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「音の向こうの空」第四話 ①

第四話:思想の騎士、ファリの街


結局あの晩、侯爵がなにを言いたかったのかわからないままだったが、オリビエはいつも通りの春を迎えていた。

音楽堂に昼の日差しが差し込まなくなり、庭の木々が春の盛りを過ぎ緑一色に落ち着きかける頃、オリビエはキシュのおかげで多くの曲を作り上げていた。
それらはどれも好評で、父親を知る貴族にも「父親にないものを持っている」といわせたほどだった。

五月には王立アカデミーのコンクールの噂も聞こえ始める。アカデミーは由緒ある国立学術団体で、学問、文学、歴史、芸術様々な分野の第一人者が会員となり、王国の智の源となる辞書編纂やメセナと呼ばれる学問芸術振興を担っている。年間いくつものコンクールを行い、優れた人物や作品、慈善団体に援助を与えた。

音楽のコンクールは年に数回行われたが、春の音楽栄誉賞がもっとも権威のあるものとされていた。
外国の作曲家や演奏家も参加するほどだった。
その演奏会に行きたい、それはオリビエを高揚させる唯一の憧れだった。

三年前に一度だけ、侯爵夫妻の旅行のついでに連れて行ってもらったことがあった。会場はシャンファーネであったが、エスファンテよりずっと都会で国王の御前演奏会でもあった。
生まれて初めて見る華やかな演奏会、貴族たちに圧倒され、それでも演奏が始まるとオリビエは夢中になって奏者を見つめていた。
その手が膝の上で見えない鍵盤を打つのをアンナ夫人は笑っていた。
最優秀賞を受賞した作品を、滞在していたホテルで再現すると侯爵は気難しげに首を横に振った。
「お前の演奏ではない。真似をする必要はないだろう」
不興だったのだ。
以来、コンクールの話題は侯爵の不機嫌の元となり、コンクールに参加してみたいという小さな野望はオリビエの胸の中深くにしまいこまれた。


「オリビエならきっと優秀賞だよね、そうしたら援助金もらって、侯爵様の犬じゃなくなるじゃない。ねぇ、ランドン」
愛犬をなでながらキシュは言った。
「援助金だけで一生生活できるわけじゃないよ。侯爵様には感謝しているんだ。どうせ飼い犬なら美味しいものを食べさせてくれる飼い主がいいだろう?」
「現金で可愛くないなぁ」キシュは頬を膨らめる。

オリビエの家で夕食やパンを手に入れるようになったからか、それともそういう年齢なのかキシュは初めて出合った頃よりふっくらとし、頬のつやも眩しいほどになっていた。
無造作に束ねた赤毛も、きれいに結わえなおせば美しい女性に変わりそうな予感もあった。服の下に見て取れる痩せた体型も少しは丸みを帯びてきていた。

「なに?」
オリビエの視線に気付いて上目遣いの少女は、何をしたいのか胸元のボタンを一つ外す。
「そっちこそ、なんだよ、それ」
肩をすくめてオリビエが楽器に向かう。

その後姿に少女が顔をしかめて見せたのもオリビエには見えないが。わふとランドンの困ったような声に、見かけほどは成長していない少女を思い、密やかに口元を緩める。

「あ。やっぱりいやらしい顔した」
すぐ脇に立つキシュ。猫のようにオリビエについてきていた。
「いいや、面白いと思ってさ」

そう笑いながら笑みは音に流れる。指が奏で出せばオリビエの意識も視線も何もかもが、音楽に盗まれてしまうことをキシュは知っている。
最近は声をかけても無視されることもある。
奏でられたそれが、数日前に歌ったものだと気付き、キシュも声を合わせた。
二人と一匹のリビングに、少しだけ開けられた窓の隙間から春の夜風が流れ込む。

次へ♪
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「音の向こうの空」第四話 ②

第四話:思想の騎士、ファリの街


その日はなぜか、いつもと違う時間に侯爵が音楽堂を訪ねてきた。
もちろん彼の家だ、いつ何処に現れようと自由だが、午前のまだ朝の気配が残るうちからオリビエを尋ねるのは珍しいことだった。

濃紺のチョッキの金ボタンは丸く輝き、グレーのキュロットという姿だ。
侯爵はキュロットはあまり好きでないようで、普段は身につけない。オリビエや侯爵家の母屋に出入りする雇い人は男なら皆、キュロットの着用を要求された。夫人が好きなのだ。

だから、オリビエも今日はドレープのたっぷり入ったシャツに同色のリボンタイ、チョッキは臙脂。キュロットはアイボリーにグレーの刺繍が入ったものだ。裾をリボンで結んでいる。タイツは好きではないからブーツを履いていた。
侯爵は入ってくるなり、オリビエを立たせた。

「これから、首都に向かう。お前も来るのだ」
「え、しかし」
「服は持ってこさせよう。急なことだが、先日の茶会、王弟のロスレアン公が同席されただろう。どうやらお前の曲を気に入り、国王に進言したらしい。今朝方、国王からのお召しがあった」

国王リアン十四世。
実直な、まだ若い王だが、その王妃が遊び好きで有名だ。

宮殿では夜な夜な派手な舞踏会が開かれ、内宮貴族が集まるという。内宮貴族とは、領地を持たない貴族のことだ。王族に連なる血筋のものが多い。また、司教会の上層をなすものも貴族と同様の扱いを受けている。先日ここに立ち寄ったロスレアン公はそう言った種類の貴族だ。

リッツァルト侯爵のように領地を持つ貴族は、必然的に首都から離れた土地に住む。戦争が起こったりすれば、国軍をもてなす義務が課せられるなど大変なこともあるが、領地からの税を徴収する権利があるため、首都に住む内宮貴族よりは実情は裕福なのだ。

首都に住む貴族は、地方貴族を田舎者と侮蔑する傾向があり、よほどのことがない限り、侯爵も好んで首都に赴くことはなかった。
年に数回。アンナ夫人にせがまれて、買い物に出るくらいだろう。
まだ、オリビエは首都ファリに行ったことがなかった。


「あの、演奏会が開かれるのですか?」
侯爵は渋い表情をする。
いつもの、出し惜しみ、というものだ。

「お前は、向こうに着いたら病気になれ」
「え、あの」それなら行かなくても。

「王のご命令には従って連れて行ったが、体調不良で演奏は出来ない。よいか、そうするのだ」
「はい」
それはそれでいい。貴族たちが大勢集まる宮殿など想像できない世界だし、その上国王にお目通りなど、緊張するばかりだ。

侯爵の指示を受け、形ばかりだが譜面を用意しているところに、メイドが衣装をいくつか持ってきた。
丈夫なトランクにそれらを詰め込みながら、オリビエはため息をつく。
衣装にしみこんだバラの香り。これは、アンナ夫人が用意したのだと分かる。

「素敵な衣装ですね、オリビエ様」
メイドの一人が羨ましそうに絹のシャツをたたむ。
「そうかな、ちょっと派手だよ」
「あら、アンナ様がものすごく張り切っていらっしゃって。これでは足りないから向こうで新調なさると聞きましたよ」
「え、そんなに長期間なのかな。参ったな、聞いてない」

「あら、何かご予定でも?」
キシュに何も言っていない。

「悪いんだけど、僕の家に来ているシューレンさんに、伝言を頼めないかな」
「いいですよ。午後に街に出る予定ですし。久しぶりに彼女にも会いたいわ」
オリビエはシューレンに当てた手紙に、キシュが尋ねてきたら、急な旅行のことを伝えてほしいとしたためた。
また、彼女が遊びに来たら、仕事の邪魔にならない程度に相手をしてやって欲しいと付け加える。
世話好きなシューレンさんなら、キシュも機嫌を損ねることはないだろう。


四頭立ての馬車を二つ。馬に乗った従者が十人。
オリビエは侯爵の腹心で、この街の市長をしている人物と同じ馬車に乗ることになった。時々茶会で顔を合わせ挨拶する程度で、あまり話したことはなかった。

でっぷりとした腹を金ボタンの朱色のチョッキの下に蓄えたルグラン市長は、薄くなった頭部をかきながら愛想の良い笑顔を浮かべた。彼が身じろぐたびに馬車の座席は小さく鳥のような鳴き声をあげた。

オリビエは形だけの貴族の称号をもらっている。
ただ単に、「租税を払わなくて良い特権」を得るためだけの称号で、それは侯爵が両親を亡くしたオリビエのために用立ててくれたものだ。
どうやって国王の許可を受けたのか経緯は分からなかった。正式には、オリビエンヌ・ド・ファンテルである。オリビエは街の人々からは「ファンテル卿」と呼ばれていた。

「ファリ紀行には良い天候ですな、ファンテル卿」
だからルグラン市長もオリビエをそう呼ぶ。

「はい。突然のことで、まだ実感がわかないのですが。ルグランさんは何度かファリには行かれたんでしょう」
そこで、市長は眉を上げ、自慢げに鼻の下の髭を伸ばした。
「ファンテル卿は首都は初めてですかな」
「え、ええ。旅行はあまり」
旅行と言っても常に侯爵のお供だ。
自分のために街を離れたことなどなかった。

「では、驚かれますよ。このエスファンテが東の果ての田舎町だという意味が分かりますよ。ファリでは市民はみな、五階建てのアパルトメントに住んでいるんですよ」
「ご、五階!?」

侯爵の城も、数えればそれくらいはあるのかもしれないが、平民の住む家がそんな高さだとは想像もつかない。エスファンテの市の中心部、市庁舎でも三階建て。レンガを積んだそれはオリビエが見たことのある立派な建物の中で五本の指に入る。

「この街じゃ届く新聞は一つですがね、かの首都では十を超える新聞が発行されているといいますよ。今回呼んで下さったロスレアン公は、ファリの自宅を平民に貸し出して、アーケードを経営しているのですよ。カフェがありましてね。そこで弁護士やら司祭やら、はたまた女まで政治や思想を語るそうですよ。今じゃ、新しい話を聞きたいのならそのカフェ【エスカル】へ行けと言われるほどです」

新聞や政治の話はオリビエには遠い世界だった。
メイドたちの噂や、茶会の席の客たちの会話からちらちらとうかがい知る程度で、あまり興味もなかった。

「そうですか」
オリビエの感想がそれだけと知るとルグラン市長はうっすら笑って被っていた帽子を取った。
「失礼、今朝早かったのでね」
帽子を顔にかぶせ、眠ってしまった。

政治や思想。
自分とはもっとも無縁なものに聞こえる。

オリビエもまた揺れる窓に肩を預け、眼を閉じた。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ③

第四話:思想の騎士、ファリの街



この国には二つの権力がある。
教会と貴族だ。
そしてその頂点に国王がいる。

数百年前に当時の国王が神に似た存在であると自分を位置づけてから、国王を頂点とした身分制度が確立された。大まかに身分制度を説明すれば、国王のすぐ下に司教会に属する司教たち、そして貴族。その下には平民と農民がある。

司教とは貴族の家系から聖職者になったもののことで、同じ聖職者でも司祭は平民と同じ扱いであった。
貴族の特権は、「租税を納めなくて良い特権」があることや、「領地を持つ特権、その領地から租税を徴収する特権」などだ。細かいものになれば、帯剣の特権、家紋の特権、風見鶏の特権、狩猟の特権などもある。

人々は教会からの租税と、領主からの税、そして国税。三十の苦役を担っていた。
これらは小作農民や貧しい町民にとって重圧であった。

このところ発展してきた工業を経営する商人、弁護士や医師など、平民でありながら下級の貴族より資産を蓄えるようなものも現れていた。彼らはブルジョアと呼ばれ、下級貴族から特権を購入する裕福なものさえいた。

宮廷はここ数年、新大陸の独立戦争へ派兵したり隣国と競って新たな港を建造したりするなど浪費が続き、国庫は破綻しかけていた。
その上、昨年は酷い干ばつで、農村では餓死者も多いという。
オリビエは噂と今目の前に見える農村の風景を比較していた。

昼下がりの黄色い日差しの下、麦畑は緑色の穂を揺らした。人気のない田舎道。道の脇で牛を引いた老人が一人、オリビエたちの一行が通り過ぎるのをじっと待っている。その小さな姿はすぐに流れ去っていく。

東にはアウスタリア国の高い山々が真っ白い峰をそびえ立たせている。
このエスファンテ市は平地が多く、穏やかな気候と綺麗な水がある。昨年の干ばつでも侯爵が広い領地から徴収した麦の一部を村々の農民に配給した。
各地で起こっているという農民一揆の噂も身近ではない。
思想家が集会を開くような街でもない。遠い首都で始まろうとしている議会のこともオリビエにとっては他人事だった。


「ああ、すごい!」
何度目かのオリビエのため息にルグラン市長は髭を揺らして苦笑いする。
「ファンテル卿、子どものようですな」
「あ、でも、見たことないですよ、こんな美しい建物があるなんて!やっぱりファリはすごいな」

オリビエは馬車が駆け抜ける町並みに感動していた。道が石畳になったときには驚きと共にその振動に閉口していた。それでもファリに近づくにつれ増えていくアパルトメントや豪華な飾りのついた聖堂、赤く塗られた酒場の扉にも感心する。

通りでは馬車が群を成してすれ違う。そんな光景は見たことがなかった。

そして今、招待されたロスレアン公の屋敷で馬車を降りてオリビエはもう一度。すごい、を口にしたのだ。

「オリビエ、疲れたわ、手を引いてちょうだい」
アンナ夫人の声が響くとルグラン市長は下卑た笑いを浮かべ、肩をすくめる。そそくさとオリビエのそばから離れて馬車から荷物を降ろしている下男に声をかけていた。

侯爵はとそちらを伺えば、婦人のよき夫である侯爵は丁度ロスレアン公の執事の挨拶を受けているところだった。すでにこちらに背を向け、侍従長のビクトールを従えて案内に従って母屋の正面へと歩き出している。通常ならその隣に夫人も寄り添わなくてはならないのでは。婦人もそれに気付いたらしく、立ち止まるとオレンジのドレスを翻す。
が、彼女の視線は高く。
壮麗な母屋の建物を見上げていた。

空にそびえるような尖塔を持つ華やかな様式の古い建物は、白い壁に新緑の蔦をまとい、風に揺れるそれらは建物が息をしているように見せた。昔のバジリカだというそこには聖なる十字が高く掲げられている。さび付いたそれに白い鳩が胸を膨らませ佇む。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ④

第四話:思想の騎士、ファリの街



現国王の弟に当たるロスレアン公は、ファリの中心街に本宅を持ち、そこを商業用のアーケードに改築して商人たちに貸し出していた。
今ではファリでもっとも有名な【ファレ・ロワイヤル】だ。

そこが、ルグラン市長が言っていた有名なカフェ【エスカル】がある場所になる。ロスレアン公の私有地内であるために警察の目も届かず、カフェでは宮廷を批判するような過激な集会も見過ごされている。もうすぐ三部会が開かれるために共和主義者たちの行動は過熱していた。

遠方からの客人を迎えるにあたり、ロスレアン公の計らいでその騒々しい市街の本宅ではなく、少し離れた郊外のこの別邸を選択したのはそういう理由も想像できた。

アンナ夫人が有名な【ファレ・ロワイヤル】に滞在できなかったことを残念がっていたのをオリビエはふと思い出した。

オリビエは自分の荷物、楽譜の入ったスーツケースを下男から受け取ろうとしていた。
「オリビエ」
いつの間にかそばに来ていた夫人に後ろから腕を回され、受け取り損ねたスーツケースが派手に落ちる。

ガタン!
「きゃ」
「あ、アンナ様……!」

衝撃で口をあけたそれから、幾枚かの楽譜がこぼれた。
「失礼しました、アンナ様、お怪我は」
「大丈夫よ、オリビエ。ジャック、お前が注意しないからいけないのよ!危ないわね!」

下男に八つ当たりする夫人を横目に、オリビエは大切な楽譜を拾い集める。
ふわりと風が吹き、一枚が馬の足元に。

「危ない!」

手を伸ばそうとした目の前に誰かが立ちふさがり、オリビエは顔を上げる。

痩せた鼻筋の通った美青年で、二十五歳くらいだろうか。真っ白な軍人風の上着と金糸で飾られたブルーのチョッキを身につけている。黒い膝下までのブーツときらびやかな赤い房飾りのついた剣を腰につけている。あでやかな金髪がその姿をいっそう際立たせていた。

「危ないよ、君。馬に蹴られたら大変だろう」
「あ、はい。すみません」
背後で夫人はまだ御者と下男に当り散らしている。
甲高い声と馬の鼻息。侯爵の近衛兵がざわざわと乱す中、オリビエは目の前の男をじっと見上げていた。

匂い立つような上品さ、声の調子も笑顔を彩る白い歯も。都会の人間とはこういうものなのかと見とれていた。
「私はエリー。王妃つき近衛連隊に所属している」
「あ、初めまして。私はオリビエ。リツァルト侯爵の楽士です」
差し出された手に、支えられていることに気づいて慌てて手を離した。

「なんだ、まだ子どもじゃないか」エリーという騎士の背後から、背の高い男が覗き込んだ。
「マルソー、失礼だろう。お若いとはいえ、立派な楽士だ」
そうたしなめながらも、エリーも口元が面白そうに笑っていた。

「はいはい。音楽などよく分かりませんでね、隊長殿。ほら、これ」
マルソーと呼ばれた男は先ほどの一枚をオリビエに差し出した。
礼を言って受け取る。二人は「演奏を楽しみにしている」とオリビエに笑いかけ、それぞれの馬にまたがった。
緑の芝の美しい庭に、二頭の馬と騎士が小さくなっていく。
競争する楽しげな笑い声が流れて消えた。


午後には侯爵はロスレアン公と共に王宮へ向かった。

広い屋敷に残されたオリビエや従者たちは思い思いの時間を過ごしていた。オリビエは庭を散歩しようかと思ったが、尖がった鼻の庭師に邪魔だと言われ仕方なく屋敷の広間に入り込んだ。夜のために大勢のメイドたちが準備をしていた。今夜はここで晩餐会。数曲を披露する。そして、明日には王宮の夜会に出かける。

広間の片隅に置かれたフォルテピアノ。新しい楽器だ。
そっと近づくと、鍵盤に触れてみた。
重い。
けれど深く響く強い音。

少し周囲を見回す。メイドたちは田舎者の青年など気にもしないように花を飾りテーブルクロスをかけていく。

オリビエはそっと小さな椅子に座り、鍵盤に手を置いてみる。冷たい感触。一つ一つが指に跳ね返るような弾力。音も跳ねる。
ここでは何もかもが日常と違う。初めて牧場に駆け出す子馬のように、柔らかな美しい牧草を踏みしめ感動する。芳しい香り、日差し、細い足に小さな蹄。
白い子馬はタンポポに鼻を近づけ、小さくかじる。
苦い、でも面白い。
ゆらりと揺らした尻尾に何かが絡む。風か、蝶か。
蝶。白い蝶。それを追いかけ、駆け出して。
そして、どこまでも続くと思われた牧場には。
柵が。


そこで、オリビエの手は停まった。

はあ、と誰かのため息で我に帰る。

見回すと、メイドも侍従たちも、じっと聞き入っていた。
「素晴らしかった」
彼らの中、一際華やかな金髪の騎士と黒髪の男。遠乗りから戻ってきたのか、乗馬用の鞭を脇に挟んでいた。
「惜しいところで終わってしまったように感じたが」

オリビエが立ち上がると観客たちは拍手をし、深くお辞儀を返した奏者に二人の騎士が話しかけたところで波が引くようにそれぞれの仕事に戻っていった。

「俺には力強く感じたけどな」
マルソーと呼ばれた男はぽんぽんとオリビエの肩を叩く。
「丁度、茶でももらおうと思っていたところだ、お前も一緒にどうだ」


庭に出された小さなテーブルを囲んで三人が座る。エリーが頼んでいたのか、メイドがポットに入れた熱い茶を運んできた。
その脇に見知った菓子の姿を見つけて、オリビエは数回余計に瞬きをする。キシュのために焼いてもらったものだ。
すかさず「食べろよ」とマルソーに笑われた。
「いえ、そういうわけでは…」

「ここの料理はどれも美味い。さすがロスレアン公だ。身の回りに置くもののセンスがいい。君を呼んだのも分かるね。君の音楽は自由な思想を感じる」
「また思想の話か、エリー」
「そういうが、結局お前が一番熱く語るんだろう?マルソー。たまにしつこいから、カフェにでも押しやってやりたいと思う」
カフェ、とはルグラン市長が言っていた有名なカフェのことだろうか。

「随分だな、俺はブルジョアたちとは違うさ。あんな口だけの奴ら、外国の思想を持ち込んであたかも自分の言葉のように語ってみせる。新しい情報や、貴族と国王の悪口を並べ立てる。気分のいいものじゃないさ」
「どちらにしろ、犠牲を払うのは貧しいものだな」
「ああ」
二人そろって同じタイミングでカップを口に運ぶのを、オリビエはじっと見ていた。

思想。
思想のことはよく分からないが、彼ら二人が何か同じことを考え、意見を共にしている同志なのだと分かった。
それが少し羨ましいとも感じた。
ふと、エリーと目があった。
美しい騎士は組んでいた足をさらりと組みかえる。

「どうした?君は政治や思想に興味はないのかな」
二人の期待を感じて、オリビエは戸惑った。
膝の上におかれたままの手を握り締めた。

「あ、はい。あまり、あの。世の中のことを知らなくて」

明らかに不興を買ったようだった。
エリーはつまらなそうに小さく首をかしげ、再び目の前の同志を見る。マルソーは哀れみすら浮かべ「ま、やっぱり子どもってことか」と笑った。

「どうなっていると思う」
エリーはマルソーに話しかけ、マルソーもその言葉に表情を引き締めた。
「王も大胆なことをなさった。三部会など。まとまるはずもないだろう。また、ブルジョアたちはうまい事をしたさ。人数が倍となっては、僧侶たちの動き次第になってしまった」
「なんだ、お前はどこの味方だ」エリーは笑う。
「さて、俺はこの国の味方さ」
肩をすくめ茶を飲み干すマルソー。二人はひどく大人で、立派に見えた。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ⑤

第四話:思想の騎士、ファリの街



オリビエは黙って、意味の分からない二人の会話を聞いていた。
三部会。もちろん、噂は聞いたことがあった。新しい徴税制度の審議のために貴族、僧侶、平民の三つの身分から代表が選出され議会を開くのだという。
だが、議員を選ぶ選挙には参加できなかったし、また、それに関わることを侯爵はひどく嫌った。

「お前の仕えるリツァルト侯爵も議員の一人だろう?」
不意にマルソーに話しかけられ、オリビエはびくっと顔を上げた。
いつの間にか、うつむいて小さくなっていたらしい。

く、とエリーが笑う。金の髪と彫像のような顔が西日に眩しくて、オリビエは何度も瞬きした。
「おい、口が利けなくなったのか」
「あ、いいえ。侯爵はその、三部会のお話はお嫌いです」

侯爵が議員だとは知らなかった。

知らなかったという事実を伝えれば、さらに二人に馬鹿にされる。そう思うと、口は重くなり中途半端な説明で終わる。

「ふうん、あの人もロスレアン公と親しいからね。侯爵は貴族身分の議員だ。平民に同調すれば議決を左右する鍵になりうるな。分かっていてここに招くロスレアン公も、なかなか」
エリーは面白そうに顎に手を当てた。
「ロスレアン公が議会と平民を利用して王位を狙う、という説もあながち間違っていないだろうさ。リツァルト侯爵も堅い人だからな、そうそう自分の思想を明かすはずもないか。で、オリビエ」
「あ、はい」
マルソーはオリビエの目の前の皿から、菓子を一つつまむと口に放り込む。
「お前、いくつだ」
「あの、十八です」
マルソーはぶっ、とむせた。

「なにか、おかしいですか」
さすがにそれは失礼だろうと思う。
政治のことも思想のことも分からないが、そこまで馬鹿にされる必要もない。
「失礼します」
立ち上がると、オリビエは一礼した。
まだ、マルソーは笑い続けていた。
エリーはただ黙ってオリビエの後姿を眺めていた。


悔しい。
世間知らず。自分がこれほど不甲斐なく感じたことはなかった。
一人になれる場所がわからず、離れの中を歩き回っているうちにアンナ夫人と出くわした。
真っ赤な唇が嬉しそうにほころぶ。
「オリビエ、あら、どうしたの。不機嫌ね」
「は、いえ。あの」
夫人はきょとんとした。
「あの、有名な喫茶店。エスカルでしたか。そこに行ってみたいのです」
とたんに目を輝かせ、夫人は薔薇の香水を匂わせたまま青年に張り付いた。
「楽しそう!噂に聞いたことがあるわ!」

夫人は退屈しのぎに買い物にでもと考えていた。青年を連れて行けば二人きりで楽しい時間を過ごせるというもの。有名な【ファレ・ロワイヤル】には商店もそろっている。
「あの、私一人で、行きます」
オリビエは慌てた。言葉が足りなかった。まるで婦人を誘ったような格好になった。それはまずい。

「あら、それは許されなくてよ」
アンナ夫人は少女のように口を尖らせて見せる。上機嫌なのだ。
「危険かもしれませんし」
オリビエがいつになく力強い口調で否定しようとするが、夫人には逆効果だ。
「あら、心配してくれるの。優しいわね」
返って嬉しそうだ。

アネリアの一件以来、オリビエは夫人を避けていた。屋敷で遠めに夫人を認めてもそばに近づこうとはしなかった。婦人もそれを感じ取っていたのか、以前ほど執拗にまとわりついたりしなかった。二人の間にはこのファリのように真ん中を川が流れ、互いに向こう岸の相手の存在に気付いていながら、渡ろうとはしていなかった。

夫人は川にかかる橋を見つけたのだ。
気まぐれな思い付きだろうが、橋は橋。当然夫人は渡ろうとする。
しかもこの橋は、オリビエがかけてくれたのだ。

夫人はお気に入りのオリビエを飾り立て連れ歩く喜びを脳裏に描いていた。
オリビエの首に両腕を回し、キスをせがむ。
オリビエは顔をそらした。

「オリビエ?」
「奥様は約束を破られました」
「あら、何のこと?」
「…アネリアは、まだ北の牧場にいるのですか」
夫人の顔色が変わった。

「誰のこと?そんな子はいないわ。あ、そうね、もう一年も前に一人修道女になるとかで出て行った子がいたわね。アネリア、そんな名前だったかしら」
「!」
追い出されたのか!
驚いた様子のオリビエに夫人の怒りはさらに増す。

「オリビエ、何を引きずっているのかしら。お前の役割は分かっているんでしょう?子供だったお前を引き取って世話をし、ここまでに育てたのは侯爵様よ。はむかえる立場じゃないでしょう?よくよく、自分の立場を理解するのね。私はお前の指を切り落とすことも出来るのよ。そうなったら、お前に何が残るのかしらね」

オリビエは夫人を突き放した。
よろけつつもぎろりと睨むその顔は獣が牙を向く前に似ている。

「いいこと。お前は私のもの。侯爵様に音楽をかなで、私にキスをする。態度を改めるなら楽器が弾けなくなっても下男くらいにはしてあげるわ。お前に音楽以外で出来ることはそのくらいでしょう?」

駆け出した。
待ちなさい、と叫ぶ声も、もうどうでもよかった。
そのままそこにいたら、きっと夫人を殴っている。

生まれてから一度も、誰かを殴るなどした事はない。死ぬほど憎んだこともない。けれど、目の前にいる赤いドレスの女だけは、その生まれて初めてになりそうだった。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ⑥

第四話:思想の騎士、ファリの街



叫ぶ夫人。
オリビエはぐるぐると屋敷内を走り、庭に飛び出すと門を探した。
繁った木々を抜ける。

美しい庭に降り注ぐ昼下がりの陽光。幸せだったアネリアとの時間を髣髴とさせる。横目に見ながらまたどこかの貴族が到着した様子の正門にたどり着いた。

到着したばかりの馬車の脇を抜け、門にたどり着くが二人の男が立ちふさがった。
「通してくれ!僕は外に出る。少し、出かけるだけだから、だから!」

傍らで馬車の主らしき太った貴族が憐れみの声を上げている。

オリビエは二人の間を抜けようとするが、腕と肩をつかまれて身動きが取れなくなる。
「どうか、落ち着いてください」
衛兵は青年をなだめようと、肩に手を置く。
背後から侯爵家の従者長ビクトールが駆け寄ってきた。
「オリビエ様!どうか、お待ちを!」

「捕まえて縛り付けておしまい!命令よ、身動きできないようにして私の前に引きずってきなさい」
侍従長の後から夫人の怒鳴る声が聞こえた。

まあ、と呆れたように客人の奥さんだろう女性が口を覆った。

侍従長のビクトールが、どうか落ち着いてください、あなたのお気持ちは分かりますから、と背後から抱きとめる。
拳を握りしめ小さく震えるオリビエに同情の視線を向け、ビクトールの荒れた手がオリビエの手を覆った。
そのがさがさとした感触がアネリアを思い出させた。

「お前も、知っていたんだろう?アネリアのこと…私をだましたのか?」
「!申し訳ありません、あの時はそうするしか」

「耐えられない、私は」
ビクトールを突き放そうとした時、肩をポンと叩かれた。
痛いほどのそれに振り向くと、黒髪の騎士マルソーだった。

「なんだ、ここでも拗ねてるのか」
「!そんな、私は」
「ビクトール殿、少しお借りしますよ、散歩のお供にね」
マルソーは強引にオリビエを引き、そばにいた自分の馬にまたがった。
「ほら」
「…あの」
後ろに乗れということだろうが、オリビエには経験がない。
「急がないとご夫人に縛られるぞ」
戸惑いを見せる青年にマルソーは手を伸ばして強引に引き上げた。

ちょうど駆けつけた夫人に「しばしお借りします」と爽やかに笑いかけて見せるのも忘れていない。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ⑦

第四話:思想の騎士、ファリの街



生まれて初めて跨った馬は想像以上に不安定で揺れた。
そのうち、マルソーが肩を揺らして笑い出した。
「お前、女みたいにしがみつくなよ」
「!」
思わず手を離し、落ちそうになってまたしがみついた。
余計に男が笑った。

馬はいつの間にかゆっくり歩き、オリビエはファリの街の眺めを見る余裕が出来たことに気付く。
「お前、男の癖に馬は初めてか」
「はい。侯爵に禁止されています」
「は?」
「乗馬と、剣術を」
「あきれるな。どこのお嬢様だよ」

そういわれても。
返す言葉が見つからず、マルソーの足が鐙の上で静かに揺れるのを見つめていた。
「もう、戻りたくない」

聞こえなかったのか、マルソーの反応はない。

ルグラン市長が言っていたとおり、五階建ての建物が通りを護るように並ぶ。窓辺には花が飾られ、よろい戸の白が眩しい。建物の隙間からのぞく細長い空が、少しばかり黄色く見える。夕方が近づいていた。

今夜、晩餐会で演奏する約束。
それは、本当に演奏するのか、侯爵の言っていた仮病で止めるものなのか。
どちらともつかない。
いいや。
オリビエは首を横に振った。
自分で決める。
演奏は、しない。



マルソーが馬を止めたところは、当然見知らぬ街角だ。通りに面した店の軒下には、真っ赤な木の椅子とテーブルがいくつか並ぶ。街の人たちがくつろぎ、コーヒーを飲んでいた。貴族風の人もいれば、僧侶らしき人もいる。
鋳物の看板には、「エスカル」と掲げられていた。

マルソーはにやりと笑いかけ、オリビエを中に連れて行く。
マルソーの知り合いらしい数人が声をかけ、男は愛想よくそれに応えた。
「なんだ、今日はまた若いのを連れてきたな。お前の部下か」
でっぷりとした店長らしき男が黒いエプロンで手を拭きながらオリビエに笑いかける。
「こんにちは」
青年の挨拶に男はリンゴのような頬をにっこりとさせ、パイでも食べるかいと皿を差し出してくれた。
マルソーと並んでカウンターに座ると、オリビエは落ち着かずに周りを眺めた。
思った以上に広い店内。硝子のはまった南面の窓から傾いた日差しが差し込む。日陰になった場所では黒い背広姿の数人の男たちがテーブルを囲んで何か話し込んでいる。
カウンターの右隣でも、二人の男が真剣に何かを話していた。二人の手には新聞らしきものが握られていた。
「ほら、冷めるぞ」
マルソーに背を叩かれ、目の前に飲み物が出されていることに気付く。

「あ、はい。あの、僕何も持っていないんです」
マルソーが変な顔をした。
「現金を、持ったことがなくて」
「は?」
男の黒い瞳が丸く開かれるのを、オリビエは頬が熱くなるのを感じながら見上げた。
「すみません。両親がなくなってから、すべて侯爵に預けてあって、それでも不自由しなかったので」
「あー」
マルソーの手がガシガシとオリビエの頭をなでた。

「わかったぞ、お前。そうか。おい、ベッツ親父、こいつに乾杯だ。今日、こいつは人間になった!」
「え?」
「なんだそりゃ、マルソー」
カウンターの向こうで店主が笑った。
「侯爵家の飼い犬だったのさ、それが今日、初めて飼い主に噛み付いた!記念すべき日だ」
「か、噛み付くなんて」
マルソーの大声に、慌てて止めようとするが、あちこちから笑い声とおめでとう、という声が聞こえる。
振り向けば、大勢の客たちと目があった。

「ぼうや、晴れて野良犬かい?」
誰かが言うと、皆が笑った。
「いいぞ、自由は!」
自由に乾杯!とどこかでまた声が上がり、皆いっせいに杯を掲げた。
「自由に!」
叫んだ一人が熱く何か政治の話を語りだし、そのテーブルに立った男を皆がじっと見つめる。話に聞き入る。
「自由とは、生まれながらにして誰もが持つ高貴なる権利!」
そうだろう!と男が同意を求めれば、店内の客が皆、そうだ、そうだ、と沸き立った。
酒を飲んでいるわけでもないのに、オリビエの頬は熱く火照った。
マルソーに肩を押され、再びカウンターの椅子に座ると、腹にたまった熱いため息を吐き出した。

「いいのか」
マルソーがにやりと笑ってみせる。男はいつの間にか煙草をくわえていた。
思わず煙を吸い込んでむせ、オリビエは自分が乗せたくせにと眉をしかめた。

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ⑧

第四話:思想の騎士、ファリの街



「このまま、オリビエ。お前が戻らなければ、侯爵はどうするんだろうな。今夜はともかく、明日は王宮でのお披露目だ」
そこまで知っていて、マルソーはオリビエをここに誘ったのだ。

ロスレアン公は侯爵と友人だ、今夜くらいは大目に見てもらえるだろう。けれど、宮廷はどうだろう。国王の謁見、さらに御前での演奏を許したのだ。普通なら断るものなどいないはずで。それを断れば侯爵も何かしら咎があるかもしれない。ぞくりと、オリビエはこわばった。

侯爵が言っていた、仮病作戦は本気だったのかどうか。それも分からない。

青年がキッシュをフォークに乗せたまま忘れているのをマルソーは目を細めて見ていた。オリビエの決意を、試そうというのか。公爵夫人の手から逃れたいと願った青年の決意がどれほどのものか。その自由のために何を代償にできるのかを。

「二度と、楽器を弾くことは出来ないかもな」
マルソーは意地悪く笑って見せた。
「……」
オリビエは口を固く結んだ。ここで挫けたらさぞかし馬鹿にされるのだろう。思想もない、世間も知らない。十八の癖に自分の意見も持たず、自分で自分の行動も決められない。情けない男。
エリーが白けた様子で眺めていたのを思い出す。
話にもならない。
そう、決め付けられた。
僕は。

小さな振動が目の前のグラスの水を揺らした。

オリビエの指先が小さくテーブルをたたき、見えない鍵盤を探しているのを、マルソーが気付いた。
「オルガンならあそこにあるぞ」
オリビエは気付いて、慌てて拳を握り締める。音になろうとする思いを握りつぶす。
目をつぶって首を横に振る。

「…おかしな奴だな」
マルソーは目の前の酒を一気に飲み干した。
ついでにオリビエの目の前のパイをしっかり口に突っ込んだ。
「新聞記者は記事を書いて主張する。弁護士は言葉を操る。俺は口ではない、行動として思想を護る。お前は音なんだろう?音で自分を語るんだろう。それを否定してどうする」
「音楽を続けるには、侯爵様の庇護が必要です」
それが現実だ。
「…ふざけるな」
マルソーの口調が低く不穏なものに変わる。それでも、オリビエにはそれしかない。
「僕には、音楽以外何もない。家も土地も、この服も、すべて侯爵様のものです。…いいえ、僕の音楽もすべて。…侯爵様の、もの」
「お前、バカか!歌おうとすれば誰でもいつでも歌える!語りたければ口を開く。自由になりたければ立ち上がれよ。自分に足があることすら忘れたというのか?」

オリビエは唇を咬んだ。
臆病なんだ、僕は。
何よりも、この手が鍵盤を弾けなくなるのが怖い。
両親が僕に残してくれたこの手が。

「立ってみろよ、おい」
すでに立ち上がって激昂している男が、強引にオリビエを立ち上がらせた。

周囲も珍しいマルソーの怒鳴り声に会話を止め、二人を見守っていた。店主が、小さくマルソーさん、となだめるが。
「もう一度言ってみろよ!お前。お前の音楽すら、侯爵のものだってのか!ええ?」
オリビエはどうしていいのか分からなかった。
ひどい騒音のようなマルソーの口調に耳を塞ぎたかった。
頭のどこかで、あの時演奏した両親へのレクイエムが静かに流れる。
「何とか言えよ!」

次へ♪

「音の向こうの空」第四話 ⑨

第四話:思想の騎士、ファリの街



オリビエの細い白い顔がうつむくと、余計に小さく見えた。
「おい、マルソー、子ども相手に熱くなるなよ」
同じカウンターにいた男が助け舟を出す。

「子どもじゃないぜ、こいつ十八なんだぞ!十八年も生きて、何を学んできたんだ!」
船は明らかに転覆した。
十八か、と驚く周囲のざわめき。

波間でオリビエはさまよっていた。
「どうしろと」
「なんだ?」
「僕に、どうしろというんですか!僕…は、音楽を続けたいんだ!自由じゃない、恋人だってなくした、それでも、音楽だけはなくしたくない!」
「じゃあ、音楽はお前のものだろうが!」
どんと、背中を押され、オリビエはよろめいて近くのテーブルに手をついた。

「ほら、弾いて見せろよ!お前の音楽だろ?それすら侯爵のもんだなんて言うな!お前にはお前の生き方があるだろう!音楽のために何もかも犠牲にするならそうすればいい!だがな、それすら自分から捨てるようなら、生きてる意味なんかないだろうが!思想がなくたってな、世間知らずでもな。それでもお前には音楽があるんだろ!胸張ってろよ!だからエリーが呆れるんだろうが!」

オリビエは睨み返した。
だまって、店の隅においてあったオルガンに向かう。
小さな、古ぼけたオルガン。
それでも、木の鍵盤に手を置けば、自然と指が動き出した。

たった五オクターブしか並んでいない鍵盤。限られた数の音。
だがそれは男たちに見たこともない景色を見せた。

ほんの数分だった。しかし、自由を見た気がしたと誰かが言った。

手に取ったことも、心から勝ち取った経験もない自由を希う。
力強い勇気をもらったと誰かが語った。

この店が、これほど静まり返ったことはかつてなかった。
同時にこれほど一つになったこともなかったと、この夜の出来事はそう語り継がれることになった。


また、是非きてくれと何度も店主に言われ、オリビエは複雑な面持ちで店を後にした。

演奏を聴いて以来、黙っていたマルソーは、オリビエを馬に乗せた。
「…あの」
僕はどうすればいいのだろう。
「お前、侯爵に頭を下げろ。俺も、協力してやる」

「え?」

先ほどまで、自由になるべきだと叫んでいたマルソーだった。
あれほど、侯爵に縛られるオリビエに怒鳴りつけたのに。
「どういう、ことですか」
「…聞いて、理解した」
「何がですか」

しばらく、考えて。黒髪をぽりぽりと掻くと、マルソーは「はあ」と息を一つ吐いた。
「悪かった。お前の音楽な。価値があるんだ」
「…」
「侯爵が、お前を抱え込みたい気持ちが分かっちまった。宝物みたいなもんなんだ。だから、侯爵はお前を護り続けるだろうし、お前から音楽を取り上げるようなこともしない。独り占めしたい気持ちがさ。分かっちまった」
オリビエはなんとなく納得できず、黙り込んだ。

「音楽は絵とは違う。画家がいなくても絵画は残る。だが、お前の音はお前しか奏でられない。いつでもお前がいなくちゃ聞けないんだ。だから怪我なんかさせない。そのために乗馬も禁じるさ。その侯爵の気持ちが分かっちまった。幸せだろうな。侯爵は」
「意味が分かりません」
「自分のためだけにお前の音を聞けるんだ。これほど贅沢で、幸せなことはないだろう。出し惜しみの侯爵。だろうな。お前が王宮で演奏すれば、間違いなく国王が欲するだろう。演奏させるはずがない」
「!」
「だろう?」
オリビエはうなずいた。
「病気になれと、言われています」
「くっくっ」
面白そうにマルソーは笑った。
「あのリツァルト侯爵が。どうせ仏頂面でニコリともせずに言うんだろう。お前は病気になれ、と」
「ええ」
「お前、見失うなよ」
酔っているのかマルソーの言葉はあちこちに跳ね回る。つじつまが会っているのかいないのかもよく分からなくなる。

「…だから、意味が分かりませんよ。マルソーさん」
「お前にとって何が大切か、だよ。これからの時代。侯爵をはじめとする貴族は大変だぞ。時代は変わりつつある。今のままじゃ行かない。みんな、時代の勝者になろうと懸命なんだ。だから、あの店にもいろんな奴らがいただろう。皆怖いんだよ。少し前に、新大陸で母国から独立して一つの国が興った。新しい考え方なんだ。国民のための国、政治。その考えに感化されて皆自分に都合のいい未来を思い描いている。今の国のあり方じゃ、皆が飢え死にさ。だから、変わらざるをえない。変わったときに、自分がどうなるのか皆分からない。怖いのさ。自分が今いる場所が、地位が、安全とは限らない。いつ沈むか分からない船の中で、走り回るネズミにおびえているんだ」

オリビエは黙って聞いていた。
二年前にこの国が派兵した、新大陸の独立戦争。そこで人々が勝ち取ったのは、自分たちの国を作る権利。生きる自由。
その思想が、この国を含め周辺の国々に及ぼした影響は大きかった。

「いいか、オリビエ。改革をうたう輩が必ずしも成功するわけじゃない。金持ちや貴族が必ずしも幸せじゃないようにな。お前は、一つ大切なものがある。それはお前にとっても宝物だ。それがあればお前は幸せなんだ。それは素晴らしいことなんだ。分かるか?お前は、いつでも自分の音楽を続けられることに精一杯努力すればいいんだ。政治に加わる必要なんかない。思想をもつ必要もない。お前は一つの宝を大切にするんだ」
「マルソーさん…」
「お前の曲を聴いて、俺はそのことに気付いた。自由が幸せなんじゃない。第三身分の議員連中は皆自由こそが幸せの近道だ何て抜かすが。違うんだ。なあ、そうだろう?そんなものにも影響されない。お前の音楽はそんなこと関係ないんだ。そうだろう。そういう生き方、そういう幸せもあるんだ。俺は、感動した。お前は俺に新しい考え方を教えてくれた」
「マルソーさん」

「お前の生き方そのものが、どこに出しても引けを取らない立派な思想なんだ」
わけが分からないが、とにかく、何か認めてもらったようだ。

オリビエは暖かい男の背にしがみついていた。
マルソーはもう、それを女のようだとは笑わなかった。

市街から河を一つ隔てた高台の土地にロスレアン公の城がある。大きな共同住宅が立ち並ぶ町を抜け、暗い中にもガス灯が並ぶ川岸を眺める。川面に青白い蛍のようなそれがはかなく揺れる。湿った空気にオリビエは少しばかり身震いした。

第五話は7/14公開です♪

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「音の向こうの空」第五話 ①

第五話:切り取られた空



城門を抜けると、オリビエは礼を言って馬を下りる。

母屋まではまだ距離があったが、慣れない馬に揺られ尻が痛んだ。
そう伝えるとマルソーも笑って馬を下りた。

黒毛の馬を門番に預けると、騎士はまだ少し残る酔いを振り払うように何度も髪をかき上げていた。

母屋まで歩きながら、オリビエは両親のことや侯爵に引き取られたときのこと、アネリアを失った経緯等をぽつぽつと語った。
マルソーは黙ってそれを聞き。時折青年の背を優しく叩いた。

「それでも…僕は、音楽を奏でられる。そうして生きていける。飢饉のために農村では餓死者も多いと聞きます。僕は幸せなんです」

結局、何をどう考え悩んでも、その答えに行き着くことをオリビエも分かっていた。
自分に言い聞かせるように話すと、そうだなとマルソーは笑った。後押しされるようで心強く感じた。


邸内ではすでに晩餐会が開かれ、ロスレアン公が雇った音楽家たちが室内楽を演奏していた。バイオリンの緩やかな調べと貴族たちのダンス。大広間は煌びやかな時間が流れる。

マルソーは、客人用の控え室へとオリビエを連れて行こうとした。
大広間の脇を過ぎ、隣室へ向かう廊下でグラスを持ったまま数人の女性を引き連れるエリーと出くわした。
「お、お前のお供は淋しいな」
エリーがからかうようにワインの入ったグラスを掲げて見せる。マルソーはにやりと笑い返し、オリビエの肩に腕を回して引き寄せて見せた。
「おやおや、我が友は変わった趣向を持ったようだ」
「こいつの演奏はどんな女より魅力的でな」
片目をつぶってみせるマルソーにエリーは肩をすくめ、理解できないという風に首を振った。
「オリビエ、侯爵が仏頂面だぞ。いつも以上にな」
エリーの忠告はオリビエの顔を引きつらせた。
「ほら、見つかった」

エリーが彼らの背後を見つめ、その視線の先を追ってオリビエが振り向く。
肩に置かれたマルソーの腕が慌てて離れた。

談笑する人々の間を真っ直ぐこちらに向かってくる。
リツァルト侯爵は噂では北の民族の血が流れているといわれ、一際背が高い。がっしりした体躯は遠めにもすぐにそれと分かる。元軍人。折り目正しい姿勢と歩き方。酔って揺らめく周囲にあって異質だ。
オリビエを見据えたまま歩く侯爵に、幾人かが慌てて道を譲る。何事かとその行方を見つめる。

「こ、これは、侯爵、ごきげん…」マルソーが固い笑みを浮かべ挨拶を述べようとしたときには、侯爵の両腕がオリビエの肩をぐんと押さえつけていた。

深い緑の瞳に睨まれ、オリビエは凍りついたように目を見開く。
視線をそらすことが出来ない。
これほど、怒りをあらわにした侯爵を初めて見た。殴られるのかもしれない。
瞬きも出来ず、オリビエはただ次第に潤む瞳で懸命に男を見上げていた。

「マルソー、酒も飲めない子どもを酔わせるとは。今夜はロスレアン公に演奏をお聞かせするはずだったのに、これでは弾けまい」

マルソーも、傍らに立つエリーも二の句が継げない。もちろんオリビエは酒など飲んでいないが、否定の言葉はぐるぐると喉の奥で空回りするだけだ。

侯爵は真っ直ぐオリビエを睨みつけたまま続けた。

「こんなに冷え切って、顔色も悪い。ビクトール、オリビエを寝室に」

侯爵の背後に控えていたビクトールが侯爵に突き出されるようにされてよろめくオリビエを引き受ける。二人が廊下の奥に消えていくのを見送ると、唖然とするマルソーを振り返り、リツァルト侯爵はにらみつけた。

「王妃つき近衛連隊の騎士がこの時期に【エスカル】とは。どこにでも目はある。気をつけるのだな。隊長のエリーにも迷惑がかかろう」

「お前、行ったのか」エリーも眉をひそめた。

「ご忠告、痛み入ります。エリー、少し休憩しただけさ。喉が渇いてな」
マルソーは悪びれる様子もない。

王妃は【エスカル】も、そこに集る者たちも、そしてそれを作ったロスレアン公をも嫌っていた。下手な噂を流されるのは、得策とはいえない。

侯爵はさらに続けた。
「今夜のカフェでオルガンを弾いた若者がいたそうだが。知り合いかな?」

オリビエが言っていた。侯爵は他で演奏することを良しとしないと。

広間のダンスの音楽が静寂に響いた。
エリーもその周囲にいた貴婦人も、二人の様子をただ見比べるだけだ。

マルソーは高圧的な貴族を嫌う。もともと平民の出身。同じ一平卒からたたき上げでここまで来たエリーも男の気質をよく理解している。
ここでマルソーが憤れば、どう庇うべきかとエリーは身構える。

「……いいえ。名もない奏者でしたが。この世に二つとない名演でした」

マルソーが穏やかに笑って見せると、侯爵は目を見開いた。

「惜しかった。名を聞いておけばよかった」
さらに続けるマルソーに侯爵は一つ息を吐き、もうよいとつぶやいてその場を去った。

聞こえてくる広間のざわめきが、止まった時間を取り戻し彼らを包んだ。エリーは女性たちを残し、通りかかった給仕の盆からワインを一つ手に取ると、親友に手渡す。

「…マルソー、何があったのだ。白状するまで放さないぞ」

エリーが男の首に腕を回し、晩餐会の会場へと引っ張っていった。マルソーは笑いながら、あの感動をどう親友に伝えようかと言葉を探り始めていた。

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「音の向こうの空」第五話 ②

第五話:切り取られた空



「大丈夫ですか、オリビエ様」

ビクトールが寝室まで案内し、部屋の明かりをつけてくれた。三つのろうそくを立てた小さなシャンデリアが二つ天井から下がっている。
ベッドの脇のテーブルにも一つランプが置かれた。

壁の片側にあるクローゼットには、アンナ夫人が揃えさせた色とりどりの衣装が並ぶ。真っ赤な上着の一揃えが目立つように壁のフックにかけられていた。明日、王宮へ行くためのものだろう。

「アンナさまは、歪んだ形でしか、愛情を表現できない方です。不器用な女性です」
衣装の袖を持ち上げてしげしげと眺める青年にビクトールが声をかける。
「…それでも、僕は」
「侯爵様は、もう何年もアンナ様と床と共になされていません。奥様は、お淋しいのですよ」
それは、相手をしてやれということか。

貴族のそういった部分は乱れきっていた。国王すら寵姫を正式に囲う時代だ。貴族たちの間でもそれは当然のことだ。アンナ夫人は退屈しのぎに若いオリビエを誘惑する。雇われ人であるオリビエがそれに従うのも仕事のうち。そう、考えるものがいるのも確かだ。

「だからって…僕はあの人の言いなりには、なれないよ。侯爵を裏切るのは、嫌だ」
「オリビエ様。アンナ様にはお子さんがおられません。その寂しさもあるのです。どうか、奥様に優しいお言葉をかけてやってください」
「ビクトール!お前だってアネリアを娘のように可愛がっていただろう!そのアネリアを追い出したんだぞ!それでも夫人の味方をするのか?」
「仕方ないのです。アネリアは、夫人にあなた様とのことを聞かされ、逆上した。夫人に手を挙げたのです。それは、してはならないことだった。追い出される前に、あの子は自分で飛び出していった。私が止めても、あの子はもう聞かなかった」
オリビエは深くため息をつく。
「もう、いいよ。何が本当なのかも、僕には分からない」
ベッドに腰を下ろした青年に、ビクトールは一礼し、部屋を出て行った。

夫人に忠誠を尽くしビクトールはあんなことを言うが、今頃夫人は大好きな晩餐会で大勢の男に色香を振りまいているのだ。

オリビエは襟元のリボンを解くと、新鮮な空気を吸いたくてバルコニーに出た。
夜風の向こうに遠くファリの街の灯が揺れていた。


翌朝、オリビエが目覚めた時には陽が高く昇っていた。
結局あの後、体を拭いてすぐに眠くなってしまったのだ。旅の疲れもあったし、慣れない乗馬や街の雰囲気に酔っていたのだろう。けだるい目覚めに、朝食を運んできたメイドが心配そうに何度も大丈夫かと尋ねた。

朝からにぎやかな声が響く中庭を眺めてみたが、普段経験のない窓の高さにめまいがした。なにやらこの城の主、ロスレアン公が出かけるようだ。二頭立ての馬車が門に向かって進みだした。夜には分からなかったが、オリビエに与えられた部屋は五階だった。

「この辺は夜になると川風が吹きますからね。夜風に吹かれると、思っている以上に体が冷やされるんですよ。オリビエ様、そのように薄着ではお風邪を召されますよ」
心配そうなメイドがふっくらした手をオリビエの額に当てた。
オリビエが朝食をほとんど食べていなかったからだ。
結局、熱があると言われ、オリビエはそのままベッドに横になるように言われた。

侯爵が狙っていた通りじゃないか。

医師が呼ばれた頃には、悪寒に身を震わせていたが、内心オリビエはホッとしていた。いくら侯爵でも、国王陛下のお召しに仮病はまずいだろう。これなら誰にも疑義を挟む余地がないはずだった。

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「音の向こうの空」第五話 ③

第五話:切り取られた空



数時間横になるうちに、オリビエの思惑とは裏腹に、熱は下がり気分も良くなっていた。
昼前には目が冴えて寝ているのが苦痛になる。何度もベッドで寝返りを打ち、うとうとしては演奏会の夢を見る。

昨夜の晩餐会で遅くなったのか、アンナ夫人が起きてきた。足音で分かるのだ。今、扉の外に立つ。そしていつもノックもせずに開くくせに、一つ二つ息を整える。まるで走ってきたことを悟られまいとするように。
それもすべて耳のいいオリビエには聞こえているのに。

いつもの通り澄ました顔つきで入ってくる。まあ、私の忠告を無視した報いだわ、と冷たく言いながら。
オリビエが身を起こしたところにしがみつく。まだ少し、酒の匂いをさせていた。

しどけなく開いた胸元に誰がつけたのか小さな赤いしみを見つけ、オリビエは目をそらした。この人は、寂しさを紛らわすためなら何でもするのか。

「オリビエ、昨日はひどいことを言ったわ、ごめんなさい」
珍しいことだった。
夫人が、自分の態度について謝るなど。

「私、あれからずっとお前を待っていたのよ。ねぇ、お前の曲を聞かせて欲しいわ。侯爵様もロスレアン公も、皆様パレードにお出かけなのよ。私一人置いていかれてしまったわ」
「パレード?」
「そうよ。なんでも、明日から開かれる議会のために、サン・ノルト寺院からファリの大通りを通って議場のあるモリノ公会堂まで議員たちが行進するんですって。全部で千人以上もいるそうよ。ファリではそれはもう盛り上がっているんですもの。私も観たいと思っていたのだけれど、男性の方々は皆ご公務があるでしょ?ね、オリビエ、あなたも観たいと思わない?」
甘えるようにオリビエの胸に額を擦り付ける。
ああ、目的があるから素直に謝るんだ。
まだ少し寒気がしたが、パレードに興味がないわけではない。

「アンナ夫人、ビクトールか衛兵を一人頼みましょう。私もファリは不案内ですし、大勢が集るのなら本当に危険かもしれません」
「一緒に行ってくれるのね!嬉しい」
もう一度ぎゅと抱きしめられ、香の余韻に視界がぐらぐらした。


ファリの街を真っ直ぐ横切る大通りはパレードの行われる少し手前で封鎖され、彼らの乗った馬車も止められてしまった。

警備のスイス衛兵に様子を聞き、通りの脇の建物の二階にあるカフェを教えてもらった。考えることは皆同じらしく、混雑する狭い階段を昇る。

踊り場でやり過ごせればいいが、そうしていてはいつまでたっても先に進めない。思い切って昇れば、すれ違う人々とまるでダンスを踊る時のように触れるか触れないかという状態だ。

体の大きなビクトールは迷惑そうに睨まれても当然とばかり夫人を庇う。街の男と喧嘩になりかけ、オリビエが取り成して頭を下げなければならなかった。階段を昇りきると小さな店の古ぼけた扉があった。暗がりから扉を開くと、通りに面した窓が眩しい。すでに詰め掛けた大勢の人の姿が陰だけになって見える。皆窓辺に近寄り、パレードの到着を待っているのだ。

大柄なビクトールに夫人の背後を任せ、オリビエは時折額に手を当てながら、三人が入り込める隙間を探す。窓辺に張り付くようにしている三人の親子がいる。大人が数人張り付いている場所よりは、眺めがいいように思えた。子どもの背の向こうに、通りが見えた。

うなり声のような、どよめきのようなものが聞こえ始める。
「どうやら、来たようですよ」

オリビエが体をそらし、少し後ろにいる夫人が見えるようにと手を引いてやる。
圧倒的な人混みに借りてきた猫のような夫人は目を真ん丸くして首をかしげて外をのぞく。その仕草がやけに子どもじみて見えた。ふと、ビクトールと目が会うと、彼も穏やかな視線を夫人に投げかけていた。

「奥様、肩が冷えますよ」
ビクトールがそっと夫人の乱れたショールをかけなおす。その毛むくじゃらの大きな手にアンナがふと手を添える。白い夫人の手は何気なくビクトールの手の甲をなでるとショールの白に消える。
オリビエは目をそらし、再び窓の外へと視線を戻した。

ビクトールは時折、アンナのことをお嬢様と呼んだ。
侍従長のビクトールはアンナ夫人が嫁いでくる前から侯爵家に勤めている。アンナ夫人がまだ十代のあどけない少女の頃から知っているのだろう。身一つで侯爵家に嫁ぐということがどれほど少女に重荷だったのか、彼は知っている。オリビエが知らないアンナ夫人を知っている。
昨夜、ビクトールが言った言葉が思い出された。

子どもが母を慕うように、夫が妻を支えるように、優しく接して欲しい、と。
本当は、夫人にそうしてやりたいのはビクトールなのかもしれない。

次へ♪

「音の向こうの空」第五話 ④

第五話:切り取られた空



来たわよ!
誰かが叫んで、一斉に店内の人間が一点を見つめる。

人々の熱気にほだされ、オリビエも味わったことのない高揚感を感じていた。
通りの向こうから歓声を引き連れて整った列が進んでくる。先頭は国王の衛兵たちだ。
馬に乗り四列を乱さずに進む彼らは表情を厳しくしたままゆっくりと進んでくる。

大司教や国王、王妃。煌びやかな貴族たちの一団。
その中にエリーとマルソーの姿を見つけた。

「あ、マルソーだ」
そういったオリビエの声も、周囲の声にかき消されている。

大勢の騎士の中にあって、エリーもマルソーも目立っていた。立派な近衛連隊のブルーの衣装に金の房飾り。白い羽が帽子に揺れる。何故だか嬉しくなって盛んに声を張り上げたが、気付くはずもなかった。

「王妃さま、素敵ね」アンナ夫人がオリビエの袖を引きため息をつく。
オリビエは王妃にはあまり興味がなく、言われて初めてソチラを見つめる。高く結い上げた白い髪、華やかなドレス、羽飾りの扇子。孔雀の羽をあしらった貴婦人も見える。それはどうも、オリビエの感覚からは「素敵」ではなかった。

「あ、侯爵様よ」
貴族の列の中にロスレアン公とリツァルト侯爵を見つけ、アンナ夫人は無邪気に手を振った。ロスレアン公は民衆に人気がある。一際声援が高くなるからそれがすぐに分かる。婦人の声が届いたわけではないだろうが、侯爵がこちらを見たような気がした。

「…、あ」
オリビエは昨夜の恐ろしい侯爵の表情を思い出した。
ぞくりと寒気が走る。
医師に反対されながらも出かけてきたことが知れたらまた、なにか言われるだろうか。

「オリビエさま、お顔の色が冴えませんよ」ビクトールが感づいたかのように肩に手を置いた。
「あ、いや。大丈夫」

本当に気分が重くなってきた。一気に興奮が冷め、代わりに悪寒が襲ってきた。

そのとき。通りに詰めかけた民衆とそれを押さえようとする警備の兵。そこから少し距離をおき、興味がなさそうに歩く少女がいた。
黒い髪。白い肌。小柄で、華奢な少女。

「ビクトール、ごめん、ちょっと」
オリビエは慌てて店を飛び出した。
「オリビエ様!」
「オリビエ!?」
青年が何かを見つけたそのあたりに目をやり、ビクトールは表情を厳しくした。


アネリアだ、きっと、あれは。
アネリア。

オリビエはすれ違う人が迷惑そうな声を上げるのもかまわず、階段を一気に駆け下りると、通りを見回した。
確か、あの建物の角辺り。
パレードに夢中の人々の背中をくぐるようにオリビエは走った。

水色のよろい戸の窓の下。
目指す姿。

その少女は建物の陰に隠れるようにひっそりと立っていた。

「アネリア!」

次へ♪

「音の向こうの空」第五話 ⑤

第五話:切り取られた空


薄い紫の短いドレス。胸元はメイドの衣装よりずっと深く空いている。
派手な化粧。まだ十六のはずなのにそうは見せないほど、大人びた目をしていた。

ぼんやりと通りのほうを眺めている瞳が、やっとこちらを捉えてくれた。
「アネリア!」
「!お、オリビエさま!」
その小さな荒れた手を握り締める。
そのまま抱き寄せる。

「会いたかった!アネリア!」
あの日の午後、陽だまりの下で戯れた。柔らかな髪を手ですいて、何度もその首にキスを繰り返した。
柔らかな肌の感触。

「は、放して」

抱きしめる青年の胸元で、少女は拳をドンとぶつけた。
「!」
改めてアネリアの顔を覗き込む。
両手でその頬を包んで。
大きな瞳はそのままなのに。その瞳には嬉しそうな笑みはない。
「相変わらず、綺麗な手ね」
「アネリア…」
「放してってば。その服。奥様の見立てでしょ?ひどいセンスね。人形みたいに着飾られちゃって」

「アネリア」
「私ね、あれからいろいろな男を経験したわ。生きていくには必要だったから。ね、オリビエ、あなたが一番最低だった」

両手から、少女がすり抜ける。
一歩下がって、アネリアはオリビエをにらみつけた。
「追い出された私のことを探しもしないで、自分はのうのうと都見物なんでしょ?案内してあげましょうか?百フラン出すなら手をつないで歩いてあげてもいいわ」
「…」
「…なに」
「すまない。僕は、君のこと護れなかった」
「百フランもないのね。相変わらず、何も持ってない。音楽以外何もなくて、音楽以外何も大切じゃない。私は、奥様に追い出されたんじゃないわ。オリビエ、あなたの音楽に不幸にされたのよ」

なにを言われても、それが本当のことなのだ。
そうしたくないと思っていても結果としてアネリアを不幸にしたのだ。
それを、アネリアが恨むのはむしろ正しいことだ。
オリビエはどうしたらアネリアの気持ちが晴れ、少しでも幸せな気分にさせてあげられるのか、そればかりを考えていた。
荒れた小さな手を見るたびに、愛おしかった。護りたいと思っていた。
どうしたら喜んでくれるのだろう。
「アネリア…僕はどうしたら」
不意にアネリアがしがみついてきた。
「!」
「ねぇ、私やっぱり、あなたが好き。オリビエじゃなきゃいや。一緒に逃げて、ねえ、来て!」
少女の視線はオリビエの背後、青年を追ってきたビクトールとアンナ夫人を見つめていた。

「オリビエ、何をしているの!」
夫人の甲高い声に、オリビエも気付く。
「見ちゃだめ、ねえ、来て!私と一緒に逃げて」
両手を取って引っ張る少女につられて、オリビエも走り出した。

次へ♪

「音の向こうの空」第五話 ⑥

第五話:切り取られた空



遠く背後にビクトールの声。
細い路地の暗がりに走りこみ、すえたゴミの匂いに胃が騒いだ。どこか現実味を感じないのはまた上がり始めた熱のせいだろうか。
強引に引っ張るアネリアの手はひどく冷たい。

五階建ての建物の隙間を縫う路地は、地の底を思わせた。日の光の差さない暗闇の世界。湿った空気が重くのしかかり、オリビエは何度もよろける。
いくつか角を曲がったところで、体勢を保てなくなって壁に寄りかかる。それでも少女は早く、早く、と強引に腕を引っ張った。

「アネリア、分かった、から、待って、ちょっと…」
少女の姿がゆがむ。

「待って…」
息を切らせ、オリビエはその場に崩れるように座り込んだ。
「なあに、どこか具合が悪いの?自業自得ね。これで、お金を持っていたらよかったのに」
アネリアの声が遠ざかる。
「さよならを言わなきゃいけないわ」
「え?」
「ほら、オリビエも、言わなきゃ。楽士オリビエに、さよならってね」

ぼんやりと開いた目に、少女の紫の服が映った。路地に膝をついて、何かを持って。
振り上げる。
少女の足元には割れたビン。

「会いたかった、アネリア」
鉄槌とは、こういうことを言うのだろうか。
アネリアは僕の手に怒りを落とそうとしていた。僕の運命を断ち切ろうというのかもしれない。この手がなければ、僕の人生は変わる。僕と音楽は切り離される。

少女の持つ硝子の破片は、下から眺めると透明で美しかった。

その向こう。建物の隙間で細長く切り取られていたけれど、それは確かに空だ。
あの時、アネリアと寝転んで眺めた昼下がりの空とつながっている。


僕は、涙を流していた。

アネリアを下から抱きとめる。
勢いで振り下ろされたそれが背中に突き立った痛みも、関係なかった。
アネリアはあの時以上に痩せていた。それでも、腕の中の少女はアネリアだった。時を経ても、場所が違っても。僕の中の彼女はあの時のまま、愛おしい。


悲鳴が、聞こえた。

次へ♪

「音の向こうの空」第五話 ⑦

第五話:切り取られた空



目が覚めると、そこは見たことのある寝室だった。
クリーム色を基調にした壁、青緑のカーテンに金の房飾り。天使が踊る暖炉。ここは、侯爵の屋敷の、一室だったような。

「オリビエ様!」
白いエプロンのメイドが覗き込む。
「早く、侯爵様にお知らせして!」
もう一人いたのだろう、軽やかに扉を開いて出て行く音がした。
オリビエはうつぶせになっている姿勢を苦しく感じ、身を起こそうとする。
「っつ」
痛みと同時に、自分がベッドに縛り付けられていることに気付いた。

「なんだ、これ」
「動いてはいけませんよ、オリビエ様。背中をお怪我されていましたので、寝返りを打たないようにと、お医者様がこうされたのです」

メイドが手首にからんでいたロープを解いてくれた。

「ま、縛られている姿をもう少し見ていたかったのに」
残念そうな口ぶりとは裏腹に、アンナ夫人が嬉しそうにベッドに駆け寄った。オリビエの手についたヒモの痕をそっとなでる。
「ご夫人もなかなかのご趣味ですな」
そう、夫人をからかったのはロントーニ男爵だ。何故ここにいるのだろう。

「あら、これは侯爵様がお決めになったことです。ねえ、あなた」
侯爵はニコリともせずオリビエが起き上がるのを助ける。
腰に枕を当ててもらい、こわばった体からホッと息を吐き出すとオリビエは改めて侯爵を見上げた。

「あの、何も覚えていないのですが。ここは、侯爵のお屋敷ですか」

夫人と男爵は視線をそらし、侯爵だけが真っ直ぐオリビエを見ていた。
「あの、教えてください。あれから、一体どうなったのです」
「お前はファリの路地で背中を刺され、ロスレアン公の城に運び込まれた。治療を受け、落ち着いたところで私も議会が膠着したのでな。こちらに運んだ。その間、お前は眠り続けていた」
「アネリアは」
侯爵の太い眉がピクリと動いた。
「あれから七日だ。風邪で体力が落ちていたこともあって感染症に罹って一時は危なかったのだぞ。心配してロントーニ男爵もここ数日滞在されている」
「あの」
「当分は、ここにいるのだ。よいか、外出も許さん」
「アネリアは、どうしたのです!」
逃げたのだろうか、それとも。

侯爵の分厚い手がつかむようにオリビエの口を塞いだ。
「う……」
「その名を私の前で口にするな。二度とは言わん。いいな。守れないのなら、一生ここに縛り付けるぞ」
ロントーニ男爵も神妙な顔をしていた。
結局、食事をもらい、再び横になった頃。食器を片付けに来たビクトールと話すことができた。
こわばった表情、視線はテーブルの食器に置いたまま、ビクトールはゆっくり話し出した。

「私達が駆けつけたとき、アネリアはあなたにしがみついて泣いていました。奥様は悲鳴を上げ、私が止めるまもなくアネリアにつかみかかり。突き飛ばされたあの子は足元に転がっていた硝子の破片を奥様に向けました。私が奥様を庇い、あの子を殴り飛ばして。あなたを抱き上げた時には、あの子はもう、逃げ出していました」
「じゃあ、無事なんだね」
「オリビエ様。もう、お止めください。あなたは、あの子を愛しているわけではありません。ただ、ご自分があの子より音楽を選んだ、そのことに呵責を覚えているだけです。同情しているだけですよ。それは、あの子を不幸にします」
あの時の、アネリアの言葉がよみがえった。
僕の音楽が、彼女を不幸にした。

「分かってるよ、ビクトール。僕は、結局卑怯者なんだ。あの時、アネリアは僕の手を狙ったんだ。でも僕は、それを差し出すことが出来なかった。僕の音楽が彼女を不幸にしたと分かっていたのに、自分から音楽を取り上げることが出来なかった。だから、思わず彼女に抱きついたんだ。ケガも、自業自得なんだ。僕が全部悪いんだ」

じっと手のひらを見つめていたオリビエに、ビクトールは笑いかけた。
「あなたのようになりたいとは思いませんが、羨ましいとも思います」
「意味がよく分からないよ。ね、ビクトール。少し、弾きたいな」
「侯爵様がお許しになるまでは我慢してください」

次へ♪

「音の向こうの空」第五話 ⑧

第五話:切り取られた空


その日の午後には、部屋にチェンバロが運び込まれた。ビクトールが侯爵に許可を取ってくれたのだろう。
下男が五人がかりでそっと運び入れたそれは、相変わらず真っ青な空を抱いていた。

オリビエは慈しむように時間をかけて調律して行った。
音に納得し、アネリアへの気持ちを音に昇華させる頃には、メイドが手をつけられることのなかった冷めた茶を温かい夕食に取り替えた。

「少し、聞いていていいかな」
夕食と一緒に運び込まれた客人は、食事用のテーブルにしっかり席を取り、椅子にもたれかかるとくつろいだ。
ロントーニ男爵の存在も、オリビエはただ、小さく一度頷いただけだ。

賑わう街、ファリ。今夜もそこでは自由が歌われ、叫ばれるのだろう。
人々のぎらぎらした粘りつくような情熱が、この国を変えるのかもしれない。あのパレードの高揚した空気。喧騒が力の渦のように集っていた。
オリビエがあれほどの熱意を持って、あのかわいそうな少女に愛情を注ぐことが出来たならきっと何かが違っていただろう。
そんな情熱を、音を奏でること以上に何かに向けられたのなら、オリビエの人生も変わったのかもしれない。

だが、オリビエには音が、楽器が、それを奏でる指が必要だった。
お前の生き方は一つの思想だ。
マルソーの言葉は音をにじませた。そこに存在していい、といわれたのと同じだ。
このままオリビエという音楽家として、生きていいのだといわれた気がした。

静かに緩やかに。音は伸び、空を翔る。そのために描かれた楽器の空は、いつもの蒼を讃えてオリビエの思いを受け止める。

そこでこそ息が出来るのだといわんばかりに、オリビエの指先は鍵盤を走る。踊るように走るように。疾走し続ける。その先が何であろうと音に限りはない。

ふと、オリビエの手を誰かが包んだ。演奏は強引に中断される。
いつの間にか眼を閉じ演奏していたオリビエは気分がついていかず、それと知るまでぼんやりとしていた。
見上げると、侯爵が大きな手でオリビエの手を包み込んでいた。
「もう、休みなさい」

立ち上がると、いつの間にか室内にはメイドや医師、ロントーニ男爵、そしてアンナ夫人の姿もあった。皆、静かにそこにいて、何一つ音を立てなかった。
オリビエはまったく意識していなかった。
侯爵に支えられ、ランプの明かりの中、ベッドに横になると急に疲れを感じた。医師に痛み止めをもらうとすぐに眼を閉じた。

ああ、そういえば、いつの間にか夜になっていたんだ。

オリビエは深く眠る。

次回第六話は7/21公開予定です♪

「音の向こうの空」第六話 ①

第六話:エスファンテの青年衛兵



オリビエが自分の家に戻れたのはそれから三日後のことだった。
シューレンさんの淹れてくれた朝のコーヒーを飲み、オリビエはぐんと伸びをした。
「やっぱり、ここが一番だね」
青年が好きな蕎麦粉の入ったクレープにバターをたっぷり使ったオムレツを添える。炒めたベーコンとクレソンで彩が加わる。ダイニングの窓からは屋敷を囲むオリーブの木々を透かして小さな菜園の向こうに隣家の影が見えた。
オリビエの家は侯爵家から程近いところにあったが、街の中心にあるような庭のない細長い商家とは違い、一軒一軒庭と池と、街道からの小道を持っている地域だ。垣根や小路の形、家の配置はさまざまだが、ブルジョアと呼ばれる平民の中でも裕福な人々が住んでいる。隣家はルグラン市長の甥に当たる人物が住んでいる。
その向こうは広く牧場を経営している豪農で、最近ある貴族からその家を買ったらしい。
オリビエは庭にこだわりもないので生えるがまま、所々シューレンさんが好きなように花や野菜を植えていた。
今も、皿に乗るクレソンは庭から取れた新鮮なものだろう。生き生きとした新緑の季節にこの野菜は活躍を見せる。

シューレン夫人は太った体を揺らしながら、夕食の下ごしらえをしている。
羊の肉に、庭に生えるローズマリーをすり込んでいた。
夜にはローストされたラムが出されるのだと想像できた。

「オリビエ様がお怪我されたと聞いて心配しておりました。まだ、ご無理はいけませんよ。侯爵様からくれぐれもと命じられておりますしね。しばらくは侯爵家から馬車で送り迎えが来るそうですよ」
「もう平気なのに」
侯爵様のお気持ちですからね、感謝しなくては。そう、振り向いたシューレン夫人にたしなめられる。
「わかっているよ、でも、少しは体を動かさないと、本当に病人みたいだ」
「オリビエ様。大勢の方にご心配いただいたんですよ、少し萎らしくしてくださらないと、心配した甲斐がありませんよ」
夫人がこんな風に言うのは珍しかった。
「変な理屈だね」
オリビエは切り取ったクレープを器用に三つ折りにしてフォークで突き刺した。
「オリビエ様」
またも非難めいた口調。どうも、シューレン夫人の様子がおかしい。
オリビエは眉をひそめる。
まるで子どもをたしなめる母親のようじゃないか。そんな風に感じたのは初めてだ。
「僕に、何か言いたいことがあるのかい」
口からはみ出していたクレソンをつまんで、もう一度口に突っ込んだ。
オレンジのジュースを喉に流し込む。
「キシュという女性には、二度とここに来ないようにとお話申し上げました」
「!」
立ち上がったオリビエに、覚悟を決めたような面持ちでシューレン夫人は向き合った。白い眉間にめったに見ないシワを見て、夫人がキシュのことで承服できないところがあるのだと分かる。けれど、始めに菓子を焼いてくれた時には嬉しそうだった。
何があったのか。キシュが夫人の機嫌を損ねたのだろうか。夫人には、きちんと理由も説明したはずだった。

「言っただろう、あの子の歌は役に立つんだよ。僕が曲を作るのに役立つんだ」
夫人は首を横に振った。
「シューレンさんだって、クリスマスには協力してくれたじゃないか!」
「せっかくの贈り物が寝室に戻されているのを見ました。乱暴に開けられた包みも。オリビエ様のなさり用ではありません、呆れましたよ。あの娘とは身分が違うのです。オリビエ様のお気持ちを理解できるようなものではありません。形見の品を譲ることがどれほど決心の要ることか」
「いや、それは……僕が自分で用意できないことがいけないんだ」
そこで、シューレン夫人は目をそらした。小さく肩で息をして、それから告げた。

「確かに、オリビエ様が年頃の女性に興味を示されるのは当然のことですし、私もご協力差し上げたいと考えました。オリビエ様がよろしいのでしたら私が口を出すことではないと。ですがあの娘は、街の酒屋の娘です。身分が違いますし、酒屋はあまりいいうわさを聞きません」
「キシュが、何か僕にとって悪いことをするとでも言うのか?」
シューレン夫人は首を横に振った。
「ですが、オリビエ様。ファリでは議会が膠着して不穏な情勢が続いております。その様子が新聞でもたらされるたび、この田舎町でも集会が開かれるのです。街の司祭や弁護士、医師、鍛冶屋や商人、さまざまな者たちが集って、一つの新聞を読み上げ、意見を交わすそうです。あの子の家の酒屋はそのための会場になっています。あなた様を利用しようとするかもしれませんし、侯爵様にご心配をおかけすることになります」
「それを、侯爵様に言ったのか?」
シューレン夫人は首を横に振った。
「今はまだ。オリビエ様がこのまま諦めてくだされば、私は黙っております。ですが、これからもあの子をここに呼ぶようでしたら、考えなくてはなりません。オリビエ様のことを大切にしてくださっている侯爵様にご心配をおかけすることは出来ません。私は、オリビエ様。侯爵様に雇われているのです」
シューレン夫人の雇い主は侯爵。
それを言われてしまったら、オリビエには反論も何もない。
けれどそれは最初からそのはずだった。今、それを盾にするのは卑怯ではないか。
「意味が分からないよ」
オリビエは、ゆっくりイスに座った。
少しだけ、背中の傷が痛んだ。
「侯爵様が心配するって、なんでそう思うんだ?そんなこと、これまでだって言ったことなかったのに」
「オリビエ様。あなた様がファリから戻られた時。あの時の侯爵様のご様子は、それはもう、胸が痛むほどでした」
「僕は、知らない」
「とても、あの毅然とした侯爵様とは思えないほど憔悴なされて。まるでわが子を失う父親のようでした。オリビエ様、あなたをとても大事になされていると感じました。それは、あの場にいた皆が思ったのではないでしょうか」
うなだれている青年を、夫人が抱きしめた。
「お許しください。オリビエ様。あなた様が自由を得たいと願っていることは、私も十分承知なのです。ですが、今回のような危ない目に遭われたのを知ると、どうにも心配で仕方ないのです。あなた様は、ご自分が感じられている以上に大勢の方に愛されているのですよ」

なにか、反論してやろうとオリビエが言葉を探るうちに、玄関のベルが鳴らされる。
「侯爵家からのお迎えです」
二頭立ての馬車には、丁寧にも御者のほかに侯爵の衛兵が一人ついていた。サーベルを携える彼にオリビエは少しだけ、演奏させて欲しいと伝えた。
まだ若い衛兵は黙って頷いた。


オリビエがリビングでチェンバロに命を吹き込み、数曲を演奏し終わるまで衛兵と御者は部屋の隅で待っていた。
シューレン夫人の入れたお茶に手も出さずにいるのは、使命に忠実なためか、オリビエの曲に聞き入っていたためか分からない。

次へ♪

「音の向こうの空」第六話 ②

第六話:エスファンテの青年衛兵



侯爵家までの距離は短い。
常にオリビエは徒歩で通っていたのだ。それが馬車ともなるとあっという間だった。
「オリビエ様、私はズレン・ダンヤと申します。これから毎日、オリビエ様をお迎えに上がります。お帰りの際も門番にお声をかけてください」
二十代前半、ちょうどファリで知り合ったマルソーやエリーと同じくらいの年恰好に見えた。思い出すとなぜかズレンというこの青年も頼もしく思えた。
「はい。あの、そんなに丁寧な言葉遣いでなくていいです。僕もあなたと同じ、雇われ人ですし、僕のほうが年下です」
この青年にこの街で起こりつつあることを聞いてみようとオリビエは考えていた。衛兵はこの街の警備をしている。きっと詳しいはずだ。
「いいえ、貴方は特権階級でいらっしゃる。そのようなこと、おっしゃらないでください」
「特権はあるけど。ほら、よくある何の資産もない名前だけの貴族だから」
ズレンという青年は涼しげな瞳をオリビエにむけ、何か言いたそうなのに口を開かない。
何か悪いことを言っただろうか。
居心地の悪い沈黙の間、オリビエが何を話題にしようかと探っているとズレンが小さく息を吐いた。
「私は侯爵様がお帰りになるまでは何があってもあなた様をお守りするようにと仰せつかっております」
「え?侯爵様はどこかに?」
「議会のために、今朝方またファリへ向かわれました。我がエスファンテ衛兵の主力は侯爵様を警護しております。その留守を預かる私の第三連隊が今はこの街を守っております」
「なんだか、物々しいね」
肩をすくめて見せるオリビエにも、ズレンは笑み一つこぼさなかった。
取り付く島のない青年にオリビエは残念な気分だ。


侯爵が不在ということは、アンナ夫人も自由なのだ。
オリビエが音楽堂に入った時からずっと、そばを離れない。
メイドが茶や食事を運んでくるたびに一緒にテーブルについた。そしてオリビエが楽器を奏でたり、曲を作るために散歩をしたりしている間は黙ってただそばにいた。
その様子がやはり以前とは違う感じがして、オリビエはどうにも居心地が悪い。
ついに、三時のお茶をメイドが運び入れ、夫人が「一緒に休憩しましょう」と声をかけてきたときにオリビエは口を開いた。

「あの、アンナ様。今日はどうなされたのですか。一日中私のそばにいらっしゃる」
「あら、嫌かしら」
オリビエの分まで茶に砂糖を落とし、夫人はにこやかに笑った。
その笑顔がやはりいつもと違う。
「侯爵様とご一緒にお出かけにならなかったのですね」
「あら、嫌味?」
「いえ、そうではありませんが」
二杯目の砂糖を落とそうとする夫人の手を止め、オリビエはカップを受け取った。
「いつもより、お元気がないように思えますし。黙って私の作業を見ているだけではつまらないのではないですか」
夫人が目を伏せた。
長い睫が影を落とす瞳は、じっと手元のカップを眺めていた。
「いいのよ。相手をして欲しいわけじゃないの」
「アンナ様?」
「そばにいたいだけなのよ」
見上げた瞳といつも通り色香を放つ胸元は殊勝な言葉以上にもの言いたげだ。
オリビエは体ごと庭に向けると、目をそらした。
どうしたというのか。新しいからかい方を試しているのか。侯爵がいないからと言って一日中べったりされていては、さすがに屋敷の皆も黙っていられないかもしれない。夫人の行動のほとんどを侯爵は感づいているだろうけれど、度が過ぎれば咎められる。その時にはオリビエも巻き込まれるのだ。
それはもう、ずっと前から。
夫人がオリビエを誘惑し始めた十六の頃から危惧していた。
たとえそれが、夫人の命令に従っただけだとしても。

今も、夫人はオリビエの唇に指先を触れようとしていた。
細い指がするりと閉じた唇をなで、そのまま首にまきつく。座ったままのオリビエに覆いかぶさるように公爵夫人は唇を塞ぐ。
目の前に見る夫人は、美しいがやはり年上の女性。間近に見れば張りを失いかけた首に目が行く。
つ、と小さな痛みが走る。
「な?」
唇を押さえると血がにじんだ。


「お前を、憎く思うときもあるの」
見下ろす夫人の口元は赤く濡れ、凶器に見える。噛み付かれたのだ。
再び唇を寄せる夫人をオリビエは手で押さえた。
「あの」
「ねえ、オリビエ。お前は誰なの」

「え?」
夫人の口調には怒りに似たものが漂う。睨まれ、オリビエはもう一度その言葉を胸の中で反芻した。誰なの?
一体なにを言いたいのだろう。

次へ♪

「音の向こうの空」第六話 ③

第六話:エスファンテの青年衛兵



「お前は、なんなの。私から、侯爵様を奪った」
「アンナ様、あの、意味が分かりません」
強引に体重をかけられ、オリビエは夫人を押しのけ立ち上がろうとする。
何を言っているのか全然分からない。
「お前が、私を不幸にしたのよ」
アネリアが浮かんだ。
あのファリの街角、細長い空。
痛みより痛い切なさが胸に落ちた。
僕の音楽が彼女を不幸にした。
「お前がいたから。私は不幸になったの」
それが公爵夫人の言葉だと理解した時には、床に押し倒されていた。ついた瞬間の背中の痛みで我に返る。
まるでアネリア。
彼女と同じ台詞をこの夫人が呪うように繰り返すのは、どうしてなんだ。アネリアを追い出した張本人ではないか。
「ねえ、オリビエ」
耳元を指先でくすぐられ、オリビエは目をつぶった。
くすくすと、夫人が笑う。
「あの、意味が分かりません、アンナ様。私があなたを不幸にしたとは、どういう」
襟元を解こうとする手を押さえて止める。
「ことですか」

「気付いたのよ。お前が怪我をしたときに。あんなふうに取り乱した侯爵様を、初めて見たの。おかしいでしょ?私が誰とどんな遊びをしようとも、二日も無断で屋敷を抜け出していようとも、あの人はいつも顔色一つ変えないのに。あの時、お前が運ばれてきた時にどれほど恐ろしい顔で私を睨み、ビクトールを怒鳴りつけたか」
オリビエは夫人に口を塞がれなくとも言葉が見つからなかった。
荒々しいほどの口付けは青年の理性を舐め取ろうとする。切れた唇が痛んだ。
夫人の細い肩、そのどこにこんな力があるのか。
背中の傷が痛んだ。

長いキスのあと、切なげに息をつく青年に夫人は続けた。
「ね、侯爵様が私の相手をなさらなくなって、丁度五年。分かるかしら。オリビエ、お前をこの家に迎えてからあの人は私に見向きもしなくなったの。きっとそうなのよ。お前がいるから。ねえ、オリビエ、正直に話しなさい。あの人と、侯爵様とお前は、どんな関係なの」
オリビエは首を横に振った。
なんと言えばいいのか。
あの十三歳の秋、オリビエの曲を気に入ってくれたのだろう、だから、引き取ってくれた。雇ってくれたのだ。
それをどんな関係だと問われてもオリビエには答えがない。
「なにも、あの、雇っていただいた、ということしか。アンナ様、それはきっと誤解です」

オリビエには、侯爵がアンナ夫人を大切にしているように見えた。夫人を愛おしいと思いじっと見守っているように感じた。いつか、アネリアが言っていた。侯爵様は普通の人と違う、堅実な人だと。色や欲にほだされるような人間ではないし、当然夫人を裏切るようなこともしていない。貴族にありながらそれは珍しいことだった。だからこそ、アンナ夫人にはそれが理解できないのだ。侯爵の静かな深い愛情が。
「あの、けっして、侯爵様は奥様を裏切るなどなさいません」
「それはあてつけなの?」
頬をぺちんと叩かれた。
「私は、そうね。あの人にも、お前にも、こんなことを言う資格などないわね。私はあの人を裏切って、こうしてお前と抱き合っているのだもの!」
強引に口付けを繰り返し、白い手をオリビエの体に這わせる。
「放してください。侯爵様はあなたを大切になさっているじゃないですか。あなたが侯爵様を疑うのは間違っています。あなたが何をしても変わらずに、ずっと」
婦人の手がオリビエの首を絞める。
それはやんわりと、それでも温かい手の圧迫感はオリビエをぞっとさせた。
「何をしても?いい度胸ね。お前がそんなことを言うの?あの人を庇ってどうするの?お前も、裏切っているのよ。侯爵様を。ねえ、そうでしょ?お前に女を教えてあげたのも私なのよ。今更自分だけ善人ぶるのははしたないというものよ」
ゆっくり、婦人の手に力が入る。
オリビエは奥歯をかみ締める。
同罪、それは分かっている。
初めてアンナ夫人を見たときには、その美しさに憧れた。見たことも、触れたこともない柔らかな肌に幼い欲望を抑えることができなかった。
それが罪だということも、当然分かっていた。

「侯爵様がお帰りになったら、お前とのことをすべて話すわ。そうすれば、侯爵様がお前をどうするのか、どう思っているのか分かるから」
その宣告はオリビエを凍りつかせた。
慌てて夫人の両手首を下から掴んで押しのけると、オリビエは痛む背中を庇いながら体を起こす。

「ふふ、面白そうじゃない。ねえ、オリビエ。あの人が、私とお前、どちらを大切に思っているのか分かるわよ」
当然、それは分かっている。オリビエが追い出され、アンナ夫人は侯爵の愛情を確かめることになる。

オリビエと婦人の関係は侯爵も感づいているだろう。見逃しているのだろう。それを本人から突きつけられれば、見て見ぬ振りはできない。オリビエをそのままにしておけるはずはない。

そして、僕は音楽を失う。

「あら、どうしたの、オリビエ」
オリビエはうつむいて、床に座り込んだままだ。
「泣いているの?」勝ち誇ったかのような夫人は、膝立ちになると楽しげに青年の頭部を抱きしめ髪をなでた。
「どうか、それだけは。侯爵様に言うのだけはお止めください。私から音楽を、取り上げないでください」
「そうよ、オリビエ、お前にはそういう姿が似合うわ。大人しくて従順。ファリでマルソーたちに何を吹き込まれたのか知らないけれど、私に逆らうのは許さない。そして、私から侯爵様を奪うことも、許さないわ」
夫人の赤い唇が、再びオリビエの体を舐め始めた。
全てが自分のものであるかのように、アンナ夫人はオリビエに印をつける。
そうして所有者としての快楽を貪る。

次へ♪

「音の向こうの空」第六話 ④

第六話:エスファンテの青年衛兵



熱にうなされるような重苦しい曲を吐き出し、オリビエはやっと息をついた。
チェンバロの冷たい鍵盤が心地よく、ぺたりと手のひらを乗せる。
夫人は満足すると服を調え、音楽堂を出て行った。

「お前が、何者なのか。調べて見せるわ」

結局、夫人は思いついた疑惑に夢中なのだ。そこに何か謎があると思い込んでいる。オリビエの何を調べるつもりなのかは分からないが、侯爵に夫人との情事を突きつけられるよりはましだった。好きにしてくれと、思うしかない。

深い泥に足をとられている。
身動きが出来ない。
動けば、音楽を失う。

オリビエが奏でたそれは重く切ない。
楽器に描かれた偽物の空が差し込む夕日に赤く皮肉に光って見せた。


まだ陽の残るうちにオリビエが屋敷に戻ると、家の前に少女が立っていた。
護衛のズレンは眉をしかめ、キシュを追い払おうとサーベルに手を置きかけた。
「待って、知っている子だから」
「オリビエ様、私も知っていますよ。酒屋のパーシーの娘です」
ズレンの顔を見てキシュは「じゃあ帰るわよ」と拗ねた口調で言うと、背を向ける。
傍らにいつもの犬。主人の代わりにオリビエのほうを振り向いていた。

「待って、キシュ。ズレン、あの、何も怪しいことはないんだ、ただ、彼女に作曲を手伝ってもらいたいんだ。なんなら、君が見張っていてくれていい」
オリビエの言葉にズレンはしばしキシュとにらみ合う。
「そうさせていただきます」
「なに、えらそう」
キシュの言葉に騎士はますます肩を怒らせる。
ズレンは御者に何事か説明し、馬車だけ侯爵家にと戻っていく。

オリビエがキシュを家に招きいれ、その後ろからズレンもついてきた。と、ズレンは戸口でキシュの護衛と目があったのか立ち止まってにらみ合う。ワンと一声吼えられた。


オリビエはシューレンさんの用意してくれた夕食をキシュとズレンに振る舞い、温かい茶を入れた。
「オリビエ様、これはあなた様のご夕食でしょう、どうぞ、私にはお構いなく」
とズレンが遠慮すれば、
「じゃ、あたしこれもらうわ」とキシュがデザートの二つ目に手を伸ばした。
また二人はにらみ合う。
「あの、君たちがどういう知り合いか僕は分からないんだけど。でも、ここは一応僕の家だし、もう少し普通に出来ないかな」
ワフン。
困り果てたオリビエに同情したのか犬が声を揃えた。
「あ、オリビエ、ランドンにもお肉」
「お前!」
ズレンが立ち上がる。
「何よ、あんたは関係ないでしょ、裏切り者」
「裏切り者とはなんだよ!」
今にもつかみ合いを始めそうな二人。オリビエは閉口した。
「ああ、もう。なんだよ、君たちどういう関係なんだよ!」
オリビエが耐えられずに怒鳴る。
が、背中が痛んで慣れない怒鳴り声に迫力はない。
今日は朝から疲れた。
シューレンさん、アンナ夫人。だから早めに帰宅したのに。今はこの二人か。
ぐったりと疲れを感じ、オリビエは大きく息を吐くと、そのままゆらりとソファーに向かい、座り込んだ。

「ごめん、もう。いいから。疲れたよ」
「オリビエ様?」
「ひ弱なんだから」
少女の侮蔑にも、反論する気分になれない。
オリビエはけだるい気分でそのまま寝転んだ。
「オリビエ様?大丈夫ですか」
「なに、変なものでも食べたの?拾い食いはだめだって、ご主人にしつけられなかった?」
がばっと。
オリビエは起き上がる。
二人を無視して、一人楽器に向かう。

痛みもけだるさも、どうしようもない泥沼も。
音にしなければ涙になってしまいそうだ。
いつもなら調律してからの演奏が、今日は違う。とにかくこぼれて頬を伝う前に音に変えた。歪む音はそのままオリビエの不安定な心を映す。

マルソー、あなたの言った僕の生き方は、確かに一つの思想かもしれない。
でもそれを貫くのはとてもつらい。
つらいけれどそれしか。
僕にはない。
侯爵が僕を子どものように心配したという。その姿を見ていないが、少しばかり心がくすぐったかったのも本当だ。
それは十三の時、侯爵の胸で泣いたあの時以来の気分かもしれない。
父さんの残した音楽の才能。母さんが教えてくれた愛情。それがあるから僕は侯爵に認められ今がある。感謝しているけれど、苦しい。
何をどうすれば、僕はただ、音楽を楽しめるのだろう。
純粋にこの一つきりの音が美しいと思えるのに。
張り詰めた弦のつぶやくようなそれがとても愛おしいのに。

「もう、止めなよ」

少女が叫んだ。

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「音の向こうの空」第六話 ⑤

第六話:エスファンテの青年衛兵


そう、多分、叫んだのだ。
肩をズレンに支えられていることに気付いて、オリビエは手を止めた。
「苦しい、悲しい曲だよ。そんなの、歌ってあげない」キシュがなぜか涙ぐんでいた。
「似合わないな、それ」
オリビエが笑うと少女は頬を膨らめて見せた。
「オリビエ様、すみませんでした。あの、どうかお休みください。熱があるのではないですか?侯爵家から医師を呼びます」
オリビエが立ち上がるとズレンが支え、二階の寝室まで連れて行ってくれた。
初めて入るオリビエの寝室にキシュはきょろきょろと見回す。壁にかけられた両親の肖像画を見つけるとすぐに近寄ってじっくり見つめていた。

「大丈夫だから。ズレン、あの、君たちどういう関係なんだ?キシュが、僕に対して腹を立てるのは分かるんだけど」
「あら、私別に怒ってないよ。シューレンさんに来るなって言われたけど、あんたに来るなとは言われてないし。だから、来たの」
けろりと真顔で話す少女にオリビエは目を細めた。
機嫌を損ねたと心配していたのだ。
「でね、あたしがズレンのこと嫌いなのはね、裏切り者だから」
小さなテーブルの上に並ぶ本の背表紙までしっかり眺めてキシュは言った。
「勝手にしろ」ズレンが少女を睨んで拗ねたようにつぶやく。
「どういうことなんだい」

「私と彼女は、幼馴染なんです。私はこの街の商家の出なので。両親が金を工面してくれて上の学校を卒業して私は士官学校に入りました。そうして、卒業して侯爵家に仕えることになったのです。ですが、この町に戻ってみれば、幼い頃遊んでいた皆は、私を貴族かぶれだとか宮廷の犬だとか。私は何も変わっていないのです。皆の貴族や宮廷を見る目が変わったんです。私が士官学校に入った時には温かく見送ってくれたのに」
オリビエより少し年上の青年は、悔しそうに拳を握り締めた。

「私は、侯爵様に援助を受けましたし、感謝しています。人間としても尊敬しています。確かに宮廷や貴族のやりように苦しめられている民もいますが、ここでは違う。この街は侯爵の堅実なやり方で救われているんです。なのに、新しい思想に目がくらんで皆おかしくなっている」
「毎日パンを食べてる奴がえらそうに言わないで」
キシュが立ち尽くしたまま、二人の青年を睨んでいた。

「あたしのうちは何とかなってる。でも隣街の叔母さんは毎日苦労している。三日に一回食べ物を届けているの。自分さえ良ければいいなんて、皆思えないの。自分さえ、この街さえ潤っていればいいなんて、そんな考えは貴族様と同じじゃない!」
真っ直ぐ見つめるキシュの瞳が、その細身の体が嫌に力強く感じ、オリビエは目を細めた。眩しい気がした。
少女は少し、肩をすくめる。
「オリビエには、関係ないことだったわね。気にしないで。あたし、パンをもらえるなら歌うわ。それでいいでしょ」
「キシュ、そんな言い方はないだろう!」ズレンが憤るが、オリビエはそれを手を挙げて制した。

オリビエはファリでエリーに向けられた、しらけた視線を思い出した。
「僕は……」
「いいのよ、だって、オリビエは人間じゃないもの」
ワフン。
少女の護衛のタイミングは、素晴らしいくらいだ。
意味が分からないのだろう、ズレンは二人を見比べる。

「ズレン、あんたは仲間だと思ったから余計に悔しいのよ。あの界隈で一番頭が良かった、尊敬されていたのに」
「キシュ、そうやって貴族や宮廷と対立してどうなるっていうんだよ。争いになったら無事では済まされないだろう?まさか、ここで、この国で新大陸のような戦争をするつもりじゃないだろ?」
ズレンがキシュの肩に手を置いた。
とたんに少女の頬に赤みが差したことにオリビエは気付く。
「戦争なんか、わかんないわよ!戦争になっても、ズレンは貴族の味方をするの?私に銃を向けるの?」
「キーシュ」
ズレンがつぶやいたそれが、少女の本当の名だと分かる。
彼はそれを知っているのだ。

「ごめ、ん。帰ってくれないか」

オリビエの言葉に、二人は思い出したかのように振り返る。
「帰ってほしい…僕には。関係のないこと、だから」

オリビエの家を出ても、二人が小路を何か言い争いながら歩くのが二階から見えた。慣れた口喧嘩。
互いに深く関わろうとするからこそ。こじれる。侯爵と夫人、キシュとズレン。
それは羨ましくもあった。

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「音の向こうの空」第六話 ⑥

第六話:エスファンテの青年衛兵


翌日、朝の迎えに来たズレンは初対面のとき以上に堅く、口を開かないと決め付けているかのように黙り込んでいる。
通りの並木が流れるのをオリビエが見送り、その向こうの麦畑を見つめる。
小さな林の向こうには、この街の中心街が屋根だけ連ねて見えた。褐色の瓦に朝日が輝き、オリビエは目を細めた。
あのどこかに、キシュやズレンが暮らした場所がある。オリビエが通った学校も今は時計台の尖がった屋根だけを見せていた。
幾人か、仲の良かった同年代の子らを思い浮かべたけれど、両親がなくなってからは遠ざかったままだった。
オリビエ自身、教会と広場を中心とした街に足を踏み入れる必要も、そして自由もなかった。会いたいと願うほどの友人もない。

「幼馴染、か。いいね」

そうつぶやいた青年に、ズレンはますます顔を堅くした。
「僕が育ったあの家は、貴族の子どもたちが音楽を学びに来ていた。僕は彼らを敵とみなしていたんだ。負けたくなかった。傲慢な態度の彼らに、音楽だけは負けないといつも威張って見せた」
「……オリビエ様も、貴族の称号を得ていらっしゃるのでは?」
「侯爵に引き取られたときに、形だけもらったんだ。僕を引き取ってもらう代わりに両親の残したものを侯爵家に引き渡した、その時のおつりのようなものかな。免税の特権だけだからね、どこからも収入なんかない。一人で生きていくためには、侯爵様に頼るしかないんだ」
ズレンの返事がない。オリビエは窓から傍らの青年にと視線を移した。
「キシュに、聞いたんだろう?あの子は僕のことを侯爵の飼い犬だと言うから」
「あの、それは。昨夜は本当に失礼しました。キシュにも言って聞かせます」
「君が謝る必要はないだろ。それに、本当のことだ」

また、沈黙がその場を支配した。
うん、と伸びをして、オリビエは息を吐く。
「もう、痛みもない。昨夜ぐっすり眠ったから、もう大丈夫。だから。ズレン、迎えはもう結構だ」
「オリビエ様」
「早く、楽器に触れたい」



それから数日の間、オリビエはとにかく楽器のそばにいた。
アンナ夫人がオリビエのそばにいるように、オリビエは楽器に寄り添っていた。そうしなければ何かが崩れてしまう気がしていた。
侯爵に命じられたズレンは送迎を止めないし、怒ってオリビエが歩いて帰ろうとすれば、その隣を歩き離れようとしなかった。
キシュも誰に会いたいのか毎晩家に来るようになり、オリビエの吐き出す音を見事に歌って見せた。それにはズレンも驚き感心していたが、キシュ本人はその対価として受け取るパンに一番の笑みを向けていた。
シューレン夫人はパンが毎日随分減るので、何か言いたげにオリビエを見つめるが、オリビエはズレンを夕食に招待しているし、夜中にお腹がすくのだと言い張った。

「ね、私も楽器に触っていい?」
オリビエがまだ夕食を食べ終わらないうちに、キシュは席を立ってチェンバロの脇に立つ。
「え、でも」
オリビエが慌ててサラダを飲み込もうとし、むせると、ズレンが笑ってワインと差し出した。

「オリビエ、大丈夫だよ。キシュはね、教会でオルガンを弾くんだよ」
ますますむせる青年の背をなでて、ズレンが言った。いつからだろう、エスファンテの青年衛兵はオリビエを呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「そうなのか?オルガンは弾けないって言っていたのに」
少女はすでに、遠慮がちにイスに座り、鍵盤に恐る恐る手を置いた。
そのぎこちない仕草がいつもの少女らしくなく、オリビエは目を細める。隣でズレンも噴出していた。

「おい、キシュ、がちがちじゃないか」
「う、煩いわね!ズレンには楽器の価値がわかんないんだから!」
真っ赤になって反論する少女。
「ばかだな、キシュ。楽器そのものじゃないんだ、楽器を弾きこなすオリビエに価値があるんだよ」
ズレンが笑い、オリビエは少し恥かしくなりまた、ワインを口に運ぶ。

「そんなの分かってるわよ!もう、意地悪なんだから。オリビエみたいに音楽に全てを捧げるなんてそうそうできるもんじゃないんだから」
言いながら、キシュはぽろぽろと鍵盤を押さえる。
「へったくそ」
ズレンがからかえば、少女は口を尖らせた。わふんとランドンも笑う。
「もう、オリビエ、何か弾いてよ」
聖歌を弾きかけて、すぐに諦めたのかキシュは立ち上がり、チェンバロの脇に立った。そこが、歌を歌う彼女の定位置になっていた。

互いになぜか喧嘩腰の癖に、キシュとズレンは仲が良かった。彼らの存在はオリビエの夕食を楽しいものに変えていた。オリビエは始めのうちこそ喧嘩をするなら帰って欲しいと何度も二人に言い聞かせていたが、今はその必要もなくなっていた。
もともと幼馴染。離れていた時間を取り戻せばその距離は目に見えて縮んでいく。
オリビエはそんな二人を音に変えた。

お互いに顔を見ればからかったり、拗ねて見せたり、反発しているように見えるが。ふと見せるキシュの切ない表情、ズレンが端々ににじませる優しさ。それが、オリビエの気持ちを温かくさせた。
相変わらず犬呼ばわりだが。オリビエの奏でる曲にはキシュも敬意を表していた。

明るく楽しい曲を、キシュが声にし、二人に聞かせる。
伸びやかなソプラノにランドンも満足そうに床に寝転ぶ。
「ああ、いいね」
オリビエが満足げに笑う。
「ほんと、素敵」
キシュはまだ歌い足りないのか、つま先でリズムを取る。
「譜面にする間、テラスでダンスでもしてきたらどうだい。ズレン、今夜は月が明るいからね」
オリビエの提案に、キシュが頬を染め「ダンスなんて、貴族趣味よ」と顔を背けた。
「まあまあ、オリビエの邪魔にならないように、ほら、じゃあ散歩だ」

ランドン、と犬を呼び、ズレンとキシュは部屋を出て行く。
室内からの明かりを背に、二人と一匹が月夜に歩き出すのが見える。


キシュが歌った歌はすでに譜面に書き込まれていた。
二人を見送りながら、オリビエは一人楽器に向かう。
孤独でなければ奏でられない曲があった。二人に聞かせられない音だ。

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「音の向こうの空」第六話 ⑦

第六話:エスファンテの青年衛兵


月の明かり。その淋しい暗がりに、僕だけは一人。遠く聞こえる二人の笑い声と犬の声。
この家にそんなにぎやかな音があふれるなど想像もできなかった。両親が生きていた頃以来だろう。そういう温かさこそがこの家に馴染む。僕一人では静まり返ったこの家。
光を浴びる彼らの背中を一人きり暗がりから羨望を込めて眺めている。
そのうち、扉の隙間から犬だけが戻ってきた。
とぼとぼと歩く短い足。月明かりに床に化け物じみた影を作り、それが面白く思えた。オリビエの顔を見上げていったん止まるが。静かな旋律に何か納得したような神妙な顔をして、ランドンは足元の化け物の上に横たわる。
「あんなふうに、恋ができたらな」
犬は耳だけピクリとオリビエに向けた。
「僕だって、ね、アネリアとはあんなふうに仲が良かったんだ」
聞いているものはいない。
ランドンは時折尻尾を右から左にと動かすが、それがオリビエの言葉に返事をしているわけでないのはリズムで分かる。それでもオリビエは一人続けた。

「初めて、自分から好きになったんだ。その気持ちは、愛情じゃないってビクトールには言われたよ。僕は誰かを幸せにするなんてできないんだと思う。だってね、僕には音楽しかない。音楽を奏でることで生きて行くんだ。それは幸せだし、不幸だ。そんな僕の人生に誰かを巻き込むなんて、だめなんだと思うよ」
くふん、とチェンバロの旋律の間に小さい犬のため息が混じった。
くすとオリビエは笑みをこぼし、月に捧げる想いを奏で続ける。
「ね、誰かが。僕を必要としてくれて、僕がその誰かを幸せにしてあげられるのなら。それは素敵なことだよね」
皆、きっと皆そうなんだと思う。
「不器用だから。僕には音楽しかないんだ」

「そんなことない」
通る声だった。
少女が、胸の前で拳を握り締めて立っていた。
「あ、なんだ、キシュ。もう戻ってきたの」
慌ててオリビエが立ち上がると、キシュは背後の扉を閉めて、オリビエに駆け寄った。
「なんだい?ズレンは?」

抱きつかれ、慌てる。
「いいの。可哀想な人」

オリビエの胸までしかない身長の少女が、まるで母親のような顔をして見上げる。
「音楽はね、ここでなくても、侯爵家じゃなくてもできるのよ。オリビエ、教会に来てみなさいよ。きっと皆喜ぶわ」
「ありがとう。明日は天気が崩れそうだね。湿った月の匂いがする」
キシュの赤毛の額に軽いキスをして、オリビエは少女を放そうとする。
「ね、本気なの。聞いてよ。オリビエ、これからは貴族の時代じゃない。平民とか、貴族とかそういうのじゃなくなる。自由に生きられる世の中になるの。だから、オリビエだって素敵な恋ができるし、きっと誰かを幸せに出来る。それでね、オリビエも幸せになれるよ」
オリビエは笑った。
「ありがとう。僕は幸せ者だからね」
「んー、もうっ!何で真剣に聞いてくれないかな!本当にこのまま、一生犬のままでいるつもりなの!?こんなつまんない生活を続けるつもりなの?」
キシュが両手の拳でオリビエの胸に八つ当たりする。

「つまらないことはないよ。君やズレンがいてくれて、僕は楽しいよ」
「オリビエを見ているとイライラするの!だって、そんな悲しそうに笑って、楽しいって。嘘ばっかりじゃない!本当の気持ち隠してるでしょ?淋しいくせに、自由になりたいくせに。いい加減に私に反論してみなさいよ!犬呼ばわりされてへらへら笑って」
本気で怒っている少女が、なぜか可愛く見えてオリビエは目を細める。
口は悪いけど、いい子なんだな。
「オリビエってば!」
「じゃ、淋しい。淋しいから、慰めてくれるのか?」
逆に抱きしめる。
「!?オリビエ!」
キシュの小さな肩は予想以上にか弱く、突き放そうと突っ張る手も難なく胸に押さえ込めてしまう。
赤い髪が夜露に湿り、しっとりと腕に絡む。
恥らう少女の目に、涙らしきものを見た。

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「音の向こうの空」第六話 ⑧

第六話:エスファンテの青年衛兵


「オリビエ」
ズレンの声に腕を緩め、一度捕らえた柔らかな少女をオリビエはあっけなく手放した。

「あんまり怒るから。からかってみた」
「も、もうっ!」
キシュは足元で座っていたランドンを強引に抱き上げるとそのまま後ろに下がる。
「私、帰る」
ランドンが宙に浮いた足をばたばたさせるのもお構いなしで、キシュはさよならも言わずに飛び出して行った。
「ごめん、驚かせたみたいだ。ズレン、送っていけよ」
真顔の衛兵は真っ直ぐオリビエを見ていた。少しだけ背の高いズレンに見下ろされ、オリビエは目をそらした。
「キシュ一人じゃ、危ないだろう?このところ、浮浪民や山賊の噂もあるし」
「オリビエ、追いかけなくていいのか?」

少女が開け放したままの引き戸から、夜風が入りこんだ。それはゆらりと絹のカーテンを揺らし、ランプの炎を弱らせる。
ズレンの意図が分からず、オリビエは眉をひそめた。
「なに言ってる。僕が送っていってどうするんだよ。ズレンが行くべきだろ」

年上の衛兵は肩をすくめ、オリビエの願いも空しくソファーにどかっと座り込んだ。
「ズレン?」
「オリビエ、何か誤解しているよな。俺はキシュとは幼馴染だけど、それだけだ。大体、俺は年上好みなんだ。六つも年下のキシュは子どもにしか見えない。それに。お前のほうがよほど惚れ込んでるじゃないか」
「それこそ、誤解だよ!僕はあんな口の悪い娘は願い下げだよ。色気もないし、第一僕を犬扱いするんだから」
「飼われてやれば?キシュならいいご主人様になるさ」
「ズレン!」
向きになるオリビエに、ズレンは高らかに笑った。
「ほら、お前がこんなに感情的になるのは珍しいから。分かりやすいよ」
「分からないね」
「自分の気持ちがか?」
「いい加減にしろって!本気で一人で帰らせるつもりなのか?」
「俺は平気だね。大体、勝手に来るものをどうしてそこまでして送らなきゃならない?俺はお前の護衛としてここにいるのに」
「!」
「心配ならお前が行け、オリビエ」
「お断りよ!」


オリビエがつかみかかろうとし、それを笑いながら受け流そうとしていたズレン。
二人は、戸口に立って真っ赤な顔で睨む少女を見た。
その腕から、ずるっと犬が滑り落ちた。
わぶ。

情けない声をだし、頭を振りながら犬は居心地のいいソファーへと向かおうとする。
「ズレンはか弱い女性を一人きりで帰らせようとするし。オリビエは来てくれても役に立たないでしょ、私以上にか弱くて。しかも、送っていく勇気もない。本当、最低よね。二人とも」
キシュはランドンをまた後ろから抱きとめ、迷惑そうに体をよじる護衛をしっかり抱きしめる。
「ランドンのほうがよほど頼りになるわ!じゃあね、本当に今度こそ、帰るんだから」
「送るよ!」
立ち上がるオリビエ。
「嫌よ。今迄だってそんなことしなかったくせに」
今までは、キシュが嫌がったのだ。いや、今も嫌がっていると言うかもしれないが。
「オリビエが行くなら、俺も警護につきあうかな」
「何、それ、オリビエのためなの?何か違わない?」
キシュの不満はそこだ。
「どうせオリビエだけじゃ不安なんだろ」
「ズレン、随分な言い方だな」
「それは納得だけど」
幾分複雑な面持ちのオリビエとキシュを尻目に、ズレンだけは面白そうににんまりと笑う。二十四の青年衛兵は軍人らしい迫力と余裕を見せる。

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「音の向こうの空」第六話 ⑨

第六話:エスファンテの青年衛兵


三人は月を見上げながら、夜の街を歩いた。
ズレンがオリビエをからかえば、キシュが拗ねたようにズレンにからみ、それを気にしてかオリビエは二人から離れようとする。その間をランドンが尻尾を振りながら走り回る。
空にある月は、流れてきた雲に徐々に隠されていった。

商店街の大通りを行くと正面に街の教会がそびえる。大きくはないが色とりどりのレンガでモザイクをつけられたそれは、今もかすかにその片鱗を見せる。かつてそこがこの町の中心であり人々の祈りを集めた。むき出しの黄色い地面に教会を囲むように低木が植えられている。小さな葉を持つヒイラギは何かから教会を守っているようにも見えた。
正面の広場は丸く、その中心には小さな少女の像が立っている。その脇から延びる狭い下り坂を三人は降りて行った。
オリビエにとって、キシュの住む界隈は初めてだった。
オリビエが想像した街の中心街とは少し違い、二階建ての共同住宅がぎっしりと通りに面してつながっている。共同の井戸の脇で、水汲みの桶ががらんと空虚な音を立てた。
びく、とオリビエはその暗がりを見つめ、わふ、と護衛の声に猫が走り去るとホッと肩を落とした。
いつの間にか、キシュが先を行きオリビエの少し後ろをズレンが歩く。
「初めてくるよ」
オリビエが住民の声をもらす小さな二階の窓を見上げた。木のよろい戸の窓が、どこかで音を立てて閉められた。
自分の声が聞こえたのかと、オリビエは口元を押さえた。
「キシュ、この辺りまででいいだろう」
オリビエを背後からとどめて、ズレンが言った。
少女は振り向いて、何、皆に会う勇気がないの、と睨みつける。
背後のズレンの手に力がこもるのを感じて、オリビエは二人の顔を見比べた。
ズレンにとって久しぶりの街なのだろうか。裏切り者などと呼ばれるくらいだ。あまり、足を踏み入れたくないのだろう。オリビエは青年の手に手を重ね、どうする、と問いかけた。
「君がいけないなら、僕一人で送っていくけど」
「オリビエ。呆れる」
「え?」
「言っているだろ?俺はお前の警護のためについてきているんだ。キシュは放っておいても自分で帰れる。いつもは、あの広場の辺りまでで分かれるんだ」
ズレンが言う、教会前の小さな広場はもう、ずっと前に通り過ぎていた。

がん、と通りに出ていた樽を押しのけて、誰かが扉を開いた。その影はよろけて地面に突っ伏す。
さすがに驚いたのかランドンがワンワンと二度吼えると「うるさいよ」とどこかの窓から女性が怒鳴る。
赤ん坊が泣きだす声。
地面の影は酔っ払いのようで、何事かを低い声でつぶやいて寝ている。
月はいつの間にか隠れ、湿った風が頬をなでていた。
暗がりにただ、家々の窓の明かりだけが頼りなく揺れた。

オリビエは見回し、前を行くキシュの表情すら見えないことに気付いた。
「で、来るの?来ないの?」
「君は僕に、教会に来いって言わなかったかな」オリビエが笑う。
「あんたに言ってない。ズレンに言ってるの。セイリア姉さんに合わせる顔が在るかって聞いてるの」
オリビエは小さくため息をついた。
「ズレン、任せるよ。なんだか分からないけど、解決しなきゃならないんじゃないか。僕はここで」
「キシュ、セイリアの病はどうしようもなかったんだ。俺が医者にならなかったからってお前にそこまで言われる理由はない」
「ひどいよ!姉さんは、あんたの事待ってたのに!医者になって、治してくれるって」
「それはお前を気遣っていたんだろ。最初から、俺は医者になるつもりなんかなかった。セイリアも分かってくれていた。俺たち二人のことをお前がどれだけ知っていたって言うんだ。あの時お前はまだ小さかっただろ。彼女を失って、つらかったのは俺なんだ」
そこまで一気に怒鳴ると、ズレンは立ち止まってみていたオリビエの腕を取った。
「行こう。長居は無用だ」
「だけど」
「待ってよ!」
キシュが何か叫んだ。

と、再び先ほどの扉が開く。店内のランプの明かりに軒にかかったワイン樽の鉄輪が目に入った。酒屋の印だ。今度は開け放たれたので、酒屋らしいそこからは店内のざわめきが漏れ出した。静まり返っていた街が息を吹き返したかのようだ。寝転んでいた男がうめいて起き上がった。
「おい、生きてるか?」
誰かが扉から顔をのぞかせた。
「あー?お、キシュじゃねえか、大丈夫か」
「また夜遊びか、パーシーにどやされるぜ」
男たちが数人。
一人がゆらりとキシュに向けて手を挙げて、通りに出てきた。酔っているようだ。その後にまた二人。背の高い男がズレンとオリビエを睨んだ。
「なんだ?貴族様か」
「違うよ、こいつ、ズレンだもの」
「はぁ?あのズレンの小僧か。でかくなったな」
オリビエを庇うように立つ青年は、腰のサーベルに手を置きながら、一歩下がった。
「おいおい、そんな顔すんなよ。別に俺たちは妖しいもんじゃねえし」
後ろの男が言う。
「にしても、ご立派になったなぁ。お前がメジエールに行くことになったときはたまげたもんだ…あれ、お前」
髭の男が一人、顎に手を当てて二人をじっと見ていた。
と、急に隣の男の腕を数回叩く。
「んだよ」
「おい、こいつ。司祭会の会長の、ほら」

「ラストン・ファンテルの、息子です」
オリビエが男の視線に応えた。

急に背中を小さく丸めると、男たちは口元を緩め愛想笑いを浮かべた。
「こりゃ、また。立派になられた。そうか、あのボウヤか」
「いや、お父上にはお世話になってね」
オリビエにも覚えがあった。
このエスファンテの中心街を教区とする司祭を援助する市民の集り、司祭会でオリビエの父親は会長を務めていた。ボランティアの会だったが、街の弁護士や医者、思想家や教師が集っていた。母マリアの実父が司祭だったこともあり、オリビエの父ラストンは教会関係者には少しは名の知れた人物だった。
「いやあ、お元気そうでなによりです」
言いながら、皆一歩も近寄ろうとしない。
オリビエは眉をひそめ、隣に立つズレンの手を引いた。
「帰ろう」
ちらりと向こうにキシュの顔が見えたが、オリビエは目を合わせなかった。

次回第七話 7月28日公開予定♪

「音の向こうの空」第七話 ①

第七話:疑惑、教会、オルガンの音色




広場まで戻ったところでズレンがオリビエに問いかけた。

「オリビエ、あいつらと何かあったのか?」
オリビエは黙ったまま、足を速める。
「あいつらは、確か、教会の下働きの連中だろ」
「…セイリア、死んだのか」
オリビエの問いに今度はズレンが黙る。

ほら、話したくないだろう。オリビエが見上げる表情はそう語る。

「そうだ。彼女とは恋人同士だった。だが、肺の病気と知っていて、彼女は俺を遠ざけた。それが彼女の想いだとわかっていたから、俺はなにも言わずにこの街を出たんだ。両親は落ちぶれた貴族でね、一族再興とか何とか、無理して俺を王立の学校に入れようとしたんだ。寄宿にかかる寮費は半端じゃないのに。結局、無理して働いて二人とも俺がエコール・ミリテール*に入学する前に亡くなった。ま、両親がいない方がメジエール**の試験には受かりやすかったから。感謝してるし、そこでの時間を無駄にするつもりもない。今はこんな田舎にいるけど。いずれ、ファリに出る。セイリアのことも、もう昔のことだ。キシュは実の姉妹じゃないんだが、セイリアのことを姉のように慕っていた」

そして、ズレンを兄のように慕っていたということか。

エコール・ミリテールは王立の士官学校だ。成績の優秀なものしか入学できないし、入学すれば国王からの援助を受けられるという。その上、卒業後にメジエール工兵学校まで進学したのであればエリートだ。ファリで出会ったマルソーやエリーも同じだろう。

キシュと価値観が違うのは、もう、どうしようもないことなのかもしれない。

(*エコール・ミリテールは8歳から14歳までの士官学校 **メジエール工兵学校は二年間の専修学校で、エコール・ミリテール卒業後試験合格者のみを受け入れた)


ズレンに「お前の番だ」と背を叩かれ、オリビエは唇をかみ締めた。
歩きながら、思い出したくないそれを記憶に並べる。

「僕の父は、あの教会の司祭会の会長をしていた。毎月、会合があるだろう?僕が十三の秋だ。ちょっと、悪さをしてね。僕は家の納戸に閉じ込められた。ふてくされる僕に、扉の向こうから母さんが話しかけた。お父さんが司祭会に出かけてしまったら、こっそり出してあげるから、と。父さんが出かけてしばらくして僕が扉の開くのを待っていると、家に誰かが訪ねてきた。母さんの気配が遠ざかった」

話してみると、たったそれだけなのだ、とオリビエは思う。
随分短い物語だ。

「それで?」
ズレンが少し間をおいて問いかける。

「それだけ。それが、僕が両親の声を聞いた最後。次の朝、気付いたら僕は自分の部屋で寝ていて。僕を起こしたのが、彼ら。父さんと母さんは、馬車の転倒事故で亡くなったと。それだけだった」

肩に置かれた手に少しだけ力がこもった。

「ま、もう五年も前のことだよ。ズレンだって、僕と同じ年齢の頃にご両親を亡くしているんだろ?」
「そうか。俺が丁度この街を出ている間のことなんだな」

「いいよ、結局原因とかよく分からなかったんだ。でも、事実として、両親は亡くなったわけだし。僕は今、こうしている。誰かを亡くすのはつらいね、ズレン。君の気持ち、分かるよ」

青年は数回、オリビエの肩を叩いた。
「帰ったらもう少し、ワインでも飲むかい?」

「じゃあ、僕が作ったレクイエム、聞かせてやるよ。それで僕は侯爵様に見初められたんだ」
「出世作か」
「そ。最高に憂鬱な気分になる曲さ」

ふと、ズレンの歩みが止まる。

暗がりに目を凝らして前を見据える。
オリビエもソチラを見ると、遠く見えるオリビエの家の前に人影があった。

「今日はそういう予定でもあったのか?」
ズレンは低くうなる。
「全然」
オリビエが応えると同時にズレンは人影に声をかけていた。
「誰だ!」

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「音の向こうの空」第七話 ②

第七話:疑惑、教会、オルガンの音



夜半から振り出した雨がかつかつと鎧戸を穿つ音が規則正しく耳に響く。
オリビエはそれを聞きながら、冷たい井戸水をグラスに満たす。二つの水音に何か音楽を思いつきかけ溢れた雫が手を濡らす。リビングからの無造作に叩く鍵盤の音に我に返る。
慌てて、滴るそれをかかえてリビングに戻った。
「男爵、楽器には、その…」触れないでもらいたい。
呆れ顔のズレンに肩を押さえられていたロントーニ男爵はオリビエの姿を見るなり極上の笑みを浮かべて立ち上がる。煩そうにズレンの手を振り払って。
「オリビエ、聞かせてくれ」

「男爵、どうぞ、水です。こんなに酔って、ご家族が心配されますよ」
オリビエの差し出す水を受け取ると、こぼしそうになりながらソファーに座り込んだ。いや、倒れこんだ。
「家族、なんていないさ。な、オリビエ、聞かせてくれ。お前の曲だ。何でもいいぞ」
機嫌はいいのだろう、二人の青年相手に男爵は盛んに笑みを見せた。
「お前、なんていうか知らんが、こっちで一緒に聞け」
ため息を吐くズレンを隣に座らせると、男爵は楽器に向かうオリビエにじっと見入る。
「では。ズレン、聞かせてやるって言っていた、レクイエムだ」

家の前に立っていたのはホスタリア・ロントーニ、男爵だった。ズレンに誰だと問われ、男爵は胸を張ってフルネームを応えた。オリビエンヌ・ド・ファンテルに会いに来たと付け加えるのも忘れていない。
追い返すことも出来ず、ズレンが屋敷まで送ろうとしたが動こうとしなかった。
従者も連れず、一人馬でここまで来たのだとロントーニ男爵は笑った。その馬は見当たらなかった。酩酊する主人にあきれて逃げ出したのかもしれない。

そのまま、家の前で寝込まれても困る。
仕方ないからオリビエは家に招きいれたのだ。

酔っ払った男は上機嫌だ。少し迷惑なのだとあてつけの意味もあって、オリビエは自身が「最高に憂鬱な曲」と信じている、処女作のレクイエムを弾き始めた。
男爵が眉をひそめる。
ズレンも本当に憂鬱だ、と小さくつぶやいてオリビエと男爵を見比べていた。
男爵は眉間に深くしわを寄せ、口はへの字。持っていた水を口に運ぶのも忘れているようで、ズレンの心配はそこにうつる。
ぎゅっと握り締めた男爵の手は白く、もしかしてグラスが割れてしまうかもしれないと途中青年はそれをそっと取り上げた。

弾き始めるとオリビエの表情は自然と無になる。

あの教会で行われた葬儀。先ほどの男たちは、オリビエにとって死の知らせを運ぶ使者。黒い装束としわがれた声。少年だったオリビエには、最初に紡がれた言葉が、今も古傷のように胸をうずかせる。
「ご両親が亡くなった」

理解も反応も出来ずにいた少年に、早口で何か説明した。何だったのかすら思い出せない。ただ、最初の一言だけが今も残っている。
それからの記憶は学校で聞かされた歴史の物語のように遠く、実感のないもので、オリビエは強張りさび付いた心臓が痛む気がして、ずっと胸を押さえていた。
その手を開放できたのは楽器の前でだけだった。
それがどんな音だろうと、曲だろうとリズムだろうと。関係なかった。とにかく指が走った。胸の痛みが和らぐ気がした。あれが、オリビエが無心で作曲するようになった最初だ。
それは、自分の記憶には残らない。自分から音に乗せて感情を解き放つものだったのだ。自分の中に納めて置けないそれを吐き出すための曲。それを記憶する理由などなかった。
侯爵に弾いてくれと頼まれるまでは。

「レクイエム、それはご両親にあてたものか」

オリビエがいつのまにかレクイエムだけで終わらずに、弾き続けていた自分に気付いたとき、男爵が声をかけた。

見ると、男爵は涙を流していた。


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「音の向こうの空」第七話 ③

第七話:疑惑、教会、オルガンの音



「あ、あの」

ズレンはいつの間に準備したのか、温かい茶を入れてくれていた。
それを受け取って、男爵は両手で抱えた。背中を丸めた男の姿がやけに小さく見え、ズレンから紅茶を受け取りながらオリビエはどうしたのかと青年に目で問いかけた。
ズレンは小さく肩をすくませ、ささやいた。
「男爵も大切な誰かを亡くしているんだろう」

オリビエが立ち上がって、ズレンと並んでソファーにうつろうとした時。
いつのまにか男爵が目の前に立っていた。

酒によっているのか音楽に酔ったのか。虚ろなくせにぎらぎらとした目でオリビエを見つめると、オリビエの手から紅茶のカップを取り上げた。
「?男爵」
間近で見ると少し伸びた髭が、男を年齢以上に見せていた。
「ズレン、お前は席を外せ」
酔っている声ではなかった。オリビエのカップをテーブルに置くと、目を丸くしている衛兵の青年にロントーニ男爵は命じたのだ。
「オリビエに話があるのだ。お前は部屋を出ていなさい」
肩に回された腕に嫌な予感を覚え、オリビエはズレンにだめだと首を横に振る。
ズレンは男爵の手を引き剥がそうと、自分もカップをテーブルに置くと立ち上がる。
「男爵さま、落ち着いてください、どうぞ、お座りください」
嫌に優しげな口調でなだめるが、男爵は手にますます力を込める。
「あの、男爵、私は」
「煩い、邪魔をするな」
何の邪魔だというのか。
ズレンを突き放そうと、男爵は腕を振り払う。勢いでよろけるところを見るとやはりまだ酔っ払いなのだ。
結局オリビエがそれを支え、お前は、と繰り返す男爵を二人がかりでソファーに座らせた。
「男爵、落ち着いてくだ……」
しがみつかれ、オリビエは困り果てる。
「あの、男爵」
「お前は、覚えているのか」

「え?」
男爵はうつむいたまま、そういった。
「お前は私を、あの時見たのか」
男爵の言葉にズレンが首をかしげる。
何のことだ、と。
オリビエは小さく首を横に振り、知らないと合図でかえした。

「男爵、あの。何のことですか」
返事はなかった。

「……寝てる」

派手にため息をついて、ズレンは男爵を今度は乱暴に引き剥がした。それでも寝込んでいる男はピクリともしない。
「迷惑だな」
「驚いたよ」

二人でシューレンさんのお手製のシルクの刺繍のカバーに包まれるように寝込んでいる男爵を眺めた。
「親しいのか?オリビエ」
「いや、侯爵様には近づくなといわれているよ。なんだか、僕の母さんに懸想していた頃もあったらしい」
「ふん、実力はあるのにな、こういう人だとは知らなかったよ」
ズレンは顔をしかめた。

このエスファンテ市の衛兵であるズレンは、男爵について話してくれた。
ホスタリア・ロントーニ男爵は、もとはファリの郊外に居城を構える貴族だった。宮廷貴族の家柄の次男坊だった彼は十数年前にこの町の隣リンスに移り住んできたという。綿織物の工場を持ち、ここ数年は外国の安い輸入品に押されつつあるが、新しい蒸気機関の機械を取り入れて事業を精力的に展開しているという。
侯爵の領地であるこのエスファンテでも、多くの市民が男爵に雇われている。それがこの地が潤う一因でもあり侯爵はロントーニ男爵と親しくしているというわけだ。

「資産は莫大だと聞いている。でも、工場の勤め人は随分ひどい扱いらしい」
ズレンは最後まで蔑むような口調のまま語り終えた。
男爵は息をしているのか危ぶまれるほど静かに寝込んでいた。その表情がやけに無心で、四十過ぎには見えないほどあどけなく見えた。
それがまた、気に入らないのか、ズレンはこのままここに寝かせようと言い出した。
「運ぶならお前一人でやれよ。俺はいやだ。そんなでかい図体の奴」
「でも、仮にも男爵様だよ。まずいよ」
「お前の両親の寝ていた部屋に、こいつを寝かすのか?」
「仕方ないよ。いいよ、一人でやるから」
ズレンが何をそんなに憤っているのか、オリビエには分からなかった。
男爵の今日の態度なのか、日々の行いなのか。ため息をつきつつ、オリビエは重い男の体を抱き起こそうとする。が、寝込んでいる男爵は異様に重い。
「ばか。こうやるんだよ」
見かねたズレンは男爵の腕を取り、すんなり背中に回すと背負うように持ち上げた。
「すごいな」
「戦場でね、負傷した仲間を助けなきゃならないからな。そういう訓練も受けている。俺、お前とは組みたくないな。見殺しにされそうだ」
「……悪かったな」
オリビエは両親の寝室の扉を開いた。
シューレンさんが毎日窓を開けて風を通してくれていた。もう五年以上も使われていないのに、そこは清潔に整えられていた。何もかも以前と変わりなく。ただ、両親の姿だけがないのだ。

「いや、違うな」
やはり重いのか少し苦しげにズレンがつぶやいた。

「何が」
「俺がお前より先に死ぬことはないな」
「僕が早死にだって言うのか?縁起でもないこと言うなよ」
「オリビエ、お前お人よしだから。戦争になったらすぐだぜ、すぐ」
「だから、殺すなよ」
「だから、護ってんだろ」

どさりと重荷をベッドに投げ捨てると、ズレンはそのまま座り込んだ。肩を手でもみながら寝込んだままの男爵に「貴族様はお気楽で」などと皮肉を投げかけている。

「戦争、起こるのか」
オリビエの問いに青年の動きが止まった。
「仕方ないな。男爵がいたんじゃ今日はどうせ帰れないんだ。とことん飲み明かそうぜ」


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「音の向こうの空」第七話 ④

第七話:疑惑、教会、オルガンの音



ワインが飲みたいというズレンが地下から三本抱えて戻ってきた時にはオリビエはソファーに深く沈みこんで、大きなあくびをしていた。とっくに日付は変わっていた。そんな時間まで起きていたことはなかった。
「おいおい、まだ寝るなよ。あの男爵がいつ起きてくるか分からないんだからな」
「そんな、人を化け物みたいに言うなよ」
「いいや、あいつは絶対怪しい。不気味だろ、何するか分からないからな。お前は知らないかも知れないけど、男爵は男色家だって噂もある」
「……雇われたのが男爵でなくて良かった」
同じ仕事なら、まだアンナ夫人の方がマシに思えた。

「で、戦争だが」
ズレンはワインのコルクを何度も気持ちよさそうに鼻に近づけて息を吸う。
「ああ、いい奴だ。お前にはもったいないな」
オリビエは黙って肩をすくめる。

正直、オリビエはワインの味はよく分からない。侯爵が置かせているのだから、悪いものはないだろう。多分、ズレンが想像する以上に高価なものだ。

キシュが喜んで持って帰るパンは侯爵家で焼かれたものだし、用意されるタオルやシーツ、全てが侯爵のものだ。それを喜ばれてもオリビエには感銘はない。

「早く、聞かせて欲しいな。何が起ころうとしているのか、どうして僕に護衛が必要になっているのか」
ワインを一口じっくり飲んでズレンはオリビエをグラス越しに眺めた。

「なんだよ」
「議会なんだ。何かを決めるために議員は集ってる。なんだと思う」
オリビエはファリでマルソーに聞いたことを話してみた。
「貴族や僧侶にも税金を納めさせるってことだろ」
「喜ぶはずないよな、貴族も僧侶も」

オリビエもわが身を思う。自分もその特権を与えられている。これで税金などといわれてもどうしていいのか分からない。貴族や僧侶の中には貧しいものもいるだろう。

「言い出したのは宮廷なんだけどな。今この国は借金だらけで、そのうち隣国のアウスタリアには国土を買い取られるんじゃないかって噂まであるくらいだ。だから、国王陛下は国のために貴族に我慢してもらおうと思っている。けど、納得いかない貴族と僧侶は、話し合いを放棄して議場を別にしたんだ」

「……三部会、じゃないのか」
「今は二部会と平民部会、って感じだな。平民の代表たちは皆に期待されている。早いところ決着をつけてほしいと皆願っているんだ。大体、主だった貴族や僧侶、平民代表の豪農やブルジョアたちがそれぞれの領地や仕事を放り出しているんだ。あちこちで困ったことになってる。領主が議会に出ている間に農民一揆が起こった街もあるんだ。それを聞いて慌てた地方貴族は領地に飛んで戻った」

「!あれ…それ」
「そうだ。表面上はお前のためになんて言っていたが、実際は侯爵様だって領地が心配だったと思う。例え侯爵様が平気でも、ここで残っている俺たちエスファンテ衛兵は気が気じゃなかったからな。だから、俺たち下っ端を安心させるためにも侯爵様は戻ってくださった」

「……でも、またファリに行かれたんだろう?」
二杯目を注ぎながらズレンはフンと息を吐き出す。

「議会の膠着に困った宮廷が、一度罷免された宰相レッフェルを呼び戻したんだ。スイスの元銀行家だからね、彼の政策には皆期待している。その彼が奔走したらしい。平民部会は自分たちで国民議会なんてものを打ちたてようとするし、放っておけなかったんだろう。それで議会が再開された。侯爵はロスレアン公に呼ばれたようだ。あの王弟は腹の読めない人だけど侯爵様を買っている。昔、侯爵様が軍隊にいた頃に同じ隊に所属したらしい。侯爵様も宮廷に継ぐ権力を持つロスレアン公の申し出は断れない」

オリビエは結局ロスレアン公とはまともに話せなかったと思い出した。

「今、議会は宮廷の軍隊に囲まれているそうだ。ファリ市民の傍聴も許されないらしい。議会の代表者たちは支える民衆から切り離されて孤立している。ファリの市民は街の中を軍隊が闊歩するのに閉口しているようだ」
「大丈夫かな、侯爵様」

物静かな侯爵が、議場の狭い席に座る姿を想像した。
あのときのパレードでそうだったように、隣にはロスレアン公がいるのだろう。

「だから、今度はエスファンテ衛兵を連れて行ったんだ。彼らが帰ってくるまでこっちだって何とか維持しておかなきゃならない」
「維持?」
「本当に疎いな。このエスファンテは国境の町だろう?すぐ隣には山しかないとはいえ、アウスタリア領だ。アウスタリアの人間が入り込んで、少し前から街の不穏分子を利用しようとしているって噂だ。キシュの住んでいる、あの界隈。そこを拠点にしているんだ」

「……彼らを扇動して、一揆でも起こさせるって言うのか」
「そこまでは分からん。けど、首都のファリがあんな状態で、その上この地には領主がいない。アウスタリアだって首輪でつながれているわけじゃないんだ。当然狙っているだろう。現に、南部では一揆を起こした農民をスフェン王国が支援しているという」

「……それで、どうして僕に護衛なんだ」
ズレンは砕いたチーズを口に運ぶとワインで流す。

「さあ。そこだけは分からないね。市の東部には山賊も出ているらしいし、流浪民が夜の間に作物を荒らすという話もある。それに対抗しようと農民は自警団を作っているらしい。その自警団も矛先を我らに向ければ反乱軍だ。このエスファンテだって治安がいいわけじゃない。ま、とにかく侯爵様はお前のことを気にしていた。お前の何が特別なのか、それは侯爵様にしか分からないだろ」

沈黙に耐えかねたようにズレンは三杯目をグラスに満たした。
赤く揺れるそれを見ながらオリビエは目を擦った。

「眠いなら寝ろよ、俺はここにいるから」
「……ズレンは」
「ジーでいい。友達にはそう呼ばれている」
「ジーは、もし何か起こったら、人を殺したりできるのか」
「何のための衛兵だよ」
「だけど、さ」

「お前みたいに温室の中で綺麗なものばかり見ているのとは違うさ。一つ、忠告しておいてやる。優しくて、親しくしてくれる人間ほど裏切りやすい。人など、表面上は何でも繕える。気をつけるんだな」

「…僕のことを裏切って得する奴、いるのか?」
「ぷ、そりゃ、……いないかもな」
その発想が気に入ったのか面白そうにワインを飲み干す。


何も持っていないのだ。音楽しか能がない、こんな奴を大事にしてくれる侯爵。仕事とはいえ護ろうとしてくれるジー。
オリビエは音楽を残してくれた両親と神に感謝していた。


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