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「音の向こうの空」第八話 ①

第八話:葦のように真っ直ぐ



「侯爵家には出入り禁止になっていてね」
ロントーニ男爵の言葉はますますオリビエを混乱させる。

「それは、その?」
「侯爵がいらっしゃれば許可も出るだろうがね。主のいない城を護ろうと皆躍起になっているからね。連隊長のズレン・ダンヤがあの様子じゃ、当分入れてもらえそうにないね」

「え?ズレンって、そういう立場なんですか?」

「ああ、知らなかったかね?あのメジエールを出たエリートだからね、侯爵の信頼も厚い」

いや、男爵こそ、この間の夜は彼のことを名前も知らない様子で酔っていたではないか。
怪訝なオリビエの様子に男爵は口元に白い歯をのぞかせた。

「あの時のことか?酔っているわけがないだろう?」
「でも、眠ってしまって?」

「そうすればお前と二人きりになれると踏んだのだがな。あいつはなかなか警戒心が強い。ふりだったことを感づかれたか」

世の中には分からないことが多すぎる。
あの酔っ払いが演技だとして、それは友情を演じていたズレンと同等、もしくはそれ以上の実力だ。二人は互いにそれを意識しながらけん制していたというのか、あの夜に!?

「ふ、まるで葦のように真っ直ぐ育ったか」

育ったと、かなり上から見下ろされて青年は眉をひそめる。
まるで小さい頃から見続けていたかのようではないか。

「その」
「あの場所には、革命家が集う。お前の両親を殺した輩も未だにそ知らぬ顔で自由を謳う」

何を、どう。言えば。
いや。

「え…?殺した!?」

男爵が見つめる青年は灰色の勝った淡いグリーンの瞳をこれでもかというほど見開いている。
当然。
青年の反応に満足した様子で、ロントーニ男爵はさらに肩に回す腕に力を込める。
「そうだよ。真実は闇の中。やっと、捕まえられそうなんだよ。奴らの尻尾をね」
「あの、ええと」
「冗談じゃない。酔ってもいない。いいかい。オリビエ、私が君の母親を愛していたことは侯爵から聞かされているだろう」
愛していた、と露骨な表現に何かしら不快感はあるものの両親が殺されたのだということのほうが強い波を心に立てる。
黙って頷いたオリビエに、男爵は声音をさらに低くした。

「私は、あの晩、マリアに会いに行った。お前がどう思うかは知らんが、私は彼女を愛していたし、彼女も私に応えてくれた。それは事実だ。そして、お前が納戸に入っている間に彼女と愛を交わそうとしたときに、教会からの使いが来た。お前の父、ラストン・ファンテルが転落事故で大怪我をしたと。私は隠れながらその話を聞き、彼女は私のことを気遣いつつも夫の後を追った」

そして。
「結末はお前も知っているだろう。私はお前の家を抜け出した。翌朝。二人がともに、事故死したことを聞かされた。あの時彼女を迎えに来た教会の下男たちは、今もぴんぴんしているのにだ。お前が納戸にいることを知っているのは私だけ。だから、納戸を開け眠っているお前を寝室に移したのだ」


次へ♪
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「音の向こうの空」第八話 ②

第八話:葦のように真っ直ぐ



吐き気がした。
意味が、飲み込めない。

母さんが、男爵と?いや、教会の下男、あの時オリビエが納戸から聞いた、母を呼ぶ来訪者は男爵だったのか。

「!それで、あの時男爵を見たのかと?」

酔っ払いがたわ言で問いかけた。
あれは、あの夜のことを感づいているのか鎌をかけたというのか。

「お前は、まだ幼かった。やはり気付いてはいなかった。だが、もう大人だ。知るべきだと思っていてね。母親と私のことも、受け入れられる年齢だと判断した」
「ま、待ってください。その」
ふと。頭をなでられ、オリビエは男爵の顔を見上げた。
思わず大きな声になりかけたことに気付く。

すでに夜更け。人通りのない町に灯る明かりも少ない。オリビエの家に近づくにつれ、周囲の民家はまばら。麦の畑と真っ直ぐ伸びる糸杉が月明かりに黒い影を落とす。
「当時、疑うものがいなかったわけじゃない。雨の後とはいえ、それほどの斜面でもなく、堤防は高々二メートルだ。しかも司祭会に向かう途中とされたが、通常司祭会に妻を伴うことはない。あらゆる面で不自然だったが、一番不自然だったのは侯爵が事故死を認めたことにある」

飲み込めず、過去の思い出と語られる言葉におぼれそうになっている青年を無視して、自分の推理を並べ立てる男爵に、オリビエはついに実力行使。
男爵を乱暴に突き放した。

「待ってください!僕は、貴方の言葉が信じられない」
何しろズレンと同じ名演技の主だ。
再び手を伸ばす男爵を睨みつけ、一歩下がる。
「ふん、まあ、いい。知りたくなったらいつでも私の屋敷を訪ねてきなさい。ああ、自由のないお前では、どうしようもないだろうが。お前がどう考えようと、私は私のやりたいようにする。ただ、関係するお前に伝えておきたいと思っただけだ」

おどけるような口調に戻り、男爵は派手に肩をすくめると、もときた道を戻り始めた。
「!ちょっと、男爵!」
散々並べ立てておいて、じゃあ、とすんなり帰るつもりか。
男爵のその意図は、背後からの声で理解した。
「オリビエ様!」
駆け寄る足音。
サーベルを携えていることが、膝あてと擦れる独特の音で分かる。
ズレンが、厳しい顔で駆け寄ってきていた。

肩を押さえられると同時にぴしと。頬を叩かれた。
まるで、親に叱られる子供のように。
「殴りたくはないと、言ったはずです」
つかまれた腕は痛いほどだ。強引に引いて行く後姿。その怒りはどこか理不尽な気もしたが、今のオリビエには考えなくてはならない重大なことが他にあった。両親の死の真相。男爵の語った言葉一つ一つを、もう一度慎重に再現する。
意味を再認識するたびに不快な事実や信じたくない事柄が飲みすぎたワインのように気分を害した。


屋敷に戻るとズレンを無視してオリビエは湯を沸かしはじめた。手桶で浴槽にそれを移しながらオリビエは何度も頭の中で整理する。
手伝うでもなく、ただ浴室の入り口で立ったまま腕を組むズレンを無視して、オリビエは一人になるためにこんな時間に風呂に入ろうとしていた。
一人で考えたい。
それでも見張ろうというのか、この男は。
「ずっと見ているつもりなのか」
オリビエの言葉に、ズレンは黙ったまま部屋の外に出ると扉を閉めた。そこに立ったままでいることは、想像できたが。それでも息を吐き出しオリビエはやっと男爵の行動と言葉を右に左に並べなおす。

あの『事件』(すでにオリビエの中では『事故』ではなくなった)あの日。

納戸に閉じ込められたオリビエの見ていないうちに男爵が母親を訪ねた。母親との密会の間に教会から使いが来る。父親の事故の知らせを受けた母親は慌てて家を出た。
母親と父親は同じ馬車の中、教会へ向かう途中の田舎道で転落事故にあった状態で発見された。
先に司祭会に向かった父と、後から呼ばれていった母が同じ馬車で発見される自体おかしいことになる。
そこに疑問を持った男爵は、真相を突き止めようと、母親を迎えに来た教会の下男たちを調べた。先日、キシュの家の酒場で会った、あの男たちが教会の下男だと思えば、そこから男爵がキシュの酒場に通うこともつながる。
調べようとし、革命家の集るという酒場に男爵も顔を出す。
表向きは革命を援助する貴族様というところだろう。キシュの態度からもそれは伺えた。その実、男爵は事件の真相を突き止めるために潜入していた。

すべては、母マリアの死の真相のために。

父は。
母に裏切られていた。

ちゃぷ、と湯を叩いた。
十二の頃、当時二十歳だったマリアに惚れ込んだ男爵は、享年三十七の母と八つ年下の恋人として密会を重ねていた、というのか。
十九の自分が三十五歳のアンナ夫人と情事を交わすことを思えば、おかしなことはない。
ただ。
父親の穏やかな笑みが。悲しく感じるだけだ。

「いつまで、入っている。のぼせるぞ」

思考を妨げる衛兵の言葉に顔を上げると、湯気なのか睫にたわんだ雫が頬に散った。


まだぬれた髪をタオルに包んだオリビエのために、ズレンは夕食を温めていた。
テーブルに並べられたスープや肉から、オリビエは目をそらす。

次へ♪

「音の向こうの空」第八話 ③

第八話:葦のように真っ直ぐ



「すみません、夕食は外で」
「は、散々心配させておいて、何をしていたのです?男爵と一緒でしたね。あの男と仲良くなったのですか?」
つかつかと近寄るズレンは普段より大きく見える。いや自分が髪を拭きながらで、うつむいた状態だからか。目線がズレンの首元くらいだ。
「!」
不意に腹に拳を受け、オリビエは息がつまる。
「オリビエ様、身勝手な行動は控えていただかないと。困ります」
避ける間もない二発目は深く、かがんだところで胸倉をつかまれる。ぬれた髪が頬に当たった。
オリビエの首に腕を回し強引に引き寄せると、ズレンは囁いた。

「キシュに、会ったのでしょう?」
「……」
「まあ、いいでしょう。オリビエ様、今日の市役所の騒ぎをご存知ですね?いいタイミングでキシュが現れた、そう思いませんか」
「え?」
「デマを流し、市民を扇動したものがいます。噂が真実でないと知った市民はすぐに引き上げたが、その間に侯爵様の大事な楽士さまは行方不明。後数時間、姿を現さなければ、私は兵を酒場に差し向けるところだった」
ことの大きさに唖然とし。
「オリビエ様。貴方が人質になった場合。侯爵の命で貴方に怪我の一つも許されていない私はどんな処罰を受けることやら。女にそそのかされてのこのこついていくなど。あきれてものも言えません」
人質?
「理由、を。何故僕がそんなことに巻き込まれているのか、何も話してくれないじゃないか!」
キシュが、何か企んでいたというのか?あの笑みの奥にそんなものはない、なかったと。信じたい。
葦のように真っ直ぐ。
男爵の言葉が殴られた胃のあたりでうずく。

「聞けば、今後一切勝手な行動をせず、キシュにも会わず。大人しくかごの鳥でいてもらえますか?」

オリビエは顔を両手で覆った。
何を、どう信じろと。

「二度と私に逆らわず、キシュとも縁を切り、これまでどおり従順な楽士さまでいるのなら、友達の演技を続けてやってもいいんですよ」
「ズレン!」
オリビエはつかみかかった。
それすらあっさり交わすとズレンはオリビエの腕をひねり上げる。
「……ズレン」締められれば痛みに声がかすれる。
「オリビエ、自分がいかに力ないか。思い知ったほうがいい。一人で生きていけもしないくせに。確かにお前の音楽は人の心を打つだろう。だが、それだけのことだ。お前は思想も力も、人の話を聞く耳も持たず、まともな判断もくだせない子ども。自分の理解が及ばないことに腹を立てて、暴れているに過ぎない。こうしてからかって苛めるのが楽しくて仕方ないですよ」
「く……」
「どうしました?暴れないのですか」
ひねられた腕がミシと軋んだ気がした。
「いた…」
腕。
ぞくと恐怖心が走る。折られたら楽器が弾けない。
この期に及んでもそんなことしか浮かばずしかもそれが圧倒的な恐怖心を沸き起こす、そんなふうになったのは、そう育てられたからか。男爵の顔が浮かんだ。
悔しさに眼が熱く感じる。

「っと、腕を折るのはまずいな」まるで今気付いたかのようにつぶやいて、ズレンはオリビエを解放する。

「もう遅い、子どもは早く寝るんですね。それとも添い寝してもらわなきゃ眠れませんか?」
痺れた腕をさすりながら、オリビエは二階の自室に駆け上がった。
悔しさを音にしたくて、もぐりこんだ布団の中で空しく指先だけが叫んでいた。
まさしく、ズレンの言うとおりだから。

次へ♪

「音の向こうの空」第八話 ④

第八話:葦のように真っ直ぐ



翌朝、いつもどおり馬車に乗せられ侯爵家へと向かう。
黙り込んだ車内から丁度教会への道との分岐あたり。オリビエは男爵の話を思い出しじっとそちらを見つめていた。
「オリビエ様、今日からしばらく、ご自宅には戻れませんから。昨夜の騒ぎで懲りましたからね。侯爵家で部屋を用意させます」
「!?」
振り向いた青年にズレンは表情を変えることすらしない。
「貴方はお屋敷で自由気ままに、好きな曲だけ奏でていればいい」
嘲るようなズレンの口調にも、身動きできない侯爵家の滞在も。一晩中思考を廻らせ続けた疲労のために睨みつけるだけの鈍い反応に終わる。

僕の知らない何かが起こっている、だから巻き込まれている。
焦燥感に駆られ悔しくて眠れなかった昨晩を思えば、当分はそれに心を費やすことで救われる気がした。さまざま気になることはあるが、まずはそこを知らなくては動けない。
ズレンが言ったとおりだ、何も知らないでいることがもっとも腹立たしいのだ。

大人しいオリビエに飽きたのか、ズレンは再び黙って馬車の進行方向を眺める。


オリビエの求めた答えは意外なところから転がり出てきた。
その夜、蒸し暑い七月の音楽堂に窓を開け夜風を導きいれる頃。いつもの足音が耳についた。
走ってくる。そして、扉の前で立ち止まり。数回、息を整えるタイミングで黙って扉を押し開く。

公爵夫人はしどけない夜着の胸元をはだけさせ、楽譜を片手に考え込む青年にすがりついた。
「アンナさま!」
「オリビエ、ねえ、お前は知っているの?ねえ」
その晩は、いつもより息を整うのが遅いらしい、少し興奮気味のその口調は子どものようだ。
「なにかあったのですか」
まずは、といわんばかりに青年に抱きついてキスをねだる。夜の音楽堂は薄いレースのカーテンをしていても外から見れば暗い庭に立つオペラ座。ステージとも言えるその場で夫人は柔らかい腕に青年の頭を抱きこんで、甘える。庭に立つものがいれば見せびらかしているとしか受け取れないだろう。
「ア…」拒もうとするのを強引にふさがれる。
慣れた口付けに応えると、小さい吐息を漏らしながら夫人は青年を解放した。
「ね、オリビエ。お前の両親のこと。お前は知っているの?」
それは男爵の言っていたあれに近い筋の話か。
「驚かないでね、お前はね、不義の子なのよ」
不義?…とはつまり。
予想していなかった夫人の収穫にオリビエは眉をひそめる。
青年の虚をついた自らの探偵振りにますます嬉しさを増すのか、夫人は自慢げに語り続ける。
「あのロントーニ男爵が、お前の母親と愛し合っていたなんてねぇ。血は争えないのね」
「あの?」
「お前はね、ロントーニ男爵が十六の時の、子ども」
「待ってください!」
「待たないわ。ねえ。オリビエ、面白いわね、男と女って。こうして私がお前と抱き合うのも運命のようじゃない?お前だって私のことを言えた義理じゃないのよ。そうでしょ?侯爵様を裏切るのも当然よね。お前が私と関係を持ったのが十六の頃。ねえ、私がお前の子を宿したら、侯爵様はどう思われるのかしらね」
脱がそうとする婦人の手を払い、オリビエは数歩後ろに下がる。風にたわんだカーテンがさらりと肩に触れた。

「私は、ラストン・ファンテルの子供です!おかしなことをおっしゃらないでください!」
父は穏やかな人だった。音楽には厳しかったが、温厚でいつも笑っていた。尊敬していた。母が彼を裏切っていたなど拒絶したい思いを昨夜一晩かけて、納得は出来なくとも兎に角事実を確かめる必要はあるのだと、冷静であれと自分に言い聞かせた。ズレンの言うとおり駄々をこねているのではいけないのだと、大人にならなければと。
それを、アンナ夫人の赤い唇はまさにパンドラの箱。
自分が、母と男爵の不義の子であれば。
父を裏切っていたのは、自分も同じではないか!

「誰が、何を言ったのか知りませんが、たとえ母が男爵と関係を持っていたとしても、私は。音楽家の子なのです」
オリビエの音楽家たる源の一つ。音楽家の子として音楽に親しみ、当然のようにそうなろうとした。オリビエに音楽を残した父と母、そして神に感謝していた。

「あら、びっくりしたの?侯爵様も、男爵ご自身もご存知みたいよ。ビクトールだって知っていた。だから。男爵は出入り禁止らしいのよね」
オリビエの反応が楽しいのだ。
夫人はすぐそばにあった椅子に座ると、足をふらふらと揺らしてみせる。白いスカートの裾になぜかオリビエは見入っている。
それを意識してか、はしたなくも足を組みかえると夫人は組んだ腕で胸を強調し微笑んだ。
「男爵は恋人の敵を討ちたいのね、お前が侯爵様に引き取られると安心して、愛しのマリアを殺した犯人を探し出そうとわざわざこの町に居を構えた。あの年まで結婚も女性の影もないのはマリアに誓いでもしたのかしらね」

それは理解できた。
男爵のあの晩の様子から、彼が犯人を突き止めようとしていることは明らかだ。それを、オリビエに知らせようとした。
あの時、ズレンが現れなければ、もっと多くの話が聞けたのではないか。
知りたければ、尋ねて来いと男爵は笑った。
アンナ夫人の話がどこまで本当かは怪しい。噂話も自分の面白いと思うことを信じるのだ。そんな推理では謎は解けない。
男爵なら。

事件のことも、今起きていることも。話してくれるのではないか。
この曇り空に一筋の陽光。


「アンナ様、それが真実だと、どうして分かるのです」
「あら、なあに?疑うの?」
「証拠もないですしね。私が男爵の子だというのは、男爵が認めているとおっしゃいましたが私の前で彼は何も言いませんでした。根も葉もない噂でしょう」
「失礼ね!ここ数日私がどれだけ走り回ったのか!」
自身が走ったわけではないだろう。
「だとしても、あなたはロントーニ男爵にはお会いしていない。リツァルト侯爵が私とどんな関係なのかも、ご存じない」
頬を赤くし黙りこんだ夫人に、オリビエはけしかけた。
「知りたいでしょう?私も同じ。明日、男爵を訪ねてみませんか。かの屋敷の庭はフェルサイユ宮殿を模した新しい形式のものと聞いています。男爵が話してくれるかはともかく、一緒にそこを歩くだけでもこの退屈な屋敷に閉じ込められるよりはましだと思いますが」
夫人の前に膝をつくと、腕をつかむ。白い足首から腿、その先へと指を這わせれば、夫人は小さく身をよじった。
「オリビエらしく、ないわ」こちらも夫人らしくない恥じらいを見せた。おびえる兎のようであるなら、オリビエも猛獣たる態度に変わる。
あえぐ唇を指でなぞると、そのまま細い首に口付ける。襟元から深く差し入れた指先で真綿のような乳房を露にした。
「アンナ様、私が男であることをお忘れですか?日の光の下で貴方が恥らう姿を見て見たい。気が遠くなるほどの快楽を」
舌は夫人の理性を舐め取る。
「……んっ」
「知りたくはありませんか」

男爵が何を語るのか、何を知らせたいのか。夫人を伴えば外出できる。
自分にふりかかる暗雲を取り払い、その向こうにある空を見上げるためなら。
穢れた行為も、侯爵への罪悪感も、すべて飲み込んでみせる。

オリビエは似ていないそれにキシュの未熟な身体を思い浮かべ、あの教会の愛しい夜のように少女に触れたいと願った。

次へ♪

「音の向こうの空」第八話 ⑤

第八話:葦のように真っ直ぐ



七月の日差しは早朝に関わらず暑く二人を射た。
夫人が馬車から降りるのをいつもどおりビクトールが手伝おうとすると、夫人はつんと言い放つ。
「オリビエ、来て」
オリビエはビクトールがどういう顔をしているのかと内心哀れに思いながら、夫人の手を取る。
降り立つと同時によろけたフリをして抱きつくのだ。
その目的のためにオリビエを呼ぶ。
驚いて支える青年にまるで仕掛けた悪戯が成功したかのように子どもっぽく笑う。
三人の様子を顔色一つ変えずに見届け、男爵家の侍従は夫人に恭しく頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました。男爵様はただ今朝のお散歩に、邸内を散策中でございます。中庭の東屋に茶を用意するよう命じられておりますので、よろしければご案内いたします」
「あら、大丈夫よ、素敵なお庭ですもの、ゆっくり歩いてみたいから。ビクトール、先に行ってご挨拶を」
すっかり当初の目的とすり替わっているのだろう、夫人はオリビエと二人で散歩を楽しみたいと言い出し、ビクトールはしぶしぶ二人を送り出す。


侯爵家とは丁度市の中心を挟んで反対側に位置する広大な敷地に、ロントーニ男爵は屋敷を構える。隣町に持つ工場だけでなく、彼は実業家としていくつかの町に織物の事業を展開していた。さぞ、華やかだろうとオリビエはファリで見たロスレアン公の別宅を思い出したが、予想とは少し違った。
広大な庭は綺麗に整えられ、小道に沿う花のアーチや、トピアリー、美しい初夏の白い花々が彩っているが、どこか静まり返っていた。
遠く見える母屋も、離れも。侯爵家であれば、見回せば誰かしらが目に入った。庭を整える下男だったり、大広間の窓を拭くメイド、犬を走らせる侍従。生活し働く音が絶え間なく流れ込んでいた。
それが、この男爵家には感じられなかった。
だれもが息を潜めているかのように。高木の少ない庭のつくりはそこから鳥のさえずりさえも追い出してしまったようだ。
夫人はオリビエの右の腕、くるりと回って左の腰にまとわりつくように歩いている。
「静かな庭ね」
夫人も何かしら、不思議そうに見渡していた。

「なんだか、気持ちが悪いわ」
オリビエと同じ感想を口にし、期待していただろう甘い時間を夫人は諦めたようだ。
「見回しても誰もいませんね」
「ええ、だからこそ、余計に誰かに見られている気がするわ」
相手の存在が認識できないからこそ、不安になるのだ。
「誰かしら、いそうなものなのに」
オリビエのつぶやきに、アンナ夫人はぎゅっと手を握り締めて返す。
「男爵は変わり者だから、ここにお一人でお住まいなのよ。ご兄弟も、ご両親も、だれも一緒に住まれないと聞いたわ。男爵お一人のお世話をするなら、侍従もメイドも少なくていいのよ」
「侯爵家はご親類の方や、ご友人、必ずどなたかお客様が滞在されていますね」
「ええ、そうよ。侯爵様は無口だけれど、親族やご友人に信頼の厚い方ですもの。私もにぎやかなことは好きだから。そのために大勢雇い人がいるんだから、もてなすお客様がいなきゃ首にしなきゃならないでしょ」
物騒なことをさらりと言いのけ、アンナ夫人は雇い人の一人であるオリビエに寄り添う。
「このお屋敷に、楽士が欲しいというのも、分からないではないけれど。オリビエ、お前を譲って欲しいと侯爵様に交渉を始めたのは、もう随分前からなのよ」
「去年、そういったお話を耳にしました」
「あら、違うのよ。もう、そうね、三年前には。このお屋敷に移られた頃からずっとね。侯爵様は断り続けているけれど」
「…知りませんでした。それで、私が男爵の子供だなどと?」
「その可能性はあるでしょう?」
「それが事実なら、嬉しくはありません」
「お前は、バカね。男爵の子どもとなれば、これだけの資産を受け継ぐのよ?お前も立派な貴族の一員になるわけだし、雇われの楽士でいる必要などなくなるのに」
「…気付きませんでした」

確かに、裕福であれば、誰かに雇われて音楽を奏でる必要もないのだ。好きなときに好きなことが出来る。気ままにいき、好きなことだけを。
その想像は、あまりオリビエの気持ちを高揚させない。
「嬉しくないの?」
「分かりませんが。先日教会で奏でたときに、とても充足を感じました。そういうほうが、私には」
「教会で?」
「!」
それは。
知られてはいけなかった。

焦りを表情にしてしまったことすら後悔するオリビエを、アンナ夫人はじっと見上げていた。
またなにか、まずいことになるだろうか。
「オリビエ様、こちらです」

怪しげな雰囲気を、ビクトールの声が遮った。

次へ♪

「音の向こうの空」第八話 ⑥

第八話:葦のように真っ直ぐ



二人が歩いてきた道の先に、小さな屋根と、丸いテーブルを備えた東屋が見えた。それは周囲を硝子で囲い、補強のためか、装飾か鋳物の細い柱が周囲を円形に囲い薔薇を這わせている。鮮やかな紅色の小ぶりの花が浅黒いビクトールにやけに似合って見えた。
彼の背後、メイドが茶を入れ終えたのか、ワゴンをからからと言わせて出て行った。

ロントーニ男爵は、肩に揺れる木陰を乗せたまま笑っていた。
「これはこれは、アンナ夫人、よくおいでくださいました」
定例どおりの挨拶を済ませ、三人は丸い白いテーブルを囲んだ。
少し湿り気を帯びた庭の中の小さな部屋は、紅茶の赤を新鮮に見せた。

「突然お邪魔して、すみません」
三人がカップを置いたところを見計らって、オリビエが口を開く。
「男爵に、お聞きしたいことがありまして」
「よく来たね、まさかこういう方法で尋ねてくるとは思わなかった。つながれた鎖を飼い主ごと引っ張ってくるとはね」
男爵がニヤと笑う。
慌ててオリビエは隣の夫人の顔を見つめるが。
「!?アンナ様!?」
公爵夫人は、くたりとテーブルに突っ伏したところだった。その手に押されて、カップがかちゃと危険な音を立てる。
オリビエがもう一度夫人の名を呼び、気付いたビクトールが東屋に飛び込んできた。
「オリビエ様、奥様は一体?」
「少々、庭に酔ったご様子だ。リトー、お部屋を。休ませて差し上げるんだ」
いつのまにかビクトールの背後にたたずんでいた男爵の侍従は小さく頭を下げると、ビクトールの肩を叩く。

ビクトールはちらりとオリビエを見つめる。
「ああ、彼は私と話があってね。後から行くよ。夕食にはご夫人もお目覚めだろう」
「あなたは!」
夫人に薬でも盛ったのではないか!
どう考えてもそうとしか思えない。
しかし、証拠などない。目の前の穏やかな笑みの男に何をどう言っても交わされてしまうだろう。
茶は最初からテーブルにあり、それが注がれた場面を見ていたわけでもない。
通常であれば、席に着いたところでメイドがカップに茶を入れるものだ。オリビエたちが到着する前にメイドが席を外したところがすでにおかしい。
「オリビエ、座りなさい。ビクトール殿、なにも、彼を取って食うわけでもない、心配ならご夫人はリトーに任せてここに残られても結構だが?」
ビクトールは夫人を抱き上げ、黙ってリトーと呼ばれた侍従の後についていった。
大柄な侍従長は一度だけ、オリビエと視線を交わした。
ビクトールは夫人を守るためにいる。

二人きりになったそこは、再び静寂を取り戻した。

「気に入らなかったかね?」
オリビエは落ち着こうと、もう一度自分の紅茶を口に含んだ。
「いえ、二人で話したかったのは私も同じです」

さて、と言って男爵が頬杖をついて青年を覗き込む。
「何が、聞きたいのかな?」
「…あの。貴方が両親の事件について、いろいろと調べてくださったことは理解しました。その犯人や真相は、知りたい気もします。ただ、それ以上に私は知りたいことがあるのです」
「ほお?」
「今、何が起こっているんですか?侯爵様が私を何かから護ろうと護衛をつけ、厳しく警護するのは何故ですか。確かに、市内は不安定なのでしょう、それは、この間の騒ぎでも想像できました。ですが、それと私とは関係がないように思えるのです。私などに警護の兵をつけるなら、市役所に見張りを立てたほうがいいのではとか。農民や、街の人々が自衛のために兵を挙げるとするなら、狙われるのは食料や武器のある廃兵院や市役所、税務署や銀行などではないかと。侯爵家はもちろんですが。それで何故、私も同じように保護されているのかが分からないのです」
ずっと考えていたことを、並べ立てた。
話すうちに頬が火照り、オリビエは喉が渇いた気がしてもう一口紅茶を含む。
ロントーニ男爵が親かどうかなどは、本人が知らせたくないなら知らないフリをする。オリビエもそんなもの、知りたくはない。
ただ、現状のまさしく監獄と同じこれを何とかしたいのだ。
それを打破しようとか陥落させようなどとは思わないが、なぜそこに収監されるのかを知るのは罪人でなくとも当然の権利だろう。
「窮屈、か?」
「……はい」
「お前もついに、立ち上がる気になったのかな?ファリではバスチーユが陥落したという」

オリビエは立ち上がった。
その監獄は。
王権の象徴であった。どちらかといえば冤罪に近い政治犯や思想犯が収監されているそこは、堅固な守りと強大な兵力を持っていたはず。
それが、陥落?
「おや、知らないかな?ついにファリの民衆がね。ただの民衆なんだよ、自警団でもない、結局のところ、革命家でもない、ただの市民がそれをやってのけたのだ。とてつもないことをしでかしたと、エスカルに集う革命家は顔を青くしたという。議会は膠着、国王の出方次第では内戦に発展しかねない」
「侯爵様は、ご無事でしょうか……」
ロントーニ男爵の表情が消えた。
「お前が知りたいのは、ファリと侯爵様のご様子なのかな?」
「あ…」
つい、話がそれてしまったことに気付き力が抜け、オリビエは再びイスに座った。

次へ♪

「音の向こうの空」第八話 ⑦

第八話:葦のように真っ直ぐ



「葦のように、真っ直ぐか」
「…、男爵それは」
「お前の母が望んだことだ。マリアの望み以上に、お人よしに育った。今は自分の足で立ち上がるときだというのに、やっとよちよち歩きを始めようというのに。侯爵の心配をするなど」
徐々に語気が強まる。
「何が真実で、なにがお前にとって良いものなのか、判断もつかぬ赤ん坊の癖に」
「男爵…」
「お前は、あの男を心配するというのか!これほど自由を奪われているくせに、魂まで飼い犬か!」
何故と聞かれ、応えられない。
それは、夫人に侯爵との関係を問われ応えられなかったときと同じ。
深い理由などない。ただ、あの日。
両親を失った悲しみを涙に変えるには、侯爵の存在が必要だったのだとオリビエは覚えている。
実のところ、それだけなのかもしれなかった。

けっして、親しいと思ったことはない。
頼りたいと感じるわけでも、そばにいれば安心するというわけでもない。
それでも侯爵の身を案じてしまうのは。
理由など分からなかった。

そして、なぜかそれに憤る男爵の気持ちもオリビエには理解できない。
「貴方なら、真実が分かるというのですか?私にとって何が最良であるか、貴方が分かると?」
男爵は立ち上がる。
ますます、怒らせた。それは彼が腰のレイピアに手を当てていることでもわかる、つまり。
それで脅すというのか。
何のために。

睨みつけるオリビエに、男爵は言った。
「侯爵家がお前を保護する理由。それは、私がお前を狙っているからだ」
ゆっくりとレイピアが細く光る刀身を現す。
「!?」
「私が、お前を捕まえ、連れ去ると侯爵は危惧している。それだけのことだ。あの男は私が革命軍に命じてお前を人質にするとでも思っているのだ」

すでに、男爵が持つレイピアは。オリビエの喉元に当てられている。
「人質、に、するのですか」
「いいや。あんなバカどもに預けるつもりはない。オリビエ。この街も近いうちにファリ同様市民の手に落ちる。そうなった時にお前は私の元にいるのだ。嫌とは言わせん」
「それは、貴方が私の…」
父親だからか?知りたくないと思った。知らされたくもない、そんなことは。
だが。
「そう、私はお前の父親。お前は私とマリアの子。ますますマリアに似るお前が、侯爵のそばにいるかと思うだけで寒気が走る」
聞きたく、なかった。
その事実が、男爵にこんなことをさせ、オリビエは自由を失い。
何一つ、誰一人幸せにしないそれにこだわる男爵の気持ちは理解できない。

「いいか、オリビエ。当時司教会で密かに進められていた企みを、お前の父ラストンは反対した。王位を狙っていた王弟ロスレアン公は密かに司教会を操っていた。新大陸へ派兵している隙を突いて、この国境の町で隣国と共謀しようとした。もともとこの地方の人々は、どちらかと言うと気風も慣習もアウスタリア人に近い。アウスタリアもこの土地を得れば、侵攻の足がかりにする予定だったろうし、ロスレアン公はそれを理由に戦争を起こそうとしていた。それを知っていながら侯爵は黙認していた。あの事件が起こることも知っていた。侯爵はお前の父の雇い主でありながら、見殺しにしたのだ」
オリビエは目をつぶった。
喉元にひやりと当たる刃。いつの間にか小さな部屋の壁に背を押し付けられている。身動きの取れない身体とは逆に、頭のどこかが痛いほど澄み切って男爵の言葉を理解し整理していく。
それを男爵が後押しする。
「お前の両親を、マリアを殺したのは、司教会、侯爵、それにロスレアン公だ」
侯爵が僕を引き取ったのは、両親に対する罪悪感なのか。
真相を知りつつ、見て見ぬフリをした。その償いなのか。
「隠蔽のために殺されたが、お前の両親の事件が予想以上に反響を呼んだ。お前の父は、司教会が予想する以上に全国に知れていたのだ。平民にはただの音楽。だが、貴族にとっては価値のあるもの、価値のある人物。ファリでも新聞で報じられ、遠い地に住む貴族たちがラストンの死を悼んだ。そのために、陰謀は一度影を潜めた」

「…一度?」

「そうだ。ロスレアン公も侯爵もラストンの死が注目を浴びると司教会との関係などなかったかのように振舞った。つまり、司教会は手のひらを返された。そこで。私がすべてを引き継いだわけだ。自分たちの理想を迷いもなく遂行しようとするバカどもは操りやすくてね、侯爵に対して反旗を翻すのも簡単なことだ」
侯爵が治めるこのエスファンテを手に入れたい、そういうことなのか。
「町の人を、扇動しているのは」
「そう、私だ」
目の前に、アンナ夫人の飲みかけたカップが差し出された。

「飲みなさい」
「…そんな、ことをして、何の意味が!」
「口答えは許さない。お前は私の息子。父の言うことを聞くのだ」
「貴方は父親なんかじゃない!」
「お前がどう感じようと、お前がマリアの顔をし、マリアの血を引くことは変わらん」
レイピアを鞘に戻し、ロントーニ男爵は茶を片手に迫る。
一歩引く。背にはすでに壁。
顎をつかまれた。
振りほどこうと腕をつかむ。目の前でカップが揺れた。
顔に茶を浴び。
少しばかり口に入り込んだそれを吐き出そうとするのに、強引な男爵の手がそれをさせない。
足元にカップが音を立てて落ちた。

男爵は、母さんに妄執している。
いつか侯爵様が言っていた。
十二の時に二十歳の母さんに惚れ込んだのだと。それが今も。
僕が本当に男爵の子かどうかなど、きっと関係ないんだ。
真実など関係ない。

ただ、母さんに似た顔の、母さんの血を引くものが欲しい。
それだけ……。

次へ♪

「音の向こうの空」第八話 ⑧

第八話:葦のように真っ直ぐ



深く椅子にもたれたまま、ズレンは大きくため息を吐き出した。
懐かしすぎる。
幼い頃よく遊んだ酒場。キシュの父親が経営する【子羊亭】に座った。そろそろ夕刻で、灯が沈むという時刻なのに、この店は静かだった。
密かに待機させている数名の衛兵たちも、夕餉の時刻のはずなのに静まり返ったこの下町に少々拍子抜けしていることだろう。
何か、あったのか、とズレンは思考をめぐらせる。
夕刻になっても、アンナ夫人とオリビエ、ビクトールは戻ってこない。行く先を誰も知らなかったために、こうしてズレンは心当たりの一つである店に来ている。
「あ」
数回目にズレンが勝手にあけたワインをグラスに注いだ時、店の奥からキシュが顔を出した。
「びっくりした!何?珍しいね」
少女が客席に近づくと、後ろからいつもの四足の足音も続く。
「今日はオリビエと一緒じゃないのか」
ズレンの行儀悪くテーブルに乗る足の向こうで、キシュは隠し事をしていますといわんばかりに両手を後ろに回した。
「あのバカ、お前にそそのかされればどこまでも着いていきそうだからな」
「そんなことないよ。そ、それに、オリビエちゃんとは何の関係もないもの」
「関係?」
「あ、友達でもないってこと」
「……家の前で待つくせにか?」
「それはパンのためだよ」

ズレンは黙って立ち上がる。
「今日は休業か?お前の親父はどうした」
「知らない。遊びにでも行ってるんじゃないの?」
「物騒なもの、持ってか」
物騒なのはズレンも同じ。腰のサーベルがチャキとテーブルの縁に当たった。
そこから真っ直ぐ見える厨房の奥、壁にかかっているはずの大振りの肉用ナイフがすすけた壁にシルエットだけ残してなくなっていた。
「何のことかわかんないよ」
ズレンはおもむろに立ち上がる。何を感じ取るのか、ランドンがワンワンと吼えた。
「嘘はつくな」
「う、嘘なんて」
キシュが慌てて逃げ出そうとした瞬間。背後から抱きしめられた。
背の高い、力の強い腕。
それだけで指先一つ動かせなくなるほどの動揺。
間違いなく青年は、少女の幼い頃からの英雄。夢見ても高嶺の花の凛々しい存在だった。
「お前はいつも生意気で。怒鳴っても殴っても、言うことなど聞かない。そうだろう?」
「な、殴るの?失礼しちゃう、女性の扱い方を知らないんだから…」
「女として扱って欲しいのか?」
「せ、セイリア姉さんはっあんたのこと…」
「関係ない。俺は昔からお前のことが気になってた」
「嘘ばっかり。そんなの、嘘、だってあんなに仲が良かった」
第一、ズレンがエコール・ミリテールに通いだした頃、キシュはまだ十歳に満たなかった。ズレンにとってはただの子どもだったろう。
「本当のことを知りたいか?ならば、お前も本当のことを話すんだな」
強引な腕。大きな手に全てを包まれ、身動きの出来ないまま唇をふさがれる。経験の浅い少女には、痺れるようなそれは息すらまともにできはしない。
「嘘…なんで」
「お前が嘘をつくからだろ」
まだ幼い身体に触れるズレンの手が容赦なくキシュの想いを捕まえる。

次回、第九話は8月11日公開予定♪

「音の向こうの空」第九話 ①

第九話:女優、そして下心


頭の中に音叉が一つ、らの音を響き渡らせている。
小さく頭を振るとそれが痛みなのだと理解できた。かすかに鈍い頭痛を残したのはあの、紅茶に入っていた薬だろう。
目を開けると、室内はランプが灯されすでに夜なのだと分かる。

オリビエは天蓋のついた立派なベッドに横たわっていた。
起き上がってみる。
狭い正方形の部屋だ。オリビエは何かの気配にぎょっと表情を強張らせ、その原因となるものをじっと見つめた。一つきりの窓の反対側。ランプの揺れる炎に照らし出された、巨大な肖像画だった。
「母さん……だ」
立ち上がり、靴を探し当てると絵の前に立つ。
ほぼ等身大の肖像画だ。美しく花を抱えて立つマリアは穏やかに微笑んでいた。その笑みを誰に向けていたのだろう。
嫌なことを考えてオリビエはまた、小さく頭を振る。
自分と、父ラストンにだと思いたいが。

狭い部屋だった。ベッドが一つ、それ以外は何も置かれていない。ほかに見るものもないので、オリビエは窓から外をのぞいてみた。手のひらくらいの四角を作る格子からのぞく景色は真っ暗だ。遠く、色のない地平線と林のシルエットをいくつか越えた向こうに街明かりが見えた。額を擦り付けるようにして目を凝らし、窓のすぐ下を見ようとする。どうやらここは高い場所だ。
三階くらいはありそうな。
何か分からなかったが、部屋のランプを消し、もう一度眺めると、庭らしきものと古びた塀、さほど立派でない門が分かる。ランプか、松明か何かを持った人が大勢行ったり来たりしている。よくみると、何かを運びこんでいるようだ。

遠く見える街明かりはエスファンテの中心街に思えた。星の位置と、街の見える方角。計算すればここは市から北東へ進んだ辺り、見えないがこの背後には山岳地帯へと続く丘陵地があるはずだ。
扉はやはり鍵がかかっていた。

この狭い部屋で、男爵が何をどうしたいのか分からないが、ただじっとしているわけには行かない。何かをする気なのだ、侯爵のいない間に革命軍を使って内戦でも起こすのかもしれない。そうなれば、今、手薄な侯爵家は、この町は。
ファリのようになってしまうだろう。
バスチーユを陥落させたファリの市民は、何を得ただろう。【エスカル】で叫ばれていた、自由か。エリーやマルソー。彼らはどうしているだろう。
ズレン、今頃は僕のことを探して。

ベッドに腰掛けていたオリビエは顔を上げた。
ズレンは以前、オリビエが抜け出したときキシュのいる界隈に兵を向けようとした。今回も同じことをしたら。
そこには、もしかしたら革命軍が潜んでいるのかもしれない。
革命軍というものがどういう人たちで、どんな様子なのか想像もできないが。オリビエには常に整然とし侯爵家や大通りを行進する衛兵たちのほうが、はるかに勝っているように思えた。
銃剣を肩にかけ、腰にサーベルとダガー。侯爵家の武器庫には移動式の砲台もあるという。見たことはないが、それはきっと町を破壊できてしまうほどだ。

革命軍が叶うはずもない。
ズレンはキシュにそそのかされたとでも勘違いするかもしれない。アンナ夫人とビクトールが男爵の仕業だと伝えてくれてあればいいが。
もし、僕が原因で争いが始まるなら、それは止めなくては。

オリビエは何度も部屋の中を行ったり来たりしていた。


次へ♪

「音の向こうの空」第九話 ②

第九話:女優、そして下心



ガチャ。と鍵の開く音。
男爵ではなかった。
片手にランプ、片手に食事らしきものを持った男。たしか男爵家にいたリトーと呼ばれた侍従だ。
それと理解した瞬間、オリビエは飛び掛り男を突き飛ばした。両手をふさがれている男が派手な音を立ててスープの皿をひっくり返すのを背後に感じながら、オリビエは部屋の外に飛び出した。
部屋からもれるかすかな明かりを頼りに階段を駆け下りる。塔の中なのだ、階段は狭く急な勾配のままらせん状に続く。明かりが届かなくなると壁の反対側に手すりがあるのかも分からない。オリビエはとにかく壁に手をついて、焦燥感をかみ殺しながら慎重に階段を降りた。
「待て!」
上から声が聞こえる。
見上げれば螺旋を張り付かせた上階でランプの明かりがゆらゆらと激しく揺れる。近づく足音。壁についた右手を離さないようにしながら、オリビエは走る。
が、ランプの明かりの残像はますます視界を遮り、階段を駆け下りようとした瞬間足を踏み外した。
「っつ……」
数段滑り落ちた。途中で止まったものの、下が階段であることくらいしかわからない。うつ伏せに座り込んだまま左手を伸ばしてみるが壁は遠いらしい。右手を伸ばしてみる。階段に手すりが着いていることを祈るが。伸ばした手に触れるものはない。
と、上からランプと足音が近づき、かすかな明かりでオリビエが起き上がったときには、リトーの腕がしっかりとオリビエの腕をつかんでいた。

「立ちなさい」
「…放せ」
リトーが片手をランプでふさがれていることに気付いて暴れようとした時。男はランプを振りかざした。
重い衝撃を頭に受けた。

目を開けると、再び最初のベッドの上だ。ランプは傍らのテーブルに置かれている。身動きしようとしたが動けない。
「二度としないでください。次は容赦しませんよ」
リトーはオリビエの上に乗り、オリビエの両手首を後ろ手に縛り上げていた。
炎の明かりでリトーの表情が不気味に揺れる。
よくよく見ればオリビエとそれほど違わない年齢。まだ二十歳そこそこというところ。深い色の髪は真っ直ぐで肩の少し上まで伸ばされている。
オリビエの上に乗ったまま、じっと見つめていた。
身じろぎしようとすると頭がずきりと痛んだ。オリビエは目の前に置かれた凶器のランプを恨めしそうに睨んだ。
「お前、…それほど似ていないのに」
リトーはオリビエが睨み返すとおもむろにオリビエの前髪をつかんだ。
「お前が男爵様の血を引くなど、信じられない」
「そんなの、僕だって同じだ。たとえつながっていても切ってしまいたいね」
リトーの背後にうっすらとマリアの肖像画が見える。
「あの男爵の血が流れているなんてぞっとする」
肖像画の母の笑みに向かって吐き出した。オリビエの言葉にリトーは眉を吊り上げた。
それは黙って殴りつけると言う行為に及んで、身動きの取れないオリビエはただ、耐えるしかない。

誰かが、飛び込んできた。
それは重いリトーを吹き飛ばしたように見えた。
「何をしている!ばかもの!」
男爵だった。侍従を引きずってオリビエから引き離すと、鈍い音が響く。
かすかに、リトーのお許しください、と言う声が聞こえた。

執拗に叩かれている音に、オリビエは耐えられなくなる。
「止めてください!男爵、そんなに」
男爵は叫び声にオリビエの存在を思い出した。立ち上がると目の前まで来る。
縛られている両手を解いてもらえるかとオリビエは期待し、訴えるように見上げたが。ロントーニ男爵はリトーのものだろうか、かすかな血痕を胸元の白いリボンに散らせたままオリビエを抱き寄せた。
「あ、あの」

男爵は改めてオリビエの顔を見つめ、先ほど殴られて切れた唇に親指を這わせた。
その男爵の目つきに嫌なものを感じてオリビエは黙る。
脳裏に、ズレンの言葉がよみがえる。

あの年で結婚もしないし、女性の影もない、男色家だって噂もある。間近にある男爵の顔。目をそらすと、かすかに息がかかったような気配を感じてオリビエは震えた。

次へ♪

「音の向こうの空」第九話 ③

第九話:女優、そして下心




「どうした、マリア」
マリア?
目を向けると目の前に男爵の顔。
「違う、僕は…」
口を手で塞がれる。
ふん、と男爵はため息をはいた。ため息を吐き出したいのはこちらだと、オリビエは反発を覚えるが身動きできない。
男爵の肩越しに、立ち上がったリトーが鋭い視線を向けていた。
「お前が、女だったらよかったのに」

女だったらどうすると言うのか。マリアに見立てて身代わりにでもするつもりか。肌が一気に温度を下げたような気がして、嫌悪感にオリビエは首をすくめる。
ロントーニにとって、自分の子だとか、自分が父親だと言う自覚はないのだ。マリアの子、マリアの血を引き、マリアに似ている。それだけが、重要なのだ。

「なまじ、顔が似ているだけに、その声と身体は興ざめだな」

勝手に冷めてくれ。望むところだ。オリビエは睨みつけた。

たとえ本当にこの男が自分の父親だと動かぬ証拠があったとしても、もはや何の躊躇も不要だ。下手に息子扱いされるよりましなのかもしれない。僕の父親は、音楽家のラストンだ。そう、これからだって胸を張って言える。

やっと口が開放され、オリビエははぁと息をついた。
「あの、男爵、この縄を解いてください」
こちらも派手なため息をついて、男爵は肩をすくめた。
「そのままでいなさい。リトー、マリアに手を出すな」
「だから、マリアじゃ…」
じろりと睨まれ、オリビエは口をつぐんだ。
頭がおかしくなりそうだ。そのうちドレスなんか着せられたらどうしようと肖像画を眺める。嬉々として衣装を揃える男爵を想像して、ついでに似た様な人物を思い出した。

「アンナ夫人と、ビクトールはどうしたんです?」
「ああ、あの二人は置き去りにしてきた。いずれ、あの屋敷は革命軍が拠点とするだろう」
「そこに!置き去りですか?」
「運がよければ侯爵家に逃げ込む時間があるだろうが。どうかな。私はあの女が嫌いでね。殺す気にもなれん」
物騒なことをぶつぶつと語り、オリビエの肩を数回なでまわすと額にキスをし、男爵は部屋を出て行く。
扉が閉じられると、オリビエはぶるっと身震いした。
しかも、未だに部屋にいるリトーは、ものすごい形相でこちらを睨んでいた。

「あの、リトーさん」
オリビエが声をかければ、あからさまに視線を避け、つまりそっぽを向いた。

男爵には恭しくしているくせに、オリビエには敵意を込めた視線を向ける。つまり、オリビエの存在が納得いかないのだろう。男爵の血を引くことを妬んでいる様子だった。いや、母マリアの血か。
「もしかして、嫉妬しているんですか」とオリビエが尋ねれば。
「誰がお前などに」
と返事をするのだから、オリビエの勘は間違っていない。

「僕を逃がしてくれないか。あんたは僕が男爵のそばにいるのが嫌なんだろ?僕もそれは同感なんだ。僕が男爵に世話になる理由もないし。ね、そう思うだろう?」
「だが、命令だ」
憮然とした表情を崩さないリトーに、オリビエは食い下がる。
「僕が逃げ出したことにすればいいじゃないか」

そうか、と少しばかり嬉しそうな顔をしてリトーはオリビエのそばに近づいてきた。横たわったままのオリビエの目の前にしゃがむと視線を合わせる。そうしている姿はオリビエより年下に見えた。
「ね、僕が逃げてしまったことにすれば」
「そうだ。お前が逃げ出したことにして、私は捕らえようとして抵抗され仕方なくお前を殺す。いい筋書きだ」

オリビエは黙った。
リトーは嬉しそうに笑った。笑うとやけに華やかな顔になるのが余計に怖い。

「それはいい案だ」とランプを再び持ち上げる。殴ろうと言うのか。
「待てって!」
「じゃあ、掴まりそうになって逃げ場がないと悟り楽士オリビエは自ら命を」
と今度は腰から短いダガーを抜いた。
「だから、殺すなってば!」

「…殺したいんだ」
リトーが構えるダガーはしっかりオリビエの喉元に当てられていた。
「どうして」
男爵がヘンタイなら、こいつもかなりおかしい。
ズレンも近い印象があったが、まだましだった。

「ロントーニ男爵は私の歌を聞いてくださる。貧しい農家の子どもをこうしておそばに置いてくださる。あのままでは皆餓死していた。それを救ってくださった」
「歌?」
「そうだ。私の自慢だ」

遠い目をしオリビエの喉元に刃を当てたまま、リトーは歌いだした。聖歌だ。
どういう神経なのか理解できないが、その歌、その歌声を聴いてオリビエは背筋を寒くした。
「や、やめろ!」
「どうして」
「その歌。その声。お前、母さんの声にそっくりだ!」
母さんは歌を歌う、けれど人前で歌うのははしたないと考えていた。だから、家族の前でだけ。そう、親しいものの前でだけ歌う。
それを、その歌声を男爵も知っている。だからこいつをそばに置く。
母さんの、歌声の代わりに。

「そうだよ。私はマリアに似ている。声だけじゃない、拾われた頃は顔も似ていたのに。今だってお前なんかより、この肖像画には私のほうが似ているのに」
「お、おかしいよ。お前たち、おかしい」
リトーの笑顔。笑ったときの表情がどこか印象が強かったのは、笑顔だけはあの肖像画にそっくりだったからだ。
「おかしくなんかない。私の主人は男爵だ。男爵が求めることを求められるままに応えるだけ」
今なら、キシュがオリビエに対してヘンタイと言った意味が分かる気がした。
オリビエはこれほどではないはずだが。

「私がマリアの血を引いていれば」
リトーの羨望の眼差しはオリビエの気分を悪くするばかりだった。
「僕に手を出すなってのも、命令だろう?」
かろうじてその命令で命をつないでいる気分だ。

次へ♪

「音の向こうの空」第九話 ④

第九話:女優、そして下心


リトーはオリビエと同じ十九で、十歳の頃聖歌隊にいるところを男爵に見出され、男爵家に仕えることになったらしい。似たような境遇だと、オリビエは同情もするが、どうやらその気持ちはこちらだけで、リトーはオリビエを敵視していた。

マリアが亡くなった年、男爵は隣町リンスの屋敷からこのエスファンテに移り住み、密かに事件のために奔走していたという。一度、侯爵家の晩餐会でオリビエの曲を聴き、姿を見て、リトーに対する態度も変わったと言う。

「急に、遠い方になってしまわれた。お前のことばかり話されて、お前の曲を真似ろと命じられても私には楽器は弾けない。失望されるあの気持ちがお前には分からないだろう!」

そう話しながら、リトーは再びダガーを取り出すから、なだめるのが大変だった。
お前が男爵の心を奪ったのだ、と言われても。
それがまた、アンナ夫人に重なるからオリビエのため息は深い。

「じゃあ、男爵様は僕がどうすれば満足なんだ。君は僕がどうすればいいと思っているんだ」と尋ねれば。リトーは悲しげに目を伏せた。
「男爵様は、お前にマリアになって欲しいとお考えだ。私は悔しいが。男爵様がそれを望み、それで幸せになられるなら」
「マリアになれって言われても。無理だろう。第一。僕は男だし」
「……東洋の国に、男を女に替える秘薬があると言う!」
「いや、無理だと思うけど」
「しかし」
とまじまじとオリビエを見つめる。

夕食のスープをまた、一口飲ませてもらって、オリビエは思案に暮れる。

「ね、リトー、君も、男爵も。無理なことを願って、苦しんでるだけだと思うよ。母さんはもういないし、影を追っても仕方ないじゃないか。リトー、君が男爵にそれほど入れ込んでるなら、君が彼の目を覚まさせなきゃいけないんじゃないか?これだけ愛されて母さんは幸せだと思うし、感謝しているよ。だけど、母さんはもういない。その現実を受け止めなきゃいけないだろ?僕が十三の時に受け止めたのと同じように」
「お前は、優しいな」
ポツリとリトーがつぶやいた。
彼の頬には、まだ、先ほど男爵に殴られた後が生々しく残っていた。

あの男爵の世話をするのは、楽ではないだろう。つらい事もあるだろうに、他に幸せになる方法を知らないのだ。この青年も。
それは自分自身を見ているようで、オリビエは息苦しくなる。

「もう、逃げないから。手を解いてくれないか。楽器を、弾きたい。自分で食事も食べるし、ね、そうしたら楽器のある部屋に連れて行ってくれないか」
リトーは迷った。
「聞きたくないか?男爵が、君に真似をしろといった、僕の曲」
青年は顔を上げた。
小さく頷いて、オリビエはやっと戒めを解かれた。
それでも痺れた手ではすぐにはフォークが使えず、結局食事は手伝ってもらった。

食事をしながら、オリビエはキシュの話をした。自分も侯爵家では鳥かごの鳥と同じだとも言った。下町の少女キシュに出会って、自由に憧れ、同時に自由であることの大変さも分かったのだと。ズレンは言った。生きていくために苦い思いを飲み込んでいかなければいけないのだと。そうやって生きている人々が、教会でオリビエの曲で嬉しそうにしてくれたときには自分が何をしたいのか分かった気がするのだとも。
「僕は、僕の音楽で誰かを幸せにしたいんだ」

次へ♪

「音の向こうの空」第九話 ⑤

第九話:女優、そして下心



男爵のこの郊外の屋敷は、あまり広くはないようだが、昔の聖堂を再利用したもので礼拝堂を持っていた。
そこにあるオルガン。
リトーが礼拝堂内のすべてのろうそくに火を灯し、オリビエが楽器を奏でる。
遅い時間だと言うのに、男爵の衛兵も幾人かのぞきに来ては静かに席に着いた。リトーは聖歌を共に歌い、それはオリビエに幼い頃の母親との共演を思い出させた。

リトーは伸びと透明感とではキシュに叶わなかったが、男性とは思えない柔らかな声を持っていた。オリビエのオルガンは高い天井まで染み入り、夜の闇にも温もりを感じさせた。
オリビエが侯爵家で奏でた多くの曲と今思うままの音を奏でると、リトーはすぐそばに立ち、じっと駆け巡る手を見つめていた。

リトーにもいつか、リトー自身を必要としてくれる誰かが現れることを祈って。その誰かがマリアの身代わりではなく、リトー自身の生き方を深く心にとどめてくれたら。
それは、最高に幸せなのではないか。

男爵の中にマリアがいるように。だれかが、リトーを想い、惜しんでくれたら。そんな人生を歩めたら。
功績とか名誉とかじゃなくて。たとえ自分の子どもや家族だけでも。自分が幸せにしてあげられる誰かがいたら。
そのために生きるのだとしたら。それはとても幸せなことだ。

「オリビエ!」
唐突だった。
人垣になっている聴衆を男爵が掻き分け、こちらに向かって歩いてきた。
「あ、男爵様」
リトーは慌てて目を擦ると、説明しようと男爵に駆け寄った。
「お前は、何故見張っておかない!」
次の瞬間には、リトーは殴られ並んだベンチに倒れ込んで、そばにいたメイドらしき女性が慌てて支えた。
「ロントーニ男爵」
「オリビエ、お前は……」

何か言いかけて、男爵は言葉を忘れてしまったかのように立ち尽くしている。
「男爵、弾きましょうか。あのときのレクイエム」

殴られた。
誰かが悲鳴を上げた。
視界に天井と蜀台がぐるぐると回り。
何度か、腹に、背中に衝撃を感じた。耳鳴りが少し収まり目を開けると、男爵に強く抱きしめられていた。
「……男爵。あなたは、マリアでなくては、だめなんですね……」
オリビエは眼を閉じた。

母さん。貴方は罪作りな人です。父さんだけじゃない。僕だけじゃない。大勢に愛情を振りまいた。僕が本当に貴方と男爵の子なのかは怪しいけれど。
男爵は貴方を愛し、貴方もそれに応えようとしたのかもしれない。
理由など、僕に分かるはずもないけれど。

貴方でなくては、男爵を救えないのかもしれない。


数人に取り囲まれ、暖かい手が額に当てられた。力強い腕が抱き起こした。胃がひどく痛んで、崩れるように座り込み、吐く。
オリビエしっかりして、とリトーの声が聞こえた。
「リトー、手は。僕の手は…」大丈夫、だろうか。


次へ♪

「音の向こうの空」第九話 ⑥

第九話:女優、そして下心



オリビエは三度、先ほどと同じベッドで目覚めた。
その塔の部屋は相変わらず薄暗かったが、朝日が昇ったのか窓からの明かりが向かい側の壁に白く輝く四角を貼り付けた。
格子の模様が丁度、十字架のように見えて、それがマリアの肖像画の額に当たると不思議と神々しい気分になった。

朝食を運んできたリトーは、顔に大きなあざをつけていて、オリビエは痛そうだねと笑った。
「貴方は、腹に同じようなのが」
そういわれ、服をまくってみるとなるほど、左のへその横辺りにくっきり、男爵の怒りが痕となって残っていた。そっと押さえると鈍く痛んだ。
「大丈夫ですか。医師に血の混じったものを吐いたりしたら知らせるようにと言われています。どこか痛みますか」
心配そうにするリトーに、オリビエは首を横に振った。
「大丈夫。僕にはちゃんと動く両手がある」
「貴方は」
あきれたように笑う青年に、オリビエも笑った。
「庇ってくれたんだろ」
「いいえ、私ではなくて、聞いていた皆が、男爵を抑えてくれました。男爵は少し、そう酔っていらっしゃって。以前そういう時に、殴り殺された下男がいたものですから。皆、すぐにまずいと思ったんでしょう」
今更ながら、ぞっとした。

「オリビエ、ここから、逃げるべきです」
リトーは声を低くして、カギをオリビエに握らせた。
「逃げ出したことにして…、殺す?」
首を横に振ってリトーは少し笑った。
「冗談ではないです」
「え、あれ、冗談だったのか?」
「ええ。私はまだ人を殺したことなんてありません」
「いや、だって、ダガーをここに突きつけて、殺したいって」
それも演技なのか?
ズレンと男爵の名演技をはるかに上回る、名優か。
「正直、あの時は本気でしたけど」
やっぱり。
「ですが。今は本気で貴方を逃がしたいと思っています。だから、急いで。エスファンテの市街には、市民が武器を持って押しかけていると言う話しです。男爵は侯爵の悪評を流して扇動しているんです。いずれ、ここがファリの二の舞になったら、貴方は帰る場所を失います。ですが、ここでは。ここにいてはきっと、いつか男爵に殺されます」
「僕は、マリアにはなれないからね」
「ええ。マリアの役は私のものですから」
オリビエは、少し迷い、それからリトーの肩に手を置いた。

「リトー、君も来ないか。君だって、ずっとマリアの役じゃいられないはずだ。それに、僕を逃がしたと知られたら、あざ一つじゃ済まないだろう?」
「オリビエ、私は農家から男爵に買われたのです。証書がある限り、私の家族にも迷惑がかかる。それに、私は男爵のことが好きです。もしかしたら貴方の言うように、もっと幸せを感じられる何かがあるのかもしれない。だけど私には、今のこの生活が唯一」

本当に大丈夫だろうか。オリビエをマリアと呼んだ男爵。マリアを殺したはずの司教会と手を組んですら、マリアの血を受け継ぐオリビエに執着した。
目の前の華奢な青年は、あの時のように男爵に黙って殴られようと言うのか。
本当に殺されてしまうかもしれないのに。

「オリビエ、貴方は違う。貴方は楽士オリビエとして生きるべき人。大丈夫、何人か協力してくれる人を見つけてあります。みんな、貴方の演奏を聞いて、とても感動したんです」
「リトー」
「一つだけ、お願いが。私のことをいつか、曲にしてください。マリアの偽者ではなくて、一人のリトーという女性として」
「…じょ?」
「いやだな、女ですよ。本名はリドアルド。こんな格好をしていますが。男爵に請われればドレスも着ます。普通、歌声で分かるでしょう?」

ああ、だから。
だから男爵のそばを離れられない。
男爵がマリアを愛し続けるように、きっと、リトーもロントーニ男爵のことを愛し続ける。
まったく、誰だ、ロントーニ男爵が男色家だなんて言ったのは。

ズレンを思い出す。
今ごろどんな恐ろしい顔をしていることやら。このまま戻ればそれこそ拘束されかねない。
いずれ帰る場所は侯爵家しかないのだが。


「リトー、僕は侯爵家に戻る前に、キシュに会いたいんだ。今、街はどうなっているんだ」

「オリビエ、今この情勢ではどこが安全ともいえない。あなたが侯爵の楽士であることは誰もが知っている。男爵がそうさせなかったけれど、彼らにとって貴方は侯爵に対する人質になりえるし、場合によっては見せしめにしようとするかもしれない。革命軍、などと言っても所詮烏合の衆です。話して聞く連中ではありませんし」

オリビエにはどうも革命軍というものが想像しがたい。侯爵の衛兵は見たことがあるが…。
迷っている様子の青年に、リトーはそっと肩を叩く。

「まずは侯爵家へ戻られるのが最善だと思いますよ。あそこは城砦ですから。留守を預かる第三連隊の隊長は切れ者です、下手に兵力を散らすのではなく、一箇所に集めて防衛に努めているようです。明日には侯爵が戻ると言う噂もありますし。侯爵がエスファンテ衛兵の主力と、国王の力を借りたとすれば、市民は挟撃を受けた形になって制圧されます」

「ロントーニ男爵は、何をするつもりなんだろう」

「様子を見ているだけでしょう。もしかしたら、この混乱に乗じて貴方を連れ去ること、それだけが目的だったかもしれません」

マリアの虚像を求めるためだけにそれだけのことをする、信じがたいがオリビエを拉致したタイミングも重なっている。穿った見方をすればこの混乱の現況は自分、ということになると気付き、オリビエは苦い顔をした。

「市民が侯爵を追い出しても、侯爵が市民を制圧しても、男爵はどちらでもいいのです。もともと、拠点は隣の街リンスですから。いざとなればそ知らぬ顔をしてリンスに戻ることも出来る。さ、このカギで建物の裏にある厩が空けられます。白馬が私の馬です。飼い主に似て従順ないい馬ですから、使ってください。そこから一番近い裏門の門番とは話がついています。通してくれます」

馬…。

「あの。僕」馬には乗れない。
鞍のつけ方すら知らない。
「さ、急いで」
女性のリトーが馬を持っているということは、リトーも乗れると言うことだ。女性が乗れて、自分が乗れない。それを言うのはどうにも気恥ずかしかった。

脱出の手はずをつけてもらって、肝心の僕が馬に乗れないでは。

乗れないけれど。
何とかするしか、ないか。

次へ♪

18世紀のフランスってこんな世の中③

「音の向こうの空」 着々と書き続けていますが。
楽しんでいただけていますでしょうか?

新たな発見や驚きがあるとこの記事を書くことになるわけで。
今回は深く反省、と同時にちょっとこの時代が嫌いになりそうになりました…

いえ、知識のない私がいけないのですね。ええ。きっと知っている方には当然のことのようなものです。

小説の資料を捜し求めて、いつものようにウィキをふらふらしていたら、カストラート、という単語に突き当たって。
知ってました?
14世紀から19世紀初頭まで。男性の歌手の一種です。一種ってへんな言い方ですね。カウンターテナーとか、ソプラニストとか。そういう分類の一つで。聞きなれないものだったので調べてみたら。

「中世ヨーロッパに普及した去勢された男性歌手」(ウィキより)だそうで。
何事~?と思ったら、ボーイソプラノをより力強くしたような広い音域を持つ歌手のことなのだそうです。去勢することによって変声期前のボーイソプラノを保った大人の歌手なわけで。
カウンターテナーよりずっと広い音域を持っていたらしいです。男性で3オクターブですもん。

なんだか、嫌だな~。

変声期前、7歳から11歳くらいの間に行われたそうで、それって絶対本人望んでなくない?!
しかも教会の聖歌隊のためにやるんだから、始末に終えない気がする…。
多い時は年間何千人もの少年が犠牲になったとか。

犠牲という言葉を使わせてもらいます。
もちろん有名な方もいらっしゃるでしょうし、それによって成功した方もいらっしゃるでしょうけど。現在人道的理由でないのだから、やっぱり悪習だと思いますよ。うん。
初夜権と同じ。

それを思えば『音の向こうの空』のアンナ夫人なんて可愛いものかも!?

それから。カストラートのついでに、「教会で女性は声を出してはいけないとされていた。故に聖歌隊は少年で編制され……」って!?そっちのが重要ですね…
じゃあ、キシュちゃん、教会では歌えない…。

早く気付くべきなのに…勉強不足に凹みながら。ちょっぴりそのあたりを変更させてもらいました。

ああ、18世紀。

美しくも恐ろしい時代だわ。
ふと、映画『パトリオット』を思い出してしまった。

あの戦闘シーンは残虐でした。まだ日本の合戦のほうがましに思えたなぁ。

歴史を紐解くと、憧れや感動もあるけれど、憤りや陰鬱とした気分になることもたくさんある。
ああ。今日は18世紀フランスが嫌いになった日です。

「音の向こうの空」第十話 ①

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



その朝。
侯爵の屋敷はいつになく静まり返っていた。
市の南東に位置するそこだけでなく、屋敷から北西に走る街道沿いの商店も、路地を入った民家も。窯の火を絶やすことがないといわれる手工業者たちが集る区域も。いつもなら市場へと牛車を引く農民も。
朝の靄が日に透かされ、小さな流れを空に生み出し、ミルク色のそれが街の街道をゆっくりと動き始めても。パン屋の煙突の香ばしい煙すらその朝には身動きしない。

町を東西に横断する中心街の大通り。靄のきれかけた建物の影。あちらも、こちらにも。何かが潜んでいる。

通りの真ん中にある市役所は、いつもの衛兵の姿はない。
前夜のうちにそこは占拠されていた。開け放たれた扉の正面には、靴屋の主人がサーベルを抱えて机に座る。胡坐を組み替え、もう一度力の入った肩を上下させた。
通りの向かい側の裁判所では、堅く閉ざされた門の前に、護るかのようにサーベルを持った男たちが立ち並んでいる。いずれも街の男たち。昨日までは蹄鉄を鍛え、あるいは野菜を売り、赤ん坊をあやしていた普通の男たちだ。それら十数名に見張られて、そこにもし役人が登庁しようとすれば追い返されるか捉えられるか、そのどちらかなのは明らかだった。

侯爵家では、屋敷の周囲を囲む石塀に衛兵が立つ。要所要所に配された彼らは、異常があればいつでも首に下げたラッパで邸内の鐘楼に立つ見張りに知らせることが出来た。

鐘楼からは靄のはれる様子が一望できた。
町は静かで、美しい。

「様子は」
背後の鉄格子の扉を開いて、青年が一人手にランプを掲げたまま近寄ってきた。
見張りの衛兵は柵についていた手を引き剥がし、姿勢を正す。
「は、今のところ動きはないようです」
「そうか」
エスファンテ衛兵、第三連隊長。ズレン・ダンヤはランプを壁にかけると再び町を見下ろす。
「あの、奥様のご様子は」
「相変わらずだ。オリビエ、オリビエとうるさい」
上官の遠慮ない物言いに衛兵はどう反応してよいか迷う。
「あのバカのことなど、かまっている余裕はない。明日、侯爵様が戻られるまでここを護らなければならないのだ。市役所を昨夜の間に落とされたのは失態だった」
「北のお屋敷の方々は、ご無事でしょうか」
ズレンは小さいため息を吐いた。
北の屋敷に住んでいた、侯爵の姪の家族。貴族でないものと結婚したために、別に居を構え慎ましやかに暮らしていた。まだ、子供も幼いはずだ。リリカと呼ばれる少女をズレンも何度か見たことがあった。侯爵自身には子供がいない。そのために、兄の子である姪ソフィリアにも、その愛娘リリカにも我が子のような愛情をかけていた。
伝令を走らせたものの屋敷はすでに無人となっていた。どうやら、連れ去られたらしい。数日前から配備していた衛兵が無残な姿で発見された。
市民の全てが敵。
それは、実体のない災厄を相手にするような空恐ろしさを感じさせた。

二日前にもたらされたファリでのバスチーユ陥落の報を思い出す。日々生活していた身の回りの全てが自分を憎む様子は、どれほど守衛をぞっとさせたか。今なら容易に想像できた。一歩、この屋敷を踏み出せば、出会う人間がすべて敵なのだ。エスファンテの衛兵たちは、女、子ども、無力な人々にサーベルを向けられない。なぜなら市民は衛兵によって護られるものであり、そして兵たちは日々の生活を市民によって護られていた。
町の人間の焼くパンを食べ、酒を飲み、共に語ることもある。同じ地区に住み、幼い頃から見知ったものもいるだろう。それら全てに銃口を向け、サーベルを振るうなど。
自らを養った父や母を殺すに似ていた。

侯爵の存在のない今のこの町で、衛兵たちの士気を維持するのは困難だ。
ズレンはだからこそ、市役所に人々が押しかけても、裁判所が包囲されても、衛兵たちを一箇所、この侯爵の屋敷に集めておくしか出来なかった。


背後が騒がしくなる。
甲高い声の主は想像できたが、ズレンはうんざりとし、それが遠ざかってくれることを祈る。
「ズレン、どこなの!」
ビクトールのなだめる声と一緒にアンナ夫人が鐘楼に顔を出す。
「おお、ここにいたの!オリビエはどうしたの!?あの子は男爵に捕らわれたままなの!?」

大げさに息を吐き出し、ズレンは振り返る。
「公爵夫人、オリビエが連れ去られたのか、あるいは自らの意思で姿をくらましたかは不明です」
「いいえ、きっと、あの男爵に連れ去られたのよ!あの男、ことあるごとにオリビエに近づこうとする、厭らしい!」
誰かも同じではとズレンは胸のうちに罵声を収める。
「落ち着いてください。アンナ夫人。貴方様がオリビエのことでそれほどご心配なされるのは何故ですか。たかが雇われの楽士」

アンナ夫人は黙り込んだ。
「それは」
興奮気味の視線を漂わせ、ふとビクトールと目があった。侍従長はアンナ夫人の視線をどう受け取ったのか、「侯爵様がオリビエを護るようおっしゃられておりましたので」と夫人に代わって応える。
「それは私も命を受けておりますが。この状況で危険を冒してまでそれをするのは隊を預かるものとして出来かねます。侯爵様も元は軍事に就かれたお方。ご理解いただけると存じます」
ズレンの回答は完璧だ。
「それに、私にはどうにも理解できません。何ゆえ、侯爵様はオリビエを大切になさるのか。同じ疑念を、アンナ様。貴方も抱いていらっしゃったのではありませんか」
「そう、そうね。分からないのよ、それは」
今やっとそれを思い出したかのような夫人にズレンは軽蔑に近い思いを抱く。家柄だけの学も理性も思想もない女。容姿のみ人並みか。
「貴方様はオリビエに対する侯爵のやりようが解せず、もしやオリビエは外で生ませた侯爵様の子ではとまで想像した。が、出てきた答えは違うものだった。悔し紛れにオリビエにその事実を突きつけてやったが、結果はみすみすロントーニ男爵にオリビエを渡すことになってしまった。と言うところですね。それを侯爵が聞きつけられた場合。どのようなご気分になるのでしょうか?」

すでにアンナ夫人は蒼白だ。
ズレンは目を細め、睨みつけるビクトールにも侮蔑の視線を送る。
「黙っていましょう。ですから。貴方も大人しくしてください」
「お、お前だって、あんな小娘を捕まえてきて、一体何を」
「あの娘はオリビエが思いを寄せている娘。革命軍と男爵の関連は話させましたからね、もう用済みです。アンナ様が退屈しのぎに遊びたいのでしたらどうぞ。お好きなように」
「……怖い男」
「無駄なことが嫌いなだけです」
青年の口元に残る薄い笑みにアンナ夫人は心から嫌悪を感じてその場を去った。


次へ♪

「音の向こうの空」第十話 ②

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



キシュは厨房の片隅でジャガイモの皮を延々とむかされていた。
「もう疲れた」
ぶつくさ言うと、年配のメイドが鍋をかき回しながら「まあ、がんばりなよ」と肩を叩く。
やっと一山終えると、目の前に甘い飲み物を差し出して、キシュを励ましてくれた。
「あんた、なんで連れてこられたのか知らないけど、ここではきっちり働けば報われるんだよ。侯爵様は使用人にお優しい方だ」
「オリビエのことは犬扱いなのに?」
口を尖らせる少女に、メイドの一人がまた笑った。
「あんたオリビエ様を知っているのかい。あの方に近づくと怖いからね、やめておきなよ」
「なにそれ。あんなの怖くないよ、いつだってあたしが怒鳴ってやるんだから」
あははは、声を上げて笑われてキシュは満足げにミルクがたっぷり入った贅沢な紅茶を飲み干した。
「そうじゃなくて。あんた、この屋敷で若い娘が憧れないはずはないだろ?オリビエ様に。穏やかで威張ってなくて、お優しい。綺麗な姿にあの音楽。あたしだってもう十年若けりゃ夢中になるさ」
「趣味悪いよ」
キシュは少しだけ頬を赤くしたように見える。
「初めてここにいらしたときから娘たちは競ってオリビエ様の気を引こうとしたもんさ。結局は、この屋敷で一番力のある女、つまり公爵夫人が勝ち取ったんだ」
そこで少しメイドの声は小さくなる。
「いいかい、アンナ夫人はこのお屋敷で逆らっちゃいけない相手だ。気をつけなよ」
「勝ち取ったって?」
「分かるだろ?オリビエ様だって雇い主には逆らえない。夫人にとっては可愛いペットだ。夫人は大胆だからねぇ、押し倒されてるオリビエ様を見かけたものも大勢いるんだ。そういうオリビエ様の姿も、まあ、どきどきしちまうけどねぇ」
あははは、とあっけらかんと笑う年配のメイド。周囲にいた二人の若いメイドも顔を赤くして悲鳴に似た歓声を上げる。
キシュは空になったカップを両手で握り締めていた。


出来上がった食事を、衛兵の集る中庭に運び込む。
すでに日は高く、遅い朝食に、疲れた衛兵たちは腹をすかせ、料理が目の前に並ぶたびに歓声を上げた。
けっして贅沢ではないが、約百名の衛兵たちに大量のスープとチキンのロースト、パンが振舞われた。内容はともかく、量だけは十分あった。
大勢に給仕するために、メイドも下男たちも、侍従も。侯爵家のほぼすべての使用人が集っている状態だ。
ズレンは出来上がった食事を、全員に振舞うよう指示した。侯爵家に匿われている市内の貴族たちはすでに別室で朝食を終えていたからだ。彼らは母屋の上階に息を潜めてじっとしている。

普段交流のない衛兵とメイド、庭師と賄い頭など皆が同じ食事を食べた。
庭に焚かれた松明に照らされ、交代で新たな衛兵が合流するたびにメイドたちは歓迎し、温かい食事と笑顔でもてなした。
ズレンは言った。
「ここにいるものは、皆、侯爵様に恩があり、それぞれの役目を果たそうと勤めてくれている。感謝する。しかし、中には今市街で銃を手に取り、市民の自由のために戦おうとしている家族を抱えているものもあると思う」
談笑していた兵たちも。テーブルの下に座り込んでパンを抱え込んでいたキシュも、庭の中心の噴水の前で全員を見据えながら話すズレンに見入った。
「こうして、我らが満ち足りた食事をしている間にも、飢えている家族を心配しているものもいると思う。幸い、この場には貴族たちはいない。もし、それぞれの家に帰り、家族のために、武装する夫や息子のために尽くしたいと願うものがいれば、この場で申し出よ。無事に家に送り出そう」
衛兵の一人が叫んだ。
「ズレン隊長、しかし。それではあなたが」
「これは、侯爵様からの命令なのだ。侯爵様は明日、ご到着なされる。その報せと共にご命令を受けた。侯爵様は温情深い方だ。証文を元に脅すような、他の貴族の真似はなさらない。それは皆、よく知っているだろう」
幾人かが黙って頷いた。
「しかし、時代の流れ。侯爵様のお気持ちやなさり様とは関係なく、首都では市民が勝利し、これからどうなるのか分からない状態だ。侯爵様ご自身も、今ここにいるすべての使用人を養っていけるか分からない。もし今、家族のためにこの場を去りたいものがいれば、快く送り出して欲しいとのご命令だ」
どよめきが広がる。
「もし、明日、侯爵様が戻られるまでここを護るのであれば。暇をもらうにもそれ相応のご褒美があるだろう。選ぶのはお前たちの自由だ。いつでも、私に申し出るといい」
静まり返った中庭。キシュはパンをエプロンのポケットに詰め込んでいる途中でズレンと目があった気がして慌ててテーブルの後ろに隠れた。
キシュの目の前に立つ二人のメイドは、手に持ったパンと皿のスープを見比べるようにしていた。
「あたし…」一人が思いつめたように口を開きかけるが、もう一人がとどめた。
「明日まで、ねえ、明日まで待てば、五年のお勤めに何かしらいただけるのよ、ね、我慢しましょう」
「でも…」
迷う一人に、キシュは膝を抱えたまま声をかけた。
「あのね、騙されちゃだめだよ。ズレンは頭がいいんだから。ああやって言えば、裏切りたい人間も明日までは、ってね。そう思わせるの……」
「キシュ」
背後から声をかけられ、キシュは縮み上がる。
「人の言葉を素直に受け取れないのは悪い癖だぞ」
手を引かれ、立ち上がるとズレンはさりげなく腰に手を回す。
「だ、だってさ。だって」
とたんにいつもの勢いがなくなる。叶わない、とキシュは悟っているのだ。
ズレンの背後に衛兵の一人が駆け寄り何かしら囁く。ズレンは小さく頷いた。
おもむろに少女を引き寄せる。
「おいで」
そんな一言も、耳元でささやかれれば、従わないわけには行かない。
整ったズレンの顔を見つめきれずにキシュは目をそらし、それでもそばを離れられない。
大切な父親や革命軍の仲間をふと脳裏に浮かべる。ポケットに詰め込んだパンを、上から押さえた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十話 ③

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



普段では想像もつかないほど静まり返った母屋の一階。大広間の脇の廊下を奥に奥にとキシュは連れて行かれる。
客人の貴族たちは上階の部屋で休んでいるらしく、屋敷内はしんとしていた。
生まれて初めて入る貴族の屋敷に圧倒され、また静まり返ったそこにおびえたようにキシュは大人しく付いていく。
「ね、オリビエちゃんは、どうしたの?どこにいるの」
遠慮がちに口を開くが、それはしっかり無視される。あと少しで裏口と言う辺り。静まり返った廊下でズレンは止まった。
少女が抑えるポケットからパンが転げ落ちるのもかまわずに抱き寄せ、口付ける。
「っその、あのね、ズレン、オリビエは……」
「あんなバカは放っておけ」
「なんで?だってさ、おかしいよ、この間まであたしを追い払って、オリビエちゃんを護ろうとしていたじゃない?おかしいよ?」
ふと青年衛兵は笑った。
笑うだけで、何も言わず。抱きしめる腕は力がこもりキシュは身動きできない事実に身体を強張らせた。
「ねえ、ちゃんと、言った、よね?オリビエちゃんは男爵様に捕まったって。オリビエちゃん今頃、危ない目に遭ってるかもしれないのに、どうして助けに行かないの?」
「助けて欲しいのか?」
「…そ、それは。だって」
「お前は革命軍の一人としてオリビエを騙そうとしていたのではないか?」
「それは、そうだけど。でもね。騙したんじゃないよ。オリビエちゃんは貴族じゃなくて、あたしたちと一緒にいるのがいいんだよ。自由になるべきだもん。教会で皆に音楽を聞かせて欲しいの。皆喜ぶよ。オリビエちゃんは貴族なんかにはもったいないよ」
「…それで、誘い出したのか」
「会いたかったのは、本当だもん」

「俺よりもか?」
目を細める青年にキシュは顔を赤くした。
「そ、そんなこと言うのずるいよね!ズレンはついこの間まで、セイリア姉さんのこと本当に好きだって言ってたくせに、あたしのコトだって追い出したがってたくせに。オリビエちゃんと二人になるのを邪魔していたくせに!」
「好きな女が他の男に近寄るのを黙ってみているほどお人よしじゃないんだ、俺は」
抱きすくめられ。少女には抗いようもない。
そんな優しげな笑みを向け、強引な愛情を表現されたら。

キシュは自らの胸の高まりに、熱く感じる青年の腕に身を任せようとした。

「歩けますか、オリビエ様」
「ん、何とか……!」
扉がゆっくり開く。二人の男が入ってくる気配と共に裏口の扉が、派手に音を立てて閉まった。
オリビエだった。
立ち尽くす。

ランプの下、見知った衛兵と少女はしっかりと抱き合っていた。
「あ…」
先ほどまで、痺れて疲れた身体も、一度落馬して痛めた足首も。
今の痛みに比べればないも等しかった。

背後からオリビエを支える様に入ってきたビクトールがオリビエの視線の先を見つめて嫌な顔をした。
「オリビエ様、さ、どうぞこちらへ。お怪我の手当てをしますよ」

ビクトールの腕に支えられ、片足を引きずりながら、オリビエは何とか歩き出す。
慣れているはずの侯爵家の廊下も、階段も。自分に与えられた部屋に行き着くまでの道のりが、長く、つらく。それでいて先ほど目に焼きついた光景を反芻しないようにとオリビエはビクトールに話しかけている。
「奥様はご無事なんだね、良かったよ、本当にあの時はどうしようかと思ったんだ。すまなかったな、ビクトール。僕もまさか、あんなことになるとは思わなくて」
かすかに、名前を呼ばれた気がした。

それは、本当に小さな声で。少女のもののように思えたが、オリビエは振り返る勇気がなかった。

「遠かったんだ、思ったよりね。馬に乗るなんて、一人でね、初めてでさ、どうしたら止まってくれるのか分からないことに気づいて、だから、ずっと、とにかく走って」
「オリビエ様」
「男爵は郊外の屋敷でこの騒ぎを傍観しているんだ。街の中心を大きく迂回してきたけど、途中一度、誰かに追いかけられたんだ。止まれって言われたんだけど、止まり方がわからないんだ、仕方ないよね」
青年が小さく震えているのをビクトールは精一杯方を強く抱き寄せて歩かせる。
二階の東の端。朝日が一番美しく入る部屋に、オリビエを連れて行く。
見張りの衛兵からオリビエ帰還の連絡があっただろうに、ズレンのあの出迎えはどういう意味があるのかとビクトールは煮えたぎる思いを腹に抱える。
「オリビエ様。お気になさらずに。わざとでございます、あの男。侯爵様がいらっしゃらないことを良いことにこの屋敷を我が物顔で仕切っている。私も、奥様をお連れして戻ったのが遅かった。戻った時にはすでに衛兵の陣が敷かれ、庭も好きに使われていました。侯爵様の伝達だなど、どこまでが本当か怪しいものでございます」
「……ビクトール…あの。キシュは、あの娘はどうして、ここに?」
「……ズレン殿が、連れてきたのです」
オリビエは黙った。
窓からの柔らかな光に、オリビエの亜麻色の髪がすけて白い額にかかった。
その優しげな容姿にアンナ夫人が夢中になることを苛立ちもしたが。ビクトールはため息と共にそれを吐き捨てると、青年の肩を優しくたたいた。
「どうか、お力を落とされませんよう。明日には侯爵様がご到着の予定です」
オリビエをベッドに座らせると、ビクトールは医師を呼ぶといって部屋を出て行った。

腫れて感覚のなくなった右足の靴を、何とか引き剥がすように脱ぐと、オリビエはベッドに伏せた。
足も、打った腰も、あちこちが痛かったが。
目に見えない胸の痛みに拳を抱えて丸くなった。
両親をなくしたあの朝のように。

次へ♪

「音の向こうの空」第十話 ④

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



その日の正午過ぎ。数名のメイドが侯爵家の通用門から外に出た。
門番の男は名残惜しそうに、見知ったメイドたちにさよならを告げていた。
キシュは一人その集団から離れて立ち、胸にいっぱい抱えたパンをただ抱きしめていた。
振り返るとズレンの視線とぶつかる。
腕を組んでじっと見ている。
「あの、あのさ、オリビエちゃんは」
「お前は帰れ。パーシーが心配しているだろ?」
「あの、でもね!オリビエちゃんに話を」
「あんなところを見せておいてか?」
キシュは黙った。
あの時のオリビエの悲しそうな顔が今も浮かぶ。声をかけたものの、振り返りはしなかった。
「会ってなにを言うつもりなんだ?お前もあいつの気持ちは知っていただろう?」
キシュは、唇を噛んでうつむいていたが。顔を上げた。
「オリビエちゃんを自由にしてあげたい。それはね、どんな方法でもいい、革命軍に入るのでも、侯爵様から逃げ出すのでもなんでもいいの!とにかく自由にしてあげたい」
ズレンは小さく肩をすくめた。
「それだけは無理だな。侯爵様がお許しにならない」
「どうして?だって、皆に選べって言ったじゃない!ズレンが中庭で言ったでしょ?辞めたいものは申し出ればいいって、オリビエちゃんだって自由になれるじゃない!」
門番の男が、困ったように二人を見ている。
ズレンはとん、とキシュの肩を押し。少女はよろけて二歩、門の外へ出る。
「ちょっと…」
ズレンの合図で、衛兵がガラガラと音を立て通用門の扉を閉めた。
「ねえ、ズレン!どうして!」
少女の声は幾重にも閉じられた鉄の扉の向こうに消えた。

「あの……」
門番の男が口を挟もうとする。
ズレンは目を細め、少しだけ笑った。
「侯爵様のご命令なのだ。オリビエだけは自由にするな、とね。その理由が分かれば、いくらでも口実をつけて追い出してやるものを」




オリビエはアンナ夫人の足音で目を覚ました。
いつものかけてくる足音。扉の前で深呼吸を二回。

オリビエはそのタイミングを数えながらも、枕に深くうずめた顔を起こそうとはしなかった。医師が冷やすべきだと言い、ベッドからはみ出した片足は、台の上に置かれた桶に突っ込んでいる。腹に残された男爵の暴力の痕を見て、ビクトールも医師も厳しい顔をしていた。よく、逃げてこられました、と低く力強い口調で言われ、オリビエはリトーのことを思い出す。
人生をかけてマリアの偽者であろうとする。
その強さを思い出せば、あれくらいのことで水を含んだ真綿のようにげんなりしていた自分が情けなく思えた。
最初から、キシュとは友達でいようと決心したではないか。ズレンに対する彼女の想いも想像できていたではないか。
何より、気まぐれな野良猫は、鎖につながれた飼い犬など相手にしない。自分の手には負えないのだと、分かっていたはずだ。

明日、侯爵様が戻れば、また、以前と同じ日々に戻る。
侯爵が戻れば。以前の穏やかで淋しい日常に戻るのだ。

次へ♪

「音の向こうの空」第十話 ⑤

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



うっすら明けた目の先で、淡い桃色の何かが揺れた。
「あ…」
アンナ夫人がそっと、オリビエの額に手を当てていた。
その袖がゆらりと視界を走ったのだ。
夫人は黙って青年に抱きついた。
「アンナ様」
「…私を置いていくからよ、薄情者」

ふと、口元に笑みが浮かんだ。
「オリビエ?」
「あ、いえ。いつも。アンナ様。貴方がいらっしゃる」
「なあに、意味が分からないわ」
つんとして、怒ったふりをするが。
アネリアの事件の後も、キシュが遠い存在だと思い知った今も。結局、いつも、そばにこの人がいるのだと思い当たり、それが何故だか可笑しく感じた。まるで、母親だ。
望む人はそばに残らないのに。この人が以前言っていた。運命なのだと。
まるでそれが本当のことのように感じられるほど、アンナ夫人がいつもそばにいる。
呆れるほど。僕の願いとは裏腹に。
神が僕に音楽を与えてくださったのだとしたら、それは代わりにこの夫人の相手をせよと条件付けられているかのようだ。
失った両親の代わりに、慈しむべき人がいるなら。それは、侯爵と、この夫人なのかもしれない。

「なあに?ニヤニヤして、変な子ね」
「いいえ。アンナ様。ご無事で何よりです。すみません、危ない目にあわせてしまいました」
オリビエの素直な言葉に、夫人は頬を染めた。
「あら、珍しいじゃない、従順で。そういうのがいいわ、オリビエに似合う」
「ええ、貴方もそうしてぷんと怒っているお顔が綺麗です」
「褒めてないわよ、オリビエ」
「褒めていますよ」

母を慕うように。妻を慈しむように。
ビクトールの言葉がかすかに胸の奥によみがえる。


夫人とのたわいない会話の後、オリビエはビクトールの手を借りて音楽堂へと向かおうとした。通りかかった一階の大広間では匿われている司教や貴族たちがひそひそと不安を打ち明けあっている。
オリビエの姿を見かけると、声をかけたものがいた。
「ファンテル卿、大丈夫ですか」
貴族の輪から立ち上がって声をかけたのは、ルグラン市長だ。
「市長、ご無事でしたか」
血色のよいつやつやした市長が、今日はなぜか青白く、少々痩せたように見える。ファリへの道すがら新しいファリの様子や民衆のことを自慢げに話していたあの姿と矛盾するようで、彼がここにいること自体が不思議に思えた。
オリビエは市長の話を聞こうと、貴族たちの輪に加わった。
「ご無事で何よりですな」
「良かったわ、オリビエ」
「ご心配ありがとうございます」
彼ら貴族がこれほどおどおどしているのを初めて見た。常には高慢な様子で気まぐれに声をかける程度。華やかな会話を好む彼らが今は暗がりの大広間で、身を寄せ合うようにして小声で話す。
ルグラン市長もその一団に戻った。
「あの、市街はどうなっているのですか」
「昨日の夕刻だった。門番が市庁舎の門を閉めようとする直前。大勢の町の男たちが押しかけて来たのだ。また、税金の話かと市庁舎のロビーに招きいれ、説得しようとしたのだ。中には弁護士や豪農で知られる者もいた。だから、まさか彼らがいっせいに懐に隠した武器を突きつけてくるなど、誰も予想していなかったのだ。大勢の役人が殺され、私は何とかここに逃げ込んだ。あの後、市役所は彼らの拠点となって、あそこにあった多くの施設の鍵が奪われた」
「おかげで、教会も学校も、裁判所も、すべて彼らに入り込まれてね。廃兵院では武器も奪われたんだ」
そうため息をこぼすのは、オリビエに勉強を教えてくれた先生だった。
「中には、そのまま、彼らの仲間になったものもいる。私の屋敷では侍従たちが皆、裏切って、自分たちの自由のために証文の入った金庫を開けろと詰め寄りましてな。すべてを与えて逃げてきたのです。まるで強盗ですよ、あれは」
貴族の一人が淋しげに乱れた髪をかき上げた。
「街の人間のほとんどが敵に回っている。そうでないものは家にこもって様子を見ているのだろう。ファリでの革命が、彼らを勇気付けたんだ。ファリの三部会では租税の義務をなくす動きすらあるという」
「しかし、それでは我らはどうやって生きて行ったらいいのか!」
「首都の宮廷貴族は土地など持ってないからな、地方貴族の我々の特権を盾に自らを護ろうとしているのかもしれん」
「侯爵様や地方の代表貴族は何をしているのだ!」
「いや、リツァルト侯爵なら、きっと何とかしてくださる」
「だが、ここも結局、ズレンの言いなりではないか。あの平民出身の男、まるで自らが侯爵になったかのように威張り散らしている」
ドン、と何か響いた。
窓にはめられた硝子がびりびりと震え、貴族たちはますます縮こまった。
「なんだ」
「何があったんだ」
隣を見て、窓の向こうを眺め。それでも誰一人立ち上がって外に出ようとするものはいない。
オリビエは立ち上がると、足を引きずりながら窓辺に近づいた。
「オリビエ様、窓際は危険ですよ!」
ビクトールが慌てる。

窓の外、そこから眺められる侯爵家の敷地は一部。芝生の広がる中庭からメイドたちが母屋に駆け込むのが見えた。
その、遠い向こう。木々の繁る庭の彼方の城壁に、かすかに黒い煙が昇る。
「ビクトール、様子を見てこよう」
オリビエはズレンと、共にいるだろうキシュを思って駆け出す。
「オリビエ様!」
「状況が分からないのは嫌なんだ」

次へ♪

「音の向こうの空」第十話 ⑦

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



「オリビエ!そんなところで何をしているの」
公爵夫人がビクトールの背後に隠れるようにしながら、衛兵たちの間を縫って近づいてくる。
は、と呆れた笑みを浮かべ、ズレンは走って夫人の前に立った。
見送ったオリビエはしばらく何事かを説明しているズレンを眺めていたが、塀の向こうが気になってそっと顔をのぞかせた。
高さ二メートルだけの城壁。すぐ目の前にもみ合う人々が見える。
女が包丁を振りかざし、男はそれを容赦なく殴りつける。悲鳴と怒号。鈍い音はそれが食い込む肉の痛みを想像させ、得物がぶつ合うたびにオリビエはびくりと肩を震わせた。何をどうしたいのか叫び唸る人々は獣のようで、人がそんな風になれることを始めて目の当たりにしたのだと、重く感じる胃の片隅で冷静な目で見ている自分もいる。
止めなよ、とかすかな声。耳にしてすぐにそれと分かるのは。聞き覚えがあるからだ。聞きたいとすら思った声だからだ。

「!キシュ!」
人ごみの中、袖を捲り上げた屈強な男がもたれかかってきた男を腕で振り払う。
背後に続くもう一人は天に向けて銃を撃った。
乾いた音の一つ目では人々は反応しなかった。
「やめてよ!」
姿は見えないが、あれは間違いない、キシュの声だ!
透き通った声は人の心に届く。
人混みの背後が横に伸びたように見えた。奇妙な感覚はその原因を目にして納得できた。
屈強な男たち、一様に黒い服を着た彼らが列を成して進んできているのだ。進むにつれ争っていた市民が道を開けだしたのだ。
ごうごうと響く低い音は、一台の大砲。がらがらと木の台車を軋ませて石畳を進んでくる。それを引く黒い衣装の男たちは皆、一様に腰にサーベル、肩に銃をかけ、頭に被った黒い布は遠い東の異国人を思わせた。
黒い一団の中、キシュがいた。
赤い炎のように髪がなびき、小柄なのに大きく見える。

今や人々は一団の目的とすることを想像するらしく、彼らを遠巻きにして見つめている。地に這い、うめく女をキシュが助け起こす。

「ズレン・ダンヤ。いるか?」
黒服の一団、その最前列にいた袖を捲り上げた男が怒鳴った。
腹から響く力のこもる声。
思わず目があったような気がして、オリビエは隠れた。
脇に青年が立った。
見上げるとズレンはまっすぐ、厳しい視線を城壁の外に向けていた。
腰のサーベルを握り締める手に力がこもっている。皮の手袋がぎゅと小さな音を立てた。
「パーシー。娘を返してやったのに、その謝礼はいただけないな」
ズレンは男たちが引きずってきた大砲を顎で示す。
オリビエはそっと、ズレンの脇から頭を出そうとしてサーベルの柄でわき腹を殴られ呻いたが、次にはズレンのそれが当たらないよう距離を置き、城壁の石段に足をかけ覗き込んだ。
痛みに身をかがめながらも、オリビエは目がはなせず、キシュとその周りの男たちを見つめた。多分、これが革命軍なのだ。
軍隊、といえばそう見えなくもない。
しかし、よくよく見れば、衛兵とは違い、背の高いものも低いものも、太ったものもいる。衣装が同じためにかろうじて軍隊に見えるというだけの、市民の集まりであることには変わりないように思えた。
「ズレン、我らが砲撃すれば城壁は崩れる。お前が我らを狙撃しようとすればそれも可能。ここで初めて我らは対等になったわけだな」
パーシーと呼ばれた屈強な男がにやりと笑った。
「もともと俺は平民だからな。俺とあんたの間にはなんの差もない」
く、とパーシーが目を細めた。「バカいうなよ。貴族の犬に成り下がったお前が。才能を皆のためじゃない、自分のためだけに使う阿呆が」
「俺の才能だ、何に使おうと責められるいわれはないな」
「可愛くない、ああ、お前は昔から頭が切れて可愛くない奴だった。両親にはちっとも、似ていないな」
びくりと、ズレンの表情が引きつったのをオリビエも感じた。
お前の両親は、と続けかかったパーシーを無視してズレンは声を張り上げた。
「俺のことはどうでもいい。パーシー。侯爵家に攻め入って何をするつもりなんだ?何を要求する?」
「ふん。すべての農民に固有の農地を。我ら市民に平等な権利を。侯爵の持つ裁判権、租税徴収権、狩猟権、この街に対する権利一切を我ら市民に委ねてもらいたい!我らは我らの選んだ代表が皆のために税を使い、皆のために裁判をすることを求める!」
く、とズレンが笑う。彼らの主張は【エスカル】を髣髴とさせた。エリーを、マルソーを思い出し、オリビエは改めて傍らの青年衛兵を見つめた。

「なあ、パーシー!その思想を広めてくれたのは誰だ?お前たちの仲間か?違うだろう!お前たちより学も金も名誉もある階級。市民の顔をしていながらその懐は貴族より温かく潤い、それでもなお自由と権利を主張する。あんたたちは彼らに利用されているんだぞ」
ズレンの言葉に黒装束の男たちは互いを見合う。市民でありながら、貴族よりも裕福な中産階級。弁護士であったり、司祭であったり。確かに彼らは飢えてはいない。思想を述べ語るには雄弁であっても今この場に身を晒さないずる賢い人々。夜な夜な【子羊亭】では自由と平等の輝かしさを訴え、文字の読めない市民のために新聞を読み聞かせてきた。
「彼らの言葉が真実であるか、あんたたちに判断できるのか」

「だからこそ、なあ、ズレン!お前のような人間が必要なのだ!俺たちの代表としてな。貧しく、飢え、明日生き抜くことすら困難な俺たちには、どの階級の奴らにも負けない根性と頭のある人間が必要なのさ!」
「ズレン、ねえ、戻ってきてよ」
キシュが叫んだ。
ふ、と目を細め、ズレンがオリビエのほうを見た。
見られているとも気付かず、オリビエは少女を見つめる。悲しげに眉をひそめるくせに目を離せずにいる。
ズレンの視線を追い、キシュはオリビエにも声をかけた。
「オリビエ!ねえ、あんたもおいでよ!仲間になろうよ。自由だよ?もう、誰にも命令されないんだよ?」
視界がかすみ、ひどく泣きたい気分になったのは何故だろう。
オリビエはうつむくと城壁から離れた。
立っていると丁度肩まで出るそこから姿を消し、オリビエは足を引きずりながら石段を下りていった。
「オリビエ、いいのか」
ズレンの声に頭上を見上げ、なにを言っていいのか分からなくなったオリビエは黙って首を横に振った。
「パーシー、人を頼るな。俺は衛兵となって生き延びている。お前が酒屋を営むのと同じ。ファリで何が起ころうと、お前たちが何を目指そうと、今は侯爵様のご到着を待つだけだ!攻め入りたいならすればいい。だが、ほしいものは何一つ手に入らないと思え」

次回第十一話は9月1日公開予定です♪

「音の向こうの空」第十話 ⑥

第十話:革命、夜明けのエスファンテ



ズレンは集ってきた市民を城壁から見下ろしていた。


「隊長、北の門も、東門も囲まれました。どうしましょう!このままでは!」
「今の砲撃はなんだ」
青年は脱いでいた上着を羽織る。腰のサーベルが音を立てた。
午後になって出てきた風に髪が揺れ、二十五歳の連隊長は部下を省みて睨んだ。
「二度と砲撃はするな」
「し、しかし……」

「エスファンテの市民たち!ここにこうして集るからには、要求があるのだろう!代表者はいないのか!要求を我らに伝えるものはいないのか」
ズレンは狙撃を恐れる部下を押しやると、城壁の際に立った。
二メートル程度の高さ。
足元には農夫の持つ柄の長い鋤が麦畑に揺れる穂のように並ぶ。
侯爵家の前に集った市民は千を超えているように思えた。昼過ぎから集りだした彼らは、最初は遠巻きに、一人二人立っているだけだった。
それが、徐々に人数を増やし、今はエスファンテの大半の市民がそこに立っているように思えた。黙ったまま、ただ真っ直ぐこちらを見ている様子は衛兵たちを動揺させた。
「我らは侯爵様のご命令でここを護らなければならない。それはお前たちがパンを焼き、畑を耕し、子を養うのと同じだ!これほどの市民に囲まれ、衛兵たちは皆動揺している。不安に駆られ、砲撃をしたばかものもいる!要求があるなら伝えよ!我らに判断できないことであれば侯爵様のご帰還を待つ」

「パンを」
足元の女が言った。
「そうだ、パンを!」
隣にいた若い男も叫んだ。
食料を!水を、我らは飢えている!
そう訴える市民。ズレンはその場にしゃがみ、足元の市民に語った。
「背後を見なさい。何千といる、この市民の腹を満たすパンが、食料が、この屋敷にあると思うのか。侯爵様の穀物庫はここには無いだろう?郊外のそれはすでにお前たちの仲間が襲撃したと聞いている。我らも、このエスファンテで収穫された麦や野菜を食べているのだ。侯爵様はご存知なのだ。市民に養われ育まれていることを。だから昨年の飢饉の際に蓄えるべき麦の半数を分け与えた。残る食料は皆、市民のために取っておいたのだ。それはすでに、お前たちが手にしたであろう?」
ズレンに直接見つめられた女は逡巡し、周囲の男たちも背後を振り返る。
「今年、市民の税を免除したように、農民の税も侯爵様は免除された。この地で麦を作り食べ物を作り出せるのは侯爵様ではない、お前たち自身だ。お前たちが昨年の収穫が不足していると言うならば、我らには何も出来ない」

女が農夫の男に食って掛かる。
「あんたら、麦があるなら分けてくれ」
「なにを言う、革命軍を率いているのはお前たち街の人間だろう!穀物庫で得た食料はどうなったんだ!」
男は男で、銃を構えた革命軍らしき男につかみかかった。隣に立つ男が銃の火薬を詰め終える。それを見て女が悲鳴を上げ、男たちは止めようとつかみかかる。
ズレンはその銃がこちらに向く前にひらりと城壁の内側、一段下へと飛び降りた。
銃は、市民に向けられた。

銃声、悲鳴。
革命軍は脆さを露呈する。
ズレンは傍らの部下に命じた。
「いいか、こちらには武器と火薬と力ない貴族しかいないのだ。そこを市民に訴えろ。市民は自由と公正を主張する。思想として掲げるからには、こちらが公正に訴えれば手出しは出来ない」
「はい」
城壁の各要所へと伝令に走る男を見送る。
連隊長の鋭い目がふと、細くなる。
ちょうど、入れ違いによろよろとした若者が城壁の石段を壁に寄りかかるようにして登ってきた。
苔むし、風雨にさらされた重厚感のある石造りの壁に、その男は不釣合いな優しげな色合いの髪をなびかせ、武具の一つも着けずにそこにいる。谷間に引っかかった花嫁衣裳のごとく。
「呆れるな」
ポツリとつぶやくズレンは、しゃがんだまま、顎に手を当てる。

「どうなっているんだ!ズレン」
「これは、楽士殿。勇敢にも敵陣から逃げ延びた貴方がこんな危険な場所に来られるとは…」
眉をしかめ、オリビエは城壁の上に顔を出そうとする。
「!ばか!」
飛んできた包丁がすり抜ける寸前でオリビエの上着を引っ張り、転びかかったそれを支えた。
膝をついてオリビエは目を真ん丸くしていた。
「…お前、ばかか!こんな格好でうろうろしやがって!男爵に捕まろうが、逃げ出そうが行方知れずになろうが関係ないが、俺のいる場所では傷一つ許さん!」
「あ、ありがとう」

怒鳴られて笑うオリビエの意図が分からず、ズレンは肩をすくめ、ため息をつく。
「男爵家はどうだった」
青年の問いにオリビエは目をそらす。
「状況を聞きたいなら、まずソチラから報告しろよ、オリビエ」
オリビエはかいつまんで事の顛末を話した。同じ話をビクトールと医師にもしたが、ズレンが興味を示したのは彼らとは違う部分だ。
「ふん、男爵と革命軍、それほど親密でもないと言うことか」
「…まあ、もともとの関わりから考えれば互いに利用しあっていると思うけれど」
ズレンは面白そうにオリビエの顔を見つめた。
「なんだ?」
「いや、マリア、ねぇ。感謝しなくちゃならんな、ご母堂様にね」
オリビエが眉をひそめ説明を促してもズレンは笑ってオリビエの容姿をからかうばかりだ。

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