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「想うものの欠片」第一話プロローグ 10

10


シーガは再び眼鏡をかけた。
「ユルギアは皆何かの思念を持っています。いえ、思念のみと言っていいでしょうか。恨み、悲しむ。人は自らの死に臨んで最も強い思念を抱くといえるでしょう。だから、ユルギアは死んだ人の思念であることが多い。そのユルギアはあなたに言いたいことがあるようですよ。通訳しましょうか?」


「ユルギアが話すと言うのか!司祭たちでもユルギアの声を聞くなど聞いたこともないぞ!」


「くく、司祭と一緒にされても…高名な司祭たちがユルギアなど相手にすることはありません。聞こえいても無視するでしょう。私は聞こえるものには耳を傾ける。たとえ死んだ老人の呟きだろうとね」
くくく、と青年はいかにも面白そうに笑っていた。
ロゼルヌ卿は日に焼けた頬を薄くなった額まで赤くして怒鳴った。
「嘘だろう!人をからかうのもいい加減にしろ!薄気味悪い、シディが!」


シーガの笑いは大きくなった。シディ、それはシーガの民族シデイラを卑下した呼称だ。しかし青年は面白そうに笑っていた。
「っははは。ロゼルヌ卿、あなた面白いですよ。いや、この街に来てよかった」
「うるさい!」
領主は馬車が止まると同時に、シーガを押しのけるように外に出た。
とたんに、領主の顔色が変わった。
「なんだ?」


歓声と歌声はうねりとなって競技場を揺らしているようだった。
「なんでこんな騒ぎになっている!」
忌々しげに傍らに並んで立ったシーガを怒鳴りつけた。
「シーガ、直ぐに止めさせるからな!分かっているな!」
シーガは憤るロゼルヌ卿を無視して競技場のほうに歩き出した。
「ユルギアなど、信じないからな!」
ロゼルヌ卿は青年の背中に怒鳴った。そして、黒褐色の古びた石造りの建造物を見上げた。
「忌々しい…」
かつて、卿自身もボール競技の選手であった。四角張った顔立ちのいかにもポオト人の男性らしい容姿だ。堀の深い顔立ちに鼻梁が濃い影を落とす。口をへの字にしたまま、青年の後を追って橋を渡り、競技場の入り口へと入っていった。


あの黒い植物はまた伸びたのか、通路の天井を覆いつくしているように見える。薄暗い中、明り取りのはめ込みの窓からの光が斜めに差込み、ちょうどその下に差し掛かると青年の銀の髪が揺れた。
「ロゼルヌ卿、あなたは面白い人だ」
そう言って振り向いた青年のコートがゆらりと風に揺れた。


建物の中ゆえ風はない。
ロゼルヌ卿はそれに気付いた。いつの間にか響いていた歌声も聞こえず、静まり返った通路内で、風もないのにシーガの服がなびく。
再び、シーガの髪がまるで風に弄ばれるかのようにゆらいだ。
「うるさい」
青年の小さな呟きに、髪はぴたりと止まる。
若い領主は憮然としていた。


「何の悪戯だ、シーガ。何を仕組んでも私はユルギアなど信じない。古代の神々も、神王も単なる宗教上の象徴に過ぎない。山から掘り出される鉱石で自動車が走る時代だ。この国にも王都には機関車が走り、蒸気を利用した飛行船も飛ぶ。この進んだ時代に乗り遅れまいと、諸侯はこぞって技術者を募り、自らの領地を新しい機械で潤そうとする。このポオトでも新しい蒸気船を開発している」


青年は黙っていた。黒い眼鏡の奥の瞳は無表情だ。
「いいか、負けてはならないのだ。この時代を生き延びるためには、より便利な海路と陸路を手に入れなければならない。進んだ技術によって大量輸送が普及し始めたこの国にあって、山と海に挟まれたこの街は時代から取り残されつつある。ユルギアなど、怖がっているわけにはいかない。古臭い考えを捨てなければ、新しい世についていけないのだ。私には、この街に責任がある」


太いロゼルヌ卿の声が天井に反響した。
シーガはふん、と小さく笑った。
美青年といっていいシーガの愁いを帯びた笑みに、ロゼルヌはぞくりと何かを感じた。視線がつい、彼の口元を見入ってしまうのは眼鏡のために瞳を見ることが出来ないからだ。表情を読もうとそこに目が行く。
そして緩やかな笑みを浮かべる唇は妖艶な雰囲気を漂わせているのだ。
男は目をそらして吐き出すように言った。


「なんだ、何か文句でもあるのか」
「いいえ。私もユルギアは嫌いですよ。ユルギアは思念を持った獣です。赤ん坊に近い。単純な思念だけでつまらないものです。あなたのような人間の思念が覗けたらと思いますよ。きっと、醜く淫らで、悲しく切ないでしょう」
ロゼルヌ卿は怒りに任せて青年に掴みかかろうとしたが、足元を一瞬駆け抜ける風を感じて立ち止まった。
黙り込む。

次へ 
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「想うものの欠片」第一話プロローグ 11

11


シーガは競技場の歌声、風の音、海の音を意識した。
今ルーファに手を振っているミキーが帽子の下の耳をぴくりとさせてシーガの存在に気付いたことすら、聞き取っていた。二人は互いにそういう部分でつながっていた。


シーガが競技場の芝生に足を踏み入れた時には、黒い服の少女が駆け寄ってきていた。抱きつこうとするので、額を押さえる。
「シーガさまっ」
短い手をパタパタと伸ばす仕草はかわいらしい。
「尾が出ていますよ、みっともない」
「あ!」
慌てて自分の後ろを見ようとくるりとその場でミキーは廻る。
「あれ?あれ?」
「随分、集まりましたね」
シーガは感心したように見回した。


観客席は封鎖されているために、四角のフィールドの外側は人でいっぱいだった。早朝の漁を終えたのか漁師の一団らしい男たちも、声を張り上げて自分たちの息子を応援していた。
ちょうど、競技の残り時間一パイントを告げる鐘が鳴らされた。
競技の時間は専用の砂時計で二十回返して測る。残り一パイント。パイントとは砂時計に入っている砂の量を表す単位だ。一パイントは生まれたばかりの赤ん坊と同じくらいの重さで、それを詰め込まれた酒の小樽位はある砂時計が専用の台座の上でがらんと向きを変えた。最後の一パイント分、砂が落ちきるまでが勝負だ。
点数は二対二。同点のようだ。


「ふん、子供同士の競技にこれほどの声援を送るとは」
言葉とは裏腹に誇らしげな領主に、シーガが答えた。
「ご存知ですか。この競技場でこれほどの歌声が響く理由を」
「声が反射するつくりになっているのだろう?人間の技術はすばらしい」
シーガはふっと笑った。
「いいえ、これもユルギアです。たくさんの人々の想いがこの競技場の石くれ一つ一つに染み込んでいる。それは、この競技場で試合が行われるたびに揺り起こされ、まるでこの座席全部に人がいるかのように響かせる」
「信じないぞ。お前はそのうち、陽の光すらユルギアだと言いかねん。いいから、お前はあの木を何とかするのだ」


「こりゃ、領主様、ごきげんよう。さ、どうぞどうぞ、前へ。そこじゃ見えないでしょう?なかなか、いい試合になっとりますよ」
パン屋の主人が観戦する人並みの一番後ろにいて、ロゼルヌの声に気付いて振り向いた。
続いて、隣にいた漁師の老人、学校の先生。小さな子の手を引いた女性。
皆に口々に挨拶され、握手し前へ前へと送り出され、ロゼルヌはいつの間にか観戦する人の列の一番前に立っていた。
傍らに立つシーガは黙り込んで、その隣の少女はルーファの姿を見つけて手を振る。
商業会会長のスタリングと、その隣に立つユニフォーム姿の青年がロゼルヌに気付いて、隣に移動してきた。
喧騒の中、領主はスタリングと話すために声を張り上げる。
「お前も来ていたのか」
「ええ、いいものですね、この雰囲気は。街中のものが集まったみたいですよ」
嬉しそうに微笑むスタリングにアラン・ロゼルヌ卿が眉をしかめた。


「残り、一パイントを過ぎたあたりだった」
シーガがぽつりと言った。
喧騒の中、その声は不思議なほどロゼルヌの耳に響いた。
「覚えていませんか、ロゼルヌ卿。二十年前、ですね」
ロゼルヌ卿の表情が硬くなった。
スタリングも、シーガのほうを振り返った。


「二十年前のこの日。ちょうど決勝でしたね。ポオト・ルクスは宿敵と同点だった。満員の観客の見守る中、残り1パイントを切ったところで異変が起きた」
シーガの話に、ロゼルヌ卿とスタリングは視線を合わせた。確認するように。
「何の、ことかね」
ロゼルヌ卿はシーガをにらみつけた。当時は子供だったはずの青年が二十年前のそれを知っているはずはなかった。どこかで古い新聞記事でも拾い読みしたのか。
シーガは切れ長の瞳を細め、むしろ面白がっているように話し出した。


「当時のポオト・ルクスでロゼルヌ卿、スタリングさん、あなた方はこの芝生の上に立っていたはずです。そして、彼も」
スタリングは隣に立っていたポオト・ルクスのユニフォームを身につけた青年を振り返った。
「はい」
青年は嬉しそうにシーガに答えた。
「な、何を言う!君は関係ないだろう!何しろ二十年前だ、君はまだ小さな子供だったはずだ」
ロゼルヌが青年を睨んだ。
「ロゼルヌ卿、ユルギアは歳をとりません。年月がたち、競技場のユルギアを吸収して確かに姿は少し変わったかもしれません。しかし、紛れもなく彼はあなた方と一緒にボールを蹴っていた。あの時心臓の病で倒れ、そのまま命を落とした選手ジエ・キリエです」
ユニフォーム姿の青年は不思議そうに自らの心臓の辺りを押さえていた。


「な、まさか!」
ロゼルヌ卿が一歩下がる。
スタリングは青ざめたものの、何度かの瞬きの後に青年に近寄った。顔を観察すると、思い当たる容姿であったようで、青年の手を取ろうとした。
「そうだ、ジエだ、私のチームメイトだった!ジエだ!私はランカだ、ジエ、覚えているかい?」
スタリングがかつてのチームメイトを抱きしめようとしたが、その手は空を切った。
「!」
「スタリングさん。彼は二十年前に亡くなっているんです。何か、心残りがあったのでしょうね。この競技場でもっとも強い力を持つユルギアです。彼は競技場に昔から染み付いているユルギアと同調しています。それが、これを作ったと考えられます」
青年は背後の黒い植物を親指で指し示した。


「嘘をつくな、そんなこと、ありえん。この植物をユルギアが作ったのだと?そのユルギアがジエだと言うのか!嘘だ!そんなはずはない!二十年前に死んだジエが、どうして今ユルギアになって出て来るんだ!おかしいではないか」
ロゼルヌ卿が、シーガのコートの胸元を掴んだ。
貴族であり領主であり、もとポオト・ルクスの選手でもあった。立派な体躯と強い意志を持つ顔をしていた。今のロゼルヌ卿に先ほどまでの姿はない。何かにおびえ威嚇している。安っぽい獣。
シーガは目を細めてその姿を楽しんでいた。


「競技場を取り壊すことで、彼だけじゃない、数え切れないユルギアが目覚めました。皆、競技場に住んでいるのです。誰だって、心地よいベッドからたたき起こされれば、苛立ちもしますよ。あなたが、彼らを起こしたのです。何事も理由なくしては起こり得ません」
「信じないぞ!」


ロゼルヌ卿は、突き飛ばすようにシーガから離れると、一歩下がる。背後に立っていたパン屋の主人に背が突き当たった。
主人は何も気付かないようだ。聞こえていないのかもしれない。
声援を続けていた。


慌てて周りを見回したが、ロゼルヌたちに興味を示す人は誰もいない。競技場を揺るがしている歓声は、まさしくユルギア。その力がシーガたちを取り囲んで、彼らは今や孤立していた。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 12

12


「そうか…」
ランカ・スタリングは、もう一度懐かしいユニフォーム姿の青年の手を取ろうとした。ジエもまたランカの手を握り締めようとする。彼らは親友だった。
「あの…」
再びすり抜けるのをやるせなく見ていたミキーがジエの手を右手にとった。少女はユルギアの手をしっかりと握った。そしてスタリングの手を左手にとって、そのまま上下からはさむように二人の手を合わせた。
スタリングの右手と、ジエの右手が触れ合った瞬間、スタリングの脳裏に二十年前の記憶が駆け巡った。
色鮮やかな、まるで今まさにその時であるかのような映像が心に沸きあがる。


突然だった。


その年のチームは、過去最強を歌われていた。
国内リーグでは敵なし。
その決勝も守勢一方の相手を攻め続けていた。
青い空の日だった。午後の日差しに競技場の座席がうす黄色く照らされて。応援の街の人間はポオト・ルクスのチームカラーのオーシャンブルーのタオルをふって、大声で歌を歌っていた。それは、芝生の上で走っていると、潮風に流れて、まるで波のうねりのように見えた。
先ほどのプレーで、相手選手と接触したスタリングをジエが手を差し出して助け起こした。


「後、1パイントだ」
「勝とうぜ」
そういったジエの表情が、一瞬で蒼白に変わった。
助け起こしてくれていた手の力が抜けた。
「ジエ!」
スタリングは仲間を、親友をゆすった。彼は胸を押さえたまま、うずくまり。


医者とチームスタッフが病院に運んだが、そのまま逝ってしまった。
どれほど、泣いたことか。
チーム一の頭脳を誇り、いつも冷静に皆を引っ張り、穏やかな性格は皆に好かれていた。歳は一番若かった。当時、まだ二十三歳だった。
スタリングは三つ年下の彼を尊敬していた。
頬に、あの時と同じ熱い涙が伝った。


ジエは不思議そうにスタリングを見ていた。
「ランカ、試合はどうなったんだい?」
ジエはスタリングに語りかける。
スタリングは首を横に振った。
ジエの少しぼんやりとした顔は、悲しそうに歪んだ。


「ジエ、君がいなくなって僕らのチームが勝てるわけがないだろう!君が生きていてくれたら!試合の結果なんか、どうでもいいんだ。君が逝くには早すぎた!」
「…そうか。負けてしまったのだね」
「すまない。あの後、君のことを思って、誰もが試合どころじゃなかったんだ。私は試合など放っておいて、君のそばについていたかった。二度と会えなくなると分かっていたなら…。すまない、私がどれほど悔やんだことか」
「スタリング…」
ミキーにはジエの表情が笑ったように見えた。自分を思ってくれる親友に心打たれているのに違いない、少女は何度も何度も涙の出ない瞳を瞬いた。


くく。
笑うものがいた。
「スタリングさん、ユルギアは思念だけです。自分が死んだことなど理解していませんし、悲しんでもいない。彼の死を悲しんでいるのは彼ではなく、あなただけなのですよ」
ジエは首をかしげながら苦笑いするシーガを見つめた。
「シーガさま意地悪ですの」口を尖らせるミキー。
「な、なにを言う!彼は私の親友だ!」
「…そうか、負けてしまったのか」
「ジエ?」
ランカ・スタリングの目の前で、ジエの姿が薄くなった。ミキーが悲しそうに消え往くユルギアを見つめた。


「もう、いいでしょう?ジエ、あれを消してください」
シーガはジエの肩に手を置いた。シーガもまたユルギアに触れることが出来るようだ。消えかけていた青年がまた、元の通り、まるでそこに生きているかのようにはっきりとする。ジエは少し驚いた顔をしながらシーガを見つめた。
シーガは観客席を這い回っている黒い植物を指差していた。


「あれを、消してください」
ジエの表情に色がなくなった。何色かも分からぬ瞳はシーガではない何かを見つめるように恍惚としていた。
「…負けた」
ユルギアの想いは、ただそこだけにあるようだった。
シーガはジエの思念が薄くなるのを感じながら、小さく舌打ちした。それ以上顕在化させているとこちらの力を浪費する。ふと、息を吐いてあきらめると、肩に置いた手を離す。
「だから、獣だというのです。役に立たない…」


きゃー!
歓声に悲鳴のようなものが混じる。
隔てていた扉が開かれたかのように、場内の歓声が耳に流れ込んできた。
誰かが倒されたのだと、男が怒鳴る。白熱する試合は、いつしか不穏な空気を競技場に放っていた。


痛そうに足を押さえてシドが座り込んでいる。
彼を庇うようにチームメイトが転ばせたテデに詰め寄った。
「なんだよ!」
「お前、汚いぞ!」
突き飛ばされ、よろけたテデはやり返そうとして、ルーファに止められた。
「落ち着けよ、テデ!相手にするな!」
そこにすかさず商人たちの野次が飛んだ。
「ルールを教えてもらってから出て来い!」
「なんだと!お前ら」
大人たちも、けんか腰になる。


その様子を聞いているのか、ジエはそちらを見ていた。もう、その金髪の向こうに芝の緑が透けて見えていた。
「ジエ?」スタリングはジエを振り向かせようと声をかける。
「そう、ちょうど、この時間だった。あの日もよい天気で。ファールの判定にもめて、ひどく荒れた試合になっていた…」
ジエの静かな言葉に、スタリングは嬉しそうに目を見開いた。
「思い出したかい?ジエ」
ふいにジエが胸を押さえて座り込んだ。
あの時のように。
「ジエ!」
そして、あの時のように、スタリングが助け起こそうとした。


だが、その手は空を切った。
ジエの姿は消えていた。
「ジエ!」
叫んだスタリングの手は、むなしく空を掴む。


静寂。


先ほどまで地鳴りかと思われるほど競技場を揺らしていた歌声や歓声が、突如消えた。それはシーガたちを囲んでいたユルギアが、霧が晴れるように消えうせたように感じられた。ロゼルヌ卿は辺りを見回した。
隣に立っていたパン屋の男が、じっと、固まったかのようにフィールドを凝視していた。


「ルーファ!」
誰かが叫んだ。
言い争っていた街の人々も、芝生の一点を見つめていた。


赤毛の少年が一人、芝生の上に倒れていた。

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「想うものの欠片」第一話プロローグ 13

13


「畜生!誰だ!ルーファになにしたんだ!」
そう怒鳴って、人の波を無理やり掻き分けて飛び出した男がいた。先ほどまで大人たちの言い争いの中心になっていた目立つ男だ。
ルーファの父親だろう。同じ赤毛で、日に焼けてたくましい。


「何言ってる!勝手に倒れたんだ!勝手に入るな!試合中だぞ」
審判をしていたレットが男をさえぎりながら怒鳴る。丸く太ったレストランの店主は、背の高い赤毛の男を全身で押さえつけようと手を広げた。
「貴様、ちゃんと見てろよ!」
男は審判に掴みかかる。


「ルルド、審判は絶対だぞ!」
背後からの野次に、ルルドと呼ばれた男は声のしたほうを睨んだ。商業者たちの白い顔がいっせいに男を見ている。
「急に倒れたのよ!」
「いいから、早く誰か!」
「ちゃんと食わせてるのか?腹へって動けないんじゃないか」
若者が揶揄を飛ばす。
「やあねぇ」
ルルドが後ろから組み付いて止めるレットを、殴り飛ばした。その勢いのまま、揶揄した青年に掴みかかる。
どよめきが広がる。
「なにすんだこの野郎!」
ルルドに商人たちが詰め寄ったときには、漁師たちもそれを左右から囲むように集まっていた。


「ルーファ!」
「おい、しっかりしろよ!」
大人たちにかまわず、少年たちは集まってぐったりしたルーファの肩をゆすった。
「ルーファ」
シドが助け起こす。
「触るなよ、シド!」
テデがシドの肩を突き飛ばそうとして、かわされて転びかけた。
シドはそんなこと意に介せず、ルーファの額に手を当てる。
「ひどい熱だ、ルーファ、俺だ、シドだよ、分かる?」
「なんだよ、お前!」テデがシドの背後から手を伸ばそうとしたが、他の少年が止めた。
少年たちは皆、敵味方関係なく、じっと見守っている。
テデも頬を赤くして、ルーファの方に向き直った。
「お、俺だって、心配なんだ!」口を尖らせた。


ミキーが駆け出そうとするのを、シーガが留めた。
ワンピースの襟首をつかまれ、少女はあん、と残念そうに振り返る。
青年は厳しい表情のままだ。
「近寄ってはいけません」


オトナたちがいがみ合う中、ロゼルヌ卿だけがシドの脇に膝をついて、ルーファの様子を見てくれた。
「大丈夫、脈はある。皆落ち着いて!ひどい熱だ。ランカ、ルーファを病院に!」
ロゼルヌ卿がきびきびと指示を下した。
「ルーファ!」
その様子に気付いたのか、赤毛の日に焼けた大男がシドから奪い取るように少年を抱き上げた。
「俺が運ぶ!」
ルルドが怒鳴る。
その手をロゼルヌ卿はしっかりと掴んで引き止めた。


「ルルド、車のほうが早い!私の車、ああ、ダメだ、今日は馬車だったな!シド、君は付き添ってくれ、ランカ!車で来ているか?」
「父さん、早く!」
ジエの消えた場所で膝をついたまま呆然としていたスタリングの肩を、シーガが叩いた。
「!は、ああ、はい!」
ランカ・スタリングは立ち上がると手招きするシドとロゼルヌに駆け寄っていった。
「商業会の恩は受けないぞ!」
少年の父親は止めるロゼルヌ卿を振り払った。


「スタリングさん、そんな荒くれ者に車を出してやることはない!昼間から酒臭い息をしているんだ!酔っ払いめ」
レットが向こうから怒鳴った。大人たちはまだ言い争いや掴み合いを続けていた。
「そうだ、お前たち漁業会が街の品を下げているんだ!どうせ病院の金だって払えないさ!」
口々に悪口を言う商人たち。
「なにを言ってやがる!お前らが店の看板を下ろす時間に俺たち漁師は起き出して漁に出るんだ!お前らが休日なんていっている今日だって俺たちは一仕事終えてきているんだ!一日の終わりに酒飲んで何が悪い!」
「お前ら商人が潤うのは俺たちが命張って港に荷を運ぶからだ!偉そうにしやがって!」
漁師たちは日に焼けた腕を振り回して怒鳴り散らす。
興奮してしまっている大人たちは、二つの塊に分かれて互いを罵り合っていた。


「醜いな」
シーガはルーファに近寄ろうとするミキーを押さえたまま、街の人々から離れて競技場の真ん中に向かって歩いていった。


赤毛の少年を抱き上げたルルドは、シーガたちと反対に、競技場の出口に急ぐ。あの、通路だ。他の通路は工事用に閉鎖されていた上から植物に絡みとられ、どこも使えなくなっていた。シーガは競技場の真ん中に立つと、耳を澄ます。
同じものが、ミキーにも聞こえていた。
苦しそうなルーファの息遣いすらも。少女は息を詰めてじっと聴覚に神経を集中させていた。


「待ちなさい!私の車に」
スタリングだ。
「スタリング、お前の車などに乗せん!」
ルーファを抱き上げたままのルルドにスタリングが追いすがった。
何度振り払われても、執拗に赤毛の漁師に掴みかかった。
「頼む!二十年前と同じにしたくない!」
「!?」
ルルドがかつての名選手、ランカ・スタリングをにらみつけた。
「二十年前?あんたは、確かに名選手だった!皆に応援されて、ポオト人の誇りだった!それが、今やこの街に移り住んだ他所者の味方じゃないか!金持ちになると変わるんだな!あんたの親だって爺さんだってみんな漁師だったのに!」
何の関連もないことだった。


傍らに付き添ったシドが顔をしかめた。
「ルルドさん!父さんは毎年この日に、二十年前に亡くなったジエ選手のお墓に会いに行っているんだ!ルルドさんたちは行ってくれたの?応援したって言うけど、チームの勝利のためだけだろ!父さんはジエ選手を助けたかったんだ!今だって、ルーファを助けたいんだ!俺だって、同じだ!ポオト人は情に厚くて友達を大切にするんだろ!」


地鳴りがした。
「俺はルーファを友達だと思ってるんだ!職業とか住んでいる所とか関係ないだろ!」
怒鳴りながら、気付くとシドはよろけてルルドにすがるような格好になっていた。
「え?」
「なんだ?」ルルドは周りを見回していた。
「地震だ!」
地面が揺れていた。圧倒的な力で何もかもが揺り動かされる。


「!いかん!」
ロゼルヌ卿が叫んだ。スタリングたちはちょうど壊れかけた通路の中だった。
ルルドの足元にも拳ほどの石くれが転がってきた。


「危ない!」
「崩れるぞ」
ルーファを抱えたルルドは庇うようにその場に座り込んだ。シドも、スタリングもロゼルヌ卿も。
天井から土煙を上げて崩れた石が落ちてくる。
さらに揺れが激しくなった。

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「想うものの欠片」第一章プロローグ 14

14

ごごご、と地鳴りが続く。
崩れかけた客席にひび割れが走る。土煙を上げて崩れていく。


激しい揺れに街の人々はその場に座り込んだ。這って逃げようとするもの、子供を抱き寄せようと叫ぶもの。
芝生の地面が盛り上がる。それが亀裂を走らせ黒い土を晒したかと思えば、ぐんと沈んだ。


その中に、ただ一人、銀色の髪の青年だけが、まるで何も気付かないかのように競技場を見つめて立っていた。彼の黒いコートは、ふわりと風にゆれ、取り囲むように空気の渦が流れる。


外への通路の中。
固く目を閉じたシドが、恐怖の中、死を覚悟した時だった。


不意に揺れがおさまった。シドはルルドとともにルーファを庇うように覆いかぶさっていた。シドの青いシャツは土ぼこりで真っ白に汚れていた。
「シド、…?」
冷たい石の通路に自分が横たわっている理由も、父親とシドが自分を庇うようにしている理由もよく分からずに、ルーファは視界を何度も瞬きして拭った。自分の上にいるシドの腕を力なく握り締めた。


「あ、ああ。ルーファ、気が付いたんだな!びっくりしたぜ、お前倒れたんだ。今、病院に運ぶからさ」
金髪の少年が嬉しそうに笑うので、ルーファは照れくさそうに目をそむけた。
その様子を見ていたルルドは逆に落ち着いたのか、黙り込んでいた。
「ほら、行くよ、父さん!」


シドは座り込んだままの父親の肩を叩いた。
「スタリング、無事か?車は何処だ?」
スタリングはロゼルヌ卿の声に数回頭を振って立ち上がった。肩から、背から、砂埃が煙を上げながら落ちた。
「助かったのか…」
「崩れるかと思った、よかった、父さん早く外へ」
シドが笑った。
大人たちも安堵の表情で、再び出口を目指して歩き出した。
ルーファはルルドに抱き上げられたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。何かが動いた。
「…?」
黙って天井を指差した。
「ルーファ?おい?」
シドがルーファの視線の先を追った。
「うわ、すごい、これ!」
シドも天井を指差した。大人たちもその視線の先を見上げた。


通路の天井は一面黒い植物の根で覆われていた。網の目のように伸びた植物の隙間で、崩れかけた石がビシと音を立てた。隙間から落ちかけた岩に、また一筋の根が絡みつく。
まるで、崩れるのを防ごうとするかのようだ。


「今のうちです、早くここから離れてください」
シーガの穏やかな声はまるで染み渡るように皆に響き、人々は無言で足を速めた。
競技場で座り込んでいた街の人々も、不思議そうにあたりを伺いながら、誰も口を利かず競技場の外へと向かう。いつの間にか集まっていた数百人、いや、千人はいるだろうか。列を作って先にルーファたちの消えた通路に向かった。
その背中を見つめて、シーガはコートにかかった埃をはらった。
傍らに座り込んでいるミキーは、恐怖にこわばったまま身動き一つせずにじっとしていた。


シーガは銀の髪をかきあげた。視線は誰もいない観覧席に向かっていた。
「さて。まだ嫌がるのですか」
シーガがまるで目の前かのように話しかけた相手は、ミキーにも見えていなかった。
「あなた方がなぜこれほど力を得たのか、それを知りたかったのですが。亡くなった管理人の方、あなたのお話は分かりました。それでも、この競技場は壊されると思いますよ。真実が明らかになっても、工事は止まりません」
「ねえ、シーガさま。どなたとお話してますの?」


青年が遠く向こうの観客席を見ているようなので、ミキーも芝生に座ったままそちらを見つめる。誰も座っていないようだ。何か、どんよりとした生ぬるい空気がミキーの周りを囲んだ。ふわ、と不意に起こった小さな風にミキーの髪が揺られた。
「怖いですの」
青年のコートにしがみついた。
「ミキー」
シーガはしがみつく少女を引き剥がす。


「皮肉ですね。この競技場を残したいと願うユルギアたちの行動が、街の人々を救った」
「偶然ですの?」
「ミキー、彼らの願いはただ一つです。ここで人々の声援と歌声に合わせて歌っていたかったのです。その思念に、殺された老人の思念が毒をさした。老朽化を理由に取り壊されてしまう。落石事故があったという。それが真実ではないことをユルギアたちは訴えているのです」
「…真実ではないですの?」
シーガはみしみしと木の根を軋ませる落石をじっと眺めた。


いかに力強い木の根とはいえ、この競技場すべてをそれだけで支えるのは難しい。時折枝の折れるような乾いた音が響く。落ちかけた落石にさらに二重三重に黒い根がわたる。
すでに、観客席は途中から大きな段差が出来、崩れ落ちようとする通路を黒い植物が覆いつくしていた。客席の階段は半分落ちて、落ちかけた石にも植物がまきつき、まるで不気味なオブジェのように不器用な形で揺れていた。
再び、小さな地震があった。
競技場全体を包もうとする植物が、ぎしぎしときしみ、さらに崩れる石を追いかけてまた巻きつく。

「御覧なさい、ミキー。いくら支えても、壊れてしまったものは元には戻らない。ユルギアたちも分かっているでしょう。彼らの黒い木々で覆われた客席に、彼らの大好きな観客は戻ってこない」
ぐるりと取り囲む観客席を青年が見回す。
いつの間にか傾いた日差しに、空は白い雲が流れていた。
目の前で最後を迎えようとしている巨大な建造物と対照的に、空は大陸一の美しい夕日に染まりつつあった。

次へ 

「想うものの欠片」第一章プロローグ 15

15

緑の芝生に、ポツリと青年と少女だけが競技場の最後を見守っている。
彼らの影も、足元に長く伸びている。


「分かっていますよ。あなた方が教えてくれた。老朽化ではない。落石も事故ではなかった。本当はロゼルヌの手によって殺されたんです。管理人の彼は国からの鉄道敷設の視察団をここに案内した。視察団の目的もロゼルヌ卿の目的も分かっていた。管理人はこの競技場を愛していた。建替えに反対する漁業会に知らせようとしたのでしょう。ロゼルヌ卿が金のためにこの競技場を壊そうとしている、とね」
風が、ゆらりとシーガの服を揺らした。


「それで、殺してしまったんですの?ひどいです」
ミキーが憤慨したようにぷんとすると、風が今度はミキーの髪をくすぐった。
「ロゼルヌのすることは、金のためです。けれどそれは、この街のためでもあります。ひいては街の人々のため。そして、あなた方が最後の力を振り絞って、崩れ行く競技場を守ってみても。あなた方の望むものは得られません」
静かに語るシーガに、まるで突風が吹いたように髪が、服が巻き上げられる。
小さな竜巻が彼を囲んでいるようにも見えた。
「シーガさま!」
「ミキー、離れていなさい。すぐに治まりますよ。もう、時間はないのです」
それを象徴するかのように、シーガの背後で砂時計の砂が落ちきろうとしていた。
風に巻き上がった小さな小石に頬が切れたのか、シーガの白い頬に赤い血が一筋滴る。
「シーガさま!」
「もう、諦めなさい。この競技場は壊れてしまいました。地震は誰のせいでもありません。時は流れるのです。崩れたものは、あなた方の力では直すことは出来ません。いずれ、ロゼルヌ卿が新しい競技場を作るでしょう。あなた方が染み付いたこの石材は再利用されるといいます。その時まで、しばらく静かに見守りなさい。いずれまた、客たちと一緒に歓声を響かせるときが来るでしょう」
青年が、微笑んでいた。
これまでの彼とは思えない、優しく美しいその表情。
ミキーはこの表情が大好きだった。
普段は見られない、愛情にあふれた青年の表情に、いつの間にか胸の前で手を握り締めている。胸が温かくなる。


ふ、とシーガを取り囲んでいた風が止んだ。
彼の足元の芝は丸く円を描いて一方向に倒れ、それを中心に小石がばらばらと落ちていた。
青年が歩き出し、石壁に取り付いて崩れる石を支えている黒い植物に、そっと触れた。
すでにいつもの表情に戻ったシーガは、静かに語りかける。


「通常、ユルギアは実体を持たない。思念の作り出すエネルギーに過ぎない。それが、触れることのできる実体を持つなど、ありえない。教えなさい。石を持っていますね?」
シーガの触れる部分が青く光った。青年の手のひらの内側から静かな蒼い光がこぼれた。
ミキーは何度も瞬きして眩しそうにそれを見ていた。


「やはり、ありましたか」


光が消え、青年の手のひらには小さな青い輝石が乗っていた。
青年の手がそれをそっと包んだとき、地震に似た地響きがとどろいた。余震かもしれない。
「!?」
「きゃあ!」
ミキーは縮こまったまま、耳を押さえて青年に擦り寄る。
シーガは少女を抱きしめたまま、翡翠色の瞳でじっと植物に宿ったユルギアたちの答えを待っていた。


「……だめですね。力を使い果たしたようです。消えました」
青年のつぶやきと同時に、黒い木々は急速につやを失っていった。内に抱えていたユルギアたちが目に見えない水蒸気となって天に昇るように、競技場全体をつつむ空気が歪んだ。
「あ!」
ミキーが小さく叫んだ。
その瞬間だった。
競技場が、木々に支えられていた石柱が崩れ、観客席が崩れ落ちた。建物が、崩壊したのだ。
競技場の真ん中で、二人はその光景にただ立ち尽くしていた。


その音は、街中に響いた。
倒れた家の前で座り込んでいた男も、津波に洗われ、横倒しになった船を呆然と見ている漁師も、子供を抱きしめ街をさまよう女性も。皆が、その音に気付いて競技場を見上げた。
競技場は瓦礫の山となり、潮風が抜けるたび白い土煙を漂わせていた。


津波が街の半分をなめ、もろい石灰の海岸線は崩れ、街は大きな被害を受けていた。特に港に近い繁華街は津波の被害が甚大だった。
漁師たちの住む高台は、古い家が倒れたものの、それほどひどくはなかった。
古人の知恵がそこに生きている。不便な山手にポオト人が住み着いたのは、決して偶然ではない。
このとき、街の人々のほとんどが競技場に集まっていたため、奇跡的にも誰一人として命を落とすことはなかった。まるで、競技場に守られたかのようだと、後に噂されることになる。


地震から二日後。
シーガは領主の館を訪ねていた。
館はそれほど損傷はなかったもの、ロゼルヌの座る背後の大きなステンドグラスに、いくつものひび割れが走っていることで揺れの激しさをもの語っていた。
黒檀の大きな執務机に向かいながら、ロゼルヌ卿はペンを走らせていた。


「ロゼルヌ卿」
正面に立つシーガが声をかけると、一瞥をくれてまた、手元の書類に向かう。
先ほどから、その繰り返し。
シーガの表情が曇る。
「だから、お前に払う報酬などない」
シーガは呆れて、つかつかと領主に近づく。
それを避けるように、アラン・ロゼルヌは立ち上がると、背後の窓辺に近づいた。
「見たまえ。この街はかろうじて崩壊を逃れた」


館の広い庭は、家を失った街の人々に解放されていた。船の帆布を使ったテントが、いくつも立ち並ぶ。崩れかけた塀の脇で、ランカ・スタリングと教会の神父が配給のスープを配っていた。炊き出しは街の女たちの仕事なのだろう、敷地の片隅では大勢の女たちが忙しそうに働いている。
災害で家を失ったものの、人々の表情には笑みが昇る。たくましい海の民たちだ。
領主の覗き込むステンドグラスの窓を遠めに眺めたままシーガはけだるそうに口を開く。


「地震と津波で家を追われたのは街の人々です。あなたではありません。そして、私に約束した報酬はあなたの資産からすれば極わずか」
いつか工事業者のダーレフが言っていた。ケチだと。
「わずかだろうと、その金があれば、今ここで寝泊りしている大勢が助かる。申し訳ないがな、シーガ。あそこにユルギアがいたのかどうか、私は未だに分からないんだ」
「ほう、眠っていらしたとは知りませんでした」
「それにな。工事予定の競技場は崩壊した」
「それは、好都合ですね、ダーレフも喜んでいるでしょう」
「つまり、工事自体が無くなったのだ」
「…詐欺のようにも、聞こえますが。ダーレフの請負も反故にするおつもりですか」
シーガの怒りを含んだ言葉にロゼルヌ卿が振り返った。
ここ数日の疲労が頬に出ていた。目も少しくぼみ、やつれたようにも見えた。


「話したくは、ないのですが。ロゼルヌ卿。私がなぜ二十年前のことを知っているか、お教えしましょう」
「いらん」
領主は耳を塞ぐように両手で頭を抱えると、再びイスに座り、机の上の書類をじっと見つめている。

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「想うものの欠片」第一章プロローグ 16

16

「私には大勢の声が聞こえます。ユルギアたちの声です。彼らは好きなことをいっている獣に過ぎませんが、その中から得る情報も多い。たとえば。競技場が壊れた後に国が鉄道を敷設しようとしていること。それに伴って、この街に大きな金が流れ込むこと。そして、そのためにあなたは管理人を手にかけたこと。ああ、あなたは平気ですね。すでに二十年前に一人殺していますから」
ドン!と、ロゼルヌが机を叩いた。
「…なにを、言っている?」
にやりと、シーガは美しい笑みを浮かべる。翡翠色の瞳は笑っていない。
「薬、飲ませましたね」
次の瞬間には、ロゼルヌはシーガの目の前に迫っていた。瞳の奥に暗く揺れる影に、シーガは殺意を感じた。人間の思念ほど複雑で醜いものはない。それを聞くことの出来ないことが残念でならない。
「くく」
シーガの瞳はそこで笑った。


「あれは!私も飲んだのだ!外国の珍しい薬だと!それを飲むと試合に集中できるのだと言われた。私は風邪気味で調子の悪かったジエにも、一粒与えた。もちろん私も飲んだのだ!まさか、それが原因だなどと!誰も証明できる者はいない」
骨ばったロゼルヌの大きな手が伸ばされる。肩に触れる寸前で、シーガは一歩下がる。
「では、なぜあなたは怯えているのですか?二十年前ジエの後に試合に出たあなたはほとんど走らなかった。恐れたのでしょう?ジエの二の舞を踏むことを。そして先日、ジエのユルギアにあなたは異常に怯えた。ご自分で認めたようなものでしょう」
「貴様は!」
「別に私はあなたが誰を殺そうとかまいません。政府に訴えるつもりもない。ただ、約束は守っていただきたい、それだけです」


青年は面白そうに笑っている。
相手が怒鳴ったり気分を悪くすればするほど、面白みを感じるらしい。
アラン・ロゼルヌは憎憎しげに青年を睨んでいたが、ふと、表情の力が抜けた。
目を細めた。
「では、私がお前を殺してもかまわないということだな?」
「…殺せるものなら、ですが」
青年は近づく領主を、腕を組んで見守っていた。
青年の黒いコートがふいに揺れた。
風はない。
「止めた方が、いいと思います」


青年の落ち着き払った様子にロゼルヌ卿は何を思いついたのか、机の方に戻った。引き出しから銃を取り出した。そのまま、にやりと笑って青年に銃口を向ける。
銃身の短い銃。ライトール公国御用達のレミント社製、高級品だ。
「いいか、黙って出て行くなら、命は助けてやる。貴様にやる金はない」
くくく。
シーガは笑う。
「ここで死ぬなら、それが私の運命なのでしょうね。ですが、あまり、そういう気はしないのです。なにしろ私は、神に愛されているようですから」
ふいに、館が揺れる。
「!」
ガシャン!
部屋の隅に立てかけられていた額縁が倒れた。
「また地震ですね、危ないですよ」

青年は笑う。
ロゼルヌはシーガの頭上で揺れるシャンデリアを見上げた。クリスタルのこすりあう甲高い音がまるで小鳥の群れのざわめきのように聞こえた。
かと思うと、不意に派手な硝子の割れる音が耳を突き刺す。それは、人の思考を一切断ち切るような癇に障る音だった。肌のあわ立つ感覚にシーガの笑みも消えていた。


何かがロゼルヌの背にのしかかった。
弾みで銃を一発。それは目の前の黒檀の机に醜い穴を開けた。
ロゼルヌは絨毯を目の前に見ていた。
膝をついていた。
何かがのしかかって、動きが取れない。
体を起こそうと右腕を背後の何かに押し当てると、鋭い痛みが腕と足首に走った。
「う、なんだ?」


「それは神の使徒を描いたステンドクラスですか。お怒りに触れた、ようですね」
見上げるとシーガが机越しに上から覗き込んでいた。銀の髪にステンドグラスを透かした赤い光が揺れた。背後の大窓から割れたステンドグラスの半分ほどが落ち、のしかかっていた。分厚いガラスをケイムと呼ばれる金属でつなぎ合わせたそれはとてつもない重量になる。
それが、膝をつく男の背を覆うようにのしかかっていた。鋭い破片で切れた足はどろりと赤い血を流していた。
ロゼルヌは青年をにらみつけた。
青年は小さく息を吐いた。


「私は殺されないで済んだようですね。代金は、そうですね、その銃をいただきましょう。貴方が良心の呵責に耐えられずに自殺などしないように、丁度いいですね」
「く、私は、何も悪いことなどしていない…た、助けてくれ」


ロゼルヌ卿はシーガが机を回り込んで、床に落ちている銃をそっと拾い上げたのを悔しげに見つめていた。伸ばした手は完全に無視されていた。そして。拳銃、青年の手、腕、肩、顔に視線を動かして、翡翠色の瞳と目が合うと、ロゼルヌ卿は力を失ったように顔を伏せた。
男が握り締めた拳に何を思うのか、シーガはまた小さく笑う。


「誰も、あなたが悪いなどと言っていませんよ。ご自身がそう思っているだけです」
助けようともせず立ち上がった青年に、窓からの風が吹いた。
風に乗って、階下の避難民の声が響いた。


「おい、スタリング、大丈夫か。お前、寝てなくていいのか?」
「ルルド、来てくれたのか」
「ああ、船の修復を手伝ってくれれば、魚をやるぜ。今日は街の奴らに食わせるってんで、張り切って漁に出たんだ。大漁だぜ」
「ああ、いいだろう、何人か募るよ。助かる、商業区はほとんど全滅だからな」
青年は広い屋敷の遠く離れた庭で二人が固く握手したのを感じながら、部屋を後にした。
ポオトの街は一つになりかけていた。
肩を震わせ、動けずにいるロゼルヌ卿のことなど、彼の意識からなくなっていた。
風とともに青年の耳にたくさんの音が入り込む。
視界に映る余計なものを見ないために、再び黒い眼鏡をかけた。
その銀の髪にまとわりつくように風がからんだ。
「魚臭い…」
眉をしかめる。

続きに雑記書いてみました↓

第一話プロローグ、次で終わりです♪ 

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「想うものの欠片」第一話 プロローグ17

17
病院の窓辺には、オレンジの色のガーベラが日の光を目いっぱい浴びていた。海を見下ろすことの出来る庭には、家を追われた人々が小さなテントを並べている。
それでも、子供のはしゃぐ声、ボールを蹴る少年たち。
街の人々は生き生きとしていた。
そんな様子をぼんやり見ながら、ルーファはまた、寝返りを打った。体を起こす。
「ルーファ、まだ、寝ていなきゃダメだろ。流行り病かもしれないって先生が言っていたよ。宿屋の主人も、ダーレフさんもまだ寝込んでいるんだ」
テデだった。少年は水差しを持って病室に入ってきたところだった。
あの日から三日が経っていた。ずっと高熱にうなされていたためか、ルーファは記憶がぼんやりしていた。どうして、病院にいるのか、まだよく分かっていなかった。
「…俺、夢見たのかな。すげーかわいい女の子に会って、競技場で試合して…」
テデが太めの眉をぴくぴく動かして鼻の穴を膨らめた。
「なんだよ、笑うなよ!」
「あはは。お前、相当いかれてる!今、来てるよ。あの子」
テデが面白そうにルーファの肩を何度も叩く。
病室の白い扉がそっと開いた。
亜麻色の髪がくるくると揺れて、少女が顔をのぞかせた。ルーファの頬にさっと朱が走る。嬉しそうな笑みに、テデが呆れるほどだ。
「!ミキー!」
笑い返す少女の背後、シドが頭一つ上からのぞいた。
「シド!お前、なんだよ!」
シドは手に持った果物の籠をテデに渡すと、ミキーとともにベッドの傍らに座った。
「顔色もよくなったね、三日も熱が下がらないから、心配したんだ」
「お前が?」
「そうさ、悪口言う相手がいなくなったら困るだろ」
にっとシドが笑った。
「いなくなるわけないだろ!」
ルーファも口を尖らせながら笑っていた。
ミキーは嬉しそうに、首を右に左にかしげると、胸の前に合わせていた手をそっとルーファの手に重ねようとした。
「ミキー」
「きゃ!」
背後から響いた静かな声に、少女は飛び上がるように立ち上がった。
「え、誰?」
病室の戸口に立つ背の高い青年に気付いて、ルーファは怪訝な顔をする。
銀色の髪は一つに束ねられ、揺れるたびに香るような気分になる。翡翠色の不思議な瞳。青年が睨むと、少女は立ち上がってそちらに駆けて行った。
ルーファはシーガに覚えはなかったが、ミキーが青年の手を取って寄り添って見上げているのを見て心が痛んだ。ミキーが青年を慕っているのはすぐに分かった。美少女の背後の美青年。悔しいくらい自分と違う世界にいると感じていた。
青年は病室に入ってくると、ゆらりと上質なコートをはためかせて少年たちを見下ろした。

「ルーファくん、すみませんでしたね」
「え?」
ムットした表情を隠そうと、ルーファは平然を装っている。
「ミキーは知恵熱を引き起こします。特に君みたいな少年にね」
「!?」
少年は真っ赤になった。それではまるで、自分がミキーに邪な望みを持っていたかのようではないか。もちろん、少年なりのときめきはあった。それは否定できない。
ルーファは憮然として黙り込んだ。
シーガは少年の表情を楽しんでいた。
「あのね、ルーファ。私たち、今日発つの」
「ミキー、どこに行くんだ?」
ルーファは顔を赤くしたまま、青年を無視して少女に声を書ける。
「あのね」
「ルーファ、君にいいことを教えてあげるよ」
シーガがさえぎった。
「なんですか、邪魔しないでください」
「くく。競技場の跡地にね、鉄道が通るんだよ。ロゼルヌはそのつもりだ。もちろん、商業会も賛成でね。知らないのは君たち漁業会の人たちだけだ」


黒い馬の引く小さな馬車で、ミキーは潮風と遠ざかる街の夕日を眺めていた。窓枠に腕を預け、遠い瞳は何かを思い出しているのだろうか。
「くくく、面白い。向こうに着いたら、新聞を買いましょう」
少女は上機嫌のシーガを背中で感じていた。
「シーガ様、あの後、ルーファたち怒っていましたの。よくないですの。せっかくシドと仲良しになったのに、また喧嘩になりますの」
「そうですか?気になるのなら、お前をおいていってもいいんですよ」
「!意地悪ですの!」
いっ、と変な顔をして怒る少女をシーガは面白そうに眺める。
「私は親切に教えてあげましたよ。領主が街の人々を騙して競技場を取り壊した。知らずにいる少年に本当のことを言ったまでです。ロゼルヌ卿は報酬を渋りましたしね」
シーガはふてぶてしいロゼルヌ卿の顔を思い出していた。黙っているなど約束した覚えはない。それに、いずれ。その真実は人々の前に現されるのだ。
「そうですの?そうするとミキーのお洋服、買っていただけないですの?」
「鉄道、ね。悪いものではないのかもしれませんが」
「ミキーのお洋服は?」
「蒸気機関が造られ、発電機が発明されてからというもの、この世界は大きく変わりだしました。それに乗り遅れまいとする領主は、ロゼルヌだけではないでしょう。それもまた時の流れ。私はどうでもいいのです」
相変わらず、会話はかみ合っていない。
「次はルパの可愛い帽子をと思っていましたのに」
「それより、ミキー」
窓の外を見ていた少女は、背後の青年の声音に不穏なものを感じて窓枠にしがみついた。
怒られる。
「ミキーは、何もしてませんの!」
「ミキー、あれほど人に触れるなといったでしょう?ルーファは軽かったからよかったものの、もう少しひどかったら本当に死なせていましたよ!戻ってみれば宿の主人も倒れていて。以前宿中の人に高熱を出させて、世話をしてもらえなくて困ったでしょう!お前は人に触れてはいけない」
「ミキーのせいじゃないですの!」
「ミキー?素直に言うことを聞かないとお前の中の石も、取り出しますよ?石を失ったユルギアがどうなるか、分かっていますね?」
「いやですのー!シーガさまはあの黒い木からもらいましたです、ミキーのはダメ!あげないです!」
必死に自分を抱きしめるように縮こまる少女に、ふいに興味を失ったかのようにシーガは視線を遠く山の向こうに向けた。小さく息をつく。
「結局、石の由来は分からずじまいですね。石は、まだどこかにあります。これだけではないはず…」
腕を組んで座席にもたれ、青年は黒い眼鏡の奥で目を閉じた。

ミキーはシーガの横顔を眺め。一度首をかしげて、それからにっこりと笑った。
「シーガさまには触ってもいいですの?」
そっと三本指の柔らかな手を青年の頬に当てる。
目を閉じたままの青年はじっとしている。
ミキーは嬉しそうに青年に抱きつこうとした。

第一話 了

第二話へ続く

「想うものの欠片」地図!?です

地図、無謀にも作ってみました…(というか、作っておかないと自分も分からなくなりますので…半分自分のため♪)ほとんど出てこないかもしれませんが、この世界「ノワールト」といいます…

お話が進むにつれ、地図も書き加えていきます!とりあえず、西端にポオト、作りました!

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「宙の発明家」番外編 ①

らんららです!ブログを始めてやっと1年!!長いような…うん!正直長かった気がする!
たくさん小説、書いてきたなぁ…(遠い目)
これも、読んでくださる皆さんの温かいお言葉のお陰です♪ありがとうございます。作品投票で選んでいただいた「宙の発明家」クラフくん、セキアさんで感謝を込めて番外編書きました!短いお話ですが約一週間、お付き合いください!

では。
クラフくん、地上から宙へ、戻ってからのお話です…はじまり、はじまり~♪



『恋のある風景?』




「まずい」


一言言って、クラフはスプーンを投げ出した。
「美味しいですよ」
少し怒った口調で黒髪の男が言い返した。
二人の視線がにらみ合う。

「いらない」
「食べて下さい。それとも、向こうの世界のお料理が恋しいんですか?」
「セキアの特別に、まずい」
特別に、という部分にやけに力の入ったクラフの口調に、セキアはにらみつけた。
おかしい、いつもと同じくらいのはずなのに。青年は心の中で確認する。昨日までは、食べてくれた味だった。


「味が、薄いですか?」
視線を和らげる男に、クラフは容赦なく頷いた。
「これも、これも!」
鳥の足を焼いたものにトマトソースをかけた料理も、パンにチーズをかけて焼いたトーストにも、けちをつけた。育ち盛りとセキアが気を使って腕を振るったランチすべて、クラフは投げ出して、昨日リスガが焼いてくれたクッキーを頬張る。
「……おかしいですねぇ」
セキアは向かいに座るクラフの額に手を置いた。
「!?何だよ!」
「いえ、風邪でも引かれたのかと」
真剣に心配している様子のセキアに、クラフは顔を赤くした。
「ほら、顔が赤いです」
「そんなことない!」
キチンと熱を測ろうと、立ち上がりかけたセキアから逃れるように、クラフは席を離れて自分のベッドに向かう。クッキーをくわえたままだ。


「クラフさま?」
ぴぴぴ。
デンワが鳴った。
セキアのクビに下げた大豆の形をした手のひらサイズの銀色のそれが、ほんのりブルーに光るのを見て、クラフは毛布に顔をうずめた。
「あ、ちょっとすみません」
セキアはデンワを持つと、そそくさと部屋を出る。
クラフは、じっとしていたが、そのうち、我慢できなくなったようにむくりと起き上がり、セキアの後を追った。
部屋の扉を開けると、すぐ外側でセキアの嬉しそうな声がした。
「ええ、いいですよ。その日なら、非番ですから」
扉から出てきた少年に気付いて、セキアは慌ててデンワを手で塞ぐ。
「クラフさま!何処に行かれますか!」
「ばーか!」
大きな声で怒鳴って、つんと顔を背けると、クラフは地下へと続く階段に向かった。


クラフが自分の研究室に入ったと知り安心したのだろう、背後でまたセキアの楽しそうな声が響いた。

地下の研究室に入ると、クラフは自分の場所と決めたソファーに横になる。
天井の明かりをぼんやり見ながら、伸びた前髪をかき上げた。
じっと、その金色を見て。
「よし!」
何事かひらめいたようで、起き上がると机に向かう。上に載っている設計図や計算用紙を一まとめに抱えてどんと隣の作業台に移し変えると、隙間の出来た机で、なにやら計算を始めた。本を開き、成分を書き出して。
機嫌の悪いのは忘れてしまったのか、そのうち鼻歌らしきものすら聞こえてくる。


それから二時間。
「クラフ、いるのかい?」
顔をのぞかせたのはピーシだ。
学校の帰りなのだろう、制服のまま、手には紙袋を抱えていた。
「あれ?」
挨拶しようと、手に持った袋を掲げた時、目の前をクラフらしき人影が走り去る。
ドン、と扉を開くと、階段を駆け上がって言ったようだ。
「え?どうしたんだ?」
ピーシがクラフのいた場所を見ると、あちこちに紙が散らかって、その上床には様々な色の水溜りが出来ていた。少し鼻をつんとさせる匂いがして、少年は顔をしかめる。
「なんだろ。それにしても、昨日掃除したばかりなのに…」
つぶやきつつ、一階の部屋へと向かう。


部屋の前で、セキアがデンワしていた。
「こんにちは、セキア」
ピーシの挨拶にも男は手をあげるだけだ。
最近、そういう姿をよく見かけていた。
ピーシは首をかしげながら、部屋に入る。
「クラフー?」
部屋は誰もいないようだ。
「何処だい?せっかくスターフルーツ持ってきたのに。好きだろう?形が」
「うー」
どこかで声がする。
バスルームのようだ。
扉をノックしてみる。
「クラフ、僕だよ、ピーシだよ。どうしたんだ?」
「んー!」
「え?どうしたの」
ふいに、扉が開かれた。
前に突っ込みそうになって、目の前のクラフにぶつかった。
少年は上半身裸で、頭から大きなタオルをかけている。


「クラフ、びっくりするだろ。なに、髪でも洗ったのかい」
頭をタオルごと押さえて、ピーシはぐりぐりとなでた。
「な、ピーシ!見てみて!これ!」
クラフはピーシの手を取って、ソファーに座らせるとその前に立った。
「じゃーん!」
「……クラフ!?」
ピーシが目をまん丸にしているので、クラフは満足そうに笑った。
「へへ!俺、ちょっと、外に行って来る!」
クローゼットを開いて、服をいくつか引っ張り出すと、すばやく新しいシャツを着込む。
「クラフ、それ!どうしたんだよ!」
「へへ、これなら目立たないだろ!」
確かに、目立たないと言えばそうかもしれない。

クラフは黒い髪になっていた。


黒い髪に肌が余計に白く見えた。随分印象が違う。
見慣れないクラフの姿に、ピーシが呆然としていると、少年はさっさと荷物をバックに詰め込んでいる。ぺたっ葉ともえ玉を手に取るのを見て、ピーシはクラフを後ろから羽交い絞めにして引きとめた。
「待って、クラフ、それ、セキアの許可は」
「あいつはいいの!あいつは色ボケだからさ!」
「い、色ボケって」
確かに、そうなのだ。
最近のセキアは、新しい恋人に夢中だった。
ことあるごとにデンワをし、クラフをピーシに任せて出かけることもある。夜遅く戻ってきたかと思えば翌日はぼんやりしている。
「だいたい、俺様が帰ったときに既にいたんだ、俺様が一人で苦労してたのにさ、あいつ、女に夢中だったんだ!デンワまで作ってやったのに、あの有様だ!」
ピーシは苦笑した。
こちらに戻ったとき、クラフは以前の姿が想像できないくらい、しおらしかった。怪我をしていたせいもあったが、その理由は誰にも話そうとしなかった。
セキアの言うことも素直に聞いた。ちょうど、下の世界との連絡用に必要だったと言う理由もあったが、頼まれると疑いもせずに、まだ怪我が完治していないくせに一生懸命デンワを作ってくれた。
おかげで、セキアはここにいても彼女と話せた。
包帯が取れるころには、いつものクラフに戻っていた。その時にやっとクラフは気づいたのだ。セキアの頼んだデンワは付き合っている女性に渡されたのだと。すでに、セキアと女性との仲は大教皇さまにも公認らしく、クラフも拗ねた顔をしたものの反対するような状況ではなかった。
それが、余計に腹立たしいのだろう。
結局、かまってほしいのだ。
思い出して、ピーシはクスと笑った。


「分かるけどさ、外は危ないよ、一人じゃだめだろ」
「いいだろ!大丈夫!な、放せって」
「セキア!セキア!!」
強引に出かけようとするので、ピーシが部屋の外に居るはずのセキアを呼んだ。
「だめだよ!呼ぶなよ!」
「セキア、クラフを止め……」
口を手で塞がれて、ピーシはもごもごと言っていたけれど、そのうち黙った。
クラフが、ひどく真剣な顔をしていたから。
「ピーシ、俺、本当に外に出たい。セキアだけあんなふうに、外に出かけたり、外の人と話したりさ。俺、一人ぼっちだ」
クラフの大きな目が少し潤んでいるように見えた。
「……、わかった。じゃあ、僕と行こう。ただし、危ないことはしないって約束して」
「ああ!分かった。ピーシいい奴だ」


ピーシはどうも、クラフの涙目に弱い。何となく自覚はあるが、まあ、市場にでも連れて行って、珍しいものを見せれば満足するだろうと軽く考え、少年はクラフの上着を持って一緒に部屋を出た。
扉の外にいたセキアはちらりとピーシを見た。
その向こうに、クラフがいるのだが、黒髪だったせいか、肩にクラフの上着をかけたピーシの陰になっていたせいか、見逃した。
二人が迷路を抜けて、外の光を浴びる頃、中でセキアの叫ぶ声がした。
黒い眼鏡をかけて、クラフはピーシの手を引いて走り出す。


「うはは!すごい!苔が光ってる!!なに、あれ、ねえ、ピーシあの遠くに見えるとんがった屋根!」
歓声を上げながら前を行く少年に、ピーシは声が大きいよ、と注意しながらも、その嬉しそうな姿に目を細めた。
クラフは明るいうちに外に出たことはなかった。
どんな気分なのかと想像するだけで、ピーシは切なく感じた。


皇宮の門をくぐると、衛兵はピーシたちに敬礼し、クラフは面白そうに敬礼を返した。
「クラフ、そんなことしなくていいんだ、彼らは目下なんだ」
「召した?」
「僕のほうが身分が高い」
ピーシの言葉にクラフはふーん、と首を傾げる。
眼鏡越しの聖堂の庭はそれでも木々が茂って、日の光が注いでいるのが分かる。
クラフは自分の手のひらを見る。
ちりちりと、陽に当たって。痛いような感覚。不思議だった。


風が吹けば匂いをかぎ、生垣の脇を過ぎれば葉に手を触れる。
ピーシが一つ一つ、聖堂の敷地内にある建物を説明しすると、クラフはふんふんと楽しそうに聞き入っていた。
二人は聖堂の大きな敷地を過ぎると、大通りへと進んだ。
南に向かって傾斜する街並みは、聖堂の大きな正門から一望できる。昼下がりの眩しい日差しにピーシが目を細めた時だ。
ぴぴぴぴ!
ピーシのデンワが鳴った。
「!」
隣でクラフがじっと見ている。
「もしもし」
『ピーシ様!!クラフさまはどちらですか!?』
隣のクラフにまで聞こえる大声だ。
「やあ、セキア」
ピーシはデンワの向こうのセキアを想像して笑う。
「一緒だよ。心配しなくていいよ」
また何か怒鳴っているセキアに、クラフはつんと顔を背けて、どこに行こうか街を眺める。ちょうど、からんからんと鐘を鳴らして、小さなワゴンを引いた行商らしき姿を目に留めた。ピーシが隣で大きな声を出した。
「セキア、だからさ。そんなに怒鳴らないでくれるかな!耳がおかしくなりそうだよ」
セキアはまだ何か怒鳴っている。
「いいかい、セキア。目を離したのはお前だ。僕はクラフに責任は負わないから。お前の仕事だろ。なんて言い訳するんだ?クラフのこと放っておいたじゃないか。僕はクラフがかわいそうだったから連れ出したんだ。クラフが髪の色変えたのも、それを作っていたのも気付かなかったんだろ?」
電話の向こうのセキアが黙った。
「夕方には帰るから。帰っても、クラフに怒鳴ったりしたらだめだからね」
黙ったままなので、ピーシはデンワを切った。


「まったく。クラフ、お前デンワ持ってこなかったの……?」
振り返って、クラフの姿がないことに気付く。
ピーシは今まさにセキアと同じ気分を味わうことになった。


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「宙の発明家」番外編 ②

らんららです♪自由!!を満喫するクラフくん…なにやら嫌な予感ですね…(^^)




クラフは飴売りのおじさんに、棒についたドロンとした水あめをもらって、なめていた。甘くて透明で、面白い。
歩きながら、なめながら。
市場に入ったようだ。
通りの両側が露天商のテントの屋根で埋め尽くされて、その下を大勢の人が行ったりきたりしていた。
呼び込みの声が騒がしい。
クラフはきょろきょろしながら、まず目に付いた果物売りのところへ。
「へい、いらっしゃい!」
ひげ面の男が、白い布の帽子の下の日に焼けた顔で笑った。白い歯と白い目が目立った。
「おじさん、それ、美味しい?」
クラフが覗き込む。
「……ぼうや、変わってるねぇ、遠い街から来たのかい?」
男はクラフの腕の白さに目を丸くした。宙の人々は皆、淡い褐色の肌をしている。白人のうえに、陽に当たらない生活をしているクラフは、彼らからすれば霜のように白い、ということになる。
「あ、そう。遠い北の街で、聖堂に閉じこもっていたんだ。お父さんが変な人で、外に出してくれなくて」
「へえ、そりゃ気の毒に」
「それでね、あんまり陽に当たらないもんだから、こんな風になっちゃって、バカなお父さんは病気だと思ったんだ。それで、この街につれてきたんだ」
お父さん、と言うたびに、クラフはセキアを想像する。
今頃慌てているだろうけど、どうでもいい。意地悪な気分にクラフは浸っていた。
「へえ、そうかい。で、どうだったんだ?」
「うん、それがさ、閉じこもり病だって言われて!だから、オレは晴れて自由なわけ!」
「そうかい!そりゃ、よかった!」
「うん、オレ、母さんを探すんだ」
「お母ちゃんはどうしたんだ」
「お父さんが変な奴だったから、オレを置いて逃げちゃったんだ!」
「そうかそうか。かわいそうにな、ぼうや、これ、持っていきな。どうせこいつは、今日までだ。明日には売れねえ」
おじさんは同情して、拳くらいの丸い赤い果物を、さくっと包丁で切ってくれた。それを白い身だけ綺麗に取り出して、一口大にすばやく切る。見事な包丁さばき。
「すごい!カッコイイ!」
「そうだろ?オレはこの道二十年だ!俺に切れない果物はないんだぜ。ほれ、持って行け」
「うん、ありがとう!」
にっこり笑う少年に、男は優しく手を振った。


クラフが市場の真ん中、通りが十字に交わる中心の丸い噴水のところにたどりついた頃には持ちきれないくらいの食べ物を抱えていた。
「皆、いい人たちだなぁ」
おいしそうに果物をほお張る。
中にセキアの好物を見つけると、それは食べずにバッグにしまった。


何も考えずに噴水の水をちょっと飲んで。
「ぷは」
と満足げに息をつくと、今度は違う方向へと歩き出す。
市場はもう見た。次は街の大通りだ。
市場の周りの二階建てくらいの建物とは違って、クラフの目指す方向には三階建てやもっと大きな建物が見えた。いずれも、ゴシック様式に似た集合住宅で、落ち着いた石の色が町全体を統一感を持たせて見せる。確か、太陽電池を取り付けに行ったとき、街を統括するお役所や騎士団のつめ所とか、そう言うのがあると聞いた。
この世界の、真ん中に位置する那迦(なか)の街、そのさらに中心部なのだ。


丁度、向かっている先を横切る通りに、たくさんの馬車や馬が走り抜けるのを見つけて、クラフは足を速めた。
と、その時、脇の細い路地から、誰かが飛び出してきた。
「わ!」
「きゃ」
突き当たって。
クラフは座り込んだまま、見上げた。
「痛いわね!もう、ちゃんと前見てよね」
「……」
女の子だ。多分、クラフと同じくらいの歳。少しつんと尖らせた口に、腰に手を当てる仕草。ふわりとしたワンピースがよく似合っている。
「クラフ!」
背後からの声にもクラフは気付かない。


「なあに、気味悪い!」
女の子はクラフの脇をすり抜けて市場のほうに歩き出した。
「あ!」
クラフは慌てて起き上がって、後を追おうとして。
「クラフ!捕まえた」
正面から来たピーシに阻まれた。
ピーシはクラフの肩に両手をおいて、睨んだ。走り回ったのだろう、息を切らせている。


「ピーシ、ごめん、ちょっとどいて」
「!なんだよ!」
押しのけようとして、逆にピーシが首に腕を回して引き止めるので、クラフはピーシの腕をぺしぺし叩く。
「痛いな、だめだよ!」
「だって、さ。ほら、すげー可愛い子!」
「く、クラフ?」
ピーシが少年を覗き込むと、クラフは頬を赤くして、真剣に少女の後姿に見入っている。
「お前、……」


ピーシは皆でランドエンドに向かった旅を思い出した。
あのときのクラフは、リスガの隣に座りたがった。あきれるくらい、あからさまな態度に出る。
「ちょっと待て、冗談じゃないよ、クラフ。お前、あの子に一目ぼれしたからって、追いかけてどうするんだよ、止めておこうよ」
嫌な予感がする。
こういう時のクラフは盲目。夢中になれば、どんなことでもする。
それにつき合わされるのはゴメンだ。
平気で目の前で告白しそうな勢いだ。


「じゃ、いいよ、オレ一人で行く!」
ぎゅっと足を踏まれて、思わずピーシは腕を放した。
「いて!お前……」
気付けばクラフは既に噴水の前で少女を捕まえていた。
「あの馬鹿!!」

⇒続きは6/15更新、こちらから♪

「宙の発明家」番外編 ③

恋の予感…でしょうか!?




「君、名前は?」
「なあに、あんた」
少女は黒い艶やかな巻き毛をゆらっと揺らして、大きな緑の目を瞬く。
クラフはますますどきどきして、嬉しくなっていた。


「オレ、クラフ。君の名前は?」
「……リント」
「!か、可愛い!」
感動したのか、クラフは胸の前で拳を握り締めて喜ぶ。
少女はいささか、気味が悪くなったらしく、口をへの字にして、無視して歩き出そうとした。
「あ、あの、待って。オレ、きみのこと気に入った!一緒に歩いていい?」


恥ずかしすぎて、ピーシは近寄れなかった。
少しはなれたところから、半分顔を隠しながら、それでも見失わないように後をついていく。
少女がどんどん歩くのだが、クラフは盛んに話しかけている。
どう見ても、脈はないだろう。
ため息をつきながら、ピーシは進む。
そのうちクラフが手をつなごうとして、叩かれた。
「いて」
自分のことのように痛がって、頬を押さえる。
周りから見れば、ピーシのほうがよほど怪しく恥ずかしい奴なのだが、本人は気付いていない。一人でクラフたちの様子に合わせて、うわ、とかひゃ、とかつぶやいているのだ。


そのうち、少女が怒り出し、クラフは困ったようになだめている。
「もう、誰か助けて!」
少女の叫びに、周りの男たちがクラフに詰め寄った。
「あ、まずい」
ピーシは慌てて駆け寄った。


「ええと、オレは!」
背の高い若者に突き飛ばされそうになってクラフがよろける。
クラフは街の少年たちに囲まれていた。
「気味悪いヤツだな!真っ白だ」
「なんだ、その黒い眼鏡!」
「よそ者だろ!悪さするなよな!」


「待ちなさい!」
息を切らせてピーシが駆け寄ると、クラフは助かったと言わんばかりにピーシの後ろに回りこんだ。
「おい、クラフ……」
あきれるピーシ。
「何だよ、あんた…」
言いかけた街の少年が口を閉じた。ピーシは学校の制服だ。そこに通うのは貴族の師弟ばかり。身分が違うのは直ぐ分かる。
「ピーシ様」
誰かが言った。
セクトール候の、と後ろで誰かがひそひそと話している。


ピーシはにっこりと少年たちに微笑みかけて、それからその後ろでムットしている少女に声をかけた。
「すまない、連れが迷惑をかけた。ちょっと、変わっているんだ。可愛い子に目がなくて」
ピーシの言葉に、少女は少し頬を赤くする。セクトール候は、今やこの世界で一番の権力者。そのご子息ともなれば、少女からすれば王子様だろう。
実際、ピーシは自覚がないだけで、十分女の子にもてる要素を持っている。


「ピーシ様、ご家族の方ですか」
いつの間にか集まっていた商人たちの輪の中、果物売りのおじさんが目を丸くしていた。
「え、ああ、そんなところ」
あいまいに頷くピーシ。
「え、じゃあ、もしかして、バカな父親って…」
「何のことだい?」
果物売りに首をかしげるピーシ。が、視界の隅でクラフがまた、少女のそばに行こうとするので、その腕を掴む。
「だめだ!帰るよ!今日はリスガが料理してくれるって言ってたろ?手伝わないと怒られるよ」
「え~」


二人を見送りながら、果物売りのおじさんは首をかしげた。
「変な奴、真っ白だよ、あんなの初めて見た」
「ピーシ様のご親戚かしら」
「カーさん、なんか聞いたのかい?」
盛んに首を傾げる果物売りに、誰かが声をかけた。
「んー、それがな。そうだ、きっとそうだ!あの子はセクトール候の隠し子に違いない!」
どよめきが市場に広がった。
セクトール候、それはピーシの父親、この那迦の街を治める賢老士だ。



「もう、さんざんだった。僕は二度と付き合わないよ」
食卓を囲みながら、ピーシの話に腹を抱えて笑うカカナ。リスガもデザートをテーブルに置きながら手が震える。
「やあね、クラフったら。知らない子から見たらほんと、ヘンタイよ」
皆に笑われてクラフは拗ねていた。
目の前に置かれたデザートのパイを、むずっと手で掴むと席を立って、ベッドにもぐりこむ。
「やだ、クラフ、そんなとこで食べるつもり?」
「行儀悪いなぁ」
「……」
なにか、もごもごといっている。既に口には目いっぱいのクリームパイ。


「セキアさん、何とか言ってやってよ」
リスガがセキアに話を振るが、男は黙ってコーヒーのカップを置いた。
先ほどから、一言も口を利かず、一人で別世界にいるようだ。
「もう!クラフもクラフだけど!セキアさんも本当に、最近変よね!別世界もいいけど、ちゃんとクラフのこと世話してよ!私お掃除しないから!」
「まあまあ、リスガ。僕が手伝うから」
カカナにそういわれると、リスガは声を荒げたことに少し恥じらいを感じながら、彼の隣に座った。
「美味しいよ、これ」
「ふふ、カカナ好きだと思って」
「うん、最高、さすがだね」
ピーシは一人で見回した。
黙り込むセキア、拗ねているクラフ。
いちゃいちゃする二人。


「はあ、僕、帰るよ」
誰も止めようともしない。
ひどく疲れた気分で、ピーシは上着を持ってセキアの肩を叩いた。
「明日、一緒に行ってやれば?せっかく、髪が黒くなったんだから」
セキアは少年を見上げたが、きゅと口を閉じた。
「じゃ、オヤスミ」
「ひーふぃおやふみー」クラフがベッドから手を振る。


セキアは、ベッドで寝転んだままパイをかじる少年に視線を向けた。
目が合った。
ふん、と拗ねた少年は口を尖らせて睨み付ける。
「……」
視線をそらし、セキアは立ち上がった。
それをみて、一瞬身構えたクラフだが、男がそのまま外に出て行くので、口に含んだパイを慌てて飲み込もうとした。
「ふが、待って、セキア、けほ、何処行くの?」
「少し、夜風に当ってきます」
追いすがろうとしたクラフはベッドから数歩歩いただけで、立ち止まった。


セキアがひどく怒っているのが、よく分かった。
クラフは思い出してバッグからセキアのために取っておいた燻製の肉の塊をテーブルに置いた。
「リスガ、これ、しまっておいて。セキアにあげるんだ」
「あら、どうしたの、それ」
「ハムだ、これ高かったろ?」
カカナが手に取る。小さいが、鶏のモモ肉を骨ごと一本塩漬けにし、燻製にされたハム。高級品だ。クラフが通貨を持っているはずはなかった。


「もらった」
「本当?」
リスガが目を丸くして、それからカカナを見た。
カカナも同じことを考えたようで、リスガの視線に小さく頷いた。
「ね、クラフ、明日僕が一緒に行くよ」
クラフは驚いた顔をしたが、にっこりと笑った。
「うん!」

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「宙の発明家」番外編 ④

今日は、カカナくんと二人でお出かけ♪でも彼はピーシ君とはちょっと違います…



休日の市場は、昨日よりずっと人出があって、クラフは上機嫌だ。
少しうす曇の天気はクラフにとって、嬉しいことだった。昨日のような日差しでは眼鏡越しでも、眩しい。今日は大きな目をはっきりと開いて、市場の屋根の下、手で影を作れば眼鏡無しでも何とかなりそうだった。
そしてなにより、今日は昨日よりさらに優遇されていた。
「よお、白いぼうや、これ持ってきな」
昨日の果物売りのおじさんは昨日よりもっと大きな果物を丸ごとくれた。
「あの、申し訳ないですから」カカナが断ろうとするのを、クラフは遠慮なく手を出す。
「クラフ、だめだよ」
「なんで?くれるんだからもらう」
「だから、だめだって」
「どうして!?」
「まあまあ、カカナ様、これはわしらからの気持ちですから」
にこにこと笑う男に、カカナは厳しい視線を返した。
「対価のない物ほど危険なものはない。申し訳ないが、受け取れません」
「は、はぁ」
クラフは強引に果物を取り上げられて、頬を膨らめた。
「なんだよ、みんなの親切なのにさ」
「お前は分かってない」
カカナに引かれて、クラフは名残惜しそうにおじさんに手を振った。
「いいかい、クラフ。ここにいるのは皆、商人だ。もしここで、僕が何か受け取ったとするだろう?」
「カカナうるさい、ピーシがよかった」
「話を聞けって!」
「おなかすいたー」


クラフが噴水の広場を囲うように並ぶ食べ物の屋台を指差すので、カカナは仕方なくその一つに入った。広場の石畳に直に並べられた椅子とテーブル。座ると安定が悪く、少しがたがたする。カカナにとって慣れない環境だ。クラフはそんなことより周りがとにかく気になるようだ。落ち着かずにきょろきょろしている。完全に、挙動不審なヤツになっている。すぐに可愛らしいエプロンをつけた少女が駆けつけた。
「い、いらっしゃいませ!カカナ様。お会いできて光栄です!」
そこそこ可愛い、とクラフが思っていたその少女は、カカナに頬を染めて、まるで昔から大ファンだったと言わんばかりの様子だ。カカナはにっこりと笑って少女の差し出した手を取って握手した。
少女は舞い上がった様子で、カカナのフィッシュアンドチップスと、ソーセージの注文を上の空で聞いている。
「後、アイスクリーム!チョコの入ったの」
「え?」


今初めてクラフの存在に気付いたかのように、少女が目を丸くしたので、クラフは益々不機嫌だ。
「それから、クリームソーダと、コカコーラ、カフェラテ!」
「え?え?」
「クラフ!」
カカナにたしなめられて、クラフは口を尖らせる。
「すまないね、彼のことは気にしなくていいから」
自分の前に押さえるように差し出されたカカナの腕をがぶりと噛み付く。
「いて!」
カカナが思わず腕を振り払うと、弾みでクラフの眼鏡が飛んだ。
「うわ!」
「クラフ!」
二人はものすごく目立っていることに気付いていない。
いや、カカナはそれが当然のことなので気にもしない。クラフは目の前のことで目いっぱいだ。もともと、黒い眼鏡からでは、遠巻きに眺める人々の視線までは感じられない。


顔を手で覆ってじっとしている少年に、カカナは眼鏡を拾うと、渡さずにふんと笑って座りなおした。
「カカナぁ。眼鏡は?」
眩しいためか大人しい。
「いいかい、クラフ。よく聞くんだよ。ここで、ただで物をもらうのは、よくないんだ」
「眩しい~」
「ちゃんと聞いたら眼鏡返してあげるから」
「……」
「中には親切な人もいる。でもね、親切な振りして後で高額な代金を要求する商人だっている。昨日のハムなんか危ないんだ。代金が払えなければ、売り飛ばされることだってある」
「なにを?」
「お前自身。奴隷制度は廃止されているけど、代金の変わりに雇われたことになって、遠い街へ連れて行かれることだってある。自分で気をつけなきゃ。それに、僕らのような貴族は、親の名が知られているだろ。だから、僕らの場合は、代金を親に請求される。それは商人にとってすごく得なことだ。貴族に気に入られることで出入り商の資格を得れば安泰だからね。だから、親に迷惑をかけないためにも、僕ら貴族の子弟はこういうところでは買い物をしないんだ」
「ふーん」
カカナが話しながら、拾った眼鏡をクラフの手に持たせた。
そこに、今度は違う少女が料理を運んできた。
「あの、はじめまして、カカナ様。お会いできて光栄です」
「ああ、ありがとう」
カカナがまた、少女に握手するのを睨みながら、クラフは熱々の魚のから揚げに噛み付いた。
「うま!」
「え?」
「美味しいこれ!」
クラフが笑ったので、少女はにっこりと笑いかえした。


「ありがとう、これを。少ないけど、さっきの子にもね」
カカナが少女にいくらかの硬貨を握らせた。
「い、いえ、そんな!いただけませんわ、私、カカナ様とお話できただけで本当に嬉しくて」
クラフはまた、じろじろとやり取りを見ている。
「いいんだよ、少しだから。僕と出会った記念に、とっておいて」
でた、気障やろう!!と、クラフが顔をしかめた。
「リスガに言っちゃおうかなぁ」
既に、カカナの分の魚にまで手を伸ばしているクラフは、そうつぶやいてみせる。
「このくらいで、怒るリスガじゃないよ」
余裕で笑うので、クラフはさらに悔しい。
「そういえば、クラフ、お前が昨日あった子って?」
その一言で、クラフの頬が赤くなる。
「うわ、お前、本気?」
クラフは赤くなったまま、黙り込んだ。
「そんなに、可愛い子?」
「とびきり」
そう言って頷く。


ふと、カカナが笑った。
「じゃ、僕にも会わせてほしいな。お前はいつも、先走りすぎなんだから。もっと、女の子の扱い、学ばなきゃ」
「誰に?」
「……ん、まあ、セキアじゃ無理か」
「だろ?」
「食べたら、探そうか」
カカナの申し出にクラフはすっかり機嫌を直した。


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「宙の発明家」番外編 ⑤



カカナが尋ねると、どの人も親切に応えてくれた。
昨日、クラフを囲んだ少年や男たちも、カカナに対してはへつらったような笑みを浮かべた。
「なんか、不公平だ」
「仕方ないよ」


教えられた少女の家に向かって、二人は歩いていく。
昼過ぎの日差しに、どこからか何かを焼く香ばしい香りが漂う。細い路地を中心街から離れるように進んでいく。
薄茶色の煉瓦を積んだ民家が目に付き始める。家の窓には木で出来た扉がついている。換気のためなのか、押し上げた木の扉は下を木の棒をはさんで止めてある。
このあたりになると、家はどれも平屋で、天井が低い。家の中で子供たちが騒ぐ声、母親の叱る声が路地にまでこぼれてくる。家と家の軒をつなぐロープに洗濯物が干されている。その下を呑気に散歩する猫。
どれも、クラフには興味深い。
猫を追いかけようとして引っかかれ、今は大人しくカカナについて歩いている。
カカナは、進むにつれ、言葉少なくなった。


「オレ、カカナと並ぶとチビだな、カカナ、あんまり近寄るなよ」
自分とカカナの身長を比べて、クラフはカカナから数歩、離れた。
「ね、クラフ」
「もうちょっと、こう、そうか、カカナみたいに腰に剣があるとかっこいいぞ」
カカナの剣を取り上げようとクラフはカカナの腰にまとわりつく。
「クラフ、ここは、よくない」
「なにが?」
丁度、クラフはカカナの剣を止める金具を外し、鞘ごと両手に持ったところだ。
「なにしてるんだよ、クラフ、ここは貧民街だ。あまり、よくない。帰ろう」
厳しい表情で、カカナがクラフの肩に手を置いた。
「えーやだ」


「あ、ねえ!クラフさま!」
突然声をかけられて、クラフは振り向いた。
「あ!リント!」


少女は小さな家の前で、洗濯物のカゴを抱えていた。
頭にかけた白い布が揺れる髪を余計に美しく見せた。
大きな瞳、細い手足。すとんとしたワンピースにほんのり女性らしい体型が見え隠れする。
「へえ」
カカナも見とれた。
「可愛いだろ」
嬉しそうにかけていくクラフを見送って、カカナは離れたところから様子を見ていた。
話しかけるクラフに、少女はニコニコと愛想のよい笑顔を浮かべていた。
昨日のピーシの話と随分違う。


「お母さんのお手伝いしてるの?」
「はい、母さんはお出かけ。お仕事なの」
「ふうん、えらいなぁ」
クラフは少女について、洗い場までついてくる。洗い場は家の裏側を通る水路沿いの小道を横切った先、数段階段を下りた共同の洗い場だ。その場所には大勢の女性が集まって、井戸端会議らしい。
クラフの姿を見て、それからリントを認めると愛想よく声をかける。
「リンちゃん、お友達?」
「お母さんに怒られるわよー」
「平気平気」
笑って応えるリント。クラフは、階段に差し掛かると、リントの持っていたカゴを持ってやろうとして、両手がカカナの剣で塞がっていることに気付く。
慌てて剣を道端に置くと、少女のカゴを取り上げる。
「ありがと」
にっこり笑う少女に、さらに頬を染める。
「あーあ」
水路沿いの小道まで後を追って、カカナはそっと剣を拾う。
そのまま座ると道端から二人の様子を眺めている。


時折、女性たちにからかわれながら、二人は楽しそうだ。
「ふうん。心配することなかったかな?」
一人つぶやくカカナの背後から、大きな声が突然聞こえた。
「リント!なにしてんだい!さっさとしな」
思わず心臓を押さえて、カカナが振り向くと、四十代後半だろうか、乱れた髪、皺の深い険しい表情の女性と目が合った。
「なんだい、あんた。おや、これはこれは」
カカナの服装と様子から、貴族と知ったのか急に態度を変えた。
「旦那様、こんなところじゃなんです、どうぞ、こちらへ」
ニヤニヤと笑う。カカナは顔をしかめた。
「リント、おいで!」


小さな家は、クラフの地下室よりずっと散らかっていた。
入ってすぐのキッチンだろう、かまどには汚れた鍋がそのままになっているし、水がめはふたを開けたまま。テーブルには皿と水のビンが横たわっている。かび臭い空気に、カカナは息を止めた。
クラフは珍しいものを見るようで、にこにこして、少女の後に付いて入っていく。
「ささ、どうぞ旦那様も」
女はリントの母だと名乗った。
慌ててテーブルの上のものを調理台に無理やりのせ、二人のためにイスを引いた。
「リント、お水を」
女が言うより先に、リントは小さな陶器のコップらしきものを二つ、手に持って運んできた。盆もないのだろう。
「で、旦那様方、どういうお話でしょう?リントならいつでもお召しいただけますよ」
女の言っている意味が分からなかったのか、クラフは首をかしげた。
「いいえ、そういうつもりはありません」
カカナは穏やかに言った。
「それでは?一体?」
「昨日、彼がリントに迷惑をかけたようなので。挨拶に伺ったまでです」
「そ、そんな滅相もない!」
女はリントの背をトンと叩いた。少女はそれに促されるように、言葉をつなぐ。
「あ、あの、私そんな風に思っていません」
「ええと、昨日は、オレ、悪かったよ」
クラフはニコニコしている。
カカナは内心、少年の頬をつねってやりたい気分だ。
二人の手前それも出来ず、一人対策を練る。
貧しい親子にとって、少女が貴族に召抱えられることは光栄なことだろう。だが、クラフにそんなことができるはずもない。もちろん、カカナだって同じだ。
勘違いされていることに、クラフはちっとも気付いていない。
召抱えられる、と言う意味すら。


「ね、クラフさま、よろしければお散歩しませんか」
リントが提案すると、クラフは大喜びだ。
「クラフ、ちょっと」
「まあ、まあ、旦那様。二人に任せて、どうぞ、お茶でも」
母親は立ち上がりかけたカカナの腕を、予想外の力強さでもって押さえ付けた。
その間にクラフと少女は二人で連れ立って外に出た。
カカナは女の手を睨む。
「あ、これはこれは、失礼を」
ニヤニヤ笑いながら、母親が手を離した。
カカナは厳しい表情で立ち上がると、懐から金貨を数枚手に取った。
物ほしそうにそれを見ている母親に、カカナは言った。
「いいか、昨日はたまたま市場ですれ違っただけのことだ、リントも、今後クラフに近づくことは許さない。もちろん、お前もだ。約束できるか」
切れ長の目に睨まれて母親は怯え、そそくさとテーブルに置かれた金貨を手元に手繰り寄せた。
「は、はい、もちろんでございます、旦那様」


「ね、クラフさまってのやめようよ」
「どうして?クラフさまは貴族様でしょ?」
二人は先ほどの水路沿いの道を歩いていた。
「違うよ、オレは発明家」
「はつめいか?貴族様じゃないの?カカナ様にお仕えしてらっしゃるの?」
「オレは貴族じゃないよ。カカナとは友達。発明家はね、いろいろと新しいものを作るんだ。かまどの、ほら、屋根につけただろ、黒い機械」
「うん」
「あれ、オレが作ったんだ」
「本当?あれね、すごく助かってるんだ。薪がいらないし、炎が出なくて危なくないし」
感心したようにクラフを見上げる。
「その、変わった眼鏡も?」
少女が手を伸ばして、取った。
「わ!」


一瞬垣間見えたクラフの顔に、リントはにっこりと微笑んだ。
「ごめん、それ、ないと困る」
クラフは顔を手でふさぐと立ち止まった。
「目が、悪いんだ?」
「うん、ちょっと、日差しが苦手なんだ」
クラフはやっと気付いた。少女の口調が、変わっていることに。
貴族じゃないから、敬語は使わない。それならそれでも平気だった。


「あの、それ、返して」
「あのね、お水代」
「お水、代?」
「いただくわ、これ。他に何も持っていないみたいだから」
「え?」
「いやあね、貴族じゃないなら用はないの。じゃあね」
少女の足音が遠ざかる。
クラフは慌ててそちらに踏み出すが、足元が見えないために転んだ。
石畳に膝を打って、座り込む。
「リント!?」

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「宙の発明家」番外編 ⑥




ぴぴぴ。
デンワが鳴る。
主のいない間に部屋を片付けようと、セキアがクッションを整えているところだった。
「!クラフさま、デンワをまた、置いていかれたのか」
捨てようと床に積んだ様々なガラクタの山を回りこんで、セキアはクラフのベッドの脇に置かれた銀色の機械を手に取った。
受話ボタンを押す。
「もしもし」
『せ、セキア?なに?どうして?』
カカナのようだ。
「カカナ様ですか?クラフさまはどうなされました?」
『クラフはどうしたの!?』
同時に同じ言葉を発した。
「え?」
お互い黙る。
「カカナ様、クラフさまと一緒ではないのですか?」
『クラフ、デンワを持ってないのか!』
また同じタイミング。
「カカナ様、何かあったのですか」
次こそと、早めにセキアが言った。
今度はカカナの返事がない。
「カカナ様?あの、カカナ様?」
『……すまない。はぐれた』
今度はセキアが黙り込んだ。
『危険な地区だったんだ、なのに、つい目を離した。すまない』
「カカナ様、今どちらにおいでですか」
『ジャレク地域、市場に近い東だ。水路がある』
「では、そこから地域の礼拝堂が分かりますか」
『あ、ああ。見えるよ、近い』
「その周辺にいてください。気をつけてください、危険な地域ですから」
『ああ、分かった。……セキア、その、すまない』
それには応えず、セキアはデンワを切った。
即座に剣を携え、コートを手に取る。肩までの髪をぎゅと縛りなおす。



「放せ、ばか!」
幾度目か怒鳴ったときに、がつっと殴られた。
見えないまま、誰かに捕まって、気付いたらそこにいた。
酒の匂い、がやがやした男たちの声。
酒場、かな。少し、外よりは暗いようだ。
クラフはそっと目を開けてみた。
縛られた手首のロープが見える。目の前にテーブルの足のようなもの。床に横たわっているんだ。そっと見上げてみる。イスに座る男の足が、いらだたしげに組み替えられる。ロープの先はその男の座るイスの足に結ばれていた。
薄暗い室内は煙草臭い。そっと見回すが、横たわったままで見えるのはテーブルの下と男たちの足だけだ。そして、低く暗い天井。そこに時折ゆらゆらと人の影が動くのは、テーブルの上に禁止されているはずのランプでも灯されているのかもしれない。
地下室。そう感じた。
「お、大人しくなりやがった。なんだ、お前、目開くのか。見えるのか?」
「おいゲトー、こいつで出せるのはあと、二十までだぜ」
「なに言ってやがる、こいつは貴族様のお友達だぜ、もうちょっと張ってくれないと割りにあわねえ。見ろ、ほら、珍しい瞳の色しているじゃねえか、目も見えるなら倍にはなるさ」
「だめだね、もっとほしいなら、お貴族様に身代金でももらったらどうだ。そのほうが早いだろう?ま、俺は、そんな危ない真似はごめんだね。次に負けたら五百負けだ。続けたいならお前自身を売るんだな。百くらいは出してやるぜ?」
「ちぇ、どうしてこう、ついてないんだ」


クラフはそっと体を起こした。テーブルの上は見えないが何か、賭け事をしているらしい。ゲトーと呼ばれた髭面の男は真剣にテーブルの上を見ている。そっと、手を伸ばしてロープの結び目を解こうとした。
「ゲトー、このガキ拾っただけでも、儲けもんだろうが?ガキだけで三百帳消しだ。ほら、ガキはこっちのもんだ。よこせよ」
思わず、クラフは手を止める。
「いや、待て、もう一勝負だ。負けたままじゃおさまらねえ!」
男は興奮しているのか、椅子をがたんと引いて、座りなおした。
「ゲトー、もうチェックだぜ?」
誰かが笑う。
チェスのようだ。
「ちょっと、待ってくれ」


向こうで男たちのどよめきに混じって女の嬉しそうな声が響いた。
「ち、うるせえなぁ、気が散るってんだ!」
ゲトーはまた足を組みかえる。ロープを解こうとしていたクラフは、はっとして、手を引く。結び目が硬くてなかなか解けない。
「おいおい、リンデのばばあ、今日はやけに羽振りがいいな」
「なんでも金づるに出会ったとか。大方、娘でも売ったんじゃないか」
「やだねぇ、世も末だ」
「人のこと言えねえだろ、ゲトー、拾ってきた小僧を売り払おうってんだ」
「そいつを相場の二倍で買うんだろ?どうするつもりか知らねえが、お前に言われたくないね。それにな、こいつは動けなくなってたんだ、助けてやったんだぜ?その謝礼をいただこうにもこいつ何にも持ってねえときた。なあ?ぼうず」
そう言いながらゲトーは振り向いた。
横たわっていたはずのクラフが起き上がってのぞいているので、ぎょっとした顔をする。


「なんでえ。びっくりするじゃねえか」
男が拳を作って、もう一度殴ろうとしたので、クラフは慌ててよける。
「あのさ、オレ、どうなるの?売られたの?」
「ああ、そうさ。お前は俺のもんだ、逃げたら殺すぜ。ゲトー、俺のもんだ、傷つけるな」
ゲトーと向かい合っている男が低い声で言った。はげ頭をつるりと光らせ、にやっと笑う厚い唇にクラフはぞっとした。
「オレ、どうなるの」
「聞きたいか?」
男は口に運びかけた酒の器を放すと、舌なめずりした。
クラフは背を這う悪寒に首をすくめる。ゲトーも同じ気分なのだろう、間に入った。
「聞きたくもねえ、いいからボウズ、黙ってろ」
「負けるなよ!ばか!買い戻せよ!オレ、やだ!そいつ」
クラフは顔をしかめて、すぐ目の前のゲトーの座る椅子を蹴った。
「元気がいいなぁ。おい、ゲトー。おしゃべりはその辺にして、さっさと負けを認めたらどうだ?」
「ちょ、ちょっと待てって」
「そうだよ!ちょっと待ってよ!」
クラフは立ち上がった。テーブルの上の、チェスに似たゲームをじっと見つめる。
呆れるくらい、ゲトーの手はまずい。


礼拝堂の前で、カカナは座り込んでいた。
愁いを帯びた美しい青年に、通りかかる女性は誰もが声をかける。
普段は愛想のいい彼も、今は向こうへ行けとばかりに手を振るだけだ。
「カカナ様」
見上げると、セキアが白い馬を引いて、立っていた。
険しい表情に、カカナは目をそらした。
「なにがあったのです」
「クラフが気に入ったって子に会いに来たんだ。でも、クラフのこと貴族だと勘違いされていて、まずいと思ったんだ。いくらか小金を握らせて、クラフに近づかないよう約束させたんだけど、その時にはもう、クラフはどこかに行ってしまって。いっしょだった少女を問い詰めたんだけど、クラフのこれ、眼鏡をもらって逃げてきたって言うし…見えない状態で、そんな遠くに行くはずないんだけど」
ため息をつくカカナの背を、セキアはそっと叩いた。
「大丈夫です、探しましょう。まず、その母親とやらに、会わせていただけますか」
「ああ、こっちだ」


白い馬、背の高い騎士と貴族の子息。見慣れない二人連れに、狭い通りで思い思いに遊んでいた子供たちまで、怖いものを見たようにじっと息を潜めた。
貧しい地区だ。
セキアの放つ鋭い雰囲気に、柄の悪い男たちも、軒下の日陰に潜むように隠れ、手にした酒のビンを理由もなく背後に隠した。
案内された家は通りのはずれ、一段とみすぼらしい。
二人を認めると、家の前にいた少女が立ち尽くした。
「あ、私は、知らないんだから!」
「リント、まだ見つからないんだ」
カカナの言葉に、少女が例のそれと知る。セキアの視線に怯えたように少女は家の中に駆け込んだ。
「知らないったら知らない!」
「母親は何処にいる」
セキアはずんずん家に入ると、手を剣に置いたまま尋ねた。
それだけで十分、脅している。
テーブルの前で立ちすくんでいるリントが、少し哀れに思える。
カカナはセキアの勢いに、あの誘拐事件を思い出した。セキアは黒猫だ。
黒猫は闇に乗じて表ざたに出来ない仕事をする。大教皇の黒猫であるセキアは、昼間はクラフの世話などしてのほほんとしているが、夜見せる姿は別人だ。
最近よく出かけるのも、クラフはデートか何かだと思っているが、そちらの仕事のためだろうとカカナは考えていた。本当に恋人がいるなら、会わせてくれるはずなのだ。
ピーシから、多少の政治的な裏の話が聞ける。
最近亡くなった、北の街の賢老士の後をめぐって、いろいろと動きがあるらしい。
関連していないといいが。


「母親は、何処だ?」
もう一度、低い声で尋ねるセキアに、リントはうつむいた。
カカナはふいに思い出した。クラフを追おうとしたときにカカナに触れた女の手。なにかそれに引っかかった。
「セキア、多分、違法な賭場があるんだ。母親の手にタコが、あれ、チップを持つ手に出来るのだった!」
「チップダコか。賭場に入り浸っているってことだな。で、賭場はどこだ?」
カカナに一瞥をくれ、再び少女に詰め寄る。
「セキア、賭場のありかを言ったら、リントも無事じゃすまないんだ、言わせるのは可哀相だよ」
賭場を仕切っているヤクザ者にどんな目に合わされるかわからない。


「クラフさまが無事じゃなくても、ですか?」
セキアの視線は突き刺すようにカカナを見つめる。
「う、でも、その。リントのことクラフは好きなんだ、その子に何かあったらクラフが悲しむよ」
「か、悲しんだりしないよ!あたし、貴族じゃないあいつになんか用はないって言ってやったんだから!」
鋭い音とともに、少女はよろめいた。
セキアが、リントの頬を叩いたのだ。
「セキア!」
「クラフさまはそんな方ではない。お前と一緒にするな」
黒髪の騎士を見上げるリントは、目にいっぱいの涙を浮かべていた。
「あの、リント、方角だけでいいんだ、教えてほしい」
カカナがとりなすように、二人の間に入った。
「……」
少女は黙って、指差した。
「行こう」
セキアの腕を強引に引いて、二人が出て行く。
「あたしは!貴族なんて大嫌いなんだ!」
叫ぶ少女の声を背に聞いて、カカナは小さくため息をついた。


「セキア、気持ちは分かるけど……やりすぎだよ」
「仕事ですから」
「……あの、仕事だったんだろ、あのデンワとか、出かけるのとか」
セキアが黙ってカカナを見つめた。
「クラフやピーシは黒猫のこと知らないから、誤解しているだろうけど。あれも仕事だったんだろ、だれも、セキアの責任だなんて言わないよ」
「……カカナさま。私の一番の仕事は、クラフさまをお守りすることです」
男の言葉は、あれが仕事であったことを認めていた。
責められても黙っていたセキアの気持ちを想像すると、カカナは息が詰まる。
とても、黒猫なんて、僕には勤まらないな。


「…あの宿屋でしょう」
しばらく歩いた先で、セキアの嗅覚は廃業したらしい宿屋の地下室の扉を示した。宿屋は飲み物などを保存しておくために、建物の床を高めに作り、入り口は階段を昇ったところにある。その階段の脇に、地下への小さな扉があるのだ。
「どうして?」
「脇に水がめがあります。中は倉庫ではないのでしょう。それに、あれは見張りです」
「…そういえば」
廃業したはずの宿屋の建物の脇に水がめが置かれている。建物の様子に比べやけにきれいで、水を出し入れしたのかかめの下がぬれていた。


戸口の前に置かれた大樽に座って、眠り込んでいる酔っ払いに、カカナが黙って近づくと剣を突きつけた。
男は、眠っているはずがすばやく酒樽をカカナに向かって倒した。
「!」
思わず一歩引いた隙に、店の裏に逃げ出した。
男は細い路地に入ったところで、足を止めた。目の前に、背の高い騎士が立ちはだかっていた。
「中に、入れてもらう」
セキアの迫力に、男は何も言わずに頷いた。


階段を降り、黒くすすけた木の扉の前で、男は咳払いを二つした。
合図だったのか、ぎっと、扉が奥に引かれた。
男の首に当てられたナイフのきらめきを感じたのか、扉の向こうの相手が慌てて閉めようとする。
が、すでに、セキアの足は、扉の間に差し込まれている。
「邪魔する」
言葉と同時に、セキアの右足が扉ごと向こうの男を蹴り倒した。
派手な音とともに、扉を開いた男が崩れた。カカナも押さえていた見張りを気絶させたところだ。


ざわり、と煙った空気の中、視線が集まった。
タバコの煙、酒の匂い。むんとする熱気。
静まり返った中、カランとルーレットのまわる音が響いた。
「!セキア!」
人ごみの中から、声がした。


「クラフさま!」
「クラフ!」
二人が駆けつける。途中、幾人もの人間を押しのける。
皆黙って、二人を避ける。役人ではないために、いぶかしそうに見つめているだけだ。
「あ、眩しいから扉閉めてよ!」
少年の声に、誰かが応じて、扉が閉められた。


「え?」
セキアは立ち尽くした。
「へへ、見てよ、すごいだろ」
クラフは金貨の山に囲まれてにこやかに笑っている。地下だからか、眼鏡もなく、淡い茶色の瞳が嬉しそうにきらきらしていた。
「あ、あの?」
「ほら、見て、勝ち続けたらお店全部、オレのものになった!」
クラフの前には古ぼけたチェス盤。向かいに座る男が、がっくりとうなだれて、セキアを見つめた。
「参りましたぜ、旦那。このガキ、強え、強え」
「お前の店か?賭場は違法だぞ」
「違いますぜ、今はこのガキのもんだ」
にやっと笑う店主に、セキアは顔を引きつらせる。
「ね、セキアもやる?一勝負!こっちにチェスがあるなんて知らなかった!」
嬉しそうなクラフはセキアの表情の意味が分かっていない。
カカナは少年につかつかと近寄るセキアを、何とか引きとめようと手を伸ばしたが、それは派手に振りほどかれた。
それを見て、クラフは表情を変えた。
「セキア、クラフに罪は……」
「どうしたの、セキア、怖い顔してる」


次の瞬間、少年はセキアに抱きしめられていた。
「うへ、セキア、苦しいぞ!」
「……もうしわけ、ありません」
セキアの声に、クラフは黙った。
「心配したのか?」
「はい」
「本当に?」
「ええ、ひどく応えました」
セキアが震えている。
クラフは男の腕の中で、少しばかり反省する。
なんだかんだ言っても、セキアは心配してくれた。それが、どれほど自分にとって大切かは、下の世界に行ったときに思い知らされていた。


「ごめん、オレも悪かった」
「いいえ。私の責任です。クラフさま、もう、二度と。目を離しませんので、お覚悟を」
そう言って顔を上げたセキアは、にやりと笑っていた。
「!!!!」
自由が音を立てて崩れていくのを目の前に見たような気分で、クラフは慌てた。
「ま、待て、あの、デートは?彼女は?好きにすればいいって、俺、拗ねないから、淋しくないからぁ!!」



白い馬に乗ったクラフと二人が戻ってきた時、離れの前に数人の人影があった。
夕暮れ。
建物からの影で表情は見えない。
セキアがクラフに手を貸して、馬から下ろした。


「くーちゃん!!」
小さな影がクラフに抱きついた。
「うわ、じじい!」
「なんとこの、黒い髪!!!嘆かわしいぞ!あの綺麗な色はどうしたのじゃ?」
「だ、大丈夫、新しく生えるとこは今までどおりだよ」
「いやじゃ、いやじゃ!直ぐ元に戻すのじゃ」
「え~無茶言うなよ!」
大教皇のつるりとした額を頬に擦り付けられて、クラフは苦しそうに突き放そうとする。
じゃれあう二人をため息交じりに見つめてから、セキアは目の前の賢老士に頭を下げた。
「セクトール候」
ピーシの父親でもある賢老士は眉間にしわを寄せていた。
「セキア、今回のことは、ピーシにも責任がある。お前を罰することは、許してやる」
「はい」
神妙にセキアは頭を垂れた。


「そうじゃ、くーちゃん、ピンクが似合うぞ!今度はピンクにするのじゃ」
「それじゃ外に出られないだろー!じじいのをピンクにしてあげるよ」
「わしのどこをじゃ!」
はげた頭をなでながら、大教皇はクラフの手を引いて建物内に連れて行く。


緊張感のない二人を見送って、黒髪の騎士は再びセクトール候に視線を戻した。
セクトール候は、険しい表情のままクラフの後姿を見送っていた。
「セキア、知っていたか?巷では私に隠し子がいるとの噂があるそうだ」
「え?」
「黒い眼鏡の、色の白い少年だそうだ」
「!?」
セクトール候の背後で、ピーシが笑いをこらえて口元を押さえた。隣に立つカカナが思わずピーシを肘でつつく。
それを感じ取っているのか、セクトール候はこめかみをひくひくさせた。
「それでだな、セキア」
「あの、お許しを!罰なら私が…」
「噂は真実」
「え?」
セキアは男の顔を見つめた。セクトール候はあごに手をやり、まだ、クラフの去った離れの入り口を見つめていた。
「そういうことにするといい。何かとクラフもやりやすくなるだろう。人質でいる理由もない、目立たなければ多少の外出も許可しよう」


「だめです!セクトール候、そんな甘いことを申されては、クラフさまが付け上がります」
セクトール候も、カカナもピーシも。目を丸くした。
「おや、なんだ、セキア?よい申し出のつもりだが?」
「当分、外には出しませんから」
ふ、と賢老士は表情を崩した。
「まったく、お前たちは…」


空に星が瞬き始めていた。




あとがき!
こんなんです~(^^;)
相変わらずの彼ら、楽しく日々を過ごしています。
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明日から、「思うものの欠片」第二話開始です!

「想うものの欠片」第二話 ①

プロローグではシーガ、ミキー、そしてこの世界をご紹介しました♪さて、やっと三人目の主人公、登場です…


第二話「トント、そして三人」


「タース、これ、昼飯に持っていけよ」
床に膝をついて車輪の下に顔を突っ込んでいた少年に、四角い顔の男が声をかけた。
少年は太い車軸に手を突いて、ひねるように突っ込んだ右手でその奥でボルトを締めなおしていた。
絶え間なく動く機械の音で、聞こえないようだ。
男は面白そうに笑うと、手に持っていた紙袋を少年の道具の脇においた。ひとつ伸びをして。昼の休憩に向かう。


そろそろ暑い季節だ。
眩しそうに男が見る天井はガラス張りで、雨の日も風の日も作業にもってこいだが、暑い季節は蒸し風呂で、地獄のようだ。むき出しの鉄骨の梁が長く続く。そこに這う電線が、ところどころ金具で引っ掛けられている。
電線の先は最新式の発電機だ。彼らの整備する機関車と同じ蒸気で発電する。
工場長のゲーベルさんがティエンザ王国の工業都市に注文したものだ。そんな遠い街で買わなくたって、僕たちだって作れるのに、男はそう言った少年を思い出した。
タースはまだ十五歳。これといって資格は取っていないが、飲み込みは早い。
彼が二十歳になる頃には立派な機械工になっているだろうと男は踏んでいる。娘は一つ上の十六歳だが、下手な街の若者に引っかかるくらいなら、タースにやったほうが安心できるというものだ。
少年が一緒に働き始めて半年。仕事にも慣れてきて、人となりにも納得した。そろそろ、家族に合わせてもいい。タースの家族にも会ってみたい。
勝手な想像をしている親方セルパの企みなど気付きもせず、少年は今、修理中の蒸気機関車から体を引っ張り出した。

ちょうど昼の時間を知らせる教会の鐘が三回鳴らされた。


「ふあ、腹減った」
タースは工具をキレイに布でふき取ると、大切に工具箱にしまった。借りている道具だ。大切にしなければいけない。そういったところがセルパに気に入られているとも知らず、タースは工具箱と傍らにあった紙袋を持って工場を出る。
途中、出入り口にある工具置き場にきちんと返すと、嬉しそうに袋の中身をのぞいた。


「やった!ハムだ!」
淡い海の色の瞳を輝かせて、歩きながらハムと玉ねぎのサンドされたパンを取り出す。かぶりつく。ピクルスが少し辛くて、それがまた食欲をそそる。
セルパ親方の奥さん、エイナの手作りの料理はいつも美味しい。
工場を出て、少し歩いて港の見える高台の公園に来る。少年は公園の水道の蛇口をひねると、顔を半分ぬらしながら飲む。
そうしてまた、一口、サンドウィッチをかじる。
お行儀のいいことではないが、普通の十五歳。気にするはずもない。
昼の時間の公園は案外、人が少ないものだ。ざっと今見渡しても、視界に入るのは図書館の守衛だけだ。皆、自分の家に昼食と休憩のために帰る。少年にはそれはなかった。帰っても、誰がいるわけでもない。

公園のいつもの木陰に座ると、食べ終わって伸びをするまで足元の鳩が三回首をかしげた。紙袋を丁寧にたたんで脇に置き、そのまま、被っていた帽子を顔の上に載せてごろんと横になる。


ライトール公国。首都のライト公領は大陸一の都会。公国を横断するトラムミスと、縦断するトラムティスの二つの鉄道を結ぶ駅がある。駅周辺は大きな建物が立ち並び、たくさんの人と物が集まる。大聖堂、三つもある大学。国の機関の建物は政府庁舎と裁判所と税務署。国立の図書館に美術館。それらには漏れなく広い公園が付いていて、この時期はジャスミンが白い小さな花を咲かせる。揺れるたびに強い芳香が漂う。
少年の横たわる公園も例外ではない。


少し強すぎる花の香りに、寝ていられなくなってタースはむくりと起き上がった。
顔を洗って、図書館に行こう。そう思い立つ。そう、この公園は図書館の庭にあたる。レンガの大仰な建物は四階建てで、入り口の大きな三角屋根には学問の神様とやらのレリーフが刻まれている。肩で鳩の世話をしながら、学びたい者を例外なく見守っているようだ。
ぬれたままの手で黒い髪をかき上げて、タースはそれを見上げた。
貧しい彼が入れてもらえる政府の建物は、ここと刑務所くらいのものだった。
静かな図書館で、いろいろな国のいろいろな街の歴史、そしてそこの建物の絵を見るのが好きだった。いつか、建築士になろうと、少年は考えていた。いろいろな街に行って、歴史ある建物の修復をするような仕事。けれど、それには資格がいる。大学に行かなくては資格試験を受験することも出来ない。働いて、お金をためて。やりたいことがたくさんあった。


図書館に入る前に、作業服のズボンを数回たたいて埃を落とす。
守衛は黙ってそれを見ていた。
太い柱の間を抜けて暗いエントランスに入ったときだった。ちょうど、タースと同じタイミングでエントランスに入った影があった。
見ると少し年下くらいの女の子。黒いワンピース、その下に半ズボン。足元はこの暑いのに膝下までのブーツ。髪はマロンクリームみたいな色で二つに縛られていた。
歩くたびにぴょこぴょこと音がしそうなほど、その姿はお人形のようだった。見とれていたタースは、二つ目の柱の脇を過ぎるときに、柱の横に立ててあった受付の案内看板に膝をがちとぶつけた。
「って」
くすくす、といつもの顔の受付の女性が笑った。
「タース、なにを見とれているの」
手招きされたので、仕方なくタースはガラス張りの向こうにいるジャムさんの前に立った。


ジャムさんは十五のときからもう二十年近く、この図書館の受付をしている。半年前から、昼の時間に顔を出す少年に、何かと話しかけてくる。昼休みは客が少ないのに外出させてもらえないからつまらないという。元来おしゃべりなのだろう。
「今の子、カワイイでしょ?最近よく見るのよ」
「あ、そう」
気にしないフリをしつつも、少年が少女の後姿をじっと眼で追っているので、女性は噴出す。
「ふふ、声かけてみたら?同じ年くらいじゃないかしら。いつも三階の古書のコーナーにいるのよ。ほら、あのフロアなら人がいなし。ちょうどいいじゃない!滅多にいないわよ、あんなかわいい子」
小さな硝子の窓から無理やり手を伸ばして、少年の二の腕をバシバシと叩く。
人のことより自分の結婚のことを心配するべきじゃないのか、と思ったものの、タースにはそれを口にする勇気はない。
「いいって、そんなこと出来ないよ」
「んま!男の子でしょ!?十五にもなって、女の子に声かけることも出来ないなんて、恥ずかしいと思わないの?」
急に憤られても困る。
「だから、さ、別に…」
「そんな勇気のない男ばかりだから、世のいい女は苦労するの!」
誰のことを言いたいのか、少年は的が外れ始めたジャムの話から逃れようと、とりあえず頷くことにした。
「わかったよ、ちょっと見てくる。それでいいだろ」
口とは裏腹に意外だったようで、女性は一瞬あっけにとられ、それから顔を赤くして、行ってらっしゃいと手を振った。


「なんだか、なぁ……」
階段を昇りながら、タースは少し伸びた黒い髪をかき混ぜた。
女の子が気にならないわけではない。一応、男だ。
でも、初対面で、ちゃんと顔を見たわけでも話したわけでもない。
何の情報もないのに、そうそう、上手な誘い文句があるわけでもない。最後の踊り場で手すりに手を付いた辺りで、嫌に緊張している自分に気付いた。
本当に、声をかける必要なんかないのに、なんだろう。
自分が馬鹿に思えて、後数段で三階というところで、立ち止まった。


やっぱり、止めた。
向きを変えたところで何かが聞こえた。
少女の声のようだ。凛としたきれいな声で、それは小さかったけれどはっきりと聞き取れる。
「お願いです…」

次へ 

「想うものの欠片」第二話 ②




誰かと、話している。
他に人はいないように思っていたので、話しかけなくてよかったとタースは胸をなでおろした。数歩歩き出して。また、聞こえる声に足を止めた。
「いやですの!放して…」
鼓動が高まる。
これは?
何かが起きている。

重い静寂を押しのけるように、タースは向きを変えると一気に階段を駆け昇った。
正面の扉をぎっと開いて、目の前の書架の列を見回した。
どこだ。


何かの気配のするほうへ。響く足音も気にせずにタースは走った。
天井までありそうな書架がいくつも立ち並ぶそこは薄暗い。窓は掃除が行き届かないのか曇っていて、昼間のはずなのにまるでうっそうと茂る森に立っているかのようだ。
右手の奥。書架の間で、少女を見つけた。

こちらに背を向けて、誰かに話しかけていた。
相手の姿はここからは見えない。
「あの!」


振り向いた少女を見て。
タースは後悔した。


少年の中で何かが崩れてしまったようだ。
少女の美しい瞳に見上げられ、動けなくなっていた。耳元で鳴る心臓の音で息苦しいのに、肺は呼吸する方法を忘れてしまったかのようにじっとしている。
「どなた?」
少女の声で我に帰って、タースは大きく息を吐いて、それから吸い込んだ。
カビの匂いのする湿った空気も、今は美味しく感じた。
まだ少し、荒い息のまま、タースはなんと言おうか思案しながら口を開いた。
「え、ええと。その。声が聞こえて」
少女はにっこりと笑う。その首の傾げ方がまた、少年の心臓を躍らせた。
「ごめんなさいですの。図書館では静かにしなきゃですね」


「ミキー、いいから来なよ」
少女のものでない声、ちょうど十歳くらいの男の子の声のようなものが、少女の向こうから聞こえた。タースは首を傾けて、覗き込んだ。
「嫌ですの。ちゃんとお話してくださらないとシーガさまに叱られますの」
「おいらは知らないね、そんなの。いいからさ、ミキーも一緒においでよ、楽しいよ」
よく見えなくて、タースは二歩、少女に近づいた。
「あ、あの、あなた、この声が聞こえますの?」
少女が振り向いた。
その向こう。
金色のイキモノが立っていた。
「あ?なに、そいつ」
イキモノがしゃべったようだ。髭を揺らして、鞭のような尻尾をぺんと床に当てた。苛立っているかのようだ。


「お前こそ、なんだ?」
タースはそう言うと、思わず床に膝をついてそいつを見た。
金色の毛皮、タースのモモくらいまでの身長。小さな耳、長い髭、尖った鼻、前足はミキーの手をとり、後ろ足二つで立っている。
どう見ても、でかいネズミ。


声をかけられて、そのイキモノは飛び上がった。
そう、文字通り、飛び上がって、次の瞬間には尻尾の先が書架の向こうに消えるのが見えた。素早く走り去ったのだろう。
タースは何度も瞬きして目をこすった。
「あなた、ユルギアが見えるのですの?声が聞こえるですの?」
ミキーと呼ばれていた少女は、座ったままのタースの肩に手を伸ばした。ひどく興味があるようで、抱きつかんばかりの勢いに、タースは真っ赤になって立ち上がった。
「え?え?今の、ユルギア?動物の姿してた」
「あれはこの図書館のユルギアですの。悪いユルギアではないですが、遊びたがりで、何度遊んでも約束を果たしてくれなくて。困っているですの。シーガさまに頼まれて、昔の資料を探しているですの」
動物のユルギア。
そう聞いて、タースの表情は曇った。
「あれも、ユルギアなんだ」
「あの、あの!あなたもシデイラですの?」
少女が抱きついた。
思わず後ろにあった書架に背をぶつけたタースは一瞬見せた真剣な表情を消した。
それどころではない。
目の前の少女の柔らかな体に心臓がどうかなりそうなのだ。


「だ、あの、僕は違うよ!その」
「違うですの?」
「シデイラの血は、流れてるけど」
少女はタースの腹にしがみ付いたままだ。
「あ、あの……」
「シーガさまと同じ匂いがしますの」
うっとりとした様子でミキーは亜麻色の髪を何度も少年の胸にスリスリとする。
たまらなくなって、そっと突き放すと、タースは荒くなった息を落ち着けようと胸に手を置いた。


「あの、お茶しますの!一緒に」
少女は長すぎる袖の下から三本だけ指を見せて、少年の手を握り締めた。
少女に請われるまま、タースは階段を降りて、ジャムさんが何か言っているのも耳に入らずに図書館の一階にある喫茶コーナーに入っていった。

次へ 

「想うものの欠片」第二話 ③



少女はミキーという名で、年齢も苗字も教えてくれなかった。
毎日、図書館に通っているのだと笑った。
冷たく冷やした紅茶のグラスを、何度も口に運びながら、タースは生まれて初めてのデートをしている自分に気付いた。同時に、少女に抱いた感情にも気付く。
それからはもう、なにをどうしゃべったのか覚えていない。
ただ、お互い楽しい時間を過ごせたことだけは自覚があった。
ミキーは始終ニコニコしていて、透き通った声で頼んだ飲み物も飲まずによくしゃべった。
ほとんどがシーガさまという彼女の雇い主のことと、お気に入りの洋服とブランドの話だったが、それはかえってタースにとって見知らぬおとぎ話を聞くようでドキドキさせた。
午後三時の教会の鐘が鳴らなかったら、仕事のことなど忘れているところだった。


午後はなぜか仕事が進まなかった。
親方に何度か、大丈夫かと問われ、大丈夫だと笑っていたけれど、そのうち、体全体がおかしくなっているように感じた。
午後四時を回るころには、立っていられないほどになっていた。
機関車の黒く塗られた車輪が二重に見えて、さすがにタースは作業の手を止めた。
給水車の屋根に上っていたが、震えて力の入らない足で、なんとか足場を伝って降りると、地面につくなりへたり込んだ。


「タース!」
親方が肩を支えて、何か言っていた。
「すみません、僕、調子が……」
「タース、お前ひどい熱だ、病院へ行こう」
親方が作業員をもう一人呼んで、二人で両側から支えてくれた。
「直ぐそこ、確かあったな」
親方の声に、先輩の声。
「はい、あの角の建物が国立病院ですよ」


タースはくらくらする頭の中で何か思い出さなければいけないことがあると考えていた。
病院、病院。そればかりが回っている。
気付いたのは、診察室で横になっているときだった。


心配そうに覗き込む親方。医者だろう、灰色の髭があごまでまとわり付くように伸びている初老の男。男の持つ注射器で、一気に思い出したのだ。
「あ、僕、ケトンの入ったの、ダメです…」
医者の手首を下から押さえて注射を止めた。ケトンは通常使われる解熱剤に入っている成分だ。タースはそれが体にあわない。
「え?そうかい」
医者の穏やかな茶色い瞳が一瞬見開いた。
親方がどう思ったかは、知りたくなかった。だから、顔を見れずにいた。
「なんだ、お前シディなのか?」親方がつぶやくように言った。
まぶたの奥が重く目を開けるのもつらかったが、タースはここできちんと言わなければと覚悟を決めた。
「…はい。半分、シデイラの血が」
「ほお、珍しい!混血か!」
声を上げたのは医者のほうだった。
顔を動かして、親方の方を見た。
いつもと表情が違った。


「あの、すみません、黙っていて」
憮然とした様子で親方は腕を組んだまま言った。
「別に、謝ることはないさ」
言葉とは裏腹に、その後の親方は黙り込んでいて、興味深そうにタースの診察を続ける医者とは対照的だった。
医者は、ケトンの入っていない薬では、直ぐに熱は下がらないから、と入院を勧めた。
原因も分からないし、と、そう言う表情が嬉しそうで。タースは余計に気分が悪くなった。
「あの、僕、お金がないから入院できません。すみません、帰ります」
無理やり起きようとする少年を医者が抑えた。
「まあ、今は無理だ。お金のことは気にしなくてもいいよ。ご両親はどちらに」
「…いません。二人とも十年前に、亡くなりました」
タースの言葉に医者はますます嬉しそうな顔をした。
あまりにもその表情があからさまだったので、タースが顔をしかめたほどだ。しかしそれも熱のためと解されたのか、医者は嬉々として入院の手続きを進めていた。


シデイラ。それは、山岳民族。この大陸で最も高い標高を持つシデイラ高地に昔から住んでいた。しかし、他の民族の神が一つであるのに対して、シデイラの民だけは自然信仰、山とか風とか、草、水、太陽、そういったものを大切にしていた。
唯一神が世界中で統一され、一つの教会の元に信仰が集まった時代から、シデイラの民は異端者扱いされてきた。ユルギアと会話する特殊な力があるとされ、神秘的な銀の髪、翡翠色の瞳は美しく、過去には他民族の狩の対象となった。
今ではほんの少しの人々が、教会が管理する広大な北の土地シモエ教区で保護されている。十数人に満たないというから、いずれ絶滅するのだろうといわれている。
保護されている民は他の民族との婚姻は許されていない。
だとすると、タースの存在は珍しい。
シデイラの民はケトンという解熱剤の成分を受け付けない。服用すると命を落とすこともある。自分も同じなのかは分からないけれど、試す必要も勇気もない。ずっと隠し通してきたのに、タースは熱を出した自分を呪った。


風邪など引いていないはずなのに。どうして急に。
このまま、公国の研究機関でもあるこの国立病院に捕まってしまうのだろうか。
絶望的な気分で目を閉じて、ため息を一つ吐き出したときだ。
「この子はわしらが預かっているんだ。養子だ。つれて帰るよ」
親方だった。
自由をくれる一言だった。

次へ

「想うものの欠片」第二話 ④




「ありがとうございます」
帰りの馬車の中で、自分の荷物の入った袋を枕に横たわりながら、タースは馬を操る親方の背に心から礼を言った。
親方は黙っていた。
不安もあるが、嬉しさのほうが大きかった。


「僕の、両親は」
「言わなくていい」
さえぎった親方の一言が、表情が見えないために怒っているのか、笑っているのか分からず、さらに少年の不安をあおった。
シデイラの民はシディと呼ばれ、蔑まれている。ユルギアと話すことで気味悪がられて、まるで不幸を運ぶ厄介者のような扱いを受ける。
それは、幼い頃から身に染み付いていた。


仕事は、続けられそうもない。
やっと、この都会に出てきて、やっと落ち着ける仕事が出来て、いい人たちにめぐり合った。自分のしたいことも見つかって、充実していた。
それが、すべてなくなる。
両親が死んでから、これまで生きていくためにいろいろなことをした。盗みを働いたこともある。詐欺まがいのことだってした。そのどれも、罪悪感などなかった。
そうしないと生きていけなかったから。法律で守られていないのだから、自分が法律を犯すことに何の抵抗もなかった。
けれど。
優しくしてくれた親方を騙していたことが。シディであることを黙っていたことが、ひどく心を痛くした。
「明日は仕事を休め」
親方がぽつりと言った。
辞めろ、と聞こえた。
たまらなくなって、タースは鼻をすすった。
気付かれまいとぬぐっても、涙がまたあふれてくる。
「今夜は、うちに泊まるか」
親方が振り向いた。
その顔は穏やかに笑っていた。
「親方…?あの、僕、シディ、ですよ?」
すっかり鼻声の少年に、男はふと笑った。
「ばか、それが何だってんだ?お前はタースだろ。俺が半年かけて教えてきたこと、何にも分かっちゃいねえな。まだまだ、教えなきゃならんことがたくさんあるぜ」
少年は涙をぬぐって笑った。
人として、生まれ変わったかのようで。嬉しかった。


セルパ親方の家は、工場から馬車で少し南に走った、静かな住宅地にあった。親方に支えられて、白い門を通って芝生のきれいな庭を横切る。丁寧に整えられた庭をみると、家庭の円満さがうかがえるようだ。奥さんのエイナさんはニコニコして出迎えてくれた。
二階の一室をあてがわれて、横になる。
気を使わなくていいから、とにかく眠ることだとエイナになだめられ、タースは目を閉じた。
遠い街の大学へ行っているという長男が子供のころ使っていた部屋だという。白い窓枠、同じ色の本棚。そこに並ぶ学校の教科書。子供のころのものだけれど捨てられないのだろう。温かい家庭の匂いを感じて、タースは幼い頃を思い出していた。
温かい記憶と、両親をなくしたときの悲しい想い。
熱のせいか、耳鳴りがしている。
時折、聞こえるはずのない声やささやきが耳を掠める。ユルギアだろう。
また、明日ですの、と。ミキーの声がよみがえった。そういえば、彼女もユルギアと話をしていた。彼女も混血なのかもしれない。
心地よい少女の声に、深い眠りに落ちていった。

「だわ」
だわ?
女の子の声のようだ。
タースはぼんやり目を開けた。
心地いいベッド。キレイな天井。
ああ、親方の家だったな…。そう思い出したとき、また、声が聞こえた。
「シディなんて、気味悪いじゃない。私いや!そんな子が私の隣の部屋で寝るの!?絶対許せない」
セルパ親方にはタースより一つ年上の娘がいると聞いていた。
はあ、と息を吐いて。タースは起き上がった。
まだ、少し、目が回る感覚があったけれど、ゆっくりした動作なら立ち上がって歩くことも出来そうだった。
数回、深呼吸して立ち上がると、タースは荷物を持って、階下に向かった。
自分のせいで温かい家庭に水をさすことはない。


「ライラ、お前は何にも分かっていない」
セルパが低い声で言った。
「シデイラの民がなんだって言う?タースは真面目ないい子だ」
「そうよ、ライラ。人を差別することはよくないことでしょ?あなたがそんなことを言うなんて、母さんは悲しいわ」
「だって、嫌なものはいや!」

立ち止まって聞いていたタースは、ちょうど階段を昇りだした娘、ライラと鉢合わせした。
「き、きゃあ!」
悲鳴を上げられ、どうしていいか分からず、ただ立ち尽くす。
ライラは親方より奥さんに似ていて、少しタレ目の甘い栗色の髪の少女だった。
シデイラでなくても、見知らぬ男が自分の部屋の隣にいるだけで嫌だろう。
階段を駆け下りていく少女を見送って、タースはため息を一つ吐き出した。
帰ろう。


「ライラ、どうしたの!」
階下に降りると、夕食のいい匂いがした。ジャガイモとまめと鶏肉を煮たスープのにおいがしていた。
「タース!大丈夫か?」
一階に下りると、直ぐそこはリビングで、ソファーに座っていたセルパが少年に気付いて立ち上がった。まだ少し、心もとない足元に気付いたのか駆け寄った。
「あ、はい。大丈夫です。僕、自分の家に、帰ります」
ライラを抱きしめていたエイナが目を丸くした。
「何を言っているの、タース君!ダメよ!」
娘をあっさり置き去りにして、エイナはタースの前に立った。
身長はタースのほうが少し高い。それでもまるで小さな子供にするように、エイナは少年の額に手を当てた。
「ほら、まだ熱があるわ」
「どれどれ」
セルパも同じことをする。
タースは二人をかわるがわる見ていた。
あまり、経験のないことだったから。


「食欲はあるのか?」
「そうよ、ちょうどスープが出来上がったし、ライラも戻ったし、ね、一緒に食べましょう」
二人の優しい言葉に、タースは持っていた荷物を後ろに隠した。

二人がいていいって言ってくれているのに、変にかんぐって帰ろう何て、僕は大人気ない。そう思うと恥ずかしくなった。
それに、この機会を逃したら、こんな風に優しくしてくれる人に出会えるのは、いつになるのか分からない。いや、もうないのかもしれない。
半年、雇ってくれた親方に感謝する意味でも、ここは甘えるべきなのだろう。

次へ

「想うものの欠片」第二話 ⑤


ライラは食事はいらないと言って、二階の部屋に入ったきり、降りてこない。気にはなったが、親方が放っておけというので、とりあえずタースは目の前の美味しい料理を胃に収めることにした。
「タース、明日はまだ、体を休めるべきだぞ。仕事への復帰はあさってからだ」
「親方、でも僕は……」
「いいか、タース。お前がなんであろうと、俺は今まで半年お前を見てきて、頼りにしているんだ。週末までの今の仕事、あれはお前に任せたんだったな?」
「あ、はい」
「任せたんだから、ちゃんと最後までやれ。それにな、お前の腕を見込んでやってほしい仕事はたくさんあるんだ。寝込んでいる暇なんかない。一人暮らしなんだろう?ちゃんと食ってないから熱なんか出すんだ。なんなら、お前、借りているアパルトメントを引き払って、ここに来い」
少年はエイナの顔を見た。
エイナは穏やかに笑った。
「でも……」
タースは言いよどんだ。
「ライラのことは気にしなくてもいいさ。恥ずかしいんだろう、あの子はどうも、晩生でね」
「あら、あの年頃はあのくらいでちょうどいいんですよ。これでタース君にそつない挨拶でもしようものなら、いつの間にそんな娘になったのかって、あなただって驚くでしょ」
奥さんの言葉に、親方は少し顔を赤くした。先ほどから飲んでいる麦の酒のせいではない。
そんな顔のセルパを初めてみて、タースは少し笑った。

家では、お父さんなんだな。


美味しいスープをもらって、体が温まったところでシャワーを借りた。エイナは熱を心配したが、仕事で埃だらけのまま、あの部屋にいるのは気が引けた。タースは少しだぶついたセルパの夜着を引きずるようにして、階段を上る。向かって右側の扉が少し開いて、暗い階段の踊り場に部屋の明かりが漏れた。ちょうど部屋を出ようとしたのだろう、ライラが顔をのぞかせて、慌てて引っ込めた。
息を潜めて扉の向こうにいるのが分かる。タースが、部屋に入ってしまうのを待っている。
二つの部屋は向かい合わせ。階段を真ん中に左右に分かれる。タースは階段を昇りきったところで、立ち止まった。
「あの、ごめんね。君の生活を乱したいわけじゃないんだ……その。親方も奥さんもすごくいい人たちだよね。二人が本当の親だなんて、君がうらやましいよ」
扉の向こうから、返事はなかった。


「……、お休み。明日僕は家に帰るよ。朝早く出るから。気にしないで」
自分の部屋の扉を開けたとき、背後でも扉が開いた。
「タースって言ったわよね。私のせいで出て行くのは止めて。あてつけみたいで嫌だわ。それに、パパとママはいい人だから、きっとあなたのパパとママにもなってくれるわ。私は別にそれでかまわないの。兄さんが家を出てから、二人して私にかまうの、少しうっとうしいくらいだったから。ちょうどいいわ」
口調は冷たいものの、ライラは決して嫌な顔をしていなかった。照れたように目をそらす。
タースも笑い返した。
「ありがとう」
「別に、私があなたに何かしてあげるわけじゃないんだから!」
「うん、でも、嬉しいから」
そこで、少年はだるいのか、扉に体を預けた。
「あ、ごめんね、早く寝てね、そうだ、ちゃんと窓閉めた?母さん、いつも昼間に開け放つくせがあるから。気をつけないと夜の間に震えるはめになるのよ」
そういってライラはタースの脇を抜けて、タースの部屋に入ると窓を閉めた。カーテンを揺らす夜風に室内はすっかり冷え切っていた。
「ほらね」
腰に手を当てて笑うライラは、かわいらしく見えた。
「ありがとう」
部屋の入り口の脇においてあるランプに、マッチを擦って火を灯すとそれをタースの枕元に持ってくる。ベッドサイドのテーブルに置いて、少年を改めて見つめた。
ライラは目を丸くしていた。
「タース、あなたって」
タースはだるいのでベッドに座り込んでいたが、ライラの前で横になるのは気がひけるのか、膝に両手を付いて、首をかしげた。
その様子に、ライラは少し慌てたようだ。
「な、なんでもないわ。でも、シディって、もっと恐ろしい感じの人だと思ってた」
目をそらせるライラに、タースは笑った。
「僕、半分はライトール人の血が流れているから」
「そ、そうなの。だから、そんなきれいな黒髪で、瞳も、翡翠色っていうより、もっと青みの勝った不思議な色なのね」
タースはライラの頬が赤くなるのを黙って見つめていた。

容姿の事を女性に褒められることはたまにあった。図書館のジャムさんも、不思議な瞳の色だと喜んでいた。それが、女性には受けがいいのだと気付いたのはもっと幼い頃だ。
かといって、それでどうにかしようというほど、興味のある女性にも出会わなかったから、タースにとってそう言う類の言葉は笑って受け流すことになっている。

「うん、そうだね、変わった色だって言われる」
「そうね、雑誌で見た、リール海の色に似ているわ」
「そう?見たことないから」
「え?知らない?リール海は世界一美しい海なのよ!ティエンザ王国の西の海で、白い砂石灰の海岸線。家は皆白い壁にオレンジの屋根。蒼い海と空!もう、バカンスを過ごすにはこれほどいいところはないっていうのよ」
女性はこういう話になると元気になる。
昼間のミキーを思い出していた。
「でもね、この間の地震で、すごく被害を受けたんですって」
こういう話も女性は好きだ。
「ティエンザ王国で有数の港だし、有名な観光地でもあるから、復興と同時に王国では鉄道を引いて、もっと便利にするらしいわ。ああ!行って見たいなぁ!」
タースは微笑みながら、目をこすっていた。
くしゅん!
押さえるまもなく、くしゃみが出た。
「あ!ごめんなさい!寝て!さ、ほら」
ライラに肩を押されて、タースはベッドに横たわった。
まるで母親の真似事をするかのようにライラは毛布を少年にかけると、満足そうにぽんぽんと優しく上から叩いた。
「おやすみなさい」
笑うライラの表情は、とても素直な少女のものだった。
ぽんぽんと叩かれた毛布の心地よさに、タースは直ぐに眠りに落ちた。

次へ♪

「想うものの欠片」第二話 ⑥



次に目覚めたとき、タースは自分がどうしてこの家にいるのかを、もう一度思い出さなくてはならなかった。深く、たっぷり眠ったからだ。
重かった頭もはっきりしていて、タースはまだ少し熱はあるものの、エイナに断って自分のアパルトメントに荷物をとりに行くことにした。
親方もライラもすでに出かけていて、こんなに日が高くなるまで寝ていた自分が少し恥ずかしくなる。

学校に出かける前に、ライラが母親にタースのことを話したらしい。
エイナはにこにこして、
「娘はわがままに育ったけれど、根はいい子だから、仲良くしてやってね」
と言った。
その言葉が微妙に気にかかりながら、タースは通りを歩いていた。
昨日の病院の前を通り過ぎて、右手に公園が見えた。図書館。
昼前の日差しが公園の白い石畳を光らせて、タースは目を細めた。


そういえば、昨日ミキーと約束した。
また、図書館で会おうって。
少女を思い出すと、とくん、と心臓が鳴る。
彼女はシデイラを尊敬しているといっていた。彼女のご主人がシデイラらしいことを言っていた。彼女なら絶対に差別なんかしない気がした。
タースは自然と図書館に向かっていた。


ミキーが図書館のユルギアに頼んでいること、そのために図書館に通っているのだということを思い出して、タースは昨日見たネズミのでかいのが気になりだしていた。
あいつが悪さしたのかもしれない。だから、急に熱が出た。
ユルギアはいろいろな不思議な力を持つ。物理的に人を傷つけたり、人の心に入り込んだり。悪意の塊のようなユルギアは人を襲ったりすることもある。


図書館の前で、いつも通りの守衛さんに挨拶をすると、タースは涼しい日陰の室内に入る。
ジャムさんが手招きしていたが、今日のタースは手を振るだけで、近づこうとしなかった。
その場所から、「あの子、きてますか?」と問うとジャムさんは意味深に笑って、また三階よと笑った。


心臓の音がやけに耳に付くのを無視しながら、少年は階段を昇る。
また、声がした。
ミキーの声。
また、ネズミの奴と言い争っているようだ。タースは急いだ。


「ですから、お願いですの、古いお手紙を見たいだけですの」
「だからぁ、おいらは知らないってば。じゃあ、見せてあげたら一緒に遊んでくれる?」
甲高いネズミの声。
「ほら、それってさ、汚い字でなんか書いてある奴だろ?多分、どこかで見かけたんだ。一緒に探してくれたら見つかると思うんだ」


ミキーだめだ、そいつの言うこと真に受けちゃ、ダメだ。
念じながら三階の扉を開ける。
「ええと。一緒にって、どこを探すんですの?」
ミキーは何の危機感もない様子だ。タースは一直線にこの間の場所へと走る。
「おいでよ、おいらの世界だ」
ミキーの小さな悲鳴と同時に、タースは空気がずんと重くなったのを感じた。
よどんでいる。
嫌な、空気。
ユルギアの奴!
「待てよ!」
昨日の場所に駆けつけると、狭い書架の間、少女の細い手が本棚の一番下の段から伸びていた。
ありえないことだが、まるで本棚の一箇所に、ミキーが吸い込まれていくように見えた。
「ミキー!」
駆け寄って、とにかくその手を取って引っ張る。
その手は、分厚い本に挟まれた棚の隙間、小さな真っ暗な空間から伸びていた。
ぐっと、ひっぱっると、ミキーのもう一方の手も出た。助けを求めるように、白い細い手が空をかく。
「ミキー!大丈夫か!」
両手を取って、タースは精一杯引っ張る。
「邪魔するなよ!」
ネズミの声がして、座り込んでいるタースの肩に、上の棚から本が落ちてきた。
「うわ!」
それでも、手を離してはいけない。
放したら、ミキーはどこかに行ってしまう。
二度と出られなくなってしまうかもしれない。
「ミキー!」
「…た、タース」
顔が出た。
暗い闇はそこに真っ黒な煙が詰まっているかのようだった。煙はゆらと揺れたと思うと、弾けるように一気に飛び散った。急に軽くなって、ミキーの体が飛び出した。
派手な勢いで背後の書架にぶつかって、本が落ちる。
「危ない!」

バサバサ!
いくつも、重い本の衝撃を背に受けながら、タースは必死に少女を抱きしめた。
腕の中の少女は、思ったよりずっと小さく、軽く、弱弱しい。
守らなきゃ。
そう思わせた。

。。。。。

「タース」
ミキーの声に、少年は二回瞬きした。
目の前に、ミキーの顔がある。
大きな瞳がじっと見つめていた。直ぐ間近に少女の息を感じて、とくん、と心臓が泣いた。


「大丈夫ですの?」
タースは顔を上げて、自分の周りに散らかったたくさんの本を見回した。
あの棚の暗がりは、今はただの本棚の隙間になっていた。
背中がずきずき痛んだ。
「いて…」
体を動かそうとして、一瞬痛みに顔をしかめ、タースは大きく息を吐いた。
腕のなかでミキーがふわりと動いて、そのたびに不思議と甘い香りがした。


「あの、大丈夫ですの?お熱は?ミキー、いつもシーガさまに怒られるのです。でも、シデイラは平気だと聞きましたの」
何を言っているのかよく分からないまま、タースはうなずいた。背中の打ち身が痛んだが、そんなこと、顔に出したら心配させてしまう。笑った。
「う、うん?大丈夫、だよ。あのネズミ、君をどこに連れて行こうとしたんだ?」
ミキーは恥ずかしそうに笑った。
「あの、トント、彼の名前ですが、トントは自分の巣穴があって、そこにいろいろな本を持ち込んでいるんですの。探しているものが見つからないので、彼が持ち込んでいる中にあるのではないかと思っていますの。どうしてもそれを見たいってシーガ様がおっしゃるから」


はあ、と大きく息をついて、タースは体を起こして、そっと背後の書架に背を預けた。
少女は、膝をついて座り込んだまま、タースを心配そうに覗き込んでいる。


こんな可愛らしい少女に、そんなこと命令するなんてどうかしている。


「ミキー、そのシーガさまはここには来れないのか?君が来るより、そいつが来たほうが早いんじゃないか?」
ミキーは困ったように笑った。
「あの、トントは私のこと好きなので、それで私に適役だって。シーガ様が」
「!なんだよ、それ!」


ユルギアは基本的に単純だけれど、だからこそ、怖い存在だ。話しても無駄なことが多い。理屈なんか通じないし、自分たちの感情、つまりユルギアを作り出した思念と同じ感情しか理解しない。時には人を食らうほど恨みや憎しみで凝り固まったユルギアもある。
トントが遊びたいというなら、彼はその感覚しか理解できない。ミキーが何をどう説明したって、お願いしたって、決して協力してくれることなんかない。
シデイラなら分かっているはずだ。
生まれたときから身の回りのユルギアの声を聞いて、姿を見て、まるで隣人のように付き合っていくのだから。
タースは鼻息を荒くして、ミキーのご主人だというシデイラを想像した。
どうせ、ろくでもない男だ!

次へ(7/1公開予定♪)

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