09
2
3
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
30
   

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「音の向こうの空」第十一話 ①

エスファンテの街は生まれ変わろうとしていた。市民が侯爵家を囲む中、キシュの姿を見てオリビエは逃げ出す。そう、逃げ出したのだ…
第十一話:飼い犬、つながれた鎖の先に


オリビエはただ。音楽を奏でたかった。
飼い犬扱いは、分かっていた。
可愛がろうとでも言うキシュの態度も面白かった。
けれど。

振り払おうとしてもあの時のキシュとズレンを思い出す。脳裏から消えて欲しくて何度も頭を振った。

情けない。
ズレンのような機知も、キシュたちのような逞しさも持ち合わせない自分がひどく情けなくて、エリーに呆れられたあの瞬間を思い出していた。【エスカル】でマルソーに怒鳴られた言葉も。自分の足で立つことすら忘れたというのか。そう、マルソーが怒鳴り。それでもオリビエの音楽がオリビエの思想であり生き方であると納得してくれた。

僕は僕の音楽で誰かを幸せにしたい。音楽を奏で続けたい。
それは、キシュのいるあの場所でも同じだろうか。
彼らは【エスカル】に集う思想家たちと同じに見えた。思想のない人間を見下していた。オリビエの曲に聞き入っていたものの、音がなくなればまた自由と平等を高らかに宣言するのだ。

そのためなら多少の犠牲など平気なのだ。だから、あんな殺し合いまでする。僕の両親も殺されたのだ。目的が崇高であると思い込んでいるからこそ、暴動など起こせるのだ。
崇高かどうかは、ズレンが見切っているように今後の彼らの能力にかかっている。
自由だから幸せになれるなど、絵空事。
彼らの目的に賛同すれば何の不満もなく生きていけるのか。
違うだろう。

僕は。
楽器を弾ければそれでいいんだ。
それがどこだろうと、誰の前だろうと。
可能であれば、その誰かを僕の曲で幸せにしたい。

ただ、それだけだ。

キシュが僕に望む自由は、何かが違っている。

彼女の心を奪えないから、僕は拗ねているのかもしれない。
情けない嫉妬心に駆られ、自己嫌悪に陥っているだけ。

それでも。

オリビエは音楽堂に入ると、動くもののない室内を一人ずるずると歩いた。
鍵盤に触れ、弦を張り音を響かせる。
調律の間も心は急いて、オリビエは楽器にしがみつくように音を奏で始める。
描かれた空に雲が浮かぶ。
侯爵は今どんな空を見ているのだろう。エスファンテに向かっているという。ファリを目の当たりにし、議会で疲れ果てた侯爵が、この状況にどんなことをするのだろう。
どう収拾をつけるのだろう。
幾度も見た少しだけ疲れた侯爵の顔を思い出す。
けっして、愚痴などこぼす人ではない。ただ黙って音楽を聴き、じっとしている。
その姿を思い浮かべオリビエは遠く離れた主人に音を届けたいと願う。
すくなくとも、侯爵だけは心からオリビエの音楽を楽しんでくれる人だ。


騒がしい声に気付いたのは、数人の衛兵が音楽堂の扉を開いたときだった。
濃紺の上着に赤いスカーフをつける彼らはオリビエを見つけるなり真っ直ぐに向かってくる。
「あの?」
立ち上がったときには囲まれ、背後から肩を押さえられた。
「なにを?」
振り払おうとする腕が他の一人につかまれ、「ご同行ください」と低く言った年長の衛兵の指示でオリビエは引きずられるように連れて行かれる。
楽器から、引き離される。
「何ですか?あの、どこへ……」
どんと背中を押され、勢いで体重を乗せた足の痛みに言葉が途切れる。
引きずるように連れて行く彼らの歩調は容赦なく、何度も転びそうになりながら、オリビエは衛兵の集る中庭につれてこられた。
一段高い花壇の縁にズレンが腰掛けている。傍らに立てたサーベルにもたれるようにして引きずられてきたオリビエを眺めている。
「ズレン、なんだよ!これ、は」
「オリビエ、喜べ。お前を自由にする理由が出来た」


次へ♪
スポンサーサイト

「音の向こうの空」第十一話 ②

第十一話:飼い犬、つながれた鎖の先に



「理由?」
灯が暮れかけた中庭に、松明が灯される。
照らし出されるズレンの表情はいやらしく歪んで見えた。
「侯爵様の姪でいらっしゃる、ソフィリア様、知っているな?」
「え、ああ。リリカ様も、よく遊びに来られる」
クリスマスに雪だるまをねだった、あの幼女だ。
「ご一家は昨夜から行方が分からなかったのだがな。やはり革命軍に捕まっていた」
北の屋敷に住んでいた彼らは、衛兵の死体を残して消えうせていた。
拉致されたのだ。
「それでな、オリビエ。奇特な奴もいるんだな。ソフィリア様ご一家と、お前一人を交換して欲しいといってきた」
「…交換?」
「お前などを手に入れてどうするつもりかは、知らないが」
「それは、ロントーニ男爵が、絡んでいるのか」
ズレンは大げさに肩をすくめる。
「さあな。革命軍がそういってきた。俺もやっとお前のお守から解放される理由が出来た。お前もこの屋敷を出る大義名分が出来たというものだ。自由になってその上感謝されるんだ、光栄に思え」
ズレンに分からないはずはない。男爵が革命軍に指示したのかもしれない。
ぞく、と背筋に冷たいものを感じてオリビエは拳を握り締めた。
「……僕を。追い出すのか」
「ぶ、ははは!オリビエ、追い出す、ときたか!面白いな、お前は。自由になりたかったんだろう?俺の警備が嫌で逃げ出したくせに、追い出すだと?ふざけるなよ、守られて生きてきたお前は一人で行動できないんだ。そうだろう?ここを出て自分の自由を勝ち取る力も勇気もない。以前はだからこそ、従えと言ってきたがな。今日でおしまいだ。好きにしろ。ただし、人質交換までは我らに従ってもらう。その後お前がどうなろうと、何をしようと自由だ。キシュを手に入れてもいいだろう。教会でオルガンを弾いてもいいだろう。男爵のおもちゃになる可能性が一番高いがな」
そうだ。
ズレンはいつも、真実を語る。
自由を夢見て、空を眺めてばかりいた自分を思い、オリビエはため息をついた。
それを手に入れるのかもしれない。
その想像は思ったより楽しめなかった。
何しろ、男爵が背後にいる。
どう考えても、革命軍にとって人質としての僕は役不足だろう。食料を奪い合い争う市民にはどんな思想よりもパンが必要に思えた。キシュがパンのために通っていたように。



人質の交換は夕刻。
それまでオリビエは中庭の陣営で待つことになった。
どこかよそよそしい衛兵たちに遠めに監視されながら、屋内から運ばれた肘掛のついた一つの椅子に座る。下男のモスがトランクに荷物をつめて持ってきた。
「よく分からなかったんで、適当につめました。あの、足りないものやいらないものがあったらおっしゃってくだせえ。楽譜は目に付いたの全部、入れておきました」
「……曲はすべて、侯爵様のものだよ」言いながらオリビエはトランクを開き、無造作に詰め込まれたそれらを引っ張り出した。一つ、あの教会でキシュにあげると約束した曲を残してすべてモスに渡した。
モスの汚れた太い手がそれを恐る恐る受け取る。
「なんて顔、してる。モス、僕も皆と同じになるだけだ。この騒ぎが収まったら町で聖歌を弾く僕に出会えるさ」
「オリビエ様、けんど、あいつらは何するかわからねえ、パン一つで殺しあうんだ」
小さな黒目勝ちの目を何度も瞬く下男に青年はそっと肩を叩いて応える。
「大丈夫。何のために僕を呼ぶのか分からないけど。必要なら殺しはしないさ」
「オリビエ様、お優しいあんたが可哀想だ。代われるもんなら代わってやりてえ」
焦げたパンと同じ色の肌に涙をこぼす。大きななりをしたこの男がとても気の優しいことをオリビエも知っている。
この屋敷の音楽堂に初めて案内された時、暖炉の掃除をしていたモスがオリビエの「こんにちは、初めまして」の緊張した挨拶に振り向いた。大人の癖に十三のオリビエと同じくらい緊張し、「こんな煤だらけで、すまんです」と慌てて顔を拭いた。拭いてももともと黒い肌はそのままで、それでも一生懸命汗と煤をぬぐう男にオリビエは笑った。侯爵家に来て初めて笑ったのが、この出会いだった。
「また会えるよ」
微笑む青年に感極まったモスは抱きつこうとし、ビクトールがその寸前で止めなければいつまでもそばにいただろう。
ビクトールの命令で本来の仕事に戻り、何度も名残惜しそうにこちらを振り返っていた。
息を吐いて、オリビエは傍らに立つビクトールに声をかける。
黙って立っていた侍従長はかける言葉に困っているように思えたから。
「奥様は、どうなさっている?」
「……お部屋で臥せっておられます」
「お元気で、と伝えてください」
「モスと同じ、また会えると伝えてよろしいですか」
「……そうなるよう、努力するよ。ビクトール、奥様のこと、お前が支えればいいんじゃないか」
どう受け取ったのか、ビクトールは大柄な身体を小さく震わせた。
嫌味ではなく、そうしたいならすればいいのだ。オリビエは痛めたほうの足を抱え、行儀の悪い座り方のまま上目遣いでビクトールを見つめる。
「いつまでそばにいられるかなど、分からない時代だよ」
ビクトールには妻がいる、娘もいる。彼らは同じこの敷地に住み、同様に侯爵家に仕えている。よき夫、よき父であるだろう。けれど。
それだけでは納まらない想いがあることは仕方のないことだ。

次へ♪

「音の向こうの空」第十一話 ③

第十一話:飼い犬、つながれた鎖の先に




日差しが傾き。
庭の木陰が薄暗い夕闇に沈みかける頃、城壁には松明が焚かれた。
煙にくすんだ青になり、空は湿り気を帯びた雲を広げつつあった。
風が頬に触れ、オリビエは下ろしていた髪を一つに束ねた。

視界の隅、それを待っていたかのように青年衛兵が近づいてきた。腰のサーベルが時代の音のように感じられる。ここ最近で聞きなれた音。青年の歩くリズムを奏でる。ズレンもまた、皮手袋に手を突っ込みながらだ。
目が会うと少しだけ口元を緩ませた。
嬉しいのだろう。
「オリビエ様を連れて来い」そばまでは来ず、近くにいた衛兵に命じるとズレンは踵を返す。距離を縮める気はないようだ。


衛兵たちに導かれ、オリビエは城壁の正面の門に立った。かすかに落ち始めた雨粒に天を仰ぐが、鉛色の空には星も夕焼けもなくかすかに雲が蠢くのが見えるだけだった。
ずん、と重い音と共に、鉄の鎧扉が動き出す。
左右を護りオリビエの肩に置かれた衛兵の手が、なぜか温かく感じられた。離れてしまうのが恐いからかもしれない。

扉の向こう。
松明を灯した黒い装束の革命軍と、見知った顔の若い家族。

背中を押され、オリビエは歩き出しながらもう一度、離れた場所に立つズレンを見つめた。目があったのも一瞬で、厳しい表情を外に向けた青年衛兵に見られてもいないのにオリビエは小さく礼をした。
改めて正面を向き。
幼い少女が、「お兄ちゃん」と声をかけるのにかすかに微笑を返した。
侯爵の姪の家族が無事城門の中に入り、オリビエ一人を残したまま鉄の扉が閉まる。金属の重い音を合図に、オリビエは再び自分を待つ男たちを正面から見た。
黒い装束の彼らは明らかに不満げだ。
「連れて来い」そう命じたパーシーはオリビエと目を合わせることもせず大砲を護る革命軍の兵たちをすり抜けて人垣の奥へと導く。
オリビエの傍らに大柄な腕に刺青のある男が立ち、サーベルで威嚇しながら先へ進めと促した。人々は一様に生気のない視線をオリビエに注ぎ、時折眉をひそめたかと思えば「人質になるのかねぇ」と隣の人間に漏らした。
さあ、と返事が聞こえるかどうか、歩き続けるオリビエには次の好奇の視線が集る。「音楽家だってさ」
「貴族だろ?」
「ほら、侯爵様の……」
中には侯爵家で見かけたメイドの姿もある。目をそらす彼女に二回ほど瞬きをし、オリビエは真っ直ぐ前を向いた。
街の中心をなす大通りを、こんな風に歩くのは初めてだったのかもしれない。子どもの頃学校に通うために毎日歩いたはずなのに。とても同じ場所とは思えなかった。
自分の身長が伸び、目線が変わり、見たくないものすら見えるようになったのだろう。大人になったのだ。
自分で生きていかなくてはならないほど、大人に。



オリビエは市役所の門をくぐり、灰色の建物を見上げた。外からは幾度か見上げた、三階建てのそれは所々配した黒い石の彫刻が出入りする市民を見下ろしている。
数段の階段を抜ける間に、周囲にいた革命軍たちが集ってくる。オリビエを見ようというのだろう。自然と出来上がった人の垣根をオリビエと、それを導くパーシーが進んでいく。これが教会なら葬列のようだと、自らに花を手向ける気分のオリビエは痺れるほど握り締めていた手を離し、トランクを持ち替えた。片足を引きずる様子に気付いて、脇を歩く男がトランクを取り上げようとする。
「あ」
放すまいと力を込めるが、どんと腕を殴られて上質なトランクがガタと音を立てて床に落ちた。
「あたしが預かるよ」

キシュだった。
ただ一人。オリビエに笑みを向けた。
「オリビエちゃん、いらっしゃい。これ、あたしが預かっていてあげるから」
とん、と座っていたテーブルから降りた少女が駆け寄ってくる前に、オリビエはトランクを置いた。手を離す。
一歩下がる。

少女と目があったとき再び背後の男に背を押され、オリビエは歩き出した。
キシュが背中を見送ってくれているような気がしていた。



二階へと連れられ、市長の部屋らしい立派な場所にたどり着く。

そこには。
やはり、ロントーニ男爵が座って待ち構えていた。
傍らに立つリトーの、頬に残る傷が痛々しい。

「男爵、連れてきました。本当にこれで、侯爵は我らの要求を呑むのでしょうね?」
パーシーの口調は懐疑に満ちていた。そうだろう、どう考えても、侯爵の姪一家のほうが人質としては役立ちそうだ。
「こんな楽士に、本当に侯爵は全てを投げ出すのですか」
室内にいた数名の男たちは厳しい表情を崩さない。オリビエをサーベルで脅していた男は相変わらずすぐ後ろに立ち、オリビエが周囲を振り返ろうとするとサーベルの柄で背中を突いた。
「パーシー、言っただろう?リツァルト侯爵はオリビエに御執心だ。あのズレンに直接警備させるほどだ」
「その割りに、ズレンはあっさり交換に応じましたがね。まあ、いいでしょう。男爵、お約束どおり、市民に食料を分けてくださるのですね」
「街への入り口、ラティエル川の橋の向こうに用意させてある。荷馬車五つ分の小麦だ。侯爵家の食糧庫ほどではないが。あそこの食糧はどうした」
パーシーは肩をすくめた。
「すでに分け与えてなくなりましたよ」
「ふん、まあいい。パーシー、早めに引き取りに行ってもらえないかな、リンスの町から運んできた我が衛兵たちもいつまでも待っていられないのでな。せっかくの食糧を夜盗などに取られては目も当てられん」
パーシーはオリビエの背後の男にしっかり見張っておけと命令すると、部屋を出ていった。

「オリビエ、座りなさい」


次へ♪

「音の向こうの空」第十一話 ④

第十一話:飼い犬、つながれた鎖の先に



男爵に示されたソファーに腰を下ろすが、サーベルを持ったままの男がやはりそばに立ち、落ち着かない。
「お前、部屋の外に出ていなさい。心配なら外で見張っていれば良い」
ロントーニ男爵に言われ、男は数回オリビエと男爵を見比べていたが、だまったまま扉の外へと出て行った。

室内はロントーニ男爵、リトー。そしてオリビエ。
三人だけだ。
男爵がオリビエのすぐ目の前に立つ。
「手間をかけさせるな」
背けていた顔を強引につかまれ、視線をそらせなくなったオリビエはぎゅと目をつぶった。
この現実に、どう向かえばいいのか。
一つ、頬を叩かれた。

「男爵、革命軍を騙しているのですか。私が人質になど値するとは思えない。それを、パーシーに伝えたらどうなると思いますか」
オリビエはその先を必死に考えながら、とにかくそれを男爵に突きつけた。
このまま革命軍の目論見どおり人質になったとして、どうなるのか。侯爵様が切り捨てればそこで終わりだろう。革命軍と市民の憤懣を一身に受け、果てる。
侯爵がオリビエを救いたいと願い取引に応じてくれたとしたら。どうなる。再び侯爵家に戻ることは出来るかもしれない。だが、市民の望みは侯爵のもつ権利のすべて。全てを失った侯爵はどうするだろう。
ありえない想像だと思い当たり。結局のところオリビエは、自分がキシュの言う「自由を手にしたごく普通の青年」になれるはずもなく、以前の生活に戻ることも出来ないことを知っていた。


「オリビエ、お前を人質になどするつもりはない。革命軍がお前に価値なしと気付く前に新たな敵を押し付けてやる。よいか、革命軍などばか者どもの集りだ。私は知っているのだ、パーシーたち革命軍は侯爵家の食糧を奪い、自らのために地下に蓄えていることを。市民が飢え、争いあう最中にあってもそれを隠し通した」
「……それを」
「本当に飢えている市民に分け与えてやろう。何故そこに隠されているのか、誰が市民から搾取しているのか。市民は内なる敵に気付き、革命軍も自らの立場をわきまえるだろう」

ロントーニ男爵がリトーのほうを見つめ顎で指図する。リトーは姿勢を正し、閉じられた扉を引いた。大柄な先ほどの男がよろけて一歩踏み出したときにはリトーのダガーが男の喉を狙っていた。
「動くな」今は女性のそれとしか聞こえない低い声でリトーが脅し、男の膝裏を蹴って座らせた。膝をついた男の背後、男爵が扉を締めた。
男の目の前でレイピアを抜いて見せた。
「聞いていたのかな?」
「ど、どうか、殺さないでください」
ロントーニ男爵は男の目の前に立ち、レイピアを額に当てる。切っ先が被っている黒い布に食い込み、「うう」とうめくのと同時に赤い血が一筋。
「バスドーといったな。お前の家族は飢えているか」
男は頷きかけ、額の剣を思い出し留まった。
「は、はい」
「パーシーが食糧を備蓄していることを知っているか」
「そんなはずはない、あれは分け与えると言って裁判所に運んだ」
「では、なぜ侯爵家を囲んでパンを奪い合うことになる?ズレンの口車に乗せられたとしても市民が飢えているのは真実だろう。あれほどの食糧が分けられれば、あんな醜い争いは起こらなかった、そうではないか」
「分かりません、あっしらはただ、命じられたまま、運んだだけで」
「もし、そうだな。お前たちが運んだ場所に今も食料が残っているなら、ぜひ市民に、女や子供に分けるべきだと思わんか」
「もちろん、あるなら分けるべきです」
「そうだろう?そうしなければまた、あんな醜い争いが起こる。革命軍がたとえ正しい目的のためだとしても、市民に帰すべき食糧を隠していたとあっては面目が立たないだろう?革命どころではない。お前に少しでも革命に対する信念があるなら、パーシーら指導者を説得すべきではないか?」
ロントーニ男爵がレイピアを鞘にしまう。バスドーと呼ばれた男は膝の上に拳を握り、男爵の「我らはここにいる。大丈夫だ、ここ以上に安全な場所はない」と笑う言葉に立ち上がった。

男の足音が階下に消えると、男爵はリトーを呼んだ。
「女たちに広めるのだ。裁判所で食糧が配布されると。革命軍が食糧を確保してくれたと」
黙って頷き、リトーは出て行った。その表情を見つめたが、ちらりともオリビエの目線に応える気配はなかった。
知らぬふり、なのだろう。

二人きりの室内。
オリビエが黙って座っている前をロントーニ男爵は窓辺により外を眺め、再びオリビエの正面に座るとうん、と伸びをした。
「さすがに疲れるな。オリビエ、お前には死んでもらう」

次へ♪

「音の向こうの空」第十一話 ⑤

第十一話:飼い犬、つながれた鎖の先に



「!」
「く、そんな顔をするな。楽士オリビエは死に、私のもとにマリアが残る」
意味が分からない。
「あの、東方の秘薬でも使うおつもりですか」
「ぶ」と男爵は笑った。
「ばか者、お前は死んだことになる。あの侯爵の手から逃れるにはそれが一番だ。革命軍に人質として取られ、これから始まる混乱の中命を落とした。そうして我が領地リンスでマリアとして暮らすのだ」
「ですから、マリアとしてというのが、解せません」
女ではないのだから。
「ドレスでも着させれば理解できるかな?」
「着ませんよ!気持ち悪い」
「ああ、確かに気持ち悪いだろうな」
オリビエは頭を抱えた。
「ですから、男爵」
「私はお前にマリアを見る。私にとってお前はオリビエではない、マリアだ。それを承服しなければ殺す。それだけのことだ」

切れ者なのか、どこか欠落しているのか。
「承服したら、私はどうなるのですか」
「我が屋敷でマリアとして生きる。それだけのことだ。必要なら楽器も用意させよう」
「侯爵と同様に、雇われるということでしょうか」
「雇うのではない、そばに置く」
置物ではないのに。
「あの肖像画のように、ですか」
「そうだ。私が黙れといえば黙り、動くなといえば動かぬ。マリアの血を引き、顔を持つのだ、その位してもらわねばな」
「……リトーが、いるではないですか」
それほどまでマリアを求めるのか。
虚像となり、妄想となっているそれに恋焦がれるのか。

「あれは、違う」

「リトーは貴方を愛していますよ」
「……知っている」
「では」
「だからこそ、マリアではない」

男爵にとってマリアという虚像は永遠に追い続ける存在なのかもしれない。その心理は理解できないが。哀れであることに変わりはない。
その憐憫の情がリトーの心を蝕むのかもしれない。
これ以上なにを言っても無駄なのだろう。オリビエはただ黙って、自分を抱きしめる男爵を見つめていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十一話 ⑥

第十一話:飼い犬、つながれた鎖の先に



しばらくしてリトーが飲み物と共に部屋に入ってきたときも、相変わらず男爵はオリビエをマリアと呼び、頬に触れていた。
「!…男爵様。そろそろ始まります」
男爵は窓辺に立ち、町の様子を眺める。オリビエはやっと開放され力を抜いた。

目の前に飲み物を置き、睨みつけるリトーにどうしたものかと上目遣いをしてみるが、立ち上がるついでに盆で頭を軽く殴られた。
せっかく逃がしてくれたのに、意味のないものにしたのは自分か。リトーの想いも分かるがオリビエにもどうしようもないことだった。

かすかに人の騒ぐ声が聞こえてくる。
大通りを挟んで市役所の向かいが裁判所だ。窓からは裁判所が炎に包まれるのが見えた。

「市民は喜び勇んで裁判所に詰めかけました。確認のために戻ったバスドーが裁判所の鍵を開けたので、大勢が入り込みました。市民に混じって流浪民も入り込みそこでも小競り合いに。止めようとする革命軍が加わったところで、革命軍が食糧を独り占めしていると流布してきました」

リトーの報告は誇らしげでもある。そのために血を流す市民が大勢いるのだろうが、彼女にはそれ以上に大切なものがある。彼女自身も戦っているのだ。

「革命軍と市民を争わせるのですね、そうなれば、市民も大勢犠牲になりますね」
オリビエの言葉に男爵は笑った。

「自業自得。市民も農民も。飢えているなどと言っても、それぞれ密かな蓄えを持ち、いかにも哀れを装っているのだ。オリビエ。侯爵家の食事が、毎回食べきれないほど多いのはなぜか知っているか。お前の食事のために、多過ぎる食糧が買い込まれる理由を知っているか?」
男爵の頬に皮肉な笑みが浮かぶ。

「侯爵は見て見ぬふりをなさっていたのだ。我ら貴族は鷹揚で慈悲深い。それを利用し、影で多くを奪っておきながら、あたかも貴族が浪費していると訴える。浪費した先、高額な代金は商人に渡り、必要もなく購入された食料は雇われ人が家に持ち帰る。それらを得た市民は貧農や貧しいものに貸し与え、利息と称してさらに搾取する。この町の中産階級とはそういう輩だ。醜い彼らはそれだけでは飽き足らず自由だの人権だのを叫び始める。翻弄される貧しい市民も、驕った中産階級も皆ばか者どもだ。すでにこの国には、すべての国民を養えるほど食糧も金銭もないというのに」

革命、それは誰かが起こすものではないのかもしれない。
自然とそうなっていく、時の流れに似ている気がした。

「さて、そろそろ行くかな。街境の川岸に衛兵を待たせてある。表向きは食糧の配給だが」
パーシーとの約束だといったあれか。

街境を抜け、隣街の男爵家に連れて行かれれば、オリビエの運命は虚像のマリア。
どこかで逃げ出さなくてはならない。
リトーは協力してくれるだろうか。

ダガーを突きつけるリトーをちらりと見つめる。
返された視線が危険な殺気を含むことに気付き、オリビエは震えた。

「リトー、あの、僕が逃げたら、殺す?」
「逃げてみたほうがいい、オススメする」

男爵の気が変わらないなら、自らのほうを見ないのなら。リトーは邪魔者を容赦なく殺すつもりだ。青ざめ嫉妬に燃えるリトーにはオリビエに対する温情など欠片もないだろう。

オリビエは市役所の階段を引きずられるように降りながら、もしや、一番哀れなのは自分なのではないかと今更のように気づいた。

次回、第十二話「マリアの虚像」は9月15日公開予定です~♪

18世紀フランスってこんな世界?

らんららです。

相変わらず、資料読みに費やす時間が執筆より長い状態です(笑

歴史が苦手ならんららが最初にフランスに興味を持ったのが、『芸術新潮』月刊誌です。
ある月の記事に木俣元一さんの「フランスのロマネスク建築」に関するものがありました。もともと小説の風景イメージとして建築や町の歴史に興味があったので、面白かったのですが。
その中にあった、聖王ルイの記事。
フランスの王として初めて聖人の座を受けた人で、ゴシック建築の普及に尽力した人です。有名な建築はサントシャペルとかですけど、私が好きだなと思ったのはロワイヨーモン修道院。
崩れかけた尖塔の美しさ。質素な修道院で、聖王は修道士と同じ生活をしたといいます。若干12歳でフランスの王となった彼は摂政である母親や周囲に支えられ(操られ、指導され)成長します。宗教心が深く、温厚。それでいて時には苛烈な性格を現したこともある。矛盾を抱えた人間味のある王として、確かにその時代に足跡を残した人です。(その人生を想像するだけで、どきどきしちゃいます)

結局、小説は現実には叶わないから。
現実の歴史の面白さを拝借して、感動して。物語に生かしたいな~と思いますね。

それ以来、らんららはフランス好き♪まだまだ、勉強不足なのですが。

『聖王ルイの世紀』白水社
『フランスロマネスクを巡る旅』新潮社
『図解世界史』成美堂出版
『建築の仕組み』ナツメ社
『フランス革命史』中公文庫
『子どもと学校の世紀』岩波書店

に始まって。今は、
『パリの歴史地図』東京書籍
『チェンバロ・フォルテピアノ』東京書籍
を読んでいます。
この二冊は絶版なので図書館から。図書館にあることを知って、司書の方々に感謝、ですよ~。こんな田舎の小さな図書館にちゃんとあることが嬉しい♪
貸し出し期間がもう少し長いといいのだけど(笑)

物語を書くものとして、小説は素敵だなと思いますが。
また、こういった資料となる書籍を書き、出版してくれる世界。とても大切だな~と改めてね。思いましたよ。
分からないことをネットで調べるのもいいのですけど。やはりまだ。書籍の世界の方が深く、正確で面白い。日本中の出版物が納められている国立国会図書館へ、論文のために通ったことがありますが、なんと言う書名のものが読みたいのかが分からなければ一歩も先に進まないのです。
だから、そこで役に立つのがネット。

ネットと書籍をフル活用して、知りたいことを知る。興味と情熱があれば知ることができる。
幸せな世界に生きているな、と思います♪

「音の向こうの空」第十二話 ①

再び男爵の手に落ちたオリビエ。革命の夜を迎えるエスファンテ。ズレンは…

第十二話:マリアの虚像


侯爵家では静まり返った晩餐が催されていた。普段より数倍質素な夕食に、ナイフの音も淋しく響く。そこへ、ルグラン市長が駆け込んできた。
ビクトールに果物をもらっていたアンナ夫人が顔を上げる。

「あ、ああ、公爵夫人、失礼しました」

普段なら、騒がしいと怒りを露にするアンナ夫人も今は黙って市長を見つめている。
「いいのよ、何かあったの?オリビエの様子が分かったの?」

青年の名を出すとただでさえ泣きはらした声がさらに切なく震える。

「伯母様」オリビエが連れ去られたことでひどく悲しむ夫人に、幾度も謝罪を繰り返していた姪のソフィリアがアンナ夫人の乱れたショールを直し、そっと肩を抱いた。
「ええ、ええ、大丈夫よ、ソフィリア。あの子には可哀想なことをしたわ。早く侯爵様がお戻りになって、あの子を助け出してくださることを願うしか……」

「市長、なにがあったのかね」待ちきれずに貴族の一人が立ち上がる。
息を切らしていたルグラン市長は、一気に飲み干したグラスをテーブルに置き、続けた。

「裁判所で市民と革命軍が争っているんです!奴らは飢えて、とうとう仲間割れを始めましたぞ!」
どよめきは幾分歓喜の色が混じる。

「だとすれば、勝手に自滅してくれるのか」
「ズレンはどうしているんだ」
「空が赤いが、どこか燃えているのかね」

皆、口々に好き勝手なことを話すが誰一人部屋を出ようとしない。
アンナ夫人が立ち上がった。

「私、ズレンと話してきますわ」

この屋敷の女主人として、アンナ夫人は貴族たちに見送られ中庭へと向かう。そこに陣を構える衛兵たちに、ことの様子を確認するのだ。

「危険です、私が代わりに」とビクトールが止めようとしても、夫人はその手を振り払う。

「オリビエが危険な思いをしているというのに、これしきのことでなにを言うのですか!私はこの屋敷を、侯爵様のお留守を護る義務があります。ああ、嘆き臥せっていた自分が情けないわ!」


中庭への数段の階段を降りると、すぐ脇の植え込みから先に衛兵たちが並んでいた。
整列する彼らは、正面の一段高い花壇に立つ青年を見つめている。

「良いか、我らは侯爵様の命により、市民を革命軍から護る。今こそ、このエスファンテに我ら衛兵が必要であることを知らしめるのだ。我らが誰のためにあり、誰のために命を懸けるのか。我らの親兄弟、親しき友人に衛兵たる生き様を見せようではないか!我らの主、リツァルト侯爵様は市民を護る武力行使を認めてくださる。市民を騙し、翻弄する革命軍とやらを今こそ追い払うのだ!」

ズレン・ダンヤの声は夜風に通り、松明に照らされる兵たちは一様に熱い尊敬を連隊長に向けている。
「市民のために!」
総勢五百名ほどの衛兵がいっせいに剣を天に向けた。
「我が、エスファンテのために!」
ズレンがサーベルをかかげ、正門へと振りかざす。

おおーっ!

腹のそこから湧き出す兵たちの叫び声。正門を開くと、騎兵が先陣を切る。歩兵のうち百名ほどが侯爵家の前に集っていた市民を呼び寄せ、中庭に引き入れる。

「屋敷内に入れるとは!」ビクトールが慌てて止めようとするが、アンナ夫人がそれを制した。
「私が行きます」


衛兵がこちらで手当てを、と傷ついた親子を侯爵家の前庭に引き入れた。まだ若い母親は裸足のまま怪我をした腕で幼い子供を抱きかかえていた。
飢えのためか子供は泣き叫ぶ。

衛兵の一人が「静にせんか」と怒鳴るが意味を成さない。母親は何とかなだめようとするが、怪我をした腕では支えるのが精一杯だ。
辺りは避難してきた市民が溢れ帰り、徐々に居場所を失って、親子は庭の隅へと流されていく。屋敷の正面の石段の下で水と食糧の配布が始まったために、求める人並みはそこに集り、ここでも弱きものははじき出される。

「大丈夫、私が預かるわ、さあ、お前は手当てを受けなさい」
白い手が幼い赤ん坊を抱き上げた。
「!アンナ様」
転びかけた母親をビクトールが支えた。
「さあ、こっちです」
夫人は赤ん坊をあやし、抱き上げたまま屋敷のエントランスの上に立った。


大理石の両脇の柱にランプが灯されている。そこは舞台の様に明るい。オリビエを哀れんでいつもの緋色ではないことが功を奏し、純白のドレスのアンナ夫人は女神のように見えた。抱きかかえる幼子はさながら天使。見とれないものはないほどに美しい。

「幼きものを泣かしてはなりません!ここでは弱いものが護られるのです。弱いものを押しのける力があるなら、衛兵たちと共に戦ってきなさい!ここは弱きもの、女たちと子供、けが人を護る場所です。働けるものは力を貸しなさい」

静まり返ったなか、アンナ夫人の抱く幼子がふあ、と泣き出す。
「ああ、ごめんなさい、お前が悪いのではないのよ」
慌てる夫人の姿に見つめる皆が笑みを漏らす。

「さあ、順番だよ、小さい子供のいる人を前に」衛兵たちに市民は大人しく従った。
幼子を抱える母親を周囲の人が助ける。衛兵に手を引かれ、パンをもらうと子供はありがとうと微笑んだ。

「素敵ね、感動的だわ。我が衛兵は誇らしいわね」
傍らでしきりと感動し、屋敷に隠れている貴族たちにも協力させましょうと言い出すアンナ夫人をビクトールはそっと見守る。誇らしいのはあなたです、と小さくつぶやいたのはアンナの抱きかかえる子供にだけ届いていた。振り返って首をかしげる幼子に、ビクトールは笑いかけた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十二話 ②

第十二話:マリアの虚像



オリビエはリトーの狙いなのか縛られもせず、二頭立ての馬車に乗せられていた。
隣に座る男爵は上機嫌で、その手がオリビエの身体に触れるたび、正面に座るリトーの目がキラリト光るように思えた。オリビエにはそれが恐ろしい。逃げ出す仕草をしようものなら、嬉々として刃を突き立てるつもりだ。

喧騒を逃れ馬車は中心街から南へと下る。
不気味なほど静まり返った郊外。人々は家にこもるか、中心街へと出かけている。こんな物騒な時期に男手が家を空けるのはどうなのかと、心配になる。
明かりのない民家が続く。

丘陵地帯に差し掛かるころ、夜の闇を振りまくように雨が降り出した。田舎のぬかるんだ道を馬車は水しぶきを上げながら進む。窓にかかる雨粒が視界を遮り、ただでさえ暗闇に沈む町の風景がますます遠いものになる。

「…恐ろしいか?」
オリビエの手を握り、ロントーニ男爵は何度もさする。
まるで子供にするかのような。
いや、子供だと思っているかもしれない。
怒ることも、悲しむことも、今のオリビエを救う手立てではない。必死に冷静を保ち、オリビエの思考は打開策を求める。街の境で衛兵と合流するといっていた。確か、パーシーたちが小麦を受け取りに向かったはず。どこかですれ違うか、そうでなくとも街境で一度止まるだろう。そのときがチャンスかもしれない。
だが。
そうして、逃げ出して。どうするのか。

先の見えない暗闇に、どうしようもなく押しつぶされそうになる。
このまま人形のように男爵に従うのが一番楽なのかも知れない。少なくとも、音楽を奏でる環境はある。
しかし。

どこにも、帰る場所はないのだとオリビエは思う。
ズレンとの別れを思い出す。近づきもしなかった。
キシュはどうしているだろう。あのトランクに入っていた楽譜は、彼女の元に届いただろうか。

ただ、音楽を奏でたい。
そうして、誰かを幸せにしたい。

その生き方は、マルソー。革命の最中を生きる貴方たちと同じ、あまり、楽ではないようです。

「どうした、悲しいのか」
気付けば頬を伝うものに男爵の手が添えられていた。
黙ってうつむく青年に、男爵は優しげな声をかける。

「そう泣くな。お前を悲しませたいのではない。マリア、泣かないでおくれ」
マリア、ではない。
「かわいそうに、これからは私がそばにいる。離しはしない」

抱きしめようとする男の腕に言いようのない憤りを感じ、オリビエは叫んでいた。

「放せ!僕に触るな!誰のせいで悲しいと思う!殺したいなら殺せ!母さんの名前で呼ぶな!母さんはいないんだ!」

暴れだしたオリビエが肘で男爵の喉下を突き、息をつまらせた男爵がのけぞってひっくり返る。

「貴様!」リトーの声は悲鳴に近い。甲高く、振りかざしたナイフにオリビエはアネリアを思う。その手を掴み、のしかかる女の腹を蹴り上げた。
狭い馬車が泥濘で揺れたのと同時、オリビエとリトーは互いにつかみ合いながら馬車から転がり落ちた。

顔に雨を感じた直後、どん、と衝撃と闇が襲う。

気付けば麦畑らしき中に横たわっていた。衝撃のわりに痛みはない。起き上がり、頬に貼り付く麦の葉をぬぐった。耳元には雨の音。暗闇の中目を凝らしても、何も見えない。
遠くで馬が嘶いた。
馬車が停まったのだと、かすかに草むらの向こうにそれが見える。御者台に吊るすランプが、ちらちらと揺れる。それが二つとなり、闇の中流れるように移動を始める。
男爵、だろうか。御者と共に落ちた僕を探しているのだ。

隠れなくては。

泥濘に膝が沈むのを感じながら体を起こす。立ち上がろうとして、目の前の何かに躓いた。
それは、柔らかく、温かい。

「リトー、か?」
返事はない。

闇の中手探りでそれに触れる。確か一緒に落ちた。走る馬車から転げ落ちたのだ、もしや怪我などしているかもしれない。

「リトー!おい、しっかりしろ!」
雨脚が強まる。音もなく畑に落ちる雨は身体を冷やす。

リトーの肩を見つけた。そこから首、背に腕を回す。いつかズレンが男爵を起こしたように、そっと起こしてみようとする。が、ぬるりと生暖かいものが手に触れてすべる。
「リ、トー…?」
見えない。
力なく垂れ下がる頭。ぬれた髪が絡み、そっとその首筋に手を当ててみる。
鼓動は、あった。
息はしているようだ。
だが、どこか怪我をしている。明らかに雨ではないものが女の身体を覆っている。

あの時。リトーはダガーを構えていた。短剣をつかみ合ったまま、転げ落ちたのだ。それで怪我をしたのかもしれない。

逃げ出そうと、どんなに大変でも、逃げ出そうと思っていた。殺されてもいい、それでもここにいるよりはと。
だとしたら今、リトーを置いて逃げるべきなのだ。暗闇に乗じて隠れ、明日、明るくなってから行き場所を考えればいい。

なのに。このままではリトーが。

マリア、と呼ぶ男爵の声。
ランプは遠く、見当違いの場所をさまよっている。

オリビエは頬に雨でないものが流れるのを感じながら、声を張り上げた。

ズレンならバカだと笑うのだ。
きっと。

次へ♪

「音の向こうの空」第十二話 ③

第十二話:マリアの虚像


オリビエの助けを呼ぶ声に、すぐさま二つのランプが近づいてきた。
外套を羽織った男爵と御者。二人にリトーがケガを、と話しかけたときだ。
膝に抱えていた女が、むくと起き上がった。
「あ、リトー、大丈夫…」
その手に、短剣。ランプの明かりにチカリと輝き。

「オリビエ!」

かろうじて左腕でとどめた女の腕を、駆けつけた男爵がつかむ。そのままリトーを引き離すと蹴りつけた。
リトーは暗がりに転がった。
「男爵、リトーはケガをしています!」

さらに暴力を振るおうとする勢いの男爵を引き止めると、男は振り返りオリビエに抱きついてくる。
「オリビエ、お前は無事か、怪我はないか」
御者が立ち尽くし照らす中、必死の形相の男爵は嬉しそうにオリビエの顔を確認する。
「男爵…」

暗がりからだ。
「こちらを、私を見てください!」

吼えるような声だった。御者が、ひ、と小さく悲鳴を上げた。
リトーは泥と血にまみれ、獣のようにぎらぎらとした瞳を男爵に向けていた。

「うるさい、オリビエを殺そうとするなど、許さんぞ!ばか者が!」
オリビエの額に張り付いた髪をなでる男爵は、声を荒げリトーを罵倒した。

「お前とは生まれも血筋も違うのだ!汚らわしい!お前など辛うじて女であるだけ。お前がマリアの真似をするたびに吐き気がする!バカの一つ覚えとはこのことだな、歌いさえすれば喜ばれると信じ込む…」

聞くに堪えない言葉の数々に、オリビエは「止めてください」と男爵を突き放そうとする。

が、固まったように男爵は動かない。重みに目を見張り、風と違う生き物の吐息を感じて視線を上げれば、目前にリトーの血にぬれた顔があった。

ひ、と声を上げかけ、気付いた。

男爵はずしりとオリビエに倒れ掛かり、動かない手が土に転がる。
「私を、見て…私を」
つぶやくリトーは抱きつくように男爵に覆いかぶさり、その下にいるオリビエには生暖かい血が滴る。

「う、うわぁ!!」
這うようにそこを抜け出す。

「人殺しだ!男爵様を」御者が叫び、たった一つの明かりを持って逃げ出した。

「ま、待って、おい!」
オリビエの声は震えて届かない。

すぐに暗がりに放り出され、かすかに聞こえるリトーのつぶやき以外、生き物の存在が分からない。
男爵は、生きているのか。今、今助ければ、もしかしたら。
そう思うのだが、足が動かない。座り込んだ身体は麦に絡みつき、泥に埋まる。どうしたらいい、どうしたらいいんだ。
遠く、馬車が走り出す音。御者は一人で逃げ出したのだ。

ここに、オリビエと獣と化したリトーを残して。

かすかな声が聞こえた。
いつのまにか雨は止んでいた。
聞き覚えのある声はかすれていたが、聖歌を。母の声で、喜びの歌を歌っていた。

か細い声。

それは小さくなり、次第に小さな唸り声になり。

唐突に止んだ。

「リトー…?リトー?」

オリビエは勇気を振り絞り、ゆっくりと這い進む。


遠く、からからと車輪の音。
それは増えていく。
オリビエが街道のある方角を眺めると、数台の馬車が停まった。松明が灯されたのだ、凶暴な明かりが照らし出した。
大柄な黒い装束の男たち。
革命軍、だ。

ああ、そういえば小麦を受け取りに行ったのだ。
「オリビエちゃん!」聞き覚えのある声。
駆け寄ろうとする赤毛の少女を、男の一人が引きとめた。
「だめだ、見ちゃいけない」

そう、見ちゃいけない。
こんな。

パーシーの手がオリビエの肩を支えると同時に、二人の重なり合う死体が彼らの目に入った。男たちが、ああ、と気味悪そうにそれを眺めていた。

次へ

「音の向こうの空」第十二話 ④

第十二話:マリアの虚像



「ほれ、これでも着てな。風邪引くぜ」
揺れる馬車の中、オリビエは小麦の袋の間に座り込んだまま、渡された服に着替えた。

「男爵のことは、御者に聞いた。あんたは何にも悪くないさ、だから、そんな顔してるなよ」パーシーは元気付けようというのだろう、荷物からリンゴを一つ投げてよこした。それがトンと肩をたたき、転げ落ちる前に受け止める。
男爵とリトーの遺体は革命軍の男たちの手で布にまかれ、それを積んで御者は彼の家のあるリンスへと向かった。そこで手厚く葬られるのだろう。

「ありゃ、しょうがないだろ。男爵は使用人にはつらく当たる人だったからな。恨みを買っても仕方ないさ。本来はリンスの町に住んでるはずだろ?けど、あっちの屋敷で、下男を殴り殺したことがある。それでいられなくなったのさ。家族はもう諦めていたんだろうよ。男爵は一人、エスファンテに移り住んだ。変わり者だった。どこかいつも飢えた顔をしていた。それが、少し俺たちに似ていると思ったんだ」
パーシーの低い声は、なぜか腹に沁みた。

「リトーは、男爵を愛していました。最期まで、男爵のために歌を歌っていた」
涙がこぼれた。
「なんだそりゃ」正面に座っていた男が肩をすくめた。
リトーを男だと思っているのだろう。

理解されない想いを二人で抱えあっていた。どうしようもなく満たされない想いを抱えて、苦しんでいた。リトーは、それを終わらせたのだ。
少しだけ、アネリアを思わせた。アネリアも僕を愛していたのだ。だから、終わらせようとした。

そんな悲しい愛は、間違っている。
間違っていると思うのに。涙が溢れた。

「キシュの前では、泣くなよ」
パーシーが肩にかけていたタオルを投げてよこした。

幸いキシュは前を行く馬車に乗っていた。時折、こちらを心配そうに眺めるのが、朝日に照らされて見えていた。
「太陽みたいな、子ですね」
「ああ、いい女だろ」
「ええ。救われます」
「……やらんぞ」
「……」

朝日に照らされ、じっとりと汚れた髪が軋むように乾き始める頃、オリビエは腹に渦巻いていた疑問を、パーシーにぶつけてみた。
それは、男爵がこだわっていた。
彼がオリビエに関わる原因。
「僕の両親の死に関して、何か知っていますか」
目の前で退屈そうにしていた男がびくりと身体を震わせた。
その顔を見ながら、オリビエはもう一度、同じ質問をし、御者台に座るパーシーからの返事を待った。
馬車が轍にはまる振動を二回数え、オリビエは黙り込んでいるパーシーを睨んだ。
男はこちらをじっと見ていた。

「あの、僕の両親は、殺されたのだとロントーニ男爵は言っていました。それは真実ですか。あの人は信じ込んでいたけれど」
パーシーは少し天を仰ぎ、息を吐いた。
「あんたのご両親は事故だった」
「でも、母さんは父さんと一緒には出かけなかった!僕もそれは知っている!なのに同じ馬車で事故にあうなんておかしいじゃないか!」
「…信じないなら、聞くな。男爵が何か言ったならそれを信じればいいだろう。どちらにしろ俺は直接は知らん。だから、お前が信じたくなるような話は出来んし、そうしてやる義理もない」
オリビエは睨みつける。
「本当に、知らないのか」
「神に誓って」
「…」

黙り込んだオリビエに、正面に座った男が話しかけた。
「俺はさ、俺だって詳しくは知らないけどさ。あんたのお父さん、ラストンさん、好きだったぜ。あの人が教会で弾いてくれる曲は心を軽くしてくれた。俺は司祭会にあの人が出てきてくれて、みんなのためにオルガンを弾いてくれるのが楽しみだった」
ふん、とパーシーも笑った。
「そうだな、そういえばオリビエ。うちのキシュも、ガキのころからあんたの父親の演奏に憧れていた。柄にもなく歌を歌うようになったのもそんな理由があるんだろうよ」
「皆、なあ、あんたがどう思うかは分からないけど、少なくとも俺の知っている仲間内じゃあんたの親父さんを嫌う人間はいなかった。惜しい人を亡くしたよな」
男がタオルを差し出した。オリビエはもう一度それで顔をぬぐった。

僕は、ラストン・ファンテルの子供だと、誇りを持って言える。

次へ♪

「音の向こうの空」第十二話 ⑤

第十二話:マリアの虚像



馬車は程なくエスファンテの市街に入っていった。
通りは静まり返っていた。

朝もやの中、小麦を積んだ五台の馬車がからからと音を響かせて裁判所の前に停まる。
さすがに早朝だけあって、人影はない。
オリビエは朝の冷え込みに少し震えながら、降り立った。

市役所の前に陣取っていた見張りの姿が見えない。
パーシーも気付いたのだろう、小麦をおろそうとしている男たちに手で何か合図を送った。
「どうしたの?」
キシュが赤毛を一つにまとめながらオリビエのほうに歩いてきた。
朝日が、靄を払うように差し込んだ。

「動くな」
その声は凛と響き、同時に裁判所と市役所、双方の塀から衛兵たちが姿を見せた。皆、銃剣を構えていた。
通りの真ん中で、左右から挟まれ、パーシーはゆっくり手を上げた。

「なんだ?」
オリビエがキシュを引き寄せようと手を伸ばした時、ばらばらと衛兵が駆け寄ってきた。
「!あの」
「何すんの!」
オリビエは大勢に取り囲まれ、担がれるようにして連れて行かれる。
「なんだよ、どうしたんだよ!」
「ご無事で、オリビエ様。ご安心ください、市街は我ら衛兵が制圧しました」
「市民も、貴族の皆様もご無事です。革命軍は排除しますからご安心を」
市民、革命軍。
そうだ、ロントーニ男爵が去り際に仕掛けた罠。そのために革命軍は内側から破綻した。そこに衛兵がつけ込んだのか。ズレンらしく、隙がない。

キシュの声が聞こえた気がして、オリビエはすぐ目の前の衛兵に訴えた。
「あの、彼らはどうなるんですか?キシュは」
「ズレン様から伺っていますよ、拘束はしますが。ひどいことはしません。彼らも我がエスファンテの市民。少しばかり悪戯の過ぎたものたちです」
余裕の笑みを浮かべる衛兵たち。確かに、制圧したのだと思わせる。

たった、一個中隊で。数千人いるはずの市民をこともなげに静まらせたのか。


侯爵家の中庭には、見慣れないテントが並んでいた。まだ早朝、オリビエが衛兵と共にそっと屋敷に入ると、後からズレンも到着した。
珍しく、屋敷の中に入ってきた。
これまでずっと、前線である中庭に留まっていた。ズレンもやっと、屋根のある場所で、ゆっくりできるということなのだろう。

廊下で出くわし、ビクトールに背後を護られるオリビエを見やると、にやりと笑って見せた。
「来いよ」
「ズレン殿、オリビエ様はお疲れですし、このお姿」
「かまわん、来い。どうやって男爵の手から逃れたか、聞かせてもらう。あれの様子を聞かなくては落ち着いて眠れないからな」
ズレンに引かれ、来客用の寝室、今はズレンの部屋になっているそこに招かれた。
渋い顔をしつつも二人のために茶を入れるビクトールに、オリビエは礼をいい、「まだ早いから、お前も休んだらどうだい」と笑う。「再会を祝うのは、アンナ様が起きていらしてからでいいから」
ビクトールは満面の笑みを浮かべた。
「ええ、そうですね、貴方様に見せたかった。お話したいことがありますよ。ゆっくり休まれたその後で」
何か、いいことがあったのだろう。こんな状態になる前、ビクトールのそういった笑みは必ず楽しいことを知らせてくれた。以前の、温かい生活に戻れる気がしてオリビエは心から喜んでいた。紅茶の温かさもまた、胸に沁みた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十二話 ⑥

第十二話:マリアの虚像



ズレンは、オリビエが語った男爵とリトーの行動に途中目を見張ったり、ニヤニヤしたりしながら聞き入った。
「しかし、あれが女とは。さすがに気付かなかったな」
「最期には、可哀想なことをしました」
「想いを貫いたのだ、良かったとしよう。しかし、あの騒ぎは男爵が起こしたものだったとはな。忍び込ませておいたものに連絡を受けたときは天の采配とまで思ったが」
「忍び込ませた?」
「ああ、暇を出すふりをして、メイドを数名。女であれば怪しまれない。お前が市役所に連れ込まれたところまでは報告があったが。そうか、危うくマリアにされかかったか」
「笑い事じゃない」
「ああ、ああ。そうだ。やはり、感謝しなくては」
「それ、前も言ったな、どういう意味だ?」
「マリアに似たお前に執着し、きっと男爵が手を打ってくると踏んでいた。予想では、お前にこだわる男爵と革命軍とを敵対させるつもりだったのだが。パーシーも案外、落ち着いていたな。侯爵様が戻られていれば、もう少し緊張感が増して、人質の価値も重要になっただろうに。少しばかり、ことが早く進んだ」
「それで?」
「マリアに感謝、だろう?お前がいなければ、お前に執着する男爵がいなければ納まりはしなかった」
釈然としない。
「だけどズレン、男爵は元々母さんに執着するあまり侯爵に対抗する革命軍を援助したんだ、逆じゃないか」
「マリアのせいでこの混乱が起こった、自業自得だと。言って欲しいのか?」
「……」
「つくづく苛められたい性格なんだな、お前は」
「そういうわけじゃ」
「どちらにしろこの時勢。形は違えど市民の憤懣は噴出さずにはいられなかったさ。革命軍に男爵が絡んでいなかった場合、困難は増す。結果的に収まったんだ、よしとするさ」

「あ、そうだ」
二人同時にそれを言った。
「なんだ?」
ズレンが笑う。
久しぶりに見た気がした。そんな、心から笑う青年を。町を護り侯爵家を護る、その重圧から解放されたからなのか、あるいはオリビエの予想もつかない意味のある演技なのか。分からないが。笑っていてくれたほうが心は休まる。

「いや」
せっかくの笑みも、オリビエの言葉を聴けば曇る。迷いをどう受け止めたのか、ズレンはニヤニヤと笑い出した。
「なんだ、言いたいことがあるなら言え。拗ねた顔をしているぞ」
「…あの、キシュのこと。やっぱり、ズレンもあの子のこと好きなんだろ」
ぶ、とズレンは笑い出した。
「なんだよ」
「いや、まあ、悪くはないが。まだ、ガキだな。お前も」
「なんだそれ!」
「お前がキシュにかどわかされないように、突き放すつもりであれを誘ったんだ。誰が本気で子供を相手にするかよ。見せ付けたときのお前の顔、今思い出しても笑える」
「わ、笑い事じゃない!」
あれも演技なのか!一体この男の本心とはなんなのだ!?

「お、本気だろ、やっぱり。素直じゃないな。いい加減認めろ、ここで俺に当り散らすくらいなら、奪えばいいだろ?女は強引な男を待っているものさ」
「違うだろ、それ」
「お前はまだ、分かってないさ」
「ズレンだってキシュのこと分かってない!」
「おお?お前は分かるってのか?」
「からかうなよ!」
ますます嬉しそうにズレンは紅茶を口に運んだ。
詰め寄るオリビエに「紅茶がこぼれる」と手をかざし、一気に飲み干すとにやりと笑った。
「まあ、自分のことは自分で何とかできるだろう?明日の昼には侯爵様がお着きになる。多少、乱れたこの街をどう建て直されるおつもりか、俺も少し楽しみなんだ。お前もどこまで報告するのか、考えておけよ。余計なことを言えばまた、アネリアの二の舞だ。頭を使え」
急に現実に引き戻された。
今は革命軍として捉えられているキシュたち。侯爵様が彼らをどうするのかは、ズレンにも分からない。
自室へと向かいながら、差し込む朝日に目を細めた。気付けばあちこち傷だらけで薄汚い野良犬のようになっている。ふとランドンを思い出した。あの犬も野良犬を経験したことがあるのだろうか、そんなおかしなことを想像し。
オリビエは泥も血も涙も、洗い流せる人間であることを温かい湯に浸りながら実感するのだった。

次回、第十三話「革命の後」は9月29日公開予定です~♪

↑続き読みたいな、と思ってくださったら…お一つぽちっとクリックしてください♪
「アルファポリス」のランキングバナーです♪

「音の向こうの空」第十三話①

第十三話:夜に浸る空


じり、と夏の虫が鳴いたような気がした。
オリビエが目覚めるのは、いつも何かしら耳に響く音。
敏感な耳を持つせいか、夜更かしした今日も日の出と共に目覚める夏の虫たちに揺り起こされる。心地よいそれをベッドの中で聞き入り、気付けばまた指は勝手に奏でている。
鳥の声、早朝から働く下男たちの生活の音。日々の、当たり前にあった音たち。

昨夜までのことが嘘のように、穏やかな気分でオリビエは伸びをする。
ロントーニ男爵の最期も革命軍の人質となったあの瞬間も、過ぎた今となってはページを開く日記に似て、閉じたければ閉じられる存在になっている。
確かに時間がたち、その間に失われたものもあったのだろうが。

今、侯爵家で目覚めたオリビエにはそれはまだ身近ではない。


階下に下りていくと、大広間は避難した貴族たちがにぎわい、朝食を食べていた。
ちらりとのぞいたものの、その一員となることに多少の抵抗を感じたオリビエはキシュに会いたいとまず、ズレンに面会の許可を得ようと姿を探す。
建物内には見当たらず、正面玄関に出ると、そこには整列した第三連隊とその主、ズレン・ダンヤがいた。
オリビエが母屋の玄関から顔を出すと、数名の衛兵が気付き、こちらにちらと視線を送るが、上司であるズレンは知らん振りを決め込んでいるようだ。
オリビエはそれなら、と、そばに立つ衛兵にキシュたち革命軍の居所を聞こうとする。

「もうすぐ、侯爵様がお帰りです」
衛兵はオリビエの質問を無視してだから放っておいてくれといわんばかりの態度。
侯爵様が。
「オリビエ!」
声と共に駆け寄る気配。アンナ夫人を想像し振り返ると同時に抱きつかれるのを覚悟する。
「オリビエ!良くぞ無事で!」
「アンナ様」
予想とちがった夫人はオリビエの手を両手で取ると、蒼い瞳に涙を浮かべた。普段のどこか乱れた服装でない、きちんと閉じられた襟元、見たこともないくらい堅く結った髪。清楚という言葉をはじめて褒め言葉として心に浮かべたオリビエは夫人に何かあったのだと目を細めた。
この一夜はやはりどこか革命だった。

「心配したのよ、お前一人に危険を背負わせることになって、どれほどつらかったことか」
うつむく夫人はいつもより小さく見えた。
その向こう、いつも通りのビクトールに眼を向け、ビクトールが満足そうに微笑んでいるのを確認するとオリビエは夫人の手をぎゅっと握り返す。
「大丈夫ですよ、アンナ様。危機は去りました。こうして、侯爵様をお迎えできるのですから、お顔を上げて笑ってください」
「あ、あら。私泣いたりなんか、していないわ」
急に以前の口調に戻る。
「侯爵様のお気持ちが分かるような気がします」
ビクトールと同じ、リツァルト侯爵もまた十代で嫁いだ夫人を知っている。こうしたアンナ夫人の性格を可愛らしく受け止めるのだろう。


数刻の後、リツァルト侯爵の一団が静かに到着した。衛兵たちは整列し敬礼で迎え、その中心でズレンが侯爵に挨拶する。
侯爵は以前と変わらず悠然とした態度で「良くぞお戻りくださいました、心よりお待ち申し上げておりました」と告げる青年衛兵に頷いて見せた。
オリビエの立つ場所からは聞こえなかったが、いくつかズレンに指示をし、侯爵がその後に駆け寄ったアンナ夫人を抱きしめたときには、第三連隊の衛兵たちは侯爵の警護を終え帰還した仲間の衛兵と再会を喜び合っていた。
連隊長の中で最年少のズレンは迎えた二人の隊長に報告し互いに無事を喜び合う。年長の連隊長にからかわれ笑うズレンを見ると不思議な気分になる。あのズレンでも子供のように笑うのだ。声を上げて。
匿われていた貴族たちが侯爵を囲み、口々に讃えその人並みを掻き分けるように進む先に、避難していた市民。彼らはエントランスの床に座り込み深く頭を垂れていた。

侯爵が見回し、傍らに立つアンナ夫人がそばにいた母子を立ち上がらせた。「ありがとうございます」口々に神に祈るようにしていた市民を侯爵は穏やかに見つめ、すぐに裁判所跡に貧民救済の施設を作らせると語った。
そうして、エントランスの円柱の両脇に使用人たちと共に控えるオリビエを。侯爵は見つけた。
目が会って、オリビエは礼をする。
どんな表情をしていいのか、喜ばしいことではあるが余りに露骨なのも可笑しいかもしれない、青年が迷ううちに目の前に侯爵の靴が見える。名を呼ぶ声に顔を上げれば、いつものように肩に両手を置かれ、見下ろされていた。
そして、いつものように、無表情。
「昼前に音楽堂に行く。準備しておきなさい」
それだけ言うと侯爵は肩に手の感触だけを残して屋敷の奥へと向かう。わずかに、アンナ夫人がオリビエを振り返っただけだった。

ルグラン市長とは堅い握手をしていた。涙ぐむ貴族の肩を侯爵は叩いてやっていた。ズレンは何かしらねぎらわれた様子。侯爵が声をかけたものは皆笑顔になったのに、なぜかオリビエだけは言いようのない寂しさに駆られていた。

自分を護ろうとしてくれた、と思う。ズレンをあてがって、革命軍、いや男爵から護ろうとしてくれた。理由も分からないが、多分、大事にされているのだと。そう思っていた。だから、出迎え、久しぶりに会う侯爵に感謝し笑顔を向けるべきだったのかもしれない。
自分が、どんな顔をしていたのか、オリビエには自信がなかった。

ここしばらくオリビエを苦しめていた不可解なことの多くに侯爵は関わり、その理由は侯爵しか知らない。だから、会えたのだから、それが解き明かされるのだ。
両親の死の真相。男爵との確執。アンナ夫人の気にするオリビエと侯爵との関係。侯爵がオリビエに何を求めているのか。何故、そばに置きたがるのか、大切にしてくれるのか。

次へ♪

「音の向こうの空」第十三話 ②

第十三話:夜に浸る空



オリビエはまだ少し痛む足を引きずりながら音楽堂へ戻ると、一人きりのその場所でゆったりとした時間を過ごしていた。
いつもより時間をかけて調律をし、鍵盤一つ一つをなで、音を確かめた。窓を少し開け風が入ると、昼下がりのそれは室内の湿気を拭い去るようだ。
泥と雨と血にまみれた昨夜。たった数時間前のことだ。今も、リトーの歌が耳に残る。悲しい生き方を、選んでしまったのだ。
男爵に拾われ、マリアの声を真似て生きてきた。それだけがリトーの拠り所だった。否定し罵倒した男爵に憎しみが生まれるのも理解できた。オリビエも音楽だけが拠り所だ。これを、それまで聞き入ってくれていた侯爵にあんなふうに否定されたら生きていけないだろう。
……そこまで無心で奏でていたオリビエは、ふと、手を止めた。
いや、それは違うか。
リトーは男爵を愛していた。
僕はそういうわけじゃない。だから、侯爵が、もし。僕の音楽を不用とみなし。

……。
再びオリビエの手が止まった。


「続けなさい」
ふと気付けば、音楽堂にはこの屋敷の主がいつものようにワインのグラスを片手に立っていた。旅の装束から解放され、柔らかな布地に包まれる侯爵は穏やかな表情でオリビエを見ていた。
オリビエが珍しく逡巡し、鍵盤の上で一度拳を握り締める。
侯爵は室内のいつもの場所、肘掛のある一人用の椅子に深く腰を下ろし、ギシと背もたれに身体を任せた。
「聞きたいのだ、お前の音が」

いくらか先ほどの嫌な回想と想像の余韻を残しながら、オリビエは指を走らせた。ほんの半日、楽器から引き離されていただけなのに、どうやらそれはオリビエの指先に新鮮さを感じさせる。指先一つ一つが奏でる音。感触、響き。蒼い空は相変わらずオリビエの前に広がり雲を抱え込んでそこにいる。
かすかな日向の匂いをさせる風が室内に入り込み、昨夜の雨はすっかり乾いたのだとオリビエは思う。あの暗闇の雨。耳元を塞ぐかのような雨だれの音、何もかもを泥に鎮める。再びリトーの顔を、声を歌を思い出し。
それは母マリアに対して一途であった男爵と同様。どこか悲しく、空しい。
あれほどまでに悲しい聖歌を聴いたことはなかった。
あの歌は、リトーでなくては歌えないものだ。
彼女の生き方。僕に似ている、そう思ったとき似た魂を感じた。僕が音楽に愛情を注ぐようにリトーは男爵に。そう、僕は音楽に愛情を感じているんだ。
先ほどから、似ているリトーの生き方のどこが自分と違うのかを無意識に探り続けていたオリビエは溜飲を下げた心地をえた。

こうして、奏でることが。僕の生きていく目的であり方法である。
チクリとキシュとズレンを思い出す。
恋も、友情も。どちらも手にしているのかいないのかよく分からない。確かに自分の中に芽生え今もある。侯爵に対する思い、アンナ夫人に対する思い。どれも、目に見える形にするのは困難で、ましてや誰かに語り、理解してもらうことなど出来ない。けれど。
だから、僕は奏でる。
音楽を愛している。


かすかな音だった。

侯爵が手にしていたワイングラスを静かにテーブルに置く。その気遣いのある小さな音。そこでオリビエは聴衆の存在を思い出した。
ふと、息を吐いて演奏を終えた。
「…もう止めるのか」
改めて足を組みなおす侯爵に、オリビエはリクエストを尋ねる。
穏やかに微笑む青年に、侯爵は「いや、いい。お前の曲が聞きたいのだ。お前が自由に奏でるそれを。語りつくしたのなら、もういい」
そうして、侯爵はオリビエのために用意させた昼食を運び込ませた。
また、飼い犬のように目の前で食べるのか。

ふと、そんなことを考え、オリビエは料理を置いてその場を去ろうとしたメイドを呼び止めた。
侯爵は小さく瞬きをした。
「あの、侯爵様の分も、こちらに」
困ったように侯爵の顔色を伺ったメイドに、侯爵は小さな溜息で応えた。「では、お持ちします」透き通る声で頭を下げると、女性は出て行く。
「ふん、どうした?」
怒るでもなく、笑うでもない。
侯爵にオリビエは一つ深く息を吐き、それから笑いかけた。
「よろしければ、ご一緒に。その方が、美味しいです」
侯爵は返事こそしなかったが、腕を組んで青年を見つめ、オリビエはこの思いつきに予想以上に侯爵が満足そうだと長年の経験で理解した。

「私はアンナよりお前を選ばねばならんのか?」
それは、夫人との会食を取りやめなければならないのかと、そういうことだ。
「あ、…そうですね。すみません」
く、と。
侯爵の表情が歪んだ。
料理を運んできたメイドがいぶかしげにテーブルに並べ、からの盆を持って立ち去る間。ずっと、侯爵はうつむいたまま低く笑っていた。

互いにファリでのことも、このエスファンテで起きたことも語らず、この日にふさわしいのかは分からないが。たわいもない会話がなぜか楽しかった。
侯爵の髭に肉のソースがついていると気付くと、オリビエは笑って教える。ふんと眉を小さく寄せただけの鈍い反応ながら、侯爵はナプキンでそれをぬぐう。
その日、オリビエは侯爵がジャガイモを嫌いなのだと初めて知った。

ひとしきり腹を満たした後、オリビエは昨夜の寝不足をけだるさと共に思い出した。
苦い食後のコーヒーで気分を奮い立たせる。
侯爵は「疲れているのなら休みなさい。話はズレンに聞いている。ああ、それからオリビエ。三日後、私はこの地を去る。共に来なさい」と穏やかに。さらりと話した。

この地を、去る?

意味が分からないオリビエに、「よいな」と有無を言わせない力強さで肩をつかみ、軽く叩いて音楽堂を出て行こうとする。
「あ、あの!それは、どういう……」
振り返った。侯爵の表情にオリビエは言葉を失った。

蓄えた髭に口元は曖昧にしているが、確かにその眉は険しく寄せられている。それは、悲しみ。初めて見るそれに、オリビエはここ数日の悲しい出来事全てを一瞬にして思い出した。
「お前は。私と一緒に来るのだ」
口調こそ命令。しかし表情からはそれが、願いであると思えた。
「はい」


釈然としないまま、与えられた部屋にこもった。昨夜の騒ぎで眠いのだとメイドに言い訳し、夕食も起こさなくていいと言い渡すとベッドに横たわった。やはり疲れているのか、どこかがけだるい。あの、侯爵の言った「この地を去る」という言葉。
それの意味より、あの時の侯爵の様子のほうが気になった。あれ程感情を露にしたことはないように思えた。ファリで抜け出したオリビエに向かった時よりも、アネリアのことで拒絶されたときよりも。これまで見てきたどの時よりも、侯爵の気持ちが知れた気がした。一緒に食事をした後だからそんな風に思うのかもしれない。

僕が変に気にしすぎなのかもしれない。
だけど。

確実に、侯爵の様子はオリビエの心を乱した。

次へ♪

「音の向こうの空」第十三話 ③

第十三話:夜に浸る空



オリビエが侯爵と向かい合っていた頃。アンナ夫人の目の前、侯爵の席は空いたままだった。溜息混じりにアンナ夫人はフォークを皿に置いた。
まだ魚のグリルは湯気が立っていた。香ばしいオイルとハーブ、レモンの爽やかな香りすら感じられる。しかし、夫人はそれ以上手をつけようとしなかった。
「もう、いいわ」
デザートをとメイドが困った顔をしたが、「食べたくないの、結構よ」と席を立つ。
部屋を出ようとすればいつの間にか傍らにビクトールが控えている。「侯爵様は?」まだにぎやかに食事を続ける貴族や親戚たちに聞こえないよう、夫人は尋ねる。
「あの、オリビエ様と、ごいっしょで」

こちらも低い声で答える。アンナ夫人はかすかに表情を堅くして、「いいわ。あの子には少し、そうね」と独り言を呟きながら歩き出す。
「あの、奥様、どちらへ」
「ビクトール、ついてきなさい」
振り向きもせず命じる夫人に侍従長は恭しく頭を下げ、慌ててその後を追う。
「あの、奥様」
「革命軍は捕らわれているのでしたね。あの娘。オリビエが夢中になっているとズレンが言っていたあの娘。会いに行くわ」
何のために、とまでは尋ねる雰囲気ではない。ビクトールが黙って背後に従う。「好きにしていい、と。ズレンは言ったわね?」アンナ夫人の口元にはかすかな笑みが浮かぶ。
嫌な予感をかみ殺しながらビクトールはどう夫人をなだめるか、思考を繰り返していた。

離れの倉庫、その内の空いた一棟が監禁場所となっていた。罪を犯した使用人を罰する地下牢では狭すぎ、牢以外で外から鍵のかかる場所は倉庫と馬屋だけだからだ。レンガを積んだ質素なつくりのそこには、厚い木の扉。
見張りの衛兵に命じてあけさせると、夫人は恐れもなく踏み込む。
中には革命軍とやらが捕らわれているのだ。
「アンナ様!危険です、私が」
ビクトールは小さな小部屋の並ぶそこを夫人を庇おうとすぐ脇に立つ。湿った空気。静まり返っている。収容したという革命軍は五十名ほどいたというが。ビクトールは前方を案内する衛兵の視線に合わせてきょろきょろする。
「ここです」衛兵は一番奥の部屋の前で停まった。
革命軍の男たちは息を潜めているようだ。時折、けが人のうめき声が低く扉の向こうで響いた。アンナ夫人は他の扉には目もくれず、示されたそこの前に立つと、四角いのぞき穴から声をかけた。
「キーシュ。そこにいるのでしょう?」
しばし沈黙。
「返事をなさい。口が利けないの?言葉の意味が分からないのかしら?」
「そんなはずないでしょ」
少女が返事をすると、あちこちから囁く声がする。やめておけ、大人しくしておけ、関わらない方がいいぞ、と彼らは風に揺れる木々のざわめきのように牢内に声を響かせた。
「いいの、平気よ。何か用?」
少女の声は張り詰めた空気に良く通った。
明り取りの窓からは昼の日差しが、雲間からのぞく来光のように神々しく少女の赤毛を照らす。小柄なキシュは真っ直ぐ、大きな瞳を夫人に向けていた。
ぞくりとビクトールは背筋を寒くした。かつてこの国を救ったとされる救世主ジャンヌを思わせた。
「お前、メイドとして雇われる気はないかしら」
夫人の表情は笑っているものの、その真意が何処にあるのかビクトールにも分からない。
「あの、奥様…それは」
「家の管理は私が任されているわ。お前を雇ってあげるって言っているの。私たちについてこの国を出るのよ。オリビエも一緒。どう?悪くないでしょう?」
「奥様!」
ビクトールは慌てた。侯爵と革命軍の間で取引されるべき事柄に触れていないか。この国を出る。それの意味するところを彼らに伝えてしまっていいものかどうか。
「黙っていなさい、ビクトール。ねえ、キーシュ・ロマリエ。どうかしら」
猫なで声の夫人を睨みつける。キシュは思い出していた。ジャガイモをむいたあの夜。メイドたちが面白そうに噂していた。
「あたし、知ってるんだ。アネリアって子も追い出されたんだって。オリビエから取り上げるために、あんたが追い出した。だから、あたしのこともそうするつもりなんだ。オリビエちゃんに餌みたいに与えておいて取り上げて、自分がご主人様なんだって教え込む。そんなこと繰り返すから、だからオリビエちゃんは自由の意味もわかんなくなっちゃうんじゃない!それが人間のすること?」
「何を、バカな」確かに夫人の口調がうわずった。キシュの予想は当たっているのかもしれない。ビクトールは苦い気持ちでいくつかのことを思い出す。オリビエが侯爵家に来たのは十三歳の秋。まだ少年だった。そのオリビエの作法も言葉も、何もかもアンナ夫人が母親のように指導した。おかげでオリビエはいくつかの国の言葉を覚え、貴族として恥じるところのない青年となった。同時に夫人はあらゆる面でオリビエを支配していた。

「バカなことだよ、そんなことするの。親子くらい年の違うオリビエちゃんを誘惑して、弄んで。あの人はただ、音楽を続けたいだけなのに!権力や財産がなくなったらオリビエちゃんはあんたのことなんか見向きもしないんだから!あんたなんかにオリビエちゃんの音楽を聴く資格はないよ」
キシュの声は透き通り、倉庫内に響き渡る。
アンナ夫人の顔は青ざめ。ビクトールの知る限りこれほど怒りを顕にしたことはない。怒鳴りつける声を想像したが、夫人は黙ったままだ。
護るようにビクトールが口を開いた。
「お前はあの晩ズレンと何をしていた?オリビエ様のお気持ちを弄んだだろう。資格がないのはお前の方だ。奥様、行きましょう。こんな輩と話すことなどありません」ビクトールは強引にアンナ夫人の手を取った。白い手は柔らかく。かすかに震えていた。

「放さないわ、オリビエは」
「奥様、大丈夫ですか」
「民のために多くを失っても、あれだけは手放さない、自由になど、してあげない」夫人はうわごとのように繰り返す。どこか遠い目をしたままビクトールに引かれる夫人は頼りなく、倉庫の外に出たところで倒れ掛かる。慌てるビクトールにすがるようにしがみつく。
「オリビエは、きっと侯爵様が放しはしない、そうよね?亡命してもきっと、きっと」
うつむく夫人の長いまつげ、美しい唇。紅く深くビクトールの心に跡を残す。




柔らかな布団の感触にキシュを思い出し、その謳う姿を夢に見た。そのうちそれは、悲しいリトーの姿に重なり、血にまみれ恐ろしい暗闇の雨を思い出させ、うなされてオリビエは目が覚める。
寝ぼけた視界に室内は夕闇に沈み、爽やかな白色の大理石の床に窓からのかすかな夕日が光を添えていた。
階下へと降りれば、すれ違うものが皆一様に暗い表情をしていた。侯爵の言っていた言葉の意味を夕食の時間にでも知らされたのだろう。広間へと続く廊下で、ルグラン市長は顔を赤くして、オリビエに言っても仕方ないのだろうに侯爵の決断を批判した。
「そうだろう?この町はこれまでも侯爵様が治めてこられたのに、今回も見事護りきったのだ。それなのに、今更亡命だと!」
「……」
「この町も、国も、すべて捨てて逃げるということなのだ!分かるか?侯爵様がいらっしゃらなければ我らはどうなることか!」
すれ違っただけのはずが、引き止められ廊下の壁に追い詰められる形になってオリビエは困惑する。
「あ、あの。僕は詳しい事情が分からないので」
「ファンテル卿、貴方はどうなされるのか!それこそ教会のオルガン弾きにでもならなければ生きていかれないのですぞ」
オリビエは侯爵について来いといわれていた。ルグラン市長は違うのだ。
「あの。侯爵様がいらっしゃらないとなると、この町は誰が?」
そこで、ルグラン市長は鼻息を荒く吐き出した。
それこそもっとも腹立たしいとでも言いたげだ。
「市民に委ねるという。市民を護るために、エスファンテ衛兵はこの町に残すそうだ。つまり、革命軍が要求したとおり、このエスファンテの全てを市民に与えるというのだ」
「……結局。それでは、革命軍の革命が」
「そう、成功したようなものだ」
不安はある。しかし、オリビエには市民が全権を握ることがそれほど恐ろしいことでも腹立たしいことでもなかった。侯爵は身を引くことで混乱を防ごうとしているのかもしれない。
「あ!革命軍はどうなりました!?」
キシュは!あの子は。
「解放された」
オリビエはルグラン市長が「明日には正式に会談の席を設けるという」という言葉は背中で聞いた。走り出していた。


脳裏には昨夜のズレンの言葉がやけに響く。女は強引な男を。いや、そうじゃなくて。軽く浮かんだキシュの裸体を脳裏から振り払い、とにかく今は。会いたい。

目に入ったのはエントランスを警護する衛兵二人。オリビエは二人に駆け寄ると、革命軍のその後を尋ねる。
二人は顔を見合わせて、そして、オリビエに告げた。
「今はそれぞれの家庭に帰っていると思いますよ。解放されたのですから。明日、侯爵様が正式に革命軍の代表と話しをするということですから、もしかしたら今頃は明日に備えて集っているかもしれませんが」
「……そこを」
「残念ですが、オリビエ様。もう、日も暮れました。庭に出られることはお控えください」
衛兵の腰のサーベルがカチャと鳴る。
「あの、じゃあ、ズレンはどこに?ズレンに会いたい」
「連隊長は兵舎に戻られました。お疲れですし。貴方様も、明日の会談が無事終われば市内どこでも自由に歩けるようになりますから。今晩はどうか辛抱してください」


革命軍、いや、市民の代表との会談。そのとき、キシュは来るだろうか。
会えるだろうか。

僕が、侯爵と共に行けば。二度と会えないかもしれない。

オリビエは侯爵にいつもどおり従順に返事をした自分の行動を思い返す。
なぜ、あの時拒絶できなかったのだろう。
侯爵の言葉の意味を考えもせず。

だけど。僕は、侯爵様のいないこの街に残って音楽を続けられるのだろうか。あの教会で、皆に聞かせた。あれと同じことが出来るのなら、毎日できるのならそれは幸せだ。
衛兵が言った。会談が終われば、市内どこでも自由に歩ける。自由に、なる。

どん、と何かがぶつかった。
「あ、失礼……」
物思いにふけりながら屋敷の中庭の見える回廊を歩いていた。自然と足は音楽堂に向いていたが、その途中で夫人に遭遇した。
赤いドレス、いつもの華やかな髪をしてオリビエにしがみつくようにしている。
夜風にふわりとワインが香る。酔っているのかもしれない。
「あの、アンナ様?」

「お前も行くの?ねぇ、お前も、外国に行くのでしょうね?」
震えているようだ。
「あの」丁度今、迷い悩んでいたところだ。
アンナ夫人はオリビエの袖を掴んでぐいぐいと引いた。見上げる顔にはランプの明かりに濃い影が乗る。不安なのだろう。
「侯爵様には、共に、と命じられました」
とぎれとぎれに応えたオリビエに、アンナ夫人は再びしがみつき顔をうずめる。
「あの……」
「良かった、良かったわ。従者の一人もつれずに行くというのよ?恐ろしくて淋しくて、私どうしていいのか分からないわ」言いながら密かに夫人の口元は笑みを形作る。触れる青年の身体を確かめるように、白い手が這う。所有権を主張しようとするそれに気付かず、オリビエは夫人を哀れに思っていた。
「亡命を、止めるわけにはいかないのですか」ふと、それが一番いいではないかと脳裏によぎった。それを言葉にした。
せっかくズレンが護りきったこの街、結局のところ侯爵の力がなくては市民は生きていけないのではないかと思わせた。革命軍は武装し、最後には市民を敵に回した。彼らに街と人民を預けるのは危険に思える。
ルグラン市長はあれで侯爵をはじめとする貴族たちと、市民たちとの上手いパイプ役だった気もする。彼の言うとおり、今までどおり、が一番良いのではないか。
そうすれば、アンナ夫人も不安がらずに済む。

オリビエが言葉にしたそれは、そこにはかすかにこの街に残りたいという願いももちろんあったのだが、想像したほどアンナ夫人を沸き立たせなかった。
目を丸くして夫人が顔を上げた。

「なにを言っているの。侯爵様のお考えはご立派です。それはお前には理解できないでしょうけど」
ふわと離れて立つと、夫人は笑った。

「お前や私などでは分からない、多くのことをお考えになった末のご判断よ」
夫人は、そう。結局、侯爵を愛しているのだ。彼に絶大な信頼を寄せている。散々人を振り回すくせに、自分の機軸をしっかり保っているのだ、この人は。

オリビエは心に浮かぶキシュやあの教会の記憶を、胃の辺りにとどめたまま吐き出せずにいた。この街に残りたい、あの少女のそばにいたい。教会で、大勢に音楽を聴いてもらいたい。渦巻くそれは温かく切ない。
それでいて目の前の夫人には「では、ついて行くしかないではないですか。従者は向こうで雇えばいいのですよ。アンナ様が不安な顔をされていると侯爵様が心配なさいます」
となだめる。
自分の勇気のないことには、もう、何度も憤り諦めてきたが。
結局ここでも。
自分を縛る鳥かごは、自らが作り出しているのだと痛感せざるを得ない。

「あら。オリビエ、私、侯爵様の前でこんなはしたない姿を見せはしないのよ」
と。夫人は笑って見せた。
女性というものはよく分からない。オリビエに甘えてみたかったというだけなのだろうか。それを、人は『気を引く』などと不名誉な呼び方をするのだとも思う。


次へ♪

「音の向こう空」第十三話 ④

第十三話:夜に浸る空



二人で並んで音楽堂に向かいながら、オリビエは侯爵の考えを夫人から聞いた。
ファリではバスチーユ監獄の陥落以降、議会が多くの革命的な法案を作り出しているという。国王の名の下に、すべての人が平等であり、自由であり、幸せになる権利があるという意味の宣言をなそうとしているらしい。
新大陸での独立宣言に似た、このクランフ王国独自の宣言なのだ。
「つまりね、オリビエ。侯爵様はこう、考えていらっしゃるの。いずれ、この国は貴族を必要としなくなる。世襲制の爵位をなくし、新しい世代の枷を外すのですって」
「枷?」
「そう、これからの子は親の功績を受け継ぐことは出来ないのよ。同時にね、罪過を受け継ぐこともない。親が罪人であれば職につくことも出来なかった子らが、自由に自分の力で生きていける。それを、私が喜ぶのも可笑しいのだけれど。奴隷の子は奴隷、そういうものではなくなるのですって。伯爵家の末娘として生まれた私がこの家に嫁いだのは私の意思ではなかったわ。もちろん、侯爵家に来たことを後悔している訳ではないの、でも、あの時選ぶ理由も力もなかった。幼いなりに、悩んだものよ。だから。これからはそんな悩みを感じることはないの」
侯爵がアンナ夫人に咬んで含めるように、忍耐強く説明したのだと分かる。
ただ「財を失う」と伝えれば、夫人は混乱し恐怖におののいただろう。オリビエが感じていた通り、リツァルト侯爵は夫人をこよなく大切にしているのだ。
「少し分かった気がしますよ、アンナ様」
オリビエは回廊に架かる代々の侯爵家の人々の肖像画を眺めながら、いずれこうして描かれるのは農夫であったり街の少女であったりするのだと、ふと侯爵家お抱えの絵描きを思い出した。
空を描いてもらったとき、自由を願う気持ちを汲んでくれた人物だった。
彼にとってこの新しい時代はどう映るのだろう。

これまで酒場で、人々の間で語られてきた「新しい世界」が実現しようとしている。
オリビエはあの【エスカル】で一瞬だけ自由を叫んだ興奮を思い出した。

何かを変えられるかもしれない、変えるのだ、自分の幸せのために。そうした動きが国中に広がるのだと思えば、ファリの人々の歓喜も想像できるし、議会での熱い議論も納得がいった。
侯爵の旧友であるロスレアン公は革命派に力を貸し、それと共に、エリーやマルソーも革命軍(今は国民衛兵と呼ぶらしい)に身を投じ、バスチーユ陥落の際には多くのファリ市民を率い、戦ったという。

彼らは国を変えようとしている。
理想を掲げ、胸に思想を抱き。
語り合う二人の騎士を思い出せば、オリビエも心の深い部分で熱く震えた。

貴族は特権を失う。今でさえ、農民一揆で城館を襲われた貴族がある。力のなくなった貴族たちに革命軍が寛容でいるかなど保証はない。それを恐れての亡命なのかと、夫人の話を聞きながらオリビエが眉をひそめれば、気付いたのかアンナ夫人は椅子にふわりと腰掛けながら言った。
「侯爵様は、この地で革命軍が侯爵様の権利全てを得たいと申し出たことを聞かれたのよ。それで、譲ることに決めたの。エスファンテでもファリと同じことが起こるなら、市民のために貴族は身を引くべきだとお考えなのよ。バスチーユのように血を流す必要はないとお考えなの。貴族たちにももちろん、市民の中からも侯爵様の政治の手腕を惜しむ声もあるけれど、侯爵様が身を引かなければ他の貴族に示しがつかない。衛兵や侍従たち、この町に必要なものたちは置いていくの。逃げるのではないのよ。譲るの」
「…それを、明日。革命軍に話すのですね」
「ええ。この東部ではエスファンテが始めでしょうね。ここから、また新たな革命が周辺に広がる。止めようのないものなら、もっとも大勢に幸せの訪れる結果を残したい。侯爵様のお考えよ」

オリビエが音楽堂の細長い窓を押し開けると風が、束ねた髪を揺らした。かすかに庭の虫の声が聞こえる。少しばかり肌を引き締める風の感触に、季節も移り変わろうとしているように感じられた。
「変わっていくのですね」
アンナ夫人は黙ってオリビエが演奏を始めるのを待つ様子だ。

オリビエは記憶にあるファリの町並み、人々を思い出しながら楽器を奏でる。
多くの人の熱い思い。それはオリビエには想像もつかない。
このガラス張りのかごにいて空を眺めていた彼には、外の世界はどれも美しく、輝いていた。通う道端の麦畑で、腰をかがめて働く農夫たちすら美しく。オリビエが声をかければ笑顔を返したあの風景、学校に走っていく子供たち。子どもの頃よく眺めた公園の景色。傲慢で大嫌いだった貴族の子供らも今は客としてオリビエの音楽堂を訪れる。
拍手されればオリビエも笑顔を返した。
時が流れ、人々は成長し、変わっていく。

ふと、服を引かれる感触に気付く。
小さな少女が見上げて、オリビエの服の裾を握り締めていた。
侯爵の姪の子供、リリカだ。
「リリカ、だめよ」小声で彼女の母親が呼んだが、少女はオリビエのほうを大きな瞳で見上げ微笑む。
オリビエが抱き上げ膝の上に座らせると、少女は鍵盤に手を伸ばし出鱈目に音を鳴らす。それに合わせて伴奏のように、時には旋律のように不可思議な曲を二人で作り上げていく。
少女は笑顔から笑い声を、そのうち、無邪気な歌声を。

いつのまにか集っていた聴衆にも笑顔が浮かんだ。

少女が一通り飽きたのを見計らって、母親がオリビエから受け取り抱き上げる。
その隣にアンナ夫人が立った。リリカの小さな手を握り締め、笑顔を見せると、改めて集った皆を見回した。
それだけで集ってきていた人々は彼女に注目した。

「皆さん、私も、オリビエも、侯爵様とともに、このエスファンテを去ることになりました。多くを語らい、幸せな時を過ごしたこの場所を去るのはとても悲しいことです。皆さんの幸せを、遠い国でお祈り申し上げております。さあ、オリビエ。皆、お前の演奏が聞けなくなるのを淋しいと思っているのよ。愛すべきお客様に、最高の音楽をプレゼントして差し上げるの」
オリビエは改めて皆を見回した。
それから、一礼し、再び楽器の前に座った。

その夜、音楽堂のすべての窓と扉が開かれ、入ることの出来なかった侍従や衛兵もそれぞれの場所で旋律に合わせて目を閉じていた。月を浮かべる夜空は風もなく静まり。チェンバロの柔らかな音を遮るものもない。

オリビエはかすかに、感じていた。
これが、エスファンテの侯爵家お抱えの楽士として、客に聴かせる最後の演奏なのかもしれないと。

次へ♪

「音の向こうの空」第十三話 ⑤

第十三話:夜に浸る空



チェンバロに描かれた空から解き放たれ、旅立つ外国の町にはこの鳥かごはない。そばには侯爵とアンナ夫人。それはどんなものだろう。どんな、旅になるのだろう。
それとも、侯爵の下を離れ、この街に残るのか。
音楽を教えながら生活が出来るだろうか。教会でオルガンを弾くのだろうか。その傍らで、キシュは歌ってくれるだろうか。

その想像はあの時の教会での夜を思い出させ、オリビエは翌朝目覚めてからもそればかりが気になっていた。オリビエが持って出たトランクは、革命軍が捕らえられたあの夜にオリビエの手元に戻ってきた。中身はそのまま。キシュに渡そうとした楽譜も未だにそこにある。
会いたい。
太陽のように、明るく奔放な可愛らしい少女に。

物々しい雰囲気の中、屋敷内の離れで革命軍と侯爵、市長や裁判官などの公職の者、司教会の代表や僧侶が集った。オリビエはそれらをエスファンテの衛兵が銃剣を肩に警戒するのだけを遠くから眺めるしかなかったが、どうやら建物に入っていく中に少女の姿はない。あの赤毛ならば遠目でも十分確認できるはずだ。
そうと分かればじっとしていられない。
再び屋敷の外へと出ようとするが、昨夜と同じ衛兵に、まったく同じようにあしらわれる。
仕方なく、一人音楽堂で音楽を奏で、会談が終わり物々しい警備が解かれるのを待った。


「オリビエ様」
入ってきたのはモスだった。
大柄な彼を見るとなぜか笑顔になるオリビエは、両手にトランクを抱えた男に駆け寄った。
「モス、約束どおり戻ってきたよ!」
男は嬉しそうにオリビエの抱擁を受けると、トランクをそっと床に下ろした。
「良かったです、オリビエ様」
「ああ、いろいろ恐ろしい目にもあったけど、戻ってこられた。あ、それは、何?」
「オリビエ様の荷造りをお手伝いに来たんでさ。侯爵様のご命令で」
モスが運び入れたトランクは空だった。
「明日の夕方にはお発ちになるそうで。その…」
モスの大きな目には涙が浮かんでいた。
「モスは。行かないのか……」
そうだ、アンナ夫人が言っていた。それは、そういうことなのだ。
「ね、モスはどうなるんだ?侯爵様ご夫妻がいなくなったら、お前たちはどうするんだ?」
初めて会ったときからモスは下男だった。侯爵家の雑用や、人の嫌がるような仕事を黙々とこなしていた。南の大陸の人種でオリビエとは肌の色も体型も違うが、モスだけはオリビエを普通の子供のように扱ってくれた。大柄な熊のような彼をオリビエは頼もしく想っていた。

「モスはこれから、どうやって、生活していくんだ?」

モスは立ち尽くすオリビエの前に両膝をついて見上げた。
「大丈夫ですだ、オリビエ様。このお屋敷のお世話をします。ここは新しい市役所の変わりになるそうで。難しいことはわからないけんど、これからもお屋敷の整備は人が要ります。あっしは、ここに慣れていますから」
ふ、と息を吐き出して、オリビエはもう一度、低い位置にあるモスの顔を抱きしめた。
「そうか、そうだよね、モスは何でもできるから。煙突掃除も、庭仕事も、羊や鶏の世話も出来る」
「オリビエ様、そりゃ、自慢にも何にもなりませんで」
「ううん、僕は尊敬しているんだ。壊れた椅子を器用に直してくれただろ?割れた窓をはめ替えてくれたり。鳥の巣を元のところに戻してくれた。僕では出来ないことばかりだ」
くふふ、とオリビエの腕の中でモスがくぐもった笑い声を出した。大きな肩が小さく震えるから、オリビエは床にしゃがみこんで顔をのぞいた。
「!?何で笑うんだ?」
「オリビエ坊ちゃまは、子供みたいです」
「あ、坊ちゃまは止めろって、…子供じゃないし」
「あっしには、いつまでたっても坊ちゃまですよ。侯爵様や奥様の前では大人びた楽士様でしたけど、あっしの前ではいつも悪戯ボウズだった。それが、嬉しかったです」
「!……モス」
「どうか、お元気で」
「ちがう、んだ、モス。あの、僕はまだ迷っているんだ。侯爵様と行くのを、迷ってる」
「それは、どういうことで?」
オリビエは唇を噛んだ。
「!そうだ、モス、そのトランク、僕の家にある荷物も入れるんだよね?」
立ち上がったオリビエをモスは目を丸くして見上げていた。



モスを伴い、荷造りのためと称してオリビエが侯爵家を出たのはそれからまもなくだった。屋敷を警護していた衛兵は姿がなく、これまでどおり門番だけがいぶかしげにオリビエを見ていたが、モスが一緒だと知ると快く通してくれた。
小さな荷馬車にトランクを積んで、オリビエはまず自分の家に向かった。
「あの、オリビエ様、あの荷物まで積むことはないんじゃないですか」
先日、人質になるときに用意した荷物を一緒に積み込んだオリビエをモスは首を傾げてみていた。
「念のため、だよ」
御者席に並んで座りながら、オリビエは道の先を見つめていた。

ここ数日の混乱で荒らされたのか、通り沿いの畑は掘り起こされ、麦は倒れていた。それでも教会の鐘の音が聞こえると、以前と変わらない気がするから不思議だ。

オリビエが久しぶりに我が家に戻ると、そこにはもう一つ、荷馬車が停まっていた。すでに樽やら木箱やらが積まれている。
「?なんだろ」
モスは眉をひそめ、オリビエの後からついてくる。

表の扉を開けると、エントランスには服やら食器やら、様々なものが置かれていた。
「!オリビエ様」
シューレン夫人だ。
彼女の後ろから、見知らぬ男が顔をのぞかせた。
男はちらりとオリビエたちを眺め興味なさそうに視線を外すと、持っていた木箱を外に停めてある荷馬車に積み込んだ。あっけに取られて見送るオリビエとモス。
男はシャツの袖を捲り上げて、二人を無視してまた、家の奥へと入っていった。
「私の息子です。無作法ものですみません」
シューレン婦人は小さく肩をすくめ、お別れですね、坊ちゃん、と付け足したように言った。

「……あの、何を」
オリビエがキッチンをのぞけば、丁度男が食器棚からあのマイセンを取り出しているところだった。
「これは高いぜ、母さん」
男が言った。シューレン夫人の息子は小さく口笛を吹くとぼろ布に大切そうにそれを包み込んだ。
「お坊ちゃん、長い間お世話になりました。これから遠い外国へお発ちになるとか。どうぞ、お元気で」
そういいながらシューレン夫人の荷物を詰め込む手は止まらない。急いでいるようだ。
「あんたら、何やってるんだ!」モスが我慢しきれずに声を荒げた。
「口を出さないでもらえるかい。ここにあるものはオリビエ様のものじゃない、侯爵家のものさ。これまで何年も侯爵様にお仕えしてきた。当然の報酬ですよ」
シューレン夫人の口調すら、これまでと違っているように思えた。
いつもはきっちりと結っている髪も、今日は乱れたまま、トランクにありとあらゆるものを詰め込んでいる。その中に、ふと見覚えのあるものを見つけ、オリビエは歩み寄った。
「あ、なんです?坊ちゃん」
「邪魔しないでくれよ」
見上げる夫人の背後、夫人の息子はオリビエを睨みつけた。
モスが無言でオリビエと男の間に立ちはだかる。
オリビエはシューレン夫人に手を差し出した。
「その赤いコートだけは、返して欲しいんだ」
「なんだ、女物じゃないか」男が怪訝な顔をしたが、シューレン夫人はオリビエの顔を見上げ、それから黙って詰めかけたコートを引っ張り出した。それを眺めながらシューレン夫人は口を開いた。
「そういえば、あの子。ここに来ましたよ。今朝早く」
「キシュが!?」
「相変わらず、可愛げのない」
シューレン夫人は自分を泥棒呼ばわりした下町の少女を思い出し、忌々しげに眉を寄せた。
無造作に差し出されるそれを受け取って、オリビエはさよならも言わずにまとめた楽譜と衣服だけを持ち、住みなれた家を出た。
モスは何か言いたげだったが、オリビエが黙っているのでその荷物をトランクにつめると、荷馬車に積み込んだ。トランクの一つも埋まりはしなかった。

両親との思い出のつまった家。二階の部屋に行かないのは、無残に家捜しされただろうそこを見たくなかったから。
父親の残した譜面があれば、それでよかった。
ただ、赤いコートだけは。どうせなら似合う女性のもとに。
空はどんよりと曇り、湿り気を帯びた風は触れる肌を敏感にさせるようでオリビエは小さく震えた。
モスが黙って、上着をかけてくれた。
侯爵家のほうへと向かいながら、シューレン夫人と出会った頃のことを思い出していた。
いつだったか。
オリビエが風邪を引き、昼間も寝込んでいた時だ。
そう、あの時も今と同じ気持ちになった。
人の話し声で階下に降りると、丁度シューレン夫人が八百屋から荷物を受け取っているところだった。とても、オリビエ一人のためとは思えない量だった。
八百屋が笑った。
「シューレンさんも欲張りだねぇ」
「これくらいなきゃ、貴族様のお世話なんてやってられないね。そういうあんただって、どうせこれに上乗せして請求するんだろう?」
「まあねぇ、侯爵様は金持ちだからな、屁とも思わんさ」
そうして二人は笑っていた。
その日の夕食から、食欲が無くなったのを覚えている。いつか、キシュにシューレン夫人の出身も誕生日も知らないことに呆れられたが。
多分、僕は知りたくなかったのだ。
希薄な人間関係。いつのまにか、自分で彼らとの間に硝子を張り巡らせた。貴族として、権力あるものとして生きるくせに、僕には何の力もなく知識もなかった。ズレンがいうとおりなのだ。
そうして、自分で自分を護るために、硝子で温室を作った。
心を包み隠さず、自由に語るキシュに出会って、何かを忘れているのかもしれないと思い出した。
キシュは、思い出させてくれた。
例え売り払われてしまうにしろ、彼女のためのパンに替わるなら。その対価には、けっして高くないだろう。

オリビエは赤いコートを抱きしめていた。
「モス。行きたいところがあるんだ」

次へ♪

「音の向こうの空」第十三話 ⑥

第十三話:夜に浸る空



馬車での道のりは予想以上に短い。
流れる景色はどれも以前と何も変わらないように思えた。ただ、これほど明るい昼間に通ったことがなかった。
モスですら、眉をしかめるような荒れた家々が並んでいた。小さな教会のある通りから右にそれ、狭い坂道を下ると無理矢理押し込めたような二階家が続く。隣の家と軒を重ねるように連なるそれは、陽光を遮り誇りっぽい窓には手入れの様子も見えない。傾きかけた鎧戸があるだけましだった。
雨が降って固まったためか、通りは轍が残り、荷馬車は無秩序に跳ねた。家々の前には人影もない。バタン、とどこかで窓が閉じられ、その向こうに人がいるのだと分かる程度だ。
「オリビエ様、ここは良くない場所です」
「そこ、すぐそこだから」
オリビエが指差した酒場には、小さな木の看板に『子羊亭』と書かれていた。

この界隈に革命軍が集ったのだという。キシュの父親は革命軍の代表のようなものだった。だから、今は侯爵との会談のために出かけているはずだ。
静まり返っているのもそのためだとオリビエは自分に言い聞かせていた。降り立って振り返れば、モスも腕まくりをしてついてくる。
「あ、モスは荷物を見ていてくれないか」
「しかし、オリビエ様」
「大丈夫だよ、ほら、革命は終わったんだし、今揉め事が起こったら彼らだって困るはずだから」思いつきにしてはもっともらしいことを言えたと内心想いながら、オリビエは酒場の扉を開いた。手には赤いコートと、楽譜。
酒場にはひどく似合わない気がした。


かすかに料理の匂い。木のテーブルにしみこんだ酒の匂い。二つが合わさると、家の地下室のようだとオリビエは想った。あまり広くない店内には丸い木のテーブルが三つほど。カウンターには使い込まれた椅子が四つ並び、その向こうにすすけた白い壁。飾り気のない壁には、かろうじて何かのポスターらしいものが貼られている。
店の片隅に置かれた棚には無造作に積まれた、新聞らしきもの。どれも小さな窓からの日差しに照らされて、しんとしていた。

「あの」
カタ、と音がした。
カウンターの奥のようだ。

「キシュ?」

返事はない。

が。
カツカツと何かの近づく音と一緒に、覚えのある声が出迎えた。
わふん!

飛び掛らんとする勢いに、オリビエは思わず両手を挙げる。
「ランドン!ま、待てって、ちょっと。おい!」
犬は立ち上がり、オリビエの腰に巻きつくと嬉しげに尻尾を振った。
ワン、ワンワン!!

「ランドン、なに?」

奥から。少女が顔をのぞかせた。

「オリビエちゃん!」
目を丸くして、すぐに。少女は噴出した。
「あはは、黙って入ってくるから捕まるんだよ。ランドンお手柄!」
キシュの声に応えるようにランドンはわふんと一声。ますます懸命にオリビエの喉元に鼻面を寄せようと前足で描き抱こうとする。
「おい、止めろって!キシュ、止めさせろよ!服が汚れる」
「あ!」
キシュは駆け寄り、ランドンは嬉しそうに少女の周りをぐるぐると回った。
解放されて、オリビエはやっと手を下ろした。
「それ」少女の視線は赤いコートに。
オリビエはキシュに突き出した。
「君に。あの、僕の家に来てくれたって聞いたよ」
「あ、うん。……オリビエ。行っちゃうんだよね」
さほど、悲しげでないことに。オリビエは気付いてしまう。
迷っている、などと。いえるだろうか。
「あ、あのさ」
「何?」
見上げる少女をじっと。どうしたものかとオリビエは見つめる。以前の、あの時の勢いや勇気はどこに行ったのか。そっと手を伸ばそうとすると、キシュは眉をきりとさせ、一歩下がった。
「…もう、飼い犬なんかには。捕まってくれないのかな」
かすかに震えそうな声を、何とか奮い立たせようとオリビエは深く息を吐き出した。
「僕は、キシュ。君の」
「あのね!」
遮る声が。
キシュの少し上気した頬と、そらす視線。
「キシュ、僕は君の事が好きだ」

言った。
それ以上、何も遮らせたくなくて抱きしめる。
強引に。
「君のそばにいたい。教会で、オルガンを弾いたあのときみたいに。一緒にいたいんだ!」

近寄れなかった。
抱きしめているのに。
少女にこれほどの力があるのかと想うくらい。突っ張った腕は細く華奢なのに。

キスの一つも、許しはしなかった。
ほんの少し離れている間に、キシュは、変わってしまった、いや、本物を見つけてしまった。素直になれなかった幼い恋をズレンが導いてしまった。
「……ごめん」
このとき見上げた少女の涙ぐんだ瞳に、オリビエは耐えられなかった。
腕を緩めればやはり。少女は目の前から消える。

「…ズレン、のこと。だよね」
曖昧な表現でしかいえない。口にしたくない。二人の、あの時の様子。抱き合っていた。
キシュは「違う」と小さく言ったが。
「オリビエちゃんは、自由でいて欲しいよ。教会で、オルガンを弾いて欲しい」

でも。
「そこに、君はいないんだ」
「歌うよ、オリビエちゃんの曲、好きだもの」
オリビエは視線を床に落ちた楽譜に向けた。
あの時の曲。教会で、二人が奏でた、雄雄しい曲。もう、耳にするのもつらい。

「あげるよ、それ。君にあげる。ズレンは…君の」
コトなど、真剣に想っているわけではない、かもしれない。
いや、わからない。
子供だなどとズレンは言った。だけど、キシュは魅力的だ。僕の手前あんなことをいって見せたのかもしれない。ズレンの本心など計り知れない。キシュが、彼を愛しているなら。僕が否定するものは一つもない。

「何?」
キシュはズレンの名が出たことに、興味を示す。それがまた、オリビエの胸をえぐる。
オリビエは小さく首を横に振り、「なんでもないんだ。元気で…いつか」そういいかけてまた、オリビエは言葉をつまらせた。
いつか、なんだという。

背を向けたオリビエに、最後に声をかけたのはランドンの悲しげな鳴き声だけだった。

次へ♪

「音の向こうの空」第十三話 ⑦

第十三話:夜に浸る空



外で待っていたモスはオリビエを見るなり駆け寄ってきた。
「オリビエ坊ちゃま!」
「帰ろう、モス。……侯爵様が、待ってる」
抱きしめられ、「何があったのですか」と問われても。オリビエは黙って首を振るばかりだった。



お前には音楽がある。たった一つ大切にするものがある。それは立派な思想だ。それがあればお前は幸せなんだ。
マルソーの言葉が脳裏を駆けていた。

マルソー、幸せってなんだろう。
分からないよ。

僕の奏でる音楽で、誰かが幸せになってくれたらと思った。
それは出来るかもしれない。
でも、僕は。今は、キシュのそばにいたい。抱きしめたい。
あの声、笑顔。つんとして、生意気なことを言った。でもそれはいつも真実で、僕は彼女が眩しかった。
音楽のために僕は人を愛する資格はないと想った。だけど。そういうのではなくて。
もう、好きになっていた。
アネリアを傷つけたくせに。不幸にしたくせに。このまま、もしキシュと結ばれても、やっぱり彼女を不幸にしたのかもしれないのに。
分かっているのに。
僕には、音楽しかないことを。
知っていたのに。手に入れようとした。空を飛ぼうとした。

でも。僕にはそんな力はなかった。


屋敷に戻ったオリビエは、すぐに音楽堂にこもった。
モスは心配そうにそばにいたが、ビクトールに呼び出され馬車の整備のために出て行った。入れ替わりに残ったビクトールは、いつにもまして入り込んで奏でる青年をしばらく見ていたが、話しかけるタイミングがないと理解したようで、「オリビエ様、私もご一緒します」と声をかけ、音楽堂を出て行った。
それもオリビエには聞こえていなかった。
無心にチェンバロを弾き、零れ落ちそうな気持ちを音に替えることに夢中になっていた。それは、夜半に侯爵が尋ねたときも同じ。普段なら気付き、視線の一つも合わせようものなのに、オリビエはこのときばかりは誰の存在も認めようとしなかった。

静かに自分のイスに座り、侯爵は背を預ける。眼を閉じ、オリビエの悲しみを受け止めるかのようにじっとしていた。

抗いようのない時代の流れに、諦めることなく生き抜くのは困難だ。苦渋の決断であったに違いない亡命も。侯爵は誰にも愚痴一つこぼさなかった。
ただ、この時の青年の演奏は堅く閉ざした心の扉をも揺るがすほど切ない。涙こそ流れないが、青年が泣いているのは明白だった。音の悲しみに触れ、侯爵も瞑目しつつも強く拳を握り締めていた。


どれほどの時間が流れたのか。ふと耳に入る鳥の声にオリビエは手を止めた。
いや、演奏していたのか眠り込んでいたのかも分からなかった。
いつのまにか肩には侯爵の上着がかけられていた。そちらを見れば侯爵は椅子の肘掛にもたれるように眠っていた。
いつの間に、とオリビエはぼんやりする頭で思い出そうとしたが、分からない。
「侯爵様」声をかけようとしてひどくおかしな声であることに自身驚き、思わず口元を手で押さえた。
泣いていたのか。
朝日が差し込む窓辺に立って、硝子に映る自分を確認しようとするが。よく分からず、けだるい目は自分などより外の朝焼けの空を求めてそちらに見入る。

庭の木々を縁取る白い空。かすかに地平に近づくにつれ眩しさが増し、夜に浸され涙に洗い流されて、美しく生まれかわった空だと思えた。

ああ、綺麗だな。

一筋、涙がこぼれた。

「おはよう」

振り向けば、侯爵が悠然と伸びをしていた。
「今日、発つぞ。よいな」

オリビエは侯爵の視線を受けて、真っ直ぐ見つめ返した。
「はい」

オリビエが生まれ育った街、エスファンテを去る決心をした瞬間だった。

次回第十四話:「亡命」は10月13日公開です♪

プロフィール

らんらら

Author:らんらら
のんびり小説を書いています
日記ブログはこちら♪

ランキング参加中です♪

クリック よろしく~♪

FC2Blog Ranking

最近の記事+コメント

FC2カウンター

リンク♪

小説ブログの皆様

カテゴリー

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。