとしてお世話になっていましたから、僕もいずれ、セネシャルになりますよ」
少年の肩にローレンツは手を置きにこにこと笑った。
「シャルル、ジャン・ド・ジョワンヴィルは賢臣シモンの息子じゃ。代々シャンパーニュ伯のセネシャルを務める家系でな」
僕とは違うってことだ。

シャルルがかすかに目を細め心中では臨戦態勢。不意にポンと誰かに頭を叩かれた。
日差しを背にした黒髪の騎士は笑っている。
「シャルル、何をむくれている。来いよ、叔父上に紹介してやる」
ロトロアだ。
「むくれてなんか……」
「わあ!」
と。シャルルの返事はかき消され、目の前が何かでふさがれる。
濃紺のマント。シャルルと騎士の間にジャンが飛び込んだのだ。
「ロトロア様!お久しぶりです!お会いしたかった」
「お、ジャンか。お前、見るたびにでかくなるな。今日は誰のお伴だ?馬に酔う奴か、いびきのうるさい小男か?」
ジャンはぎゅうとロトロアにしがみつく。見上げる笑顔はさっきまでの利口ぶった犬とは違う。ロトロアも頬を擦り付けんばかりの少年を抱きしめ、髪をぐしゃぐしゃとなでた。
「今日は、ロトロア様!ボクが初めて伝令を任されたんですよ!」
「そうか、よかったな!お父上も自慢だな」
「はいっ!」

そうか。分かった。
犬は主人を一人だけ選ぶ。格上のロトロアには無邪気に尻尾を振って見せるわけだ。で、格下とみた僕を馬鹿にする。
「眉間のしわはなんです?シャルル」
リシャールがいつの間にか隣にいる。
不覚をとった。性癖に近い習慣で女性の体に触れるリシャールは、すかさずシャルルの肩に手をまわしていた。慌てて一歩離れるシャルルに、青年は笑う。
「あの二人。ジャンはお父上を亡くしてからロトロア様を兄のように慕っているんです。ロトロア様も兄弟はいませんし、ご両親を亡くした境遇は同じです。ああして、可愛がっています……嫉妬、ですか?」
「違う」

嫉妬したのはあいつのほうだ。腹立たしいから見るのも嫌だ。
ジャンはリシャールにもにこにこと最上級の笑みであいさつし、例の『ローランの風』の話になる。いつか、決着をつける、シャルルはそう勝手に決め込んで満足すると、無関心な絵空物語の話題など無視し、ぞろぞろと並び始めた周囲の騎士たちを眺めた。

ラン伯のセネシャルらしい髭の細い男が、前に立って何やら読み上げている。
それに応じて、騎士たちがぞろぞろとその場所へと移動し始めた。
「ルジエはどうせ、最後さ」と。キ・ギは酒臭い息を吐きながらシャルルの脇に立った。
貴族だとか、女だとか、そういうことを気にしないキ・ギが傍にいて一番気楽だ。風体もどちらかと言えばクマだし。けだもの同士、気が合うのかも。
シャルルのそれがわかるのか、クウ・クルも時々キ・ギの肩に乗る。
今も隣り合う大小の二人を行ったり来たり。


ラン伯のあいさつは簡単なものだった。
集まってくれた騎士たちにねぎらいの言葉、ランの繁栄をともに分かち合おうと、杯を掲げた。
その後シャンパーニュ伯ティボー四世からの言葉として、少年が壇上に上がった。
先ほどのジャンだ。
堂々とした風情で『フランク王国ルイ八世陛下のお隠れにより、多くの不安がこの地を覆っている。亡き国王の弟君であるブーローニュ伯はこの状況を憂い、諸侯に協力を求めておられる。我が、シャンパーニュも古くからの友人ブーローニュ伯と王国の安寧のためお力を添えることとする。ラン伯及びその所領を治める諸侯にも協力願いたい』と。まだ高い声の少年は書簡を読み上げた。
誰かが「いいぞ、ジャン!」「立派なもんだ」と声をかけ。
ジャンは嬉しそうに頬を染めて一礼すると、段を下りた。
「ジャン坊はいずれ、立派なセネシャルになるだろうよ」と、背後でキ・ギが呟き。シャルルはふんと鼻息を吐き出した。
「あれくらい僕だってできるさ、って顔してるぜ」
ぎくりとロトロアを振り返る。
「お前は何でも顔に出過ぎる。学校でも喧嘩ばかりだそうだな。素直で喜ばれるのは子供のうちだけだ。騎士として大成したければ心に刻んでおけ」
「僕は、別に」背後に居並ぶ男たちを見上げる。ロトロア、キ・ギ、リシャール、ローレンツ。どれも立派な騎士。
「騎士になりたいんだろ?」ロトロアが笑う。
「騎士は、勇敢で真摯で忠義に厚くあるべきだって、それを実践すれば喧嘩になるだけだよ。僕にぴったりだろ!」
「じゃあ、試してみるか?ほら、御前試合が始まるぜ」
「名を売って他の貴族とも契約を結ぶことが可能ですよ。シャルル、我らは個人的な趣味でロトロア様のみに忠誠を誓っていますが、ロトロア様はラン伯ではなく、シャンパーニュ伯と最上位の臣従礼を結んでおられる。より多く、より強い諸侯からのオマージュを受けることは、騎士として名誉あることです」リシャールが長い髪をさらりとかきあげた。
「…じゃあ僕は国王様と契約する!」
ぶ、とキ・ギが噴き出す。
「まだまだ、お目通りもかなわんだろうが」
「身の程知らずにも限度があることを知るべきですね」
「子供とはいえ言っていいことと悪い事がある」
三人に一斉に馬鹿にされる。
「シャルル、俺のセネシャルとして恥じない結果を残せよ」

「へ?」
ロトロアに手を引かれ、人ごみを抜ける。
広場は人垣ができている。
大男たちの脇を抜けた先で、丁度派手な音を立てて背の高い騎士が転げ落ちた。
馬は悲鳴のような声を上げ鼻息を荒くしている。
「ジョスト(馬上槍試合)だ」
勝ち名乗りをあげている大男は、これまた大きな黒馬にまたがり「俺はドーダンのマスルだ!俺にかなう奴はいるか!どうだ、挑戦者はいるか!」と怒鳴った。
「ここだ!」
と。ロトロアが手を上げる。それを見た周囲はどよめいた。
ロトロア様だ、と誰かがささやき。期待に満ちた視線が集まる。「大丈夫かマスル」と誰かが冷やかし、挑戦者を募った大男はかすかに顔をひきつらせた。
「あいつは以前、殺しかけたからな」とロトロアはシャルルに片目をつぶって見せた。
馬上槍試合はそれなりに危険を伴うのだ。
「ロトロア、出るのか?」
「いや。お前だ」
「ぼ、ぼく?」
ロトロア様!と観衆がはやし立てる中、シャルルはキ・ギが引っ張り出した馬、ロンフォルトを見て蒼くなる。競技用の装身具をまとったロンフォルトは迷惑そうにシャルルを見つめた。大丈夫なのかい、と言っているように思える。
槍の訓練はしているけれど、剣術のほうがまだ自信がある。馬にまたがったままの突きあいでは小柄なシャルルは圧倒的に不利なはず。
「リタの獅子の異名を持つ、シャルル・ド・リタだ。子供だがいずれ国王のオマージュを得ると豪語している」
ロトロアの言葉に周囲の騎士たちはおおと声を上げ、盾を鳴らす。
踏みしめる足音、石畳を槍の柄で叩くリズムが早まる。観衆の掛け声は早くやれとシャルルをせかした。
人ごみの中、広場には競技の距離を置いて二本の線が引かれている。線の間が戦場であり、外に出ている間は攻撃できない。だが、潔く、互いに向き合うのがしきたり。背を向けて逃げるような真似はしない。
馬上槍試合はブリュージュでも見たことがあった。騎士の技量を図るトーナメントや叙任式の前の祭典に催しとして行われた。
今回のこれも、出陣に備えた騎士を鼓舞する一種のお祭り。
各町から集まった、諸侯の部下たちが力比べをするのだ。盛り上がるのも当然。敗者は勝者に対し命の代わりに剣や馬、あるいはそれに代わる金品を支払わなければならない。
ロトロアの命令で出るのであれば、負けた時にはロトロアが賠償することになる。
それでロトロアは言ったのだ。俺の名に恥じない働きを、と。

「くそ、やってやるさ!」



『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑤

『Laon ‐ランの風は苦く‐』




にんまり笑うロトロアを睨みあげてシャルルは兜をつける。
キ・ギは馬にまたがるシャルルを手助けし、「いいか、間合いはお前のほうが不利、だが小柄なお前に比べて相手は大男だ。標的はでかいほうが当てやすいし、喉元より脇腹が効く。とにかく打ち合って馬上に残っていたほうが勝ちなんだぜ、よく考えろよ」とささやいてくれた。
夕方の日差しにシャルルの白銀の兜がきらりと輝く。鎖帷子はずしりと体を締め付けた。体格に合わせて甲冑は金属製でなく、シャルルのそれは革製に鉄鋲を打ったものだ。籠手と槍、左手にはロトロアの紋章、獅子が立ち上がる模様の入った盾。
立派に騎士らしいそれを付けても小柄なのは隠せない。
「坊主、気をつけろよ」
「マスル、手加減してやれよ」と周囲の揶揄が飛ぶ。

大男マスルと対面し、槍を軽く合わせてから、互いに距離をとった。
大男は余裕で「吹っ飛ばしてやるぜ」と笑った。


槍を持つ手がしびれているような気がする。
練習ではリシャール相手に好き放題飛び込んでいける。リシャールは強いし、狙っていいところ悪いところをわきまえてる。でも、この相手は違う。あいつに力いっぱい喉を突かれたら、いくら競技用で先端を丸めてあったとしても命の保証はない。落馬するだけでも、足の一つくらいは折れるだろう。
確かにキ・ギの言うとおり、大男の兜で覆われた喉元を突いて落とすのは難しそうだった。シャルルがどう努力しても腕力はかなわない。
僕のほうが身軽、小さい。
一撃目をかわして懐に入るか。

それしか、ないか。

喉がひりつく。
二つの騎馬が十分な距離をとったときには、シャルルの耳に周囲の声は聞こえていない。
集中し、じっと菫色の瞳で敵を見据える。

ふん、と。相手の息遣いが聞こえた気がする。その瞬間。
「はっ!」
同時だった。
馬はシャルルの動きに見事に反応し駆けだす。
ロンフォルトの歩調が呼吸と合う。シャルルはまっすぐ槍を構えた。
ぎらと陽光が男の兜を右から照らす。互いに右利き。無意識に槍をもつ右側で相対する。

大男の長い腕、太い槍が先にシャルルを狙い定め。
切っ先は喉を狙う。
当たった、と思っただろう。それほどに男は軽々と槍を操り、慣れた槍さばきで敵を突いて来た。
その一瞬の表情の緩みは、すぐに緊張を取り戻す。
小柄な挑戦者は馬の右肩に体を傾け、その左に持つ盾がぎらりと陽光を反射した。
「うぬ」
男が瞬きしたと同時にばりっと衝撃が走った。
何だったのか。観衆のどよめきが男の背中に届いた。馬はすれ違ったのち、戦場の端まで来ると反転した。周囲を囲む人垣は口を開けて男を見上げていた。
ぶる、と首を振る黒馬。
大男は気付いた。
男の持つ槍が中ほどで折れていた。

「何?」
小柄なシャルルも今、馬を反転させた。その拍子にがらん、と。盾と左の籠手の間から、挟まっていた槍の先端が転がり落ちた。
シャルルは自分が馬から身を乗り出す勢いと、男が繰り出す力を利用して左手の盾と籠手の間にはさみひねった。
長槍のもっとももろい部分。木製の柄の中ほどで先を失っていた。
だがシャルルも無事ではない。勢いで革の留め具がちぎれ、足元に獅子の盾が転がった。
ふん、と大男は笑う。
「こざかしい事をするから盾を失う」

シャルルは笑った。
「敵に武器がないのに盾はいらない」
襟元からはみ出し、風になびく髪は金色。兜で目元は暗がりに沈むが、口元は緩やかに笑っていた。
これで距離の不利はなくなった。男の懐に飛び込めるのだ。
「盾も柄も、手にしたものすべてが武器だぞ、小僧!」
怒鳴るなり、マスルは黒馬の腹を蹴った。

シャルルは長槍を構え。男は盾を使うために左合わせで突き進む。シャルルの突きを予想し男は残った槍の柄を真横に持った。近づいて横からシャルルを突き倒そうというのだ。長槍は至近距離に弱い。一回の突きをよけて懐に入ればそれは有効。マスルが狙ったのはそこだ。
しかし。同じ瞬間をシャルルも待っていた。
男が盾でシャルルを殴りつけようと寄せた瞬間、シャルルはくるりと槍を持ち替えた。
とん、とシャルルの槍が地を突き。少年の気配が消える。

がくん、と派手な衝撃を背後に受け、すでに左に身を寄せていた男は前のめりに崩れかける。重い盾で片腕がふさがり、槍の柄を持つ右手だけで持ち応えようとするが。馬が頭をもたげ右足が地を蹴る振動、それはわずかな可能性を消し。男はずるりと手綱を手放した。
どしん、と全身を打つ衝撃は周囲のどよめきと同時だった。

砂ぼこりの中、大男が肩を押さえ身を起こす。

シャルルは足踏みするロンフォルトにまたがり、地に差した長槍を抜いたところだ。
「なにが、あったんだ!?」
頭を振りながら兜を脱いだ男を、背後にいた騎士が助け起こした。
「猫みたいな奴だ、地に差した長槍を軸に馬から飛び出してぐるりとな。回転しながらあんたの背中にひざ蹴りを入れたんだ」
「いや、あれは軽業師のような」
「見たことがないぜ」
「単純なようでいて、身軽さを生かすために、あの盾はわざと捨てたんだ。マスル、お前との間合いを有利に持っていくことも含め、全部計算ずくだ」
物知りげに語る男があごに手を当てて分析すると、周囲はおお、と改めてシャルルを見つめた。
「末恐ろしいぞ、さすがはロトロア様の従者だ」
歓声の中、槍を持つ手を掲げ応えると、シャルルは兜を脱いだ。
ふわりと金髪が広がる。
汗に乱れた髪は獅子のように印象的な顔を縁取り、「獅子の子だ」と誰かが叫ぶ。
「リオン・ド・リタ!」
リオン、リオン。
ロンフォルトとともにぐるりと巡って、歓声に応えると、キ・ギがロンフォルトを押さえた。シャルルは槍と手綱を渡し、馬から降りた。

地に足をつけると、シャルルはよろめく。
「おいおい、しっかりしろよ」支え、笑いながら。ロトロアはシャルルを立たせる。右腕をとり、高く掲げた。
おおー。
「我がセネシャルにして、幼き獅子、シャルルだ」ロトロアが宣言する。
歓声に包まれ、シャルルは目を輝かせた。
怖かった、だけど。
僕は、勝ったんだ。
「騎士の誉れを、この子供に与えてよいか」
ロトロアの言葉におお、と叫ぶ騎士たち。その間をぬけ、白髪、黒い鋼を身に付けた騎士が姿を現した。周囲が道を譲り、ラン伯はロトロアとシャルルの前に立った。
「我が名のもとに認めよう。ロトロア、勇敢な獅子を育てたな」
シャルルは胸を張って、笑った。認めるってつまり、騎士の叙任をしてもらえるっていうことだ!
「わしに仕えるか」
風が止んだように取り巻いていたざわめきが消える。
ラン伯だった。
ロトロアとラン伯の確執を知らないものはない。
たった今、ロトロアが我がセネシャルだと宣言し、幼いながらもその実力を認めさせたばかり。それを奪い取るように周囲には感じられた。シャルルの肩に置かれたロトロアの手に、わずかに力がこもった。
「僕は」
シャルルはにっこりと笑って見せる。
「僕はいずれ、国王陛下のオマージュを受けます!」
く、と。
笑ったのはロトロア。
ラン伯は苦い表情を白いひげの下にかろうじて隠し、「まだ子供じゃな」と苛立った息を吐いた。



シロンの店、とは酒場のことだった。香ばしい肉の焼ける匂いと、ワインの甘い香り。シャルルは初めて入る酒場でテーブルを前に座っていた。周りの大人たちは酒が入り、大声で歌ったり怒鳴ったり。煩いことこの上ないが、シャルルも「お前、すごかったな」とか、「立派な騎士だな」とほめられるから悪い気はしない。出された羊肉のローストも美味しい。ここしばらく馬での旅で、ろくなものを食べていなかったから余計に美味しい。自分のナイフ使いの問題はさておいてシャルルは夢中で肉にかぶりつく。
隣に座るリシャールは、カウンターの前に立ち店主や他の客たちと話をしているロトロアを遠目に眺めつつ、またワインの杯を空ける。

「ロトロアって、人気者だね」
「ええ、皆知っています。ランの街の基礎を築いたロトロア様のお父上は皆に慕われていました。いち早く商工業者での組合を作り、ともに街の発展を担ってきた方です。気さくな方でこのシロンの店にも幼いロトロア様を連れて遊びに来られていました。現在のラン伯は商売に疎い方で先代を懐かしむ人も多い。ですからラン伯はロトロア様を警戒し、ことあるごとにけん制するのです」
「ふうん。……じゃあ、あの。僕がラン伯のオマージュを断ったの、まずかった?」
シャルルはフォークに刺した肉で皿のソースをぐりぐりとなでていた。話しながら食べるときの癖のようなものだ。リシャールはそれが嫌いで今もぐるぐる回るシャルルの手をひたと押さえ。
「おや、多少は気にしていたんですね」
「それはさ、わかるよ。あれだけ周りがピリピリしてたら。でも、あれ以外に僕はやり様がないと思ってさ」と置かれた青年の手をぺちぺちと叩いて肉を口に運ぶ。
二人がともに食事をするというのはテーブルが戦場に変わるということなのだ。
「そうですね。頷けばロトロア様を裏切ることになりますし、はっきり断れば角が立つ。子供らしくごまかしたのは正解でした。単純なばかりと思えば、あの槍試合もなかなか巧妙でしたし。少し見直しましたよ」やはり指導者がいいんですね、とシャルルのマナーを気にするのを諦めたのか、結局自分をほめているリシャールは色には出なくとも酔っているのだろう。
「だが、あれは無理があっただろう」
ぐんと頭を押さえられ、見上げればロトロアが少し赤くなった顔で笑っている。シャルルを挟んでリシャールの反対側に座った。
「身軽なお前だからできたが、ロンフォルトが機転を利かせとどまらなければ落馬していたし、そのつもりではなかっただろうが、手綱を放してしまっていた。まあ、震えるほど怖かっただろうに、頑張ったのは認めてやる」
「なんだ、シャルル、怖かったのか?」キ・ギがすかさずからかう。
「う、うるさいな!」
「いやいや、ロトロア様。シャルルにはやはりまだ早かったと思いますぞ」
黙って食べていたローレンツも、そこは同情してくれた。怖くないわけがない、相手は大男だったし。いきなりの実戦だったんだから。
「そうだよ、強引なんだ」ロンロンは、とシャルルは最後の肉を口に突っ込んだ。
「そうか?だれも、断ってはいけないと言っていないが?」
ええ?
目を向いたシャルルを見て、リシャールが噴き出した。
「シャルル、戦場ならば命がけです。不名誉を覚悟で退くことも重要ですよ。受けて立つなら自らに責があり、今更文句を言うくらいなら受けなければよかったのです」
「なんだよ、それ!」
「騎士として戦いを受けたのなら、愚痴はこぼすべきじゃない。まあ、震えているお前も可愛くていいが」けらけらとロトロアに笑われ。
シャルルは我慢できずに「このー!」とフォークを握ったまま殴りかかる。
「お前、危ないだろ、馬鹿だな」
「うるさいっ」
じゃれあう二人を眺めながら、キ・ギがぽつりとつぶやいた。その髭にはやっぱりワインがこぼれている。
「なんだかんだ言っても、ロトロア様はシャルルを可愛がっておられるな」
「ふん。ああでもしなければ、あの年でセネシャルなど誰も認めはせん。しかも女。特にこの領内では人気の高いロトロア様のこと、周囲の嫉妬を避けようとのお考えじゃ」とローレンツは眉を寄せ。
「不器用なんですよ、面白いからいいじゃないですか。あれでいてシャルルはなかなか、女性としても魅力的ですよ」と笑うのはリシャール。実は先日…と。不器用なまま終わったあの晩の不名誉な話は、こっそりとセネシャルたちの酒の肴にされている。
そんなことも知らず、シャルルはワインを飲ませようとするロトロアに蹴りを入れた。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑥

『Laon ‐ランの風は苦く‐』




翌日。
シャルルとキ・ギを残してロトロアたち三人はラン伯の城へ向かった。
わざわざジャンがシロンの店までロトロアを迎えに来たのを、シャルルは「むかつく」と睨んでいたが、ロトロアに「戻るまで自由に市街を見物していい」といわれると機嫌を直した。雨雲を抱える寒い朝だったが、ぶつぶついうキ・ギを引っ張り、シャルルは昨日気になっていた市場へ繰り出す。

「僕はさ、まだ自分の剣がないんだ。買ってもらうんだ。だから、好きなのを選んでおこうと思ってさ」
「ロトロア様がそうしろとおっしゃったのか?」
「違うけどー、そうさせる」
「お前、ローレンツがいたら怒鳴られてるぞ」
呆れる大男に「そんなの気にしないからさ」とにっこり笑うリタの獅子はどこまでも不遜だ。剣や槍、盾をずらりと並べた店先で、指をくわえんばかりにあっちこっちと見とれている。
「まあ、血が騒ぐのもわかるがな」とキ・ギはずらりと並ぶ剣を眺めた。
木製の彫り物を柄にした方刃の短剣を一つ一つ、抜いては陽にかざす姿を目にとめて、商人が声をかける。
「若旦那、そりゃあ、いい手の作だよ。鍛冶も磨ぎも柄も、全部一人でやる職人でね。刀身と柄の重心をきっちり計算してある。フランドルでもなかなか手に入らない品物だ。安くしておくよ、どうだい」
うーむ。と一人前に顎に手を当て、声に出して唸ると、シャルルはふいとそれを振り下ろす。
「わ」と商人が一歩下がる。
「あ、ごめん。もう少し細身のがいいな。こういうのはもうあるから、もう少し、長くて細くて。ロトロアの獅子紋の剣みたいなのがいい」
「おいおい、シャルル、ありゃお前には無理だぜ」キ・ギが笑い。
商人はキ・ギとシャルルを見比べ、頭をかいた。
「ロトロア様の従者の方ですか。キ・ギさんの言う通りで。ロトロア様の品は、全部注文で鍛えられたもんです。鉄鉱石の産地まで指定されたものですよ」
「じゃあ、僕もそれがいい!」
「だから、お前。これから背が伸びるだろう?力も体力も変わる。今はまだ、成長の途中だろうが。良い剣というのは使う人間の力を補うものだぜ。そのためにはまず、己の力量や癖を知り、鍛冶の知識も持ち、それで初めて何をどうしたいのか注文をつけられる」
商人がうんうんと頷く。
「そうですよ、騎士見習いの方。鍛冶師も認めた人間の言うことしか聞きませんや。有名な職人になればなるほど、注文で鍛えてくれるのは稀でさ」
「そうだぜ、シャルル。重さ、長さ、重心、柄の形状、鋼の硬度や粘度。鍛冶師と対等にそう言った話ができなきゃ、相手にされない。諦めて、適当なのにしておけ。ロトロア様と同等など、土台無理な話だぜ」
「…じゃあ、今度にする。僕もいずれ、作ってもらう!」
「あのな」
「そのための見習いだからさ。いつかロトロアみたいになる」
ふうん、と見下ろしたキ・ギはにやにやと笑っていた。
「なんだよ?」
「いや、お前も可愛いところあるよな。ロトロア様に憧れてるんだろう」
「は!?違うよ!ロトロアみたいに剣を作るって話!」
「いい、いい。それは皆同じだ。いいか、シャルル」
キ・ギのロトロア自慢が始まる。それは、毎度のことだからシャルルは聞きあきたよと言いながら、先に歩きだす。
リシャールも、キ・ギも。お年寄りのローレンツはもちろん、みんなロトロアのことを褒めるんだ。
溜息を吐き、面倒だからキ・ギを置いて行こうかと足を速める。
昼はまだ先だが、屋台に並ぶ焼き鳥の匂いにシャルルの体は欲望のままそちらに向かう。網の舞台の上、炙られた肉は美味しそうな魔法の一滴を滴らせ。赤い炭は「じゅうっ」と歓声をあげて。だから鶏は美味しくなる。うん。
「おじさん、それ、三本ちょうだい!」
「へい、どうぞ、焼きたてが二本、あと一つはちょいと待てくれよ」
「うん」言いながら、硬貨を渡すとシャルルは置かれていた二本を両手で一つずつ持ち、交互に炭の恩恵に預かる。歓声を上げる。
「美味しい!」
「ああブリュージュから荷揚げされたもんだ。カレスの街も運河はあるが、やっぱり北のほうが羊にしろ鶏にしろいいものが入る」
「ブリュージュは入港料も安いしね」
「おや、詳しいね」
「住んでるんだ。フランドルの港町であそこが一番賑わってるんだよ。バイイ(地方代官)があちこちの商工業組合を誘致しているから、取引所がたくさんあってさ。ロトロアもルジエの商工業組合のために運河に近い一等地に一区画買い取ったんだってさ。それで、組合に貸して、代わりに保護してる。裁判沙汰とかになったら、バイイと交渉したり、いろいろやるんだ」
男は目を丸くし、それから顔をしわくちゃにして笑った。
「なんだ、おめえさん、ロトロア様の知り合いかい?」
「シャルル、ってんだろ。昨日、槍試合みてたぜ」と、大柄の騎士が硬貨を置きながら声をかけた。丁度焼きあがった五本を片手でがっしりと掴みとった。
「あ、それ、僕のだよ!」
「おお?小さい事は気にしないもんだろ、セネシャル様なんだろ?」
にやりと笑う。
「セネシャル?この子がかい?」店主も目を丸くし、シャルルはそんなことどうでもいいから僕にあと一本くれと手を差し出す。
「どうせ貴族様のおぼっちゃまだろ。槍試合は見事だったけどなぁ」酒臭い息をして酔っている様子の男は、赤ら顔をさらに赤くして大声で笑う。
その口に五串全部、突っ込んだ。
「ああ!」
「こんな可愛い顔してるんだ、そりゃあロトロア様も血迷うぜ。女なら俺だってあやかりたいってもんだ」
へらへらと笑う突き出た腹を睨み、シャルルは手にした串を握り締める。
「おい、シャルル、お前迷子になったかと…」追いついたキ・ギが丁度駆け寄り。
「騎士の旦那、あの、それはまずいんじゃ……」店主がまあまあ、とシャルルをなだめようとする。
駆け付けたキ・ギの姿を見ると騎士は口をもごもごさせたまま、慌てて一歩下がる。手は剣を探してもぞもぞと。その直後、男はひっくり返った。

「お?」
キ・ギが口を開くまでもなく。
男を投げ倒したシャルルは手にした串を男の喉元にあてていた。
「僕の鳥、かえせ!」
「うぐぐ」串をくわえたままだった男は、目を白黒させている。何が起こったのか分かっていない。ぐうと何か唸ってシャルルを振り払うと、起き上りざまに抜いた剣を振り回す。
それはしっかり空を切り。ごん、と鈍い音とともに男の剣が蹴り飛ばされた。すっ飛んだそれはグルンと回って地面に突き刺さる。
「うぉ、お前」
唸る男に、キ・ギは呆れた顔で肩をすくめ、屋台の店主に「俺に五本、くれ」と注文する。
「あ、あの。旦那、あの坊やは大丈夫で?」
「男の方が心配だが。まあいい。ロトロア様を侮辱したんだ。それ相応の報復は覚悟してもらうさ」
ふ、と笑いだし。なんだかんだいって、あいつは懐いているんだよなぁと独り言。
背後でシャルルが「なんか言えよ!串刺しにされたいのか!」と怒鳴るのを聞き、さらに噴き出す。苦しそうに腹を抱えて笑いだす。
見物人に囲まれた男とシャルルの喧嘩は、一方的だった。男が立ち上がったところをシャルルは腕を掴み投げつける。「畜生」と唸りながらシャルルの足に掴みかかるそれも、身軽なシャルルはふわりと飛び。ついでに男の肩を足場代わりにする。
飛びあがり宙で振り向きざまに放つ蹴り。踵が男の顎に入り。
決着はあっという間だ。


「まだ、というか。シャルル。お前に剣はいらんだろう」
鳥が焼きあがる頃には、何事もなかったかのようにシャルルはキ・ギの隣に座る。ちゃっかりキ・ギが頼んだ焼き鳥を半分もらい、上機嫌だ。
「何かすっきりした」
「腹が減っていただけだろ」
「かもね」
店主がサービスだと麦酒を出すからキ・ギも上機嫌。
シャルルは葡萄のジュースをもらい、少し早い昼食と決め込んだ。

「槍試合も素晴らしかったけれど。獅子の子の意味が分かるわね」
ふわりと。甘い香りが周囲を取り巻き、シャルルはむ、と飲み込み損ねた鶏肉にむせた。
二人が振り返れば、修道女が一人。
槍試合を褒める辺り、聖職者とは思えないと、シャルルは座ったまま睨みつける。
聖職者は騎士が行う試合や決闘を忌み嫌っていた。シャルルが育ったラエルの修道院でも、剣や槍等の武器は侮蔑の対象だった。だから、シャルルは武器を使わない拳法を身につけていた。
「あんた、誰?どこの修道院だよ?」
シャルルが無遠慮に問いかければ、修道女は「あはは、坊や可愛いわねぇ」とかぶっていたフードを背に回す。その手先にはきらきらと石をつなげた飾り物が揺れる。白い細い指先を追って視線を下ろせば、ふわと広がった赤毛がくるくると胸まで落ちる。高い位置で一つに結ったそれは細く白い首と綺麗な耳をむき出しにして、彩る。にっこりと、笑いかけた女は二十歳前後の。
「あ、あ」とキ・ギが言葉を詰まらせるほど、美人だった。
赤毛はこの地方では珍しく、シャルルはじっとそれを見ていた。目が会えば、女はにっこりと笑い、「ロトロア様のセネシャルって、ほんと?」と首を傾げてみせる。ぱちぱちと瞬きしてみせる重そうな睫、その上目遣いが小悪魔的に美しく、多分男なら呆然となるんだろう。大体、コートは修道女のものだけど、下に着ている服は溢れそうな胸を強調して、とても聖職者とは思えない。腰に短剣もあるじゃないか!
シャルルは肩をすくめて見せた。
「騎士見習いだけどセネシャル。子供だけどセネシャル。何が悪い」
ジャンといい、槍試合での反響といい、いい加減面倒になっていた。
「あら、拗ねちゃったの?」
「子ども扱いするな!串刺しにするぞ!」丁度、肉は胃の中で。手には裸の串が一本。それを女に向けてみる。
「あはは!可愛いっ!君になら串刺しにされたいなぁ、シャルルくん」
どういう意味だ、それ。
いつの間にかキ・ギとの間に座り込み、女はシャルルの肩に手を廻している。
「ねえ、まだ経験ないんでしょ?串刺し」
「はぁ?」
ごほん、ごほん、と派手な咳払いでキ・ギが女の注意を引いた。顔が真っ赤だ。
今のうち、とばかりにシャルルは立ち上がる。
女が伸ばした手をさらりと避けて、「キ・ギ、僕先に帰ってる!」と。キ・ギに女性を押し付けて、いや、女性にキ・ギを押し付けて。シャルルは市場の散策を決め込んだ。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑦

『Laon ‐ランの風は苦く‐』




その頃。
ロトロアはラン伯のセネシャルたちと参集した諸侯、ジャンも並ぶ円卓に席を連ねていた。
「ロトロア様、昨日は面白いものを見せていただきました」セネシャルの一人が笑う。
「あれは、ランスの修道院で育ちましてね。東方の格闘技術を会得しているんですよ。それで獣の子のように身軽なんです。リタを与え、騎士見習いとして傍に置いています」
「見栄えもいい、宮廷はそういうことも気にするというから、国王陛下にお仕えするというのも遠い話ではないかもしれんな」諸侯の一人が笑った。
数人が頷き、それに揺らされた熱い茶の湯気が円卓の陽だまりを横切る。
とん、と音を立てて杯が置かれた。手につけた多くの宝石、指輪がギラリと光る。ラン伯だ。
「今の宮廷が、そのままであれば、の話だろうが」
物騒な自分の台詞に悦に入ったのかにやにやと笑い。
「そうだろう?ジャン」と返事に窮するのを期待して少年に話を振った。
ジャンは問いかけたラン伯ではなく、ロトロアをまっすぐ見つめた。
「シャンパーニュ伯はあくまでもブーローニュ伯にご協力差し上げる約束をなさったに過ぎません。ブーローニュ伯は戴冠式の時期に合わせて、ブルターニュ公、マルシェ伯、サン=ポール伯等の諸侯をコルベイユに呼ぶおつもりです」
「では、シャンパーニュ伯もそこにおいでか」
ロトロアの問いに、ジャンは頷いた。
「ですから、ここには僕が使わされました。ブーローニュ伯の目的がどの程度のものなのか、見極めてから改めて、ラン伯様をはじめとした皆さまにご下命があります」
「例のルイ八世の死因について、追及はなされるのか」
「追及はありませんでしたが、ティボー四世・シャンパーニュ伯は戴冠式への出席を宮廷に拒絶されました。遠慮するように、とのご下命でした」
ざわ、と。
総勢11名の騎士たちは互いに見合わせた。
ロトロアは手元のワインを一口。その酸味にかすかに眉を寄せてから、改めて一気に飲み干した。
「ジャン。もしや」
「はい。ロトロア様。シャンパーニュ伯はこの戴冠式の時期にコルベイユへ向かうに当たり、貴方様のご同行を願っておられます」
ふん、と。息を吐き出したのはラン伯。
「我らは不要か、ジャン?」
今度こそ言葉に窮してジャンは何度も瞬きをしてうつむいた。伝令のジャンに当たっても仕方ないのは分かっているだろうに。ロトロアが引き受ける。
「叔父上。コルベイユでの会議がどのようになるにしろ、貴方にはランスに近いこの街にとどまっていただくのが最も有効とのことでしょう。戴冠式はランスで行われますし、ラン領内の諸侯を束ねておけるのは貴方だけですから。シャンパーニュ伯の護衛は私が行ってまいります」
「五騎もいらんだろう。二騎はランに残せ。わしが面倒を見てやる」
ラン伯の攻撃はここぞとばかりに甥のロトロアに向かう。ごくりと誰かが無理やり茶を飲み込み、諸侯は二人を見守る。
静まり返った席上、ロトロアはしばし間を置く。沈黙を破ったのは少年の高い声だ。
「シャンパーニュ伯の求めは、ロトロア様お一人でも構わないとのことです。役に立たない見習い騎士は不要ですよ」
ジャンがにっこりと笑う。
「そうだな、獅子の子は預かろう」と同調し、ラン伯も満足そうにあごひげをなでた。
人質かと。
ロトロアはラン伯を睨む。
「いいでしょう。リシャールとシャルルを残します。ジャン、お前はここに残るのだろう、よろしく頼むな」
「私も途中までご一緒に……」
ジャンは言いかけ、言葉を飲み込んだ。ロトロアの目は決して笑っていなかった。
「お前には伝令の使命があるはずだ。ランスの様子も確認するんだろう?」
「……はい」

会議後の昼食は味気ないもので、ロトロアはさっさと食べるだけ食べると出立の準備があると席を立った。
諸侯は残念がったが、「二人をお願いします」とロトロアに頭を下げられ、ラン伯の同席するなか数人の諸侯が強くうなずいた。彼らはその意味するところを十分理解していた。
ただでさえ少人数しか伴えず、たった五人の従者。それを人質のように二人残せと命じられれば、不安もある。
気懸りを残したまま、さらに困難な場所への旅は、ロトロアから持ち前の笑顔を奪っている。ラン伯の嫌味など笑顔で流せるが、この状況は厳しい。
親しい諸侯の数人が、ロトロアを扉まで見送り「有事の際にはお守りする覚悟です。どうぞ、ロトロア様は心置きなくコルベイユへ」と勇気づけた。


主人を待つセネシャルたちの集まるサロンにロトロアが顔を出すと、リシャールが駆け寄る。
「お早いですね」
リシャールは口調とは裏腹に、いつロトロアが戻ってもいいようにと、食事も酒もとっていなかった様子。この親友は、ロトロアにとってラン伯と同席することが何を意味するのか分かっているのだ。ロトロアの表情が和らいだ。

「何かあったのですかな」
ローレンツも口に運びかけた肉を戻し、席を立ち出迎える。
「俺はシャンパーニュ伯と共にコルベイユへ向かうことになった。ローレンツ、キ・ギと来てもらう」
「…私は」
「リシャール。ラン伯が、この地に二人残せとおおせだ。悪いがシャルルを頼む」
「……ええ」
リシャールはほほ笑む。その落ち着いた表情に苛立っていたロトロアも安堵する。リシャールならば、シャルルを任せても大丈夫だろう。
「何事ですか!コルベイユはパリより南、ここからさらに五日はかかりますぞ」
しわがれた声を恥かしいくらい張り上げるローレンツ。そのタイミングはロトロアを冷静にさせる。青年は笑顔を浮かべた。
「大きな声を出すな。ローレンツ。話は後だ。とにかく宿に戻り準備だ」



宿の部屋は、なぜか甘い香りでいっぱいになっていた。
「シャルル、なんだこれは!」鼻を押さえるロトロア、リシャールは「いい香りですね」とくんくんと息を吸いこんでいる。
シャルルは着替えたのか軽装で、室内のいすに座っていた。束ねた髪が肩にかかるのも気にならない様子で、テーブルに伸ばした自分の手に顎を乗せてぐったりしている。
「どうした?キ・ギは?」
「臭い女のとこ」
「は?」
「市場に行ったんだけどさ、変な修道女と一緒にいたいみたいで置いてきた。絶対あれ、惚れちゃったんだ。顔が真っ赤だったし。それがさぁ、派手な女で香水臭くて、しかもなれなれしくべたべたと触るもんだから」
「それが、この匂いですか」
「そう、臭いだろ?もう、ぐったりだよ。着替えたのに臭くてさ、何食べても同じに思えるし、最悪」
「で、キ・ギは?」
「市場だよ。その修道女と一緒じゃないかな。僕もホントは市場にいたかったんだけどさ」
この匂いが染みついて、とてもじゃないけど外歩けないよ、ものすごく注目されるんだからさ、とシャルルは口を尖らせる。注目される理由が香りだけとはロトロアには思えないが。

「クウ・クルも嫌がって近づかないんだ」
「はあ」と。ロトロアはため息をつく。
「私がキ・ギを連れてきます。ロトロア様、どうぞ、ご準備を」
「ああ。リシャール、間違ってもキ・ギの女に手を出すなよ」
「さて、それは相手次第です。ロトロア様のご帰還を待つ間、丁度よい余興になります」
こういうときほど美青年騎士の笑顔が輝くときはない。リシャールが銀の髪をなびかせるのを、そこにいた全員がため息混じりに見送った。
「シャルル、あきらめろ。ここには我が家のような湯はない。ローレンツは馬を頼む」


シャルルが「水浴びたい~」「臭いよ~」と一人ベッドで唸っている間、ロトロアは荷物をまとめ始める。
「お腹すいたのに食べたくないし!クウ・クルに嫌われたし」
「鼻をつまんで食べればいいだろう」
「味しなくなっちゃうだろ!」
「…好きにしろ」
ロトロアはひらひらした絹の上着を脱いだ。
旅用の軽装に着替える。逞しく鍛えられた背中に、シャルルはつい視線を奪われる。
「……ロトロア、何してるんだ?」
「見てわかるだろう」
「どっかいくの?」
「ああ」
「ふうん。行ってらっしゃい」
「…ああ」

シャルルのほうを振り返りもせず、ロトロアはマントを手にとり、剣の皮紐を結びなおす。
通常のものより少し細身で刀身の長い剣を好む。ロトロアは剣の名手だと聞いたが、その実践はあのランスで見た以外はない。もっぱらシャルルに指導するのはリシャールだ。
剣の一突きで人を死に至らせる。簡単に聞こえるが、余程の技量がなければできないことだ。シャルルの力では、まだ、藁人形を突き通すのがせいぜい。
ロトロアくらい鍛えていれば、あっという間に人を殺す。
そう、ランスでも。
思い出せば、恐ろしい気持ちだけが胃を重くさせる。ただ、今その手にする剣は複雑な獅子の彫り物の施された立派なもので、窓の向こうの街並みを背景にきらきらと美しい。獅子紋の剣と呼んでいるものだ。
やっぱりキ・ギが言うとおり、見て回った市場のどの店のものより立派だ。普段それを見慣れているから、市場の武器はどれも物足りなく思えた。
剣に見とれ。
その手さばきに見とれ。
シャルルは枕を抱きかかえ、それに頬を預ける。

「剣が欲しいか」
シャルルは慌てて起き上った。
「うん、ほしい!」
「ならば、これを預ける」
それは。
青年の掲げたそれは金色の牙をこちらに向ける獅子。大切な剣。
「あの、だって、これ。ロトロアの」
「俺は他にもある。預けるから、きっちり返せ」
「なんだ、くれるわけじゃないんだ。ケチ」
顔をしかめる少女に、ロトロアは笑いもせず見つめ返す。
「しばらく会えん。このランで何が始まるかは、まだわからん。リシャールを残すから、言うことをよく聞けよ」
「……じゃあ、じゃあさ!僕が活躍したら、これもらっていい?」
何の活躍だ、と。いつもなら馬鹿にしたように言う、はず。
「ああ」
そう言うなり、ロトロアは視線をそらし、立ち上がると荷物をまとめる。
「…もう、すぐ、行くの?」
「ああ」
「…ふうん」

「必ず、帰る」
「うん」
「待ってろ」
「うん」
シャルルは枕と一緒に剣をギュッと抱きしめた。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑧

『Laon ‐ランの風は苦く‐』




その晩のシロンでの夕食はリシャールと二人きり。機嫌を直したクウ・クルも入れてやっと三人。リシャールは酔っても酔わなくても大騒ぎしたりする方じゃない。昨夜の賑やかさに比べ、随分さびしいとシャルルは感じていた。
結局、ロトロアにどこに何をしに行くのか、いつ帰るのか、聞けなかった。
聞いてもよかったんじゃないか、と今は思うけれど。
ふん、と羊肉にナイフを突き刺し、何となく腹立たしい気分を紛らわす。
「シャルル、敵じゃないんですよ?ハムと言い、肉と言い。剣さばきも下手ならナイフも下手ですか」
リシャールの口調が嫌味に受け取れるのは、気のせいかもしれない。
「いいんだよ、どうせ食べるんだ」
「同席する人の気分が悪いでしょう?マナーが問われますよ」
「同席って言ってもリシャールだけじゃん」
「…」
無言に青年の怒りを感じ、シャルルは言い過ぎたかと顔をあげた。
噛み切れていない肉をもごもごさせているのだから、申し訳も何もないが。
「ロトロア様がいないとさびしいですか」

ぐさ、と。罪のないジャガイモはナイフの餌食。
「意味分かんない」
「八つ当たりは御免ですよ。私もお前なんかより、ロトロア様と同行したかった」
「行けばいいだろ」
「思慮の足りない子供とは違いますよ。主君の命は絶対です」
「足りない子供ってなんだよ」
「お前のことです。他に誰かいますか」
「八つ当たりしてるの、そっちだろ!僕がここにいてほしいって言ったわけじゃないし、ここに残されたかったわけでもないよ!」
「…ほら、やっぱりロトロア様と一緒にいたかったんでしょう」
「違うよ!」
「恋する乙女は我を見失うものです」
「ふざけるな!」
「お前こそ、いい加減にしなさい」

冷たい怒りを放つ青年に、シャルルはついに立ち上がる。
手にはナイフ。フォークはジャガイモを今振り落とし臨戦態勢。クウ・クルも察したのか、シャルルの肩に乗って威嚇する。

「恋する乙女って誰のことですか?」
戦士は二人、同時に振り返る。そこにちゃっかり座っているジャンを見つけた。
テーブルの戦場に一人、肘をついて二人を眺める。仲裁になるか、野次馬を決め込むのか。
「ジャン、貴方は……」
「僕も今夜はここに泊まろうかと思います」
と、にっこり完璧な笑顔。
「え?」

そんなはずはないのだと二人には分かるが、少年は「はい。ロトロア様にお願いされたんですよ」と。ぺろりと嘘をつく。
否定する材料を頭の中でこねているシャルルに、「これ、可愛いですね」とジャンはクウ・クルに手を伸ばす。
ふん、とすり抜け白イタチはシャルルの肩の反対側へと移動する。
「白イタチだよ。僕の友達」
そこでぷ、とジャンが噴き出した。

今の笑いはなんだ。
「僕以外にはなつかないから、下手に手を出すと噛まれるぞ」
「ふうん。リシャール様、いいでしょう?僕は一人ですし、ラン伯のお城よりこっちのが楽しそうですよ」
尋ねておいてシャルルの台詞のほとんどを無視する。ジャンはリシャールの隣にすり寄った。
「ええ、いいですよ。盛りの猫みたいな誰かとは違いますから。落ち着いて食事ができそうです」
「へえ、なるほど、テーブルはひどい有様ですよね。さすが孤児」
シャルルはむっとしたまま、立ちあがるが。リシャールの手ががっしりと手首を捕まえていた。
「落ち着きのない子供は嫌いです。今食べなければ、食事はなしです」
「…」くそ~。
『ローランの風』マニア同士。気が合う二人。
長い銀の髪をさらりと揺らす美青年と、黒髪の小生意気な瞳をくるくるさせるジャン。
どうぞ、二人で宮廷風気障な騎士の恋愛物語でも大いに語り合ってくれ。リシャールも香水臭くてちょうどいい。
シャルルは話すこともなく、二人を無視してどんどん食べる。
アヒルの肉と豆を一緒に煮込んだ料理も、クレープに卵とハムを乗せて焼いたものも。パンも、ニンジンのスープも。どんどん食べる。
そして、食べ過ぎる。


「苦しい…」
部屋に戻ると、一人先にベッドにごろんと横になった。
「卑しく何でもかんでも食べようとするからです」
リシャールの嫌味も聞き流す。
確かに少し食べすぎなのだ。
眼を閉じ、静かにじっとして腹が落ち着くのを待った。

「シャルル?」
無視だよ、リシャールなんか。女剣士ミンヌはローランに夢中だ。
「もう寝ちゃったんですか?すごいですね」
なにがすごいんだよ、ジャン坊や。ラ・ステラの座はめでたくお前のものだ。
僕には『ローランの風』なんか分からなくて結構。
ロトロアがどこに何のために行ったのか、聞いたらきっと知らないのかって馬鹿にされるだろうし。でも聞きたいし。
くそー。
枕に顔を押し付けぐるぐると思考をめぐらせているうちに、本当にうとうとしてきた。
クウ・クルが顔のそばでごろごろと体を転がす。
くすぐったいな。

「……シャンパーニュ伯のお心はお決まりですか」
リシャールの響く声が夜の静けさに沁みた。
お心?
うっすら片目だけ明ければ、目の前は白い山。かすかに揺れるから、クウ・クルの腹だと気づく。山の向こうにリシャールが背を向けている。向かいにはベッドに腰掛けたジャンが変に大人ぶった様子で肩をすくめた。
子どもの癖に。
「もし、ブーローニュ伯のご提案が、ルイ九世を亡き者にし、王位を奪うなどという強引なものでしたら、迷われると思いますよ。ブーローニュ伯は、幼いルイ九世が継承するより、前王の弟である自分が継ぐのが正当だというお考えです。摂政になるブランシュ王妃を外国女呼ばわりするんですよ、シャンパーニュ伯ティボー四世様はいい気分ではありません」
シャルルはぼんやりとジャンが並べた名前を思い浮かべる。
ブーローニュ伯。ルイ八世の義弟だった。
ルイ九世。今度戴冠式をする新しい王様。ロイかもしれない。
ブランシュ王妃はカスティーリャ王の娘でロイのお母さん。フランク王国に嫁いできた。だから「外国女」なのか。
シャンパーニュ伯ティボー四世にとって愛しの王妃ブランシュ。思いを寄せるあまり、前王ルイ八世とは不仲だった。だから同じ立場のブーローニュ伯と親しくなった。だけど、ブランシュ王妃を巻き込むのは嫌なんだろうな。
会ったことはないけれど、シャンパーニュ伯がなんだか身近に感じる。
会えない誰かを、想いを伝えられない誰かを想い続けるのはつらい。
気持ちはよく分かる。

「ブーローニュ伯はルイ八世の異母兄弟。同時にコルベイユに呼ばれたブルターニュ公も同じ立場。双方とも外腹の子には代わりはありませんし、どちらが正当、というのも難しいところですね」
リシャールが飲み物をテーブルに置く音がする。
「継承権で言うなら、やはり多くの諸侯がルイ九世を支持しているようですよ。ブランシュ様は外国人ですが、これまでルイ八世の王妃として諸侯の信頼を得ています。このままブーローニュ伯に従うのは、実はシャンパーニュにとって良いことではないと、僕は思っています」
「そうですね。そのあたり、ロトロア様も十分ご承知でしょう。大丈夫です、ティボー四世様がロトロア様を必要とする限り、そのご判断は正しい結果を呼ぶはずです」
「はい。感謝しています」

「ルイ九世ってさ」
びく、と。シャルルが予想した以上に二人は驚き振り向いた。
「起きていたのですか」
「ルイ九世って、誰?」
二人とも口を開けて、うだうだとベッドに転がるシャルルを見ている。注目を浴びつつ獅子の子は腹を晒して一回転する。リシャールの視線はみっともない、と言わんばかりで、枕を抱えるシャルルを睨む。
「なんだよ?誰って聞いているのにさ」
ジャンは憐れみの笑みを浮かべた気がする。
リシャールが立ち上がった。
「シャルル、その件はお前が知らなくていい事です。ロトロア様との約束ではありませんか」
ロイに関して知ろうとするな。知れば殺す、話せば殺す。
ルイ九世の正体を知ろうとすることでリシャールがそう言うなら、ルイ九世とロイはやっぱり関係がある。

「誰って、変な質問だね」
ジャンが二人を見比べながら首をかしげた。
「ルイ九世はルイ九世、他の誰でもないと思うけど…」
「ジャン」
「リシャール様、そんなに神経質になるところではないですよ。いずれ、戴冠式を済ませれば各地に伝令がきますし、誰もが知るところでしょう?ルイ九世、故ルイ八世陛下の次男に当たり今年十二歳になられる」
リシャールが止める間もなく少年は自慢げに語る。遮られる前にと、シャルルは飛び起き、ジャンの隣に座った。急いだので枕は抱えたままだ。
「あのさ!ええと」
ロイって、呼ばれていた?と。喉まで出かかるが、あの約束が脳裏をよぎる。
ロイという名を声にするのは、ロトロアの前以外なかった。
「……お前のそれは、ルイ九世のことです」
呟いたのはリシャール。
その言葉を、待っていたのだ。
ルイ九世はロイ。
感激でシャルルは言葉にならず、上目遣いでリシャールを見上げる。

「なんですか、気持ち悪い。シャルル、私が言ったことはロトロア様には内緒ですよ。お前にそれを知らせれば、契約など無視してパリに向かうでしょう。だから、ロトロア様は黙っておられた」
シャルルはリシャールの言葉を聞いているのかいないのか、抱きしめた枕を相手にダンスでもするかのようにぐるぐると回り、自分のベッドにぽんと身を投げ出した。
驚いた白イタチが飛びはねて、部屋を駆け巡ったのでジャンまで思わず悲鳴を上げる。
「シャルル!」
「わかった!ありがとう!生きてたんだ!生きてたんだ!!!やったーっ!!」
良かった。
そう思うとこみ上げる何かが熱く目を潤ませる。
慌てて枕に顔を押し付ける。

金色の髪を振り乱したシャルルがベッドに突っ伏し、理解できないシャルルの行動を二人が見守ること、数分。
動かなくなった子ライオンに、リシャールが声をかける。
「シャルル?」
怪訝な顔でリシャールがのぞきこもうとすると、伏せたままの少女の足がばたばたと毛布を打った。
「わ、お前は!」
「あははは!よかった!リシャール、嬉しい」
満面の笑顔で飛びつく子ライオンから逃れられるはずもなく、青年はしっかり抱きつかれる。いや、元来リシャールは女性の抱擁を嫌がったりしない。
肩までの身長のそれをしっかり抱きしめ返す。
「嬉しいよ!教えてくれてありがとう!」
その心地がやはり女性、と変に納得している青年の内心は知るはずもなく、シャルルはもう一度ぎゅと力を込める。
同じことをジャンにしようとしたら止めようとリシャールがその肩に手を置く。

「あの、話が分からないのですが」
一人ジャンが首をかしげる。
「いずれ、私から話しますよ。シャルル、ロトロア様には秘密ですよ。お前が恩をあだで返すようなことがあれば、遠慮なく殺します」
「へ?」
あまりに普通に話すから、嬉しさが顔に張り付いたシャルルには青年の言葉は乾いたパンみたいに呑み込めない。
「お前はロトロア様のセネシャル。裏切るなら殺します」
リシャールの銀の髪が見上げた目の前にある。さらさらとまっすぐなそれの先にブルーの瞳。それは笑っていない。
本気だ。
「分かりましたか?」
シャルルは壊れた人形のように首をぶんぶんと振った。
「わ、わかった、わかったよ!教えてくれてありがと!」
慌てて飛び離れると、シャルルは足元に転がっていた枕を拾う。


白い綿の入った枕。
ロイと一緒に眠ったあの晩。大きな枕は半分こした。一緒に寝てくれる人がいるのを、羨ましいと言っていた。
あの夜以来、僕も一人きりで寝てるよ。
ロイも、今も一人かな。
ロイ。
生きて帰って、王様になるんだ。
良かった。

大切そうに枕をささげ持ったまま、そろそろとベッドに向かうと、もう一度抱きしめてシャルルは横になった。
僕がしたことでロイを救えたのなら。あの思い出も全部、幸せなものに変わる。
これで、僕は大人になったらパリへ行って、国王陛下に仕えるような立派な騎士になればいいんだ。
そうしたら、ロイに会える。


シャルルが無気味な様子でベッドにもぐりこみ、静かになったのを見届けてジャンがささやく。
「リシャール様、どういうことですか」
「いずれ話します。私が黙っているのには理由がありました。知らせたくないと願うのに、お前は強引にシャルルに知らせました。理由はどうであれ傲慢な行動でしたね」
「…す、すみません」
「ここに来たのもロトロア様の指示ではないはず。傍にいたいのなら、大人になりなさい」
はい、という少年の声は小さくなる。
「分かればいいのです。私は素直な子には優しいつもりです」
リシャールの笑みは変わらず。
だからこそ、ジャンはますます縮こまり大人しく床に着いた。
二人の子が寝静まっても、リシャールは一人、ワインを飲み続けていた。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑨

『Laon ‐ランの風は苦く‐』



際限のない欲は身を滅ぼすものだと、教会の教えで幼い頃から聞かされてきた。実感はなくともそれは身に染み付いている。同様に教え諭された様々なことも無意識に守ろうとするし、侵す事になれば罪悪感が沸く。
けれど。
ロイのことを知りたい、会いたい。その気持ちだけは違う。生きている、そう分かっただけでは満足できない。悪いことじゃない。会いたいだけ。ただ、そう、遠くから見るだけでいいんだ。
声なんかかけられるはずもないし、相手は国王様。あの、一緒に眠った少年とは違う。だけど。このままじゃ、足りない。

「空の皿を眺めてどれだけ時間を過ごすつもりですか。それとも、本当にあれだけ食べてまだ、足りないとでも?」
リシャールの嫌味は今のシャルルには草原の風。
たまにうっとうしく髪を乱れさせるけれど、気にするほどではない。
にっこりとそよ風さんに最上の笑みを投げかけ、シャルルは席を立つ。
宿の一階にある酒屋の片隅で、朝日を浴びるシャルルの髪は眩しくリシャールは何度も瞬きをする。
「……シャルル、昨日から気持ち悪いですね」ジャンが言うのも頷ける。
「恋する乙女は強いのかもしれませんね」
ふわふわした足取りで一人階段を昇っていくシャルル。忌々しげに視線をそらすと、リシャールは再び目の前のワインに手を伸ばした。
青年は青年で、どうも様子がおかしい。朝からワインを飲みすぎているようにジャンには見える。さりげなくワインのボトルを青年から離れた位置に移動して、ジャンはリシャールの顔を覗き込んだ。
「あの。リシャール様。恋する乙女、って昨夜もおっしゃっていましたけど。誰のことです?シャルルがどこかの子に夢中なんですか?」
ああ、とリシャールの動揺がかすかに目に現れ、それから青年はごまかすように笑った。
シャルルはここでは少年。少女だと知っているのはロトロアのセネシャルたちだけだ。
「そうでした。お前は知らないのでしたね」
「教えてください!乙女の正体!シャルルが夢中になっている子って」
すかさず食いつく少年に、リシャールはかすかに意地悪な笑みを浮かべる。それはニヤニヤしたものから、クスクスといった風に代わる。
ジャンは自分が笑われているのだというくらいは分かる。
「あの、リシャール様、もったいぶらなくても!」
肩を震わせる青年は意地悪にも、何も語らずジャンをもう一度見つめては笑い出す。
「人が悪いですよ!そこまで言っておいて」
「教えてあげませんよ。昨夜のでしゃばりの罰です」
「!そんな」
「たいしたことではありません、ありませんが……」またそこで。こらえきれずに笑い出す。どうやら酔いも影響している。
「もう、いいです。僕は午後にはランスに向かいます。戻りましたらまた、伺います。コルベイユよりずっと近いから、ランスで五日間の戴冠式を終えても、まだロトロア様が戻るまでには間に合うはずです。ロトロア様に教えてもらいますから」
年齢にそぐわない大人びた溜息も深く、少年が立ち上がっても、リシャールは面白そうに口元をゆがめていた。
「では、ごきげんよう、リシャール様」
一礼して、ジャンはマントを片手に背を向ける。

「あ、そうそう。ジャン」
リシャールの声に少年がぴたりと立ち止まる。振り返った表情は期待に満ちている。
「シャルルは可愛らしいと思いませんか」
「はぁ!?」
ジャンの表情に追い討ちをかけるようにまた、リシャールは笑い出した。
人が悪いにも程がある。
ジャンは足早にシロンの店を後にした。


街を囲む城門まで来ると、ジャンは預けてあった馬を受け取る。馬番の男は自分の腹くらいの身長の少年に、かがみこむようにして手綱を渡した。
「ジャン様、もうトロワにお戻りですかい」
「いや、ランスに向かうんだ。ティボー四世さまの言いつけでね」
「そりゃ、ご立派なことですだ」
鼻の大きな男は、日に焼けた顔をさらに煤で黒くしたまま、にかにかと笑った。ジャンの馬シルグレットの脇に踏み台を置き、少年が馬に乗るのを手助けする。
「ありがとう」
「お小さくてもご立派だけんど、お一人じゃ何かと大変だ」
「一人じゃないよ」

二人そちらを振り返る。
「へぇ、珍しいこともあるもんだ」男が呟く。
視線の先では栗毛の馬が膝を折って、地面に座り込んでいる。
「ありがとう、ロンフォルト」そう、騎士見習いは姿勢を低くしてくれた馬の背に、鞍を乗せた。派手な金色の髪。中途半端だから束ねもせず、風に揺れて獅子のように顔を縁取る。ふわりと馬にまたがると、馬はゆっくりと立ち上がった。
「シャルル!」
「ランスに行くんだろ、よろしく!ジャン」
「よろしく!?」
「ほら、行くぞ。日暮れまでに着かなきゃいけないだろ」

シャルルは欲に勝てなかった。
「ロトロアに頼まれているんだ。ほら、剣も貸してくれたし」
シャルルが放った嘘は、昨夜ジャンがけろりと言ってのけたのと同じ類。真似されたのだと気付かずに、ジャンは眉を寄せた。
「どうして君一人なんですか?」
「僕は、ランスには詳しいからね。役に立つよ。リシャールは忙しくなるから」
もっともだ。シャルルがいなくなったと知れば、探し回ることだろう。
「……いいですけど。君に頼らなくても僕は仕事を果たせますよ。邪魔はしないでくださいよ」
「分かってるよ」
可愛げのないジャンの言葉も、今は平気だ。
シャルルはどこか現実味のないふわふわとした気持ちで胸が一杯になっていた。
ロイに会えるかもしれないのだ。
世話になったリシャールに迷惑をかけ、ロトロアがいればきっと怒るだろう事を、しようとしている。裏切るわけじゃない。ちょっと戴冠式を見に行くだけ。どこに行くとも言わずに出かけたロトロアだって同じじゃないか。僕はちゃんと宿のテーブルに置き手紙をしてきたし。大体いつまでも食堂のテーブルにしがみついてワインを飲んでいるリシャールが悪い。だから僕が出かけたのにも気づかないんだ。
ロトロアは言った。
「お前は俺と契約している、忘れるな」と。封を受け、セネシャルとして側においてもらっている。押し付けられたものだとしても、恩は恩だろう。だから、遠くから見るだけだ。ランスに戻っても、誰にも僕のことを知られないようにする。
裏切るわけじゃない。
アンは、元気だろうか。
ロイは。

思いにふけるシャルルを後ろに従え、時々振り返りながら、ジャンは街道を進む。
ふと、馬の歩みを緩め、シャルルの隣に並んだ。
「あの、君」
「なんだ?」
「リシャール様がおっしゃっていた、恋する乙女って」
そこで。シャルルはジャンの想像を超える顔をした。
「リシャールはそういうことしか言わないんだ!」
口を尖らせながらも顔は照れて真っ赤。分かりやすいシャルルの反応に、ジャンは慣れない恋の話を続けようとさらに近づく。
ジャンはこの十一月に十一歳になったばかり。『ローランの風』で宮廷風恋愛物語の様子は知っているものの、本気で誰かと恋愛の話をしたことなどない。同年代のシャルルも同じなのだと値踏みした。下手な小細工より真っ向勝負とでも思ったのか。
「シャルルには好きな子がいるのですか?」と。尋ねられたシャルルは慌てて胸元を押さえた。好きな子、という表現がロイにそぐわない気もするし、でも違うとも言えない。いや、話せないのは同じことか。
「そ、そんなの!そういうんじゃないよ!」
ジャンの賭けは当たった。密かに勝利に酔った。
「どこの子ですか?ルジエの貴族の娘とか、可愛い子なのですか?」
シャルルは表情を強張らせた。
「君でも詩を贈ったりするのですか?騎士は好きな女性には尽くさなきゃいけないんです。詩も楽器もできないともてないんですよ。もちろん、常に身綺麗にして紳士的な態度で」
「あ?……ああ、っと」それは、実践すれば色恋無敵のリシャールの出来上がりだろう。
シャルルはジャンの誤解に気づいた。

そうだ。僕は男ってことになってる。
シャルルは返事ともなんともつかない言葉を口にしながら、どうしようか、教えてやろうかと真剣なジャンを眺めた。
「貴族なら許婚がいますが、君なら自分で選べるわけですし。あの、可愛い子ですか?身持ちのいい女性がいいって言いますよ」
身持ち!?
シャルルは我慢できなくなって笑い出した。
「な!?なんですか!シャルルまで!」
シャルルの反応がリシャールとまったく同じだったことにジャンは目を丸くし。
もちろんシャルルはそんなことは知らない。
「何で、笑うんですか?笑うとこじゃないですよ、僕は真剣に君の恋の話を」
ひとしきり笑い、シャルルは痛む腹をさすりながら傍らのかわいそうな少年を眺める。
ジャンは、泣いていた。

「え!?」
「もういいですよ。二人で僕を馬鹿にして。やっぱり、ロトロア様と一緒に行けばよかったんです!こんなことなら!」
「泣くことないだろ」
ロトロアが聞いたってきっと大笑いする、そう思うと真剣な顔を保つのが難しい。どうしてもにやにやと。結局馬鹿にしたような顔になる。
「うるさいですよ!君なんかには分からないんです!」
「わかんないけどさ、ガキの気持ちなんか」
ジャンは何度も顔をごしごしと擦ると、馬を軽く走らせる。それでもまだ、鼻をすするのに合わせて肩がぴょこと上がるから、シャルルは仕方なく後を追う。
「おい、怒るなよ、って言うか、泣くなって」

考えてみれば、ジャンは生意気だけど僕より二つ年下。十一歳だ。
ちょうど、僕がロイに会った、あの頃と同じ。僕もちょっとしたことで腹を立てたり、悔しくて泣けたりしていた。
偉そうなこと言っていても。父親代わりにロトロアを慕っているわけだし、まだ子どもだ。
そんな風に思う自分が少し大人な気がして、シャルルはジャンに憐れみの声をかける。
「あのさ。教えてあげるから、拗ねるなって」

ジャンは振り向いた。
先ほどまでのしょんぼりした後姿が急に、立派な騎士みたいに反り返るから余計にシャルルには面白い。
シャルルは周囲を見回した。
麦畑と林と、遠く小さい民家。誰もいないな。
確かめてから、シャルルは告白する。
「僕、女なんだ」
「!!!!」ジャンの髪が逆立ったように見えた。
それは「嘘をつくな!」から始まって、考え付く限りの悪口雑言を振りまいて、しまいに震える手で腰の剣を抜き。
「本気で馬鹿にしてるな!僕は由緒ある家系なんだぞ!ジョワンヴィルを背負ってるんだ、これ以上馬鹿にするなら、決闘だ!」とジャンに剣を振り回させる羽目になった。
「無茶言うな!何で決闘だよ!」
「うるさいー!」
小さな騎士たちの追いかけっこは街道を脱線し、草原をまたぐ。剣を振り回しているから聞こえ程可愛いものでもない。羊が迷惑がる脇を走り抜け、森の中に入り、日差しが届かない奥深くまで続き。疲れた馬が走らなくなってやっと止まった。
「止まるなぁ、シルグレット!」
「もう、いい加減休もう。ほら、泉がある。喉も渇いたよ」先に馬を降りたシャルルは、ロンフォルトをいたわりながら清んだ水辺に膝をつく。
両手にすくった水は冷やりとして美味しい。
二杯目、とかがみこんだ背後に、ジャンの影。
「!?」
とん、と押され。
「わ、ばか…」
ころんとあっけなくシャルルは水の中。
十二月になろうという季節、それでなくとも山の水は冷たい。
ジャンに文句を言う余裕もなくシャルルは身を締め付ける水から逃れようとがむしゃらに這いあがる。一気に冷えた身体は強張り、痺れた手を握っては開いてみる。
「ば、ばか、いくらなんで、も」
「ホントに、女なんですか?」
膝をついたシャルルの前に、ジャンが立ちふさがる。見上げれば、勝ち誇ったように腕を組んで見下ろしている。
「お、お前」
「僕の上着を貸してやります。脱いでください」
はぁ?
「……嫌だ」
「やっぱり男なんですよ。証拠を見せないなら」
ああ、もう!
シャルルは怒りに任せてジャンの腹にそのまま頭突き。
不意を突かれてしりもちをついた少年に馬乗りになった。
「シャルル……」
何か言いかけるそれを思い切り叩いてやる。
「大体、僕のこと、信じない、から。悪いんだ、お前、ひどいこと、してるのに」
シャルルの拳は二発目を避ければ、勢いをなくし。シャルルはくしゃみを一つ。
ジャンの上に乗った冷たい濡れネズミは可哀想な鼻声になっている。
「ロイは、気付いたぞ、僕が女だって、大体、突き落とすとか、決闘だとか、おまえ、バカだ」
冷え切った身体はかすかな森の風にも震える。
と、不意に足元の少年がぐるりと体を回転させ地面に膝を突くと、えいっとばかりに背中のシャルルを振り落とした。
「わ!」
「決闘だ!」
殴りかかるから、シャルルも蹴りあげて応戦する。泣きながら掴みかかってくるそれは、子供の喧嘩の域を超えない。
修道院でも教会学校でも。子供の頃から鍛えられた体術と柔軟で素早い動きを得意とするシャルルに、同年代の子供がかなうはずはなかった。

ジャンの拳を手のひらで掴み、片方の手で相手の肘を固めると、ぐんと押し。次の瞬間には足をかけ、ぐるんと草むらに投げつける。
ジャンは受身が取れないようで、腰から落ちてどすんと痛そうな音がする。
それでも畜生と怒鳴りながら掴みかかってくるジャンを、今度は一発しっかり殴って、よろめいたところで締め技を決める。
「参ったって言え!」
「う、だまれ……」鼻声で唸るジャンは、そこで初めて自分が鼻血を出していることに気づく。
「う!?」血のついた自分の手を目を丸くして眺め。
「鼻、折れたかなー」とシャルルが笑えば、悲鳴を上げた。
「ひゃぁあ!?」
解放とともにうずくまって泣き出した。
それでも容赦なく髪を掴むと、シャルルは押さえつけた。
「僕の勝ちだ。馬を取られたくなかったら言うこと聞け」随分ないい草である。
ジャンは泣きじゃくっている。
「お前も騎士見習いなんだろ!騎士同士の戦いは、負けたほうが捕虜になって身代金を払うか、馬や剣を差し出すかだ。しょうがないから言うこと聞くだけで許してやるんだぞ」
寛大だ、とシャルルは笑った。
この辺りがリオン・ド・リタと呼ばれる所以。
教会学校でこれをやった時には、大騒ぎになって司祭にひどく怒られたけれど。聖職者の言う「命を大切に」とか「隣人を愛せよ」とか、それは軍人である騎士には「聞き流すべきこと」でしかない。自らの生死をかけて戦うのだから。

生きていくには、強くなきゃいけないんだ。

ふ、とシャルルは泣きじゃくっている少年に視線を落とした。
「本物の騎士は楽じゃない。そんなのさ、あいつら見てれば分かる。名誉のための決闘なんか、下らない。生きるため、糧を得るために戦う、生活に困ったことのないおぼっちゃまには分からないかもね」
自らの興奮をなだめながら、シャルルは泉の水でぬらした布で少年の鼻血を押さえてやる。
「こうしてしばらく冷やせば止まる。折れてなんかないよ、僕にそんな力はないし」
ジャンは恨めしそうに眼だけでシャルルを睨みつけた。
それでも痛みが多少和らぐのか、「自分でやれます」と布を受け取ると、汚れた衣服を情けなさそうに見つめながら、木の下に座り込んだ。
「お前も着替えが必要だな。荷物にあるだろ、よこせよ」
「……盗賊みたいです、君」
シャルルはジャンの荷物を勝手に漁り、服を引っ張りだした。

「ちょうどいいや、これ、借りる」言いながら、濡れた服をあっさり脱ぎ捨てると、ジャンは慌てて眼をそらした。
シャルルの胸元は布を巻いているが、白いすべすべした背中に粗い布。それも濡れて張り付いて柔らかなそこを無理に押さえつけている。
緊張しつつもこちらが気になる少年を見つめ、シャルルは意地悪な笑みを浮かべる。
注目を集める布をぺろりと取り去ると、「ジャンはセネシャルが目標なんだろ」と声をかける。
「わぁ」と真っ赤になって目をそらすジャンは、せっかく止まった鼻血がまた、つぅと滴るから、慌てて布を当てた。
「なんで、男になんかに、なり済ましてるんですか」
「何でって、男のほうがいいから。騎士になるにも、喧嘩するにも、なんだって男のほうが有利じゃないか」
「そんなことないと思います」
「じゃあ、女になっていいって言われて、ジャン、女になるか?」
ジャンは不満そうだが首を横に振った。
「だろ?僕は騎士としてロトロアに仕える、そういう契約だ。あいつは女の僕に興味があるらしいけど、無駄だ」
「えええええ!?」
聞いたことのないくらい大きな声でジャンが叫んだ。
「…なんだよ、そんなの分かるだろ」
分かっている、もともとそのために僕を捕まえたわけだし、この間のクウ・クルが死にかけたときだって。
シャルルはぎゅと腰に剣を括りなおす。
「あの、…シャルルは、その。ロトロア様のこと……」
「別に。あいつ、怖いんだぞ」
「そんなことないですよ!ロトロア様は優しくて、誠実で、立派な、それこそシャンパーニュ伯に匹敵するくらい、ううん、もっとすごい人ですよ!僕が君と代わりたいくらいだ」
「代わってどうするんだよ。あれに迫られて嬉しいのかジャンは。結局、女にもてるのはリシャールのほうだぞ」
ジャンは黙った。
「じゃあ、リシャール様が好きなんですか?」
「単純だな。違うよ、僕が好きなのはもっと違う」
ジャンは座り込んだまま、シャルルを見上げていた。草色の瞳が大きく見上げ、それはいつか感じた従順な犬の輝く瞳。なぜか隣にクウ・クルも立ち上がり見上げ。
同じ顔をしているように見える。
こほん、と咳払い。
「僕が好きなのはもっと尊い方だ。ランスで、会えるかもしれない」
「!?それって!」
シャルルは笑った。そんな笑みを見せたのは、もしかしたらジャンが初めてだったかもしれない。胡坐をかいたままはにかんで、くしゃくしゃと頭をかく。
でもシャルルの上目遣いの瞳は目をそらせないくらい綺麗に澄んでいる。
「ルイ九世さま、新しい王様だよ」
会えるんだ!


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑩

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

10

パチ、と薪が乾いた音を立てる。暖炉の火を脇に置いて、小さな部屋はぬくぬくと温まっている。シャルルとジャンは近くの村の宿に泊まっていた。
決闘騒ぎのおかげで時間をとり、森を抜けたところで日が暮れてしまったのだ。ひと山越えた先はランスだが、夜中に出歩く場所ではない。
お小さい騎士様と呼んで、宿の主人は二人を喜んで迎えてくれた。
かまどに置かれた鍋が何かコトコトと美味しそうな音を立てる。夜になり冷え込んだこの山間の宿は、主人と女将さん、シャルルたち二人だけの静かな夕餉時を迎えていた。
「お二人も戴冠式を見物に来たんですかい?この辺はまだ少ないけんど、山向こうの村じゃ見物の貴族様や司祭様が大勢きているんでさ。その人たちにいろいろ売りつけようってのか、ランからの商人も来ているくらいでさ」
鼻の赤い主人はウズラの羽をむしりながら、カウンター向こうの厨房から声をかける。
「はい、そうです。僕らもランから来たんですよ」
「もしかしたら、新しい王様のお顔を見られるかもしれないから、ね」
ジャンとシャルルが夢中になってかぶりついている鶏肉から顔を上げる。子供らしく派手な勢いで腹を満たす二人を、主人は面白そうに眺めていた。
「おや、ピクルスが残っていますよ、ちょっと育ち過ぎてるけど、柔らかくてね、美味しいんだよ。肉と一緒に食べればどうです」
女将さんがそう言いながら、二人にオレンジのジュースを注いでくれた。
「あ、ありがとう」言いながら、ジャンは密かに苦手な野菜をさらに遠くへ。ちらと見れば、シャルルは早速肉と一緒に、を実践している。
「うん、美味しい。ジャン、食べ物を残すのは悪いことだぞ」
シャルルは修道院育ちだ。
「う。でも、苦手ですから」
「お前、お父さんを亡くしてるだろ。お父さんだって女将さんと同じこと言ったと思うぞ。僕は両親の顔を知らないけど、いつもそう思って食べてる。どんなものも、お母さんが作ってくれたんだと思えば残すなんてできない。僕らが食べるもの着るものは全部、誰かがお母さんやお父さんの代わりに僕らに与えてくださってるんだ」
感謝の気持ちは修道院で学んでいる。

ジャンが床に届かずにふらふらと揺らしていた足を止めた。しばらく無言でシャルルを見つめ、それからおそるおそるピクルスを口に含んだ。
結果は芳しくなかったらしいが、柔らかいパンと肉を詰め込んで、何とか飲み込む。
その姿が可愛らしかったのか、女将さんがジャンの頭をなでた。
「後で美味しいはちみつ煮を出してあげるよ。今年のいちじくはいい出来でね、とろっとね、甘いんだよ」
それにはシャルルもごくりと唾を飲み込んだ。


「着替えるなら向こうでお願いしますよ」と。ベッドで寝転んだジャンがシャルルを睨んだ。
「いい、このまま寝る。はちみつの匂いがしていい感じだ」シャルルが服をつまんでクンクンとにおいをかぐ。嬉しそうにそれにまとわりつくクウ・クルも同感らしい。
「美味しかった。なんだか、その」ジャンもどう形容しようかと、寝転んだまま空にあげた手をもよもよさせる。
「感謝しろよ、ジャン。はちみつなんて高価なもの、きっと、ものすごく大切に取っておいたんだと思う。修道院では一年に一回の、大聖堂の降誕祭の時しか食べられないんだ。しかも一人一口ずつ、子供らと分ける。貴族様と僕らは、それこそ天と地くらい違う」
「……僕じゃないですよ、シャルル。女将さんはきっと、シャルルに食べてほしいと思ったんですよ。さっき、聞いたんです。ここの息子さんはシャルルと同じくらいの歳で、ロトロア様のルジエへ、徴兵に応じるために旅立ったそうです。ときどき、手紙が届くって」
「ふうん」
「案外、いい人なんですね」
「その息子が?」
「違う、君が」
「……悪い奴じゃないと思う」
他人事のように呟いて、シャルルは照れる。
「偶然知り合ったのが、王子さまだったなんて騎士物語になりそうな出来事です。すごいなぁ。それでロトロア様がセネシャルにするんでしょうし。どうして君みたいな出身の子がって、ちょっと嫉妬しましたけど。分かりました。シャルルが前に馬上槍試合の後に言っていましたよね。王様のオマージュを受けるって。あれ、本気なんですね」
ジャンは横になり枕を抱いたまま、シャルルをしっかりと見据えている。
差し障りのない略し方をしたシャルルの説明に納得している様子だ。ロイと出会って、別れた。だから会いたい。それは、言葉が足りないとしても真実に違いない。
シャルルは自分のベッドに腰掛け、足をふらふらと揺らした。
ランプの明かりにその影は長く伸び、床でシャルルの靴に噛み付いて遊んでいた白イタチは驚いてシャルルの背中によじ登った。
「うん。本気だ。ラン伯をごまかすためじゃなく、子供じみた夢でもない。僕は、ロイの役に立てるセネシャルになる」
「シャルルなら、できるかもしれません。その、セネシャルじゃなくても」
印象に残る容貌、大きな瞳。それなりに女性らしい、いやどちらかと言えば綺麗な部類に入るだろう、目の前のシャルルをジャンはじっと見つめていた。大人になって着飾れば、どこの貴婦人にも負けないかもしれない。
「シャルルなら、王様に愛されるかもしれない」
あははと。笑ってシャルルはごろんと横になる。
「無茶言うな。身分が違う。僕はロイを護る、それでいいんだ」
「……ロイって呼ばれていたんですか」
「うん。王様の子供って意味らしいよ。本当の名は明かさなかったんだ。そりゃそうだよね、今考えればさ。王子様なんだ、正体が知られれば影響する人も大勢いるし」
知ってしまうことで、命を落とす人もいる。
「よし!そう考えれば、明日は早朝から出るぞ!御到着を見なきゃならない!寝るぞ!ジャンも早く寝ろ」
シャルルは慌てて自分のベッドにとびつき、あっというまに毛布の下。
姿が見えなくなる。
ジャンは「ふうん」と少し笑うとはみ出したミモザ色の髪を見つめた。


早朝の風はひやりとし、晩秋の匂いをさせていた。
二人は宿を出るときに女将さんにもらった焼き栗を腰につけ、ときどきつまみながら馬を歩かせる。街道はぼつぼつした田舎道から、村の境を抜けるたび整えられていった。
ランスの石畳と同じ道になった時には、山を越えた二人の目の前に麦畑と牧草地、緩やかな緑の海が広がった。
「ああ、懐かしい!こんなに、綺麗だったんだな」
シャルルがつぶやく。
「ここがランスですか?」
ジャンが首をかしげるから、シャルルは笑った。
「違うよ。ここは手前のコルベニーの村。すごい昔はね、ここに王宮があったんだってさ。ノルマンが責めてきた時に当時の王都は移動したから、残ったこの土地は聖マルクールの修道院に譲られたって話。聖マルクールって病気治療をした聖人で、だから、今は病気の人を治療する施療院に変わってる。丘の上にそれ、見えるだろ。その向こうの森と山。あの森を抜けた先に修道院があって、そこを抜けるとランスの街。山の断崖が街を護っているんだ。僕の育ったラエル修道院はその門番みたいなものなんだ。ああ、すごいな、森の手前まで人が列を作ってる。僕らも…」言いかけたところで、シャルルは遠く街道から右にそれた川岸の。あの水車小屋を見つけた。小さい丸は流れに合わせて回っている。
ぎゅ、と唇をかんだ。
「行きましょう、シャルル。早く並ばないといい場所が取れない」
「ああ」
進み出した二人の後ろから、大仰な馬車の一団が走ってきた。黒い馬を二頭付けたそれはいかにも貴族の乗り物らしく、シャルルたちは道の端によけた。
「だんだん集まってきますね」
「すごい勢いだな、式典に出る立場の貴族かな。皆よけるし、あの馬車の最後尾にくっついて行こうか」
「悪賢いですねぇ、シャルル」
「悪が余分だよ」
シャルルはロンフォルトを馬車の隊列の最後尾に寄せた。ジャンもそれに続く。
一番後ろを走る衛兵がじろりと振り返った。
シャルルはにっこりと笑って、「ごきげんよう」と声をかける。
「離れろ、貴様ら!」
怒鳴られた。
「なんだよケチ」
「シャルル、まあまあ」
ジャンになだめられ、シャルルは衛兵を睨みつけながらロンフォルトを少し遅らせる。
あっという間に馬車と騎士の一団は人ごみを掻き分け小さくなっていく。

「なんか、北の訛りだったな」
「ノルマンディー辺りからでしょうか。国王の戴冠式ですから、あちこちから大貴族が集まりますし」
「偉そうだな、ちょっとくらい、いいのにさ…?」
かりり。
腹の辺りがカリカリ言っている。
焼き栗の匂い。香ばしい。
「!?あ、クウ・クル!」
白イタチはしっかり栗の袋をベッドのようにして、腹はぷっくりと膨らんでいる。シャルルの膝や鞍には栗の殻がぼろぼろとこぼれていた。
「お前!全部食べちゃったのか!」
怒鳴れば、イタチはピクリと抜けだし、ぴょんと隣のジャンの馬に飛び乗った。
「わ!来るな、僕のはあげませんよ!」
ジャンが慌てて追い払おうとする。クウ・クルはシルベルトの頭まで駆け上り、ゆらゆらと踊るように身体を揺らしていたが、ふと顔を背けるとたてがみにぶら下がった。そのままずるずると馬の足元へ向かい。
「クウ・クル!」とシャルルが叫んだときには地面に降りていた。
そのまま、走り出す。
「ああ!イタチが」
向かう先があの水車小屋だと感づいて、シャルルは追うのをやめた。
「ごめん、逃げ出しちゃった」ジャンが申し訳なさそうに焼き栗をひと掴み、シャルルに差しだした。
「ありがと。いいよ、あいつにとっても故郷なんだ」
あの晩。ロトロアが言った。野生の生き物を飼うのは、身勝手だと。
もしこのまま会えなくても。クウ・クルならちゃんと生きて行ける。もう立派な大人なんだ。
「探さなくていいんですか?親友だって言ってたのに」
言いながら、ジャンは栗で口をいっぱいにしているから、緊張感はない。
「いいんだ。あの水車小屋、あそこで遊ぶのが日課だったから。たぶんそこに行ったんだよ」
「ふうん」
ジャンも水車小屋を少し眺め、栗で汚れた手をパンパンとはたくと再び手綱を握る。

このあたりに来ると、街道は人が増えて、シャルルたちも思うように馬を進められなかった。歩く人、馬車、馬。結局人の歩みに合わせた速さで行列は森へと吸い込まれていく。列の先を眺めて、シャルルはため息をついた。
「長いなー」
のんびりしたロンフォルトの振動は、温かくなりつつある日差しの下、眠気を誘う。ふあ、と伸びをした。畑の麦は、半分くらいは刈り取られている。まだ濃い茶色を波打たせている畑もある。一軒では大変だから麦刈りは共同で行う。懐かしい、麦を積んだ馬車。今農夫が麦の入った麻袋をドンと積んだところだ。駆り終わった畑を牛が犂を引いて、ゆっくりと耕していく。
がっしりした農民が同じ歩調で進んでいく。
ふ、と。ロンダを思い出す。
仔牛を見せてくれたことがあった。
黒い牛は目も真っ黒でつやつやしていた。額に白い星印があったから、シャルルが「こいつはエトワール(星)だ」と決め付け。結局それがそいつの名前になった。
それに、今見つめる牛は似ている。
あれ?
ふと、牛に付き添う男と目が会った。
何気なく視線を大勢の行列に流して、男は再び牛を見やり。止まる。
改めてシャルルを見上げた。
ロンダの、お父さんだ!
シャルルは目がそらせない。
「どうしました?シャルル」
ジャンの声を聞きつけ、「シャルル?」と男の口元が動いたように見える。
「シャルルじゃないか?」
男の声が届いたときには、無意識に離れようとシャルルは馬を急がせる。トンと脇を叩かれた馬はシャルルを乗せたまま、列の先へ奥へと足を速めた。
「ちょっと、シャルル!」
驚くジャンの声。振り切ろうと心は急くのにまた三人連れの騎士がのんびりと前を並んで進む。それは横に広がり道を塞ぐ。
「シャルル!」
ジャンは今呼んだのが自分だけでないことに気付いた。
目の前を横切る男に慌てて手綱を引く。見知らぬ男がシャルルの馬にすがり付いていた。
「シャルル、シャルルじゃないか!?」
手綱をつかまれ、仕方なくシャルルは馬をとめた。
人と馬が川のように流れる中。二頭の馬と男を挟み、周囲の人々は迷惑そうにそこを避けて進む。その中で何とか降り立ち、ジャンは「とにかく、こっちへ」と馬を引いて街道の脇へ抜け出た。
シャルルは凍りついたような表情で馬に乗ったまま。男はその手綱を横から握り締め、シャルルだろう?と繰り返す。
馬から降りれば男はジャンよりずっと背が高い。
「貴方は誰ですか?騎士の手綱を掴むなんて失礼でしょう」
ジャンの言葉に振り返り、男はしぶしぶ手綱を放した。
「シャルル、君も降りた方が」ジャンの言葉を聴かないうちに、シャルルはとん、と降り立った。
「シャルル、やっぱりそうだ!お前はあのシャルルだろう!ロンダを覚えているか!俺はニルセン、お前の許婚だったロンダの父親だ」
ジャンが顔をこわばらせたのも無理はない。シャルルに許婚がいたなど初めて聞いた。



「じゃあ、シャルルは二年前から行方不明だったんですか」
言いながら、ジャンは手元の茶を眺めた。隣に座るシャルルは黙り込んで、今にも消えてなくなりたい様子をしている。
ごく普通の農民の家。木を組み上げた梁に、漆喰の壁。足元は土がむき出しになっている。それでもこのあたりの農民の中では豊かな方なのだろう。部屋の奥には家人が住むための部屋がいくつかあるように見える。窓辺にはハムやニンニク、家畜の餌になるトウモロコシが干されている。
二人の前にも、干した杏が置かれていた。
ロンダの父だというニルセンはそれに客より先に手を伸ばし、がつがつと二つほど口に入れ、一気にワインを飲み干した。
「そうだ。あの夜はひどい雨だった。そんな夜に、息子は修道院を飛び出したというシャルルを探しに出かけたんだ。お前はいつも水車小屋にいた。だから、きっと、水車小屋にいると思ったんだ、ロンダはそこに向かった。ランスでは大聖堂に賊が入り込み衛兵が殺されたり、聖堂参事会役員の馬が盗まれたりした。シャルルはその賊に誘拐されたと後になって修道院の人に聞いた。ロンダはお前を助けようとしたんだろう。それで、賊に歯向かった」
賊。
ジャンがそれは、と疑問の視線を投げかける。シャルルは、じっと膝の上で握り締める拳を見つめていた。

「シャルル、お前さんが生きていてくれて、俺は本当に嬉しい。ロンダが、あの時どうして殺されなきゃならなかったのか。教えてくれ。何があったんだ」

ニルセンの、冬の空のような瞳を見返すことが出来なかった。
あの時ロンダは。僕を助けようとした。確かに、そうだ。
僕は。じゃあ、僕は。
ロイを、助けようとしてた。
ロイがあの水車小屋にいるはずだった。なのに違った。どうしてそこに、ロンダがいるのか。分からなかった。
ロイと約束したのに、どうして、ロンダなんかがいるんだ、って。
僕は。
あの時のロンダに、感謝出来なかった。

ふと、手が握り締められていることに気付いた。
ニルセンが冬の空色に涙を浮かべて、見ている。それはたった一人の息子を失った、悲しみに溺れそうになっている、だから救ってくれと訴えている。
ぽつ、と男の涙がシャルルの手に乗り。

シャルルは、唇を噛んだ。
「ロンダは」
「ああ、あいつは優しい子だった。いつもお前のことを気にしていた。仲良くしていたんじゃないか?お似合いだった。お前のためにと、無理してあんな高いドレスまで買って、あいつ、俺に何年かかっても返すから、きっちり働いて返すからと」
あれを。
僕は。
シャルルはゆっくり、力強く握り締める手を引き離した。
追いすがろうとする男の手はザラリとした感触で、シャルルの罪悪感を掴み取る。
「あの、ロンダは僕を助けようとして。殺されました」
結局。それしか、言えなかった。
そんなことは、ニルセンも承知のこと。けれど。
「誰が、殺したんだ!剣で一突き、あれは、あれは誰の仕業なんだ!お前は知っているんだろう!?」
「し、知らない。知らない、でも。ロンダは僕を助けようとしたんだ。それで、騎士に」
「お前は今、どうしているんだ。こんな立派ななりをして、騎士見習い、か?孤児のお前が、どうしてだ?あの時の騎士は、誰なんだ」
「あの、待ってください、ニルセンさん。シャルルにも、その。準備が」
ジャンが掴みかかりそうなニルセンを抑えた。
シャルルはもう。涙を抑えられなかった。
泣き出したシャルルに、ニルセンは「あの子を殺した奴を、教えてくれ」と。お願いだと頭を下げた。
「シャルル、修道院じゃお前さんが賊をランスに導きいれたと、そういってる。子供のことだ、騙されたり利用されたりしたんだろうと、そう言われている。そうなのか。お前がそいつらを修道院の検問を通し、大聖堂に導きいれたのか?」
そんなふうに、なってるのか。
シャルルは目を擦った。
あの時、ロトロアの行動を大聖堂も修道院も見過ごした。それを問われ、僕の過ちに仕立てて誤魔化したのか。
ひた、と。胸の奥に冷たい泉を感じる。暗い心の底には覗き込みたくもない淀んだ水。痛みなのか懺悔なのか。
ロンダの真っ直ぐな思いも、僕がロイを助けようとしたことも。
そんな風に、嘘で塗り固められているんだ。
ランスを守るため、ロイの存在を隠すため。僕が悪者に、なっているんだ。

シャルルは置かれていた茶の入ったカップを握り締めた。
一気に飲み干すと、音を立ててテーブルに置いた。

「僕は。今は、その時の賊に雇われている。騎士見習いにしてくれたんだ。僕は、小さい頃から騎士になりたかった。だから、ちょうどよかったんだ。ロンダと、結婚するつもりなんかなかった」
ずし、と。衝撃にシャルルは床に転がっていた。殴られたと認識すれば痛みが頬を焦がす。
反射的に体を起こすと鼻血が胸元に落ちた。影がさし。
「やめてください!」と叫ぶジャンの背中。その向こうには。
生まれて初めて受ける憎悪の視線。男は叫んでいた。
「お前は、あの子のことを!なんだと思っていたんだ!小娘が!お前が賊を引きいれたんだ、お前のせいだ!生意気なガキが、お前なんかのために、あの子は、あの子は!」
制止しようとするジャンを押しのけ、男が殴りかかった。シャルルはそれを冷ややかに見上げている。
そう、余裕を持って避けた。
大きく振りかぶった男は反動で地に膝をつく。
「本当のことだから。僕は結婚なんか考えてなかった。ロンダは嫌いじゃなかったけど、僕はこの家を継ぐような人間じゃない」
ロンダを幸せに出来るような、人間じゃない。
優しいロンダには、もっと大人しい可愛らしい子が似合うんだ。
僕は。
あの時、自分の無力に泣いた。ロンダを救うことも、ロイを助けることも出来なかった。
「力が必要なんだ。生きるために。だから僕は騎士になる。例えそれが、憎い相手に従うことになっても」
立ち上がるシャルルの足元、ニルセンは拳を地に打ち付けた。
「出て行け。お前など、ロンダの代わりに死ねばよかったんだ!」



「あの」
街道を人混みに紛れ進み始めると、ジャンが口を開いた。
シャルルは黙って前を見据える。
「賊って、……ロトロア様、ですか」
返事をするつもりはない。
溜息を横に聞きながら、シャルルはただロイに会えることだけを。ロイが無事であることだけを祈っていた。

人の列が先ほどよりずっと長くなっていた。陽が中空に昇る。昼前には国王の一団が到着する。
「急ぎましょう、シャルル」
ジャンの言葉に、シャルルはちらりと視線を合わせる。その目が赤いから、ジャンは何も言わずに馬を急がせた。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑪

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

11

街道にはランスの衛兵らしい姿が立ち、ぞくぞくと集まってくる人々を誘導し始めていた。
途中、通りかかった水車小屋。
ジャンはじっとそちらを見つめた。
シャルルが、目を背けたいのは分かる。
小屋の扉は開かれていて、通りを進む群集を小さな子供が口をあけて見つめていた。二年前のシャルルを見るようで、ジャンも目をそらした。
シルベルトの耳がぴくりと普段と違う動きをした。
「?」
つるりと白い何かが昇ってきた。
「わ!?クウ・クルか!びっくりした」
白イタチは悪戯そうな目をぱちくりさせ、ジャンの目の前で気持ちよさそうに寝転んだ。
「お前…いい身分ですね」
ピクリと顔だけ上げてこちらを見る。思い出したようにイタチはシャルルの方を見つめた。
飛び移るには少し距離がある。ジャンは抱き取ると馬を寄せ、シャルルの目の前にトンと親友をプレゼントする。
「クル…」
それは首をかしげ、それからいつものようにシャルルにすがり昇ってくる。
抱きしめ、シャルルはすん、と小さく鼻をすすった。


森の中は色を変えた葉を黒く湿った土に積もらせ、枯れた木立の間を抜ける日差しがそれを温める。街道沿いは落葉しない木々が並び、それが作り出す日陰で冷やりとする空気も、何か厳かな雰囲気をかもし出す。自然と人々も口を閉ざし、静かに進んでいく。時折、子供が甲高くしゃべる声、馬が鼻を鳴らすのが聞こえるくらいだ。
木漏れ日を浴びながら、ジャンはゆっくりと山道を登っていった。
「ここが、君の故郷なんですね、シャルル」と。言いながらジャンは手を伸ばしシャルルのケープについたフードをすっと被せた。
「かぶっていた方が、いいでしょう?」
「……ありがとう」
「リシャール様から聞きましたよ。リオン・ド・リタって、呼ばれていると。僕もそう呼んでいいですか」
「うん。僕も、そう名乗る」
獅子、そんな強い名前が、今はわずかでも勇気をくれる気がした。

森の中きょろきょろ見回すジャンと対照的にシャルルはひたすら目の前の地面を見つめていた。
見覚えのある建物、石造りの門。どれも今は見たくない。
道に歩く人々も、もしや知っている人だとしたら。
シャルルは人々の顔見ないようにうつむいていた。

「かなり、登るんですね。紅葉が綺麗だな」
シャルルが今、ただ一人信頼する人間。ジャンがのんきに空を見上げた。
「そうだよ、自然の要塞なんだからさ」
「要塞?修道院が門番がわりなんですか?」
「そう、だから僕は小さいころから体術を習っているんだ。今度から喧嘩するなら覚悟してからにしろよな」
シャルルの声も少しだけ元気が現れる。

それも修道院の前で馬を降りたときにはまた姿を消した。
うつむいて進むシャルル。少年の服を着、フードを目深に被っていれば誰も気付かないのかもしれない。
修道院の門を左右から見守る修道女たちは、じっとしたまま人々を穏やかに送り出す。その中にシャルルがいることなど、気付かないようだ。
気を使ってくれるのか、二頭の馬をジャンが曳き、ときどき後ろを歩くシャルルを振り返る。大勢の人に紛れ、二人は街への小道をゆっくり進む。
建物の角を過ぎれば一気に広場が目の前に広がった。
「わ、広い」ジャンが思わず呟いた。
ざわざわとした人声と屋台の店が並び、香ばしい食べ物の匂いが漂ってくる。
ランスに入った者は皆、そこで一度立ち止まる。閉ざされた感のある森を抜け、荘厳な修道院を抜けた先に広がる明るい広場は別世界を思わせる。シャルルは日差しが眩しいふりをしながら何度もごしごしと目を擦り、湿ってしまった目と心を奮い立たせた。
「うん、広いな」
背が伸び視界が変わったことで、見えるものも増えたのか、感じることも増えたのか。ランスの街は賑やかで、記憶にあるよりずっと色鮮やかだ。
何も持たない孤児には無関係だった宿屋や酒場、野菜売りや市場の屋台。今は心をくすぐり煌いて見えた。連なる家々の屋根、三角に尖りレンガ色の層をなして向こうまで広がっている。こんなに広い街だっただろうか。
広場の先にまっすぐ伸びる街道沿いには、聖堂の衛兵たちが並んでいる。誤って道の真ん中に出てくる子供をなだめ、道の端にと促す。
それでも時折、ふざけた子供たちがきゃあきゃあ笑いながら通りをわざと横切って渡る。
そこに貴族の馬車が走り、慌てて衛兵は子供たちを引き寄せた。
振り返ればまた新たな馬車がまた到着し、街道を大聖堂めがけて進む。カラカラと車輪の音を石畳に響かせる。
「まずは馬を預けてきましょう。何とか国王陛下の御到着には間に合ったみたいですよ。宿はどこがいいんですか」
ジャンの問いに応えられる経験はないが。顔を覚えられていると困るから、通りの奥にある知らない店を指差した。
「部屋が空いていればいいですけど。…大丈夫ですか」
「ああ、平気。僕がここを出たのは二年前なんだ。事件があって、ロトロアと一緒にここを出た。一連の事件の後で、僕は」
シャルルは鼻を鳴らす馬に手を当てた。ロンフォルトは優しい馬だ。主人の気持ちを良く分かっている。すり寄るように顔を向けるのは、慰めてくれているから。
「僕は、自分がランスでどう扱われているのか分からなかった。罪を背負って追い出された罪人かもしれないし、誘拐された可哀想な子供なのかもしれない。僕は、あの時僕の身に起った現実しか知らない。だから。ほら、ニルセンさんの言ったように。僕は帰らないほうがよかったんだと思った」
「……その、ひどく抽象的な説明で、僕は我慢しなくちゃならないのですね」
ジャンの言葉にシャルルは顔をあげた。
年下の生意気な騎士見習い。鼻もちならない、でも頑張っている奴だ。
まっすぐシャルルを見ていた。いずれ応えるべきなんだろうと思える。
「いつか、話すよ」
「子供だと思っていますか?僕は今、二年前のシャルルと同じ年齢ですよ。君が耐えられたなら僕だって大丈夫です。受け入れられる」
ぶ、と。シャルルは噴き出した。
「馬鹿だな。僕が今はっきり口にしないのは巻き込みたくないからだよ。あのとき僕は、ロンダを巻き込んで死なせてしまった。後悔しているんだよ、ずっと。リシャールも、多分ロトロアも、すべてを明かさないには理由があるんだ。自分のための場合もあるし、相手のための場合もある。そこを信じて聞かずに待てるのが、大人ってもんだよ」
口にしながら違和感は随分ある。それをジャンが言い当てた。
「君に大人なんて言葉聞かされるとは思いませんでした」
「ほんと、僕も今初めて使ってみた。いい響きだな。ブリュージュでは僕が最年少だったからなぁ」
「何を悦に入っているんですか、いいです。待ちますよ。僕も大人だから」
聞かなくていい事がある。知らなくていい事がある。
知ってしまったら、忘れることはできない。
そう、あの時ロイが忠告していた。
今ならその意味が分かる。だけど。ロイのことを忘れたいなどと考えたことはない。
「じゃあ、君は当分リオンのままなんですね」
「そうだな。僕はあの時やり残したことを、心残りになっている一つを解決できると思ったから。ここに来たんだ」
ロイが、生きていてくれたら。
たとえば今更。僕が巻き込んだロンダが帰ってくるわけじゃない。僕が修道院に帰ることもできない。だけど、ロイが生きていてくれたら、少しだけ救われる。


宿に疲れた馬を預け、二人は早速大聖堂へ歩いて向かった。
すでに人があふれ、大人も子供も商人も農民も、見たことのない王様を待ちわびている。
戴冠式第一日目はランス大聖堂への入城の儀式。
今夜は大聖堂でにぎやかな祝宴が開かれる。
先ぶれの一団が到着し、道を清めるためなのか可愛らしい少女が二人先頭に立ち、白い花をはらはらと撒きながら踊るように進んでいく。それを見ると、通りにはみ出していた子供たちも慌てて道を空けた。無邪気に振りまかれた花を拾って、大切にしまいこむ少女、もう一度行列に向かって「えいっ」と投げ返す少年。
白い羽飾りをつけた馬が列を作り、赤や黄色の衣装の衛兵が大きな王国の旗を掲げて行進する。ユリの紋章が並ぶ旗は昼前の日差しに揺れ、槍の穂先が眩しく輝いた。
「国王陛下!」
「国王様」
「ルイ様ぁ!」
口々に声援が飛び、いよいよ馬車が見えてくる。歓声は高まり、この田舎のランスにこれほど人がいたのだろうかと思えるくらい、人が街道にひしめいていた。
立派な白馬を二頭立て、周囲には衛兵が青いマントをなびかせ、護るように並走する。
近衛騎士団。「王の騎士」たちだ。ロイを護るならああいう役もカッコいいなと。美しい騎士たちに自分の将来像を重ね、シャルルは一瞬我を忘れた。
「国王陛下!」
すぐ隣でジャンが叫び。
その声にびくりと目的を思い出す。
「ルイ様!」
シャルルも声をあげる。隣の男に肩を押され、よろめきかけるが、ジャンが支えてくれた。
おお、と。馬車の目の前の集団からどよめきと拍手。ますます高まる歓声。
ルイ様が姿を見せたのだろうか!
シャルルは精一杯背伸びし、まだ目の前までたどり着かないそれを懸命に見つめる。
馬車の窓、振動と風に合わせて揺れるカーテンが白いベールを脱ぎ。その奥の姿を垣間見せる。
少年、だ。馬車の中の暗がり、髪の色や服装は判らない。にこりと微笑み、手を振る。それは、ロイなのか。記憶にある顔はもっと幼かった。
「ロイ!?」
思わず叫ぶ。もっと、前に、もっと近くに。ちゃんと、顔を見せてほしい!
こちらを見て、僕はここに。


風に舞う花が白い影となって視界を遮った。
人々の歓声は森のざわめきのように風に溶け意識から遠ざかり。シャルルはただじっと、馬車の中の姿に目を凝らす。
煌いた馬車はゆっくりと目の前に差し掛かる。風にフワフワとレースのカーテンが揺れ。ああ、もっと、ちゃんと見せてほしい!
シャルルはじりじりと前に進み。気付けば一番前。
「ルイ様!」叫んだ。風がゆらぎ、少年の一瞬の顔。前触れもなく目の前を衛兵がふさいだ。
今のは?
「ロイ!?」
その背後に座る王妃ブランシュの振っていた手が止まった。
王太子はしばらくシャルルと見つめあっていた。
「ルー……」
長いようで、それは一瞬。ルーはカーテンの後ろに隠れた。慌てたように見えた。
僕を覚えているんだ。あの日、水車小屋であったことを覚えてる!
「ロイは!?」
シャルルは叫んだ。どこかでジャンがやめろとわめいている。
「ロイはどこ!?なあ!ロイは」
ロイじゃなかった、違った!
押さえる衛兵の腕をすり抜け、シャルルは過ぎ去ろうとする馬車の背後に飛び出した。
「何をする、貴様!」怒鳴り声とともに振りかざされた槍。
無意識にひらりとかわし、シャルルは馬車を追いすがる。からからと石畳を蹴る車輪、あと少しで、手が車体に届く。
と、両側から突き出され交差された槍が行く手を阻んだ。
「ルー!ロイはっ!」

槍が腹でぎし、と軋む。押しのけようとし跳ね返され、再び前を見ればすでに馬車は小さくなっている。
どんと背中をひどく小突かれて、シャルルは石畳に転がり込んだ。気づけば衛兵に囲まれ、腕を、肩を取り押さえられている。花を踏みつぶしている兵たちの足元から顔をあげると、人ごみの中にジャンが見えた。
怒った顔をしていた。殴られたのか衝撃に視界がぶれ、次に顔をあげた時には人々の陰に見失う。

「祝いの式典です、ここで死者を出すのは縁起が悪い。放してやりなさい」
ロイと同じ、綺麗な発音で命令が下され、シャルルは解き放たれた。
わけのわからないまま、石畳に身体を丸めていた。手を引かれ、起き上る。帽子はいつの間にか取れていた。風がふわと髪をなびかせる。
「お前は何者です?」
シャルルは騎士をじっと見上げた。身分の高い騎士らしい、立派なマント、肩の徽章は金で飾られている。蒼い衣装は近衛騎士団なのだろう。兜の下からは口元だけが見えた。端正な、少し紅すぎる唇が笑った。
「どこかの騎士見習いですか。ふうん、優美な獣のようですねぇ。お前、名前は?」
そういう表現をするのは大抵リシャールみたいな人間。
気持ち悪いな、シャルルは睨み返した。
「リオン。リオン・ド・リタだ」
どう聞いても偽名と分かる名だが。「獅子ですか、ぴったりですねぇ」と青年は笑った。
「ところで、リオン。私は地理には詳しいほうです。リタと言うのはシャンパーニュ地方の山村でしたねぇ」
青年の笑みの理由が、間延びする語尾に響き。
「シャンパーニュ伯の命令ですか?」
「違う。見物に来たんだ、ただ王様に会いたくて」
「会わせてあげますよ、着いて来なさい。大人しくしてくださいね。会いたくて、来たんでしょう?」
背後から槍で急かされ。
シャルルは仕方なく、騎士の隣を歩き始めた。並んでみると、騎士はそれほど背が高いわけではなかった。
「あの、貴方は?」
「私はベルトランシェ。国王陛下付き近衛騎士団『王の騎士』を率いています。ブランシュ様は凛々しく美しいものがお好きです。私のようにね」
何が凛々しいのか、その辺りを追求するつもりはない。シャルルはただ、ベルトランシェが言った「会わせてあげる」それをひたすら反芻していた。



『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑫

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

12

後続の馬車の一つにベルトランシェに連れられ乗り込むと、シャルルはじっとしていた。
その馬車には男が一人乗っていた。ベルトランシェが「ちょっと面白そうな子でしょう?リオンというんだそうですよ」と笑いかけるが、男は少々うんざりした表情で黙ってシャルルを眺め回した。
その視線を真っ直ぐ受け、シャルルもそいつを観察する。失礼なのかもしれないが、十分まずいことをしたのだから、今更気にすることもなかった。
役人風の青年だ。短くした茶色の髪、少しくぼんだ目がぎょろりとし、美男と言えないこともないけれど高すぎるように見える鼻と印象が強すぎる目つきには女性の好みが分かれるだろう。リシャールとは比べ物にならないし、キ・ギの熊みたいな顔の方がまだカッコイイ。と、評したのはシャルルの勝手な了見だ。

「セジュール、気持ちは分かりますが少しは落ち着いたらどうです?」
そう青年に笑いかけながら、ベルトランシェは兜を脱いだ。
ふわりと長く伸ばした銀の髪を一振り、肩に解き放つ。シャルルは男だよね?ともう一度じっくりと隣に座る騎士を観察する。
リシャールほど綺麗な顔の青年はいない、と思っていた。世の中は広いな。
それが、ベルトランシェを見た感想だ。
ちらりとシャルルにウインクして見せるのは、どういう意味なのか知らないが、ぞわ、と変な気分になった。思わず肩をすくめ。咳払いした目の前に座るセジュールという青年と目が会った。こちらもどうやら、あのウインクに非難じみた視線を送っていた。
「リオン・ド・リタ。リタ村を持っている。この子供がですよ?あそこは確かシャンパーニュ地方ルジエの一部、このランスにも程近い。となれば、どこかの貴族の系譜かと。シャンパーニュ伯は貴族の子弟を幼いころから宮廷に登用し、教育を施していると聞いたことがあります」
「この忙しいのに、余計なものを拾われても困るが」役人が呟く。
「どうなさるかはブランシュ様にお任せします。ご報告のみで解放するかもしれませんし、場合によっては式の後でパリに連れて行き、調査してもいいでしょうしねぇ」
「パリ?!それは困るよ!僕はただ、式典を見たかったんだ、新しい王様に会いたかっただけで……」
「お前が会いたいのは陛下ではなく。ロイ、でしょう?」
ベルトランシェの言葉にセジュールがびくと身体を強張らせた。
ロイという名に対する彼らの緊張が伝わってシャルルは自然と口を閉ざした。何か、ロイの名が問題なんだ。
ごくりと、シャルルは唾を飲み込んだ。
「入城の式典の後なら、ブランシュ様のお時間をいただける。それまで私の部屋を提供しよう」そう言ったのは役人男。ベルトランシェが強く頷いた。彼らはもの問いたげにシャルルを見つめ、シャルルも聞きたいことは山ほどあるが口に出せずにいる。


シャルルは大聖堂の裏口へ連れて行かれた。敷地内は見たこともないくらいたくさんの馬や馬車が置かれ、綺麗に着飾った貴族たちがうろうろと歩き回っていた。
ベルトランシェが背後にぴったりと着いて先を急がせる。
聖堂の脇を進み、厩のある界隈を抜けた先に裏口がある。つい、白馬に目が止まった。ロトロアの馬のはずはないのに。自分に呆れる。
ふと、先ほどの黒馬の馬車が目に付いた。他の馬車よりずっと強い鋼で作られた車体。車輪も一回り大きいように見える。それが三台行列で並ぶのだから、村を疾走したときには迫力があった。
「ヘンリー三世公も、お見えか。遠いところ、ご苦労なことですねぇ」
隣を歩くベルトランシェが呟いた。
「ヘンリー三世、公って、イングランドの?それで北の訛りで、見たことのない馬車なんだ」
シャルルは修道院の手前で見た、衛兵の視線を思い出した。
「そうです。先の戦争でノルマンディー界隈は我が所領となったというのに未だにノルマンディー公を恥かしげもなく名乗る。ノルマンめ、いずれ、この王国から追い払って見せます」
ベルトランシェの口調が低くなる。ヘンリー三世はカペー王朝の遠い親戚に当たるはず。追い払う、か。そういえば、ここに呼ばれているはずの大貴族たちは皆、多少なりともルイ九世と血の繋がりがある。
親戚同士、平気で領地を奪い合った時代があったというから、戦争が耐えないのも仕方ないのかもしれない。誰が誰を恨むとかではない、邪魔者は排除する、それが諸侯にとって当たり前なのだ。だから貴族は大半が領地に城を建て、騎士となって戦う。
カペー家がフランク国王を宣言し、諸侯に知らしめ優先的なオマージュを結んだ。こうして、国王は戴冠を大聖堂で行い、聖なる神に近い存在だと皆に知らしめる。
諸侯とは違う特別な存在、聖職者より強い権力を持ち、どの貴族より聖なる存在となる。
あれがロイだったら、どれだけ嬉しかったか。
シャルルは溜息をうつむいてごまかした。


大聖堂の中、客間らしいところにつれてこられた。あの時、ロイを閉じ込めていた部屋に少し似ている。
「私は務めがある、大人しくしてくださいね。縛って欲しければ喜んで縛ってあげますが」
ベルトランシェは花がこぼれるような笑みを浮かべ、腰につけていた鞭をするりと取り出す。あまり、見たことのないくらい、長い鞭。
シャルルは一歩下がる。
「誰も、逃げるなんていってないし。逃げるならもう、とっくに逃げてる」
ぱん、と。
何のことか分からないまま、シャルルはよろめいて尻餅をついた。痺れるような痛みを感じ左腕を見れば、袖が裂けていた。二の腕はぬるりと生暖かいものが滴り、それが赤く服を染めるのを呆然と見ていた。
「今日の無礼の罰です。私としてはしたくないのですが、部下の手前もありますしねぇ」
にやりと。楽しそうに笑う。
「意味が、分からないよ」部下の手前?そんなの誰もいないじゃないか。
「部下の前では鞭はめったに使いません。怖がらせるのは、人徳を失いますからね」
「…」
「自由に出られるようにしてあります、楽しみですねぇ」
「だから!逃げないって言ってるだろ!」
ベルトランシェは肩をすくめ、長い髪をはらりと翻すと背を向けた。
「つまらないですねぇ」と、小さく呟いたのが聞こえる。

扉の向こうに青年が消え、その足音が聞こえなくなるまでシャルルはじっとしていた。
外の日差しが窓から室内を照らす。かすかに楽曲の音が聞こえてくる。式典が始まったんだろう。
左手はじりじりと熱く痛んだ。
左でよかった、右じゃ、剣も使えない。
シャルルは腰の剣に触れてみる。獅子紋の剣。ロトロアが預けると、言った。

ふと。それを取り上げられなかったことに気付いた。
もし僕が剣を抜いたら。ベルトランシェは喜んで襲い掛かっただろう。
そのために、その口実のために剣を取り上げないのだ。縛りもせず、扉に鍵も閉めない。
侮られている、が。それが現実。相手は『王の騎士』。
ぞくりと寒気を感じシャルルは震えた。
まだ昼過ぎなのに気温が下がってきていた。


「リーオンっ」
緊張感のない呼び声に、シャルルは顔を上げた。
扉から黒髪の少年が顔を覗かせていた。
「!?ジャン!どうして!?」
きょろきょろと周囲を見回し、それからジャンはのんきな様子で部屋に入った。
「誰かさんが無謀にも、飛び出して捕まっちゃうから。貴族の小姓になり済まして入り込んだんです」
「お前も正体がばれたら危ないぞ!バカ、早く逃げろよ!」
ジャンは王の騎士の怖さを知らないんだ。
「ほら、ベルトランシェって怖い王の騎士がいて、鞭で痛めつけるんだぞ!捕まったらお前なんかまた、ひーひー泣くことになるんだ」
「鞭…」ジャンは口元を押さえシャルルの傷をじっと眺める。上目遣いでシャルルを見上げた。
「痛そう。泣いてもいいですよ」
「馬鹿か?」
「…だって血が出ているし、鞭は痕が残ると聞きました。女の子なのに」
「剣を振り回す人間が血を恐れてどうするんだよ。いいから、あっちに行けよ」
「何言っているんですか、怖い騎士がいるんでしょう?早く、行きましょう」
シャルルはむと口を尖らせた。
首をかしげるジャンは不思議そうに眼を大きくしている。睨み切れずにシャルルは座り込んだ自分の足元を見つめる。
ルイ九世はロイじゃなかった。ロイがどこにいるのか、ロイが本当は誰なのか。今調べなきゃチャンスはない。ルーは僕のことを覚えてる、絶対に。王様に会えるなんて、もう二度とないかもしれないんだ。
「……行かない。夜にはルイ九世陛下かブランシュ様に会える」
「ロイに会えるんだとしても、この扱いは納得できません。本当に、シャルル、貴方の言っているロイがルイ九世陛下なんですか?」
ジャンに返す言葉はない。
ふう、と溜息を耳にしてシャルルは少年を見上げた。
「やっぱり違ったんですね。あの時、ロイはどこだって飛び出して行ったくらいですから。ルイ九世がロイなら、戴冠式を終えるまでじっと待っていることだってできたはずですよね」
「お、お前には分からないよ!」
そこでジャンが、急に表情を硬くした。握っていたシャルルの手を放し、一歩下がる。
「ええ。僕は事情を知らないし。でもだから、冷静に判断できる。シャルルが本気でこのままでいたいなら僕は仕事に戻ります。僕も遊びに来ているわけじゃないから」
かすかにジャンの口調に力がこもる。
「シャルル、今決めないなら、僕は君を置き去りにしてでも仕事を果たして一人でランに帰ります」
「言っただろ。お前を巻き込むつもりはない」
「分かりました。シャルル、これ以上だれも、君の身勝手に巻き込まないようにお願いしますよ」
ふいと背を向け。あっけないほど素早くジャンは姿を消した。
どうやって忍び込んだのか、見つかればただではすまない。それでも単身で派遣されるだけのことはあるのか。喧嘩した時にはたいして強くもなかったのに。十一歳で伝令を任されている。シャルルがバカにできるほど、子供でもなかったのかもしれない。

シャルルはふと、部屋の隅のベッドに気付き、ずるずると身体を引き寄せて寄りかかった。ベッドを血で汚したら、あの役人男は顔を青くして怒りそうだから体の右側を預け、目をつぶる。
そうしてひんやりとした毛布に頬を押し付けていると、ひどく気だるくなってくる。
昨日までの幸せな気分がうそのようだ。ロイじゃなかった。
僕は、ロイを失ったままだ。
ルーが、そうだよ。あいつがいたんだ。弟のロイが王様のはずないじゃないか。代々長男が王を継承するんだ。バカだな、思い出して冷静に考えてみれば。
冷静じゃない、と。そういったジャンの言葉を思い出す。
冷静でなんか、いられない。
昨夜、嬉しさに興奮して眠れなかったことが皮肉にも今、気持ちとは裏腹に睡魔を誘う。
シャルルは耳に心地よいベッドの感触に、何度かすりすりと頭を擦り付けた。


雨が降っている。
暗い空に冷たい雨粒の洗礼。ぎっ、ぎっと規則正しい音は水車。懐かしい、あの水車小屋。僕は一人でのんびりできるそこが好きだった。僕だけの領地みたいなものだ。自分の家、自分のもの。今思えば、修道院では何もかもが共同だった。自分のものなど、ないに等しかった。あの頃、水車小屋の管理ができることは僕にとって特別なことだったんだ。
初めてブリュージュで、自分の部屋、自分の衣装棚、自分の食器。そんなものをもらって、ひどく感激した。ロトロアはそんな僕を面白がって、ついでだと馬をくれた。

あの当時、雨の夜は怖かった。一人で眠るのが怖くなって女中の部屋に行って一緒に寝ようとしたら、またあいつに馬鹿にされて。それ以来僕は一人。
それもいつの間にか平気になっていた。
自分の部屋も、自分だけが使うベッドも。当たり前になった。
ロトロアが僕に笑いかけたりからかったりするのも、いつの間にか慣れた。

だから、僕は今。ロイの身に起ったことを隠しているんだろうか。ここでもし、僕が「ロイを誘拐したのはシャンパーニュで、ロトロアがそれを実行したんだ」と。ロンダを殺した犯人は彼なんだと、訴えたら。
どうなるんだろう。


いつの間にか、涙がこぼれていた。
僕は卑怯者だ。
自分のために、手にしたものを失いたくないから、ロンダのこともロイのことも裏切っている。ううん、ずっと裏切ってきたんだ。ロトロアに脅されたからじゃない、僕はロイのことを追求することで、今僕が手にしたものが無くなってしまうことが、怖かったんだ。もしかしたら、もっと真剣にロイのことを知ろうとしていれば違ったかもしれないのに。僕はずっと、あの日のことはしまいこんで、誰にも話さずにいる。「ロトロアが脅すから」と理由をつけて。
ニルセンの表情を思い出した。

ロトロアのそばにいれば騎士になれる。そうしたら、成人して自由になって。
僕が、そんな卑怯な僕がロイに会って。僕はどんな顔をしたらいいんだろう。ロイはどんな顔をするんだろう。ロイは、それでも笑ってくれるだろうか。

かすかな振動が空気を揺らした。
それを頬で感じ、シャルルは目を開いた。闇の中の雨音は昼の日差しの中人々のざわめきに変わり、明るい室内に何度も目をこする。

「ベルトランシェが、ここにいろって?」
声に顔をあげた。
金色の髪がふわりと耳の横に伸びて揺れる。一つに縛ったそれが重そうな衣装をまとった肩に乗り、金の刺繍と重なればきらきらと瞬いている星のようだ。
ランの香水売りが売っていたあのにおいとは違う、柔らかな花とはちみつの匂いみたいなものが鼻をくすぐり、シャルルはすんっと鼻をすする。
背が伸びたルーは大人びた顔で笑っていた。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑬

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

13

「あ、あの」
声を出して、やっと自分の状態と、そこにいる人間の意味を思い出した。
「ルー!?」
ぴょんと立ち上がるシャルルに驚いたのか一歩下がり、それからルーは笑った。
「あの時を思い出すね。水車小屋で。シャルル、だよね?」
立ちあがって向かい合えば、シャルルより拳一つ背が高い。ほっそりとしているものの、かすかにロイに似た面影もある。
黙ってうなずいて、シャルルは思い出して目をこすった。
「怪我をさせてしまったのだね、すまない。ベルは時々、無茶なことをするのだよ」
シャルルの腕の傷にそっと触れ、ルーは一緒にシャルルの髪をなでた。出会ったときと同じ、穏やかでにこやかに笑う。繊細な造りの目元に儚さすら感じさせるのはロイとも似ている。あの時と違い、とても綺麗な言葉を使うところが、なぜかシャルルを緊張させた。

「あの、式典は?」最上の敬語とやらがとっさに口に出来るわけでもない。しどろもどろになる手前でシャルルは言葉を区切った。
「大丈夫だよ。夕方の祝宴まではまだ時間がある。君をベルが捕らえるのを見ていたんだよ。だから、早く助けてあげようと思ってね」
ルーはシャルルの肩に手を置いた。案外、力強く。その重みにシャルルは動けない気分になる。
「何も心配しなくていいんだよ。君とであったことを誰にも話していなかったから、彼らも驚いたんだよ。でもシャルル、どうしてロイが王家の人間だって、知ったんだろう?」
少し、意味を飲み込むのに時間がかかった。
「もしかして、シャルル。君はあの後、ロイに会ったのではないかな?」
声は耳元に響く。あの後、ロイに遭った、そう、ランスで。
それは知られていいこと?
「あの、……その」
「賊に追われランスに逃げたらしい。その後がね、消息不明。ランス大司教は知らないと言い張るし」
「え!?」

誘拐のこと、知ってる!?
シャルルは緊張の中、精一杯回転させていた思考がどきどきと音を立てて崩壊するのを感じた。頭を軽く横に振る。落ち着け、当然だよ。だって行方不明になったわけだし、ロイの世話をしていた大人たちもいたはずだし。落ち着け。

「どうしたのかな?シャルル。顔色が悪いよ。君が私を呼び止めようとしたんだよ。私に何か言いたいことがあったのだろう?」
「僕は、ロイが。ルイ九世なのかと思った。だって、ほら、王様の子供って意味だって……」
「どうしてロイの名前の意味を知ったのかな。彼が自分から話す筈はないんだ」
穏やかな若い王の前でシャルルは胸を押さえ、口を押さえと忙しい。
「君は素直だね。ロイは私の兄弟だけれど公にされていない。存在を知っている人は限られている。分かるかな」
「…公にされてないって?でも継承権はあるって、あれ?」
ふとルーの手が緩んだ。眼を見開いてシャルルを見下ろしていた。
それから、ため息を吐き出すと。
「それも、知っているのだね。君は何を知っている?どうして修道院の孤児がたった二年の間に騎士見習いになり、獅子紋の立派な剣を持ち、知るはずのない知識を得ているのかな?君は、何者なのかな」
再び口を押さえようとする手は、しっかり温かい手に掴まれる。
ルイ九世は笑みすら浮かべてシャルルを見下ろした。
動けなくなって初めて、シャルルはルーの顔をまじまじと見つめた。
その目は、笑っていないのに浮かべた笑みは完璧。十二歳という年齢にそれは、どうにも気持ち悪い。そう思うとシャルルは落ち着いてきた。
こいつ、気持ち悪い。

ロイが公にされてないって。どういう意味だ!?
それはロイにとっていいことでない響きをしているし、それを当たり前のように笑いながら話すこいつって、どういう奴だ。
ロイのこと大切に思ってるなら、本当に兄弟として大切なら、違うと思う。
獅子は勘を取り戻す。その嗅覚が警戒を解いてはいけないと、警鐘を鳴らす。そうなればシャルルの思考はすっきりと答えに向かって歩み出す。先ほどの緊張とは違う鼓動が強く胸を打った。
「公にされてないって、どういうこと?ロイは兄弟なんだろ?ルーの弟なんだろ?」

シャルルはルーを睨み返した。そんな顔を誰かにされることはめったにないだろう。若き王は何度も瞬きした。それはすぐに、穏やかな笑みに戻る。
「初めて出会ったあの後、ロイは珍しく饒舌で、君の事を悪く言いながらも楽しそうだった。ロイが、君のことを気に入ったんだなと、すぐに分かったよ」


―――諦めるなんて、言うなよ。僕が助けるんだ。誰がどう思ったって、僕はロイに生きていてほしい。
「案外泣き虫だな、シャルルは。泣かないでって言ったじゃないか」
「泣いてないって!僕はお前を助けるって言ってるんだ。同じ死んじゃうかもしれないなら、僕の言うこと聞いてからにしろよ。いい?」
「ごめん。泣かせたいんじゃないんだ」
ロイの声が少し鼻にかかる。あの時。泣きたいのはロイのほうだったはずなのに。
僕らは、二人でランスを逃げ出す覚悟を決めたんだ―――

思い出せば胸が詰まる。
「ロイは思慮深くて、優しくて……」
ぎゅ、と。不意に抱きしめられた。
「いてっ!?何するんだ!馬鹿!?痛いって、言ってるだろ!放せ、同じ兄弟でも全然違う!ロイはもっと」
ますますルイの腕に力がこもるからシャルルは黙った。
蹴ったり殴ったりしていいものならとっくに蹴り飛ばしてる。王様って言うだけで、躊躇する。何で僕は。それが余計に腹立たしい。
「ロイのこと、好きなんだ?優しくしてもらったんだ?」
可笑しくて仕方ないとルイの震える肩が知らせる。
「へえ、妬けちゃうな」
「放せ!お前もっと、大人しい奴かと思ったのに!」
「…大人しいよ。穏やかで、思慮深く。でも。優しくはない」

そういう断言の仕方って、ないよ。

「優しさなど、王には不用。教えてあげようか。ロイは、弟ではないよ。兄、それも王位継承権のある第一男子、フィリップ」
ぞくりと、背を何かが這う。
兄…ロイの方が、お兄さん?
「ロイは病弱だったし、体も小さかったからね。間違えるのも無理はないけど。君は何を知っている?ランスに逃げ込んだ彼が頼れる人間は君くらいしかいない。ねえ、シャルル。知りたいのは私のほうだよ。……シャルル、なんでここ、布なんか巻いている?」
「は?」
いつのまにか上着の裾はまくられ、ルーの手が背中に触れる。胸を押さえている布をたどろうとする。
「ぎゃっ!?」
シャルルの声だったか、ルーの声だったか。
シャルルは反射的に飛び離れ、「ばか!触るな!」と怒鳴った。股間を蹴られたルーは床に膝をついて座り込んでいた。
「ひ、どいね」
「そんなことするからだ!王様だと思って我慢してれば、何するんだ!!大体、公じゃないってどういう意味だよ!」
シャルルが詰め寄ろうと踏み出した瞬間、扉が派手に開かれた。
衛兵らしき人やあの役人男、手に手に槍や剣を持ち駆け込んできた。一団の先頭にはあのベルトランシェ。
「陛下!こちらにおいでとは」
あの鞭がすでに手にある。
騎士の銀の髪が揺れるのと同時にそれは稲妻のように宙を走る。
数瞬前、シャルルは体を低くしルーの陰に隠れる。風のような鞭が唸ってシャルルのいた空間を切った。
生き物のような鞭はぐんとしなってまたシャルルを別の角度から襲う。ふわりと飛び上がり、テーブルの上に飛び乗れば、その足元に飛びついてくる。バシンと派手な音を立て書類が何枚か派手に飛び散った。
シャルルはすでに椅子の背もたれに片足立ち。
バランスを保ってじっとしている。

「こ、この、ちょこまかとっ!陛下、早くこちらへ!」
「いい、ベル。止めなさい。私は大丈夫」
「し、しかし!」
ゆっくりと立ち上がり、ルーは凛と佇む若い王に戻る。駆け付けた男たちは立ちすくんだ。
黙って彼らを見つめているだけなのに。聖像が生身に変わるのを目にしたように家臣たちは息をのんで見つめ返す。
シャルルだけは口をへの字に結んだまま、双方を睨みつけていた。
「面白そうだったからのぞいたまで。この子に部屋を用意しなさい。ベルトランシェ、職務とは言え女性の体に鞭をふるうなどしてはいけない。痕が残ってしまう。シャルルは私の幼馴染です、丁重に扱いなさい。傷をつけた理由については後で説明してもらいます」
「女性?」一斉に三人くらいが声を上げた。
「見れば分かります。ベル、いくら美しいお前でもかなわない。本物の女性には、ね」

好奇と、ベルトランシェにはある意味嫉妬の視線を浴び、シャルルはもじもじと後ろに下がる。実際のところ、シャルルはもう、どうしていいのか分からない。
ルーはあの時と印象が違う。ロイにとって、ルーは味方なのか。それすら分からない。
聞きたいことはたくさんある、だけど。

「来なさい、リオン」
ベルトランシェが手を伸ばした。
聞きなれない仇名がシャルルを現実に引き戻す。シャルルはそれをすり抜け、扉を目ざした。
「シャルル!理由を知りたければ来なさい!いつでも、教えてあげる」
そう、ルーの声が後を追いかける。
どうしたら、いいんだ。
僕は何を知って、何を知らなくて、どうしたらいいんだ!?
分からない!分からない!

聖堂の建物を夢中で走り、途中何人かの衛兵に不審者がられたけれど、振り向きはしない。
シャルルはとにかく、走った。

夢中で大聖堂の外に飛び出せば、通りはお祭り騒ぎだった。だれもとぼとぼと歩く騎士見習いの少年に眼を止める者はいない。
酒屋の軒先では何度も「ルイ陛下万歳」と杯が掲げられ、花売りも花をかごに抱えたまま踊っている。
冷たい冬の風も、彼らの熱気と温かい日差しに和らぎ。シャルルはまるで違う場所に来たように感じ、立ち止る。
大聖堂を振り返る。再び前を向いて宿へと歩き出した。
ジャンと合流できるかもしれない。
ジャンに相談してみよう。僕が冷静でないなら、ジャンならきっと。


先ほどまでの出来事とルーの言葉を反芻すれば、心は急く。いつの間にか走り出し、宿に入ると主人へのあいさつもそこそこに部屋へと向かった。階段がギシギシと鳴る。
ぐるぐると思考を繰り返していたが、ふと。それを年下のジャンに相談するというのは早計だろうかと。足が止まる。

「昼食、今なら間に合いますよ」
顔をあげれば階上からジャンが顔をのぞかせていた。木製の手すりから見下ろす顔はかすかに笑っている。先ほどのやり取りから考えれば腹を立てていてもおかしくないのに。
今更か。
戻りかけた一歩を再び踏み出し。シャルルは「よかった、もうお腹すいてさ」と笑って見せた。


無造作に包帯を巻くだけで済まそうとするシャルルに、「後できちんと治療しますよ」とジャンは念を押し、まずは腹ごしらえ。二人はテーブルについた。
香ばしい匂いをさせるパンとハム、果物と屋台で売られていた串刺し肉を焼いたものを眺めながら、シャルルは早速話し始めた。
「王様に、会った」
「ふうん」ジャンは興味なさそうな顔をしてオレンジのジュースを飲み干す。
「あの、聞きたくないなら、…話さない。巻き込むし、その」
「まずは食事ではないですか?大体、聞いてほしいから話し始めてるんでしょう?泣きそうな顔して。それを僕が聞きたいかなんて、ずるい言い方はやめてください。素直に、聞いてほしい、と言えないんですか」
ぐ、と。そのタイミングでフォークに刺してあった果物がつるりと落ちる。
「ああ、きれいに食べてくださいね、シャルル。手が痛くて持てないなら、僕が」
左手は確かに痛む。じっと手を見た。
手に余って、今の自分では何をどうしたらいいのか分からないのだと。悔しいけれど認めるしかない。
目の前のジャンは二つも年下で、まだ十一歳の子供。血を見るのが嫌な、騎士見習い。いつか、セネシャルになるんだと。勉強中だ。両親を亡くして大人に囲まれながら、頑張っている。
シャルルはガクリと肩を落とした。僕ってだめだな。
「あの、ごめん。僕には、もう。正直、何をどう考えたらいいのか分からなくて。もともと、勘はいいけど勉強は嫌いで」
目の前に差し出されていた果物に、あぐりと噛みついた。ジャンは生き物にえさを与える感覚で、次の肉を準備する。
「それは知っています。見れば分かるし。君の話を聞いて、君を手助けするかどうかは僕が決める。決めたら僕は自己責任でそうします。それでいいんじゃないですか」
ああ、なんか。敵わないところがある、こいつには。
シャルルはフォークを右手に持ち替え、ジャンが切ってくれた肉をぐさりとやっつけながら話し出した。

「始まりは、二年前なんだ」
ランスでロイに出会ったこと。そのロイを、ロトロアに目の前で誘拐されたこと。
シャルルは事情も分からずロイを助けようと逃がしたこと。
そして、自分がロトロアに捕まり。ロイは行方不明。

「その。ロイがここに逃げ込んだことをルーは知っていたんだ。だけど、ロイは公にされていない、って言うんだ。ルーはロイの弟で。ロイが、第一王子フィリップだって言うんだ。その意味がよく分からなくて」
空になったスープ皿のそこを、スプーンでサラサラとなで続けながら、シャルルは話し終えた。ふと手を止め、少年を見上げればジャンは口元を引き締め怖い顔をしていた。

「シャルル。第一王子のフィリップ様は病気がちで、五年前、九歳で亡くなったと聞いています」
「え?」
「公にされていないって、そういうことなんじゃないですか。ルイ九世は今年十二歳。だとすれば、二年前に存在したロイは少なくとも十歳以上。彼がフィリップ様なら当時十二歳だったはずです。つまり、死んだことにされている。だから、誘拐事件も表沙汰にならないし、派手に捜索もできない」
「そ、んな」
「そう考えれば、辻褄が合います」
「何で、そんなことするんだ!?」
「僕に聞かれてもそこは、分かりません」
「理由を教えてくれるって言ってた。いつでも来いって!やっぱり、大聖堂に戻る!」
「シャルル!!ちょっと!君は向こうが何を知りたいのか、分かっていますか?!」
「え?…ええと」
そうだ、結局ルイは何を知りたいって言ってたんだっけ?胸の布のこと、じゃないよな。
「うー、よく分からない」なんかいろいろと聞かれた様な。
「誰もが理由があるから行動する。君にいつでも来ていいと言ったのは決して、親切心ではないでしょう。向こうには向こうの思惑がある。これはある種の取引なんですよ。よく考えてください」
「……僕がどうしてロイの正体を知ったかを気にしてた。そのくらいだよ。大したことじゃない」
シャルルは肉を見つめるふりをする。
「軽率ですね。慎重さに欠ける」
む、とするが。確かにそうかも。
「相手が知りたいことが大したことではないのなら。君を誘うのは君自身が目的だからでしょう。ロイを知っている人間がふらふらしていたらまずい。この場合君は捕らわれ、最悪は」と首を親指で切るまねをする。

「…それもあるかも」
「分かったでしょう。ロイは結局いなかった。以前と何も状況は変わっていません。もう、ここで得るものはないはず。式典が終わるまで、シャルルは宿でじっとしているべきです。言っていた通り、君はランスに戻るべきじゃなかった」
シャルルが黙って顔を上げた。ジャンは眉をしかめた。
何を迷っている、とでも言わんばかり。
それでもシャルルには納得がいかない。ルーを見て、ロイの思い出はますます色彩を濃くした。
「僕は、ロイを助けたかった」
「出来なかっただけです。大体、その様子じゃあ、宮廷も本当の意味でロイの味方だったか怪しいじゃないですか。兄弟同士で王位を争う時代ですよ。逆にロトロア様とシャンパーニュへ来た方が大切にされていましたよ、きっと。しかもロイはブランシュ様とシャンパーニュ伯との子だと噂された長男、フィリップ王子なんですから」
「えええっ!?」
「知らないんですか?噂ですが。噂ってのは、案外、当てになる。その噂だけだって王家にとっては十分不名誉。真実ならばなおさら、ロイは。宮廷にとって不要です」
ごくり、とシャルルは肉を飲み込んだ。

「ティボー四世様ならきっと、自分の子供みたいに大切にしてくださいます」
ジャンは自慢げに、シャンパーニュ伯がかつて戦争の捕虜を大切にもてなしたため、捕虜は自国に帰ることを拒んだという逸話を語って見せた。
「……あの、もしかして。シャンパーニュ伯はロイの味方、なのかな」
ジャンは目を丸くし。それからしばらく考えた。
「敵か味方かって、本当のところは難しいですけど。ロイがどう思うかだから。ただ、ロトロア様がロイを連れて行こうとしたのは、別にロイをひどい目にあわせるためじゃないと思いますよ…あれ、シャルル?」
誇らしげにジャンが胸を張る目の前で少女はテーブルに顔を伏せていた。ぐったりと、組んだ両手に頭を預けている。
「大丈夫ですか!?」
「二年前のあの時さ、ロイはロトロアと何か話してたんだ。ロイは「お父様はそんなことはなさらない」とか庇ってたけど。あの時ロイは知ったのかな。自分が、死んだことにされているって。そうだ、ロンロンもそうやって説得してシャンパーニュに連れて行こうとしたんだ。大司教様だって、ロイに同情するからこそ聖堂参事会にかけた。ただの誘拐なら、参事会が協力する理由なんかなかったんだ」
ロイはあの時、自分が存在を消されてしまったことを、知ったんだ。
自分を要らない人間だと言っていた。死んでもいいようなことさえ。
病気のことだと僕は思ってた。違うんだ。
あの時ロイは迷ってた、生きるか死ぬかとかじゃなくて、事実を知らされてどうしたらいいのかを。
大丈夫、助けるって。
僕は、ロイの本当の気持ちなんか、何も知らずに。それでもロイは、優しかった。

「ロトロアは。シャンパーニュに来て欲しいって、言ってた。そうすれば、ロイは今頃元気で、大切にされてた」
「シャルル…」
「僕のせいだ。ロイにとってシャンパーニュに行ったほうがよかったなら、それを邪魔したのは僕だ。そのせいで、ロンダが死んで、ロイは行方不明で」
テーブルとの隙間から漏れてくるシャルルの声はかなりの鼻声。
ジャンはどう慰めようか思案する。
「その、シャルル。君は知らなかったから、仕方ないです」
どんっと派手な音が遮る。
シャルルがテーブルを殴りつけ立ち上がっていた。
「分かった!僕、もう一度ルーのところに行ってくる。それで理由を聞いてくる。大体、難しくしてるのはそこなんだ。僕はロイを助けたかった。ロイだってどうすればいいのか分からなかったんだ!自分が死んだことにされてるって聞かされてショックだったはずだし、あの時のロトロアはどう見ても悪役だったし!本人の気持ちを無視してさ、周りがロイにひどいことするからいけないんだよ!もう、腹が立った!ルーに問い詰めてくる」
ジャンが止める間もなく、シャルルは素早く上着を羽織ると、飛び出していく。
ジャンは慌てて後を追った。

「シャルル、それじゃ何のために僕に相談に来たんですか!」
走りながらシャルルは振り返った。
人混みは午後になって酒が入ったのか、熱気とむっとするような匂いに満ちている。気だるい日差しは人とざわめきをすべて影にして揺らしている。
シャルルの髪がふわりと風に逆立った。獅子の子。そんな例えを誰が始めたのか。
かすかに涙を残す瞳は強い意思に満ちていた。
「僕は。あの時の償いをしなきゃいけない。危険なんか、冒すしかないだろ」
笑い、ジャンに手を伸ばす。
「僕、一人じゃ混乱する。ジャン、来て欲しい。僕は理由を知りたい。そうして、どうするのがロイにとって一番いいのか、考えたいんだ!」
「危険かもしれませんよ!」
「大丈夫!ジャンは僕が守ってやるからさ」

言い放つ自信に根拠はなさそうなのに、どうしてそんなに真っ直ぐ、言えるのか。
シャルルが笑うと、なぜかそうなるようにジャンには思える。
「分かってないんですから。危険なのはシャルルだけで、僕は平気です」
ジャンは目の前を遮ろうとした酔っ払いを押しのけ、手を伸ばした。
シャルルが言っていることが随分無謀で。権力の怖さをまったく理解していない、子供っぽい行動なのだと分かる。それでもジャンはその手を掴まずにはいられなかった。

つないだ手は暖かく、冷えてきた午後の風にも負けないほど力強い。
二人は走り出す。大聖堂へ、ルイ九世が待つそこへ。

『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑭

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『Laon ‐ランの風は苦く‐』

14

「また、変なのをつれてきたな」
あの黒髪の役人男セジュールは頬を引きつらせた。
二人を案内した衛兵も睨まれ、身をすくめるとさっさとその部屋を出て行った。

シャルルが連れてこられたあの部屋のそば、側近たちの控室らしきところに連れてこられたのだ。
司祭たちの部屋と同じで飾りもなく、むき出しの切り出した石が独特の波打った姿を見せる壁。ガラスのはまっていない窓からの日差しが差し込んでいる。使いこまれた木のテーブルで何か書類を見ていた男は、迷惑そうにそれを巻き取ると改めて二人の前に立った。
「ルイ陛下に会いに来たんだ!いつでも来いって言われたし」大声で言い放ち、息を弾ませるシャルルに男はさらに目を吊り上げた。
「違うよ、シャルル、お会いしに来たとか、お目どおりとか、そんなじゃないと」
ジャンの訂正も空しい。
「で、お前はなんだ、子供」
子供、というかなり大まかな分類をされてもジャンは真っ直ぐ顔を上げ、男を見上げた。
「私はシャンパーニュ伯ティボー四世様から、ご命令を受け参りました」
その一言が男もシャルルをも凍りつかせた。

ジャンはにっこりと屈託なく笑い。すぐ隣で脇をつつくシャルルなど無視している。
正体が知られたら、まずいんじゃないのか?
シャルルは適当にごまかそうと思っていたのにあてが外れ、そわそわと周囲の大人たちを見つめた。扉の外に立つ衛兵が二人、こちらを眺めている。
役人男は黒い前髪をかきむしるようにかきあげ、それから「ええい、面倒ばかり!今日からの式典がどれだけ大切なものか、分かっているのかお前たちは!私は子守のためにランスを訪れたわけではないぞ!陛下もブランシュ様もお前たちの相手をしているヒマはない!…式典が終わってから出直せ!」
「子供の戯れとお思いですか、セジュール様。国王陛下のセネシャル、セジュール様でしょう?私はジャン・ド・ジョワンヴィル。今日、この場に我が主君が参じる事が出来ず、せめて祝いの言葉をと命を受けて参っております。我がシャンパーニュに何かしらの疑義があり、この戴冠式に陛下のお姿を拝見することがかなわず、主君はひどく落胆しております」
ジャンの声変わりの始まった響く声は、かすれ具合が妙に柔らかく感じる。口調と見上げる姿とも重なって、ひどく立派で健気な少年になりきっている。
「このシャルルは、私の従者です。言葉が拙いためお恥かしい限りです」
はぁ?と、一瞬シャルルが睨みつけるが、「ホントに、お前はガサツなんですから」と、額をぺんと軽く叩かれた。
くそー。
納得がいかないけれど、セジュールとか言う男のジャンを見る目は確かに変わった。それに、シャンパーニュ伯の使いと知れば、不用意に殺したりできない。
頭いいな、ジャン。
「私の判断では決められないことだ。ジャン、ジョワンヴィルといえば、シモン殿のご子息か」
「はい。父が生前お世話になりました。今は私が父に代わって家督を継いでおります。まだまだ、若輩ですが」
「そうか、私も何度かお会いしているよ。ジャン。君が立派に務めを果たせるよう、協力しよう。来なさい、祝宴が始まったばかりなのだ。ベルトランシェたち近衛兵は配置についているし、大司教はもちろん席上におられる」
二人は並んで話をしながら歩き出した。シャルルもそれについて歩き出す。

十一歳は子供だよ。普通は。
シャルルは自分の十一歳を思い出す。毎日、決められた仕事をこなし、水車小屋でみんなの世間話を聞いて過ごしていた。美味しいものを食べたいとか、水汲みがつらいとか。棒切れを剣の代わりに振り回しては、院長様に怒られた。何も考えてなかったあの頃。
女であることが嫌で。ロンダに剣を頼んだり、からかったり。
思い出して自分と比較すれば、ますます自己嫌悪に陥る。シャルルは黙って二人についていくことにした。
さっき、守ってやるって言った僕の面子はどうなるんだ。目が会えばジャンはにっこりと笑って見せた。


「セジュール様はこの式典をすべて取り仕切っておられるのですか、すごいです」
「いや、まあ、ランスの定式書によって進めるだけだ。大したことじゃない」
「そんなことないです。これだけの来賓と従者の皆さんを迎えて、その上陛下やブランシュ様にも常に気を配られる、大変なお仕事です」
ジャンの視線は尊敬を訴える。あの主人を見つめる犬の目。くるりと黒い瞳は瞬き。
ああ、それ。それだ。
ロトロアにもする、いい子のサイン。
うまいな、こいつ。ジャン、侮れない。
最初から、こうすればよかった。ジャンがさっさと言わないからだ。勝手に飛び出したくせに、シャルルは身勝手な不満を腹に抱えていた。
聖堂の衛兵たちがちらちらとこちらを見つめ。ふと、書物を運ぶ司祭と目があった。すれ違ってから、「シャルル!?」と。
名を叫ばれて縮み上がる。
見知った顔の、あの門番の司祭。
「シャルルではないですか!?」
背後から、そう、すぐ後ろから声をかけられれば、振り返らないわけには行かない。

ああ。

覚悟を決めて、振り返る。まだ司祭の方が背が高く。
見上げたつもりが、自分より下に相手の顔。司祭は膝を落としシャルルをのぞき込んでいた。
「よかった、無事だったのですね!あの日、街に押しかけた騎士たちにさらわれたのだと聞きましたよ。ロンダは、可哀想に無残な姿で見つかって」
司祭は足元に書物がぼたぼたと落ちるのもかまわず、シャルルの額をなでた。
肩に置かれた手が、暖かく。見つめる瞳に涙を見つけるとシャルルも視線をそらした。
「僕は、大丈夫だよ」と。応えた時にはなぜか視界が滲む。
こんな風に覚えていてくれる人がいた。
「修道院には行ったのですか、皆心配していますよ」
「あ、あの、でも」
「早く顔を見せて差し上げなさい、院長様にも」
シャルルは首を横に振った。
「今は、今はね。シャンパーニュで拾われて、その。あの人に仕えているんだ。僕、騎士見習いになったんだ」
「そう、そうですか。……会ってしまったら、離れがたくなりますか」
シャルルは黙って頷いた。
「立派になって。どうか、この子をお願いします。おてんばですが、いい子なんですよ」
立ち止まっていたジャンが司祭に笑いかける。
「はい。いつか立派な貴婦人に」そこで噴出しかける。
「きっと、なりますよ」
深く頭を下げる司祭を後に、シャルルはジャンに詰め寄った。
「きっ、貴婦人ってなんだよ!」
「本当のことです。神が与えた運命をどうあがいても変えることは出来ません」
く、くくく。と。三人の様子を見ていたセジュールが苦しそうに背を丸める。忍び笑いと震える背中に気付いて、シャルルはセジュールのすぐ後ろで怒鳴ろうかどうしてやろうかと拳を握り締める。
「いや、ジャン。その子が女性だというのは先ほど私もベルに聞いたが。貴婦人とはまた、思い切った表現だったね」
笑い続ける男に、シャルルは蹴りを入れかけ。さすがにジャンが背後から押さえ込む。
「シャルル。貴婦人というのは、あの方のような女性を言うのだ」
いつの間にか、両側を衛兵が守る大きな扉の前に立っていた。
セジュールが手を軽くあげると、衛兵は慌てて扉を開いた。

ざわめきと酒の匂い。
聖堂の奥にある広間は、貴族たちで一杯だった。
セジュールが示す方向は一段高くなった上座。距離にすると八メートルほどはあるか。金の椅子に座り、杯を持っているルイ九世と、その隣。白いふわりとした生き物がくるりと巻いた髪を揺らした。
「ブランシュ・ド・カスティーユ様。我らが聖女。聡明で美しく、何より気品高い」
黄金色と思うくらい華やかな髪に、透き通った白い肌。薄紅のドレスは開いた胸元の怪しさとそこを守る宝石の首飾りが際立ち、どうしてもそこに視線が行く。
想像したよりはずっと華奢な女性だった。
笑う口元も上品な弧を描き、それはもしかして食べ物など入れないのではと思えるほど、完璧で美しい。
ジャンも初めてのようで、口をあけて見とれていた。それに気付いてシャルルも慌てて自分の口を確認する。
同時にルイと視線が合った。
ぴくり、と。かすかに表情を曇らせ、ルイ九世は母親に耳打ちする。ブランシュはこちらを見つめ。そのとたんセジュールもジャンもぴしゃりと姿勢を正した。
ふと目を細め、ブランシュは傍らの従者に何か命じる。
ざわめきや笑い声、その内祝宴を盛り上げる楽器の演奏が始まると、それに負けないくらい話し声も高くなる。
ブランシュから何か命令を受けた従者が人の間をするすると抜けて、シャルルたちのいる戸口に辿り着く。小柄な女中だ。
「セジュール様。ブランシュ様より、シャンパーニュの使者は別室にてお待ちいただくようにと」
「はい」
パタンと頭を下げ、セジュールは二人の方に向き直る。
「お会いしてくださるだろう。さすがはブランシュ様、ジャンのこともご存知のようだ」
はい、光栄ですとジャンが頬を高潮させる。

ああ、宮廷を敵みたいに言っていた奴が何だ、これは。
ふ、とシャルルは思い出した。
シャンパーニュ伯はブランシュ様に恋をしている。ああ、そうか。だから、表向きはどうであれ、王妃様とシャンパーニュは親しいわけだ。
「複雑…」

仲のいい振りをしたり、腹を探り合ったり。親戚同士で戦争をしたかと思えば、盟約を結んでみたり。諸侯はくるくると態度を変える。宮廷もにっこり作り笑いしながら権力を見せ付けているんだ。いつ誰が裏切るか分からない、特にこんな王様が変わるようなときには。
それぞれに利益があるなら、それは寄り添い、そうでなくなれば離れていくのだろう。
汚い世界。策略を胸に秘めたまま貴族たちは親しげに嘘を語りあい、美味しそうに食事をする。シャルルには場末の酒場と同じに見える。女たちがしどけない姿で男を誘い、男たちは酒を片手にほら話を語る。
そんな広間に群がる貴族たちの中に、ロトロアの姿がないことがなぜかシャルルを安堵させた。


二人が案内された部屋は、立派な客間だった。
こんな部屋が大聖堂にあるなんて、シャルルは知らなかった。
「それはそうだよ、普通の身分のものが入れる場所じゃないよな、これは」
天井を口をあけたまま見上げ、聖母のフレスコ画に独り言をこぼす。

「シャルル、ここに座って。さっきの傷、今のうちに手当てしますよ」
ソファーを示され、シャルルは大人しくジャンの隣に座った。
左の腕は、肘の裏側から手首にかけて火傷したような傷が這っていた。血は止まっていたが、そのままでは手綱も握れないくらい痛んだ。
「鞭は速いから、焼けたようになるんです。骨に響くことはありませんが、筋肉や腱を傷める」
ジャンはシャルルの腕を曲げたり伸ばしたりしながら、見つめた。
「平気だよ」
それは無視して、指を伸ばしてみたり手首を曲げてみたり。
どれをやっても痛いが、動かせないことはない。
「平気だってば」
「僕が、この場を何とかします。シャルル。僕だって一応、騎士見習いですよ。喧嘩は弱いけど」
「……うん」
「あれ?やけに素直ですね」
「結局、巻き込んでるから。反省してる」
セジュールへの取り入り方や堂々とした態度は、残念ながらシャルルにはできない芸当。それを見透かして言うのか、「今のシャルルは役立たずですからね」とジャンは笑う。
ぽんと傷を叩かれてシャルルは思わず「ぎゃ」と声を上げた。
「ほら、痛い」
「ばか!平気って言ったけど痛くないとは言ってないだろ!」
「そのくらい、元気な方がシャルルらしいです。無茶なことして走り回っているのが。立ち止まって反省しているようなのは似合わないですよ。償いが必要なことなんか一つもありません。誰もが自分の考えで行動している。死んでしまったという、幼馴染だって」
ぎゅ、と。掴まれた心地がする。怪我なんかより、ずっと痛い。
「だ、けど。だけど!」
「むしろ、シャルル。巻き込んだのは自分だと、ロイなら考えると思いますし。簡単に言えば、ロトロア様が原因ですよ。ロンダを殺したの、あの人なんでしょう?あの人のことは、少しなら恨んでもいいですよ」
「いいですよって、許可制か?」
「不思議ですよ、シャルル。自分を責めるばかりで。どうしてロトロア様のことを責めないのですか」

言葉に詰まった。
ジャンはじっと、見ているから、何か応えなきゃと思う。
「……その、恨んでるよ、多分」
肩をすくめるだけで、ジャンは荷物から取り出した柔らかい布に、何かビンに入った薬らしきものをしみこませる。それを傷にあて、上から包帯を巻きつけた。
「…準備いいな」
「旅をする機会が多いんです。このくらいは当然、もっていますし。知識もないとね。喧嘩ばかりでは命がいくつあっても足りません」
「ごめん。お前、案外いい奴だな」
「この世に、本当に悪い人間なんかいません。僕は、そう思いますよ」
「ふうん」
「でも。それをロトロア様に言ったら、幸せものだと笑われました」
「僕は笑わないよ。神は言ってる、隣人を愛せよとね。ジャンのそれは正解だよ」
「君も案外いい人でした。僕はいつもいい人たちに出会っています。これから会う王妃様や、ルイ様も、きっといい人たちですよ」
「ロイのこと、ひどい扱いしてるのに?」
「事情を知りません、僕らはね。だから、相手を悪い人間だと決め付けるのは間違いです。それに僕はシャンパーニュ伯の伝令としてきています。公の仕事をするのだから、僕個人は敵も味方も作ってはいけない」
立派だな、ジャンは。
シャルルは足元を見つめた。ふかふかした絨毯。つま先で何度も感触を確かめる。こういうのを当たり前に踏みしめることのできる人間は少ない。貴族だけ。ジャンを見つめた。
恵まれて育った優しい奴。頭がよくて、大人ぶってがんばっている。
こういう奴はきっと皆に愛される。

僕みたいに捨てられたりはしないんだろう。

濁った苛立ちが湧き上がるのをシャルルは首を振って押さえ込んだ。
最初からジャンがむかついたのは、きっとそれだ。いい子、幸せで真っ直ぐで、皆に愛される。そんなの羨ましくて。つらい。
僕は、女だった僕は要らない奴だった。だから捨てられた。
僕はロイの気持ちが分かる。淋しい気持ちが、すごく分かる。
きっと、大切に育ててもらったら、本当の両親に可愛がってもらったら、ジャンみたいな人間になるんだろう。僕だって、そうなれたかもしれないけど。

「シャルル?薬が沁みますか?」
覗き込む少年に、シャルルは笑って見せた。
「結構ね」目が赤いのはそれでごまかす。

『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑮

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

15


天窓からの景色は、すっかり夜になっていた。
それでも二人はずっと、その豪華な部屋でじっとしていた。
ジャンは子供の頃の話をした。
五歳から乗馬と剣を習い、六歳で母親と離れ所領の騎士の訓練所に入所。父親を失った年にシャンパーニュ伯の従騎士となった。裕福な貴族の子弟には騎士となるための道筋が用意されているのだと、改めてシャルルは羨ましく思う。シャルルも修道院での仕事や日々のお務め、水車小屋のことやロンダのこと。クウ・クルを拾ったことなどを話した。
戦争で受けた傷がもとでジャンの父親は早くに亡くなっていたが、僕は妹や弟を養わなきゃならないから。がんばりますよ、と屈託なく笑う少年にシャルルはふうん、と言うしかできなかった。

ジャンの話を聞けば聞くほど、同じ親のない身でありながら自分とは違う境遇に卑屈な気分になってくる。応援してくれる家族も、受け継ぐ名声も財産も何もない、いや、自分のルーツすら知らない、と鬱屈した思考にはまっていく。
シャルルが「お腹すいたなー」と話をそらそうとしても、ジャンは母親の作ってくれる郷土料理がおいしいと自慢するし、「クウ・クル、どうしてるかなー」と呟けば、妹が可愛がっている犬の話をする。
シャルルはいつしか黙り込み。ジャンはそれに気づかず、とりとめのない話を続ける。

僕には、家族もなく。
自分が誰かも知らない。
リシャールが言うんだ。
ロトロアが可愛がるから傍に置くだけ、そうでなければハムと同じ目に合わせるって。さ。
そんな、存在でしかない。


「シャルル、眠っちゃったのかい?」
いつの間にか、妹に話すような言葉遣いに変わっていたジャンは、抱えた膝に額を擦り付けるシャルルを覗き込んだ。
そのまま、眠ったふりを決め込んだシャルルに、ふわりと温かい上着をかける。
優しくていい奴なだけに、シャルルは礼も言えない。
ただ、持てあます自分を抱え込んでじっとしていた。


扉をたたく音。ベルトランシェの「リオン」と呼ぶ声で、いつの間にか自分が本当に眠り込んでいたことに気づく。
顔をあげると、腰に手を当て覗き込み呆れた顔をしている美しい騎士、その脇にジャンが立っている。部屋の中央につるされたシャンデリアに蝋燭がいくつも灯され、ゆらゆらした明かりの向こう。
ふわふわした白い美しい生き物、ブランシュが佇んでいた。すぐ隣にルー。若い国王は並んで見ればブランシュに似ている。派手さはない。それなのに印象に強いのは、きりりとした眉か張りつめた頬の白さか。聖像のようだと思った王家の二人は同時にふ、とほほ笑んだ。
その笑みが、ベルトランシェに引き起こされた自分に向けられていることに、今やっと気付く。

「疲れて眠くなったんだね。子供だから、仕方ないよ。ベル」
と、十二歳のルイに言われてもなんと言っていいのか。
周囲はそのおかしさに気づかないのか、気付かない振りなのか。
「ルイ。貴方も眠い時にはそうすればいいのよ」と、ブランシュだけがただ一人、国王を子供扱いする。
「お母様、私は平気です。その子と同じにしないでください」少々不満げに語るルー。
すでにあいさつを済ませたようで、ジャンはじっと二人を見ている。
「いいえ、ルイ。貴方は明日、一日中聖堂で祈らなければなりません。今日はもうお休みなさい。ベル、お願いします」
そんなやりとり、ここに来る前にすればいいのに、と。眠気も手伝い苛立ちながら、シャルルは遠い世界の物語みたいな王様たちのやり取りを眺めていた。
お母様に対するルイの抗議は甘えた感じになりつつある、王様もやっぱり眠い。そうだよな、長旅で今日ランスに到着したばかり。疲れていて当たり前だ。
「では、シャルル、明日の夜は私に付き合え。約束だからね」
「へ?」
突然名を呼ばれ、その意味が分からないのに、ルイは踵を返す。
「あ?ええ?」
「陛下、おそばに置くようなものではありません」と反対したらしいベルトランシェ。シャルルもよく分からないが、「そうだよ、嫌だよ。なに勝手に決めてるんだよ」と言ってみる。
「お前は……」何か言いかけたセジュール、「シャルル!?」と注意するのはジャン。
ベルトランシェが睨みつけすでに手が剣を握り締めているし、ブランシュは目を丸くしていた。
ただ。ルイだけは「だめだよ、決めたから。ロイのことを聞かせてもらう。誰にも邪魔させない。ベル、明日の夜、私の部屋に置いておけ」そう、真顔で話し。返事も待たずに部屋を出て行った。慌ててベルトランシェが後を追う。

誰もが黙り込む中、シャルルはふん、と鼻息を吐き出した。
「まず、ロイのこと、聞かせてもらうのは僕のほうだぞ。人をものみたいにさ」
「お前は、なんていう口のきき方なんだ!」
呆れて顔を覆い、叫んだのはセジュール。ジャンもさすがに顔を青くし、「シャルル、頼むから、わきまえてください。恥をかくのはシャンパーニュ伯なんですから!」と頭を抱える。
「だってさ、あいつ、人のこと」
脱がそうとするし…。
「あの、さぁ」
「黙れ。リオン。お前はもう口を開くな」セジュールが遮る。
いい加減リオンでなくとも、と思ったが。それを口にしたら今度こそ殴られそうな勢いでセジュールの手の分厚い本が震えているから、シャルルは大人しくなる。
「ブランシュ様、申し訳ございません。教育が行き渡らず」とジャンが頭を下げる。

ブランシュは硬直したようにシャルルを見つめていたが、ほっと息を吐きほほ笑んだ。
同時にセジュールとジャンの二人も息を吹き返したようにほっとしてるのが分かるから、シャルルは余計にわがままな気分だ。
「あの、王妃様」
「今は、王妃ではありませんよ。シャルル。明日にはルイが新たな王になります。私はあの子の摂政として傍に仕える身。気が進まないのは分かりますが、陛下の御所望ですから、明日の夜は傍にいて差し上げてくださいね」
姿が美しければ声も綺麗なのか、と。シャルルはブランシュを見上げた。わずかに、シャルルのほうが小柄。
「はい」
「可愛らしい騎士見習いだこと」と甘い香りと一緒に、ブランシュの白い手がシャルルの頬をなでる。
思わず、ひゃ、と声をあげ、シャルルは顔が熱くなる。
「シャルル、陛下は父君を亡くしたばかり。ああして意地を張っていますが、本来は大人しく優しい子です。淋しいのに王らしく振舞おうと必死なのです。どうか、優しくして差し上げてね」

本人は優しくないって断言してたぞ、すごく威張って。

反論したいけれど、目の前のブランシュは綺麗過ぎる。
ジャンに助けを求めても見とれていて役立たずだし、セジュールもうんうん、なんて頷いてばかりで。シャルルは腹に力を入れなおし、口を開いた。

「あの、ブランシュ様。僕はロイのことを聞きに来ました。ルーが、ルイ陛下が教えてくれるっていうから」
「そうね。セジュール、扉を」
ブランシュの一言でセジュールは風のように素早く、扉の外に出て行った。何やら見張りの兵を追い払った様子。
室内は、ブランシュとシャルル、そしてジャンだけになった。


ぎゅー。

ブランシュが口を開こうとした瞬間にシャルルの腹が耐えかねた声をあげた。
「シャルルっ!?」ジャンがシャルルの代わりに少女の腹を押さえるから、ブランシュが噴き出した。鈴みたいな声で笑い出した。
「大体、遅いからさ、お腹すいちゃったんだ」
「そうね、仕方ないわね。ジャン、外にいるセジュールに食事を頼んできてくれるかしら。貴方もお腹がすいているでしょう?シャルル。さ、座ってお話しましょう」
お話しましょうって穏やかな茶話でもないが、シャルルはブランシュが示したソファーに座った。正面にいる貴婦人をまっすぐ見つめた。

「ロイのこと、ご存じなんですってね」
「はい。僕は、ロイがどうして死んだことにされているのか知りたい。友達になったんです。自分は病気だからとか、死んでしまうのは仕方ないみたいなこと言うから。放っておけなかった」
そこでブランシェは涙を拭った。
「あの、病気のせいでパリに住めないとか、両親に会えないとか、そういうのは仕方ないとしても。死んでしまったことにするなんて、ひどいと思う。そんな風に、泣くくらいなら、どうして大切にしてやらないんですか」

ブランシェは手にしたハンカチを目にあてる。本当に泣いているのか、疑わしい。
ジャンが戻ってこないうちに、とシャルルは言いたいことを全部、言葉にすることにした。

「ロイは二年前初めてそのことを知らされたんだ。どれだけ悲しかったか!それじゃまるで、子供を捨てるのと同じじゃないか!ううん、もっとひどいよ」
うっう、と。目の前の綺麗な貴婦人は弱弱しく泣いている。
「泣いてばかりじゃなくて!理由を教えてほしい!僕は、ロイの味方だ。ロイのためになる方法を考えたいから、ここに来たんだ!行方不明になってるあいつのために。僕ができることを、見つけたい」
そこまで吐き出すと、シャルルも自分の目も温かく湿っているのに気付く。うつむいた拍子にぽたりと。涙が落ちた。
「ありがとう」
ブランシュの口から出た言葉に、シャルルは顔をあげた。
ありがとう?
白い頬を涙でぬらし、ブランシュはシャルルに微笑みかけ。目の前のそれはふわりと音も立てずにシャルルを抱きしめた。
甘い、何か果物のような香り。ふわふわした、とろんとした心地。お母さんって、こうかも。ふと脳裏によぎるからシャルルはそのまま額を預けた。

「ありがとう。あの子のこと、大切に思ってくれているのね」
「ほんとは、本当は。ロイが、ロイがこんな風にされるべきなのに。貴方に抱きしめてもらいたいのは、あいつなのに」
「そうね、私も、そうしたいのです」
「じゃあ、じゃあなんで!」

ことと扉の閉まる音で、ジャンが入ってきたことに気づく。
「聞いてください。シャルル。ジャン、あなたも」
そう言って、ブランシュはシャルルの隣に座った。離れようとするシャルルの手をぐいと引きよせ、結局抱きしめられた格好のまま、シャルルは柔らかな胸元に頬を寄せていた。抗うのも、なんだかおかしい気がしてじっとする。
ジャンもとなりに。と声をかけられ、シャルルの向こう、ブランシュを挟んで座る気配がする。

「このフランク王国は、王国とは名ばかりで。亡くなったルイ八世の時代もそうでしたが、周囲の他民族とともに、内なる多くの敵を抱えています。ブルターニュ、ブーローニュ、フランドル、そしてシャンパーニュ。そのどれも、元をたどれば同じ血を分けた親戚ですが、だからこそ彼らはこの国を手にする可能性を持っています。やっとまとまりつつあるこの国で、今、国王が力を失うことは再び多くの戦乱を招きます。このまま、我が王家が王国を維持するには強い王が必要なのです」

ジャンは、こくりと頷いた。

「ロイは、生まれた時から病弱でした。何かと騒がしいパリにいるより、穏やかで空気のきれいな田舎にいるのが、彼にとって良い事でした。医師は七歳まで生きられないと宣告しました。ですが、田舎に住まわせたために少しずつ丈夫になっていったように思います」
ブランシュは続けた。

それでも、体が弱いために他の子のように騎士としての訓練もできない。このままあの子が成人しても、王国を背負う強い王にはなれない。もし、弱い王が継承すれば、周囲の諸侯に侮られ、つらい思いをするのはロイです。
聖職者にするにもあの子は長男です。伝統的に家督を継ぐ身。
私も、あの子の父ルイ八世も悩みました。
私たちの子供は、ロイだけではありません。王を継いだものが守らなければならない兄弟は大勢いました。ロイにはそのための力が足りなかった。
だから死んでしまったことにして、このままひっそりと何不自由なく静かな街で生活させるのが、あの子にとってもっともよいのだと判断したのです。

「だって!それじゃ、それじゃ、ロイが」可哀想だ!
ブランシュの抱きしめる手に力がこもる。かすかに、震えていた。
「ごめんなさい。シャルル。私も、私だって、あの子は可愛い。里心がつかないようにと、会わずに遠くから見ていたこともあります。乳母からは今日は難しい歴史の本を読み終えたのだとか、従者が止めるのもかまわず馬に乗ろうとしたのだとか。幼い妹の誕生を知るとお祝いにと刺繍をしようとして指を怪我したとか。些細なこともすべて聞かせてもらいました。私は、何度。何度、あの子のために祈り、懺悔し」
それでも、国のため、ですね。
そうつぶやいたのはジャンだった。

「シャルル、仕方ないんですよ。王様も王妃様も、自分より国を優先させなきゃならないんです。責任があるから。だから、皆が敬うし、誰よりも贅沢できる。王家の方々は、いえ、領地や家臣をもつ諸侯も同じです。責任のある地位にある人は皆、護るもののために犠牲を払うんです」
「犠牲を払ったのは、ロイだ。苦しんだのも悲しんだのも、僕やジャンや、王妃様でもない。なのに!!」
「僕は家族を守りたい。家を絶やすことは出来ない。だから、分かります。シャルル、君も護りたいものができたら、きっと分かります」
「ジャンは!ジャンは愛されて育ったからそんなこと言えるんだ!身分とか家とか、そんなんじゃなくて。王様になれなくたっていいんだ、ただ、普通に。普通にお父さんとお母さんが側にいてくれるだけでいいのに!なのにっ……」
それ以上、言葉が続かない。ぬぐってもぬぐっても、涙は流れ続ける。再びぎゅ、とブランシュが抱きしめた。
「貴女も、シャルル。一人きりなのですね」
くぐもって聞こえる優しい声は、かすかに泣き声に近く。とくとくとした鼓動がますますシャルルを混乱させた。
「ありがとう、シャルル。ロイのために泣いてくれる子がいるなんて、あの子にお友達が出来るなんて、私は思ってもみなくて。ありがとう」
いつの間にか傍らにジャンが立っていた。抱きしめ頭をなでるブランシュの手とは違う、小さな手が、肩をそっとなでていた。
僕一人。悔しくて悲しくて、子供みたいだ。

そんな風に思うのに、痛む胸は涙を作り続ける。
どうして。
どうして、どうして。

何のために、ロイは生まれたんだ。どうして僕は捨てられたんだ。
どうして、僕らは当たり前の愛情をもらえなかったんだ。
誰も言ってくれなかった。生まれてきてくれてよかったなんて、誰も。

シャルルの悲しみはこれまで口にしたことのない想いを目覚めさせる。心にわだかまるすべてを吐き出しては涙を流す。
あの時、僕がロイにしたこと。ロンダを巻き込んだ、僕の罪がどうすれば消えるのか。どうしたなら、僕があの時したことを、これまで生きてきたことを良かったと思えるのか。
「お前が死ねばよかったんだ」と、ニルセンの声が耳によみがえる。
幾度も濡れたまぶたを柔らかい女性にすりつけ、シャルルはあふれ出る想いに泣き続ける。
黙ってシャルルを見守っているブランシュ。
優しいお母さんなんだ。
いつか、この優しい女性に、ロイが再会できたら。そうして、今こうしている僕の変わりに、ロイが。当たり前の抱擁を受けられたら。

僕の、罪は。消えるだろうか。

「泣かないで、ください。シャルル」
ジャンが待ちきれなくなって、とんとんと背中を叩いた。
「うん、分かった。分かったよ」
そう顔を上げ。シャルルは鼻をすする。
「ああ、ブランシュ様のお召し物が」
「いいのよ、シャルル、これでお拭きなさい」
ふわりと柔らかいガーゼのハンカチが差し出された。端に手縫いの白い刺繍がされた優美なもの。受け取って、シャルルは顔と涙をぬぐった。

「あの。ありがとうございます。僕、ロイに貴女を合わせたい。ロイを見つけて、つれてきます。その時には、会ってくれますか。僕にしてくれたように、ロイにも優しくしてくれますか」

シャルルの言葉に、ブランシュは微笑んだ。
「ええ、もちろんよ」
「僕、ロイが行方不明になったことに、責任があります。だから、ロイを探し出したい」
「ありがとう。それは、私たちも同じよ、シャルル。そうね、ベルトランシェに密かに捜索させていますが、まだ見つからないの。協力してくれるかしら」

シャルルの表情が明るくなる。
もちろん、応えは「はい!」だ。
「ジャンも、協力してくれるの?」
ブランシュがぱたぱたと長い睫で瞬きすると、ジャンは頬を染めた。
「あの、私はティボー四世様に仕えております。その、いつかセネシャルにと、見習い中です」
「いいわ、じゃあ、秘密の契約でどうかしら」
「秘密?」
二人が口をそろえた。
それが面白かったのか、ブランシュはにこにこと笑った。

「ええ。私とティボー四世様が親しいお友達でいるように、あなたたちとも親しいお友達だわ。表にはできないけれど。これを。我がカペー家の紋章が入っているわ。ロイもこれと同じものを身につけているはずなの。シャルル、あなたに預けるわ。これを持っていれば、いつでも私に会えるように手配します。それから、そうね。なんだかわくわくするわね」
ブランシュが首に下げていたペンダントをそっと外し、シャルルの手に握らせた。ずしりと重いそれは、金と銀の細工で美しい百合の紋が刻まれている。
二人がそれに見とれている間に、ブランシュは扉の外に控えていたセジュールを呼び入れた。

「セジュール。この子達にロイの捜索に協力してもらうわ」
楽しげに、まるで悪戯を思いついた子供のようにブランシュは頬を染めて笑っていた。
「お言葉ですが、ブランシュ様、このような子供に何が出来ますか」
「あら、セジュール。ジャンはこの歳でシャンパーニュの伝令を務める利発な子ですし、シャルルはロイのことを良く知っているわ。ベルトランシェに探させていますが、彼を含め近衛騎士団にはロイに会ったことのあるものはいないわ。二人と契約を結ぶことにします」

はい、と。セジュールは素直に膝をついた。

「セジュール、貴方にお世話をお願いするわ。二人にはどんなご褒美を上げたらいいかしら。ああ、こういうことを考えるのが大好きなのよ、私。シャルル、ジャン。戴冠式を見に来たんでしょう?ゆっくりしていって。その間に、私がいろいろ考えてみるわ」

もう一度、シャルルをギュッと抱きしめて、ブランシュは部屋を出て行った。
「まったく、何をお考えか」とこぼすセジュールの背中を、しっかり叩いてシャルルは笑った。
「セジュールさん、お腹すいた!」



『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑯

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

16


シャルルより先にランを発ったロトロアたちは、シャンパーニュ伯と合流する予定の街トロワに到着していた。


干されたイチジクの甘い香りと目に鮮やかな紅葉。平らに広がる農地はすでに冬の支度を終え、陽だまりのような枯れ草色は白い漆喰の建物を美しく際立たせた。建物の木組みは鈍い炭色をし、家々の梁や窓を縁取る。この時間ならばどの家もかまどからの煙がゆらと冷えた空気に立ち昇りそれは白い溜息のように消える。庭の木立をすり抜けて子供を起す母親の声がする。

シャンパーニュ地方の有数な商業の街トロワでも、人々の営みに合わせ静かな夜明けを迎えている。石畳の路地を抜けた先に視界に開けるその広場では、昨日までの大市の後始末だろう、外国の商人や雇われた異国の奴隷がテントをたたんだり、荷馬車に荷物を積み込んだりしている。広場のあちこちにトロワの衛兵らしい姿が、腰のサーベルに手を当てて周囲を見回している。どこかで怒鳴りあう声が聞こえ、ロトロアたちも馬を止めた。
馬上から、遠くテントの前で荷を真ん中に怒鳴りあう男たちの姿。
「大方、売り上げの分け前で。もめたんだろうぜ」

白馬ブロンノの前を慌てた様子で衛兵が駆け抜け、喧嘩する男たちを怒鳴りつける。野次馬の人垣に衛兵が吸い込まれれば、人々はつまらなそうにそれぞれの場所に散っていく。

キ・ギは「惜しかったですね、あと一日早ければ有名なシャンパーニュの大市を見物できたのに」と残念がった。
「ここにも美人の香水売りがいるかもしれないぜ」と、ロトロアが笑ったので、キ・ギは珍しく顔を赤くした。髭の下の口元はへの字。
「なんだ、シャルルに聞いたぞ。派手な修道女に熱を上げたと」熊のようなキ・ギが女や子供に意外に優しいのをロトロアは知っている。修道女ならばお似合いとも思えた。

「この街でシャンパーニュ伯と合流なさるのでしたな」
まったく関係のない話題に持っていくのは、ローレンツ。女や賭け事の話題には決まってこの老騎士が、目の前でシチューのフタをぱたりと閉じるのだ。お預けを喰らった感じのロトロアは肩をすくめ。
「あ、ああ。まずは我が屋敷で馬を休め、今夜のうちにシャンパーニュ伯とお会いする。明日にはコルベイユに向かうことになる、で……」と一言で話題を元に戻そうとするのだが。

「随分あわただしいですな」
「ああ……。戴冠式を終えてしまえば、相手は仮にも国王陛下。ブルターニュ伯としてはパリに戻る前に行動したいところだろう。強行軍にもなるさ」
「ブルターニュ伯が、今回の発起人で?」
キ・ギは顎の髭を手のひらでザラリとなでた。つまらなそうにロトロアも自分の顎をざらと触れてみる。皮の手袋に剃ったばかりの髭はまだ当たらない。
「ああ、そうだ。ブルターニュは元々公国があった。イングランド王家の血を引く伯は、ルイ八世時代に国王とのオマージュを受け入れなかった一人だ。ピエール・ド・ドリュ。別名モークレールは未だにブルターニュ公国を名乗り、隣り合うノルマンディーを制圧したカペー家に敵対心を燃やしているのさ」
「ピエール・ド・ドリュ。あまりよい噂は聞きませんな」話をローレンツが続けた。
ピエール・モークレール(悪党ピエール)。伯は、自分の家臣にまで金を貸すそうです。所領の周囲にある曖昧な田舎の村落を強引に買い取ったり、時には村落を治めていた豪農や騎士身分のものを力づくで従わせたり。まさにモークレール(悪党)に相応しい人物です。
はあ、と。珍しいキ・ギの溜息が二人の騎士を振り向かせた。

「市場であった、女ですが」
「ああ、いい女だったんだろ?」話がまたシチューになってロトロアは顔をほころばせた。モークレールの話題など心地よくはない。どれほど悪名高く嫌われていようとも、無視できない権力を持つからにはシャンパーニュ伯も一目置かねばならない。王国の北西部ノルマンディーよりさらに西に位置するそことはかなり離れていることが、わずかに救いだった。
「市場の女は、リノーラでした。ロトロア様もご存知でしょう。ブルターニュのモークレールの女従騎士、リノーラ・パダム。あれだったんです」
残念ながらシチューは空腹を満たす内容ではなかった。

「なんだ、珍しいな。ランまで足を伸ばすとは」
「はい、理由を聞こうとしたんですがはぐらかされまして。私はどうも苦手で」
キ・ギの難しげな顔にローレンツが同情する。
「勝てる気がしない女ですな。確かに、お前さんではいいように遊ばれるだけ」
「そうか?セネシャルを目指す貪欲な女だ。俺は時には面白いが。あれでいてベッドでは従順だぜ?」と、ロトロアは首をかしげた。キ・ギはうむむ、とうなり。
「私は苦手です。いつもなら避けて通るんですが、何しろ、シャルルを少年と思い込んで例の色仕掛けで喰らわんばかりに迫るんで、仕方なく……」
ぶ、とロトロアは笑い出した。
「あれは、どうした?見てみたかったな、それは」
「シャルルは鈍いんで」
「なんだ、つまらんな。あの女がこちらにいるなら、屋敷に呼んでみてもいいな。リシャールとシャルル、どちらを並べてみても面白いものがみられるぜ、初対面だろ?」
「リシャールは嫌な顔してました」
そういえば、リシャールがキ・ギを迎えに行ったのだった。
「ああ、そうか。リシャールはあの手の女はゲテモノだというな。宮廷風恋愛を語るあいつにはリノーラは品格に欠けるんだろ。女などどれも同じなのに」
宮廷風恋愛と呼ばれるそれは、貴婦人に至純の愛を奉げるとかいう最近流行りの風潮だ。騎士道を語るには欠かせない要素らしい。

「どれも、同じ……。そう言いきる貴方様が羨ましいですな」
キ・ギは感心したように頭をかいた。
「褒めることではないぞ、キ・ギ」と辛口はやはりローレンツ。
「ロトロア様もそろそろ決めていただかなければ。縁談はあちこちから来るというのに」
「どれも味見してから決める」
「それでは困りますぞ!」
「じゃあ、嫌だぜ」

位が高くなればなるほど、花嫁候補は守りが堅く。強引に落とすほど結婚したいわけでもない。だとしたら、気の向くまま、付き合いのいい女が楽だとロトロアは思う。
リシャールのいう至純の愛など、歯痒くてやっていられない。一々、好みの女にそれを捧げていたら、身が持たないだろうに。
ドレスをひらひらさせて本や詩を読み、刺繍をして一日を過ごしている貴族の女。それの存在価値がどこにあるのか、今ひとつロトロアにはぴんと来ない。気位は高いし、脱がしにくいあのドレスは何とかしてほしいものだ。まだ、パン屋の女将の方が価値あるように思える。その基準の延長線上にリノーラがいる。あれはあれで、悪くはない。

「リノーラか。俺と同じ歳でな、初めてであったときは互いに騎士見習いだった。俺がシャンパーニュ伯、あれはブルターニュ伯。どちらが先に出世するか競争しようと持ちかけられた。平民出身、女の身で騎士の世話をする騎士見習い。まあ、清純ではやっていられないだろう。あれは逞しく女を武器にもする」
「シャルルも、ああなるんですか」
郊外へと馬を進めながら遠い目をするロトロアに、キ・ギは思い切り顔をしかめていた。
「あ?あれがか?」
いいながらロトロアは、なぜか笑えてくる。シャルルが胸を露出して迫る、想像しようとしてもできなかった。
「おいおい。シャルルは騎士の前にまず、男になりたいんだぜ?同じにはならんし、同じにされたくもないだろうぜ」
「よかったです」
本気でキ・ギは安心した様子。ロトロアは目を細めた。子ども扱いするセネシャルたちの中でキ・ギだけはシャルルを対等に見てくれている。

「キ・ギ、お前はシャルルが好きか」
「は、ああ、まあ。あいつは面白いですよ。単純ですけど、気持ちが真っ直ぐで」
「からかい甲斐があるな」
クウ・クルの溺死未遂を思い出す。
「案外あれで、気が弱いところもありますし」
「泣きながら怒るんだよな」
「ロトロア様に懐いておりますし」
「ああ、そうだな……」
しばし、沈黙。二人は顔を見合わせ。
キ・ギがばつが悪そうに笑った。
「ロトロア様もお気に召して……」
「ほら、屋敷が見えたぜ、急ぐぞ」
ロトロアはキ・ギを無視して前を向き、ブロンノは不意の拍車に迷惑そうに鼻を鳴らすと駆け出した。
「あの、ロトロア様…」
「遅れるな、キ・ギ」とローレンツが先に行き。
キ・ギは一人、主君の後姿を見つめた。




トロワにあるロトロアの別邸は、ブリュージュと同様、森を背後に持つ。馬の訓練にも狩猟の楽しみにも、森は欠かせなかった。紅葉の美しい森はまだ横からの陽光を木漏れ日に変える。地に伸びる木漏れ日の縞模様を馬と供に駆け抜け、ロトロアは一番にその庭に降り立った。
急な帰還は管理人のペルに伝わっていないはず。なのに門が開かれている。
「あ?」
首をかしげ、厩のほうへと進むと、ロトロアは納得した。
「遠路、お疲れ様です」と、シャンパーニュの紋章をつけた従騎士が膝をおって挨拶した。先客があったのだ。
青年はまるで我が家のようにロトロアを迎え、手綱を受け取ると「ティボー四世様は中でお待ちです。ペルさんは食糧を買出しに、市に向かわれました」とにこやかに笑った。


ティボー四世。本名テオバルドは屋敷の一番広い居間に一人足を延ばしてソファーに横たわっていた。締め切られたカーテン。暖炉の炭がほこほこと室内を暖め、そのむっとした空気にロトロアは眉をしかめた。
「ティボー四世様、少しは窓を開けなければ息が詰まりますよ」
ロトロアが声をかけると、奥の小部屋に控えていたのか、数名の従者が顔をのぞかせた。
ごほ、ごほ、と。ティボー四世のあいさつは咳から始まった。

「テオバルドと呼んでほしいね。勝手に入らせてもらったが文句はないよね。私が君に与えた家だ」
「はい、それは構いませんが。呼び捨てはできませんよ、テオバルド様」
気だるそうに腕を伸ばし、クッションを枕に向き直るとティボー四世はロトロアを見上げた。ローレンツが気を利かせ窓を開けると新鮮な朝の空気がカーテンを揺らした。寒いじゃないかと眉をひそめるティボー四世のすぐわきに膝をつき、ロトロアはマントを横たわる主君にかけてやる。

ロトロアより四つ年上の二十五歳。シャンパーニュ伯ティボー四世は似合いもしない髭を伸ばし、ふんと目の前の騎士の額を手の平でぺたんと軽く叩いた。
「…」
黙ってロトロアが伯の額に手を乗せると、今度はその手を上から両手で押さえる。
甘えたいのか何なのか、この青年はよく分からない。

生まれた時からティボー四世を継承し、そのことについて否応なく周囲から批判を買った。生まれた時にはすでに父が他界していたことも、周囲の心証を悪くした。成人するまで母親が摂政をし、この甘えん坊を作りあげた。誰の責任でもないが、迷子の子供のように常に頼れる誰かを探しているのだ。

「熱がおありですね、テオバルド様」
「ブルターニュは待ってくれないのだ、モークレールめ。ブーローニュを奉りあげて自分はうまい汁を吸おうとしている」
「ブーローニュ公には、恩義があります。モークレールが気に入らなくとも、仕方ありません。ただ、少しばかり出立を遅らせる必要はありそうですね」
「行きたくないね」
「それでもここまで、こんな早朝にお見えです。少しは眠られましたか?寝室を使えばよかったのに」
「病人じゃないね」
「どう見ても、お風邪を召してますよ」
「うるさい!大体おまえ、その口調何とかしろ!堅苦しい、昔のように話せ。命令だぞ」
は、と笑いながら溜息を吐き。ロトロアは額に押さえつけている手を引きはがした。
ぴん、と額を指ではじく。いて、と小さくティボー四世は呟いた。
「じゃあ、さっさとベッドで寝ろ。キ・ギ、俺の寝室の暖炉に火を。ローレンツ、食堂で薬草を煎じてくれ。リゼンルーベ、屋敷中の窓を開けるようにさせろ。指示されなきゃ動けないようじゃ、セネシャルにはほど遠いぜ。ダンベルドはどうした」

ティボー四世の従者のうち、名を呼ばれたリゼンルーベは「あ、はい。ダンベルド様はこちらにはよらず、直接コルベイユへ向かわれました」と慌てて姿勢をただし、部下を引き連れ部屋を出て行った。
「だから、自分が動いてどうする。役立たずだぜ、あいつ」と、呆れるロトロアはすでにティボー四世伯を抱き起こし背負っていた。
「お前も自分で背負ってる」
「主君のお身体に触れていいものは限られる。当然だぜ、テオ」
幼いころからの呼び名、口調。それがティボー四世を安心させるのか、しっかりとロトロアの背にしがみついた。

「大体、俺の方が年下なんだぜ、甘えるなよ」
「関係ないね。私のセネシャルになってくれないお前が悪い。お前のせいだ」
「はいはい。じゃあ俺の言うことを聞いて、薬を飲んでペルの美味いスープを食べて、寝ろ。どうせ戴冠式に出られなかったんで落ち込んで眠れなかったんだろ」
ぎゅ、としがみつく手に力が入った。
「お前なら分かってくれると思った」
「同情はしないが、テオが何を考えるかぐらいは分かるぜ」

ブランシュに振られて泣き通しだった昔を思い出す。大体、親の決めた夫人がいるにもかかわらず、十以上も歳の離れた女に憧れてまとわりついてもブランシュも迷惑だろうに。あの女もどこか抜けているのか、思慮に欠けるのか。少女のようにふわふわと関係を楽しむ傾向がある。おかげで俺たちは振り回されっぱなしなのだ。

こいつのような不安定な若者には、あの女は毒だ。どうせならルイ八世じゃなく、ブランシュに毒を盛ってやればよかったのだ。毒には毒を持って制す。
いい言葉じゃないか。
密かに不穏なことを考えながら、ロトロアはこれから主君が語る愚痴とも意思ともつかない話を聞くための、心の準備をしていた。温情派の甘ったれに現実の厳しさと取るべき道を理解させるのは、それなりの手間がかかる。


ベッドに横たわると、ほっとティボー四世は息をつく。
暖炉で作業をしていたキ・ギが「ペルの奴、最初にここを整えたみたいです」と、果物と水差しが置かれたテーブルを指差した。ペルは気がきく管理人だ。
「ああ、到着がこの時間と分かれば、仮眠するわけだし。そのつもりだったが」
ロトロアの話に、ティボー四世が自分の隣をぽんぽんと叩いて「ここで寝るか?」と嬉しげだ。

「寝室は十分足りている。淋しいなら、女でも見繕うぞ?」
シャンパーニュ伯に対してその口調。キ・ギは思わずロトロアに目を見張り「嫌だ、お前の方がいいね」とロトロアの袖を引く青年に、今度は口をあんぐりと開けた。
「ここにいてやるから、寝てろ。キ・ギ、従者の皆に適当に部屋を割り当ててくれ。ペルが戻ったらお前も休んでいいぞ」
「はい」
「それから、外にいたリンにも、馬の世話が終わったら休むように伝えろ。ひと眠りしてから食事だ」
「はい」
キ・ギが出て行くと、室内は静まり返る。
すでにティボー四世は目を閉じている。

面倒な主君が未だに自分の袖を掴んでいることに気づき、ロトロアはそのままその場に座り込んだ。ベッドにもたれると、わずかにラベンダーが薫る。ペルが気を利かせたのだ。
ベッドわきの小さいテーブルに、ポプリを入れたつぼを見つけ、それを眺めているうちに瞼が重くなる。
ティボー四世は熱で上気した頬に髪をたらし、無意識に手で拭う。

今回のコルベイユ行きは、このトロワの領主にも秘密なのか。それゆえ、城ではなくここに来た。相変わらず信頼できる人間を増やそうとしないのだな。俺を呼び出すために三日は余計に時間がかかっただろうに。
厄介な会議より、不器用なテオバルドに思考が及び、ロトロアも目を閉じる。




『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑰

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

17

到着から丸一日を経て、ロトロアを伴ったシャンパーニュ伯はトロワを後にした。
コルベイユまでは馬で二日はかかる。病み上がりのシャンパーニュ伯を考慮し、馬車を手配するとゆったりとした行程を選択した。
その間、夜昼となく、ティボー四世と検討できる範囲の選択肢を話しあっていた。
ブーローニュ公が諸侯を密かに集める。それらの諸侯が一斉に蜂起しパリを囲むつもりかもしれない。だが、北東のフランドルはルイ八世の時代からカペー王朝に支配されていて会議には出席しないだろうし、北のシャンパーニュも和解を進めたい意向だ。パリから南西の地域は法王権力に支配されているために、ブーローニュ公への協力は望めない。
北西のブルターニュのモークレールも、表面は支持するだろうがいつ寝返るか分からない。
不安定な集まりだ。

「で、テオ、お前はどうしたいんだ」
そう切り出すのは何度目か。
うう、ん。と若い主君は額に手を当てうつむいてしまう。それもまた、ロトロアの質問と同じ回数だけ繰り返されてきた。
すでに周囲を守る衛兵の半数は眠りに付き、交代で馬車のそばに立つ数人の気配が窓に額を押し付けるティボー四世に伝わるだけだ。
背後に幼馴染の溜息を聞き、シャンパーニュ伯ティボー四世は視線を落とす。
「どうした。ブランシュが気になるならば、いっそのこと今回のコルベイユは辞めてカペー王朝に膝を折るか?」
「だが。私は疑われている。ルイ八世の死の件で。まったく何の関係もないのに」
「まあ、それはそうだとしても。丁度お前がへそを曲げて、いさかいを起した後だった。疑われても仕方のないタイミングだったんだぜ。今更、私ではありません、なんて頭を下げるつもりか?」
うむむ。また、若いシャンパーニュ伯は頭を抱えた。
「そうできるなら、したいな」
「そうしたいなら、すればいい」ロトロアはただ、肩をすくめる。
「テオ、お前がこれまでもそうしてきたように、大切だと思う人間を守ればいい。俺はお前のそういうところは嫌いじゃないぜ」
「だけど、それは。ブーローニュ伯を裏切ることになる。父上がお世話になっているのだ」
「世話になったのは父上で、お前じゃないだろ」しかもテオバルドにとっては会ったこともない父親。
「だけど」
「俺はどちらでもいい」
「冷たいことを言うな!大体、なんで今回リシャールがいないのだ。彼の説明はお前よりずっと説得力がある」
「俺のせいか?リシャールはランに残してきた」
「珍しい、いつも一緒なのに。そういえば、獅子紋の剣もないな」
「ああ、それも預けてきた」
「リシャールに?」
「いや、シャルル、俺のセネシャルだ。まだガキだが面白い奴でな」
シャンパーニュ伯はもう、眼前の問題から逃れようとしているのだ。ロトロアがもたらす新しい話題に飛びついた。
「子供なのか?セネシャルなのに?」
「あ、ああ。まあ、そういう契約だからな」
「変だね。そんなの。子供に入れ込むなどお前らしくない。ジャンが妬くぞ」
「もう妬かれたが。ここだけの話し、シャルルは女でな。騎士見習いだが見所がある」

ティボー四世は深く背もたれに身を沈め、返事をしない。組んだ腕を睨むようにしている。
「それに、剣を預けたというのか」
「あ、ああ。まだ自分の剣を持っていないからな。ランまで連れて来ておきながら、叔父上のもとに置き去りだ。多少は気にしてやらねばならんだろ」
「あの剣をか?私には触らせもしないくせに」
「お前はそういう人間じゃないだろうが。剣は必要な人間の手元に残るものだ。不必要な人間にはろくなことを起さないぜ」
「ふん、失礼だな。私より女を取るのか」
「とるって言うのか、これは」
「いいや、そうだ。お前が今回やけに遅かったのも、私に対してのあの言葉遣いも。距離を置こうとするのもその女のせいだ。そうだね。きっとそうだ」
そう言って隣に座るロトロアにすがるようにしがみつく。
「あのな、テオ、お前どうかしているだろう」
「どうもしていないぞ。お前のことはブランシュ様の次に好きだ」
「一緒にするな」
「お前はもちろん、私が一番なんだろうな!私に最優先のオマージュを捧げたはずだな?」
本来オマージュは対等。恋愛やら友情やら、そういったものとは無縁の契約のはずだが。そう、何度も説明してきたが、この青年には政治も契約も取引も、すべてにおいて人間感情が勝るのだ。
「だからお前は私が一番大切なのだろうな!」
「ええ、ですから。ここにこうして、いるのでしょう?」
「そういう、言葉を使うな!」
ロトロアのわずかな反発はティボー四世の怒りを掻きたてた。
しがみつく手が胸元を締め付け、痛いほどだ。
「テオ、いい加減にしないと」
「うるさい!お前は私に口答えなどするな!お前は私を一番大切に扱うのだ!何より私を最優先する、そう誓ったのだ。その女など、首にしてしまえ!契約など破棄だ。お前の側に女など置かせないね。私が許可しない。勝手に結婚などしたら、許さないからね!」
「……俺は、俺だ。お前に口出しなどさせない」
低く。そう、猛獣の低い唸り声のようなそれに、ティボー四世はひるんだ。ロトロアが本気で怒ったら恐ろしいことくらい、青年も承知。子供の頃の喧嘩では一度も勝てた試しがなかった。
それでもその夜は。旅の疲れか、眠れるようにと飲んだワインの勢いか。ティボー四世は縮まってしまいそうな勇気を無謀にも奮い立たせた。
「その女、私が貰う」
「テオ!」
「文句はないよね?お前のものは私のものだ」
いつ、そう決まったのだ。
ロトロアは苦々しい溜息をかみ殺し、胸元にすがる主君を睨んでいた。
「たかが女一人のために、お前はお前の目的と、私と言う主君を失うなどという、ばかげたマネはしないよね。私がよく知っているロトロアは、何をすべきかを心得た男だ」
「何をしてはいけないかを、心得ているだけだ。お前とは違う」
ぱん、と。頬を打たれ、ロトロアはまた溜息を吐いた。今度はあからさまに。あきれているのだと、主人に示す。それがまた青年の興奮を高めるだけで。
「お前は、私の側にいるのだ!口答えは許さない!黙って私を守っていればいい!セネシャルでもない、ただの従騎士の分際で生意気な口を利くな!」
吐き出した怒号の後は、ティボー四世の納まりきらない息遣いが狭い空間に影を落とす。
ロトロアは、ふと息を吐いた。
「では、自ら分をわきまえ、おそばにお仕えいたします」
静かに吐いたロトロアの台詞。そうだ、それでいいんだ、と言いながら。ティボー四世はロトロアの手を持ち上げ強引に自らの肩に廻す。畑のカカシのように力なくそれは離れ、もう一度と掴めば冷ややかなロトロアの視線に気付く。悔しそうに目を赤くし、ティボー四世はロトロアの胸に額を擦り付けた。
二度と、その額にロトロアの手が当てられることはない。


何の目算もないままのティボー四世は、傍らにただ突っ立っているだけのロトロアを恨めしそうに一瞥し。会合の会場へと歩き出した。
パリから南に下った、小さな村。コルベイユ。
村の集落を見下ろす位置にある、嘗ては礼拝堂であった場所が、今はこの地の領主の別邸となっていた。別邸という響きは宜しくとも田舎の小さな村の領主。こじんまりした石積みの礼拝堂は、正面から入ってすぐに少し広めの広間があるだけのものだった。
一応、周囲をステンドグラスで囲んでいるものの、側廊もない。四角い一つの空間にランプの弱々しい光にやけに白々しくみえる長いテーブルが据えられているだけだった。

入り口は衛兵で固められ、木の扉をくぐるとすでに席は大方埋まっていて、そこに陣取る諸侯がじろりと若年のシャンパーニュ伯を見つめた。右側にマルシェ伯、その向こうにブーローニュ伯。向かいにアンジュー伯。正面には綺麗に伸ばした髭をやんわりとなでるブルターニュ伯。マントを脱ぐ間もなく、「随分のんびりしたご到着だな、テオバルド」と。ブーローニュ伯の嫌味が届く。
いつもなら、ここで。ロトロアが説明し庇う。自然と視線が傍らの騎士に向かっているシャンパーニュ伯に、「返事も出来ないか?」と揶揄が投げかけられた。
慌てて「すみません、途中風邪などで時間をとりました」ともごもごと説明し、ティボー四世は席に着く。

すでにテーブルには空いた皿や果物の皮が散らかり、彼らがティボー四世の到着を待ちつつ一通りの会合を済ませたことを物語っていた。
ロトロアはさらっと全員の様子を立ったまま見つめる。すぐ目の前に座るティボー四世はいつの間にかロトロアの手をテーブルの下で握り締めていた。
ここで手を離しセネシャルでもないロトロアが席を外すのはごく自然なこと。しかしそれをしたのならティボー四世との関係は破綻するだろう。感情で動く青年は母についてまわるひな鳥に似ている。
ティボー四世の真のセネシャル、すでに髪も髭も真っ白なダンデルトが申し訳なさそうな顔つきで見ている。男にわずかに頷いてみせ、ロトロアは切り出した。
「お急ぎの皆様方には申し訳もないが、我がシャンパーニュはとある疑義のために派手な動きが取れません。ティボー四世様と知られず移動するためには、馬車を使うしかなかったのです。機を逸してしまったのでしたら、今回我らシャンパーニュの出番はなかったと言うことで、皆様のご決断を拝聴したいが」
ふん、と。一番近い席のマルシェ伯がにやりとする。
「相変わらず、口がうまいことだな、ロトロア。お前が大人しく我らの話を聞くと言うなら、今回シャンパーニュは動くつもりはないということかな」
「おや、そのようにお受け取りとは。姿勢を明らかにしない我がシャンパーニュには、明かせないような決議がなされたのですか」
父親ほど歳の離れたマルシェ伯リューグはにやにやと笑った。
得がなければ動かない。それはマルシェ伯も同じ立場。前王の義弟として立つつもりのブーローニュやブルターニュより、マルシェ伯はシャンパーニュに近い。ロトロアの本心を隠した語りようを楽しんでいるようでもある。
「決議はまだじゃ。テオバルド、お前はルイ九世を王と認めるか」
一番はなれた位置から大声を上げるのはモークレール。随分と率直な物言いにテオバルドはびくりと肩を震わせた。
ティボー四世、テオバルドにとってルイ九世はこれと言って恨みのない相手。ブランシュの子であれば支援したいとこれまでならば。だが。
「なあ、テオ。お前はブランシュにルイ八世の暗殺者だと烙印を押されたのだぞ。それゆえ戴冠式にも呼ぼうとしない。ここにいる皆は、お前と同様、カペー王朝に敵とみなされた諸侯ばかりだ。今このときにここにいるということは、誰一人としてルイ九世の戴冠を祝っておらんと言うことだ」
随分、大雑把な判断だ。
ロトロアは目を細め、ブルターニュ公を見つめた。
「ですが、私は無実ですし」言いかけるテオバルドの言葉を遮り、モークレールはさらに続けた。
「良いのか?女などにこの国を支配されるのだぞ?お前がブランシュを慕っているのは知っておる。慕った結果、どうなったかもな。由緒あるシャンパーニュが、国王会議(クリア・レギス)より追い払われ、我らと同席しているじゃないか」
先手を打たれた。こういう場では、いかに情に厚いテオバルドとはいえ露骨にブランシュに味方することも出来ないだろう。
ロトロアは目を細めた。
シャンパーニュも抱きこみ、何を始めるつもりだ。モークレールめ。
自然睨みつけ、相手もそれと気付きつつも平然と見つめ返してみせる。
ピエール・モークレール。一時は聖職者となったものの、清貧に耐え切れず神を捨てた男。
欲と名のつくものにはすべて手を染めると聞く。あのリノーラが何ゆえセネシャルとしてこれに仕えたいのかまったく理解できん。いや、色で迫ればそれなりに応えるのかもしれない。この男なら。
ふと、何ゆえリノーラがあのタイミングでランにいたのかと。想いがそちらへと向かう。

「あの。私はブランシュ様に微塵の疑いも、恨みもありません。ただ、ブーローニュ伯には父がお世話になっておりますし、今回のことで我がシャンパーニュにも何かお手伝いが出来ればと、考えたのです。お手伝い以上のことは、残念ながらできかねます。私は今、所領を豊かにすることに心血を注いでいます。王権には興味がありません」

ある意味、真っ当な答えだったのだ。
ティボー四世の言葉に、その場の全員が。ロトロアすら目を丸くした。
「私は、皆様に比べ若輩者ですが、シャンパーニュを治め、そこに住まう民を守るのは同じ。今、盛んになりつつある産業を争いなどで壊したくありません」
この会議自体の意義を問うそれは宣戦布告に似る。甘えん坊だが臆病者ではないのだ。
く、と。小さく笑ったのはロトロアだった。
同時にマルシェ伯もあきれた様子ではあるが「テオバルド、おぬしは憎みきれん性格をしているな」とティボー四世の前のグラスにワインを注いだ。
義理のために召集された席上の諸侯は一様に、言いたくてもいえなかった言葉をティボー四世に代弁してもらったことになる。
「そうですな。すでに戴冠式は始まっている、今急いて事を起す必要もないのではないかな」
そう、マルシェ伯に想いを吐かせる事になった。
「ふむ。生意気ではあるが、ブランシュがこれだけ素早くルイ九世を戴冠させられたのも、彼らの技量。同時にそれだけカペー王家に組する勢力も多いと言うことですな」
「フランドルがついているのも大きい。ノルマンディー公も戴冠式に参列したと言う噂だ」
幾人かが頷き、口々にこの会合に不利益な敵情を話し始めた。

ブーローニュ伯も「何、ヘンリー三世がか。うむ、プランタジネット家とは、盟約がある」と渋い顔で顎をなでた。
どうやら、この会議はこれでお開きになりそうな勢いだ。
ロトロアはふと、自分を見上げるテオバルドの視線に気付いた。
どう、と言わんばかりににこりとするから、肩を軽く叩いて褒めてやる。元々、腹黒いことは苦手な人間なのだ、この青年は。想うことを述べ、それでことが済むのなら。それ以上望むことなどない。

「遅いな」

解散となるかと緊張感の薄れた席上、一人男が立ち上がる。ブルターニュ伯だ。
「すでに、ことは動いている。戴冠式が無事に終わったかどうか、諸君が決め付けるのは時期尚早というものだ」

全員が動きを止めた。視線までも、長いテーブルの端に立つモークレールに繋がれた。
「そ、れは。どういうことですかな」
ブーローニュ伯は青ざめた。
本来この場を作り、召集するきっかけとなったブーローニュ伯。「ことが動いた」と言うそれを、知らないのであれば慌てもする。パーティーの主役はいつの間にか別の男が演じている。
「勝手に何をしたのだ、ピエール」
さすがに義兄弟だけはある。モークレールとは呼ばないらしい。

ふと。ロトロアの口をついて、名が出た。
「リノーラ、か」
小さい声でも静まり返ったその場の全員に届いていた。皆の視線を受け、ロトロアが顔を上げれば、モークレールはわずかに片目を細めた。それは笑みだ。
「リノーラがランにいたのは、ランスを目指すためか!」
「リノーラ。誰だそれは」と首をかしげたマルシェ伯にロトロアが説明した。
ブルターニュ伯ピエールの従騎士で腕の立つ女だと。
「その女がランにいた。それは、戴冠式に何かことを起すため」
「その通りだ、ロトロア。お前もよく知るあれは役に立つ。ことを成さずとも、起すだけでも良い。戴冠式でルイ九世が襲われた。同じ時期にここコルベイユに集まっている我らは。宮廷から見てどう見えるのかな」
マルシェ伯は唸った。
「ピエール、モークレールよ。お前は戴冠式でルイを殺し、この場で自分が新たな王と名乗りを上げるとでも言うのか」
「は、それも面白いな。ではここが新たなクリア・レギスだな」
「冗談ではないぞ!我らはそんなつもりはない!」アンジュー伯が立ち上がった。
「さて。宮廷にどう勘違いされるかは、私も知らない。だが。マルシェ伯、ブーローニュ伯、アンジュー伯、サン=ポール伯。そして、臆病者のシャンパーニュ伯。我らは同じ席におり、同じワインを飲んだ。そこで同じ企てをしていないなどと、誰が分かる」

諮られた。
ロトロアはテオバルドの手がぎゅ、と袖にしがみつくのを感じながら、目の前のモークレールを睨みつけていた。




『La croisade de l'ange 2:Laon』 �

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

18
ランスでの国王の戴冠式。
初日は入城の儀式と王の告解で始まり、二日目は大規模なミサと平行し、王は食を断ち一日祈りを捧げる。三日目に、ランス大司教の手により聖別。剣の祝別、塗油、権標の授与。最終日の四日目にはランス郊外のコルベニー施療院に治癒秘蹟。
大体そんな内容なのだと、シャルルも知っている。
王妃と話した翌日、聖歌が流れるのを遠く聞きながら、シャルルはジャンに説明してやった。大聖堂内を自由に出歩いていいというのを朝食のときにベルトランシュに告げられ、ジャンに求められるまま、シャルルは聖堂内を案内していた。
ジャンが見上げる天井は目がくらむほど高く、「これじゃ、ステンドグラスの内容が分かりませんね」とあきれる。
「昔、戦争で焼けたらしくてさ、まだ計画した全部は出来上がってないっていう話だよ。僕にはよく分からないけど、いろいろな街から建設奉仕に人が集まって来るんだよ。だから、この街はいつも賑わってるんだ。でもさすがに、この戴冠式の人出は僕も経験がないな」
「普通の大祭とは違いますから、ね。剣の祝別や塗油は騎士の叙任に似てるから分かりますけど、最終日の治癒秘蹟ってなんですか?」
僕も見た事がないから、と断りを入れながらシャルルは説明する。
秘蹟、神の業により奇跡を起す儀式というものだけど、神がかつて病の人を治したように、聖なる王も同じことをする。コルベニーにある施療院で病気の人を治すらしいよ、と。肩をすくめた。
「本当に?」ジャンが目を見張るのも分かる。
シャルルも初めてその説明を受けたときに、すごいというより、そんなことできるのか、と思った方だ。修道院でそれを尋ねたら、大人は皆「信じる者のみが癒えるのだ」とか、よく分からない説明をした。
「知らないけど、そういう話。行ってみる?」
シャルルの言葉にジャンは大きく頷いた。
「最終日ですし、その前に僕の務めは果たせそうですしね」
「あのさ」
前から思っていた、ジャンの勤め。
「それって何?シャンパーニュ伯に命令されて来ているんだよね?何しに来たんだ?」
にっこりと。屈託なく笑うジャンの肩に裏庭の木々を透かす日差しが揺れた。
「ブランシュ様に会えないことを嘆いている、という意味のお手紙を渡しました」
「それだけ!?」
「後は明日の戴冠の儀の時に、剣や長杖。そういう王としての権標を誰が手渡すかで今後ルイ九世の周囲で力を持つ貴族が分かります。それを確認して報告します。もしブランシュ様からお返事をもらえればそれを持ち帰るのも大切な仕事ですけどね。シャンパーニュ伯は出来れば王家を、ブランシュ様を敵に回したくないとお考えですから、僕らが今回ブランシュ様のお友達扱いになったのは、幸いですよ」
「お友達、か。でも、シャンパーニュがロイを誘拐しようとしたのは秘密なんだろ」
ブランシュはシャルルに何も尋ねなかった。だから、黙っていた。ロイが誘拐されたあの事件も、シャルルがなぜロイと友達になったのかも。
そう考えれば、ブランシュの態度は少し変な気もする。

「複雑ですよね。もしかしたら、ブランシュ様は知っているかもしれない。知っていて、知らない振りをしていたかもしれない。大体、いないことになった方が幸せだと思うなら、友達のティボー四世に保護された方が安心ですよね」

ふわと冷たい風が頬をなで、シャルルは鼻をこすった。
回廊に囲まれた井戸のある中庭に二人は腰を下ろす。日差しに温まったレンガで他よりそこは暖かい。
「よく分からないな、その辺りがさ。じゃあ、宮廷はわざとロイを誘拐させたってこと?」
「シャルル。あの頃はまだ前国王のルイ八世陛下がご存命でした。ブランシュ様がロイをティボー四世に預けたいと願っても、そんなこと、誰にも言えないんじゃないですか?」
ただでさえ、浮気だのと噂されるのに。
「そうか。ブランシュ様ってさ、なんでルイ八世と結婚したんだろ、浮気するくらいならさ」
「ブランシュ様はカスティーリャ王の娘なんですよ、結婚は自分で決められるものじゃないです。母親としてのブランシュ様は愛情深い優しい方です。信用できる相手です」
「そんなの、分かんないよ」
「あれ?シャルル、あんなに抱きついて甘えてたじゃないですか」
「ち、違う!あれは!」
「王妃様が君に優しくしてくれるなんて、僕も想像できなかった」
「ま、まあね」
ブランシュの抱きしめるあのふわりとした感触、シャルルは知らず知らず自分を抱きしめて思い出していた。
お母さんって、ああなんだ。
「ブランシュ様は秘密とおっしゃいましたけど、僕はティボー四世様にはお話しするつもりです。ティボー四世様も、ロイの消息はきっと知りたいでしょうし。シャンパーニュとカペー王朝はロイを楔に裏の世界で手を取り合うことになる。きっと、ティボー四世様もルイ九世陛下の影の協力者になるはずですし、王国は平和になりますよ、きっと」
ああ、わくわくする、ジャンは両手を合わせ天を仰いだ。
「なんだよ、純粋にロイを助けたいわけじゃないんだ」
「助けたいとは思いますけど。僕には二つの勢力を影でつなぐ役割の方がドキドキしますよ。すごいことです」
「あ、そう」
「シャルルはロトロア様に話すんですよね?」
え。
不意を突かれて、返事に困る。
「あれ?黙ってるのは、まずいでしょう?」
「……考えてなかった」
ジャンがあきれた、というカタチに口をあけているからシャルルは逆に尖らせる。
「別に、平気だよ」
「ロトロア様に黙って、ブリュージュを出たりするのはまずいでしょう?」
「……それは今も、同じだよ」
「へ?」

ああ、ジャンは知らないんだよ。
シャルルもそのことは忘れかけていた。自分がリシャールに無断でランを飛び出してきていたことを。
今、ランス大聖堂の庭にいて、出会ったブランシュについてジャンと話している。ロイを探すという目的に少し方向が見えた。これから、どんな冒険があるのかと、多少浮き立った気分だったシャルルは一気に憂鬱になる。ランでの出来事は遠い世界のように現実味がなかった。
「どういう意味ですか、シャルル?」
隣で目を丸くしているジャンだってわくわくするとか言って、舞い上がってるじゃないか。
「リシャールには手紙に残したけどさ。今ここにいるのは、誰の許可も得てない。ロトロアは言ったんだ。ランスに戻ろうと、お前は俺のセネシャルだ、忘れるなってさ。人を所有物みたいにさ。それに、そうだよ!ロイのこと、ロトロアは黙ってたんだ。僕らがここにきて知ったことなんか、もうとっくに知ってたんだ。それなのに僕に黙ってた」
「シャルル」
「だから、僕も黙ってるさ。知らない振りしてやるんだ」
「シャルル!あれだけ大切にされてて、身勝手ですよ!それに契約に違反すればその時点でオマージュはなかったことになるんです。リシャール様がこれは違反だと報告したら、君はロトロア様の元から、追い出されますよ!?」
それは。ニルセンの顔が浮かんだ。もしかしたら、イイコトなのかもしれなかった。
シャルルは契約から解放され、心置きなくロイの捜索ができるのだ。
知らずにシャルルは腰掛けて抱える自分の膝を見つめていた。そこに、あの黒髪の主君が見えるわけでもない。
「シャルル、すぐにランに戻るべきですよ!あ、ああ!どうしよう、僕が一緒に行ってあげます!君一人じゃ、きっとリシャール様と喧嘩になる!」自分のことのように青くなり、ジャンは頬を両手で覆った。
「そんなに困ることじゃ、ないよ。リシャールだって、追ってこなかったし」
「何言ってるんですか!そんな泣きそうな顔して!リシャール様はロトロア様の代わりとしてランに残らなきゃならないんです!リシャール様までランから去ったら、ラン伯に対するロトロア様の面子が立たないでしょう!?それにロトロア様の元を追い出されたら、君に何が残るんですか?今はただの騎士見習いですよ?ロトロア様から受けたもの全てを失うんですよ?馬も、剣も、友達も住むところも、僕だって会えなくなる!あれ程可愛がられていて、それを全部なくすんですか?」
シャルルは泣きそうな顔なんかしてない、と顔をしかめるが畳み掛けるジャンの勢いに黙り、それから膝に顔をうずめる。

僕が、ロイを選ぶのは、ロトロアだって知ってる。

「あ、すみません、言い過ぎました。でも、ほら。とにかく、うーん。ロトロア様に今回のをどう弁明するか、考えましょう!ね?」
膝を抱えるシャルルは小さく見える。普段の少女にしては子供のようで、ジャンは大きく溜息を吐いた。案外泣き虫で、弱いのだと、ジャンには思える。
「シャルル」
シャルルの溜息もまた、大きい。一つ吐き出すと、
「分かった。平気だ。僕が話す。ジャン、お前は口を挟むな」
「はぁ?!」シャルルの言った四つの言葉はどれもジャンを納得させない。
シャルルは言い直した。
「お前が言ったんだ、すこしならロトロアを恨んでもいいってさ。僕に真実を隠していたあいつが悪い。僕がロイに会いたがるのも承知で、戴冠式のことも教えたんだ。リシャールも関係ない、これは僕とロトロアとの問題だ。それに。僕は絶対に、ロトロアを裏切ったりしてないんだ」
そう口にするシャルルは、思いつめた視線を宙に放つ。
確かに。ニルセンにもブランシュにも、ロトロアの名は伏せていた。
「そう。じゃあ、なるべく早く帰りましょう。明日の儀式を見終えたら、僕の仕事は終わるし、そうしたらすぐに発ちましょう」



その夜、昨夜のルイとの約束で、シャルルは王と対面することになっている。
不安がるシャルルを大聖堂に残しジャンは宿に戻った。翌日の戴冠式に立ち会うためには、正装しなければならないからだ。
シャルルは一人連れてこられた部屋で、セジュールが持ってきた二人に対するブランシュの契約書を眺めていた。
「契約、契約ってさ。よく分かんないけど臣従礼の一種?」
「リオネット、と。呼ぶそうだ」
「は?」
ゴホンと、セジュールが咳払いし「ブランシュ様に、お前がリオン・ド・リタと呼ばれるとお話ししたところ、獅子などという恐ろしい生き物ではおかしいから、子ライオンと呼びます、と。そう、お決めになられた。お前もここではそう名乗るように」とぶつぶつ唸るように説明した。
「何それ?」
「いや、だからブランシュ様が。そう決められたのです」
「何で?」
「秘密の友達だとかでしょう。本名を名乗らせるのもおかしいからと」
「仇名みたいな感じ?ブランシュ様ってそういうの好きだな。ロイとかルーとか」
「秘密がお好きなんです。ベルトランシェから仕事の依頼をさせます。お前の名と住んでいる町、両親の名と職業。生まれた日をこれに書きなさい。そこにサインして。謝礼は一日につき七エキュ」
ええと。
とシャルルはセジュールを見上げた。
「文字がかけないのですか?」馬鹿にした薄笑い。
シャルルはむ、っとして、「ブリュージュのリーア通り在住。ランスの修道院出身、フランドル伯ジャンヌが母親という噂。現在はリタ村の封を受けロトロア伯の最年少セネシャル。生年月日は不明」と書きなぐった。
「お?」
「正直に書いてやったんだ。文句言うな。サインは?どの名前で書けばいいの?リオネット?リオン・ド・リタ?」
シャルルだって、仇名みたいなものだと。ふとそんな風に思った。
「孤児、か」
小さく呟き、羊皮紙をそっと丸めるとセジュールは改めて背筋を伸ばした。くぼんだ瞳からきらりと見つめられ、シャルルも何となく立ち上がる。
「もうじき、陛下がいらっしゃる。くれぐれも、失礼のないように」
ごくり、と。なぜか唾を飲み込んだ。

そこはルイの部屋。煌びやかな装飾がついた天井とランプの炎が数え切れないほど輪になって揺れるシャンデリア。いつか、大司教様の部屋に入ったことがある。ふかふかした絨毯は同じような気がする。
あの時は自分も小さかったし、大司教様に顔もあげられなかったからあまり覚えていなかった。ランス大司教様。僕のこと、憶えているんだろうな。でも、今は会えない。会わないほうがいい。たぶん。
シャルルはルイが言っていた、「大司教は知らないと言っている」という話を思い出していた。ランスではあの事件を隠している。もちろん、シャンパーニュも。
僕も、ここは黙っているしかない。

壁際のテーブルには金の蝋燭立てに炎が三つ揺れている。分厚いカーテンの向こうは大きな窓だろう。
重そうな大理石のテーブルに、毛皮のソファー。柱ごとに彫られた天使の像は花台になっていて、今は果物の入った大皿が置かれている。飾り物と化した葡萄がガラス細工のようにつやつやとしていた。
何となく、それの近くまでよると、少し背伸びして葡萄のひと粒に手を伸ばす。

「そんなもの、食べないほうがいい」
びく、として振り返れば、ルイが背後にベルトランシェと二人の衛兵を付けて立っていた。
「え、あ、そういうつもりじゃないけど」

何でいつも、こいつは僕の隙を突くような登場のし方なんだろう、そんなことに妙に苛立ちながら、シャルルはルイの前に立った。お前座れ、膝をつけ、と言わんばかりにベルトランシェが睨みつける。その手が剣に触れたままだから、シャルルはふん、と一つ息を吐いて膝をついた。
僕だって、一応騎士見習い。身分が高い人に対する礼節くらい、学んでいる。
「似合わないね」
顔をあげれば、ルイが真顔で呟いた。
せっかく人が最敬礼しているのにか?
むすっとすると、ルイは目を細めて「獅子の子には少し、可愛すぎるね」と笑った。似合わないって、仇名のことか。大体、この少年王はいつも笑っているな、とシャルルは思い出す。
「ベル、二人きりにしてほしい」
「かしこまりました。リオン」
なぜか、この騎士だけはリオンと呼ぶつもりだ。差し出されたベルトランシェの手を睨んでみた。
「何をしているのですか、お前の剣を。陛下と二人きりで帯刀を許すはずはないでしょう?」
「あ、そういうこと」
だったら、最初からそう言えばいい。そんな尖り気味の気分でシャルルは獅子紋の剣をベルトランシェに渡した。
「ちゃんと返せよ、大事なものなんだからさ」
「お、まえは……」
ルイが睨みつけるベルトランシュを部屋から追い払い、代わりに女中が一人入ってきた。
どうしていいのか分からず、シャルルはただ、女中に服を着替えさせてもらうルイをつったって眺める。
王様ってのは、自分で靴一つ脱がないんだな、そんな感想を持ちながら。

女中がルイの脱いだ服を持って出ると、また別の女中が入ってくる。その手には、青いドレスらしき塊。
嫌なことを思い出す。
あの修道院で院長が嬉しそうに。どう見ても、この場の誰がそれをって、シャルル以外に着る人がいるはずもない。
「…着替えないから」
「陛下よりのお心遣いです。まさか、そのような服のまま陛下のおそばにいるおつもりですか」と、きりりと美しい女中が睨みつけた。シャルルの勘は当たったらしい。

「嫌だよ、そんなの。騎士はドレスなんか着ない」
肩越しにルイを見つめれば、「君にはちょっと可愛すぎるけどね」と笑うだけだ。
「嫌だって!だいたい、こんなとこで着替えるなんて」
くく、と。ルイの笑い声は女中の向こうから。目の前に迫る女中の胸元をドレスごと押し返し、シャルルは抵抗を試みる。
「陛下のご命令ですよっ」
「嫌だってば!」するりと脇を抜け、シャルルはルイの背後に回る。
「んま!陛下を盾にするなど、なんという無礼!」
「うるさい!」
「いいよ、リサリ、そこに置いておきなさい。気が向けば自分で着るだろうし。私からのプレゼントだから」
「はい、陛下」
ルイには媚びるような高い声で返事をし、美しく礼をすると女中は部屋を出て行った。
「僕はドレスなんかいらないから」
「戴冠式に、出たくないのかな?正式な服装でないと許さないよ」
「遠くから見るからいい」
「戴冠式で国王に長杖を渡す役は代々フランドル伯が担う。今回はジャンヌが来ている。会いたくはないかな」
フランドル伯ジャンヌ。
もしかしたら、お母さん。

「君のことをね、この大聖堂で尋ねれば、皆いろいろと教えてくれる。ジャンヌの子だと、噂されていたことも。それを着なければ、戴冠式には列席させない。近寄ることもさせない」
「…性格、悪いって、言われないか?」
「思っても口に出す者などいないからね」
気持ち悪い奴、という第一印象はまさしくその通り。
シャルルは、ため息をついた。
「じゃ、明日着るから」
「今ここで、着てみなければ似合うか分からないだろう」
「女性の着替えを見る趣味あるのか」
「君が女性?」と肩をすくめる。
いちいち人の気持ちを逆なでしているのに、それを楽しんでる、こいつ。
「あ、そう!そうだよ、僕は男だからね」
と声を荒くし、シャルルは椅子に掛けられたドレスを掴んだ。
ルイがテーブルの呼び鈴を鳴らし、先ほどのリサリという女中が入ってきたときには、シャルルは派手な勢いで上着を脱いでいた。
「んま!こちらへ!」

女中は慌ててカーテンの向こうへとシャルルを連れて行った。
「なんだ、別室があるならそう言えよ、ばか」
シャルルは小さくつぶやいた。



『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑲

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

19

青いドレスはあの時、ロンダにもらった以来の女の服。
ろくなことが起こらないんだ。心地悪さを思い出し、ますますシャルルは憂鬱だ。
「あら、こうすればみられるじゃない」
と、偉そうに女中に笑われ、シャルルは口元に紅を塗ろうとするその手を叩いた。
「いらないってば!」
「んまぁ!それが淑女のなさることですか!?」と逆上され、いつの間にか増えた女中三人に押さえつけられて、なすがまま。
はあ、と。誰だよこれ、とシャルルが鏡の前でため息をつくころには、満足そうにリサリがルイに声をかけた。
「陛下、何とかなりました」

何とかなったっていい草も失礼だろうとむかつきながら、背中を押されるまま、先ほどの部屋へと戻る。
一人の女中がシャルルの服を持ったまま退室しようとするから、「ちょっと、それ、かえせ!」と、とにかくしがみついた。上目遣いで見つめるシャルルを、同年代の女中はどう思ったのか、手を緩め渡してくれた。いつもの自分に戻るための退路をやっと死守した気分だ。

はあ。と。溜め息をはき。
なんだか、ここに来た理由ってなんだっけ、と情けない気分に浸る。その肩にぽんと手が置かれた。
振り返れば、ルイがにっこりと笑っている。
「こっち」
「なんだよ?」
白い手がしっかりつながれて、シャルルは引かれるまま歩く。
ついて行けば先ほど着替えたカーテンの向こう、そこはそう。寝室。
「!?あの、何のために僕をここに呼んだんだよ?」
「ああ、聞きたいことがあるから」
「じゃ、こっちの部屋でいいだろ」
「せっかくきれいになったのに、無粋だよ」
「何がどう、無粋なのかというか、その。意味が分かんないだろ!」
手を振り払う。
「あれ?そうか、君、男の子のふりをしているから、まだなんだ」
まだってなんだ、まだって!
また手を伸ばそうとするから、ひらりと飛び退く、つもりが。着地と同時に裾を踏みつけた。
「わ!?」
どたんと尻もちをつき。「いて、だいたい長すぎるよ!こんなずるずるした」
だから嫌いなんだ、ドレスなんか。
と。目の前に手。
「て?」
トンと肩を押されれば、不安定な体勢も手伝ってあっさり背中に絨毯が当たる。
目の前に迫るルイに、ぎょっとして思い切り頬を叩いてやる。
「!!!」
声にならない何かを発して、ルイは顔を押さえて座り込んだ。
「お前、十二歳だろ!?なんだよ、その変態ぶりは!」
「関係ない、私の言うことを聞かない女などいない」
可愛げのない台詞を吐いて、ルイは床に膝をついたまま、立ち上がるシャルルの裾を掴もうとする。
「このっ」蹴りはドレスに阻まれて幾分和らぐ。それでもしっかり当たった感触、何か唸ってルイは腹を押さえて座り込んだ。

「言ったろ、僕は男なんだ。お前の言う事なんか聞かない」
「……ランス」
「え?」
「ランスであったこと。ロイを誘拐した犯人。君は知っているね」
ゆっくり立ち上がったルイは、またあのいつもの笑み。殴られても蹴られても懲りないのは忍耐力を褒めるべきか。いや、やっぱり気持ち悪いだけ。
「知らないよ」
「嘘をついては困るな。ロイを探していたのはなぜだい?君は誘拐の事実を知っていた。ロイが王子だということもね。平和なランスで事件があったのは十一月の臨時聖堂参事会が開かれた夜。君が誘拐されたのだと司祭は言っていた」

ごくりと、シャルルは警戒し口も心も堅く閉じ、身構えは美しいドレス姿に似合わない勇姿。
ルイはふ、と首をふり、顔にかかる前髪を払った。
「王領のリスリア村で、ロイはいつもどおりの生活をしていた。護衛の騎士は二名。屋敷には乳母と女中が一人。その日、馬の蹄鉄の修理のために鍛冶屋が呼ばれ、騎士は屋敷内の馬屋にいた。女中は食材の買出しで市に。屋敷内に三人の騎士が入り込み、一人は馬屋を見張る。一人は裏口。もう一人は正面から。そして、首謀者は離れた場所に身をおく」
なにを、言ってるんだ、こいつは。
シャルルはルイの話に立ち尽くす。今また、一歩。ルイが近づいたことにも気付かない。

「合図は教会の鐘の音。一斉に襲撃した彼らは、ロイを捉えようとした。顔の半分を兜で隠した彼らは乳母を殴り倒した。驚いたロイは窓から庭に飛び出す。騎士の名を呼んでも、賊は騎士を厩に閉じ込め剣を構えている。ロイは庭を走り出したけれど、正面にもう一人の賊を見つけた。ロイは慌てて庭の石垣が崩れている場所、そこに向かった。白馬の騎士が追ったときにはロイはひび割れた石垣の隙間から走り出していた。子供を馬で追うのだから、余裕だと思ったのだろう。騎士はのんびりと白馬を駆った。予想外だったのは。丁度市場で仕入れた食材を積んだ女中が、荷馬車で通りかかったことだ。ロイはそこに駆け込み、女中は慌ててロイを乗せ走り出す」

それは、あまりにリアル。ルイは見ていたのかと思うくらい、克明に話した。
「女中も馬を操れないわけじゃない、だけど荷を積んだ馬車では逃げ切れない。ロイを馬の背に乗せ、馬車から外すと、その尻を叩いた。馬はロイを乗せたまま、走り出す。そう、そして辿り着いたのが、ランス」

「なんだよ、それ。なんで、そんなこと知ってるんだ」
ルイはシャルルの肩に手を乗せた。
「女中や乳母、騎士たちから報告を受けたすべてだ。シャルル、白馬の騎士は名の知れた男だった。シャンパーニュでは知らぬもののない、男。見たのは女中だけだが、あいにく年頃の女性の方が、諸侯の、特に若い当主については詳しい。獅子紋の剣、丁度君が持っていたのと同じものを、騎士は腰にさしていた」
ロトロア。にやけた黒髪の男を思い出し、シャルルはごくりと唾を飲んだ。
知られて、いるじゃないか。

「シャンパーニュ。シャンパーニュ」
ルイは吐き出すように呟いた。
「うるさい、本当にうるさい。あの当時もそうだった。そして父上が亡くなったときにも。シャンパーニュはいつも我がカペー家に嫌な思いをさせる」

ルイの手に力がこもる。暗い何かを灯した視線はシャルルをぞっとさせた。
子供らしさの欠片もない、王。
「シャルル、君のご主人はロトロア伯だそうだね。あの事件の日。ロイと供に行方をくらました君が、なぜ今シャンパーニュにいるのかな。ロトロア伯は」そこでくすと笑った。
「子供趣味なのかな」
思わず眼を閉じた。ロンロン、まずいんじゃないのか、これ。

ふと頬に当たる手に気付いて目を開けた。
すぐ目の前に、ルイ。
「ね、シャルル。ロイを誘拐したロトロア伯も、父上を暗殺したティボー四世も。罰しようとすればいつでもできる。兵を差し向け、村を焼き、城を落とす。簡単なことだ。だけどね。敵は殺すより利用する方が賢いのだと私は思う」

耳元にルイが口を寄せた。
「君や、あの坊やを使ってね」
ぞく、と。
震える。
つ、とルイの手が、シャルルの頬から首、鎖骨をなぞる。そのまま、胸元へ。
「ぎゃ!!?」

やっぱり殴り倒されて、ルイは床に座り込んでいた。
「触るなってば!」
「言うことを聞かないなら、シャンパーニュを狩る」
「そ、それ!?」なんだ、それ!?
「ねえ、シャルル。私にはその力がある。お母様が何をお考えなのか知らないけれど。ロイを探すのはもちろん、他にも、私のために役立ってもらうよ。とりあえず、ベッドに行こう」
バチン、と派手な音がルイの言葉を遮る。
「だから!それは嫌だって言ってるだろ!」
頬を押さえ、幼い王は苛立ちを眉にあらわした。ずっと笑っていた、あの気持ち悪い顔もさすがに怒りで歪み始める。
「シャルル、私に手を上げるなど、何度も」
ルイが伸ばしかけた手は空を切る。
シャルルはドレスの裾を膝上までかかえた格好で扉の側に避難している。
「そういう目的しかないなら、僕は部屋に戻る!シャンパーニュのことはシャンパーニュの人間が何とかする。僕には関係ない。僕はロイのためにここにいるんだ!シャンパーニュのためでもないし、ランスのためでもない!お前のためでもね!」
かっこよく言い放ったのだからさっと姿をくらますのが正解だが。手を伸ばした背後の扉はしっかり外から鍵がかかっている。
くそっ。
振り向いてふと、ルイの視線がむき出しの自分の足に向いていることに気づく。
「ホントに、変態少年王だな!」
「変なあだ名をつけるな!」
飛び掛るルイなどさらりと交わす。邪魔な裾がなければシャルルが不覚を取ることはない。
「この、待て!」
追いすがるルイをシャルルは片手に服、片手に裾を握り締め、身軽に駆け回った。
どれだけルイが追いかけても、ソファーに乗っていたクッションを投げてきても。ただ逃げるだけ、一対一なら負けるはずもない。
「ええい!」
ルイが業を煮やし、ベル!と声を上げるから。シャルルはそそっと扉の側に駆け寄る。
ベルトランシェが扉を開けた瞬間。それにあわせてぐんと扉を引っ張った。騎士がバランスを崩すその隙に、さらりと飛び出していく。
ベルトランシェが持っていた獅子紋の剣もいつの間にかシャルルの手にある。
「な!?お前!」
不意をつかれたベルトランシェが王に怒鳴られている間に、シャルルは大聖堂を駆け抜けた。そのまま、ジャンのいる宿に向かったのは言うまでもない。


見たことのない生き物を見つけた顔をしていた。
「シャルル、ですか?」とジャンが。
「お嬢さん、どちらさまで?」と宿屋の主人は目が悪いのか、指で瞼を押し上げた。
遅い時間にドンドンと扉を叩いて迷惑顔だった主人も、その背後にいたジャンも。ドレス姿のシャルルに言葉がない。
しかも裾をはしたなく捲り上げて足をさらしているのだから。ジャンが頬を赤くしながら、「シャルル、その格好は」と視界を手で塞ぐ。
「あ?ああ、これさ、あ、いいから部屋で」
言葉を口にすればいつも通りのシャルル。
ジャンはそれで少しは落ち着いたのか、シャルルが着ていた少年の服を受け取ると、二階へと連れて行く。
「おやすみなさい」と手を振る宿の主人がニヤニヤしていた意味は、二人には分からないだろう。

ドレスの贈り主について、シャルルが熱く怒りをかみ締めながら語り、ジャンは抱えた枕を縦にしたり横にしたりしながらそれを聞く。クウ・クルはシャルルのいつもと違う服、匂いが気に入らないのか、近寄ろうとせずジャンの脇に寝転んでいた。

「知ってるんだよ、あいつ。ロトロアのこと。それでいて、わざと知らん振りしてる」
はあ、と。ジャンは溜息を枕の柔らかなくぼみに落とした。
「僕より一つ年上ですよね、ルイ様。そんな方なんですね」
「そう、変態少年王!」
「それは、言いすぎですけど。やり方に問題はありますけど、男たるもの女性に対して当然そういう気持ちはあるものです。騎士物語では、お仕えする貴婦人に求められたら断ってはいけないって言うくらいで」
「お前もそういう感情あるのか!?」僕に、といわんばかりに自分を指差す。
「あの、いや、その。僕は、まだ。そういうのあんまり分からないです、けど。きっと王様ともなると違うんですよ。女性は早い人ならシャルルの年齢で結婚しているでしょう?シャルルだって、十一歳で許婚がいたくらいじゃないですか」
「でもさぁ、結婚してないのにそれ教会の教えに反するし、罰当たり……」
そこでふとジャンの視線に気付く。眠りかけていたのか、眠いのか。とろりとした大きな目はいつもよりもっと垂れ気味で、幼く見せる。
「ジャン?」
「似合いますね、綺麗です。僕が思ったとおりだ」
「何が?」
「君が。言ったでしょう、ロイが王様だとしても君なら御寵愛を受けられるって。それ、ロトロア様に見せたらきっと」
「殺される」
「へ?」
「前に言われたんだ。二度と俺の前でそういう格好、つまり、こう胸元とか出てる奴ね、そういうのはするなって言われてる。僕の男装はある意味命令だし、ロンロンの趣味なんだ」
シャルルは威張って言い放つ。多少、意味合いが違うのだが、反論する本人はここにはいない。
「は?趣味…?」
ジャンは憧れの兄貴分、ロトロアの肖像がシャルルと話すたびに崩れていく気がして、それ以上シャルルの言葉の意味を追求する気も失せていた。
「とにかく、国王陛下の話では、ブランシュ様との契約を利用してシャンパーニュを罠にかける場合もあるわけですから。僕はやっぱりティボー四世様と相談しながら約束を果たします」
「ジャンは、なんて呼ばれるんだ?」
「ジャンです」
むむぅ。「なんだ、そのままじゃないか」とつまらない気分を顔全面に出しながら、シャルルはドレスを脱ごうと四苦八苦。
「どこか他で着替えてくださいよ、シャルル!」
「じゃあ外で着替えろっていうのか」
結局、脱ぐのを手伝わされたジャンは、最終的には鼻血を出し、頭が痛いとベッドにもぐりこんだ。風邪を引いたのかジャンは熱があるようだ。
心配するシャルルに「たまにありますから、平気です。寝ていれば治ります。いいから早く服をちゃんと着てください」と、ジャンは毛布で顔を覆った。

「明日、さぁ。フランドル伯ジャンヌ様が、来られる」
シャルルの呟きに、ジャンは毛布からちらりと顔をのぞかせた。
「だから、僕。戴冠式には行かない」
「ええ?」
フランドル伯がお母さんじゃないかと思うと、昨日シャルルが話したばかりだ。
「なんでですか!?チャンスじゃないですか!そのために陛下の前でドレス着たんでしょう?」
「あれは悔しかったし勢いだし。だってさ、だって」
「威張っている割に意気地がないんですね」
シャルルは黙った。
「いいですよ、好きにしてください」
ジャンは再び毛布の闇に隠れた。

聞いてくれないのか。
だってさ。
僕はいなかったことにされている、要らない奴なんだ。
それはロイみたいに病気だったからじゃないんだ。
僕が、僕だったからだ。

ふわりとした枕はシャルルの頬も溜息も受け止める。もぐりこんできたクウ・クルはシャルルを笑わせようと喉もとで何度も寝転んでは体勢を変える。
「くすぐったいよ、ばか」
だから。シャルルは眠れなかった。


『La croisade de l'ange 2:Laon』 ⑳

『Laon ‐ランの風は苦く‐』

20

大聖堂の鐘の音が朝を知らせる。まだ霜の消えきらないその時間にも、人々は大半が起きている。すでに通りには市へ向かう女性や子供、物売りの声がこだましている。
それが宿の窓からも聞こえるのに、ジャンはぐったりと眠ったまま。
「なぁ、ジャン。仕事だろ?戴冠式見に行くってさ。僕はどうでもいいけどお前は行かなきゃまずいんじゃないか?」
毛布を覗き込んでも、丸くなったジャンはううーと唸るだけ。
やっぱり風邪でも引いたんだよお前、馬鹿だな、と言ってみても状況が変わるわけでもない。くたりと横たわる少年にもう一度しっかり毛布をかぶせ、シャルルはジャンの荷物をあさる。
何か、薬があるのかもしれない。
そう思っても、布袋には見知らぬ乾燥した草や種みたいなものがあるだけで、どれが薬なのか分からない。とりあえず袋ごと枕もとに持っていくと、ジャンはうっすら目を開けて、一つ薬草の入った瓶を指差した。
「宿の主人に煎じてもらいます。あの、シャルル、僕の代わりに戴冠式、出てもらえますか」
「お前の代わり!?」
「戴冠式の様子、誰が来ているかとか。それだけでいいですから…」
「分かった、じゃあお前の衣装を貸してくれ」
「…ドレス、着ないんですか」
「だってさ、一人じゃ着られない」
「うじうじと、言い訳しては行かないつもりですね。男らしくないな。じゃあ、いいです。僕が行きます。風邪をこじらせて死んだとしても本望、命をかけて僕が」
「分かったよ!分かった!行けばいいんだろ!」
脱いだのだから、着られるのだ。たぶん。


くしゃくしゃの髪はともかく、宿の女将さんに手伝ってもらいながら、何とか形を整えて、シャルルは部屋を出ようとし。ふと振り返る。
「なあ、ジャン。剣はどうやって持ってくんだ?」
「騎士でもないのに帯刀が許されるわけないじゃないですか。僕だってそのつもりでしたよ」
呆れるジャンの声を背に、いざ。戴冠式へ。
腰に差す剣がないのは何とも心細い。肩のクウ・クルだけは意気揚々と尻尾をぶんぶん振り回していた。どうせ、厩で遊ぶのが目的だ、こいつは。

「僕はお前を運ぶ役じゃないんだぞ、クウ・クル」ぶつくさ言っても、大聖堂の門をくぐれば白イタチは馬の匂いにぴょんぴょんと跳ねる。地面に降り立つと一気に馬小屋の方へと走って行った。
「故郷を楽しんでるの、お前だけだな」
恨めしそうなシャルル。イタチに罪はない。


聖堂の入り口に立つ衛兵は、昨日シャルルとジャンを案内した同じ男。
「なんだ、お前女だったか」と呆れたように笑い、「セジュール様に聞いている。こっちだ」と案内してくれた。
すでに礼拝堂の内陣は人でいっぱいだ。離れた位置から見るしかなさそうだ。さすがに戴冠式の山場である式典は見物の人出も多い。
貴婦人たちの香水の匂いにむせてくしゃみを三回。これじゃ、クウ・クルは絶対近寄らないな、と鼻をすする。
衛兵が案内したのは礼拝堂のベンチが並ぶ一番後ろの列でしかも端。目の前の背の高い男のために、あまり見えない。
「なんだ、見えないじゃないか」一人こぼしながらつま先立ち。それもその内疲れてしまい、山場になった時だけでいいかと大人しくベンチに沈む。
ジャンが仕事だと言っていた、誰が来たかなんてことはシャルルには分からない。第一、誰が誰って名を聞いたってさっぱりだ。後でセジュールに聞けばいいやと、見物を決め込む。何しろこんなに大勢の貴族をいっぺんに見る機会などない。
ステンドグラスの華やかな絵柄が地上に舞い降りたみたいな光景に、シャルルは自然と心が浮き立った。

パパーン。
と、どこかでラッパが吹き鳴らされた。それが合図なのか、皆静まりかえった。
会場の全員が背後にある礼拝堂入り口を振り返っている。
なんだ?
慌ててシャルルも背後を見つめた。
背の高い大人たちのために右に左に、何度も身体をよじってみる。
隙間から見えた扉は開かれている。ラッパを見つけ、これがさっきのだ、ともっとよく見ようと背伸びする。
静まり返っていた。

扉から厳かに、ルイが姿を現した。両脇をベルトランシェと、近衛兵らしいのが警備している。その後にブランシュ、柔らかな髪が窓からの日差しにフワフワとして、シャルルは目を細めた。自然、口元に笑みが浮かぶ。
続いて偉そうな貴族らしき人々が何人も続く。
行列はゆっくりと中央の通路を真っ直ぐ進む。同時に観衆の視線をも引き連れていく。ルイが真っ直ぐ見つめる正面の聖壇。今や全員が、一つの場所を見つめていた。

きらびやかな聖像を前に、一人壇上まで進んだルイは片膝をついた。正面に立つランス大司教を見つめる。ルイの華奢な肩には重そうなマントが、床に流れている。ランス大司教が長い説教をはじめた。その間ずっと微動だにしないルイはやはり忍耐力があるのだ。昨夜のルイを思い出す。
変態少年王のくせに。とシャルルの呟きは声にはならない。

聖歌が歌われ、ランス大司教がルイの前に立った。厳かに聖油の青い瓶を持ちあげると、それが合図なのか両脇に立つ司祭が王の周囲に近寄り、そのマントをゆっくりと脱がせる。まだ華奢な肩があらわになった。
大司教は瓶から金色の細いものを取り、それの先でルイの足に一滴。腕に一滴、胸に一滴。最後に額に一滴と、聖なる滴をつけて行く。

「聖標を」静かな大司教の言葉に、背後に控えていた大貴族たちが立ち上がる。
ぞろぞろと列をなし、順にルイの前に来てはその手に足に、拍車や籠手、冠などをつけて行く。
その中に一人だけ女性の姿を認めた。
シャルルは腰を浮かしかける。
ルイが言っていた、長杖を渡す役だと。

フランドル女伯、ジャンヌ。
広大で豊かなフランドル、かつてはひとつの公国であった。ジャンヌは公国の継承者でもある。シャルルはできるだけ首を伸ばし、その姿を見ようと右に左に、居並ぶ後頭部の隙間を探す。

金の髪。つややかなそれは白く華奢な襟元に流れる。まっすぐ長く、二つに分けられたそれが女性の胸元に沿って揺れた。白い衣装は首元まできっちりと締められ、それが女性の美しい身体を余計に想像させた。ブランシュとは違う、澄み切った朝の空のようなさわやかな身だしなみ。
「綺麗だ」ふとシャルルが漏らした一言に、隣の青年が表情を緩めた。
手を口に添えて、そっと教えてくれた。
「ジャンヌは今年二十七歳になるという。五歳でフランドル伯を継いでいるから名は知られているが、まだ十分若く美しい。諸侯のあこがれの未亡人だよ。高い身分の女性と婚姻することは家の繁栄をもたらすとあって、この美貌の女性が夫を失ったことは諸侯の政略結婚地図に新しい宝の在処を記すことになった。ほら、若い貴族の男性は皆、熱心にジャンヌを見つめているだろう。噂では、ルイ九世陛下が最初になさるお仕事は、ジャンヌに新たな結婚の相手を用意することと言われている」
シャルルの視線はジャンヌを見つめたまま。話しかけた男に尋ねてみる。
「前の、あの亡くなったっていう…」
「ああ、ジャンヌの元の花婿リチャードのことか。前国王ルイ八世が王太子の頃、フランドル伯とカペー家は争っていた。リチャードは捕虜となり、そのまま亡くなったよ。当時まだ、十代前半、今の君と変わらないくらいだったジャンヌはしばらく臥せっていた。私が王位に就く少し前だったから、もう十年以上も前になるな」
「十三年前、だよ」その臥せっていたときに僕が生まれたとされるなら。
青年は改めてシャルルの方を見つめた。少し乱れた派手な金色の髪を獅子のように振り乱し、視線はまっすぐ、壇上のジャンヌに向ける少女。青年はほとんど無視されている。こんな風に女性に扱われたことのない身分の人間だと、シャルルは気付いていないのだ。

「君は変わった言葉使いをするね。どちらのお嬢さんかな?伴も連れずお一人とは」
そこで初めてシャルルは隣にいる男の顔を見た。青年は淡い金色の髪を短くし、目じりの下がった青い瞳が高い鼻の両脇に鎮座する。よくよく見ればまだそばかすもある。
痩せた色白の青年は見た目の割に老成した口調で、いや、貴族ってやつは皆そうなのかもしれないけれど。どうもその緩やかな発音が耳についた。そう、外国人、みたいな。
「リオネット、と呼ばれているよ。リタの田舎育ちだから。そちらは?イングランド、あるいは北の訛りのように思うけど」
「……訛りではない。我らの言葉が正統。君は認識を改めるべきだな。我が国の言葉ほど美しいものはない」
青年は遠い目をし、その視線を追うとそれはルイを見ていた。
「ルイ、幼くして王位を継ぐことがどういうことなのか。これからが試練だろうな。あるいは、あのルイ八世の息子であれば、大人しい様子の下に好戦的な策略家の血を宿しているのかもしれない」
ルイ八世のことをよく知っているような、口ぶり。
この人、いったい?そこで初めてシャルルは疑問を持った。よく見ると周りは従者らしい騎士がたくさんいるし、この人、冠かぶってる。
もしや身分の高い人?気付いたところで、それの隣にいる状態はすでに手遅れ。大体、そういうのの隣に案内したあいつが悪いよ。
衛兵は外でくしゃみをしているかもしれない。
「あのー、貴方は、どなた?」一応、少し敬語。
青年はふと笑い。
青年の背後、つまりシャルルのすぐ後ろに控えていた男が唸るように告げた。
「イングランド王ヘンリー三世陛下です。紋章や冠を見て分からないのですか。子供とは言え、わきまえなさい」
イングランド、王…。
「何でこんなとこに座っているんですか」と呆れてシャルルが見上げると、青年の手がシャルルの頭をなでた。
「この招かれざる客をどう扱うか。セジュールが苦心惨憺した結果だろうな。諸侯の手前もある。我のようなものですら、このような末席に据えられる。カペー家とプランタジネット家は相互に敵であり、血を分けた親族でもある。この複雑な王家同士のつながりは、臓腑をえぐるような憎しみすら耐えて笑わねばならない。君のように、無邪気ではいられないのだ。あのルイも同様。幼いうちから冠を戴くものは、子供でなどいられない」
陛下、と背後の男がまた、困ったように囁く。
「よい。これが大貴族の血を引くとは思えまい。たまたま居合わせた小娘、面白いではないか。リオネット、と申したか。我が国に来てみるか?私はノルマンディーで生まれたのでな、フランス人を何人か側においている」
「陛下」慌てたように男が唸り。ヘンリー三世はくすくすと笑った。
「フランス人は好きだ。我がままで素直、心根が暖かい。イングランドの宰相たちのように気難しい輩ばかりでは肩が凝ってならん」
「あの…僕は。カペー王朝にお仕えする、つもりだから」
「なんだ、ふられたな。気が向いたなら訪ねるがいい。私は美しいものは拒まない」
ふと、甘い香り。
シャルルは頬にふにゃと。そう。キスを感じて「わ!?」と立ち上がった。
しん、と。

それまでは確かに、皆。周囲の貴族たちもこそこそとおしゃべりしていたくせに。一斉に静まり。立ち上がったシャルルだけが視線を集める。
「あ」
ランス大司教は目を丸くし。しっかりとこちらを振り返る金髪のジャンヌ。その瞳は、シャルルとは色が違うようだが。視線が合うと瞬間に息がとまったような感覚。
この人は。この人は。
お母さん?
「この馬鹿」と。不意に背後から引っ張られ、振り返ればセジュールがあの冷たい顔を真っ赤にして睨みつける。「あ、のちょっと」と、言い訳も何もなく、兵に囲まれその場から引きずられる。
セジュールが視界の隅で、ヘンリー三世に頭を下げていた。

もっと、見ていたい、フランドル伯ジャンヌ。
お母さんかもしれない、女性。
もう一度と振り返れば、ふとルイの表情が目に入る。
冷たい視線だった。あの薄笑いもなく、微塵も変化しない顔。
シャルルは力が抜け、ずるずるとされるがまま引きずられていった。


散々怒鳴りつけられても、シャルルはじっと黙ってうつむいていた。
「お前は、似合いもしないそんな恰好で」
これは仕方なく着ているのだとか、そんなことをいちいち話す気分ではない。薄い青色のドレスの膝には手触りのいいレースがついて、ひらひらとシャルルの指に玩ばれている。華奢な肩が半分ほど出たそれは、この季節には少し寒そうに見える。
いつもと違い反論も何もしないシャルルにセジュールはため息と共に上着をかけた。

「陛下も酷なことを」小さくつぶやいた青年のそれは、シャルルに届いたかどうか。
青年ははっきりと言いなおした。
「ブランシュ様がどうお考えかは知らないが、我らはお前のような子供に何も期待していないし、簡単に言えば迷惑だ。お前が逃げ出したことにして、ブランシュ様に契約は破棄されたと報告してもいい」
「ちょ、っと!待てよ!僕はちゃんと契約したんだ!セジュールさんだって見てただろ!」
はあ、と。青年はまた暗い顔をしてため息をついた。どうもこのセジュールはいつもそんな顔つきだ。生まれつきかな。ふと、ヘンリー三世が気難しい輩、といった言葉を思い出し。シャルルは首をかしげて見上げた。

「まあまあセジュール、その子は目立つ性分なんでしょうね。式典の最中にイングランド王は誘惑するわ、大声を上げて台無しにするわ。前代未聞です」
これまた難物が入ってくる。
長い髪を揺らした美しい騎士。ベルトランシェだ。
「しかし!この私が苦労して練り上げた式典を台無しにしたんですよ!こんな子供の世話まで言いつけられて」
「ブランシュ様のお遊びなのです、いいではないですか。陛下もなぜか気に入っておられる。ただし、リオン。身分をわきまえ、節度を持って行動する。騎士となるなら当然のこと。今回のような無礼な真似は二度と許しません。リオン、顔をあげなさい」
目の前に立つ騎士の剣が目に入り、手に持つ鞭。それは部下を罰するにも使うのだろうか。
見上げたベルトランシェは、シャルルの顔を見るとふと眼を丸くし。それから視線をそらした。
「今後、お前たちに指示をするのは私です。余程のことがない限りブランシュ様や陛下にお目通りできることなどありません。分かりますね」
シャルルは頷いた。ブランシュには会いたいが、ルイは遠慮したい。望むところだ。
「お前の住む街のバイイ(地方代官)を通じて連絡させます。住居はどこですか」
「王領のブリュージュだそうだ」そう応えたのはセジュールだ。
「では、ブリュージュのバイイ、グレーヴに連絡役を頼みます。お前からロイについて何か分かった時はきちんと報告しなさい」
「分かった」ロイを探し出す、これは大切な仕事だ。僕にとって。
「そう、いい子ですね」
ひやりと頬をなでられ、シャルルは眉を寄せた。ベルトランシェは鞭を伸ばしたりたわめたりを繰り返し、シャルルを見つめる。
「お前が男なら、私の従騎士にして鍛えてあげてもいいのですが。残念ですねぇ」
ベルトランシェが束ねた鞭の先でシャルルの頬をぐりぐりとなでつける。
「ベルトランシェ、その行動はどうにも人格を疑いたくなるぞ。お前は鞭を持つのを止めた方がいい」
セジュールの言葉にシャルルもうんうんと頷いた。人を鞭で痛めつけるのが、きっと好きなんだ、こいつは。
「大丈夫、手は出しませんよ。リオンは女性でしたし、女性に鞭を振るうのは私も趣味ではありません」
「男ならいいのか」
「嫉妬ですか?セジュール」
肩に手を回され、セジュールは「触るな、気色悪い」と逃げようとする。ふとロトロアとリシャールを思い出した。
ああ、こいつらもこいつらで、仲間なんだな。
そんな変なことを浮かぶまま考え、シャルルはじゃれあう青年二人をぼんやりと眺めていた。いつもの元気が出ないのは、ジャンヌを見たためか、ジャンの風邪がうつったのか。あるいはここ数日に起った目まぐるしい出来事に、さすがのシャルルも疲れているのかもしれない。
自覚はないが、今のシャルルはセジュールと同じくらい気難しい顔をし、はあと溜息をついていた。

「忘れるところでした。リオン。ランス大司教がお前に会いたいとおっしゃっているが。どうします?」
セジュールがうるさがって退室すると、つまらなそうな様子でベルトランシェが傍に来た。
「タヌキ爺はお前が我らのそばにあることが、恐ろしくて仕方ないのでしょうね」
人の悪い、綺麗な笑みだった。
「会うよ。平気」
そう、このランスに来たからには。付けなければならない決着もある。
明日にはここを発つのだ。


シャルルが案内された部屋は、先日のルイの部屋に似ていた。ふかふかの絨毯を足で確かめながら、大司教が部屋に戻るのを待つ。
今回、こういうの多いな。ふと思う。ブランシュや、ルイ九世のカペー王朝。大司教座、シャンパーニュ。それと、そう、今日知り合ったイングランド王。複雑な、ちょっと変わった権力者たち。
ジャンなら、皆いい人だなんていうのかもしれないな。
僕にはそうは見えないけど。
そう、この人も。
丁度、白髪の老人、ランス大司教が金の衣装を引きずりながら現れた。
二年前のあの時、無関係を貫こうとした偽善者だ。

「シャルル、お前がまさか、生きているとは」
そんな台詞で老人は話し始めた。
「今、どうしているのですか。シャルル、ロトロア様のもとに?」
黙ってうなずいた。
「あの時のことは、宮廷の者に言ったのではないでしょうね?」
「言ってないよ」というか、彼らは知っていた。
ほっとしたような顔を隠しもしないからシャルルは納得した。ああ、この人は自分が悪いことしたなんて思ってないんだ。自分を疑ったり後悔したりしないんだ。このランスで絶対的な力を持つ、それは神が後ろ盾なんだから、そうなるのも無理はないのかもしれないけど。
幼いころ思っていた畏怖の念は、あの事件から無くなった。
僕を追い出し、ロイを見捨てて。それでも、悪びれることもないんだな。
「シャルル、お前はなぜ、ここに戻ってきたのですか」
その上、お説教か。
「ここはお前の帰る場所ではありません」
「生まれた場所でもないしね」
「……二度と」
「貴方の顔など見たくない」
大司教は目を丸くした。
「僕の無事を喜んでくれる優しい人もいた。だから、そういう人のために、僕はあの時のことは黙っているし、二度とここには来ない。決して貴方のためじゃない。ランスのためでもない」
はっきりと、今シャルルは立ったまま大司教を正面から見据えていた。
この街に来て、多くの後悔と悲しみを思い出した。それはいずれしなければならなかったことだと思う。
今もまだ、思うようにならないことばかりだけど、一つ一つ片付けて行かなきゃ、前に進めない。
「明日には発ちます」
シャルルは身を翻した。

宿に戻るとジャンはすでに出かける準備をしていた。
「あれ、もう出発!?明日の治癒秘蹟、見ないのか?見たいよ、どうせならさ。な、もう一日いいだろ?」
「今日ですよ」
ジャンはまだ少し青い顔で、丸めた書類を書簡筒に入れ、荷物に詰め込む。
「えー。どうせ、リシャールは怒ってるだろうし、ロンロンはまだ帰ってないはずだしさぁ!治癒秘蹟、見ようよ」
もしかしたら、またジャンヌを見ることができるかもしれないのだ。
「だから。シャルル。治癒秘蹟が今日の午後になったそうです。早まったって大聖堂の入り口に貼り出してあったでしょう。丁度いいから、治癒秘蹟を見たらそのままランへ向かいましょう。大体、何で知らないんですか。フランドル伯に夢中でしたか?話くらいできたんでしょう?」
体調が万全ではないのだろう。答えを期待していない質問を矢継ぎ早に並べ、ジャンは荷物整理に集中する。帰りには大聖堂の前など通らなかったから、シャルルは全然気付かなかった。それに結局、ジャンヌを見られたのはほんの一瞬。
自然、口も口調も尖ってくる。
「なんだよ。話しかけるなんて、そんなことできるわけないだろ」
「ふーん」
「あ」そういえば。
「どうかしましたか」
「なんでもないよ!」
ジャンの任務とやらを、すっかり忘れていたことを思い出す。
まずいな。
戴冠式の話題を続けるのを避け、シャルルも黙って身支度を始める。
ジャンはシャルルの様子をしばらく見つめ。それから自分の作業に戻った。
シャルルは治癒秘蹟のコルベニー施療院でセジュールに会って、何とかジャンの知りたい情報をもらおうと知恵を巡らせる。戴冠式での自分の行動はお世辞にも成功とはいえない。


「ごめんな」
シャルルはいつもの自分の姿に戻り、ドレスの分だけ重くなった荷物をロンフォルトにそう謝りながら括りつける。
クウ・クルもすっかり馬の頭で準備万端。
行きと同じく目深にかぶったフードの下、シャルルは頭上に日差しの暖かさを感じながら馬に揺られる。修道院は狭い視界からちらちらと見つめたものの、アンの姿は見つからなかった。二度と来られないかもしれない。
ごめんねとまた、心の中でさよならを告げる。



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