10
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
28
29
30
31
   

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「音の向こうの空」第14話 ①

第十四話:亡命


その晴れた日に一日の務めを果たした太陽が西の空に傾く頃。侯爵はエスファンテを発った。侯爵家の門を二頭立ての馬車が吐き出されるように抜けていく。
一台にはアンナ夫人と侯爵、もう一台にはオリビエとビクトール、そして荷馬車三台が続いた。馬車の前方と後方には馬にまたがった衛兵たち十数名。揃いの濃紺の制服と白い羽飾りの帽子が夕日の赤に揺れ、エスファンテの町の人々は目を細めた。
石畳に連なる大通り沿い。
女も男も、子供も。両脇に列を作り、走り去る領主を見送った。

これが新しい時代の始まりなのだと彼らも気付いている。歓声が沸くわけでもないのは、つい先ほどまで革命軍と市民とが衝突したばかりだからだ。軍、と名のつかない市民は結局侯爵の衛兵たちに救われた。だからこそ今このエスファンテを侯爵が旅立つのは不安こそあれ歓喜には程遠いのだ。

「侯爵様、お元気で!」
誰かが声を上げた。
侯爵様、万歳。
お元気で。ありがとう!
万歳!!

口々に叫びだし、それはざわざわとしたうねりになる。手を振り、中には涙ぐむものもいる。
衛兵たちは馬上からそれを見つめ、複雑な思いを市民と共有する。

この時期、ファリの国民議会では特権階級をなくすという決議がされていた。そのために領地を失った多くの地方貴族が亡命したのだが、これほど穏やかに送り出された領主も珍しかった。

送り出す市民も農民も、その中に紛れる革命軍も。革命軍をあおっていた司祭やブルジョアたちも。おかしく思うかもしれないが、誰一人としてこうなることを望んだものはいなかった。誰も侯爵個人に恨みがあるわけではない。
これまでこの地の全てを担ってきた侯爵という存在がなくなることに、これほど不安を感じるとは想像もできなかっただろう。ファリの市民が革命を起こしながらも国王を敬い続けるのに似ている。だが結局こうしなくては収まらない、それが時代の流れというものなのかもしれない。
多くの権利を得るのであれば、責任も自ずと市民の手に落ちる。

このエスファンテがどうなっていくのか。オリビエには見届けることは出来ないが。残されるズレンやキシュ、ルグラン市長、メイドたちやモス。彼らが平和にいられることを願わずにはいられなかった。
モスの泣き顔を思い出しながらオリビエは馬車の椅子に深く身を沈めていた。
馬車の窓から顔をのぞかせることもせず、じっと自分の手元を眺めている。

ふと、聞き覚えのある声を。
いや、違う。彼女ではない。
違わなかったとしても。

オリビエは小さく首を横に振り、かすかに耳に届いた少女の声から意識を遠ざけた。

「この後、街境から国境までは衛兵が護衛するそうです。国境を越えれば、侯爵様のご友人であるリヒテンシュタイン侯爵がヴィエンヌまで兵を貸してくださるそうです。道のりは長いですよ、どうぞお気を楽にしてください。オリビエ様」
ビクトールはオリビエの沈んだ様子に笑いかけた。
「お前は、どこまで来てくれるんだ?」
ビクトールには家族がある。一緒でないところを見ると、途中まで付き添って帰るのか、後からビクトールの家族が合流するのか。オリビエにはそのあたりが分からない。
「私はずっと、ヴィエンヌまでご一緒しますよ。侯爵様は自由にしたらいいとおっしゃってくださいましたが、この年になって長年仕えた主人を替えるのもままなりませんから」
「ヘスたちは後で合流するのかい?」
オリビエの問いにビクトールは少しばかり目を細めた。
「いいえ。いずれ落ち着いたら呼ぶでしょうが。なに、私の家内はメイドたちの世話もありますしね。仕切らせたら天才ですからね、新しい主人にも重宝がられるでしょう」

オリビエが何も言っていないのに、ビクトールは珍しく妻を褒めた。革命の只中に家族を残し一人アンナ夫人に付き添うことにしたのか。そこに彼の後ろめたさを見たようで、オリビエはそれ以上問うこともせず身体を横に向けて車内の暗がりに顔をうずめ、眼を閉じる。
「オリビエ様?」
「ごめん、風邪でも引いたようだ。喉が痛い」
ビクトールは座席の下に置かれていた小さなトランクから、毛布を取り出すとオリビエにかけた。
「…いいよ、寒くない」
「いえ、これから夜は冷えますよ。それに、明日は国境を出て、アルフ山地に近い高地を横切るのです。厳しい寒さになるでしょうから、どうぞ、今のうちにゆっくり休んでください」
陽に干されたウールの毛布はかすかにすえた匂いがしたが、オリビエはそれに包まるように姿を隠すと、眼を閉じた。
馬車の振動が心地よく眠りを誘った。


ひやりと冷たい空気に目覚め、馬車が停まっていることに気づくと、オリビエは顔を上げた。それでも闇の中で何も見えないのはすでに夜だからだろうか。日没は午後十時ごろのはずだ。だとすれば今はかなり遅い時間。人の声を聞いた気がしていつの間にか横たわっていた座席からゆっくり起き出した。
ちょうど、馬車の外をランプの明かりらしきものが横切った。だれか、いる。
ガタ、と扉が開かれた。

「お前が最後だぞ、オリビエ」
忍び込む冷気と共に伸ばされた手には見覚えのある革の手袋。青年衛兵は毛布ごとオリビエを支えて馬車から降ろした。
「……ズレン」

まだ少し重いまぶたを擦れば、ズレンはニヤと笑いかけた。吐く息が白いのは周囲の気温を物語っていた。
「おいおい、しっかりしろよ。これからが大変なんだぞ。なんだ、情けない顔して。お前が決めたんだろ。キシュは。……泣いていたぞ」
その名に、何を応えていいのか。

この青年は知らないのか。僕が蝋の翼で飛び立とうとし、しっかり地面に叩きつけられたことを。
偽物の翼では飛び立つことは出来ないのだと思い知った。

「なんだ?」
肩を遠慮ないいつもの調子で叩かれ、オリビエは少々むっとするしかない。
「あの子が、泣いていたなら。慰めるのは僕じゃない」

咬んで含めるように話すオリビエを半分無視して引っ張りながら、ズレンは少しばかり首をかしげ目を細めて青年を眺めた。

「まあ、来いよ。ここで夕食を食べたら、その後は夜通し走るんだ。お前たちと違って俺たちは馬上で眠るわけにも行かないからな。ここでの休憩時間は惜しい。お前の世話を焼くためにここにいるわけじゃないからな」
「じゃあ、向こうへ行けよ!」
「…?」
「行けったら!僕は一人でも歩けるし、だれも世話してくれって頼んでないさ!」

次へ♪
スポンサーサイト

「音の向こうの空」第十四話 ②

第十四話:亡命



すっかり枯れた声で怒鳴るオリビエに、ズレンは目を丸くした。
「もう、僕にかまうな!」
「……。なんだ、押し倒せなかったのか」

殴りかかっていた。
その腕をするりとズレンは潜り抜けて「あたりか」と笑う。
「お前に、僕の、気持ちなんか!」
三発目をきわどく避けると勢いあまったオリビエをズレンは足を引っ掛けて転ばせた。
きゃ、と誰かがそれに反応し。
この場で女性の声といえば一人しかいない。

「オリビエ!」
駆け寄るアンナ夫人。
助け起こそうとするその白い手をオリビエは振り払って、立ち上がる。視線は、目の前の憎たらしい青年衛兵に。
黒髪をさらと夜の闇に溶け込ませ、ズレンは涼しげに笑って見せた。

「俺に遠慮したなどと言うな。俺は最初から言っている。あれは好みじゃない。近づいたのもすべてお前のためだ。俺に八つ当たりするのはどうかと思うぜ」

次のオリビエのパンチはしっかりズレンの手のひらの中。夫人の悲鳴と、駆け寄るビクトール。周囲の衛兵は手に手に松明を持ち、面白そうに眺めている。

誰かを殴るなど、した事のないオリビエがどうあがいても勝てはしない。そのまま腕をひねりあげられ突き飛ばされると、よろけたところを暗がりの中、別の誰かが支えてくれた。
「ズレン、病人相手に何をからかうのだ。お前も落ち着け。ばかものが」

リツァルト侯爵だった。
さすがにズレンもニヤけた口元を引き締め、表情を強張らせた。
「もうしわけありません」
ズレンの優等生な返事も視線一つで受け流すと、侯爵はオリビエを再び毛布で包んだ。
「手を大事にしろと言ってあるだろう。喧嘩など二度と許さん。食欲はあるのか」
問われて、オリビエは首を横に振った。
「では、寝ていなさい。ビクトール、オリビエを馬車に」

子供のようだと。小さな子のようだと無様な自分に辟易しながらもオリビエは元の馬車に乗り込み横たわった。眼を閉じてしまいたい。すべてから。暗闇の毛布の中、指先はただひたすら見えない鍵盤を叩いていた。


ぐご。
音だ。鳴き声?
ぐぐ。

ごご。
走る馬車の車輪の音と馬の蹄は程よりリズムを奏でるが。その音だけは調子がはずれ、どうにも気になる。
目を開け、毛布の中から顔を出すと、暗がりの馬車の中、窓からは青白い朝の日差しがさしていた。
ぐご~。

今度は長い。
ビクトールは気持ちよさそうに眠っていた。その鼻の下のひげがいびきと共に小さく揺れる。美しい朝、とは程遠いか。
ビクトールの腹の上に乗った毛深い手が上下する。背を向けてオリビエは外の様子を眺めた。外は冷たいのか、薄く曇った硝子を毛布で擦る。

遠く東の空には高いアルフの山々が朝日を遮るようにそびえ、時折その雄大な影からこぼれるように日差しがのぞく。この季節は早朝四時から陽が昇る。
深い森が広がる山の裾野にはちらほらと農地らしいものが見えた。小さな家々、かすかに教会の鐘の音が聞こえるような気がして目を凝らすが、馬車の走る街道に沿って生える木々が流れすぎる影となって視界を遮った。
遠い場所、見たことのない景色。これほどアルフ山地を間近に見たのは初めてだ。

エスファンテは国境に位置する。その東隣は神聖ロウム帝国。目指すアウスタリアはこのクランフ王国の王妃の兄が皇帝として君臨している。
首都に当たるヴィエンヌはアウスタリア領のこれまた東の端にあり、いうなればオリビエたちはクランフ王国の東端から帝国領を東西に横切り、さらにアウスタリア領を突っ切ることになる。
オリビエはきっと早馬で夜通し走っても丸三日はかかる距離だろうと想像した。


昼前には、エスファンテの東端に当たる宿駅に到着した。
旅人を迎える宿と馬屋、鍛冶屋。そこで食糧と水を補給し、馬を休ませるのだ。周辺は小さな村落になっている。古ぼけた城砦が石造りの素朴な姿でこの村落を護っていた。過去に張り巡らされた城壁は崩れ、森の中で朽ちていた。

馬車が停まり、オリビエは新鮮な空気を吸いたくなって扉を開けた。
刺すような冷気に体が強張るが、それでも毛布から抜けると降り立った。

城砦の中庭だった。
すでに村の人々だろう、手伝いに借り出されたのか片隅で炊き出しをしていた。薪がパチと弾け音を立てる。
馬たちはいったん馬車から解放され、庭の隅に用意された水のみ場で尾を振りながら水を味わう。侯爵と夫人は城砦の管理人に案内され、建物の中に入るところだ。その周囲をエスファンテ衛兵の濃紺の軍服が囲む。日差しに赤のスカーフが眩しい。
ズレンの姿を認め、オリビエは目をそらした。

「お着きの人たちはこっちで、パンをどうぞ」
村の娘らしき声がしたので、そちらに向かう。伸びをしながら乱れた髪を結いなおすオリビエにそばかすだらけの少女は頬を染め、「さ、どうぞ。スープもありますよ」と笑いかけた。少女の年齢が丁度キシュと同じくらいに思えて、オリビエは数回余分に瞬きした。

「ありがとう」
導かれるまま、衛兵や御者たちに混じってオリビエも石のベンチに腰を下ろすと少女の差し出したスープを手に取った。木の器から漂う素朴な香りは急激にオリビエの腹を刺激した。夕食をとらなかったことを思い出し、白いんげん豆と塩漬け豚のスープを頬張る。

「上手いですな」ビクトールがいつの間に起きてきたのか、隣に座った。
「ここはまだエスファンテなんだろう?国境までは衛兵が一緒だって聞いたけど」
「はい。この村から数里先で国境になります。ライン川という川の向こうは、もう帝国領ですよ」
「ふうん」オリビエは両手を塞ぐ皿とパンとを見比べて、テーブルがないので仕方なく大きな塊のままパンをスープに浸して食べた。

「お体は大丈夫ですか」
「ああ、少し喉は痛いけど。たくさん眠ったからね。景色が綺麗で気分が良くなったよ」
「そりゃ、よかった。オリビエ様の具合が悪いと侯爵様のご機嫌が悪くなりますんでね」
オリビエはビクトールの言葉に肩をすくめる。

あははは、と豪快に笑う衛兵たちの声が二人の沈黙を遮る。どうやら国境が近いために、彼らも安堵しているのかもしれない。この後国境で向こうの衛兵と交代すれば彼らの仕事も終わるのだとビクトールが説明してくれた。


ざわ、と。
オリビエが目を細めて眺めていた衛兵たちが会話を止めた。
皆、城砦の門を見つめる。門を護る衛兵二人が槍を交差させ数人の男たちをとどめていた。
男たちは農夫のようだ。何かわめいている。近くにいた衛兵が彼らとなにやら会話をし、緊張した面持ちでこちらに走ってくる。くつろいでいた衛兵たちは一斉に立ち上がり、サーベルを手に取った。

周囲が立ち上がると、囲まれた気分になってオリビエもビクトールも皿を持ったまま立ち上がった。
「なんだろう」
「分かりません、農夫たちが何か言っているみたいですが」

門の外からこちらを眺める農夫たちに衛兵の一団が近づく。一様に武装している衛兵を見ると農夫たちはひるんで少しばかり後ろに下がるが、手には鎌や短剣、中には銃らしきものを持つものもいた。彼らは武装している。

次へ♪

「音の向こうの空」第十四話 ③

第十四話:亡命


オリビエたちもそちらに行こうとし、「危ないですよ」と先ほどの少女に引き止められた。
「あれは?」
オリビエにとわれ、少女は目をそらした。
替わりに傍らにいた少年が腕組みをしたまま応える。
「この村の自警団だよ。農産物を盗む夜盗や、浮浪民が増えているから、あんなふうに武装しているのさ」
まだ十二、三と思われる少年はやけに大人びた口調で語った。
「国境の村だから、侯爵様がここにいる理由が分からないんだ。だから、不安がって理由を説明しろとでも言っているんだと思う」
オリビエは少年の頬にスープの雫がついているのを拭いてやる。
「!」
「詳しいね、君は?」
少年は子ども扱いされた気分なのか口を尖らせ、「僕はヨウ・フラ。侯爵様と同じで国境を越えるつもりなんだ。ここには昨日、衛兵の先発隊と一緒に到着した」と胸をそらせた。

「ふうん。リツァルト侯爵に雇われたのかい?」
「違うよ、途中までは侯爵様のお荷物番として同行するけど。向こうに着いたら自由だから」
旅の間の人足なのだろうか。それにしても訛りが違う。
「ヨウはどこから来たんだい?」
「……あんたさ。有名な音楽家なんだろう?」
逆に問われ、オリビエは首をかしげる。

「ごまかすなよ、オリビエ様って呼ばれていただろ。マルソーさんが言ってた。エスファンテには音楽の神に愛された男がいるって」
そうか、この訛りはファリのものだ。シの音がスェに変わって聞こえる。
「マルソーに会ったのかい?知り合いなのか?彼は元気だったかい?」
ヨウ・フラはかすかに鼻息を吐き出し、オリビエを無視すると目の前を横切っていく影に視線を移した。その先には青年衛兵。
濃紺の上着に赤いスカーフが揺れる。真っ白なシャツと金のボタン。肩の徽章が日差しを弾いた。
少年の視線を奪うには十分、凛々しい。
「ズレン…」

連隊長が歩けば、衛兵たちは道を空けた。ズレンはそばにいた部下に腰のサーベルを手渡すと、真っ直ぐ門の外に集る農民たちに向かっていった。
両手を開いて武器がないことを見せながら。

「私はエスファンテ衛兵第三連隊、隊長、ズレン・ダンヤだ。エスファンテの人民に銃を向けるつもりはない。お前たちはなにを知りたいと言うのか、落ち着いて話を聞かせて欲しい」

まだ若い青年衛兵に眉をひそめた男たちだが、その代表らしき一人は持っていた銃をズレンに習って傍らの男に預け、改めてズレンを直視した。
「あっしらは、聞いたんです。噂ではファリから逃げ出した貴族たちが、アウスタリアに寝返って、あっしらの村に攻めてくると」
静まり返った邸内にその男の声は響いた。

「この国から貴族を追い出したのはファリの人間たちだ、あっしらじゃない。けど、攻め込まれて被害を受けるのはあっしらなんだ!侯爵様がもしおいでになるなら、何のためにここにいるのか、国境を越えるのか、聞かせて欲しい」
「聞いてどうする?侯爵様の目的によっては我らを阻もうとでも言うのか」
ズレンは腕を組んでにらみつけた。
「侯爵様は我らエスファンテの人民のために身を引かれるのだ、それをお前たちがどうしようというのだ」
「無責任だ!」誰かが叫んだ。
「侯爵様はあっしらを見捨てなさった。これまで税を納め、皆従ってきただ、それを逃げ出すだか!」
「あっしらはどうなる!」

男たちは持っていた鎌やこん棒で門の柱をがつがつと叩いた。古い城壁はつつかれるたび、土煙を上げる。ぐずぐずと崩れるそれはこの土地の未来を表すようで、オリビエは背筋を寒くした。

この小さな街、エスファンテですら市街と郊外では意識が違う。革命軍や街のブルジョアが政治を行うことに賛成しているわけでもない。それなのに侯爵に逃げ出されては見捨てられる孤児同然だ。
彼らの言い分はもっともだった。

「代表を送りなさい」
ズレンの背後から、侯爵が歩いてきた。
そばにいる衛兵が、「閣下、危険です」ととどめようとし、いつのまにかオリビエのそばからいなくなっていたビクトールも侯爵の脇で控えている。
「よい。この地の自警団の代表か。これからエスファンテは人民が議会を持ち自ら政治を行う。代表を送ればお前たちの意見も汲み取られるだろう。いずれにしろ、国境は重要な拠点となる。ここにいる衛兵が護ることになるだろうし、今ここで争うのは双方得にはならん。そうではないかな」

侯爵の悠然とした姿に農夫たちはしり込みしたのか、互いに見合わせる。結局は代表の男に皆が従う姿勢を見せ、男は「けど、アウスタリアが攻めてきたらあっしらは」と侯爵を見つめる。

侯爵は傍らに立ったズレンに、声をかけた。
「ズレン、お前ならこの土地をどうする」
これからエスファンテに残る衛兵たちは、市民のために働くことになる。ズレンをはじめとする連隊長の任は重くなる。
問われた青年は目を細めて見せた。

「すでに自警団が必要なほどこの地の治安は悪化しています。エスファンテだけでなく、国全体として国境は重要になって来るでしょう。当面、我がエスファンテ衛兵は治安維持に奔走することになりますが、この地にもそれ相当の部隊を派遣することになります。この地に住む彼らが協力してくれればありがたいのですが」
ズレンの視線を受け、自警団の男は戸惑った。「あっしらは、農夫の寄せ集めです」
「それでも、この地に詳しいお前たちは、貴重な人材だ。協力して欲しい」
ズレンが笑いかければ、男たちは手にしていた武器を下ろした。

侯爵はズレンの肩を叩き、農民たちに示した。
「これまでもエスファンテを護ってきたのは、彼らエスファンテ衛兵だ。私一人いなくなったところで兵の一人も失うものではない」
農夫の男たちはズレンを見つめていた。
すでに彼らの中で従うべき存在は、貴族から武力へと移っているのかも知れない。侯爵が財産も衛兵も抱えたまま逃れようとすれば、衝突は避けられなかっただろう。

「あの人、若いのに堂々としているな」
オリビエの隣でヨウ・フラと名乗った少年がつぶやいた。
独り言もオリビエの耳には届く。
「ズレン・ダンヤ。連隊長なんだよ。何を考えているか分からないところがあるけど」
「あんたの友達なのか?」
ヨウ・フラの口調は先ほどよりずっと子供らしくなっていた。
「…分からない」
そう応えたオリビエに肩をすくめて見せ、ヨウ・フラはズレンに駆け寄っていった。騎士の青年は立派に見えるのだろう。目を輝かせてズレンに語りかける少年をオリビエは眩しそうに見ていた。
「オリビエ、ついて来なさい」
すっかり冷めたスープの皿を相変わらず持ったままであることに気付き、「後は私が。さ、どうぞ」と手を出したビクトールに渡した。その背後に立つ侯爵は一頭の馬を引いていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十四話 ④

第十四話:亡命



馬の背は何回目だろう。
侯爵はやはりしがみつくことになっているオリビエを女のようだとは笑わなかった。
堂々とした騎乗の姿はかつて軍人だったという侯爵の経歴を髣髴とさせた。今は軽装ながらも腰にサーベル。それは馬が揺れるたびオリビエの足元をカチカチとつつき、嫌でも存在を意識せずにはいられなかった。
後ろからついて来るズレンはこれまたなぜか先ほどの少年を連れ、二頭の馬は暗い森を駆け抜け小さな礼拝堂へとたどり着いた。

「侯爵様、日暮れまで時間があるとはいえ、明日は早い御発ちです。警備の面でも心配ですので、あまり長居は出来ません」ズレンはオリビエが馬から降りるのを手伝いながら声をかける。

侯爵は「ふん、堅いことを言うな。お前もそれを連れてきているではないか」と取り合わない。自警団はなだめたものの、夜盗や浮浪民がいるというこの地は決して安楽な場所ではなかった。それをズレンは訴えてみたものの、
「だが、ズレン。今のわしに、安楽の地などない」
侯爵にそう言い切られては、ズレンも思いとどまらせることが出来なかった。

オリビエの曲を聴くために侯爵はこの地に唯一楽器のある礼拝堂へと向かったのだ。ズレンに食いついてきた少年も、オリビエの音楽を聴いてみたいと言い張ったのだ。

古ぼけた無人の礼拝堂。扉には盗難を防ぐための錠がかけられていた。先ほどの自警団に借り受けた鍵でズレンが開く。重苦しい扉の音とともに暗がりが広がる。ほこりが舞い上がる中、窓からさす陽光はすでに山の斜面に遮られるのか想像以上に暗かった。
ヨウ・フラは一歩下がり、怯えた様に見える。
「大丈夫だよ」
オリビエが少年の肩に手を置けば、「別に。平気さ、なんだよ。大丈夫ってさ」と乱暴に手を振りほどいてみせる。侯爵がかすかに眉を寄せた。
「ヨウ・フラ、オリビエに怪我をさせるのは許さんぞ」
「うへ」おかしな声をだし、ヨウ・フラは逃げるようにズレンの後ろに隠れた。
「侯爵様のおっしゃるとおりだ。下手なことをするなよ」
ズレンにちらりと見つめられオリビエは視線をそらす。

ズレンとヨウ・フラは礼拝堂内にランプを灯した。
三つの揺れる明かりの中、オリビエは埃を被ったオルガンを開く。古い型のものだが、鍵盤を確かめれば、それは確かに音を出した。

オリビエがすべての音を確かめ、ふと息を吐いて手を止めたときには、侯爵は礼拝用のベンチに座り、その背後にズレンと少年が立っていた。暗がりに立つ彼らをちらりと眺め。これほど不可思議な取り合わせも珍しいとオリビエはこの状況を面白く感じていた。

衛兵であるズレンだが、侯爵と共に音楽を聴いたことはないだろうし、ヨウ・フラという少年も、階級など気にもしない様子で時折公爵にも乱雑な言葉を使った。
それにも腹を立てることをせず、侯爵はただ悠然としている。
こうして、こんな風に教会のオルガンを彼らに聞かせるなど、想像もしなかった。

軽い春の曲から入ったものの、オリビエは次第に物思いにふけるように音色の深みに足を踏み入れていく。
ランプの明かりの向こう、天井には薄汚れたステンドグラスが見える。聖母が微笑み、花を抱き。鳥が空を飛ぶ。
静かな山間の村落に久しぶりにオルガンの音が響いた。


窓を抜ける日差しがさらに細くなり、オリビエから見えるステンドグラスが完全に日陰になった。その最後の光の瞬きを確認すると、オリビエはそっと演奏を終えた。

「もう少し、弾きましょうか」
オリビエの問いに、侯爵は黙っていたが静かに立ち上がった。
それはいつものことで、もう十分堪能したという意味なのだとオリビエは勝手に解釈している。
「あ、終わり?」
ヨウ・フラは夢から覚めたような顔をしている。ズレンに肩を叩かれ、なんだ、そうか、と一人納得したような声を上げて三方にすえたランプを回収し始めた。

「向こうでは、フォルテピアノが盛んだという。気に入ったものを用意させよう」
侯爵はオリビエの手を取り、しげしげと眺める。
時々こういうことをする。音を奏でるその手が不思議なのだろう。同じことを彼の姪の娘リリカがして見せたことがあった。

「ありがとうございます。フォルテピアノは一度、ロスレアン公のお屋敷で触れたことがあります。清んだ美しい音色でした」
「そうだな。ヴィエンヌはファリにも劣らぬ帝都。よい楽器にも出会えるだろう」
その想像はオリビエの心を軽くした。まだ見ぬ音楽の都、ヴィエンヌ。
現皇帝は音楽が好きで国立皇室室内楽団や芸術院、歌劇団などがある。かの有名なヴォルフガング卿もかつてはその一員だった。
宮廷音楽家になりたいとは思わないが、それらを聞く機会があるならば幸せだとオリビエは想像した。

次へ♪

「音の向こうの空」第十四話 ⑤

第十四話:亡命



宿駅に戻るとオリビエはヨウ・フラと同じ部屋で眠ることになった。ビクトールがヨウ・フラの面倒を見ることになっているらしいが、少年はオリビエのそばにいようとし、オリビエはその意図が分からないが拒否する理由もなかった。

早朝の出立に備え早い時間にオリビエは寝室に入った。簡単なつくりの室内は、かろうじて床の前面に敷物があり、木でできた硬い寝台に藁布団が厚く盛られ毛布がかぶせられている。そのがさがさという音にオリビエは自分が鳥になったかのような気分でうっとりとしていた。
「面白いって?」
その手触りと感触を確かめるオリビエに、少年はあからさまに眉をしかめた。
「なんで。贅沢だよこんなたっぷりとさ」
「…そうか、そういうものなんだね。僕は初めてなんだ。ほら、よく干してあるみたいだし、鳥の巣みたいだ」
「だからさぁ、鳥の巣の何が面白いのさ?」
「鳥になったみたいじゃないか?」
ヨウ・フラは言葉が見つからない様子で黙り込み、それから一人頷いた。

「……わかった、オリビエの手はツバサなんだ、普通じゃないからあんな演奏になるんだ、そうか」

からかわれている。
それはそんなにおかしなことだったろうか。
オリビエは少々恥かしい気分になり、それ以上鳥の巣の話は止めた。それでも横になって藁を感じるたび、翼を抱えて丸くなる自分を想像して眼を閉じた。空の夢を、見るのかもしれない。
一つきりのランプの心もとない炎が揺れるたび、白い布をかけた巣に包まるオリビエの柔らかな色の髪が煌いた。
少年は、眼を閉じて実はうっとりしているオリビエに遠慮なく声をかけた。

「あのさ。ズレンさんに、頼んでみたんだけど」
「…ん、何を?」
「もし、ファリに行くことがあったら、エリーさんに手紙を渡して欲しいと思っていてさ。おかげで僕は無事国境を越えられるんだ」
「エリーに助けてもらったのかい?」
「そう。僕は、バスチーユ監獄で働いていたんだ」

その名を聞いて、オリビエは目を開いた。並んだ寝台の向こう、少年は黒い瞳でオリビエを見ていた。黒目勝ちのそれは子供っぽい顔の中で嫌に大人びて見えた。暗がりだからか、それとも表情が乏しいからか。あの革命の渦中にこの少年はいたのだ。

「……落とされたと、聞いたよ」
オリビエのつぶやきにヨウ・フラは頷いた。

「ひどかったよ。もともと囚人にとってはひどい場所だったけど。押しかけた市民はたいした武器もないし、それでもとにかく大勢でさ。それを外国人の衛兵は容赦なく撃ち殺すんだ。城砦の上からだもん、狙い放題だよ。たくさん死んでいって。それに監獄の衛兵たちが耐えられなくなってきたんだ。だってそうだろ?いつもパンや肉を運んできてくれる商人や、僕らが出かければ声をかけてくれる人たちなんだ。彼らは銃に晒され、次々と死んでいく。それで、将軍も衛兵も我慢できなくなって降参したんだ」

エスファンテの様子を間近に見たオリビエは想像がついた。あの時、ズレンは決して市民に銃を向けなかった。その意味が分かった気がした。

「けどね。降参したらしたで、僕らも衛兵たちも皆、市民に取り囲まれて。危うく殺されるところだった」

ヨウ・フラは続けた。
市民はとにかく大勢で僕らを市役所へと引っ張っていくんだ。興奮しているし大勢が亡くなっているし。将軍は首を落とされて吊るされて行進に加わった。

あっという間に外国人の衛兵たちは取り囲まれて…恐かった。市民は誰でも良かったんだ、誰かがあいつは敵だと叫べば、取り囲んで皆で殴るんだ。それを止めたのが、エリーさんだった。興奮する市民に、エリーさんが訴えたんだ。哀れな子供たちにお助けを、と。
そのとき僕らを護ろうとしていたマルソーさんだって市民につかみかかられていた。テーブルの上に立って、サーベルを天に向けて「人民の子らを愛せよ」と叫ぶエリーさんに感動したのか、市民は煤だらけの僕らに歓声を上げた。
さっきまで殺そうって勢いだったのに、まるで生まれたての子馬を可愛がるように僕らを可愛がった。皆、どこかおかしいよ。血だらけなんだ。きっと、心も手も足も。
じっと薄い毛布を握り締める少年。思い出す光景はオリビエには想像もつかない。

オリビエはベッドの鳥の巣を出ると、少年の傍らに座った。
「血は洗い流せばいいよ」
温かい湯で涙も血も洗い流せる自分に安堵したあの夜を思い出していた。悲しい死を向かえたロントーニ男爵とリトー。彼らもどこか、おかしかったのだ。

「わかって、ないな」ヨウ・フラは顔をしかめる。

「消えない罪なんかないし」オリビエは微笑む。

誰が悪いわけでもない。だったら、傷を開くような真似はしなくてもいい。皆同じなんだ。生きるために銃を持つズレンも、パンのために隣人を殺す市民も、幸せになるために音楽を続ける僕も。

「いいよ、もう。僕がリツァルト侯爵様のお世話になると決まったときに、マルソーさんがあんたの事を話してくれたんだ。素晴らしい演奏をするって。新しい生き方を教えてもらえって。でも、慰めるのも下手くそだし、能天気で腹が立つ。どうせならズレンさんと一緒に寝ればよかった」
「…ごめん」
どうも、少年には通じなかった。言葉が足りないのだと分かるがオリビエには自分の経験を自慢げに語れるほどの余裕はない。
「だからさ、謝る意味も分からないし!黙って鳥にでもなっていればいいんだ」
「…そうだね」

オリビエはすごすごと自分の巣に戻る。がさと沈むそれはやはり鳥の巣で、そこが安楽に思えるオリビエと、そばにオリビエがいても戦場を思い眠る少年とは何もかもが違う気がしていた。
「僕は、感謝しているんだ。僕に音楽の才能を残してくれた両親と、神様に」
「ああ、そう」
少年は言いながら毛布に頭までうずめてしまった。

「…演奏は、すごかったよ」

少し間を置いた少年のつぶやきは申し訳なさそうにオリビエの耳に届いた。
オリビエも巣にうずくまりながら、ありがとう、と小さく返した。

次へ♪

「音の向こうの空」第十四話 ⑥

第十四話:亡命



翌朝はオリビエの乗る馬車には少年も加わった。昨夜までは衛兵の誰かに乗せてもらっていたらしい。ヨウ・フラは「馬車には初めて乗る」と浮かれ、楽しそうな様子にオリビエは内心ホッとしていた。
程なく、国境であるライン川に到着した。そこから先は神聖ロウム帝国領。
リヒテンシュタイン候の使いを待つ間、川岸で休憩を取る。

ここからエスファンテ衛兵は引き返すのだ。
オリビエは馬車を降りると真っ先に青年衛兵の姿を探した。
友達なのかとヨウ・フラに聞かれ、応えられなかった。それが心のどこかに引っかかっていた。

「あ、ほら、あそこにいるよ」ヨウ・フラが先に見つけてくれた。
オリビエは髪を結いなおすと、川岸で火を焚き周囲に集って衛兵たちと雑談しているズレンに近づく。
先に気付いた周囲の衛兵が沈黙する。
「あの、ズレン」
「これは、楽士殿、どうなされた」
衛兵たちの興味津々な視線とズレンの他人行儀の挨拶にひるんだものの、オリビエは意を決してズレンの腕をつかんだ。
「いいから、来て欲しい、話したいことがあるんだ」
「おや、なんだ?」
おどけた様子のズレンを強引に、とにかく引っ張って連れ出すと、一行から離れた雑木の奥まで歩いた。
口を結んでずんずん歩くオリビエに、ズレンも表情を引き締めついてきた。
「なんだ、もう一度殴りあうつもりか?何度やってもお前が負けるぞ」
オリビエは、視線をつま先から青年に移し、口を開いた。
「違うんだ。あの、この間はごめん。僕が悪かった」
「…ふん」ズレンの態度は変わらない。腕を組んで自分より背の低い、六つほど年下のオリビエを見下す。
オリビエが少しうつむけば柔らかい亜麻色の髪に日差しが輪を作る。日の当たらない場所で護られて育った青年はかつてズレンが形容したように頼りなげな薔薇の花。
オリビエは似つかわしい頼りなげな言葉を発した。

「あの。キシュを頼む」
「…は?」
「あの子を、幸せにしてやって欲しいんだ。僕が言うのもおかしいけど。きっとズレンのこと、愛してるから」
「…俺の好きにしていいって言うのか?」
その言葉には気懸かりな印象もあるが。オリビエはズレンを信じるしかない。
「僕は。ズレン、あんたのことも友達だと思っているんだ。最初からそうで、今も変わらない。あんたが僕のことをどう思っているかは分かっているし、今のだってバカだと思って呆れられているんだろうけど。それでも、キシュのこと、幸せにしてやってほしいんだ。それに」

「ああ、呆れてる」
だからそんなことを言うなといわんばかりにズレンはオリビエの言葉を遮ろうとする。それでもオリビエは真っ直ぐ見据える。

「ズレンにも、幸せでいて欲しい。もう、会えないかもしれないけど」
ズレンは腕を組んだまま。無言でオリビエの肩にかかる髪が揺れるのをじっと見ていた。かすかに、揺れるそれは。木漏れ日と重なって震えるようにも見える。

「ズレンにあえて、よかったと思っているんだ。僕は、上手くは生きられないけど、キシュやズレンに合えたのは上出来だったと思っているんだ。元気で…」
それだけ言うと、拳を握り締めオリビエはその場を逃げ出すように駆けていった。
見送るズレンはしばらくじっとしていた。そばの木の陰に気配を感じたのか、溜息を吐き出し「出て来いよ」と声をかける。

「なぁんか悪いもん、みちゃったなぁ」
ヨウ・フラだった。
「隠れていることはないだろう?お前がいてもあのバカは同じことをしただろうし」
「やっぱり恥かしいだろ、ああいう場面ってさぁ。オリビエ、大人の癖に泣いてたし」
「あれは感激やなんだ。涙もろい。たいしたこともないのに喜んだり悲しんだりできる。幸せな奴さ」
「ふうん」少年はキシュという人物のことを尋ねたくてうずうずしていたが、ズレンの表情はそれを許さなかった。
今も、穏やかだが隠れてオリビエについてきていたのを責めている。
「それでかな。敷き藁が鳥の巣みたいだって感激していたし」笑えるよね、そう思わない?と続けるヨウ・フラにかすかな溜息と共にズレンは肩をすくめた。
「…あれは鳥が好きだからな。空ばかり見上げているから足元がおぼつかずに転ぶんだ。お前はヴィエンヌまで行くのだろう?頼むな」

しばし、沈黙。
少年はもう一度、ズレンを見上げた。
「今、さ。頼むって聞こえたけど」
「……いや、気のせいだ」
顔をしかめる少年を放っておいて、ズレンは侯爵のほうへと歩き出す。
川の向こうに様子を見に行かせていた部下が戻ったようだ。


ヨウ・フラは鼻の穴を思い切り膨らめて息を吸うと、はぁ、と溜息を吐いた。
「分けわかんないな」
侯爵といい、ズレンといい。なんで皆、オリビエに優しいんだ。あんな変な子供みたいな奴なのに、少年がぶつぶつ言うそれは、聞けば皆が頷いたのかもしれない。
ただそこでは、高い梢から飛び立った一羽の鳥が見守るだけだった。

次へ♪

「音の向こうの空」第十四話 ⑦

第十四話:亡命



リヒテンシュタイン候の迎えは午後には到着するらしい。
すっかり待ちくたびれて不機嫌なアンナ夫人は、ビクトールに冷たいデザートが食べたいだの、川に足を浸したいだのとわがままを言っていた。
その矛先を向けられないようにとオリビエは自分の馬車に乗り込んで静かに読書をしていたが、ヨウ・フラが川遊びに乗ったのか、楽しそうな声が聞こえてくると顔をのぞかせた。
橋の手前で緩やかにうねるライン川は滔々と絶え間なく流れている。

浅瀬では結った髪が乱れるのもかまわずにアンナ夫人が冷たそうに足を水に浸し、少年を相手にからかってはしゃいでいた。ヨウ・フラは膝までズボンをまくし上げ何度も水をすくっては天にばら撒いていた。日差しにきらきらと散るそれを、オリビエは目を細めて眺めていた。

「お前は入ってはならんぞ」
振り向けば、侯爵が腕を組んで川遊びの様子を見ていた。
オリビエの座る大きな岩の脇に立つので、いつもより高い位置から侯爵を見下ろす形になった。
「もう風邪はいいのか」
侯爵の心配がそれと知り、オリビエは微笑む。
「はい、ご心配をおかけしました。喉が少し痛んだだけです。こうしてゆっくりさせていただいていますし。昨夜は楽器に触れることも出来ました」
「うむ。弾きたいときにはいつでも言うといい。この先、いくつか心当たりがある」

オリビエは礼をいい、侯爵を隣に誘った。
「ここは眺めがいいですよ。この先の丘陵地が見えます。小さな森と、葡萄の畑でしょうか。エスファンテとは違う景色ですね」
そう思えば、髪を揺らす風一つとっても違う香りがしている気がする。
「この先はヴュルサンブルク領邦スタルガルトの街だ。いいワインを作る。林檎も美味い。田舎町だが藁ではないベッドで眠れる」
「侯爵様も、あの藁布団のベッドだったのですか」
オリビエが嬉しそうに笑うのを怪訝な顔で見上げ、侯爵はいつものように眉間にしわを寄せた。
「おかげで一晩中アンナの愚痴を聞く羽目になった」
憮然とした様子の侯爵につい笑い出しかけ、「何がおかしい」と引き摺り下ろされそうになってオリビエは慌てて岩の上に逃げる。

「ふん、高いところが好みとは子供のようだな、お前は」言いながらもオリビエの隣に登った侯爵は、仁王立ちになると遠くを眺めた。その満足そうな表情はオリビエと同じくらい楽しんでいる。
人より少しだけ清んだ空気を呼吸する感覚で遠く輝く景色すら胸に吸い込む。侯爵の行く手は決して絶望などでない。力強い希望を抱いている様子。その姿は見ているものを安心させる。

と、不意に「!オリビエ、降りなさい」と。渋面を浮かべる侯爵。侯爵は前方のスタルガルトではなく、背後の森を見つめていた。


迎えよりも早く到着した騎士の一団は、皆エスファンテの衛兵たちより一回り大きいように見えた。クランフ王国の衛兵の制服でありながら明らかに外国人だ。エスファンテ衛兵たちは警戒し遠巻きに囲んでいたが、侯爵が先頭の男を出迎えたので警戒しながらも、馬を下りた騎士たちの手綱を預かった。
彼らは侯爵と同じ北の民族の血が流れているようだ。北の民族は一様に身長が高くしっかりした骨格を持つ。高い鼻、くぼんだ青い瞳は鋭さを秘め、断崖に住む猛禽類を思わせた。当然ながらオリビエも到着した彼らを見上げることになった。
十人程の騎士団の代表は三十代の青年だった。

「これは、リツァルト侯爵閣下。このような場所でお会いするとは」
馬から下りて親しげに侯爵の前に進み出ると、手を差し出す。青年は輝くような顔色でにこやかに笑う。肩に揺れる徽章は見たこともないくらい多くの星をつけていた。
「マクシミリアン少将、貴殿も国境を越えられるのか」侯爵が髭をなでた。
「今や、少将ではありませんよ、侯爵閣下。兄上が戻れと手紙をよこしましたし、ファリでの革命を報告する必要もありますのでね。……おや、君は」
とこちらを眺められ、オリビエは深く頭を下げた。

「オリビエンヌ・ド・ファンテルです」
「ああ、噂は聞いています。侯爵と共に国を出るのですね」
「はい」
丁寧な口調は彼の育ちを想像させた。真っ直ぐ見つめる視線は強い。少将にまでなったのであれば、その大柄な身体は見かけどおり強靭なのだ。

「オリビエ、こちらはマクシミリアン・ヨーゼフ候。バイエルヌ領邦の選帝候カール四世の弟君にあたる。先ごろまで我が国クランフ王国の軍籍におられた」
「そう、ファリの騒動を見て国に戻ることにしました。我が領邦、バイエルヌに来られるのなら歓迎しますよ」
オリビエには握手でなく、輝くような笑顔で挨拶する。

神聖ロウム帝国は今や数多くの領邦に分かれ、それぞれを統治する選帝候や大司教がいた。これから向かうヴィエンヌはアウスタリア帝国だが、そこまでの道筋にはいくつかの領邦が横たわる。そのうちの一つがバイエルヌだ。オリビエとリツァルト侯爵が先ほど眺めたヴェルサンブルク領邦の東隣だ。さらにその向こうにはサルツブルク領邦がある。
領邦の境界は曖昧だが、中には城壁をめぐらしているところもある。
これから数日の旅の間、それらを横切るのだ。
かすかな不安が午後の風と共に頬をなでた。


その後まもなくリヒテンシュタイン侯爵の迎えの衛兵が到着し、エスファンテ衛兵に見送られながら、オリビエたちはさらに東へと旅立った。
途中まで同行することになったマクシミリアンとその従者の騎士十人、そしてリヒテンシュタイン侯爵がよこした衛兵たち八人。彼らに護られ導かれるのはリツァルト・フォン・オルファス・シュスター侯爵とその妻アンナ。侍従のビクトールと、ヨウ・フラ、そしてオリビエの五人だ。

何の役にも立たないオリビエは、出発の準備の早い段階で自分の馬車にいるようにと命じられ、読みかけの本を片手に窓から外の様子を伺っていた。
エスファンテの衛兵たちが見守る中、馬の引き綱を結び終えたヨウ・フラが乗り込んだタイミングで馬車が動き出す。

「次はヴェルサンブルクで休憩だってさ」と少年が言うのを背に聞きながら、オリビエは小さくなるエスファンテ衛兵を。ズレンを見ていた。
手をふりかけ、見えても返事はないだろうと止めたまま。

そういえば、ありがとうとは言えなかった。
ふと、キシュと三人で過ごした楽しい夜を思い出し。同時に少女に会えない切なさがこみ上げてきたのでしまいこむ。嘆いている暇なんかないはずだ、これから何が起こるかわからない、新しい土地、新しい生活が始まるのだ。それでもかすかに硝子を叩く自分の指先にオリビエは気付いていない。

完全に無視された状態でヨウ・フラは腕を組んで青年を睨んでいたが、座席に置かれた本を手に取るとしげしげと眺める。

「なあ、オリビエは読み書きができるんだよな?教えて欲しいんだ」
「え?」
「僕は、とりあえず生まれた土地だからヴィエンヌに行く。クランフ王国はもうごめんだ。だけど、そこに誰かが待っているわけじゃないから、働きながら新聞記者になるんだ。そうだな、最初は印刷所で働いて、新聞の配達の仕事もしてさ、その間に勉強する。だから、ラテン語とドウィチェ語を教えて欲しいんだ。話せるけど読めないし書けないから」
ヴィエンヌの公用語はドウィチェ語だが、古くからの書物はラテン語、オペラなどはイファレア語と、この時代日常に必要とする言語は複雑だった。オリビエはその内いくつかを身につけていた。

「いいよ。僕で役に立つなら」笑うオリビエにヨウ・フラは目を輝かせた。
いつか自分の体験を本に残すんだと意気込む少年にオリビエは羨ましいほどの未来と眩しさを感じていた。

次回第十五話「夢と希望と、約束」は10月27日公開予定です♪

↓以下にあとがきてきなものと、言葉地名の説明など…

続きを読む

「音の向こうの空」第十五話 ①

第十五話:夢と希望と、約束



バイエルヌ領邦の首都ミュニックの町に到着したのは午後九時を回っていた。

「このミュニックにカール四世選帝候の宮殿があるのですよ。弟君のマクシミリアン候にご招待いただきましたのでね、少々強行になりましたが。これで旅程の半分まできたことになります」とビクトールが説明し、オリビエはエスファンテよりずっと都会であるミュニックの町並みを馬車の窓から眺めていた。

ファリにも似ている。この時刻はまだ、空は明るい。日の長いこの季節特有の薄く黄色味を帯びた日差しに建物の白い壁が映え、屋根のオレンジの瓦が抜けるような青の空に浮かぶ。広場を囲む町並みを過ぎ丘陵地を進むと、夏の濃い緑の庭園に囲まれた優美な宮殿が見えてきた。それはニンフェルブルク宮殿といい、選帝候の夏の間の離宮だという。
正面に水をたたえた池を設え、縁取る糸杉の並木の脇を馬車が駆け抜ける。

どうりで、アンナ夫人が休憩の時間中ご機嫌だったはずだ。今夜はきっと天蓋のついた立派なベッドで眠れるのだろう。

「美味しいものが食べられるかな」とヨウ・フラが腹をさすりながら嬉しそうだ。途中、午後の休憩で立ち寄ったヴェルサンブルク領邦スタルガルトの町で、パンとオリーブ、乾燥したハムとワインをもらっただけだったからだ。それはそれで美味しかったのだが、育ち盛りの少年には物足りなかった。

少年が頭の中で想像できる限りの贅沢な食べ物を並べ立てぶつぶつと呟く隣で、オリビエは宮殿に楽器とそれを奏でる音楽家がいることを期待していた。
途中見かけた二つの塔を持つ巨大な教会にも、立派なパイプオルガンがあるに違いなかった。音楽で言えばやはりこちらの方が進んでいるのだと、いつか侯爵家に訪れた音楽家に聞いたことがある。

イファレアから派生したオペラや管弦楽、たくさんの楽器を使った交響曲など、専用の劇場で大勢の人々に披露されるという。
ファリにもそれに近い場所はあっただろうが、オリビエをそういった場所に連れて行くことを侯爵が好まなかった。音楽を学ぶものとして当然知りたい事柄も、耳を塞ぐよう強要されてきた。
だから、オリビエは本や新聞、人々の噂でしか知らなかったのだ。
それが目の前で見られるのかもしれない。

ファリにも訪れたことのある著名な作曲家、ヴォルフガング卿もヴィエンヌでプロイセンの王侯を迎えるためのオペラを書き下ろしたという。リツァルト侯爵を客人として迎えるマクシミリアン候が何かしらそういったことを企画してくれないかとオリビエは人知れず熱い視線を彼に向けていた。


マクシミリアン候と一緒に宮殿に迎えられ、リヒテンシュタイン侯爵の衛兵とオリビエたちは低い位置から見上げたカール四世選帝候に恭しく挨拶をした。

リツァルト侯爵はオリビエを数段上の彼らの場所まで呼び寄せ、旅の軽装のままオリビエは立派な体躯のカール四世の手にキスをする。

「音楽家を連れて亡命とは、侯爵も粋ですな」とにやりとされ、オリビエはどうしていいか分からない。
侯爵は「私は彼の後見人のようなものですからな」といつも通りの口調で語る。
相手に揶揄されようとも、常に侯爵は堂々とし感情を揺り動かされる様子はなかった。そのためかアンナ夫人もマクシミリアン候の奥方とも対等に今は旅の途中の苦労を大げさに語っていた。

「おお、おいたわしいことでございます、アンナ様。今夜はどうぞ、ゆっくりなさってくださいね」とマクシミリアンの妻アウグステは幼い子を足元にまとわりつかせながら微笑んだ。

その幼い少年と目が合い、オリビエが微笑むと恥ずかしそうに母親の陰に隠れようとする。
侯爵家で遊んだリリカを思い出した。


侯爵たちは広間に向かい、オリビエやビクトール、ヨウ・フラは王宮の侍女に案内されて与えられた部屋に向かった。
途中、楽器の音を耳にし、オリビエが立ち止まる。

侍女は振り返ると、ランプの下そばかすの残る顔で「アウグステ様の次女でアマーリアさまでございます。まだ三歳でいらっしゃいますがフォルテピアノがお好きで、ピアノの間と呼ばれるお部屋で過ごされることが多いのです」と笑った。

「そんな小さな頃から」とオリビエが笑えば、「オリビエ様、貴方様も同じでしょう」とビクトールに指摘される。
そういえば、オリビエも最初は鍵盤一つ一つを握り締めた拳で叩いていたようなものだった。父の膝の上に座り、支えてもらいながら演奏した。


その「ピアノの間」に出入りが許されたので、オリビエは晩餐会までの間久しぶりに一人きりで心ゆくまで楽器を奏でた。

そこは大広間の脇にある客間の一つのようでピアノのほかにも部屋の片隅にはいくつかの弦楽器が置かれていた。白い布をかけられたそれらが気にはなったが、幼い頃挑戦したヴァイオリンの弦を押さえる指先がいかに痛かったかを思い出し視線をフォルテピアノに移した。

ハンマーで弦をたたいて音を出すその楽器は、オリビエの慣れ親しんだチェンバロとはまた違う。幾分重く感じる鍵盤もチェンバロには上下二段あったがピアノでは一つだけだ。代わりに強く叩けば強い音が出る。上下同じ音を出す鍵盤で同音を二つ奏でたり一つにしたりして強弱をつけるチェンバロとは奏法もまったく違うが、同音を奏でなくて良い分フォルテピアノは音を自由に選べる気がしていた。

高音域を柔らかく繰り返せば空の高みを思わせる高揚感を得、力強く低音を重ねれば深く荘厳な響きとなる。
これらに常に触れる音楽家たちはどんな演奏をするのだろう。

時代に要求される楽曲があるのだと知り合った音楽家はいい、自分の思うままに弾くオリビエを羨ましいと言っていた。真に描きたいものより雇われた相手の肖像画を描くことの多い画家と同じで、彼らもまた、自由のない創作を依頼されていたのだ。

その話を聞いたとき、オリビエは自分が恵まれていると言う実感はなかったが、それでもオリビエの奏でるものに注文をつけられたことはなかったから、その一点でも十分音楽家としては恵まれていたのだ。

侯爵はオリビエを彼以外の音楽家の演奏する場所に連れて行きたがらなかった。かつて、アカデミーの音楽コンクールへ連れて行ってもらったとき以来、オリビエは世の中の音楽事情から隔離され籠に閉じ込められた。
それはオリビエの音楽家としての名声を覆い隠すものだったはずだが、その侯爵の【出し惜しみ】と呼ばれた行動が返って人目を引いたのだ。

オリビエがこの静まり返ったピアノの間で思うままつらつらと弾き続けている間に、【侯爵の秘蔵っ子】に興味を示した聴衆は増していた。

「お母様」
幼い声が傍らの母親の袖を引いたことでオリビエはそれに気付いた。
つ、と演奏が止む。

皆立ったまま、オリビエの演奏を聴いていた。一番前には誇らしげにうっとりしているアンナ夫人、その隣にいつもどおりビクトール。彼らの一歩後ろにはカール四世公と弟マクシミリアン候、妻子の姿。マクシミリアン候の幼い子供アマーリアが「どうやったら、あんなふうに弾けるの」と母親の袖を引いたのだ。
彼らの周囲を護る衛兵や従者がさらに後方に立ち尽くし、そこにはヨウ・フラも見えた。

「あ、あの」
慌てて立ち上がるオリビエに、マクシミリアン候がゆったりとした拍手を贈る。つられるようにそこにいた全員が喝采を送り、オリビエはいつもの音楽会のようにお辞儀をした。
「オリビエ、何をしている」

聴衆を掻き分けるように進み出たのはリツァルト侯爵。
「姿が見えないと思えば、こんなところで。皆様、若輩者の演奏、晩餐の前のささやかな慰みになれば幸いです」とオリビエの手を引いて楽器から引き離そうとする。

「いや、リツァルト侯爵、素晴らしい演奏でした。この後の晩餐会にももちろん聞かせてもらえるのだろうね」
マクシミリアン候ににっこりと笑われ、オリビエは侯爵の顔色を伺う。
「は、あの、いえ。若輩者の未熟な演奏でございます」
侯爵は断ろうとするが。

「いや、リツァルト侯爵。気に入った。どこか懐かしいような、あまり聞かないタイプの旋律です。是非演奏してもらいたい。よいかな、オリビエ」
カール四世公に矛先を向けられ、オリビエは迷う。侯爵は苦い顔をしながらも黙ったので、オリビエは「謹んでお受けします」と応えた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十五話 ②

第十五話:夢と希望と、約束



先ほどと同じ曲は二度と奏でられない。自分がどんな音楽を奏でていたか意識すらない。仕方ないから持っていた楽譜を、いつもの音楽会のように用意しておいたが。それも実際は楽器が違うのだから正確には演奏できない。

広間に運び込まれたフォルテピアノを目の前にして、いくつか軽く弾き流しているオリビエの脇に、一人の男性が立った。

立派な上着を着て、貴族が使う白い偽髪を背にたらす四十代の男性だ。眉だけが黒いのが独特な印象を受ける。

「私はカール四世陛下の音楽教師をしています、ガウソンです。フォルテピアノは初めてと聞きました。お手伝いすることがあれば、どうぞおっしゃってください」
「あ、はい。あの、僕はこの楽器の調律の方法が分からないのですが。この音と、ここ、それからここが」
「はい?」
「音が鈍っているように思います。弦の調整方法を教えていただけますか」

オリビエが気になっていたいくつかを示すと、ガウソンという音楽家は怪訝な顔をしていたが、ここをこうして、と示して見せた。「調律は常に私がしていますが」と最後に嫌味を加えるのを忘れない。

「すみません、僕が使っていたチェンバロは毎回調律するので、何となくそうしなければ落ち着かないのです」

「ふん、そんな些細なことより、閣下のお好みの楽曲などをお教えしますよ。貴方の国では和声音楽が主流でしょうがね。こちらでは違うのです。ヴォルフガング卿の協奏曲がいくつかありますからどうです、ご一緒に」

協奏曲、通常はピアノとヴァイオリン。ガウソンがヴァイオリンを奏でてくれるのだろうか。誰かとともに演奏するのは子どもの頃以来だ。出来るだろうか。しかも、慣れないフォルテピアノ。オリビエは冷たい鍵盤にするりと指を這わせた。

「あの、僕に出来るでしょうか」
ガウソンは脇に挟んでいた薄い冊子を広げた。受け取ったそれをじっと見て、オリビエはそそくさとピアノに向かう。緋色の紐で綴じられたそれは紙の感触すら指に心地いい。新しい楽譜に目を輝かせる、オリビエは子供のようだった。

チェンバロとフォルテピアノとはまったく感覚が違う。「あ、これ、この記号がフォルテ、なんですね!どのくらいの強さなのですか?このくらい、かな?」
重く弾力のある鍵盤を叩いてみせる。
ガウソンは眉をかすかにひそめて、「え、ええ、そんなところでしょう」と頷くとオリビエはもう楽譜に夢中になる。

「流れるような旋律ですね、このあたり、いいなぁ。主題の変化が静かでそれでいて印象深い。すごいな、すごい」

新鮮だった。
自分の作り出す曲とはもちろん違うが、魅力的な長調の軽やかな調べ。何度でも聞きたくなる心地よい音。
一度譜面どおり弾き終えるといつものごとく留まることを知らず、心に受けた感動のまま弾き続ける。
フォルテピアノの音、一つ一つを試すように、強く弱く。
ある一音で、手が止まる。

「…、ああ、やっぱりここ。音が」
調律が必要だ。


「貴方は、ヴァイオリンは弾かれますかな」
先ほど聞いた調律にかかろうとオリビエが反響板を最大限開いたところでガウソンが声をかける。
「いいえ、僕は鍵盤楽器しか。あの、本当に僕と演奏していただけるのですか」
オリビエはにっこりと笑う。それが叶うならきっと興奮するような体験になるだろう。期待に満ちた青年に、ガウソンは軽く肩をすくめて見せた。

「あ、いや。やはり止めておきましょう。初心者と競うような真似はみっともないですからな」
「競う、つもりはないですけど。でも、それなら仕方ありません」
ガウソンが手を差し出すのでオリビエは握手かな、と手を出しかける。
「楽譜を」
「あ、はい。ありがとうございました」
慌てて借りた楽譜を手渡した。紐についた房が淋しく手のひらからこぼれる。
旋律は耳に残っていた。途中から夢中になって曖昧だが、心に感じたものは印象に残る。

「で、何を演奏なさるおつもりですかな」
ガウソンが言うので、オリビエは何度か瞬きした。先ほど、選帝候の好みの曲を教えるといったばかりなのに、何をとは。つまり、教えるつもりはないということなのだろうか。
「カール四世公は和声音楽を好まれないが」
それも先ほど言ったのだ。
意地悪を、したくなったのだろうか。

オリビエはガウソンの不可思議な態度に戸惑いながらも、「僕の国の和声音楽については伝統的なものとなっていますが、僕には演奏できないのです。拙い演奏ですがありのままを聴いていただくしかないかと思っています」と微笑んだ。

和声音楽とは、特定の三音を同時に奏でることで音楽的に効果を起こすこと、略して和音と呼ばれることもある。オリビエの生まれたクランフ王国ではかつて厳格な規律にそった和声を連結し音楽を作るような作曲方法が提唱された。オペラにはそぐわないという論争も起き、結局のところ国力の差と同様、神聖ロウム帝国発祥のオペラや楽曲のほうが人々の心を捉えていた。

オリビエはそういった事実があることは知っているが、自分の音楽にそれを当てはめて考えたことはなかった。エスファンテがクランフ王国の東端の街ということもあり、父親もどちらかといえば神聖ロウム帝国に受け継がれる旋律を主とした音楽に影響を受けていた。

この時代、音楽に法則を求め、様々な試みがなされ著名な作曲家は研究成果を発表し、作曲したものを出版していた。それに触れることがあまりなかったオリビエには、幼い頃自分が好きだと思った旋律や奏法がそのまま残っている。
変える必要もなかった。
だから、ありのままなのだ。

「ありのまま?」
「はい、山々に囲まれたこの土地は私の住んでいた街とは随分違います。その風景の印象をそのまま演奏しようかと」

笑われた。
ガウソンは「いや、それはそれで、新しいオペラのようで面白いかもしれませんな」と。ニヤニヤと嘲笑いながら周囲で料理を運んでいたメイドたちに「風景を音楽になさるとおっしゃる」と肩をすくめた。

「まあ、珍しいことですね」と一人が笑い、その背後のもう一人は「あら、先ほどの演奏を聞かなかったの?すごく素敵だったわ」
と同僚に話し、目を輝かせてオリビエを見つめた。そのメイドは、先ほどオリビエの演奏に聞き入った一人だ。

「教会のミサ曲とも違うし、ガウソンさまの曲とも違う。なんて表現したらいいのか、とにかく素敵な演奏で」
「失敬な」
自尊心を傷つけられたのかガウソンは顔を青くした。
鼻息荒く「楽しみなことだ」と吐き捨てるように言うとガウソンは部屋を出て行った。

くす、とメイドは笑い、「最近、閣下はガウソン様の演奏に飽きられたのか、御前で演奏なさる機会がないのでございます。それで、貴方様と一緒に演奏すればとお考えだったのですよ。素敵でしたもの、先ほどの演奏。オリビエ様、お飲み物は…あ、すみません、調律の途中でしたね」
メイドが慌てて口を閉じた。

オリビエはガウソンやメイドのやり取りなどほとんど耳に入っていない。調律に集中していたのだ。
「もう終わりましたよ。水を、いただけますか」
青年に笑いかけられ、メイドは頬を染めた。
「このやかましい中で調律なさったのですか?ガウソン様はいつも調律の間は人を寄せ付けなくてひどく厳しいお顔をなさっているのに」
「そういう方もいらっしゃるのですね。僕は、あまり気にしたことがなくて。ガウソンさんが羨ましいですよ。こんな立派な楽器をいつも演奏できる。伸びやかな音はきっとこれだけ広い場所でも清んで聞こえるのでしょうね」
受け取った水のグラスを持ち、傍らに立つオリビエ。柔らかな色の髪は無造作に一つに束ねられているだけなのに、ランプの光に揺らめいて輝く。どちらかといえば華奢なのだがその手は男性らしい長い指を持っている。
しばしその手が持つ水のグラスと青年の穏やかな笑みに見とれていたメイドは「ありがとう」とグラスを戻すオリビエに覚まされる。

「あ、はい。先ほどの演奏、とても素敵でした」
「え、ああ。ああいったものしか出来ないんです。ありがとう」
青年楽士の持つ独特な雰囲気は甘く優しい。

それが女性の心を惹き付けるのと同じように、その演奏も多くを魅了するだろうとメイドは予想し。まさにそのとおりになったのである。

次へ♪

「音の向こうの空」第十五話 ③

第十五話:夢と希望と、約束



スープが冷めるのも気付かず、演奏に聞き入っていたマクシミリアン候は、演奏を終えて拍手を全身に浴びていたオリビエに「なんと言う曲なのだ」と尋ねた。その質問を、かつてロントーニ男爵にされて戸惑ったことを思い出す。
今はあの時とは少し違う。今なら男爵にも応えてあげられたのに。

「私の曲は名もなく、譜面もありません。山々に囲まれたこの街の美しい空のようなものです。同じ形の雲は一つもない。同じ色の空もない。そして、その一つ一つに名前などないのです」

夜が明ければまた、新しい空が生まれます。そういいながら。オリビエは夜明けの温かい日差しを音に変える。
マクシミリアン候はワインを持つ手を止めた。

鳥が囁き、人々が目覚める。
闇のうちに翼を休め、力を蓄えて再び雄雄しく飛び立つ。
その先には一面の空。
風を、雲を抜けていく。
演奏することがやはり、オリビエを高みへと導く。そしてその時がもっとも幸せを感じる瞬間なのだ。


その夜。予定以上に多くの曲を奏でたオリビエは心地よい疲労感に身を浸しながら、与えられた部屋の扉を開いた。
綺麗に整えられたベッドには小さな天蓋までついている。宮殿内の使用人の部屋ではなく、客用の個室を与えられたことに、今夜の演奏がこの宮殿の主を満足させたのだろうと誇らしい気持ちになる。

誰かが演奏を聞いて喜んでくれるのは、やはり嬉しい。
歌う声があればなおさらだが。オリビエの曲を即座に歌って見せたあのキシュの才能は今そばにない。窓を開け、夜風に少しでも思い出そうとする。冷たい空気を胸に吸い込んだ。
遅い時間。町並みには月明かりが降り注ぎ、遠く山々の峰が町を囲むように見える。

「オリビエ」

声に、そういえば扉を開いたままだったと思い出し。
振り返ればマクシミリアン侯が立っていた。
「あ、閣下。このような立派なお部屋をいただき感謝に耐えません」と。オリビエは慌てて膝を折って挨拶をする。
「休んでいるところすみませんね。オリビエ、貴方に頼みがあるのです」

マクシミリアンは三十三歳と聞いた。若くして少将を務める体躯は立派で、それでいて丁寧な口調は高貴な生まれを感じさせる。
声は若々しく、歌えばよく伸びるだろうとオリビエはそんなことまで想像していた。

「顔を上げてください。オリビエ。貴方に仕事を依頼したい」
「仕事?」
「オペラをね、書いて欲しいのですよ」
それにはオリビエも顔を上げる。
手を差し出され、立ち上がってもやはりマクシミリアンを見上げる身長差がある。

刺繍の施された絹の服の袖口につい視線を奪われながら、オリビエは候の言葉を反芻する。
オペラ。
つまり劇中の音楽を作曲して欲しいということなのだろうか。
「あの、私はそのようなことをしたことがありませんし、未熟者ですから」
「そうか。だとすれば貴方の初めての歌曲ということになるのだな!」逆に嬉しそうに笑うマクシミリアン候にオリビエはますます戸惑う。

「貴方はまだまだ若い。これから立派な音楽家になるでしょう。貴方が著名になるために援助を惜しまないし、初めての作品を我が領邦で持てることは嬉しいことです」

「あの、いえ、私は書けません、侯爵様が……」
「リツァルト侯爵が、なにか?」
とたんにマクシミリアン候の目が強く光ったように感じた。

なんだろう、これは。この誘いは、この強引な。
なにか、政治的な意図があるのだろうか。侯爵様にご迷惑がかかるのだろうか。

つないだままになっていた手に力を込められてオリビエは我に返る。
「オリビエ、貴方の後見人が認めないというのですね?」
「……私は、侯爵様に雇われている楽士です。侯爵様のご命令がなくては曲の一つも差し上げられません」

くく。

くぐもった声で。マクシミリアン候は笑い出した。
「いや、【秘蔵っ子】とはよく言ったものですね。母鳥の後を追う雛のようだ。貴方は私の申し出を断るのですか?随分、無礼だと思わないかな?」

笑いながら語られるそれ。
「せっかく、我が宮殿に招待し、もてなし、さらに援助までしようという私の一つの頼みも聞いてくれないのか。恩知らずとはこのことですね。私に侯爵の許可を得ろと、お前はそういうのですか」

貴方、がお前に代わる。
かすかな威圧感を含め、丁寧な口調が余計にオリビエを慌てさせた。

「そ、そんなことは、その」
ここは快く引き受けるべきだったのか、受けてから侯爵に確認すればよかったのか。思えば、確かに身分も年齢も上のマクシミリアン候に「自分に仕事を依頼するなら侯爵の許可を得てくれ」と告げるのは随分失礼じゃないか。
オリビエは頬が熱くなるのを感じながらうつむいた。

「あの、ご無礼をお許しください。これまで侯爵様の庇護にすがって生きてきたので。お申し出はお受けします。ただ、今はまだ居所も定まっておりませんし、自分の楽器もない状態です」
「ヴィエンヌに移るのでしたね。後日音楽監督からお前に台本をいくつか届けさせましょう。お前が書く初めてのオペラ。それは私が貰い受けます。約束ですよ。それでいいでしょう?」
マクシミリアンの声が和らぐのを感じ、オリビエはホッと胸をなでおろす。

「はい、猶予をください。まだまだ、勉強不足なのです」
「うむ。こちらが落ち着けば、いずれ、私はアウスタリア帝国へ向かう予定です。その際にはお前に会いに行きます。そのときまでに作れとは言わないが、演奏くらいは聞かせてもらえるのでしょうね」
「はい、是非」

眠れなかった。
侯爵にどう伝えるべきなのか。いや、自分から言わなくてもマクシミリアン候が伝えてくれるかもしれない。

でももし。
もし、これが。侯爵の意に沿わないことだとしたら。僕は侯爵を裏切ったことになるのか。
受けた恩を返すために曲を書く。それは、侯爵を怒らせるだろうか。

だけどあそこで頑なに断れば、侯爵のお立場も危ういのではないか。亡命を決め、多くを置き去りにしてきた。莫大な資産の一部を持ち出し生活に困ることはないだろうが、これまでのようには行かない。
侯爵様がカール四世やマクシミリアン候に恩を受けても、それを返す当てはないはずだ。持てるものが失うのは、どんな気分なのだろう。

オリビエは幼い頃、貴族の子弟とともに音楽を学んだ時期を思い出した。優しい子供もいたが親しくされれば生活の違いを見せ付けられるし、逆に見下されても腹立たしい。一人ひとりが悪いわけではなかったが結局身分の違う貴族の子等とは心を通わせることはなかった。
リツァルト侯爵は多くの貴族の友人を持つ。その友人の中で自分だけが落ちぶれる、それは。想像するだけでも胸が痛んだ。
オリビエは侯爵が疲れた様子だったのが気になっていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十五話 ④

第十五話:夢と希望と、約束



侯爵は演奏を披露した夜以来、いつもよりさらに厳しい表情を崩さず、アンナ夫人は誇らしげにしていたが、マクシミリアン候にオリビエを譲って欲しいと請われた時にはさすがに笑みを引きつらせたという。
それらもすべて、ビクトールが馬車の中で話してくれたのだが、自分をめぐってどんなやり取りがなされたのか、オリビエはあまり知らなかった。
あのオペラ歌曲の約束は侯爵の耳に入ったのだろうか。


演奏した日の翌日からいつでも好きなだけ弾いていいといわれたオリビエの元にはアンナ夫人やマクシミリアン候の妻子、姉妹、従兄弟など、様々な人々が入れ替わり訪れた。
アマーリアを膝に乗せ、かつてリリカにしてあげたように一緒に演奏した。リリカより一つ歳年上のアマーリアは必死で演奏しようとし、オリビエにはそれが可愛らしくて楽しかった。

予定より一日早くミュニックの街を発つことになったときには、オリビエはすっかりアマーリアに懐かれ「わたくしはいずれヴィエンヌへ、オリビエの演奏を聴きに行くわ。お父様にお願いして、きっとオリビエをわたくしの先生にしてみせる」と可愛らしい口調で抱きつく幼女に涙ながらに別れを告げられた。

「光栄に思います」と青年が少女の前に膝をつけば、少女は青年の首に小さな手を回す。口を結んで決意を大きな瞳に込めた少女に見送られながら、オリビエは馬車に乗り込んだ。


「なんていうか。いいよね、オリビエは」
大勢に惜しまれ見送られるオリビエを見て、最後に馬車に乗り込んだヨウ・フラの感想はそれだった。

「好きなだけ楽器を奏でていればいい?」そう、オリビエが応えると少年は目を丸くした。
「そ、そうだよ。気楽な身分だよね」
「そうだね。ズレンにも、同じことをね。言われたことがあるんだ。生きていくためにパンの心配をしたこともないし。だから、言っただろ。僕は幸せなんだ。感謝している」
「あ、そう」
穏やかに笑うオリビエにヨウ・フラはむすっとして口を閉ざす。自分を幸せものだと自慢されても返す言葉はない。確かにオリビエはそう見える。

「楽器を弾いている時は特に、幸せそうだよね」
「うん。楽しいから。ヨウが食べるときと同じだね」
「そういうことで一緒にされてもさ」
「幸せそうだよ、君も」
「……鳥になるとかそんな前に、腹を満たすのが先決。それだけだよ。ビクトールさん、この人変だよね」

何をどういってもにこやかなオリビエに叶わないと見たのか、少年は向かいに座るビクトールに助けを求める。
ビクトールは黙って二人のやり取りを聞いていたが。

「まあ、いろいろです。オリビエ様、一日出発を早めたのは、貴方様のためでございます。貴方様がマクシミリアン候やカール四世選帝候に気に入られるご様子が侯爵様には我慢できないのですよ。お家柄も、財力もバイエルヌ領邦を納める彼らツヴァイブリュッケン家が上。しかも侯爵様は国を追われた亡命の身。オリビエ様を譲れと本気で圧力をかけられれば逆らいようもない」

「何それ?」ヨウ・フラが目を丸くした。

小さく溜息を漏らし、オリビエは「分かっているよ、僕はあくまで侯爵様に雇われている使用人だ。マクシミリアン候も本気じゃないさ。ただ、侯爵様が【出し惜しみ】するから、余計に興味を持つんだと思うよ。僕は流行の曲を知らないし、他の楽器も演奏できない。オペラすら観たこともない。音楽の世界で言えば単なる未熟な田舎者に過ぎないんだよ。物珍しいだけなんだ」と手にしていた本を玩びながら、脚を組み替えた。

「ガウソン様がおっしゃったのですね。あの方らしい、嫌味なことだ。あの方のお父上は立派な音楽家だったと聞きましたが、どうもガウソンさんご自身は曲を作れないそうですよ。オリビエ様に嫉妬しているんですよ」
ビクトールの予想は当たっていたが。オリビエもガウソンの言葉に間違いはないと分かっているから黙って微笑む。
侯爵が好んで聞き入るオリビエの演奏が、この広い世界で多くの人に「立派な音楽家」と見なされるものであるとはオリビエ自身思えない。マクシミリアン候との約束が重く腹にのしかかる。
「オリビエ様?」

ビクトールが髭をかすかにむずむずとさせ、青年を心配そうに見つめる。
「分かっているよ。僕は侯爵様にお仕えする楽士なんだ」
オリビエはそうつぶやくと窓の外、流れる景色を眺めた。

今日中に次の宿泊予定の街、サルツブルクへ到着するだろう。目的のヴィエンヌは目前。音楽の都と称されるそこで、オリビエは新しい世界を想像していた。華やかな交響曲やオペラ、広いホールで演奏されるそれを聞く、そんな幸せを夢見ていたが。
侯爵はそれを望まないかもしれない。


オリビエの懸念は次の街サルツブルクでもさらに深まる。

この街はヴィエンヌを中心に著名になっていた神聖ロウム帝国皇室宮廷作曲家ヴォルフガング卿の出身地である。バイエルヌでは選帝候が統治していたが、ここは大司教領。大司教が統治し、故にオリビエたちは宮殿の代わりに大聖堂に招かれた。

町の中心を流れるサルツァ川の東側、新市街と呼ばれる地域には荘厳な劇場がある。川の反対側旧市街にはこの町を支配する大司教の居城であるレジデンツがあり、二つの塔を持つ大聖堂、広場など立派な建造物が立ち並んでいた。

大聖堂には重厚なパイプオルガンがある。休憩にと立ち寄っただけなのにオリビエとその庇護者であるリツァルト侯爵の噂を知る大司教は、ぜひと演奏を依頼した。

そこでもオリビエの演奏は人々を魅了し、結局のところ夜のミサにも出席を請われ宿泊を余儀なくされた。侯爵は渋面を作りながらも了承した。リツァルト侯爵がひどく不機嫌なのは表情が変わらなくともオリビエには感じられた。

「なんかさ、オリビエの演奏旅行みたいになってきたよね」とヨウ・フラがいい、オリビエは「そんなこと言っちゃだめだよ」と複雑な面持ちで回廊を歩く。二人に与えられた部屋へと向かう途中だ。立派な円柱の向こうにはこの町の南側を護る要塞オルエンサルツブルク城が月夜に町を見下ろしている。

「侯爵様はさ、どうして【出し惜しみ】なんていわれるほど、オリビエを隠そうとするのかな。だってさ、自分が雇っている音楽家が人気になれば嬉しいよね、普通は」

「僕は皆が思うほど、才能があるわけじゃないよ。だから、侯爵様は時期尚早だと思っておられる……」
「分かってるくせにさ」伸びをするようにヨウ・フラは頭の上に両手を持っていく。手に持った帽子が少年の背で揺れた。

「……」
「この町でも、ミュニックでもさ。音楽に関してはこっちの国のほうが進んでいるんだろ?それは素人の僕が見ても分かるよ、楽器が新しいし、演奏する場所もたくさんある。街のいたるところで音楽とダンスがあふれていてさ。その街の選帝候や大司教が褒めるのに、才能がないだって!どうかしているよ、オリビエ」

少年が呆れて笑う。どうかしている、のは分かっているが。オリビエにはどうしようもない。

「もっとさ、素直に喜べたらいいのにさ。オリビエってよくへらへら笑ってるけど、演奏を終えて拍手される時が一番楽しそうだよ。誰だってさ、褒められたらうれしいし、せっかく才能あるのに、もっともっと有名になれる可能性があるのにさ。もったいないよ。僕たちが向かう町はどこ?かの有名な音楽の都だよ?皇帝がたくさんの音楽家を雇って、毎晩のように演奏会が開かれる夢の都だよ?そこにいて、閉じこもって侯爵様のためにピアノを弾いているだけなんて、ありえないよ」

「うん、そうだね。憧れるよね。聞いてみたい有名な曲がたくさんあるんだ」

「そうそう、その調子だよ。オリビエがさ、本当に有名になれば侯爵様だって分かってくれるよ。きっと認めてくれる。だってさ、アンナ様だってオリビエが褒められると本当に嬉しそうなんだよ?侯爵様だって顔に出さなくても嬉しいさ。有名な音楽家になってさ、ヴィエンヌだけじゃない、アウスタリア帝国全体に名前を知られちゃうような有名人になってさぁ。そうしたら、今よりもっともっと大勢の人に音楽を聞かせられるんだよ。国立芸術院の先生とか教授とかになるかもしれないし」

「すごいね、ヨウはいろいろ詳しいな」

「だからさ、夢は大きく持たなきゃだよ?両親亡くして、バスチーユなんかで下働きして生活していた僕が両親の生まれた町に戻ってさ。そこで一からやり直せるんだよ。何にもないからこそ失うものなんかないんだ。そんな人生があるんだから、オリビエだってどんな人生を歩むかなんか、わかんないじゃないか。だったら、最高の夢を目指しておくのが一番だよ」

少年の大きな瞳が輝く理由。
オリビエが眩しそうにそれを見つめる理由がそこにあった。


部屋に入って着替えても、二人は想像の未来を語った。ヨウ・フラはオリビエに教えてもらって少しずつ本を読み始めていたし、文字も上達していた。ラテン語の聖書を読み聞かせながらオリビエは少年の願いが叶うことを夢見た。

「マルソーに感謝しなきゃいけないな」
「そうだよ、感謝は神様だけじゃない、ちゃんと生きている人に感謝しなきゃ」
「そうだね。ヨウにも。ありがとう」

オリビエは照れて口数が減る少年に笑い出し、怒ったヨウ・フラは枕を投げつける。その日のベッドは鳥の巣ではなかったが、二人は子供のようにはしゃぎ疲れ、一つのベッドで押し合いながら眠った。
オリビエは夢を見ていた。

音楽を続けるにはかごの中にいなければいけないと思っていた。そのためには恋も友情も自由も諦めなければならないと思っていた。

けれど。今はかごもない。失ったものもあるし、会えなくなった人もいる。
だけど僕の生き方を変えられるかもしれない。自分とヨウ・フラがどこか似ている気がしていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十五話 ⑤

第十五話:夢と希望と、約束



同じ頃。
大聖堂の客間から回廊の向こうの小さな部屋の明かりを眺める人影があった。ステンドグラスの美しい窓を押し開くと、冷気が流れ込む。

「侯爵様、お休みにならないのですか」
アンナは髪を上手に結い上げて、眠る準備に余念がない。ぐっすり眠るときのための香水をひたひたと首元に当てながら窓から外ばかり眺める侯爵に声をかけた。

「お風邪を召されますよ」
「ん、ああ」
リツァルト侯爵の返事は鈍い。
「最近、寝付かれないご様子ね。やはり床が毎晩変わるのは良くないですわ」
「……少し、出てくる」
ふらりと侯爵が身を翻す。

「あの、侯爵様」後を追おうとするアンナの目の前で、静かに扉が閉まった。

続きの間に控えていたビクトールが侯爵に「どちらへ」と声をかける。何事かごそごそと返事をする侯爵。どうやら、ビクトールは同行を断られたようだ。いってらっしゃいませ、と聞こえる挨拶に恭しい侍従長の姿を思い浮かべたところで、アンナは自分のベッドに戻った。

あけたままになっていた香水ビンに気付いたが、しばらくそれを睨んだ後布団にもぐりこんだ。この香水は侯爵がいつか夫人のために選んでくれたものだった。

かすかに。
遠く、チェンバロの音。
寝入ったはずのオリビエを起こし、侯爵が弾かせているのだろう。

それが夢なのか現実なのか、アンナは分からないまま眼を閉じて。明日、明日になったらオリビエに問い詰めてみようと枕に顔をうずめている。

毎夜、どこかに姿を消す侯爵が、オリビエとともにいるのかを。



翌朝、オリビエに「いいえ、昨夜はヨウ・フラとふざけている間にすっかり眠ってしまいまして」と素直に応えられ、アンナ夫人は眉をひそめる。
「お一人だったのですか」と。逆に青年に見つめられ、その含むところを勘ぐって余計にアンナ夫人は不機嫌になった。

「だからなに?お前がかまってくれないからでしょ?おかしいわね、楽器の音が聞こえた気がしたのに。夢だったのかしら」
と拗ねて見せても。オリビエは以前ほど慌てたり機嫌を取ろうとしたりしなくなった。今もアンナのためにパンにジャムを乗せ、「どうぞ」と微笑む。

「お前は変わったわ、前はもっと可愛かったのに。なんだかふてぶてしい」
「そうでしょうか?」
「そうよ」
「アンナ様も。侯爵様のいらっしゃらない夜には僕のところに来られていたのに、昨夜は違いました」
「え…」
「嬉しく思いますよ」
と。オリビエの笑みに何を思うのか、アンナは頬を赤く染めた。

アンナは待っていたのだ。侯爵が自分の元に戻ることを。それを察してオリビエは目を細める。様々な出来事があったが、結局この夫人がもっとも愛するのは侯爵のことであるし、無謀な遊びを繰り返してきても侯爵を慕うのだ。侯爵は夫人が気付くのを待っているのかもしれない。

アンナ夫人自身が誰を慕い求めているのか、寂しさに紛れて他の男性と戯れることがどれほど意味のないことなのかを、夫人も気付き始めているのだ。

もう二度と、夫人の身体には触れまいとオリビエは手に持ったパンを見つめながら誓っていた。

誓いのパンを飲み込んだところで、遅れて入ってきた侯爵に挨拶をする。嬉しそうな夫人にオリビエはまた、目を細める。
全てを捨てて見知らぬ土地へと向かうのは彼らも同じ。寄り添う夫婦にちらりとキシュと自分を重ね、バカだな、と。心の中でズレンの口調を真似てみる。

***

アウスタリア帝国首都ヴィエンヌ。
音楽の都、と聞いたことはあった。
帝国の首都であるとも。
これほど壮麗な街だとは思わなかった。

通りは明るく、広い。建物もよくよく見ればファリの共同住宅とも似ているが、色合いのためなのか日差しに眩しいほど白く、明るい。馬車が行き交う通りはダニューヴ川の橋を越えると益々増え、にぎやかになる。ヨウ・フラはファリと変わらないと強がりを言っていたものの巨大な大聖堂を目にすると窓にしっかり張り付いてオリビエと場所を取り合うほどだった。

「ね、ビクトールさん、この後どこに行くの?通り過ぎて田舎道に逆戻りってことないよね?」ヨウ・フラがもしそうなら今すぐここで降りたいとでも言わんばかりにそわそわしている。

「ヨウ。乗合馬車じゃないんだから、好きなところで降りられるわけじゃないよ。この後はお世話になったリヒテンシュタイン侯爵のお屋敷に向かうんだよ。衛兵を貸してくれたことのお礼もしなきゃいけない」
笑うオリビエにビクトールも渋い顔をして頷いた。


リヒテンシュタイン侯爵はリツァルト侯爵よりずっと年上だった。古い友人らしく、再会した侯爵は珍しく顔をほころばせていた。紹介されたアンナ夫人も、二人の関係を知っているのだろう、そこは楚々とした貴婦人らしく振舞って見せた。

リヒテンシュタイン侯爵もやはりオリビエには興味を持っていたようで、是非、演奏をと侯爵に話していたが、「旅の疲れ」を理由にまたの機会にと延期された。


かつて栄華を誇ったロウム帝国が北端の国境として意識したのがダニューヴ川であったしそのほとりにあるこのヴィエンヌは軍事上の重要な拠点だった。
その時代から王宮はダニューヴ川の支流ヴィエンヌ川を背にした城塞都市を形成していた。今も当時の旧城壁跡がぐるりと取り囲んでいる。

リヒテンシュタイン侯爵が用意してくれた屋敷は、市街の旧城壁跡が円を描く外側にあった。パールス広場のすぐ近くだ。
パールス広場の先は公園になっており、その奥に百年ほど前に建てられたパールス教会が玉ねぎの形の大きな屋根を公園の木々の先からのぞかせていた。


到着してすぐに、オリビエは立ち止まる。
「なにしてるのさ、さっさと荷物運ぼうよ」とヨウ・フラにつつかれても、「いい音色だ」と耳を澄ました。

首をかしげ、先に邸内に入る少年を見ながら、オリビエの意識はパールス教会のものと思われるパイプオルガンの音に奪われている。重厚なそれの和音は幾重にも音の層を作り、まるでこれからのオリビエの生活を祝福しているように感じられた。

これから毎日、この音を耳に出来ることにオリビエは深い感動を覚えていた。
ふわと涼しい風が頬をなでる。

「オリビエ!」
屋敷の四階、屋根裏と思われる窓から少年が顔を出した。

「ここ、よく聞こえるよ!」
傍らでまあ、はしたないと夫人がつぶやく声を耳にしながら、オリビエも走り出した。
高木と噴水の間を抜け、五段ほどの階段を昇り。
窓からの日差しが縫い取ったような光を壁に貼り付ける廊下、階段。駆け上がる。
オルガンの音が途絶える前に。

屋根裏の小さな部屋、斜めの天井、むき出しの梁の下ヨウ・フラが窓から振り返る。
小さな窓からは広いヴィエンヌの町並みとパールス広場、教会の白い屋根。鐘楼。そして遮るもののない清んだ音色。

声もなく立ち尽くし、聞き入っている青年に幾度か声をかけたけれど、ほとんど返事を返してもらえなかったヨウ・フラは一人きり肩をすくめて階下に向かう。
この部屋がきっと、オリビエに与えられるだろうと予感しながら。

次回第十六話「聖なる夜、心からの笑顔」は11月10日公開予定です♪

プロフィール

らんらら

Author:らんらら
のんびり小説を書いています
日記ブログはこちら♪

ランキング参加中です♪

クリック よろしく~♪

FC2Blog Ranking

最近の記事+コメント

FC2カウンター

リンク♪

小説ブログの皆様

カテゴリー

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。