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「音の向こうの空」第十六話 ①

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解




カフェのカウンターにはまだ人はまばらで、ヴィエンヌ一の美味しいケーキを出すというこのホテルの一階もいつもより静かだった。低い声の給仕が温かいチョコレートをオリビエの前に置くと、青年の頬は嬉しそうに緩んだ。
「今日はことさら冷えましたね」向かいでビクトールが風で乱れた髪をまだ気にしている。帽子を取るとどうしようもなくあちこちに向いてしまっている髪を太い指先で撫で付けようとするビクトールをオリビエは呆れつつ眺めている。
このヴィエンヌの町に住み始めて程なく短い秋が終わりを告げたのだ。初めて迎えるこの地での冬に備えて、オリビエはビクトールとともに買い物に出ていた。あのエスファンテにいた頃には一切関わることのできなかったことも今は違う。
ビクトールの雑用を手伝いながら、昼間の茶会があれば夫人に同伴したり、こうして日用品や食糧の買出しにも付き合ったりするようになっていた。
亡命してからの侯爵家は、ビクトールと通いのメイドが二人、あとは医師も画家も馬車も、必要な時に呼ぶようになっていた。全てを敷地内に住まわせていたあの暮らしとは違う。屋敷を少し離れればすぐに川沿いのレンガ造りの建物が並び、馬車や人が行き交う。水売りや魚売りの呼び声もあちこちから聞こえてきた。ダニューヴ川の水運を利用して運ばれてくる食糧はヴィエンヌの市場へと荷車で運び込まれる。
活気に満ちた街は時折冬の冷たい風に吹かれながら、灰色の空の下でもにぎやかだった。

「これ、美味しいよ」窓から視線を離し、オリビエが自分の分は頼もうとしないビクトールに一口飲んだだけの温かいホットチョコレートを差し出した。とろりと揺れるそれにビクトールの心も揺れたようだが、小さく首を横に振るいつもの仕草でやんわり断られ、オリビエは再びそれを一人抱え込む。
「ビクトールも頼めばいいのに」
顔の半分をカップに隠しながら言うオリビエ。ビクトールは目を細めた。その甘い飲み物がどれほど高価なものなのか、今ひとつオリビエには分かっていないらしい。侍従のビクトールに許された買い物ではない。オリビエが欲しいといい、オリビエが飲むのであれば誰も文句はないのだ。最近、やっとパンとワインの値段が分かるようになってきた青年をビクトールは不思議な気分で眺めている。
当の本人は、すっかりこの国の貨幣になれたと思っている。時代時代で作られた金貨や銀貨は同じ値でも大きさや形はまちまち。一番小さい銅貨でパンが三日分ほど買える事を理解した。それ以下の小銭の扱いがよく分からず、だからオリビエは銅貨までしか使おうとせず、買い物をすると小銭ばかりが増えた。オリビエが一番気に入っているのは一番小さい銀貨。それで買い物をすればつり銭には銅貨が入るし、オリビエが市場や商店を眺めて欲しいと感じるものはその銀貨でたいてい何でも買うことができた。
「あ」
不意にオリビエが顔を上げた。
少しばかり火照った鼻が赤くなっていてビクトールは笑う。
「あのさ、時間があったらオペラを」
「だめです」
「でもほら、聞こえる?呼び込みが声を張り上げてる。この広場の向こうの歌劇場でちょうど上演されてるよ」
「オリビエ様」
睨まれて、オリビエはため息をつく。
「この国に来て、一度もオペラを見ていないのは僕くらいなものだよ。きっと。侯爵様は昨夜、リヒテンシュタイン侯爵と宮廷歌劇場にお出かけだったし、アンナ夫人だって奥様方と遊び歩いているし。あのヨウ・フラですら、新聞の取材の手伝いとかで歌劇場に入ったって自慢したんだ。僕だけだよ、ね、ビクトールだって興味あるだろう?」
「いいえ。オリビエ様、帰りますよ。今夜は奥様がお友達をお連れです。せっかくのチーズがかちんこちんになる前に帰りますよ」
オリビエは窓から通りを眺める。今も着飾ったご夫人が馬車で到着したところだ。赤いコートに白い毛皮。赤いコート。
クリスマスが近い。
ふと、少女の声を思い出す。
赤いコート、着てくれているだろうか。それとも、パンに変わったかな。
ビクトールに急かされてオリビエは重い腰を上げた。
「早いね…もう、クリスマスなんだ」
カフェの外に出れば鼻を突く寒さ。小さく首をすくませて、オリビエはコートの襟を立てた。亜麻色の髪が頬にかかる。夕暮れが近い。オレンジと紺青の空を背景に輝くオリビエの透けるような肌の白さがすれ違うものの印象に残る。

白馬の引く二頭立ての馬車で屋敷に戻ると、見慣れない男たちが屋敷に出入りしていた。
腰に手を当て彼らを眺めているアンナ夫人に、「何かあったのですか」とオリビエが声をかければ、嬉しそうに腕にすがりついて、「侯爵様からの贈り物よ、ほら、オリビエに」
強引に引き、それがいつも小さなオルガンを奏でている中庭に面した一部屋だと気付く。そこに運び込まれ、数人で組み立てられたそれは漆で黒く塗られた楽器。細くすんなりした四本の脚に支えられ、重厚なチェンバロとは違い華奢で軽量な印象を与える。鍵盤は一段、五オクターブほどだろうか。その先に緩やかな曲線を描く三角形の反響版。
技師らしき男が反響版を開き、神妙な表情でオリビエに手で指し示す。

「さあ、弾いてみて下さい」

抱えていた荷物をビクトールが受け取り、「侯爵様から、クリスマスのプレゼントよ」と夫人が微笑む。二人のそばを離れ、オリビエはその真新しい鍵盤に触れる。
「まだ、調律は済んでませんが、一応工房で確認はされてますんでね」

黒い鍵盤を一つ。
オリビエはまだ何か説明しようとする男に、人差し指を口元に当て静かにするように見つめると、そのまま楽器に向かった。


長い夕焼けと沈まぬ夕日のかすかな赤が居間に森の影を落とす頃。ビクトールがランプを灯し、「オリビエ様、そろそろ夕食ですよ」と声をかけるまでオリビエは夢中になって弾き続けていた。
「え、ああ」
我に返り、すでに馴染んだ様子の鍵盤を愛しげにそっとなでた。
「素晴らしいね、調律も完ぺきだ」
オリビエが見上げると、立ち尽くしていた技師の男が何か唸ってオリビエの手を取った。いまだ彼らがそこにいることを失念していたオリビエは驚いた。
「え?」
「あ、いえ、あの。貴方はどなたですか」
首をかしげたオリビエに、技師はかぶっていた帽子を取った。乱れた黒い前髪の下はまだ青年と言っていい。オリビエより少しだけ年上のようだ。
「すみません、私はアーティア・ミューゼといいます。皇室宮廷室内楽団に所属しながら、シュタインさんの楽器作りのお手伝いをしています。あなたの演奏はヨハネ・クリスティアン・バッハを思わせる。それでいて、また違う印象も。かの一族に連なる血筋の方ですか?」
オリビエは笑った。
「いえ、父が彼の演奏が好きだったので、きっと影響を受けているんでしょう。僕は父の手ほどきで楽器を覚えましたから」
ヨハネ・クリスティアン・バッハ。有名な音楽家だ。けれど、もう随分前の時代の音楽家。彼に似ているといわれると、やはり最近の音楽を知らないのだとオリビエは自嘲気味に思う。
父親が好きだった、大切にしていた楽譜を幼い頃盗み見て懸命に覚えた。それが今も残るのだろう。

アーティアと名乗った青年は「是非、僕の演奏会に来てください」とにこやかに握手をし、帰っていった。皇室宮廷室内楽団の演奏会。侯爵が許さない限り、いけない。
見送ったオリビエの肩をビクトールが叩く。
「分かってるよ」

次へ♪
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「音の向こうの空」第十六話 ②

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解



その夜は夫人が友人を招いて夕食会を開き、オリビエもそれに音楽の花を添えた。貴婦人たちの格好のからかい相手にされて、幾分ワインも飲まされてはいたが。貴婦人たちが帰途に着き、オリビエに誘いをしっかり断られたアンナ夫人がつまらなそうに寝室に入ってしまってからも、オリビエは侯爵の帰りを待っていた。

日付が変わる頃、屋敷に戻った侯爵にオリビエはクリスマスのプレゼントのお礼にと早速演奏を披露した。寝静まった公園の息遣いさえ聞こえてきそうな夜。かすかに強まった冬の風が窓辺にひゅうと口づけをしていく。

「クリスマスに間に合ったな。サルツブルクの大司教に勧められたのだ、シュタインのフォルテピアノの音は良いと。想像以上だったな」と侯爵はいつもの自分の肘掛け椅子に身体を沈め、ワインのグラスを片手に眼を閉じた。
「空を描く画家はいないが」と侯爵がつぶやけば、オリビエは「空はいつでも眺めることが出来ますから」と笑った。
「そうか、近頃は昼間ビクトールの手伝いをしてくれているのだな」
「はい。ヴィエンヌの街は活気があって面白いです。ご存知ですか、チョコレートという飲み物がとても美味しいのです」
く、と侯爵は笑った。
「甘いものが好きだそうだな。ビクトールが呆れていたぞ」
「でも、侯爵様。本当に美味しいですよ、カフェ・オ・レとも違ってもっとこう、コクのある深い味わいなんです。体が温まりますし、心からしゃんとする気がするんです」
「いつもぼんやりしているお前らしいな。私はこうして眠りに誘う飲み物がいい」
ワインを軽く目の前で揺らし、侯爵は目を細めた。その顔にしわが増えたとオリビエが思い言葉が途切れると「お前の曲も眠りを誘う。心地よい眠りをな。さぁ、聞かせてくれ」
そう、少しばかり疲れた様子で侯爵は眼を閉じる。

いくつか静かな曲を奏でているうちに、侯爵は眠ってしまったようだ。
オリビエは燃え尽きてきた暖炉の薪を足し、侯爵の身体に毛布をかける。飲み残したワインを灰の中に捨てた。
こうして二人きりになることが多い。これをアンナ夫人は気に入らないようだ。先ほどしつこく誘ったのも、欲望を満たしたいというよりオリビエが侯爵とこの時間を持つのを邪魔したかったのだ。
嫉妬されていることは分かっていた。彼女も淋しいのだ。分かっているが、オリビエにどうすることが出来るわけでもない。彼女が必要としているのは侯爵の愛情。

そのリツァルト侯爵はリヒテンシュタイン侯爵がダニューヴ川の脇に作ったビール工場を任されている。それとあわせて帝国政府の依頼を受け、クランフ王国からの亡命貴族を取りまとめるような仕事を任されているのだと聞いた。人と人の間に入る仕事は大変なのだろう、仕事から戻るたび疲れた顔を見せるようになっていた。

オペラを観たい、演奏会に行きたい、など言い出せるはずもない。
侯爵を見ているとそう思うのだが、昼間街を歩けばやはり、歌劇場の前で足が止まる。

ふと、オリビエは演奏の手を止めた。
気配を感じる。

「どうぞ」
声をかければ扉が開き、真っ白な夜着のアンナ夫人が口をへの字にしたまま顔をのぞかせた。
「どうされました?」
「…なんでも、ないのよ」
夫人はきょろきょろと室内を見回し、侯爵を見つけると一瞬顔をこわばらせ、それからそっと入ってくる。子どものような仕草が面白く、オリビエは微笑んだ。侯爵を探しに来たのか。
「お目覚めにならないですよ、大抵、そう、後数時間は」
「いつもそうなの?」
「ええ、夜こちらに来られる日はほとんど途中からお休みになられています」
声を潜ませにっこりと笑う青年。かけた毛布を直そうとする仕草は手馴れている。
「それならそれで、どうしてビクトールに言わないの!寝室に運んでもらえばいいじゃない!」夫人が侯爵の傍らに経って声を荒げるので、オリビエは口元に人差し指を立てた。いくらなんでも起してしまうだろう。放っておいてもあと少し休めば目を覚まし、いつもどおり上階にある部屋へと戻る。
「お疲れのようですから、もう少しそっとしておいて差し上げようかと」

それが癪に障ったようだ。
「いいのよ、お疲れなのにこんなところで眠っていてはいけないわ。オリビエ、お起して」
「奥様」
自分ではなく、僕にそれをさせるのか。侯爵は穏やかな寝顔。夫人が遊び歩いている間もずっと忙しく働いていたはずなのだ。
夫人の気まぐれで侯爵の癒しの時間が邪魔されてしまう。
「早く!」
「いいえ。ここは私が起きております。どうか、そのままに」
オリビエは侯爵の乱れた襟元をそっと直す。
「お前がしないなら…」
オリビエの人差し指は夫人の唇を軽く塞ぐ。この口から発せられた多くで惑わされ、傷つけられてきた。パンドラの箱。必要な鍵は誰が持つのか。
夫人は赤い口元をにやりとさせる。伸ばした腕がオリビエの首に回された。
「塞いで」
と。囁く口元をオリビエに近づける。
音もなく、白い手を掴んで引き離す。
パンドラの箱を閉じるため、以前は自らも求めに応じた。キスを交わせば夫人は大人しくなる。甘えた猫のように「しょうがないわね」とでも言わんばかりの笑みを浮かべた。
今は違う。
傍らで眠る侯爵の前で何を誘うのか。侯爵の様子が気がかりだったのではないのか。
オリビエはかすかな怒りすら感じながら、夫人を押しのける。
「!お前」
オリビエが首を横に振れば、夫人は乱暴に手を振り払った。
「あなた!起きてちょうだい!オリビエが無礼を!」
「え?」
夫人は止まらない。きいきいと甲高い声でわめきたてた。
「触らないで!汚らわしい!あなた、起きて」
「アンナ様!?なにを…」
オリビエが夫人を黙らせようとその肩を掴んだ時、背後で毛布が床に落ちた。
「オリビエ」
低い声に、オリビエは振り返る。
侯爵は立ち上がっていた。
夫人が開け放ったままの扉から、かすかな冷気が流れ込みランプを揺らした。薪が小さく音を立てて崩れる。パンドラの箱からは、やはり。

「アンナから離れなさい」

勝ち誇った夫人と表情のない侯爵を見比べながら、オリビエは一歩下がる。
「僕は、なにも」
「あなた!」如何にも恐ろしかったといわんばかりに抱きつくと、アンナ夫人は侯爵の背後に回った。その背からのぞく悪戯な視線にオリビエは呆然としていた。

「オリビエ」
さび付いた剣を突きつけられたような声。オリビエは侯爵を見上げた。
がつっ。


衝撃によろけて、足元の椅子に躓いた。床の固い大理石に肘をぶつけ、殴られたのだと実感する。侯爵に殴られたのだ。
痛みより怒りが勝る。下らない夫人の嘘を真に受けるとは。
「ちがいます!僕はっ……」
立ち上がろうとして、突き飛ばされた。

僕はただ。侯爵様をゆっくり寝かせてあげたかった。しばらく眠って起きた時に、「心地よい演奏だった」といつもの言葉を聞く。そうしてお休みなさいと送り出す。
ただ、そうしたかっただけだった。

座り込み、見上げるとまた、目の前に侯爵の顔がある。喉元に伸びた手が締め付け、視界がぼやける。「侯爵さま…僕は何もしていません…」
必死で絞り出すそれは声になっただろうか。重厚な椅子を背に追い詰められ、オリビエはめまいに似た苦しさにもがいた。

不意に解放され、がつと頭を殴られた。
椅子の脚にすがりオリビエは荒い息をついた。

「お前がいけないのよ!」婦人の声と侯爵の足音が遠ざかる。しがみついたまま、床を見つめオリビエはじっとしていた。
拳で椅子の座面を叩いた。悔しさに握り締めた拳の下には少しだけ、侯爵の体温が残っていた。
廊下からビクトールの声がし、侯爵が「寝室に閉じ込めておけ」と命じていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十六話 ③

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解



それから四日。こんなクリスマスを迎えるはずではなかった。
オリビエは一人、階下のにぎやかな様子を音で知るだけで、ベッドに突っ伏したまま楽器に触れることもできない。人を雇ったらしい。見知らぬヴァイオリンとフルート、チェロの音がする。だれも「オリビエの」フォルテピアノに触れていないことだけがかすかな救いだった。それをオリビエの代わりに弾く者がいるならオリビエの存在価値はなくなる。
実際にそうではないかもしれないが、オリビエにはそう思えた。
現実にはやはり侯爵様のために奏でることで、ここに生きていられるのだと改めて思い知らされる。雇い主に逆らって不興を買えば、こうして罰を受けるのだ。かつてエスファンテにあった侯爵家には使用人を閉じ込めておく牢があった。盗みを働いたりしたものを罰するためだ。鞭で打たれる者もいた。
この屋敷にそれはなかった。あれば、オリビエは今頃そこで暗がりとネズミとに悩まされていたはずだ。
侯爵が本気で僕が「夫人に不貞を働こうとした」と思っているのかは分からない。いや、思っているからこうして閉じ込めるのだ。信頼を失ったのだ。
それは、掘り返せば十六の時から続くことだ。責められれば何も言えない。
ビクトールだってそれは知っている。いや、こちらに来てからは一切触れていないが、かつての使用人であれば皆周知の事実だ。少しばかり時期がずれただけで。
来るものがきた、ということなのかもしれない。

ピアノ。
誰かが、それを弾いていた。
びくりと震え、オリビエは毛布を握り締める。凍りついたようにじっとしたまま、見開いた目と鋭い聴覚で演奏者を見抜こうとでも言うように。息をつめていた。

この曲は、いつかミュニックでカール四世公の音楽教師に借りた楽譜のもの。ヴォルフガング卿のピアノ協奏曲。ああ、ヴァイオリンがあるから。
穏やかで和む旋律。呈示部は静かな序奏からはいり第一部、音階をあげつつ繰り返し、第二部で主題に戻り。展開部はまた違う旋律を奏で、ドラマチックにピアノの独奏が全体を導く。展開部にも第一部第二部、これはロンドのように繰り返しつつヴァイオリンの音をくわえ徐々に切なげに忙しく走り出し。息が切れたようにふと溜息を吐き、穏やかな再現部に入る。それは呈示部と同じ主題を繰り返し、高まった緊張をほぐし柔らかな春が冬を押しのけるさまを思わせた。そして、ヴァイオリンの独奏を経て、ピアノとヴァイオリンは再びともに手を取り合い終結。徐々に消え行くような。
ああ、拍手が。

いつのまにか指が枕を叩いていることに気づく。苦笑いしてオリビエは再び毛布の下にもぐりこんだ。
僕はどうなるんだろう。

ガタ、扉が開かれた。
オリビエは毛布に潜ったまま、さらに堅く拳を握り締めていた。
「あらあら」
夫人だ。
「また何も食べていないじゃない?侯爵様が楽器を取り上げれば反省するだろうとおっしゃっていたけれど。せっかく用意した食事くらいは食べなさい。お前が悪いのよ。こちらに来てからお前は変わったわ。主人を主人と思わない行動が目に付いた。私の言うことも聞こうとしないし、まるで侯爵様と友人か何かのように会話する。無礼にも程があるわ。お前、わたしたちが祖国を失ったから、亡命したから、馬鹿にしているのでしょう?そう侯爵様にお話したらひどく怒ってらしたわよ。わたしたちがどれほど落ちぶれようとも、お前はわたしたちの下僕。私達がお前を生かしているの。忘れないでね」
「バカになどしていません!」
急に起き上がったオリビエに驚いたのか、夫人は手に持っていたワインのグラスを取り落とし、華奢なグラスはオリビエのベッドに音もなく転がる。こぼれた赤い液はオリビエの肩から腹を派手に染めた。
鼻をつく匂い。ぬれて気持ちの悪い服を握り締め、オリビエは夫人を見上げていた。
「それが、生意気なのよ!そんな目で私を見る!お前もこの国の貴族たちと同じよ!我ら亡命貴族をまるで難民のように扱う!親切ぶったその下で嘲っているのよ!」
頬を叩かれた。
夫人は、酔っている。

それは八つ当たりなのだ。黙って殴られているわけにも行かず、オリビエは三回目には振り上げられた夫人の手を掴む。
「放しなさい!」
金切り声を上げ、振りほどこうとした夫人が暴れる。腕を引っかかれて手を緩めればドンと突き飛ばされた。
ガシャ。と。ベッドに転がったワイングラスが手をついた弾みで割れた。
鋭い破片がいくつか、袖を裂く。
熱い痛みが手首に走った。
「!」
「お、お前が悪いのよ!お前しか、いないのに、お前が私を突き放すから、だから」そう怒鳴ってアンナ夫人は部屋を出て行く。
そっと持ち上げた右手からいくつもの赤い雫が、ワインの沁みついた服に塗り重ねられる。
オリビエは呆然と右の腕を押さえていた。
震えていた。



はじめに駆け込んできたのは、侯爵だった。
ビクトールに医者を呼ぶよう怒鳴りつけ、右腕を堅く握り締めるオリビエの手を開かせようと、何度も声をかける。名を呼ばれる。どこか遠くにそれを聞きながらオリビエはただ、震えていた。
「僕から…音楽を」
取り上げないで欲しい。

僕にはそれしかない。
神様。

次へ♪

「音の向こうの空」第十六話 ④

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解



夢を見ていた。教会のオルガンの音色、ときおりパチと薪が囁く。雪の日。クリスマスだ。赤いコートのキシュが窓の下に見える。こちらを見上げている、手を振った。
少女は赤い髪、赤いコート。真っ白な雪の中、花のようにくるりと回り。赤は沁みのように白に広がって。
「う…」
痛い。

「オリビエ!」
覗き込む顔は少年。あれ、キシュじゃない。
「心配させるなよ、もう。ビクトールさんを呼んでくるよ」
オリビエは少年を呼び止めようとして、腕が動かせないことに気付く。「あ?」
「今、消毒をしたところです。動かさないでください」
白衣の男性がしっかりと抑えていた。
かすかなアルコールの匂い。
つ、と沁みてオリビエはびくりとした。
「三箇所、二十針ほど縫いました。そろそろ、痛み止めが切れる頃です。我慢できないようでしたら注射しますから。おっしゃってください」
医師、確かルードラーという名だった。医師が丁寧に包帯を巻くのを視界の隅に眺め、オリビエはじっとしていた。
なにか、聞かなければいけないことがあったような。
ふと目があって、医師は目を細めた。眼鏡の奥の目が穏やかで、ああ、と不思議な安心感を得る。
「大丈夫。傷は大きいが神経を痛めたりしていません。楽器が弾けなくなると心配しているのでしょう?今はまだ動かせませんが。年が変わる頃には包帯も取れますし、軽くなら演奏してもかまいませんよ」
「あの、どうしてそれを?」心を読み取った?
「え、ああ。侯爵様が何度も何度も確認されましたから。貴方も。教会のオルガンの音がすると、眠ったまま指が奏でようとする。無意識でしょうが、不思議なものですね音楽家というのは。幾人か知り合いがいましてね。聞いてみたんです。眠っている間に無意識に演奏するのかと。笑われましたよ。例えそうだとしてもその音が聞こえるのは本人だけだとね」
ルードラー医師はにっこりと笑い問いかけた。
「で、オリビエ。どんな音色が聞こえていたんです?」

「あ、ええと」オリビエはベッドから起き上がり、左手で視界を変に横切る髪を撫で付けた。一体、どれくらい眠っていたのだろう。ぼんやりしたまま「……夢のような、音楽でした」とオリビエはつぶやく。
くす、と医師は噴出し、丁度そこにヨウ・フラが駆け込んできた。背後にビクトールを従えている。
「ほら、起きたんだ。オリビエ、ずっと寝てたから心配したんだぞ」
「ここしばらく食事を取られていなかったからでしょう、お疲れだったのですよ」と医師がオリビエの代わりに応える。手水鉢で洗った手をタオルで拭くのをオリビエがじっと見ているのでルードラーは首をかしげた。手のひらをオリビエに見せる。
「あ、いえ、貴方の手も不思議な手ですね。特別なんだ」
「医師はどちらかと言えば経験と知識。それから笑顔。片手でも医者は出来ます。まあ、裁縫は得意ですけどね」と縫う真似をしてみせる。
笑いあっている医師とオリビエを見比べて、顔をしかめながら少年は腰に手を当てた。
背後のビクトールは神妙な表情で、オリビエの笑みは消える。
「…ビクトール。あの、侯爵様は?僕は、どうなるんだろう」
「なにも、変わりませんよ。これまでどおりで。侯爵様はお出かけです。無理をしない程度に自由にさせていいと侯爵様から伺っています」
許された、ということだろうか。
「じゃあ、オリビエ、この間の続きを教えてくれよ!」
ヨウ・フラが持ってきていた荷物から教科書代わりにしている聖書を引っ張り出す。医師がほどほどにと念を押して帰っていく。
医師を見送るために出て行くビクトール。
扉の向こうに消えるまで、ビクトールの表情は一度も緩まなかった。
これまでどおり、という割には浮かない顔。何かあったのかもしれない。オリビエはヨウ・フラに重い聖書を膝の上に乗せられるまで、じっと扉を見つめていた。



「奥様、オリビエ様がお目覚めですよ」
医師を見送った後、ビクトールが暗がりで寝込む夫人に声をかける。
香水をぶちまけたような甘ったるい空気にビクトールは顔をしかめた。
手に持つランプがかすかに夫人の白い手を映し出した。昼間だというのに鎧戸を締め切った寝室。広い部屋にこれでもかと広げられた衣装や本。せめて窓だけでも開けようと、窓辺に近づいた時には足元に花瓶が転がっていることに気付く。
小さく溜息を吐き、ビクトールはしゃがんで足元のそれを拾った。花瓶かと思ったものは香水のビンだ。真っ白な磁器で花をあしらった美しい貴婦人の姿、手に持つ傘の柄が香水を取り出す口になっている。かのマイセンの作だろう。
いつか、夫人の誕生日に侯爵が手に入れたものだ。

中身はすっかり空になってそれがこの部屋を小箱に詰め込んだ花畑のようにしてしまっていた。
「奥様。どうか、元気を出してください。オリビエ様は大丈夫ですし、侯爵様のお怒りも解けましょう」
「…わね」
くぐもった声は、泣きはらしたことを物語る。
「奥様。良い天気ですよ。お買い物なり、お食事なり、お好きなことにお供いたしますから、どうか元気を出してください」
「煩いわ!もう、そんなことどうでもいいの!」
私は、私は、とまた毛布に顔をうずめ、夫人はたくさんのクッションと衣装の中でもぞもぞと身を隠そうとする。かすかに浮かぶ脚の白さにビクトールは目をそらした。
「奥様。どうでもいいことではありませんよ。奥様が笑ってくださるのは私にとって大切なことです」
「どうして、ねぇ、ビクトール、どうしてあの人は、侯爵様はオリビエを庇うの?あの子より私を叱るの?おかしいでしょ!いつも、いつも!私の待つここには戻られずに、一晩中あの子のそばにいるのよ!あの子の音楽を聴いて眠るの、ねえ、それでは私はどうすればいいの?」
ベッドに座り込み顔を覆う夫人はまるで少女のように見えた。華奢な肩を震わせ、乱れた髪がしどけない胸元に触れる。
甘い香りは昼下がりの日差しの熱を吸い取り、かすかに蒸し暑さすら感じる室内。暗がりにビクトールは真っ白な美しい生き物を見ていた。
時折すする鼻声すら、愛しい。
「なんて、惨めなの。ね、私は侯爵様に見捨てられたのよ、あの夜から一度も私の顔をご覧にならない、同じテーブルで食事すらしない。それは、私も悪かったわ、酔っていたし、オリビエが生意気だった。でもあれは事故なのに、私をひどく叱った」
あの晩。散々なクリスマスとなったのはアンナ夫人も同じだった。


オリビエが弾みで怪我をし、慌てて人を呼びに階下に下りたアンナ夫人の様相に侯爵は顔を青ざめさせ階段を駆け上った。アンナ夫人の説明など耳に入らないようだった。
その後は、怒鳴る侯爵と走り回るビクトール、何事が起こったのかと興味津々の客たちは夫人の話をまるで面白い物語のように聞きたがる。
ソファーに座り込み、オリビエにもしものことがあったらと震えるアンナ夫人が、肩を叩くビクトールの笑顔に気付いた時には、客は帰り屋敷は静まり返っていた。
様子を見ようとオリビエの部屋に行ったものの、医師にオリビエの手の具合を真剣に尋ねる侯爵を扉越しに見つめ、何もいえずにまた一人居間のソファーに座り込んだ。
医師のルードラーを見送りながら降りてきた侯爵は夫人と目を合わせたのもつかの間、何も言わず。医師が気を利かせて「奥様も、どうかお気を落とされずに。事故は神の悪戯のようなものです。才能ある若者に困難は付き物なのですよ」と慰めた。侯爵は咳払いをし医師を急かした。


ビクトールより先に一人戻ってきた侯爵は、アンナ夫人に一言だけ。
「お前の方から近づくとは」
そういって、再び階段を昇り始める。
「あの、侯爵様……」
「失うまで分からないのなら、いっそ何もかも捨ててしまえばよいのだ」

何を。
アンナはクッションを抱く腕に力を込めた。
失う、捨てる。
地位を?財産を?愛情を。どれもとっくに失っているのだとさめざめとアンナは泣いた。
失っているからこそ求めるのだと。どうして、侯爵様は分かってくださらないのか。
そうして背を向ける冷たい態度が、どれほど夫人を傷つけてきたか。
思い出しまた、アンナは零れ落ちる涙を白い頬とともにクッションに押し付けた。

「奥様、侯爵様はお怒りになどなっておりませんよ」
傍らに侍従のビクトールがいることを思い出す。
「お前は、お前はそばにいてくれるわよね?私を一人にしないわよね?」
捨て猫のように哀れな瞳。暗がりになれたビクトールの目にその濡れた輝きは妖しげなほど美しい。白い手がビクトールの腕に触れた。
「ねえ、私はどうしたらいいの」
「アンナ様はそのままでいいのですよ」

次へ♪

「音の向こうの空」第十六話 ⑤

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解


オリビエの傷の抜糸が済んだ年明け。
午後の風が凍るように冷たくなる時刻に、侯爵家を一人の男性が訪れた。
その名を聞くと、オリビエはまだ少し不自由な手で譜面に音符を書き込んでいたのを放り出してエントランスへと迎えに走った。
息を切らした青年に、笑顔と挨拶を告げたのはルードラー医師だった。
「あれ?」
「あれ、とは。また」
くく、といつものように笑うルードラーの背後から、黒いコートの男がひょこと顔をのぞかせた。オリビエの待ち望んだ相手。
「お久しぶりです。クリスマスの晩餐会にはお会いできませんでした」
そう言ってアーティア・ミューゼは帽子を取って、くしゃとした黒髪をなでて笑った。
「あ、そうか。あの時のピアノの演奏は君だったんだ」
「ええ、なにやら体調を崩されたとかで。心配していましたよ」
オリビエは肩をすくめた。あの時、罰を受け閉じ込められていたなどといえるはずもない。ヨウ・フラですら知らないことだ。
オリビエの手が不自由なので、フォルテピアノの調律を彼に頼んでもらったのだ。抜糸が終わりやっと演奏できるという時になって、しばらく誰の手にも触れられなかった楽器は随分音がおかしくなっていた。自分で調律することを医師に禁じられ、オリビエは悔しい思いをしていた。

「こんなだからね。ピアノ、随分音がおかしくなっているんだ。早く頼むよ」とアーティアの手を取って、オリビエは早くと促す。「それから、敬語はいいよ、僕の方が年下だ」
「オリビエ様、調律より先に消毒ですよ?」
「それもいいけど、でも」
落ち着かない様子のオリビエに医師はまた、笑った。
オリビエの肩に手を回し、さ、貴方は寝室。と階段の方へと連れて行こうとする。よく笑う年上の医師は、このごろはまるで兄のように親しい。穏やかで機知に富み、オリビエの気持ちをよく分かってくれる彼はオリビエにとって大切な友人になっていた。

「今日は、あの。ピアノのそばで!」
「貴方は音楽のことになると子供みたいですね」苦笑いのルードラーは、「ではついでに演奏も聞かせていただきましょうか」とオリビエの喜ぶ一言を忘れない。
「オリビエは先生の前だとほんと、子どもみたいだよね」
と三人に茶を運んだヨウ・フラが呆れても、すでにピアノに夢中なオリビエはアーティアの作業に見入っている。
一音ずつ確かめながら、丁寧に調節されるそれを時折眼を閉じて聞いていた。
そんな青年の様子に、ヨウ・フラは肩をすくめルードラー医師と目が会うと互いに笑った。

「今日は、印刷所はお休みなのかい?」
「はい、ここしばらくは新聞が休みなんです。だから、ちょうどオリビエの身の回りの世話に雇ってもらえているんだけど」
「そうか、君はしっかりしているからね、オリビエと合わせると丁度いいね」
「あの、僕。オリビエより九つほど年下なんですけど」
「だから、丁度つりあうだろう?」そう笑ってウインクする医師に、オリビエは気付いていない。嬉しそうにピアノのそばに近寄ってはアーティアに何か話しかけていた。
「あ、まあ、分かります。知ってます?オリビエって鳥が好きなんです。以前、この街に来る前、藁布団のベッドを鳥の巣みたいだって喜んだんです」
ぶ、と医師が噴出し、ヨウ・フラは眉を真剣にひそめてみせる。
「こう、手触りを確かめて、満足そうにうっとりしているんです。これで一応、貴族だって言うんだから」
あははは。
少年のものまねに医師は笑い出した。
「いや、彼は幸せだね」
「それも、自分で言ってますよ。僕は幸せだって」ヨウ・フラは胸の前で手を交差させ、首をかしげてうっとり感を表現する。
「何話してるんだよ?」
「あ、ああ、オリビエの鳥の話」
「あれ?鳥の巣の話?」
「そ」
「ヨウ・フラに話したことがあったかな?クリスマス前にね、暖炉の煙突にかかっていた巣を取ったんだけど、一冬預かって、またもとの煙突に戻したんだよ。そうしたら、ちゃんと春には鳥が戻ってきたんだ」
嬉しそうに話すオリビエに、二人は腹を抱えて笑っていた。
「すごいと思わないかい?」
「すごいよ、オリビエ!」
「だろう?感動したんだ、あれは」
またうっとりするので、ヨウ・フラが真似る。
医師は苦しそうに笑い、調律を終えたアーティアも席に座ると楽しげな話を聞きたがる。ヨウ・フラが嬉々として繰り返し、彼らの笑いの意味が分かったオリビエは一人複雑な顔をしながらも、「だってさ、鳥って、いいだろ?」とさらに三人を笑わせた。

ひとしきり笑い、休憩した後。
オリビエは早速ピアノに触れてみる。
アーティアが見舞いにと持ってきた楽譜を手に取ると、オリビエはもうじっとしてはいられない。

「今から二十年以上前だけど、ヴォルフガング卿がヨハネ・クリスティアン氏のソナタを編曲したものなんだ。チェンバロのための協奏曲だからオリビエにも弾きやすいんじゃないかな」
アーティアが言い終わる前にオリビエの指は奏で始めている。ヨハネ・クリスティアン・バッハ。オリビエには馴染みのある曲で走り出した指先はまるで彼が生まれたときから知っているかのように旋律を操った。
懐かしい、「そう、これ、父さんがね好きだったんだ。大切にしている楽譜でね。触らせてくれなかったのをこっそり持ち出して、一人でベッドの中で覚えたんだよ。それをね、見つけられたときに「僕は弾けるんだ」と強がりを言ってね。父さんが腹立ち紛れにやれるものならと言ったのをいいことに僕は記憶にある彼の曲全てを、思い切り弾き殴った。十歳だったかな、ああ、楽譜を見ればこれほど繊細に作りこまれているのに僕は、あの時は旋律の素晴らしさに心奪われるばかりで。心地いい曲だよね。…聞いてる?アーティア?」
「オリビエこそ、自分の演奏を聞けよ」
短く低い青年の声にオリビエはふと手を止めた。口調もすっかり変わっている。
「止めるなって」
「え、ああ」弾き始めれば、また。アーティアは食い入るようにオリビエの手を見ている。
「お前はお父さんに習ったって言っていたな」
「そうだよ。僕は父さんの息子だからね。特にこういうのが好きで。ほら、複雑ででも規則正しく降る雪みたいに美しい」
オリビエがそのまま弾き出したそれはフーガ。幾重にも重なり静かにそして盛り上がる。複雑な構成でありながらバランスの取れた音の波。繰り返し引き続けるオリビエの少年時代の思い出の曲は、ヨハネ・クリスティアン・バッハがフーガを研究し尽くしてその美しいパターンを作り出したもの。それを幼い頃に脳裏に焼きつけ、規則や理論など関係なくオリビエの感覚でさらに柔らかく芳しく。変容していく音の景色にアーティアは言葉がない。
「初めてフォルテピアノを弾いた時、一つ一つが冒険のようで楽しくてね。ほら、こんな音も、こんな音も出るんだって。わくわくしたよ、牧場を駆ける子馬みたいな気分だった。この清んだ高音。この楽器、すばらしいね。チェンバロとは違う強い低音の躍動感、ああ、いいなぁ!」
夢中になるオリビエの演奏に終わりはない。
ヨウ・フラもルードラー医師も。じっと聞き入っている。

すっかり日が暮れた居間に気付いたビクトールが、「そろそろお食事ですよ」とランプを灯しながら呼びに来るまでに、さほど広くない広間にはオリビエとフォルテピアノを中心とした円が出来上がっていた。
いつの間にか円の一つになっていたアンナ夫人に気づき、ヨウ・フラが目を丸くした。ここ最近、自室にこもってばかりという夫人は痩せて、オリビエを食い入るように見つめていた。
気付いたオリビエは、演奏の手を止めた。
「あ、ああ。すみません。夢中になってしまって。夕食にしましょう。アンナ様、ご一緒にいかがですか」
慌てて立ち上がるオリビエを避けるように、夫人は一歩下がる。

「今はいらないわ」
そうつぶやくように言うと、身を翻す。
その後を追おうとするが、ビクトールが手で制した。
「私が」
「……ああ。頼むよ」

ひやりと吹き抜ける風のように、アンナ夫人はみなの興奮や笑みを吸い取ってこの場を立ち去った。
見送る医師に、オリビエは溜息混じりに話した。
「あの夜以来、ずっとなんです。侯爵様とお話されているとは思うのだけど。僕には、どうすることもできない」
「医学ではどうしようもないですよ。あの方に必要なのは薬ではありませんから」
そう頷くルードラーにオリビエは悲しげに笑った。

次へ♪

「音の向こうの空」第十六話 ⑥

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解


その日の夕食には久しぶりに侯爵が間に合った。
疲れた様子が隠せない彼はビクトールの出迎えを受けるといくつか指示を与え、「ルードラー、いつもすまぬな」と挨拶する医師に言葉を返す。
「あの、侯爵様、夕食をご一緒に」
そう提案したのはオリビエだ。あのクリスマスの事件からぎこちない関係を続けていたが、侯爵が以前と同様扱ってくれようとしているのは理解できた。ただ侯爵が忙しく不在がちであることと、オリビエが演奏できないことが同じ時間を共有するタイミングを奪っていた。今夜は医師もアーティアも同席するし、久しぶりにアンナ夫人の姿を見た。なにか、少しでも元に戻れるのではないかとオリビエは提案したのだ。

侯爵はいつもどおり無表情だったが、返事の代わりにビクトールにお気に入りのワインを開けるよう指示した。
着替えるために自室へと向かう侯爵を見送りながら、オリビエはルードラーと視線を合わせた。
「大丈夫だったでしょう?」
「うん、そうだね。侯爵様はお疲れみたいだけど、ご機嫌は悪くない」そう医師に笑いかけるオリビエに、「侯爵様の顔つきってどうもよくわかんないんだよね、侯爵様のご機嫌までよく分かるよね、オリビエは」とヨウ・フラが肩をすくめて見せる。
「長いお付き合いだからね」


夕食の後、ルードラーが保障したので、オリビエは久しぶりにリツァルト侯爵に演奏を披露した。
「いつの間にか、フォルテピアノに慣れたのだな」と驚きつつも、侯爵は時折眼を閉じ、味わうように聞き入った。
居間の一角に置かれたピアノ、その周りには三人掛けのソファーと、侯爵専用の肘掛け椅子、小さなテーブルが据えられている。ルードラーも、アーティアも好きな場所に席を作り、ヨウ・フラはなぜかオリビエの背後に小さい椅子を運んで座る。
「どうした?」と聞けば、「手が見えるから」と珍しく神妙な顔をしている。
ふうん、と頷きながらすでにオリビエは音の世界に足を踏み入れている。時折聞こえてくる教会のオルガンの音は寝込んでいる間にオリビエの中に感動を蓄積した。この屋敷を囲む小さな森と公園。雪が積もるその景色は灰色の空の下不思議とやさしい。奏でられない苛立ちを忘れさせてくれる。
窓を開けば、冬の冷気と静かな雪を踏みしめる音。オルガン、鐘楼。鳥の羽ばたき。
美しい街ヴィエンヌの冬。エスファンテより寒さは厳しいけれど、雪の積もる街の景色は愛おしい。
ふとオリビエがアーティアと視線を合わせ演奏を止めた。
「アーティア、ヴァイオリン弾けるんだろ?」
「おいおい、お前のその奔放な演奏にあわせろと言うのか?勘弁して欲しいな」
「僕があわせるよ。一度やってみたかったんだ」

アーティアがヴァイオリンを奏で。オリビエはそこに風景を足した。
それはカノンのように複雑な音色を紡ぎだす。
熱のこもった二人の演奏は侯爵を珍しく微笑ませた。侯爵が拍手をし、「そろそろ止めておきなさい。まだ、完全に傷がいえたわけではあるまい」と音楽の時間を終わらせる。
黙り込んだヨウ・フラは頬を上気させているし、医師はいつもの穏やかな笑みでオリビエの手の包帯を巻きなおした。
その晩、医師もアーティアも侯爵家に泊まることになった。彼らを部屋に案内しビクトールとヨウ・フラも席を外せば、居間にはオリビエと侯爵だけが残った。オリビエが静かに左手だけで奏でる音が静寂にかすかな風を運ぶ。
肘掛け椅子に座ったままの侯爵はワインのグラスを傾けていた。
オリビエが手を止めた。

しばらくの沈黙。張り詰めた空気を破ったのはオリビエだ。
「あの、侯爵様。僕の罪は」
言いかけて侯爵の表情にオリビエは黙る。あのクリスマス以来、初めて二人きりで言葉を交わす。話をするべきなのだ、オリビエは自分に言い聞かせる。

「……ご不快でしょうけれど。お聞きください。僕は確かにかつて罪を犯しました。それは許されることではありません。今さら時間を戻せるわけでもありませんし。侯爵様がその件で僕をどう処分されようと、僕は甘んじて受けるつもりです」
オリビエは静かにラの鍵盤に触れ、話し続ける。
「僕は、エスファンテを離れた時に、愛する女性を置いてきました。奥様とのことを考えれば僕は彼女に対して誠実ではありませんでした。彼女を幸せにする力も、資格もない」
キシュとズレンのことを責められるはずもない。
「だから、彼女のことは諦めました。エスファンテでの最後の晩、侯爵様と過ごしたあの夜、誓ったのです。二度と自分に恥じるような真似はしないと。ですから、今は僕が愛するのは音楽だけです」

侯爵はただ、黙っていた。

「ファリで出あった騎士に僕の生き方は一つの思想だと言われました。音楽を奏でたい、僕にはそのためなら多くを捨てる覚悟があります。僕はそれが誇らしくもあり、時につらくもあります。ですが、こうして侯爵様が心地よく僕の音楽を聞いてくださる。それは紛れもなく僕にとって幸せなことです」

オリビエは深く息を吐き出した。こうして自分の気持ちを素直に語ったのは、いつ以来だろう。いつか、「お前は笑わなくなった」と侯爵に言われたことがある。全てを顕わにしたからには、もう何も隠さなくてもいいのだ。

「……あのクリスマス。楽器から離されて、とても苦しかったのです」
何故にここで、胸がつまる想いがするのか。
オリビエには分からなかったが。

あの夜の悲しみ。自分以外の誰かがピアノを奏でる現実。叩いてもたたいても、毛布の鍵盤は音を出さない。

かすかに滲んだ視界の中、黒い鍵盤に触れる手がいつの間にか静かに曲を奏でていることに気付き、内心自分に苦笑する。
好きなのだ。音楽が。
気付けば、肩に温かい侯爵の手が乗せられていた。傍らに立つ侯爵は珍しくオリビエの肩を叩き、「もうよい。お前のおかげで今夜はよい夢が見られそうだ」と。髭の下でかすかに、笑った。

次へ♪

「音の向こうの空」第十六話 ⑦

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解



屋敷の周囲の森に暖かい春の風が吹くようになる頃には、オリビエの傷も癒え、毎日居間でピアノを奏でていた。侯爵は相変わらず日中は出かけ、アンナ夫人は自室にこもりがちだった。時折ビクトールが連れ出すようだが、オリビエに出会わないようにと避けられているようだった。
同じ屋敷にいながら、もう何日もアンナ夫人の顔を見ていなかった。

窓を開け放ったまま、オリビエは好んでフォルテピアノを奏でた。春の日差しと新緑の香りを感じながら演奏するのは以前から好きだった。小さいながらも美しい庭には、ジャスミンの香りが漂い、ふとアネリアとの恋を切なく思い出す日もあった。
そういう日にはピアノの切ない音色が庭にこぼれる。

「今日はまた、においが強いね」
ヨウ・フラが庭から居間に入ろうと花の間を掻き分けてくる。
「そこ、足元のビオラに気をつけてくれよ、ヨウ。この間、花が折れていたってビクトールが怒っていたよ」
「あ、そう?」肩をすくめてとぼけてみせる少年は、随分背が伸びた。声もすっかり大人びてきていた。今年十三歳。自分のその頃を思うと、ヨウは冷静でしっかりしているんだなとオリビエは尊敬に似た気分で、庭から居間につながる扉から迎え入れる。

ヨウ・フラが習っている言葉と文字も上達していた。「親方がさ、新聞の記事が全部読めるようになったら、校正の仕方を教えてくれるっていうんだ」屋敷の居間でヨウはいつもの通りオリビエの隣に小さな椅子を持ち込んで、お土産に持ってきた最新の新聞を小さなテーブルに置いた。
結局のところ、未だに世間知らずのままのオリビエに少年は唯一、外の情報をもたらした。
ビクトールはあのクリスマス以来、あまりオリビエを連れて買い物に出なくなり、オリビエも残念に思っていたもののそれを口に出すことが出来なかった。

「聞いた?クランフ王国でさ、王様が亡命しようとしたらしいんだ」
ヨウ・フラが紅茶にミルクを落としながら言った。
「国王陛下が亡命!?」

ついに国王まで国民を見放したのかと、混乱する議会を抱える祖国を思う。
「いやそれがさ。捕まっちゃって。王妃様とね皇太子様もご一緒だったとか」
「共和党は、どうするつもりなのかな」議会は国を裏切った国王を許しはしないだろう。
ついに、国王不在の国家になるのだろうか。
「ううん。どうもね、議会のクラブのうちいくつかは、国王は誘拐されたんだといっているみたいで。本当のことはよく分からないんだけど。そのクラブが王様を庇っているっていう噂もあるけど、でも誘拐説もちょっと信憑性があるっていうか」
「ふうん。誘拐、か」
どうにも、ぴんと来なかった。
「王様が郊外の村で見つかった時にはね、御者に変装していたって言うんだ。なんていうか、みっともないよね」
「国王陛下はどこに亡命しようとしたんだろう」
オリビエがピアノからソファーに移り、新聞を手に取った。
一面にクランフ王国の国王陛下一家の亡命未遂を伝える記事が並んでいた。
「ここ、だよ」
「ここ、ヴィエンヌ?」
「多分ね。アウスタリア帝国の皇帝は、王妃様の実のお兄さんだし、自分の生まれた土地に逃げ帰るのは肉屋のおかみさんも王妃様も同じなんだと思うな。革命で特権が廃止されちゃったらしいし、政治は議会と共和党が取り仕切っているし。国王としては居場所がないよね。亡命だってしたくなるよ」
ふうん、と感心したように頷くオリビエに機嫌を良くした少年は「実はさ、噂なんだけど」といつもの断りを入れて、記事に乗っていないような噂話も話し出す。そうやってヨウ・フラが話す噂は信憑性こそないが、面白い。オリビエは少年が尋ねてくるのを楽しみにしていた。

「クランフ王国の亡命貴族が、今回の誘拐劇、というか、国王陛下の亡命に手を貸しているって言う噂なんだ。本当の黒幕はやっぱり王妃のお兄さん、アウスタリア帝国現皇帝だと思うんだけど、表立ってそんなことを知られたら、アウスタリア帝国とクランフ王国の関係が悪くなるだろ?だから、クランフ王国の追求があったときのために犠牲になる亡命貴族が用意されているって言う噂。けど、頼まれて亡命を手伝うならまだしも、誘拐犯だなんて決め付けられたら気の毒だよね」
オリビエは黙った。
亡命貴族。
「あ、大丈夫、リツァルト侯爵様は大丈夫だよ。だって、もともとこっちの血筋を引く貴族様だし、アンナ夫人も国王の遠縁に当たるんだ。いくら亡命貴族だって言ったってそんな役割をもらったりはしないよ」
「だけど、最近また、忙しそうなんだ」
「帝国政府の待遇に反発している亡命貴族たちがいてさ。それと帝国政府との間に入って調整しているんだってさ。だから、大変なんだよ」
オリビエは毎晩遅く、疲れて帰ってくる侯爵を思い出す。
「侯爵様は、すごいね」
しみじみ紅茶を味わうようにぽつりと口にしたオリビエに、ヨウは笑った。
「これまで領地の何万人もの人を治めてきたんだよ?数百名の亡命貴族なんて平気さ。オリビエ、ちっとも分かってないんだ。リツァルト侯爵様を尊敬する貴族も大勢いるんだ。だいたい、亡命した貴族であんな盛大なクリスマスパーティーを開けるのは侯爵くらいなものさ。自暴自棄になって荒れて、わずかに残った財産も食いつぶしている亡命貴族が多い中、ちゃんと働いてアンナ夫人やオリビエを養ってるだろ?誰かの生活の面倒を見るのって大変なんだぞ。自分ひとりだって大変なのにさ。オリビエなんか、ここを追い出されたらすぐに路頭に迷って、酒場の片隅で飲んだくれになるんだ」
「飲んだくれ……」自分の姿を想像し、ヨウ・フラの言いたいことはよく分かるが口元が緩むのを抑えられない。酒場で酔っ払ったなら、きっとオルガンか何かをめちゃくちゃに奏で続けるんだ。

「笑い事じゃないって、もし、もしだよ?侯爵様に何かあったらどうするんだよ?そういうの心配したことないの?」
病気とか、事故とか世の中何が起こるかわからないんだ、と少年は興奮気味に繰り返す。
し、とオリビエは人差し指を口元に持っていく。
教会のオルガンが聞こえてきた。

口を尖らせヨウ・フラは、うっとりと聞き入る青年をじっと黙って眺めていた。
この世間知らずのオリビエを、なぜ大勢が可愛がろうとするのか、神に祝福された才能とはそういうものなのかと。幾度か繰り返した疑問がまた、喉まで出掛かっていた。

頼む、と呟いたズレン。少年はズレンもかつて、同じ疑問を持っていたことを知らない。


教会のミサが終わったのだろう、庭から遠くかすかに見える公園には大勢の人々が流れ出していた。オルガンの音色に触発されたオリビエはすでにピアノに夢中で。ヨウ・フラは仕方なく教科書代わりの本を手に取った。
ふと、オリビエが一人で生きていくにはどうするべきか、などと考え始める。
オリビエが働くなら、音楽の関係だけだろう。教会のオルガニストだけで生活できるはずもない。だとしたら、やっぱり皇室宮廷室内楽団にでも入れてもらうとか。オペラの舞台の手前でオーケストラの一員としてピアノを弾くとか。アウスタリア帝国の芸術院に入るという手もあるけれど、あれは外国人ではダメだったかもしれない、とか。
どちらにしろ、オリビエのピアノを聴けばどこかで雇いたいといってくれるのだ。バイエルヌの選帝候を思い出した。
いくつも方法が思い浮かび、どうにも自分と比べて有利に思えるオリビエの処世術に納得がいかない。「飲んだくれ」になる可能性は限りなく低い。しかもあの容姿だ。女にも苦労しない。
頬杖をついて何となく憎たらしい青年に背を向けた。
「…あれ?」
慌ててヨウ・フラは立ち上がった。

「オリビエ、見て、あれ!庭の先!」
ヨウ・フラが指差した方向には、彼が掻き分けた花の向こうに柵が張り巡らされ、その向こうは公園の敷地だ。そこに人影が見えた。一人二人ではない。
まるでここを囲むように、立っている家族連れもいれば、芝生に座り込む夫婦もいる。
「何?なにしてんだろ、あんなとこで!」
窓から顔をのぞかせ、背伸びしたりかがんだりしている少年にオリビエが笑った。
「最近ね、ミサの帰りにここで音楽を聴いていってくれるんだよ。演奏を終えると帰っていくんだ。でも、ちょっと、恥かしいから、まだ挨拶はしたことないんだ」
「はあ?」
「それに、ほら、この日差しなら硝子に反射して僕の姿は見えないだろうし」
オリビエは再びピアノに向かう。
奏でられる音楽はやさしく温かい。いつも、ヨウ・フラは思っていた。オリビエの音楽は性格そのものだと。オリビエと話して、呆れたり笑えたり、それでもいい奴だと感じさせる何かが、彼の音楽にも溢れているのだと。時折、深い悲しみや淋しさ、口には出さないオリビエの気持ちを音楽から感じ取ることもあった。それを改めて問うこともしないが、オリビエにはオリビエなりの苦労もあるのだろう。
表面だけ見て、気楽な音楽家、などと揶揄されてもオリビエは笑っている。

そういう魅力を感じ取る人々が、足を止める。

次へ♪

「音の向こうの空」第十六話 ⑧

第十六話:聖なる夜、羊たちの告解



「なあ、ヨウ。エスファンテのリツァルト侯爵に会うのなら、オリビエって男を捜して欲しいんだ。まだ十代だが、飛び切りの才能の持ち主でな。一見、何も持っていない情けない奴に見えるんだ。だけどな。そいつは人並みであろうとするあらゆる力をすべて音楽に捧げているんだ。そのためなら女も要らないし、地位も要らない。音楽を続けるためならなんだってする。それを自覚してもいる。あいつは特別なんだ。俺なんかは生まれ持った才能なんてものは何もないが、ちっとばかり剣術とココは使えるだろ?」マルソーは自分の頭を指差してみせる。
「けどな、どれも上手く生きるための手段でしかない。オリビエは、音楽の才能を生きる手段にしてないんだ。音楽のために生きている、そんな奴さ」
ヨウ・フラはファリで救ってくれた青年の豪快な笑顔を思い出していた。

オリビエの演奏が終わると、「結局、勉強見てもらえなかった」と口を尖らせたが、自分の仕事の時間が迫っているのはオリビエのせいでもない。
「また、いつでもおいでよ」と笑う青年にさよならをして、来た道を一人帰る。庭の腿くらいまでの高さの柵をひらりと乗り越え、公園の垣根の隙間から抜け歩道へと合流する。視界に群がる通行人をひらひらと避けて、身軽に歩く。と、目の前に少女が立ちふさがった。

八歳くらいだろうか。両手を広げて目の前に仁王立ち。
「は?」
ヨウ・フラが威嚇とばかりに睨むと、少女は今度は「いっ!」と歯をむき出してみせる。もしやそれは、笑顔か。
「……なんだ、お前」
「ピアノの人なの?あの、あなた、ピアノの人なの?」
少女の声は高く、夕暮れの公園に響き渡る。
「ち、ちが…」
「だめよ、アナン。ごめんなさい、妹が失礼なことしてしまって」
否定しようとしたヨウ・フラの前に、濃紺のワンピースの少女が立った。「だってぇ!」と先ほどの少女が頬を膨らめて、姉らしき少女の後ろに回った。少女の影から、顔をのぞかせる。
「あの、もし違っていたらごめんなさい。貴方があの演奏をなさっていたの?」

ヨウ・フラは髪が浮き上がるようなむず痒い妙な感覚を感じながら、目の前の少女を見つめた。
栗色の髪は長く真っ直ぐで、肩の辺りまで流れ、穏やかな茶色の瞳、ほっそりした白い首元。美少女、とはこれだと少年は心のどこかで自分を奮い立たせている。
「あの、違います?」
「え、あ、違うんだ、あの。僕の先生で」
それは美しい少女の感動を誘った。
「まあ!貴方も音楽をなさるの?」
「ええと…」いつもの調子がまったくでないぞ、とヨウ・フラは自分にあせる。気付けば周囲の聴衆の視線を浴びていた。わかってる、この目の前の美少女も周囲の人々も期待するのはこれだ。
「あの音楽を弾いているのは、僕のラテン語の先生で。侯爵様お抱えの楽士、オリビエ様だよ。いつもあの部屋でフォルテピアノを弾いているんだ」

ヨウ・フラが話したことを誰かが向こうで繰り返した。
あれが、侯爵様の楽士様。
あれがフォルテピアノなんだ。
楽士様はオリビエ様っておっしゃるらしい。

「あのね、貴方が音楽をなさるかと聞いているのよ?」
目の前の美少女の反応は、予想と違った。
「え?」
「もういいわ。行きましょ、アナン」
あっけに取られるヨウ・フラを置き去りにして、少女は妹と手をつないで歩き出す。
アナンと呼ばれた妹は二回ほど振り返りながら、「オリビエさまなんだって、明日も聞きに来るの?」と姉の手を引く。
美少女は頷いたようだ。



翌日、久しぶりにアーティアの訪問を受け、オリビエは刺激的な楽譜のいくつかを借りて夢中で弾き続けていた。
その日は教会のオルガンの音に手を止めることもなく、アーティアが「おいおい、そこまでアレンジするかよ?」と呆れるほどだ。アーティアがもたらしたのはオペラの歌曲。王宮お抱えの芸術監督がつい先日初演した新しいものだ。
アーティアは幸運にもそこのオーケストラのヴァイオリニストを勤める。その境遇にオリビエは「いいなぁ」と羨望を隠さず、明日もまた公演があるからと預けてもらえない楽譜をとにかく頭の中に残そうとしていたのだ。
昼食を一緒にとってから数時間、オリビエはずっと弾き続けていた。アーティアが呆れるのも無理はなかった。
「たまたま、皇室宮廷室内楽団にも新しいフォルテピアノを卸したんだ。その縁でね。こうしてオリビエに出会えたのもそうだし、僕はシュタインさんのところに雇ってもらえてよかったよ」
「僕も、このピアノに出会えたのは本当に幸せだ」
「おい、僕じゃなくてピアノ?」アーティアが口を尖らせると「シュタインさんに感謝だな」オリビエはにっこりといつものふわりとした笑顔だ。
「なんだよそれは」
あはは、と笑うオリビエに冗談じゃないのかもしれないとアーティアは呆れるが。無邪気に楽器を奏でる青年には言いようのない魅力が備わっていた。
時には心を突き刺すほどの技巧や旋律を奏で、それでいて本人は鷹揚とした性格で自然体。クリスマスの怪我から回復してさらにその楽しそうな笑顔が増えたと感じていた。

当のオリビエはというと、あの侯爵への告白以来、気分が晴れやかだった。相変わらずアンナ夫人には避けられていたが、それは返ってオリビエを自由にした。アンナ夫人に付きっ切りのビクトールがそばにいないためで、だからこうして自由に友人が訪ねてくれる。
ヨウ・フラが庭から出入りできるのも、そういう理由だ。

そろそろ今日も来る頃かなと、ふとオリビエが演奏の手を止める。

そのタイミングで、扉がノックされた。
「オリビエ様、お客様がいらしております」
メイドのテッヘが「丁度お茶を入れました、こちらにお通ししてよろしいですか」と笑う。
「お客様?うん、いいよ。僕に用事なんだよね?」
「はい。オリビエ様にお会いしたいと」
「分かった」

お客様。心当たりはないが。

メイドに案内されて入ってきた男に、やはり心当たりはなかった。
「初めまして、レイナド・ル・セドーと申します。……あなたが、オリビエンヌ・ド・ファンテル、ですね」
男はきちんと巻いた髪を結って、ビロードの黒いリボンで一つに結んでいた。紅茶色の上着に草色のスカーフ。茶のブーツできりりと姿勢を正していた。
オリビエとアーティアを見比べ、そして出迎えたオリビエに深くお辞儀をした。
「あ、はい。あの、あなたは?」
ぴくと男の口元が引きつった。
「おい、オリビエ、セドー氏といえば有名な音楽家だぞ!ばか、恥かしいな!」と小声でオリビエに駆け寄って、アーティアは改めて客人の方へ向き直る。
「バイエルヌ領邦の王室芸術監督、室内楽団団長の、セドー氏。あの、初めまして、私はアーティア・ミューゼ。皇室宮廷室内楽団のヴァイオリンを受け持っています」
張り切って挨拶をする青年にレイナドは苦笑した。
アーティアは嬉しそうにお会いできて光栄です、とレイナドの手を取り、「すみません、オリビエは世情に疎いのです。これでパンの買い方も知らないんですから」と横目で友人を眺めた。
「そ、そんなことないよ、パン屋には行ったことがある!」
初めて会う目上の、しかも有名な音楽家とやらの前でそんなことを言われては名誉挽回を測るしかない。
「ワインだって買ったことあるんだ。カフェでチョコレートを飲んだし」

ぷ、と。低く笑うレイナド。オリビエは慌てて口を塞いだ。
「いや、侯爵様に可愛がられているとは聞いていたが。今日は、オリビエ。貴方へ大切なものを届けに来たのですよ。ついでに少しばかり、貴方の演奏に興味もありましてな」
レイナドは持っていた黒い革のバッグから分厚い本を取り出した。それは紐で綴じられたものだ。
手渡され、そのタイトルを見てオリビエは目を見開いた。

「マクシミリアン候との約束、覚えていらっしゃいますな?」
ぞわ、と。
心があわ立つ。
「私のために楽曲を書いて欲しい。貴方の初めてのオペラを」
マクシミリアン候はミュニックでそうオリビエに約束させたのだ。

「はい、忘れていません」
オペラという言葉を口にするたび、ちくちくと約束の針は心をつついた。

「約束?」アーティアは急にまじめになったオリビエを眺める。
「そう、オリビエはカール四世選帝候の弟君、マクシミリアン候の依頼でオペラ歌曲を作曲すると約束したのです。芸術監督たる私がいくつか台本を持ってきたのはそのため」
レイナドは傍らの荷物を示した。
すごい、かすかにアーティアが唸り、二人を見比べている。

「オリビエ。少しばかり聞かせてくれないかな。あのマクシミリアン候も、カール四世公も貴方の音楽に深く感銘を受けていた。候は貴方の曲で十一月にあるヴィエンヌ・オペラコンクールに参加したいとお考えだ。入賞した作品は今後一年間、宮廷歌劇場で上演されることとなる。我がバイエルヌ領邦もオペラの盛んな地。このコンクールで恥をかくわけには行かない。小旅行でミュニックを離れていた私は貴方の演奏を聞きそこなった。仕事を任されるからには私も知っておきたい。貴方の音楽が、本当に我がバイエルヌに相応しいものなのか」
「こ、コンクール?」
相応しくなければ。一体どうなるのか。
約束させたのはマクシミリアン候。こちらから願ったものではない上に、コンクール。
困ったオリビエがアーティアに視線を向ければ、アーティアは興奮したように顔を赤らめていた。
「オリビエ、光栄なことだぞ」
低くアーティアがつぶやき、ぎゅっとオリビエの手を両手で握り締める。
「貴族の推薦を得られなければ出場なんか出来ない、これはチャンスだ」

いつかヨウ・フラが言っていた。リツァルト侯爵が認めざるを得ないような名声があれば。【秘蔵っ子】を卒業し、僕は自由に新しい音楽に触れることが出来るかもしれない。
そう。これは、チャンスなんだ。

オリビエはぎゅと口を閉じ頷いた。
丁度、教会のオルガンが鳴り止み、そろそろいつもの聴衆が集りだす時刻でもあった。


次回、第十七話「飛び立てるのか」は11月24日公開予定♪

「音の向こうの空」第十七話 ①

第十七話:飛びたてるのか

さらりと鍵盤をなでた。
これは、僕に与えられたチャンスだ。

「あの時は、まだ慣れないピアノでしたが。この楽器はとても手に馴染んでいるのです」
そう話し、オリビエは丁度先ほどアーティアがもたらした新しい楽曲から奏で出す。知っている曲なのだろう、レイナドはそばにあるソファーに座りながら小さく頷いた。

だが、その穏やかな笑みはすぐに消えた。

オリビエが奏でるのはいつの間にか、レイナドの知っている定番の曲ではなくオリビエの色に染まっている。同じステンドグラスでも染める夕日で色が変わるように、不可思議に輝くように。そこからのぞく空の色と流れる雲。風すら色をまとったようにあでやかな音が周囲の公園と一体となる。
いつもの聴衆が集りだし、森の木々と同じ影の色を景色に足す。
彼らは静かな鳥の声とともにオリビエのピアノをじっと聞き入っているのだ。

メイドのテッヘが持ち込んだ午後のお茶には菓子が添えられている。ミラベルの入ったロレーヌ風タルト、アーモンドの練りこまれたマスパン。オリビエの故郷の菓子を彼女は焼いてくれる。一人で住んでいたあのエスファンテの家を思い出す。
シューレン夫人はどうしただろう。あの人の本心は分からないが、料理は美味しかった。あの腕前のおかげでキシュに出会えたようなものだ。
オレンジのリキュール入りのジャムの香りが紅茶に混じる。それだけで頬を染めるキシュ。強くしなやかな野良猫の癖に。華奢な手足を膝に巻きつけ小さく丸くなって座り、うっとりと酔う仕草は今想えば心をくすぐる。あの時は気付けなかった、いや僕の気持ちが変わっているからか。たわいない会話や記憶が切ないのと同じだ。
会いたい。

かちゃ、と小さな音に我に返る。
メイドがテーブルに全てを並べ終えたところで演奏を終わる。

「美味しそうだ、テッヘさん。ありがとう」
と。メイドの笑顔に笑い返したところで、客人のために演奏していたことを思い出した。

「あ、……。すみません。ちょっと休憩にしましょうか。丁度、美味しいお茶が入ったようですし」
チャンスだと思いながら、一体僕は何をしているのか。自分に呆れながらオリビエは軽い溜息で野良猫の面影を追い払おうとする。

「え、ああ」
レイナドも思い出したように目の前のカップに手を伸ばした。
「恐いほど、でしょう?」小声でアーティアがささやき、レイナドは小さく瞬きする。
「オリビエは音楽家の父親に教わって、古典的なフーガの技法をそれとも知らずにすべて身につけているんですよ。彼の演奏を何度か聴いた僕が思うには、幼い頃から耳で覚えた楽式と、クランフ王国特有の和声音楽、そして、自覚もないままに表現する素直な音がピアノの特性である音の強弱でさらに助長されている。溜息のような淡い音色など、気味が悪いほど繊細です」
「……なんというか」甘美なリズムの揺れが、ピアノに触れて間もないとは思えない音色に華を添え。レイナドは胸に溜まったそれを紅茶で飲み込んだ。普段必ず入れる砂糖を忘れるほどだ。

その様子をオリビエはちらちらと見つめる。何を表現したと問われれば「甘いお菓子と野良猫」ということになる。聞かれたらどうしよう。

「先ほどの曲は……」
「あ、どうぞ、紅茶が冷めますよ」
レイナドの質問を避けオリビエは小皿に菓子を分ける。

自分の演奏に対する誰かの評価を気にしたことはなく、緊張感が足りないんだと自分自身に苦笑する。宮廷音楽家とか、そういう人はいつももっと張り詰めた感じなのだろうか。それは、つらいだろうな。オリビエは意地悪なガウソンを脳裏に浮かべた。
主人の気に入らなければ職を失い、つまり音楽を取り上げられる。生活すら危うくなる。
コンクールなどといえば、もっと重圧がかかるのだろうか。
ぞっとする想像は映像でなく音で胸を叩く。振り払うようにポットに残っていた紅茶を自分のカップに注ぎなおした。

アーティアは青ざめて見えるオリビエを眺め、話し出した。
「素晴らしい才能なんですが。ただ。彼は今のような即興の演奏でもっとも魅力を発揮する。だが演奏をほとんど記憶していないので。二度と同じ演奏が出来ない。それが、弱点なんですよ」
オリビエがつまもうとした菓子は思わず力の入った指先でほろと崩れ落ちる。
「こ、これでも努力はしているんだけど。つい、夢中になるとそんなこと忘れちゃうんだ」
「だから、言っただろ、それじゃオーケストラは勤まらないってさ」
ここで、今言わなくても。と。オリビエはちらちらとレイナドを気にする。アーティアは意地悪だ。
「分かってるよ」
「与えられた楽譜を一度でも、まともに楽譜どおり弾いたことがあるのかい?目で追って一通り音を思い浮かべるともう自分の世界に入り込んでるんだから」
聖歌くらいはまともに弾けるが、アーティアの持ち込む楽曲は楽譜に示された小さな記号や作曲者の思いをすっかり無視してしまうことが多い。
「分かってるって、まだまだ、勉強不足なんだ。ガウソンさんだって、共演を嫌がったんだ。僕がまともに弾けないってわかったからだ。だいたい、十三からずっと、誰にも教わらずに自分の曲ばかり弾いていたんだから」
もうだめかも。
オリビエはかすかに肩を落とした。やっぱり、僕にはオペラを書くなんて無理なんだ。オリビエは内心アーティアを呪いながら、甘い菓子を薫り高い茶とともに腹に満たすと息をつく。確かに耳を塞いで生きてきたが、代わりに好きなだけ演奏してきた。自分の思いを奏で続けてきた。それは決して不幸せではなかった。
だから。

オリビエは先ほどまでのあせる気持ちをあっさり手放す。
僕は幸せだ。


「なぜ、誰にも?」
黙って二人のやり取りを聞いていたレイナドはそこで質問した。
小さな溜息を吐き出したのはなぜかアーティア。
「両親をなくしたオリビエの後見人、リツァルト侯爵が禁じたのですよ。音楽を奏でることを強要し、学ぶことは禁止した」
「…そうですか」
二人が苦い表情で黙り込むので、オリビエは半分かじったマスパンを皿に戻すと慌てて二杯目の紅茶を飲み干した。違う、禁止されたけれど。僕は決して不幸じゃなかった。
そう、二人に伝えるために。
「まあ、いいでしょう」
と。レイナドは微笑んだ。
まあ、いい?
オリビエはぽかんと男を見つめていた。
「どんな曲が出来上がるのか、マクシミリアン候は楽しみにされています。九月にはヴィエンヌに移られるというお話ですので、その時には私もまた、お目にかかれますよ」
「あ、ええと。約束は……」
「約束ですから。もちろん、貴方に作曲してもらいますし、当然演奏もね。九月の終わりまでにお願いしたい。期待していますよ」

初老の芸術監督はカップに残った茶を堪能し、帰っていく。
「僕ももう、帰るよ」とアーティアは慌てて持ってきた荷物をまとめると、レイナドの後姿を追っていった。
オリビエは一人空のカップを抱えたまま、立ち尽くしていた。
僕がオペラを書いて、それでオペラコンクールに出る。
夢みたいだ。

次へ♪

「音の向こうの空」第十七話 ②

第十七話:飛びたてるのか



「レイナドさん」
追いついたアーティアはレイナドの隣を並んで歩く。

「あの、どう思われました。噂ではオリビエは侯爵の【秘蔵っ子】だとか言われていますが」
ふん、とレイナドの溜息は深い。先ほど、一瞬だけ見せた表情が今はあからさまに眉をひそめる。
「あれでしかるべき師に学べば、どれほどの音楽家になり得たか。音楽を志す少年を閉じ込めて育てるなど」
アーティアは後を継いだ。
「それはまるで飼い殺し……」

レイナドは沈黙で応える。アーティアは肯定と感じ、続けた。
「出し惜しみだの、秘蔵っ子だの。リツァルト侯爵の評判がよいためにそういう風評が立ち、周囲も好意的に受け取ってきた。オリビエ本人も大切にされていると思っている。ですが。音楽家としてのあれほどの才能をみすみすつぼみのまま摘み取ろうとした」

レイナドはちらりと傍らの青年を見つめ、口を開く。
「だが。その環境ですらあれほどの演奏。恐ろしい才能、君の言うとおりだな。……なにを、笑っている?」

アーティアはにっこりと笑った。
「いえ。あの才能が幼い頃から表ざたにされなくて良かったと、僕は思いますよ」
「ふん。野心家だな」
「そうおっしゃるレイナドさんは、オリビエを救うおつもりですか?」
「……さて。救うとは、何を意味するのかな。私には分からんね」
「……安心しました」

かすかなピアノの音が風に乗る。オリビエが再び楽器に向かっているのだろう。
「あの、お時間があれば私のピアノを聴いてくださいませんか」アーティアが馬車に乗り込もうとするレイナドに話しかけた。
「いや、やめておく。今はオリビエの音の余韻を楽しみたい」
小さく手を上げただけで、振り返りもしないレイナドを見送りながら、アーティアは小さく舌を打った。

走り出す馬車の中で、レイナドは腕を組む。耳に残るオリビエの曲。印象的な旋律と甘美な高揚感。しかもそれは二度と同じ演奏を聴けない。忘れたくないと思わせる。
アーティアという青年はオリビエをどう判断しているのかは知らないが。
レイナドはオリビエの演奏を耳の奥に感じなおしては胸を押さえる。

数種の楽器を操り、貴族たちの夜宴に花を添え飾り物のように見せびらかされる。そんな世に言う「音楽家」でいなくてはならない理由はない。
名声も劇場も楽団も必要とせず、ただ奏で続け生きられるなら、理想的であるとさえ思える。見方を変えれば。リツァルト侯爵は大切に育てたのだ。卵を温める親鳥のように。

野心に燃える若い音楽家には、決して理解できないだろう。名声がなければ音楽を奏でて生きていけないと思い込んでいるのだから。



丁度、アーティアたちとすれ違うように、オリビエの部屋を客が訪れた。
「わぁ、いい香り!」と。嬉しげに笑う十四、五歳の少女とその妹らしき小さな少女。そしてその二人を先導して庭を横切った、ヨウ・フラ。

照れくさそうに笑ってヨウ・フラはリビングの扉を開き、小さな二人のレディを招きいれた。
目をまん丸にしているオリビエに、「ごめん、聴きたいって言うからさ」とヨウ・フラは手をもじもじさせた。
「ふうん。今日はいろいろな客が来るね。いらっしゃい、お嬢さん方。丁度、おやつがあるよ。余ってしまうから食べてくれるかい?」
オリビエが貴婦人にするように手を取れば、少女は真っ赤になった。
「あ、あの、私、エリーゼ。エリーゼ・ラドエルと申します!あの、突然お邪魔してしまって」
「お姉ちゃんずるい!」とアナンは姉の手を取るオリビエの手を両手で包んだ。
「あたし、アナレシア。アナンって呼んで」
横取りするようにオリビエの手を自分に向ける。
「やだ、すみません、妹なんです、こら、止めなさいよ!」

オリビエの手を巡って引っ張り合う姉妹。「はいはい、仲良くね、ほら」と、オリビエが二人の小さな手の甲にキスをする。ひゃぁ!とエリーゼは悲鳴のような声を上げ、アナンはお姫様みたい!と叫ぶ。

やっと少女たちから解放されて、オリビエはピアノの前に座った。少女たちは自分の手をひゃぁひゃぁ言いながら眺めている。
憮然としているヨウ・フラににんまりと笑ってみせる。
「お前のお友達、なんだろ?」
「そ、そうだよ。昨日知り合ったんだ」
「可愛い子だね」
真っ赤になった少年にオリビエは笑いが止まらず、そのままピアノを弾きだした。

いつか、エスファンテにいた頃に三姉妹の物語を音楽にしたことがある。おしゃまな末っ子と、しっかりもののでもどこか抜けている長女。二人を見てそれを思い出し、可愛らしい春の曲を奏でる。
「わ、素敵」
感動して立ち尽くしているエリーゼに、「座りなよ、弾きだすとオリビエは当分あっちの世界だから」とヨウ・フラはそそくさと自分の隣のクッションをよけ、特等席を作る。

「ええ、あっちの世界って?」視線はオリビエに向けたまま、少女はふわりとヨウ・フラの隣に座った。
「妄想の世界」
「妄想?変なの」
「今に分かるよ」
ヨウ・フラが言う理由を気にかけていたはずが、美しい音と青年を眺めているうちにそんなことはどうでもよくなっている。小さな妹と知らずに手を握り合い、いつもうるさいアナンが黙り込んでいる不思議さにも気付かない。

オリビエが演奏を終わったときには目の前に置かれた紅茶はすっかり冷め、菓子にも一つも手をつけていないままだった。

じっと固まったように見つめている少女二人にオリビエは小さく笑い、話しかける。
「そろそろ、陽が暮れるけど。君たちは大丈夫なのかな?」
目が覚めたように姉妹は慌てて外を見る。すでに、木立の陰になったそこは真っ暗だ。
「え?!本当、大変!」
立ち上がった少女に、「ね、あっちの世界だろ?」とヨウ・フラが笑い、「もう、言ってくれればいいのに!意地悪ね!」と反撃される。
「なんだよ、妄想にはまってるから悪いんだろ」
「妄想って言う言い方止めてくれないかしら!ステキすぎて、夢中になっちゃったの!」
「そんな可愛くないこというと送っていってやらないぞ」少年が口を尖らせれば、エリーゼは可愛らしく舌を出す。
「平気だもの!私たち、すぐお隣だから」
「隣?」
「そう、お父様がパールス教会の司祭をなさっているの。オリビエさんの音楽はね、教会に来る方たちの間で有名になっているのよ。だから、様子を見てきて欲しいってお父様に言われているの」

「あ、ミサの邪魔をしているかな、僕」
オリビエはオルガンの音に触発されてよくミサの時間に楽器を弾いた。礼拝堂までピアノの音が届くとは思えなかったが。
「いいえ、あのね、オルガニストのロスノさんが腰を悪くされて、毎日は弾けないっておっしゃっているの。だから、オリビエさんにお願いできたらいいなって、これは私が今考えたんだけど。そうお父様にお願いしてみるわ」
「え?」
「素敵な演奏ありがとうございます!さ、アナン、行きましょ!怒られちゃうわ!」
慌てて駆けて行く二人を見送る。オリビエは「嵐みたいだ」と笑い、ヨウ・フラを「送っていかなくていいのか」とからかう。ふと、キシュと自分、そしてズレンの様子を思い出す。

「あ、じゃあ、また!」と慌てて少女たちの後を追う少年にオリビエは目を細めた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十七話③

第十七話:飛びたてるのか



「お前さ、そんなでオペラをかけると思ってるのか」

オリビエはふと手を止めた。
「ほら、せっかく有名どころを持ってきてやったんだから、ちゃんと楽譜どおりに弾けよ。普通なら手に入らないんだ」アーティア先生は厳しい口調で置かれた譜面をつんつんと叩いてみせる。オペラ『魔の笛』の第一幕。発表されたばかりの新しいものだ。アーティアは楽団の仲間とヴィエンヌ郊外で上演されているのを観て来たと言う。その楽譜と台本を手に入れて、オリビエの参考にと持ってきてくれたのだ。

「ここ、なんで記号無視するんだよ。ここは劇中でタミーノとパミーナとの出会いなんだぞ。チェンバロのアリア、静かにかつロマンチックに。楽譜の読み方分かってるんだろう?」
厳しい口調の青年に、オリビエはうなだれるしかない。台本を見せてもらったが、物語の舞台となるエジプトは想像できる国ではない。夜の女王をつい、アンナ夫人に見立ててしまう。
「う…分かってるけど」
「けど、なんだよ?」
「……キシュと出あったときのことを思い出すとどうしても犬が出てきて」
ランドンがわふんと、鳴く。キシュは赤毛を一つに縛って真っ直ぐ背筋を伸ばし、窓の下から生意気な口を利いた。

「ほらまた、勝手に弾いてる!犬は出てこないし!王子様と夜の王女の娘との出会いだぞ?」
「…ごめん」オリビエは鍵盤の上で拳を握り締める。
ともすれば感情のまま、また奏でてしまいそうで。

侯爵のためにいくつもの曲を作曲した。それはどれもチェンバロの独奏曲だったし、それほど長いものではなかった。物語を題材にしたこともある。だから、書こうと思えば書けると考えていた。しかしオペラの歌曲はオーケストラ。歌も入れなくてはいけない。
まともにオペラを見たことがないオリビエには、どうしようもなく想像しがたいものだった。楽譜だけ見て聞いたことのない楽器の音を想像しろという方が無謀なのだ。第一、オーケストラ用の楽譜自体、普段の五線譜とは違うからそれだけで圧倒される。

「自由に弾いてきたんだろ、たまには窮屈でも我慢しろよ。せっかく練習に付き合ってるのに意味がないだろ」
アーティアに肩を叩かれオリビエはうなだれた。
「アーティア、そう怒るなよ。感謝してる。僕一人じゃ、すぐに音に飲まれちゃうから」夢中になってしまう。そしていつの間にか自分の気持ちを指が勝手に表現しているのだ。
「ほんと、そこだけは才能あるよな。現実逃避してるんじゃないか?」
オリビエは手を止めた。
「現実、逃避?」

そんなことは初めて言われた。思うままの演奏をひどく誤解された気分になる。楽しくても悲しくても、オリビエは思いを音に変えた。それが、逃避だというのは流石に抵抗がある。
楽譜を読む、音を聞き分ける、奏でる技術は不足していない。ただ、理論や知識が不足し、作曲家の気持ちになりきれないだけだと思うのに。

アーティアは伸びをし、一人ソファーに座った。投げ出した足は少々行儀が悪い。そういうところは、アーティアが商人の息子だという片鱗をうかがわせた。
オリビエと二人きりになるとアーティアは少しばかり口調も態度も粗野な感じになる。

「違う、と思うけど。現実逃避じゃないよ」
「俺はさ、育ちのせいもあるけど、思ったことは包み隠さず言うぜ?皆がちやほやしていても俺は本当のことをお前に言ってやる。それがお前には腹立たしいことでもな。それが友達って奴だろ」
アーティアに手招きされ、オリビエは口をへの字にしたまま青年の隣に座った。
脚を組んでいる青年の隣で、両膝を揃えて座るオリビエは自分自身が小さく見える。実際少しオリビエのほうが小さかった。

「いいか。今のままじゃ、お前はまともな音楽家になんかなれないぞ。十三から誰にも習っていないんだろう?その歳じゃまだ楽器を覚えた程度だ。そこから新しい楽曲や歌や弦楽器、オーケストラ、いろいろなものに触れ、挑戦して成長するんだ。もちろん、教えてくれる先人がいる。音楽の世界は広いんだぞ。このオペラの作曲をしたヴォルフガング卿が何のために広い世界を旅していたと思う。彼は幼い頃から旅先で新しい曲を書いていたんだぞ。閉じ込められて、自分の曲以外は一切耳を塞がれていたお前は。……いつまでも、十三歳のちょっとばかり魅力的な演奏のできる奴ってだけだ。音楽家などと呼ばれるのもおかしい」

オリビエは唇をかみ締めた。
侯爵家に楽士として迎えられれば音楽家なのか、といわれれば、違うかもしれない。実際に【出し惜しみ】されてきたオリビエの実力や演奏を知るものはあまりいない。侯爵家とその友人たち、わずかな人々が楽しんでくれただけのことだった。

「お前はそれをよく分かっているんだ。分かっているから、だから余計に現実から目をそらしているんだ。侯爵様が、侯爵様がってさ。命令なんだから仕方ないって。侯爵様のせいにしているんだろ?自分に勇気がないのを」
「そ、……そんな、こと」
オリビエは何度も瞬きする。

「だいたい昼間は自由なくせに、忠実な犬みたいにこの屋敷を守って動かない。オペラを本気で学びたいなら自分で観に行けばいい。それすらしないで安心なこの家の中で自分の殻に閉じこもっているだけなんだ。お前が自分から出ようとしない限り、俺はお前を連れ出してやらない。オペラでも教会でも演奏会でも。俺は自分で聞きたいからパンを減らしてでも聞きに行くんだ。ここでぬくぬくしているお前とは違う。いいか。お前が自分で決めるんだ。侯爵様と対決するかどうかはお前が決めることなんだ。俺のせいにされるのはごめんだからな。自分の意思で、自分のために行動してみろよ」

教会のオルガンが静かに響いていた。
「だ、だけど」
「侯爵様は。お前の音楽の才能をつぶしているんだ」
オリビエは目をつぶる。
それは、それを言われては。
「僕は、侯爵様に拾っていただいたから、だから音楽を続けられたんだ!両親を亡くして僕を引き取ってくれた、だから!」
「侯爵様はお前を楽士として引き取っておきながら、飼い殺しにした」
殺しという響きが何か黒いものを心にしみこませる気がして、オリビエは「アーティア!!」と声を大きくしていた。
「お前は、それを認めたくないから、他の楽曲から目をそらしているんだ!真剣に向き合って演奏できてないじゃないか!それを現実逃避だって言っているんだ!ホンモノの音楽家になるなら、ここを乗り越えなきゃだめだぞ!お前、だめになるぞ」

オリビエは頭を抱えていた。頬にかかる髪が視界を遮る。
「僕は、侯爵様に感謝してる……僕は…」侯爵様に奏でた最初のレクイエムがどこかで響く。あの時、侯爵様が笑ってくださったから、僕は泣くことができたんだ。必要とされたから、悲しみから立ち直ることが出来たんだ。
「もういいよ、もうお前の世話なんかしてやらない」
アーティアは立ち上がって扉の方に歩き始める。
「ま、待って!」
黙って振り返る表情は険しい。癖のある黒髪が炎のようにゆらりと揺れた。

「……あの」
その強い瞳を見つめ返すことが出来ない。
僕は、本当は。

空に憧れていた。
ずっと、あの空を眺めていた。今、目の前に自由があるかもしれないのに。
自由になりたくてそればかり考えていた。アネリアのこと、キシュのこと。
失った恋も自由も。僕自身のせいだ。
革命の最中あがいて、ズレンに迷惑をかけた。結局侯爵家の庇護の下でなくては生きられないのだと思い知った。

いつかモスが言った。
鳥はいつも必死に空を飛んでいる。飛べなくては生きていけないから。
僕にその覚悟が、ない。

ばたん、と。床の大理石の模様に扉の閉まる音が重なった。
顔を上げればリビングに一人きり、立ち尽くしている。


かすかにオルガンの音。
オリビエは窓辺に近寄り庭を眺めた。
美しい庭、公園の森。憧れていながら、そばに行こうとしなかった。

分かっているんだ。空ばかり眺めるようになったときから、僕は。このままじゃダメだ、このまま侯爵様の元にずっといたら、きっと。歌を忘れた鳥のように、なってしまう。飛べない鳥は歌えなくなる。
分かっていたけど。籠の中は、安全で……。


一つ息を吸い込んだ。

そろそろ傾きはじめる日差しに森は影を濃くしていく。
オリビエはいつもヨウ・フラがしているように、庭に降り立った。
リビングを出ればとたんに、オルガンの音と風が木々を揺らす音に包まれた。こんなに日差しは眩しかっただろうか。風にはかすかな花の香り。髪をすり抜け肌を震わす初秋の冷気。気付けば自分を抱きしめていた。

しばらくじっとしていたが。

オリビエはふらふらと庭を横切り、柵を不器用に乗り越えた。公園、教会。そして荘厳な音を響かせるパイプオルガン。惹き付けられるように教会の中へと入っていく。


「今日はお早いお帰りですね」そうメイドのテッヘが淋しそうに送り出す。
屋敷の前でアーティアは馬車に乗り込もうとしていた。
背の低いメイドの向こうにふらふらと歩く青年の姿。風に亜麻色の髪が揺れた。
「……」
「あの、どうかなさいました?」
荷物を手渡すメイドにアーティアはオリビエの前で見せるのとは違う、上品な笑みを浮かべた。「いいえ、何でもありません。また来ます」
「はい、オリビエ様お一人でお淋しいようですから。是非、いらしてください」
初老のメイドはリンゴ色の頬を緩ませ笑った。


次へ♪

「音の向こうの空」第十七話 ④

第十七話:飛びたてるのか



人々が木の椅子を軋ませて立ち上がる。ざわ、とかすかな人の話し声が心地よい。オリビエは礼拝堂の一番後ろでじっと座っていた。
教会の聖堂は想像以上に立派だった。このヴィエンヌに来る途中立ち寄った、サルツブルクの聖堂を思い出した。
ミルク色の大理石の床が広がり、バジリカを支える柱は緑色の大理石。深い色の木の椅子と机が並ぶ。聖歌隊は礼拝堂を見下ろす高さにあるパイプオルガンの前に並び、その背後で奏者は見えないが巨大な金色のパイプが天に向かって伸びている。音響を考えられたつくりなのだろう、だから、この美しい絵画を施された礼拝堂の天井にも音がこだます。
ステンドグラスはシンプルなものの、フレスコ画の鮮やかな色が聖壇の艶やかな金とあいまって得も言われない美しさだ。

扉の前で人々が帰るのを見送っていた司祭がオリビエに気付いた。
一人だけ、座ったままの見慣れない青年。
「あの、どうかなさいましたか」
司祭は気遣ってオリビエの顔を覗き込む。
オリビエは慌てて目元を擦ると、立ち上がった。
「いえ、あの。オルガンが素晴らしくて余韻に浸っていました」
「もしや、あなたはアナンの言っていたオリビエ様では?」

アナン、あの小さな女の子だ。あれ以来時折ヨウ・フラがつれてきたが、アーティアの練習が始まると聞くに堪えないのか来なくなってしまった。
オリビエに怒鳴りつけるアーティアにおびえたのだ。姉のエリーゼは「あたし、アーティアって嫌い」と口を尖らせて睨んだ。あれ以来、二人の顔を見ていなかった。もう、一月になるだろう。子どものことだからすっかり忘れられているのだと思っていた。

「どうして、それを…?」
「私はラドエルと申します。娘のエリーゼから優しげなクランフ人の青年と聞きました」
司祭は目を細め、穏やかに微笑んだ。


オリビエは改めてパイプオルガンの前に立ち、見上げた。
巨大。
立ちふさがるように、囲むように金の大小のパイプが並ぶ。
先ほどの司祭に見守られながら、そっと黒い椅子に座った。

鍵盤はピアノより少し軽い。オルガンはピアノとは違う。和声音楽が良く似合う。小さな音が出ない代わりに、ドラマチックな和音が鳴り響く。間近では耳を塞ぐほどの音量だ。
いくつか聖歌を奏で、自分の楽曲を奏でた。

一度は席を立ち、自分の部屋へと戻ったというオルガニストが顔をのぞかせた。
丸い鼻の予想以上に小柄な老人は、面白そうに目を輝かせ、曲がった腰を支えるようにひょこひょこと近づくと、オリビエの演奏に聞き入った。
司祭が耳を寄せ、「かのオリビエ様、だそうです」とささやけば、男は数回頷いた。

いつの間にかまた、自分の世界に入り込んでいたオリビエが我に返った時。「すごーい」という無邪気な声とともに拍手が沸いた。
振り返れば聖歌隊の少年たちと、アナン、エリーゼ、そして司祭たち。大勢に囲まれていた。

「あ、すみません、勝手に」
「素晴らしい!普段はピアノを弾かれるとか。即興でこれだけオルガンの特質に合わせた演奏をなさるとは、尊敬しますよ。私はロスノ。この教会のオルガニストです。あ、いや、オルガニストだった、ということかな?これは」
老人は笑ってオリビエと握手を交わした。
「オリビエ・ファンテルです」
「大司教め、こんな隠し玉を持っているなら早く逢わせればいいものを」とロスノは細い目でちらりと背後のラドエル司祭を睨みつけた。睨まれたほうは、「いえいえ、とんでもない!たまたまいらしていたので、オルガンの演奏をお願いしたまでで」と慌てる。

司祭が困った様子。
「すみません、僕がオルガンに触れてみたいと、そう、お願いしたんです、この方はなにも」
とオリビエも説明する。
オリビエのそれは逆効果。老人は不機嫌に鼻を鳴らした。

「何、せっかく私が認めようというのに、触れてみただけ?冗談じゃありませんぞ?お遊びで弾いてみたとは」
「え?あ、すみません」
ますます不機嫌か?

ラドエル司祭は「ロスノさん、それでは!」と小さく叫び、難しげな顔で頷く老人からオリビエへと視線を移す。司祭はなぜか満面の笑顔。
わー、と。周囲にいた少年たちやエリーゼまでが歓声をあげた。

「ええと?」
意味が分からない。
オリビエは彼と司祭、取り囲む子どもたちを見比べる。

「オリビエさん、是非お願いします!」ラドエル司祭はオリビエを見つめる。
お願い?とは、何を。
「すごいね、ロスじいさんが誰かを褒めるの、初めて聞いた」
今ので、褒めている?

アナンが「ねぇ、オリビエ、もう一度弾いて」とオリビエの手にすがり付く。
「あのね、オリビエさん。ロスノさんは腰痛がひどいから、新しいオルガニストを探しているの。なのにロスノさんは音にうるさいから、今まで何人も断ってきたの。初めてなのよ、後継者にしてもいいっておっしゃったのは!やっぱり、私が思ったとおりだわ!」
エリーゼは誇らしげだ。
「決めましたぞ。オルガニストの座を譲るなら、この青年に」
ロスノという老人がニコニコ笑いながらオリビエの手を取った。拍手が沸き起こる。

そういえば以前。エリーゼが何かそれらしいことを言っていたような。

アナンがしっかりオリビエにしがみつく。右に老人、左に少女。
「こら、アナン!ってば、止めなさい!」とエリーゼが妹を追いかけ、オリビエの周りで姉妹の追いかけっこが始まるのと目の前の老人が「いいですな」とにんまりと笑うのをオリビエはただ、目を丸くしてみていた。


次へ♪

「音の向こうの空」第十七話 ⑤

第十七話:飛びたてるのか


陽が夕焼けを作る頃。オリビエがそっとリビングに戻ると、いつもとは逆にヨウ・フラが出迎えた。
「どこに行っていたんだよ!?びっくりしたよ!いないんだから。テッヘさんには庭を散歩しているって話しておいたけどさ」

冷めた紅茶をまず、一杯。オリビエは立ったまま、一気に飲み干した。
呆れる少年を気にもかけず、何かをふるい落とすように頭を振った。髪に絡んだ小さな木の葉にヨウ・フラが気付いて、取ってやろうとする。
「オリビエ、悪戯してきた飼い猫みたいだよ」
不意にオリビエが振り向いた。
少年を抱きしめた。
「ぎゃ!?」
思わず声を上げたヨウ・フラは「ば、ばか、びっくりした、なんだよ、どうしたんだよ」と早口でまくし立てた。
オリビエはぎゅうぎゅうと抱きしめたまま。「放せってば、オリビエ、どうしたんだよ、変だぞ、おかしいぞ、暑苦しいぞ」
ヨウ・フラの肩にオリビエは額を乗せた。
「重いって!」
「……った」
「え?」
ヨウ・フラが黙る。抱きついているというより。オリビエはしがみついていた。助けを求めるように。今年、二十一歳の青年は伸び盛りのヨウ・フラとすでにあまり違わない身長、白い首。外に出ないために肌には沁み一つない。エリーゼが綺麗な人だとオリビエを形容するのも判る気がした。性格の幼さがさらに男らしさを消している。
「僕、教会に行った」
「……で?」
なんだ、そんなことか、と少年はオリビエを貼り付けたまま肩をすくめる。
「オルガンを、弾かせてもらった」
「ああ、そう」それで、感動したのか。
「それで。雇って、もらった」
「へ?」
「明日から毎日、午前と午後二時間ずつ。オルガンを弾いて、お金をもらう」
オリビエはまだ、治まらない動悸を押さえ込むようにまた少年を抱きしめた。
「どうしよう、僕。侯爵様に内緒で、働くことにしたんだ。生まれて初めてだ、働くんだ」
「……それ」
ヨウ・フラがじっとしている。

オリビエは深くため息をついて、少年から離れた。
ヨウとこの街に来た時、語った未来。ビクトールと歩いた街でチョコレートを飲んだ、あの時はビクトールに飲ませて上げられなかった。でもこれからは違う。自分のお金があればこっそりオペラを見に行くことも出来る。馬に乗れなくても馬車を雇うことが出来る。初めてチェンバロに触れたときのように心が躍った。

「ちょっと、待てってばオリビエ」
笑っていると思っていたヨウ・フラが険しい顔をしていることに気付いた。
「あれ。あ、ごめん、きつく抱きしめすぎた?」
「まずいんじゃないか?侯爵様に知られたら、さ。毎日抜け出すなんて、絶対ばれるぞ」

オリビエは黙ってピアノに向かう。
「なあ、まずいって!」と声をかける少年を無視して、曲を弾きだした。
アーティアが持ってきた楽譜。一つ一つ丁寧にそれを再現する。

「大丈夫。僕は決めたんだ。コンクールのためにはオペラを観なきゃいけない、もっといろいろな音楽を聞かないとダメだ。そのためには、自分で自由に使えるお金が必要なんだ!」決意のこもった視線を鍵盤に向け、オリビエは今日覚えたばかりのソナタを弾き始める。

「そういうの、演奏するために?」とヨウ・フラは楽譜を顎で示す。
「そう、こういうの。いずれ、一人でも生きていけるように」
「……オリビエがいいなら、いいけど」

その演奏はあんまり好きじゃない、その一言をヨウ・フラは喉元までで押さえ込んだ。



あの日、厳しい言葉を残したアーティアはオリビエが彼の勤めるシュタインの工場を訪れるまで侯爵家に近寄らなかった。
オルガニストとして一週間働き、初めて賃金をもらったその脚で、オリビエは乗合馬車を雇い郊外にあるシュタインの工場に駆けつけたのだった。

「やっぱり俺がいなきゃダメなんだよな、なんだかんだいってもさ。けど俺に会いに来たくせに、オリビエはピアノの工程に夢中になってるんだぜ、呆れる」
とアーティアは後にそうヨウ・フラに語った。
笑われても、あの日久しぶりにアーティアに会いに行ったオリビエの、どうしようもなく緊張した様子を話されないだけましだった。


工場は煉瓦を積み上げた単純なつくりで、天井の高いその暗がりに踏み込んだオリビエはきょろきょろと見回す。久しぶりに会ったアーティアは腕組みをしてオリビエを睨みつけた。今更なんだという顔。工場の作業服の彼は違う人間のように見える。木を削る鉋(かんな)の音、鍵盤の塗装の匂いが鼻をつく。
「あの、会いたかった」
一度視線をそらしたものの、オリビエは何のためにここまで来たのかと思い直し顔を上げる。
「……」
「アーティアの言うとおりだよ、僕は逃げてた。だから自分で決めたんだ。パールス教会のオルガニストになった」
「自慢か?パールス教会のオルガニストなんか、望んでなれるもんじゃない」
確かにあれは幸運だった。
オリビエは素直に頷いた。「うん、神に感謝しているんだ」

アーティアは肩をすくめ。オリビエの願う笑みは浮かべもしない。黙って背を向ける。
「僕、幸運だったかもしれないけど、ちゃんと働いているんだ。自分の稼いだお金で買い物もできるよ。今日ここに来たのも自分で稼いだお金で来たんだ」
「侯爵家から?」
オリビエが頷くと、アーティアは天を仰いだ。

「世間知らずは相変わらずだな。オルガニストの賃金なら半日分つかっちまっただろ?それともさすが由緒ある教会はオルガニストにも大金をくれるのか?俺がお前のところに行く時は、いつも侯爵家から出してもらっていたんだぜ?」帰りは侯爵家の契約した馬車で無料だしな、と作業服のアーティアは帽子を取って頭をかいた。
オリビエは翡翠色の瞳を見開いて、首をかしげた。
「え?」
「だから。侯爵家の馬車を出してもらえばよかったんだ。俺に会いに来るためにお前は高い金を払ってきたってことだよ」
ああ、なんだ、そういうこと。と、いつもどおり軽く束ねた髪を揺らしてオリビエは笑った。どこか上品な仕草と白い上着は工場内で目立った。

「会いたかったから。また、教えて欲しいんだ。僕に、本当の音楽を。そのために働いているんだ。ここに来るのにお金を使うのは当然だよ」

言葉を継げずにいるアーティアに通りかかった年配の男が「お客様なら事務所へお通ししろ」と声をかけ、オリビエと目が会うとへこへこと愛想笑いをして見せた。
「客じゃないですよ、友達です。オリビエ、工場を見ていくか?ピアノの原理を学ぶのも勉強になる。仕方ないな、案内してやるよ」
服のポケットに両手を突っ込んで、少しばかり照れくさそうに言ったアーティアに、オリビエはホッとした。また、以前のように通ってもらえるのだ。
先生としてというより、友達として。あのままでは嫌だった。

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「音の向こうの空」第十七話 ⑥

第十七話:飛びたてるのか



心配していたヨウ・フラも「オリビエが街に出るのは悪くないと思うし、いずれ路頭に迷う前に努力するのは必要だから」と二人のメイドに黙っていてくれるよう説得してくれた。
ビクトールがアンナ夫人につきっきりのために、ヨウ・フラがちょっとしたお使いなどをテッヘに頼まれることもよくあった。機転の利く少年はテッヘにもその姪のシェイルにも信頼されていた。


オリビエが教会のオルガニストとなって二ヶ月。季節は夏の盛りを過ぎていた。
週に五回程、午前と午後にパールス教会を訪れる。聖歌の他にいくつかのミサ曲を奏でるだけの簡単な仕事。静かな礼拝堂での仕事はオリビエの気持ちを落ち着けてくれる。燃える蝋燭のかすかな香り、人々の息遣い。外の強い日差しも荘厳な石造りのバジリカの中は冷やりと心地よい。

侯爵にはまだ知られていない。

アーティアは相変わらず毒舌だったが、以前と同様オリビエに新しい楽譜をもたらした。彼が楽団で学ぶ曲の特質や表現方法を聞きながらオリビエも演奏に挑戦する。

皇室宮廷室内楽団の演奏会にも幾度となく連れて行ってくれ、オリビエにもピッコロとフルートの音が聞き分けられるようになった。新市街のはずれで上演されていた「魔の笛」にも数回足を運んだ。

貴族しか入ることの出来ない宮廷歌劇場には、アーティアの計らいで一度だけ入ることが出来た。
壮麗なバロック式の劇場内は、高い天井に歌声が響き、譜面を見るためにオーケストラが灯す小さなろうそくが暗がりの舞台に美しい情景を作る。
着飾った貴族たちの客席ではなく、舞台裏からのぞくだけだったが、めいっぱい背伸びをして立ち続けるオリビエに、大道具係の男が「こいつに乗ったらいい」と木箱を台にしてくれた。「今はまだいいがね、これから夜は冷える。手袋の一つもできない楽士さんたちは大変さね」と、この季節に寒さしのぎではないだろうが尻のポケットから取り出した小瓶の酒をあおった。

オリビエは楽しかった。特に市民が誰でも観られる小さな歌劇場のオペラが好きだった。舞台裏の女優たちや合間に民衆を沸かせる道化師。市民向けの小さな劇場のオペラは一幕きりの短いものが多かったが、どれも楽しい内容で客席もオーケストラも皆が笑っている。
一度舞台裏で立っているオリビエを配役と間違えて舞台係の男が舞台に押し出そうとし、慌ててオリビエは袖の幕にしがみついた。知り合いの監督と話していたアーティアが助け舟を出し、なんとか初舞台を免れたのは、当分の間笑い話としてヨウ・フラにも披露された。

それらの楽しい勉強は、侯爵が仕事で出かけた週末の午後のみに限られていた。平日は午前の二時間と午後の数時間を教会のオルガンとアーティアのピアノ教室に費やした。その間、訪れたヨウ・フラは二人の白熱する音楽を聞きながら一人で勉強していた。

その日もヨウ・フラは一人静かに勉強していた。
アーティアを見送るとオリビエは「ごめん、待たせて。今度はヨウの番だ」とヨウ・フラの手元をのぞいた。
「?あれ?」
いつもの本ではない。大きな紙に文字が印刷されたものを折りたたんで置いている。
「分かった?」
「新聞を読めるようになったんだ」
「違うよ!読んでるんじゃないぞ。僕、校正を任されたんだ。この後、夕方の印刷に間に合わせて、明日の発行なんだ。オリビエだけじゃない、僕だってちゃんと成長しているんだ」

オリビエは紅茶を口に運びながら、笑った。ここでわざわざそれをするのは、オリビエに見せたいからなのだ。文字が書けるようになって校正までできる、少年は誇らしげに胸を張る。

「すごいじゃないか!ヨウは僕なんかよりずっとしっかりしているよ。印刷工場に住み込みで働いて、時間さえあれば僕の世話もしてくれたり、新聞社で雑用も引き受けたりしてる。尊敬しているんだ」
ふん、と照れくさそうにいつもの清ました顔を作ると、ヨウ・フラは自分も紅茶を飲もうとカップを持ち上げる。
「あのさ、オリビエの曲、弾いてほしいな。練習している曲は下手じゃないケド、なんかつまらないんだ。オリビエのいつもの、アーティアが奔放だとかでたらめだとか言う、あの演奏がいいな」
ヨウ・フラの大きな目は真っ直ぐオリビエを見上げる。

「僕はオリビエのままの曲が好きだ。誰かの曲を真似ているのは好きじゃないよ。オリビエ、気付いている?公園でオリビエの演奏を聞きに来ていた人たち。今は、あんまりいないよね」
「それは」オリビエも気付いていた。
「僕が教会で弾くから、だからもう、いいんじゃないかな。教会には大勢来るし」
ヨウ・フラは首を横に振る。
「違うよ。教会ではミサ曲と聖歌だけだろ。皆、オリビエが思うままに弾くのがいいんだ。エリーゼだってそう言ってた。オリビエが何のためにアーティアに音楽を習うのか知らないし、僕には音楽の良し悪しは分からないけど。オリビエの曲が好きなんだ」

「うん。そうだね。ヨウ、ありがとう」
「なんでありがとうだよ?」ヨウは持っていたペンの手を止めた。新聞から顔を上げる。
「僕のこと好きって言ってくれた」
「音楽が、だよ!」
「同じことだよ。僕は、自分の演奏を覚えていないような未熟な音楽家だけど、それを誰かが好きだといってくれるのは、やっぱり嬉しいよ」

オリビエは静かで温かい旋律を奏でる。ピアノの音色すら違って聞こえる。ヨウ・フラは久しぶりにオリビエ本来の演奏を聞いて確信した。
そして、オリビエが演奏をし終えるのを待った。

嬉しそうに、本当に楽しそうに演奏するオリビエ。幸せそうなオリビエが鳥でも空でも雲でも。好きなものに浸りきって紡ぎだす音色は日々変わる夕焼けに似てどれも美しい。
そう実感すればするほど、どきどきする。
この音色が好きなんだと少年に自覚させる。オリビエはやはり特別だ。

「あ、ごめん、夢中になってた」
そう笑ってオリビエが手を止める。

はっと。ヨウ・フラが目を開けたとき、棚に置かれた時計は約束の時間を指している。
「わぁああ!!!まずい!」
慌てて新聞を抱えると、ヨウ・フラは風のように走り去る。
庭の向こうに。
「オリビエ!やっぱりそれが、いいと思う!」
そんなことを叫びながら。

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「音の向こうの空」第十七話 ⑦

第十七話:飛びたてるのか



ピアノの前に座ったまま見送るオリビエに、紅茶を下げに来たメイドのシェイルが声をかけた。
「久しぶりにオリビエ様の曲を聞かせていただきました。練習とはいえ、アーティア様のお持ちになる曲は難しいですし、すぐに怖い先生に中断されてしまいますから」
まだそばかすの残るメイドはかすかにウインクしてみせる。テッヘの姪で、メイドの経験はなかったが田舎からヴィエンヌに出てくる丁度いい口実だったとかで、外国人の世話も買って出たのだ。少しばかり乱雑なところがあるが、元気のいい娘だ。

「あ、うん。そうだね。本当は誰の作った曲でも、僕らしく演奏できなきゃいけないんだ。まだまだ、未熟なんだ」
「ですけど、オリビエ様」
くすとそこでシェイルは笑った。トレーに片付けるティーポットがちりと音を立てた。
「なんだい?」
「オリビエ様の曲の時には、奥様もお部屋の窓を開けて、そっと耳を傾けておいでですよ」
ふ、とオリビエはアンナ夫人の姿を想像し微笑んだ。

「嬉しいよ。奥様は相変わらず、なんだろ?」
「はい。ビクトール様とお出かけになってお買い物などなさると少しは心が華やぐようですが、お部屋に戻られるとじっとして。にこりともなさいません。以前の少しやかましいくらいの口調が懐かしいです」
何度か注意された作法を思い出すのだろう、肩をすくめる。
「……侯爵様は、おそばにいるのかな」
シェイルは黙って首を横に振る。「私は夕食の片づけをすれば帰りますので。存じません。ビクトール様ならよくご存知でしょうけど」
知っているだろうけれど。
アンナ夫人のそばにずっとついているビクトールとは、夫人がオリビエを避けているからだろう、顔を合わせることもあまりない。オリビエが一階と寝室のある四階とを階段で行き来しているが、アンナ夫人の寝室は二階、わざわざ立ち寄ることもしていない。
それでも。オリビエの音楽を楽しんでくれているらしい。


だとしたら、この演奏も届くといい。そんなことを願いながら、その夜もオリビエは侯爵との唯一の時間を過ごしていた。
開け放った窓はかすかな夜風をリビングに招きいれ、虫の涼やかな声とピアノが月夜に流れる。
「月夜には、虫たちも喜ぶんですね」ぽつりとそんなことを呟いて、オリビエは静かな小夜曲を奏でる。夜の風には木々の溜息がこもっている。しっとりとした風に少しばかりピアノの弦が鈍い。慈しむように鍵盤を叩く。
月が雲に隠れればオリビエの曲は変調し、より緩やかな密やかに。小さな音を操るそれはアーティアには嫌われた。けれど、目の前の侯爵のために奏でるなら、かすかなピアノの息遣いをも逃さず伝えられる。他の楽器に負けないように演奏する必要もない。

このためらうような静かな音色を奏でるのが好きだ。そしてきっと、ヨウ・フラも好きだといってくれる。目の前の侯爵も。アンナ夫人は聞いていてくれるだろうか。そばにいなくても、侯爵様と夫人が同じ曲を聞き同じ気持ちになるのなら、それは幸せなのだけれど。

侯爵は目を細め、その内呼吸がゆっくりになった。眠くなったのだろう。リツァルト侯爵はいつものように少しだけ身体を傾け、左の肘掛にもたれかかる。

おやすみなさい、侯爵様。
ひっそりと眠る侯爵を眺めているうちにオリビエはいくつか、歌曲に出来そうなものを思い浮かべた。


翌日。それを必死に思い出しながら、アーティアの前で演奏して見せた。
アーティアは難しい顔をしていたが、それってさ、といいながら、五線譜に音符を書き込んでいく。
「あれ?」
「なんだ」
覗き込んで目を丸くするオリビエを、アーティアは上目遣いで見上げた。
「それは?」
「今、お前が弾いた曲。こうじゃないか?」
アーティアが示した楽譜を見てみれば、何となくオリビエが先ほど奏でたそれ。
「すごい!アーティア、聞いただけで譜面に……」
「ばか、お前も出来るだろ?」
そういえばそうだった。

キシュは聞いたものを歌う。キシュが歌ったものをオリビエが聞いて、譜面にする。
聞いたものを譜面に出来る人間がオリビエの他にもう一人いれば、キシュの役割はなくていいのだ。オリビエが奏で、アーティアが譜面に残す。
「それ、いい!アーティア、お願いがあるんだ。もう、いくつか、ほら、レイナドさんが置いていった台本で曲を考えたんだ。でも、演奏するたびに夢中になるから上手く譜面に出来なくてさ」
「だから、それを直せって言っているだろ」
「でも、アーティアが書いてくれればいいじゃないか!ね、お願いだ!」

しぶしぶ頷くアーティアに、オリビエは五線譜の束を渡すと、そそくさとピアノの前に座った。
「いいかな。まずは序曲から。夜が明けるシーンだ」
オリビエはほう、と息を吐いた。思い切り、そう。物語に浸りきって演奏できる。それだけでオリビエはわくわくしてくる。
そっと鍵盤に指を触れる。
と、それは唐突な鳥の声。密かな草の下で煩そうに応える虫たちの声。かすかに、柔らかく、そして朝日が差し。徐々に日差しの色が地に這う蒼い影を奪い去る。波が引くように、かすかな跡を残しながら。

「と、どう?」
ともすれば聞き入ってしまいそうになるのを奮い立たせ、アーティアは書き上げた楽譜をオリビエに見せた。
「すごい!嬉しいなぁ、このあたりはね、ピッコロの可愛らしい音にしたいんだ。ほら、この間聞かせてもらった、皇室室内楽団の少し太った人。あの人の音色がすごく綺麗で好きなんだ。じゃあ、第一幕。導入部に、流れるようにつなげてアリアだ」
自分の曲を奏でるときは夢中。子どものように目を輝かせ、第一幕の八曲を演奏すると、続けて第二幕。
アーティアがじっと我慢して書き続けるところに、ヨウ・フラが顔を出した。
夢中になっているオリビエは気付かない。アーティアもちらと睨んだものの「口出すな」と言わんばかり。眉間にしわまで寄せて手元に集中しているらしい。二人の様子を読み取ってヨウ・フラはそっとソファーに座った。
昨日言いかけた、「アーティアに教わる必要なんかない」という言葉を飲み込んだまま。

第二幕を九曲。そして終幕に二曲。フィナーレのバラードは切なく、終わりを告げた恋を奏でる。


オリビエが鍵盤から手を離した。
「す、すごい!」
叫んだのは、ヨウ・フラ。短い作品とはいえ、オペラの台本一本分をすべて演奏すれば二時間を超える。台本の内容を知らなくても、シーンごとに変化していく楽曲に劇中の情感を感じ取り少年は瞳を輝かせる。一方、裏方に徹していたアーティアは疲れきった様子で、「一気に全曲弾く奴があるかよ!バカ!」とペンを持つ右手を何度もさすった。

「ごめん、頭の中で開演しちゃうと止まらなくて」
何度も読み返した台本の台詞はほとんど頭の中に入っている。オリビエはアーティアがテーブルに積み上げた楽譜の束をぱらぱらとめくって眺め。満足そうに笑う。

「まだインクが乾いてないぞ、触るなよ。俺の苦労をなんだと思ってる」とアーティアに窘められた。
「ありがとう!アーティア、すごいよ!複雑なところもあったのに」
「一応、音楽家だし。多少抜けてるところもあるし、書き込みきれなかったのもあるけど。皇室室内楽団の名に恥じない働きだっただろ?」
オリビエはにんまり笑う青年に抱きついた。
「ありがとう!アーティア、君は最高だ!」
「……こっちはお前が女なら最高だけど」
「無茶言ってる。僕、母さんの代わりに女になれって言われたことがあるよ」
「なんだそれ」
「女装したの?オリビエ!」ヨウも目を真ん丸くしていた。
「違うって。そばにいろってさ」どう話したらいいのか、嬉しさのあまり話題にしてしまったそれは、ロントーニ男爵を知らない人には説明しにくい。
「じゃあ、男色家だ!オリビエも?もしかして?」と叫んだヨウ・フラが一歩下がる。同時に両手を万歳させ、アーティアも離れた。

「違うよ、違うって!変な誤解するなって。母さんの代わりにそばにいろって、そういうことだよ」
当時オリビエも理解不能だったが、多分、意味はあっている。

「それ、侯爵様?」眉を寄せて恐そうな顔をしたのはヨウ・フラ。そうか、といわんばかりにアーティアは手を打った。
「違う…」
「それでなんだ!侯爵様、オリビエのことすごい大事にしているし。今も、毎晩一緒にここで寝てるんだろ?」
ヨウの声は響き渡るし、その表現は誤解を生む。
「違うって。そんなこと……」

耳のいいオリビエは気付いた。
「アンナ様!」とビクトールの声が廊下に響き。走り去る。
アーティアも気付いて表情を引き締めた。が、すぐににやりと意地悪な顔になる。
「え?」ヨウ・フラは二人の様子に首をかしげる。
「どうかした?」
「アンナ夫人に、聞かれたんだろ、今の。で、走り去ったのをビクトールが追いかけた」
アーティアが説明する。
「つまり。夫人はオリビエと侯爵がそういう仲だと誤解した。なんだかなぁ、女ってのはこれだから」とアーティアが呆れる間にオリビエもリビングを飛び出していた。
ただでさえ、侯爵の愛情が得られずに臥せっている夫人に、そんな誤解をさせてはあまりにも可哀想だ。

確かにオリビエのところに毎晩来る。音楽を聞いてそのまま眠ってしまう。その時間をアンナ夫人と過ごしてくれればすべては解決できるのかもしれない。だが、オリビエが口を挟めるものでもない。まして、自分がアンナ夫人と関係があったと告白した後だ。そんな自分に、侯爵にアンナ夫人のそばにいて欲しいなど言えるはずもなかった。

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「音の向こうの空」第十七話 ⑧

第十七話:飛びたてるのか



二階の一番西の部屋。オリビエが駆けつけたとき扉がかすかに開いていた。
立ち止まり、息を整える。なんて、説明すればいい?誤解です、と。ありのままを言うしかない。彼らは冗談で、ロントーニ男爵のことを侯爵と勘違いしたのだと、いや、そこまで言わなくてもいいのか。

胸に手を当て、息を整え、オリビエはそっと、扉の中をのぞく。
静まり返っていた。


「奥様、大丈夫です」
ビクトールの声。薄暗い室内。天蓋付のベッドは、薄いレースで囲まれている。そこに二人がいるようだ。なんと、声をかけようか。
「でも、侯爵様は、オリビエと毎晩過ごしています、それは紛れもなく真実。私のことなど、侯爵様は…」

違う、と否定しようと、オリビエは一歩踏み出す。二人の様子がすべて目に入った。
「もうお忘れください。奥様は私が護ります」

二人は抱き合い、風にわずかに揺れたレースの隙間から、ビクトールが抱きしめる細い腰が見える。乱れた髪をかきあげ。ビクトールはアンナ夫人の胸元に、口付けた。


息苦しい。
自分が締め付けられているように感じ、目が放せない。
何を、している?

ビクトールは。
アンナ夫人は、なにを。

夫人の肩が顕わになる。
侯爵の愛情が欲しいのではないのか。そうして嘆いていたのに、ついさっきまで、いや、常にそのことばかりを口にするくせに、なぜ。
「やめろ!」
オリビエは叫んでいた。
びくりと振り返る二人。
「そんな、そんなことだから!侯爵様はそばに寄らないんだ!ビクトール、大切にするってそういうことなのか!?アンナ様にとって何が大切か、分かってるはずな……」
どん、と。受けた衝撃でオリビエは開いたままだった扉に背を打ちつけた。
転がって頭を振り、体を起こすと目の前に大きな靴。床に手をついたオリビエの前でそれは不意に振り上げられ。
「!?」
ドン!と。踏みつけられた。
寸前で手を引いたオリビエは、胸の前で庇うように手を握り締めしりもちをついたまま後ろに下がる。
見上げるビクトールの表情は見た事のないものだった。
ぶん、と振り上げられる脚。
オリビエは腕を庇って丸くなる。
背中に痛み。
息が詰まる。二回、三回。

「やめ…」言葉を放つことも出来ず、勢いで壁に頭を打つ。
「オリビエ様、あんたがなにをえらそうに言える。散々アンナ様を惑わせてきたくせに、私が、どれほど、お前を憎んでいたか!」

無理矢理掴まれた腕。引っ張られ、引きずられて蹴られる。
「お前の怪我に奥様がどれほど苦しんだか!奥様が罪悪感に打ちひしがれ、一人泣いているのをお前は知っているのか!こんな、手があるから!お前などいなければ、奥様は幸せだったのだ!」
腕を踏まれる。押さえつけられ、動かせない。
右腕。めくれた袖から、傷跡が見える。
ビクトールはそのまま、もう一方の足を振り上げた。

!!

ふ、と腕が自由になり、オリビエは誰かに引き起こされた。
「オリビエ!大丈夫!?」ヨウ、だ。
「あ…」
物音に振り返れば、アーティアがビクトールに向かって椅子を振り上げてけん制している。アーティアも音楽家、素手で人を殴ることなど出来ない。
「オリビエ…」
見れば、アンナ夫人がしどけない服装のまま、オリビエのそばに座り込んでいた。
目に涙を浮かべ、オリビエの手をそっとなでる。甘い香水の香りに傍らでヨウが顔をしかめた。
「大丈夫です、アンナ様。どうか、そんな悲しい顔をしないで」
哀れだった。
ビクトールの叫んだ言葉は真実なのだろう。あの時のことを気にしているのだ。
「オリビエ、ごめん…なさい。私、私のせいで、お前」
「奥様、大丈夫です。ほらもう、こんな小さな傷だけで、演奏に不自由はありません」
夫人は泣きながらオリビエに抱きつこうと白い手を伸ばす。が。オリビエは夫人のはだけた肩を押し戻した。
「あ、お前は、お前は……」そう消え入りそうに泣き声を上げ床に額を擦り付ける。
「アンナ様。それは私になさってはいけません。私の音楽を聞いてくださっていたでしょう?とても嬉しかった」
夫人は床に伏せたまま、首を横に振る、何度も、何度も。

「奥様」
夫人を抱き起こしたのはビクトールだった。
椅子で殴られたのだろう、頬が赤く腫れている。
髭の下の唇は切れたようだ。
オリビエから引き離し、なだめながらベッドへと歩かせた。
アンナ夫人は泣き続け、その背をやさしくなでるビクトールはこちらの存在を忘れたかのように振り向きもしない。


「はぁ、無事か、オリビエ」
アーティアが息を切らせ、足元に置いた椅子にどかっと座る。
「ああ、ありがとう」立ち上がると少しぐらりとめまいがしたが、ヨウ・フラに支えられ、オリビエは歩き出した。「もう、行こう。奥様のことは、……もう」どうしようもないのだと、オリビエは思った。

これまで寂しさにかまけて多くの罪を重ねてきた。
オリビエはそれを侯爵に謝罪し、許しを得た。
アンナ夫人は、今だにそれを打ち明ける勇気がない。だから、自分から侯爵に近づけずにいるのだ。
アンナ夫人を特別に思うビクトールに、間に入って何とかしろというのも無理があった。


「オリビエ、顔色が悪いよ。どこか打ったんじゃないか?」
アーティアが言い、ヨウ・フラも「そうだよ、少し休んだ方がいいよ」と笑って見せた。「じゃあ、俺はこの後用事があるから」とアーティアが階段で分かれ、オリビエはヨウ・フラに付き添われてそのまま四階の寝室に向かった。


次へ♪

「音の向こうの空」第十七話 ⑨

第十七話:飛びたてるのか



「わ、これ蹴られたの?」オリビエの背中に残る足跡に少年は顔をしかめた。
「ひどいな。良かったよ、手が無事でさ。結局、夫婦喧嘩に巻き込まれて、オリビエっていつも損するよな」
「損、っていうのかな」
自分にも責任がある。かつて、夫人と関係を持っていた。命令とはいえ、今思えば拒否することも出来たのではと。かすかに後悔が残る。
「そうだよ、オリビエってお人好しだろ?怒ったところ見たことないしさ。あれだけアーティアに酷く言われても笑ってるんだから。見ているこっちが腹が立ってくる。オペラの曲も出来たしさ、もう教わるのやめたら?」

ヨウ・フラはここしばらく溜め込んでいたそれを口にした。本当はアーティア本人に言ってやりたいところだが、十歳以上年上でいつも怒鳴っているアーティアは少し怖い。ヨウ・フラが無意識にオリビエに訴えるのも、オリビエなら怒らずに聞き入れてくれそうだと感じているからだ。

ベッドに座ったオリビエは、枕を抱きしめて首をかしげる。
「もし侯爵様に何かあったら、僕は独りで生きていかなきゃならないだろ?だから、そのために勉強しなきゃいけない、そう言ったの、ヨウじゃなかったかい?」
「それは、確かにさ、もしものことがあればだけど。でももう、オルガニストなんだし。問題ないだろ。あんなふうに毎日怒鳴られながらピアノ弾いて楽しいの?見ていて痛々しいんだ」
傍から見るとそう見えるらしい。オリビエはそこまでの自覚はなかった。

「でも、友達だから。アーティアは友達だから思ったことを言うって」
「だから、それ違う。友達なら何言ってもいいわけじゃないし。ずっと思っていたんだ。いつも一緒にいるから言えなかったけどさ。どう考えてもさ。アーティアよりオリビエのほうがピアノは上手いよ。あんなに偉そうなこと言ったって、アーティアはオリビエの演奏を真似できないんだ。一度もアーティアの曲っての聴いたことないし。持ってきた楽譜だって模範演奏もしない。そうだろ?なんかずるいよ、アーティアって信用できない」

「ヨウ!そんなこと、言わないで欲しいな!僕は、ヨウもアーティアも、二人とも尊敬しているんだよ!二人がいなかったら僕は何も知らないまま、ここで夫人とビクトールと一緒にじっとしているんだよ。そう思えば僕は君たちがいてくれることで救われている。アーティアに教えてもらうのも本当は口実なんだ。淋しいから会いに来て欲しい、僕の我がままなんだよ」

先ほどの興奮が残っているのか、オリビエが想像する以上に声高になる。
ヨウ・フラは黙り。それから低く息を吐いた。

「分かったよ。ま、今日もアーティアがいなかったら危なかったし。コンクールに入賞したら、それはオリビエのためになるんだよね。侯爵様じゃなくてもオリビエを雇いたい貴族は大勢いるんだ。僕なんかと違ってオリビエはたくさんの可能性があるんだ。正直さ、時々腹が立つよ。僕が今の仕事につけたのは侯爵様の口添えがあったからだし。オリビエはそんなに頼りないのにさ、侯爵様の力がなくてもあっさりオルガニストなんかになれる。ずるいよ」

ヨウ・フラは真っ直ぐ向けていた目をうつむかせた。オリビエは少年の瞳が少し潤んでいるのを見逃さなかった。少年の言いたいことが分からないわけじゃない。彼なりに心配してくれているのだ。

「ごめん、ヨウ。言い過ぎたね。ヨウだって目標に向かってがんばってるじゃないか。校正もできるようになったし、親方には信頼されているんだろ」
ヨウ・フラは小さく「だけど、ラドエル司祭様には」と呟いた。

ラドエル司祭、様?

「ラドエル司祭って、パールス教会の?」

エリーゼの父親だ。パールス教会には大司教を頂点に三人の司教、そして五人の司祭が勤めている。その内の一人エリーゼの父親がオリビエとオルガンを引き合わせてくれた。ヨウ・フラが少女に恋をしているのは傍目に明らかだった。エリーゼもここに来てはヨウ・フラと二人で庭を散歩したり、読み書きの勉強を手伝ったりしていた。その間、アナンはオリビエを独り占めしていたが。返ってそれでエリーゼは妹のお守から解放されているようだった。

司祭の娘と仲良くなっても今のヨウ・フラでは認められない、そういうことだろうか。

「僕も、ちゃんと学校に、行くべきだったんだ」とヨウ・フラはうなだれた。
けれどそれは、両親を失い監獄の下働きとして生きてきた少年には不可能なことだった。最近ヨウ・フラの表情が沈んで見えるのはそれでなのか。

「この国も、革命が起こってさ、身分なんかなくなればいいのに」そう少年は呟いた。あのバスティーユの惨劇を眼前で見てきた少年が、それを願う。争い血を流すことに嫌悪していたのに。
思いつめる切ない気持ちがヨウ・フラの中で傷を作り血を流しているのかもしれない。

「ヨウは知っているかな。クランフ王国の革命を起したのは市民だったけど、その市民を勇気付けたのは新聞だった。そこに寄稿する思想家だった。今はまだ、この国にそういう動きはないかもしれないけど、ほら、言っていただろう?クランフ王国の影響を受けるのを恐れてこの国だけじゃない、周辺の国はどこも緊張感を増しているって。いずれ、変わっていくんだ。クランフ王国の様子をこの国に伝えるだけでも、それは変化を速めるかもしれない」

オリビエはベッドに腰掛けて天蓋から垂れるレースをゆらりと手で揺らした。ランプに透けるそれは怪しく美しく影を作る。

「オリビエ、それ……」
「時の流れは変えられない、多分。君の目標は新聞記者なんだろう?革命の体験を本にするって言っていた、それを書いてみればいいじゃないか。文章を書いて、新聞社に持ち込んでみれば」

大きく見開いた少年の瞳が数回瞬きする。

「こうして、侯爵様と亡命してきている僕が言うのは変かもしれないけど。いずれ身分とか関係のない時代が来るよ。僕がそういう時代に生まれていたら、音楽を奏で続けるために恋人を失う必要なんかなかった。侯爵家の飼い犬とまで言われて、縛られて生きてきた、それでもここにいるのはそうしなければ僕一人では音楽を続けられなかったから。僕はヨウ、君の語る夢に励まされて、アーティアに怒られて、やっと自分で立つ勇気を得た。だから、今度はヨウの番だろう?実現したいことがあって、そのための最善の方法もきっと君は理解している。そうだろ?」

「お、オリビエに言われなくたって、分かってるよ。僕は、本を出す。すぐじゃないけど、思想家みたいに皆に伝えたいことがある。身分やお金や、そういうのよりずっと大切なものがあるんだ。僕は何もかも持っていなかった、だから分かるんだ」

少年の握り締めた拳が少し震え、オリビエはそれを両手で包んだ。

「そうだね。思想家みたい、じゃない。ヨウが何かを伝えて、それに誰かが感動したら、それは立派な思想家だと思う。マルソーが僕の音楽を思想だと言ったのと同じようにね」

オリビエの笑みは温かい。包み込む手もヨウ・フラの働く手よりずっと柔らかく温かい。ヨウ・フラは幼い頃かすかに覚えている母親の手を思い出し、見上げるオリビエをじっと見つめた。

「背はもうあまり変わらないけど、まだ手は子どもだよね。よしよし」
オリビエが立ったままの少年を抱きしめるとヨウ・フラは慌てて突き放した。「子ども扱いするなって!」

その真っ赤になった顔が面白くて、オリビエは笑い出す。もう一度、手を伸ばしてその髪をくしゃくしゃとなでてやる。
「やめろってば!」
文句を言いながらも、ヨウ・フラも笑った。


その夜のヨウ・フラの日記には、いくつかの綴りの間違いを訂正しながら、
『マルソーの言うとおりだった。理由は分からない。だけど、オリビエの演奏は愛おしいと思うし、生き方は興味深い。何で皆が護ろうとするのか、少しは分かった。気付けば、僕自身もオリビエを心配し、気遣っていたからだ。』と、ラテン語で書き込まれた。

次回第十八話「スープに沈む静かなる愛」は12月8日公開予定です♪

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