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「音の向こうの空」第十八話 ①

第十八話:スープに沈む静かなる愛



同じ夜。1791年8月。
革命の勃発から丸二年。クランフ王国内では亡命しようとした国王の主権について、剥奪するかどうかで紛糾していた。剥奪となれば、真の共和制となる。市民が、市民の力で国を治める。それにはいささか民の意識も、議会の理念も、そして憲法や法律も未熟だった。

軍規は乱れ、王家が外国と結託しないか、陰謀をめぐらさないか、その疑念は議会内にも広がっていた。王党派と呼ばれる国王擁護派の議員は締め出された。

国民議会は残った貴族に「共和制への絶対服従」を誓うことを強要した。宣誓しなかった貴族は反乱分子として、投獄されるという。
強硬な議会の姿勢に耐えられずクランフ王国の国境の街や村では、宣誓拒否の貴族や僧侶が亡命しようと終結していた。国境を護る周辺国の連合軍に協力を申し出た。

そうなれば、先に亡命している貴族たちにも従軍の依頼が届く。アウスタリア帝国政府も「自分たちの国の面倒は自分たちで」といった突き放した意見が強い。

亡命したとはいえ祖国を敵に回す行為はつらいことだろうとリツァルト侯爵は従軍を強制しないよう、アウスタリア政府の外務省に掛け合っていた。

だが。
祖国を追われ、民衆に恨みつらみを募らせた貴族たちはそんな愛国心など微塵も見せはしなかった。従軍し、国を取り戻せば元に戻れる、もしそれが叶わなくても従軍によって生活の糧を得られる。

「リツァルト侯爵閣下。貴方のように思慮深い貴族ばかりなら、革命など起きなかったのですよ。ああ、貴方は純粋なクランフ人ではなかったですね。彼らは情に厚く、人が好いが、今ひとつ深慮に欠けるのですよ」

そう、アウスタリア軍司令官に穏やかに笑われ、侯爵は苦い思いをかみ締めながら帰途に着いた。つまり、強制などしなくても、亡命貴族たちは進んで従軍を申し出たというのだ。

ファリで革命の勃発、あのバスティーユの陥落、議会の膠着。そういった、悩ましい全てを思い出していた。
それらを見て、クランフ王国にはいられないと実感したのだ。


リツァルト侯爵が屋敷に戻ると、いつも明かりの灯っているリビングが静まり返っていた。

「オリビエはどうした」
尋ねると、ビクトールは「ご気分が優れないとかで。もうお休みに」と恭しく頭を下げた。
「風邪でも引いたのか」と階段を昇る侯爵。
「たいしたことはないと思いますが」
ビクトールが二歩遅れて侯爵を見上げる。

「いい、私が見る。必要ならルードラー医師を呼ぶ」
そう手でビクトールを制し、侯爵は四階へと足を運ぶ。
見送りながら、ビクトールは静かに燃える視線を侯爵の背中に向けていた。まだ、頬にはアーティアにつけられた赤い傷が残る。


オリビエはぐっすり眠っていた。
昼間の騒動など知るはずもない侯爵は穏やかな寝顔を眺め。起そうか迷う。
ランプの明かりの下、オリビエは眩しそうに寝返りを打ち、それから目を覚ます。
「侯爵、さま」
「具合が悪いそうだが」
額に触れ、熱がないことを確かめると、オリビエの手を握る。
「大丈夫です。演奏できますよ」
オリビエは起き出し、同時に腹の虫がギュと鳴いた。
「あ」
「なんだ、夕食も食べていないのか」
「え、ええ。夕方からずっと、眠っていまして。すみません」
「いい、私もこれからもらう。来い、少しばかり、ビールを飲みたい気分なのだ。付き合いなさい」

まだ少し寝ぼけたままのオリビエはローブを羽織ると、侯爵の後についていく。
侯爵は自らビール工場を管理する仕事に就いているものの、ビールはあまり飲まない。クランフ王国にいた頃からずっと、好む酒はワインだ。何か嫌なことでもあったのかもしれないと考えながら、オリビエは自分に起こった昼間のことも思い出し。
「僕も少し、いただいていいですか」
「飲みたい気分、なのか?」
「ええ、少しだけ」

ビクトールが黙って温めてくれたスープはトマトの味で、煮込まれたキャベツとソーセージ、ビーツとジャガイモがごろりと入っていた。
泡の出る黄金色の酒を二人で飲む。

「そういえば、侯爵様はプロシア人の血を引かれているんですよね。だから、ビールもお飲みになる」
軽い酔いはオリビエを饒舌にする。
心のどこかで、決して語ってはいけない事を数え上げ、鍵をかける。柔らかい肉のソテーと一緒にしっかりと飲み込んだ。

「ああ、そうだ。プロシアの前皇帝の時代には、かの首都に居を構えておった。祖父がまだ生きていた頃だな。時代は変わる。このわしがクランフ王国の血筋のアンナと結婚し、その縁でかの国に住み、その上このようなことになろうとは。皮肉なものだ」
淋しげな視線を消えていく泡に向けている。
オリビエも手元のグラスを眺めた。小さい泡が生まれてはのぼり、そして消える。人生を見たような気分になって、一気に飲み干した。
「どうした。あまり飲むとお前のことだ、歩けなくなるぞ」
「大丈夫です。歩けなくてもピアノは弾けます」
ふん、と珍しく侯爵が笑顔になる。
「侯爵様が、笑ってくださると嬉しいです」
それは素直すぎた。

一瞬、あっけに取られたような顔をして、それからすぐに侯爵はいつもの苦い表情に戻る。
「ふん、贅沢ものめ」と。かすかに呟いたのが聞こえた。
照れている、そう思うとオリビエは酔いも手伝って余計に嬉しくなる。
にんまりと、笑ってしまう。
「お前は何がそれほど嬉しい?また、どこかの女にでも惚れたのか」
「いいえ、いいえ。僕が愛するのは音楽だけ。例え侯爵様でもそれは変えられませんよ?」
「変えようとは思わんが」
ふと、オリビエが真顔になった。
「音楽って、なんでしょう」

そう、呟く。
「……」侯爵がパンをちぎって、ぼんやりしているオリビエのスープに投げ込んだ。
「あ?」
うつむいていた目の前にパンが降ってきた。
顔を上げれば侯爵の目とまともに目があう。
「何を迷っておる」
「あ。いいえ。いいえ。僕は、いつも好きなものだけを奏でています。世の音楽家たちは主人の命じる曲や、流行の曲を奏でるといいます。飽きられてしまわないように常に努力している。僕は何もしていない。それで、いいんでしょうか」

「お前に飽きたら、捨ててみるか?」
「……」
胸がつまった。
音もなく紅く染まるパンに視線が落ちる。

二つ目のパンが飛んできた。
「嬉しそうかと思えばお前は。悪い酒ならともには飲まんぞ。小娘のように好きだの嫌いだの、飽きる、飽きられるだのと。真実に愛するものは常にそばにある。そうしなければ人は生きられないからだ」
見上げたオリビエには侯爵の笑顔が眩しく感じた。
そう、笑顔だった。

「オリビエ、お前にとって音楽とはなんだ」逆に問われ。
失えない、なくては生きていけない。いや、違う、何か違う。言葉を奏で、思いを伝え、溢れる音は。
「……僕、自身」
目を細め、珍しく優しげな侯爵はヨウ・フラと同じことを言っているような気がした。
僕の音楽を好きだと言ってくれている。僕が、自由に思うままに奏でるそれを。

次へ♪
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「音の向こうの空」第十八話 ②

第十八話:スープに沈む静かなる愛



オリビエの奏でるミサ曲は人気が高かった。パールス教会は広い礼拝堂一杯に人が入り、聖歌隊への入隊希望者も後を絶たない。大司教はオリビエを見かけるといつもにこやかに微笑み、「女性が特に増えているのですよ」と悪戯なウインクすらして見せた。

オリビエとは三十以上も歳の離れた大司教がそんな態度なものだから、エリーゼもアナンも自由にオルガンの部屋に出入りする。
孫娘くらいの彼女たちに引かれて前任のオルガニスト、ロスノじいさんも部屋の片隅に専用の椅子を置き耳を傾けていることが多い。

その日の午前のミサが終わった後、ロスノはオリビエの傍らに立った。
「お前さんはピアノも弾くのだろう?何か、曲を弾いてくれんか」
二人の少女の頬が嬉しそうにほころび、オリビエは「ええ、いいですよ。実は昨日、新しい曲を作り上げたんです。今度オペラコンクールにと考えていて」そう笑いながら、オリビエはあの歌曲を奏で始める。ピアノとはまた少し違う演奏になるが、そこは自然と弾き分けることが出来た。
さほど長くない第二幕の三曲を奏でたところでふいにロスノが手を叩いた。その音はやけに響き、夢中になっていたオリビエはびくりと演奏の手を止めた。


「いい曲だった。先ほど言っていたが。宮廷歌劇場のコンクールに、出してみるつもりかね?」
ロスノのいつもは小さな目がちらと光ったように見えた。
「はい。バイエルヌのマクシミリアン候が後見してくださるそうです」
「マクシミリアン候が?確かにあのコンクールには選帝侯に連なる一族の推薦が必要じゃが。なぜかな。リツァルト侯爵が、頼み込んだわけでもあるまい?」
ロスノがいつもの自分用の椅子にもたれかかり目を細める。リツァルト侯爵の【出し惜しみ】は有名だったし、オリビエも侯爵に内緒にしている理由をロスノに語っていた。

オリビエはいきさつを話した。「リツァルト侯爵にはまだ、秘密なのですが。マクシミリアン候にはお世話になったので」と自分の中の侯爵に言い訳するように付け加える。
ロスノはかすかに肩をすくめ、それから腰をたたきながら椅子から立ち上がった。

「マクシミリアン候の兄、カール四世公は毎年音楽家をコンクールに出場させ、良い成績を収めている。どの若者にもそれぞれ後ろ盾がつくが、かの一族ならばそれだけで一流と見なされる。あのツヴァイブリュッケン家は確かな目と耳を持つ」

あのまだ若い青年将校とその一族がそういう人たちだとは知らなかった。体格や雰囲気からどうにも軍人という印象がぬぐえなかった。芸術に資する名門貴族。
このヴィエンヌでも有名なのだ。
あのミュニックでの夜を思い出す。マクシミリアン候のオペラの依頼は純粋な芸術的探求というより政治的な何かを感じさせた。

「だが。それだけに。オリビエ。失敗は許されんのだぞ」
ロスノの口調が厳しくなる。
「え?」
やはり知らなかったのか、と溜息を交えロスノは語った。

「お前さんは本当に世間知らずだの。貴族たちが音楽家を支援するのはなぜじゃ?コンクールでよい成績を収めれば、一族の名誉。その上、作品は有名になり自分の領邦で上演される公演は成功間違いなし。近隣の貴族どもを呼び寄せ自慢げに見せびらかす。逆に」
ロスノは鼻息を荒くした。
「逆に、入賞できなければ。家名を傷つけたと罵倒され、中にはコンクールにかかった費用をカタに一生奴隷扱い、二度と音楽が出来なくなるような仕打ちを受ける者もいる。それでも貧しい若者は、一縷の望みにかけるのじゃ。ツヴァイブリュッケンも同じ。今のお前さんがそれに出る必要はあるのか?」

コンクールにかかる費用。楽器や衣装、楽譜?どこまでを言うのだろう。大金には違いないが、想像もできない。ただ、解雇されるだけではすまないということなのだろうか。

「知りませんでした…そんな」恐ろしいものだとは。
「失敗すれば同時にリツァルト侯爵の名誉も傷つくだろうの。ただでさえ、亡命貴族」
オリビエはロスノのその口調にかすかに嫌なものを感じ、眉をひそめる。
「……侯爵様は、立派な方です」
なぜそういう言い方になったのか、オリビエにも説明が難しかった。アウスタリア帝国とオリビエの祖国クランフ王国とは違う民族。どうしても差別に似た印象を受けてしまう。
悪気がなかったはずのロスノの言葉に過剰に反応してしまった。
不機嫌に眉をよせ、ロスノは言った。
「誰もそんなことは言っておらん。ただ、亡命貴族の先行きなど知れている。どれほど立派な貴族だろうと、いずれは家を絶やすだろう」
もっともな話だった。リツァルト侯爵には跡継ぎがいない。いずれ、老いて絶える。
だが。
「あの。もし、もし僕がコンクールでよい成績を収めれば、リツァルト侯爵さまにも栄誉なことですか?」
亡命貴族、そんな蔑んだ言い方をされなくてもよくなるかもしれない。いや、せめて、【出し惜しみ】の変わり者という印象は拭えるのではないか。

「何を言いたいのじゃ」ロスノは不機嫌を隠さず椅子から立ち上がった。
「わしはお前を心配しておるんじゃ!コンクールで失敗すればどうなるか分からんのだぞ!リツァルト侯爵もそんなこと望んでおらんじゃろう!」
「だけど、成功すれば」オリビエはぎゅと唇を噛んだ。
「成功するなど無理じゃ」
ロスノはアーティアよりはっきりとものを言う。
「…だけど」
「ふん。オリビエ、一つ教えてやろう。お前の先ほどの曲。あれをオーケストラにというなら、音符を半分に減らすくらいの覚悟がいる」
「え?」
「ピアノの独奏曲ではないのだ。すべての音楽家がお前のように演奏できるわけではない。あのままでは、お前以外の誰にも奏でられない幻の歌曲になる。楽譜に出来たかな?無理だと思うが?」

どきりとした。
確かに。うろ覚えのそれを演奏しただけで、楽譜になったものを覚えたわけではない。
ロスノの音楽に関する指摘は的確だと思えた。

「おっしゃるとおりです。僕は、演奏した曲を楽譜にすることができなくて。友人に聞いてもらって、譜面にしてもらったんです」
「無理じゃよ」小さな老人は首を左右に傾け、小さくコキと鳴らした。
「あの…」無理?

「たとえ、楽譜に似た曲を書き写すことが出来たとしても。演奏は同じものにはならん。その楽譜を見て演奏したことはあるのかな?」
オリビエは首を横に振った。まだ、見ていない。昨日のことだったからだ。

「ロスじい、偉そう」と。

緊張した空気に水をさしたのは二人の間で座り込んで見上げていたアナンだった。
「こら」と扉の向こうからのぞきながら妹を呼び寄せようとするエリーゼの姿もあった。

ロスノは姉妹の存在など気にもせず、
「お前さんには他のものにない才能がある。たとえ国立芸術院でもお前に教えることはないだろう。お前にとって音楽は学ぶものではない、表現するものだ。それは芸術としての理想的な形だ」
興奮しているのか顔を真っ赤にしてロスノは語る。
「型にはめるものではないのじゃ。まして、比較し順位をつけるコンクールなど!」
オリビエは言葉につまる。

「あの。よく分からなくて。以前、僕の音楽は一つの思想だといった友人がいましたが。それに似ているのかな」
ほう、とロスノが目を輝かせた。
「思想。なるほど。良い友人を持っているな。理解者は芸術に必要なもの。よいかな、オリビエ」先ほどまでの表情を緩め、ロスノは再びイスに深く座りなおした。
黙って聞いていた少女二人を手招きして呼び寄せると、アナンの頭をなでる。


聖歌のように誰かが作ったものを奏でる演奏家は多い。室内楽団や劇場の演奏家たちも作曲家の作ったものを奏でる。だが、それは歌や曲を作り出せない者が他人の創った作品を借りて自分を表現しているに過ぎない。

自ら曲を作り奏でることのできるお前が、どんな立派な作曲家の作品だろうと、真似をして奏でる必要があるかな?不要だろう?

お前はお前の演奏が出来、それは大勢を感動させる。本来音楽家とはそういうものじゃ。

楽譜などは誰かに同じ演奏をさせるための記録に過ぎない。お前と同じ演奏が出来るものがいないのなら、お前の曲を楽譜にする意味はない。それを無理矢理誰かのための楽譜にするというのは大変な作業だ、そう咬んで含めるようにロスノは語った。

「お前さんにコンクールなど必要ない、いや、出てはいかん」
侯爵も同じことをおっしゃるだろう、と。オリビエには予想できた。


オリビエは口をつぐんだ。落とした視線は鍵盤に置いたままの自分の手を眺めていた。
「危険を冒さずとも、自由に奏で、それで生きられる環境がある。そうじゃろう」
「…ですが。今更、断ることは出来ません。芸術監督のレイナドさんに台本もいただきましたし」
そう、今更。

はぁ、と。ロスノはため息をついた。
「わしからカール四世閣下にそれとなく聞いてみるがの。なぜ、お前を選んだのか気にはなっとる。兄のカール四世はともかく、マクシミリアン候が音楽家を雇うなど、これまでなかったことじゃ。あの弟君、物腰は穏やかだが血気盛んな性分、戦場では有能な指揮官での。この国では飽き足らずわざわざクランフ王国で軍務についていたくらいじゃ」

もし。どうしてもコンクールに出なくてはならないなら協力しよう。そう、ロスノは約束してくれた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十八話 ③

第十八話:スープに沈む静かなる愛



昼食を一緒にと司祭に誘われたが、アーティアが尋ねてくるだろうと丁重に断ってオリビエは帰途に着いた。昼下がり。秋の空も明るく森の木々の向こうに輝く。
コンクールがそういうものだとは想像もしていなかった。
アーティアに聞いてみよう。きっと、弱気になるなと怒鳴られるだろう。


「オリビエ」
呼ぶ声に気付いて足元の木漏れ日から顔を上げた。
その声、は。

公園の小路。針葉樹の太い幹の向こう。
コートを片手にかけた、侯爵。
「なにをしている?」

「あ、あの」
オリビエは慌てた。公園、で、何を。
ええと。
「どこへ行こうというのだ」
「あの」見回しても、だれもヒントをくれない。なんと応えたら。
次に正面を向いた時にはもう、目の前に侯爵が立っていた。
いつものように。肩に手をおかれ。その重みに身動きできなくなる。目を合わせられない。
「どこへ行くのだ」
「教会、あ、あの。ミサに。き、気持ちを落ち着けようと思って」
「オルガンを、弾いてきたのか?与えた覚えのない楽譜や台本があったな」

侯爵の声音は低い。
あのクリスマスの悪夢を思い出す。あの時の侯爵の怒り。
「誰にもらった?あの紋章は、マクシミリアンか」
いいながら、侯爵はオリビエを強引に引き、侯爵家に向かう。
知られてしまった。
まずいんじゃないの、そういったヨウ・フラを思い出す。

「オルガン弾きなど許さん。教会で小金を稼いで、オペラの楽譜など集めこそこそと。一体何をしているのだ、お前は!」


引きずられるようにして屋敷に戻ると、心配そうにテッヘとシェイルが見守っている。つれてこられたリビング。ピアノの脇のテーブルには、オリビエがアーティアに借りた楽譜や台本が積まれていた。
それ以外はすっかり片付けられている。
ソファーに座らされ、オリビエは小さくなっていた。
「お前は何のためにこんなことをしている?正直に言いなさい」
「あの、マクシミリアン候に、作曲を頼まれて」
言うしか、ない。
オリビエは膝の上で両手を庇うように握り締めていた。
「以前、ミュニックでお会いした時に、約束したのです」
「作曲にオルガンは必要なのか?お前には不自由のない生活をさせているだろう。なぜオルガニストになる必要がある?オルガンを弾いてみたいならいくらでも揃えてやる」
「あの、それは……」
「それとも。亡命貴族の行く末を、案じてくれたとでも言うのか」
オリビエは唇を噛んだ。
誇りを、傷つける。それを言えば、侯爵の心をひどく傷つける。いつかヨウ・フラが言っていた。誰かを養うのは大変なことだと。それを、侯爵は立派にやってのけ、オリビエにもアンナ夫人にも何の不安も抱かせないように、毎日大変な仕事をしている。

オリビエの沈黙は、肯定と受け取られた。
「私の前以外で楽器に触れることは許さん」
「!?」オリビエは目を見開いて侯爵を見上げた。
「この屋敷から一歩も外には出さない。ピアノには鍵をかける。私の前でだけ奏でるのだ。私のためだけに」
「わ、私は行く末とか、そういうのでは、なくて…」
「お前には自由などやらん。わしが生きている限り、わしのためだけにピアノを弾くのだ。明日からは見張りをつける」
侯爵はぐん、とオリビエの頭を押した。立ち上がりかけたオリビエは再びソファーに座り込む。
「これはすべて、わしが預かる。マクシミリアン候にはわしから断りを入れておく。お前は自室にいきなさい」
侯爵の背後、テーブルに乗る楽譜は窓からの日差しに白く輝く。眩しくてオリビエは何度も瞬きする。

侯爵は僕が知り合った大切な人を、友達を、すべて取り上げる。何が正しいかなどわからない。真実など見えはしない。
ただ。ひどく悲しかった。
「僕は、また失うのですか」
声が震えていた。
膝の上で握り締めた両の拳を侯爵の手が包み込んだ。
振り払うと同時にオリビエは立ち上がった。

次へ♪

「音の向こうの空」第十八話 ④

第十八話:スープに沈む静かなる愛



「アーティアに言われました。侯爵様は僕を引き取ったときから閉じ込めて育てたと、外の世界から隔離して僕の音楽家としての未来を閉ざしたと」
「お前はわしの楽士。どう育てようとわしの自由」
気付けば侯爵の襟元を掴んでいた。
「お前はあの時、わしに拾われた。お前はわしがいなければ音楽を奏でることは出来ない。それは今も同じだ。好きにさせすぎたな。この屋敷から一歩も離れることは許さん」
「それでも、僕は」
掴んでいた腕が強引に引き離され、そのままひねり上げられた。
「っ……!」
もがいても、侯爵の腕は鋼のように堅く強い。
う、と痛みに唇をかめば次には前髪が掴み上げられた。

「お前は、わしのそばから離れるな。閉じ込めて育てた。当然だ。でなければお前は、こんな風に外の世界に逃げ出そうとする。何の力もないくせに」
「僕は、…僕は一人でも生きていける」
みし、と腕が軋んだ。「!や、め…」痛みに声がかすれる。情けない、が。叶わない。
「指を折られてもか?一人で生きていけるかどうか、試してみるか?」
ぞく、と。震えが背に這う。それだけは。
「僕から、…」
「なんだ?」
オリビエは首を小さく横に振った。侯爵の胸元に額がすれる。もがいても、離れられない。
愛玩動物なのだと感じたことがあった。人間だと、思われていないと。
「痛い…やめてくだ、さい。お願いです」
侯爵の手には力がこもる。ああ、と小さな悲鳴が。悔しいのに、こぼれていく。
左手は何度も侯爵の背を叩く。やめてくれと必死で訴えても、空しい。
音を失う、それは、もう、どうしようもなく恐ろしい。どんな痛みより痛い。
クリスマスの夜。僕には音楽がなければ。奏でられなければ生きていけないのだと、思い知らされた。

「僕から、お願いです、音楽を。音を、取らないで……」
「従うか」
う、と。頷きながらもれたのは嗚咽だった。
緩んだ手から解放され、オリビエはそのまま床に膝をつく。痺れた腕をそっと胸に抱き、恐る恐る指を動かし。握り締めてみる。
強張った痛みにそのまま小さく丸くなる。床に額をつけたまま。オリビエは泣いていた。
かすかに土の匂いを思わせる大理石はあの革命の夜、泥に埋もれた麦畑を思い出させた。自分の陰が造る暗がりに身を沈め、冷たい絶望に打たれながら。
かすれた声のリトーの歌を思い出す。彼女は思いを、貫いた。

「僕は。疲れて帰る公爵様を癒したいと思った。僕の音楽で侯爵様が安らかに眠ることが出来るなら、僕はアーティアの言う立派な音楽家でなくてもいいと思った。ただ、僕が一人で生きていけるようになれば、侯爵様のご負担が減る、そう考えたのです」
圧倒的な存在として見つめ続けた雇い主が、いつの間にか歳をとり、しわが増えていく。それを見るのが悲しかった。亡命貴族と呼ばれることが腹立たしかった。
「侯爵様のお仕事が減れば、屋敷にいらっしゃる時間が増えて。アンナ様の寂しさも解消される、以前のようににぎやかなお屋敷になると」

どさ、と。侯爵は自分の肘掛け椅子に身を寄せた。滲んだ視界にその顔はやけに青白く見え、オリビエはますます胸が痛む。どうしたら分かってもらえるだろう。
「僕は。両親を亡くして、代わりに侯爵様が拾ってくださった。だから……」
「もうよい」

静かな声だった。
侯爵は眼を閉じ、額に手を当てて溜息を吐き出す。
かすかに椅子が軋み、オリビエは唇を噛んだ。

「お前の、好きにするがいい」


オリビエは暗がりの麦畑から顔を上げた。頬に伝っていた涙がひやりと冷たくなる。
許し?
「では……あの。オルガンも、続けて、いいのですか」
「……嬉しそうだな」
「あ、……はい。あのオルガンの音は好きですし。オルガニストの仕事は楽しいです」
「わしを年寄り扱いしおって。お前はいつの間にか生意気になった」

なぜ、急に。侯爵の態度が不思議でオリビエはまだ立ち上がれずにいた。
「お前はここにいるのだぞ。ずっと、わしにお前の曲を聞かせるのだ、いいな」
「僕には他に家がありません。それに言ったでしょう、以前も。侯爵様が僕の音楽を好んで聞いてくださる、それは僕にとって幸せです」

座り込んだままの侯爵は、なぜか動こうとしない。
そっと近寄る。顔色が悪いように思えた。
「少し、疲れた。夕食までお前の曲を、聞かせてくれ…指は、痛むか?」
オリビエは黙って首を横に振るとピアノの前に座る。

柔らかな夜想曲。まだ夕暮れまでは時間があるのに、眠っている侯爵がいるだけでこの部屋だけが夜を迎えたように静まり返った。ただピアノの静かな音が時間を進めていく。
侯爵が寝入ったのを見計らって、オリビエは演奏を終えた。
そっと近寄って侯爵の額に手を当てた。
熱があるような気がする。


次へ♪

「音の向こうの空」第十八話 ⑤

第十八話:スープに沈む静かなる愛



オリビエは静かに部屋を出ると、食堂で夕食の準備をしていたテッヘに声をかけた。ビクトールとアンナ夫人はまだ帰っていないという。オリビエはテッヘに医師を呼ぶように頼んだ。ルードラーをつれてメイドのシェイルが戻ってきた時にはまだ、夕焼けが空をかすかな赤に染め始めた時刻だった。
「ここでいい」と侯爵がピアノの居間から動こうとしないので、医師は「ピアノのそばを離れたがらない誰かさんと同じですね」と笑った。そういわれたオリビエはしっかりピアノの前で鍵盤に手を置いていたから、え、と顔を紅くしながら。それでも静かな曲を二人のために奏で始める。
「どこか痛い所はありますか」
「お食事はいつ取られました」
静かにルードラーが問い、ソファーに横になった侯爵は低い声で何か答えている。

「疲労でしょう。まずはしっかりと休養を取ることですよ、侯爵様。時には子どものように甘えることも必要です。いいですか、熱が下がるまでは屋敷でじっとしていてください。オリビエ、頼んだよ。熱が下がったら、温かい湯で身体を清潔にして。薬は今夜と明日の分を置いていくから。明日の晩また来ます。それまで侯爵様はゆっくり休むように、お願いしますよ」
青年医師は穏やかないつもの笑みを残し帰っていった。


オリビエはテッヘに夕食を運んでもらい、リビングで侯爵と二人で食べた。柔らかく煮直したリゾットには骨付きの鶏肉が添えられている。きのこのかすかな香り、チーズとコショウ。絞ったオレンジを冷たく冷やした飲み物。侯爵はゆっくりと、案外力強く食べ、食べ終わると再びソファーに横たわり眼を閉じた。
肘掛にオリビエが手を乗せ覗き込めば、ちらりと片目を開いて「オルガンを許すのだ、今日はつきあえ」と呟く。
「ええ。僕もここで寝るのは好きですから」と。指で奏でる仕草をし、笑ってみせる。ふ、とかすかに侯爵が笑い、オリビエは冷えてきた室内に毛布を直す。
初秋とはいえ夜半は冷え込む。暖炉に火をもらおうと台所で片づけをしているテッヘのところへと向かった。


「まるで、親子みたいですね、オリビエ様」
「そうかな」そういえば、いつかルードラーにも同じことを言われた。
テッヘは穏やかに笑う。「オリビエ様はお優しいですねぇ。私はもう、何人かお仕えしてきましたけど。貴方のような方にもう少し早くお会いしたかった」
「どうして?」オリビエが首をかしげる。
「あら、いやだ。私だってね、一昔前はシェイルなんかよりずっといい女だったんですよ?」
ぶ、と噴出しかけて、手鍋に移しかけた火種を落としそうになる。

「失礼ですね、オリビエ様。私と奥様もそう、ちがいませんとも」
「そこでなんで奥様と比較するんだい?」
「あ、それは」頬を紅くし、メイドは視線をそらす。アンナ夫人がオリビエに近づこうとしている場面を、何度か見かけたのかもしれない。苦笑しながらの助け舟はオリビエだ。
「そういえば。奥様とビクトールはまだ帰っていないのか」
二つ目の炭を鍋に移したところでオリビエは立ち上がる。振り向けば、テッヘは奇妙な顔をしていた。
テッヘは思いつめた様子で、手にしたポットをそっとかまどの上に戻した。

「あの、オリビエ様。今朝、私は見てしまったんです。本当は恐くて仕方ないのです」
「何が?恐いって?」
ふくよかで体格のいいメイドに恐いもの、という言葉が似合わない。オリビエはくすくす笑いながらメイドの言葉を待つ。

「随分なお荷物を持っていらっしゃって。奥様と、ビクトールさん。まるで。どこか遠い国にでも旅行に行くようなお姿でした」



翌日。
こういうの初めてだ、と。ヨウ・フラは頬を緩ませた。
目の前のチョコレートは湯気を少年の睫に絡ませながらゆらりとしている。
昼の時間、印刷工場の休憩に合わせてオリビエは少年を呼び出した。このホテルの一階にあるカフェは、以前ビクトールと買い物に出たときに良く立ち寄った。町に詳しくないオリビエもいくつかの場所は「行きつけ」なのだ。

「でもさぁ、びっくりしたよ。オリビエが工場に来るなんてさ。あのインキ臭いのが服につくよ?侯爵様にばれたらまずいんじゃないの?」
猫舌なのだろうか、ヨウはふうふうと息を吐きかけるだけで、カップを口に運ぼうとしない。
「冷めるよ?」オリビエは自分の分を半分ほど、腹に収めていた。それでも何か落ち着かないのは、今日これから少年に打ち明けることのためだろう。
ビクトールと立ち寄った時の満ち足りた気分が、いかに無邪気だったのかと今は思う。

少年は「まだ、熱いし。ていうか、なんかもったいなくてさ」と口を尖らせる。
「だいたいさ、こんな高級なものいつも飲んでてさ。贅沢だよ」
「いいから。今日は僕が働いたお金で払うんだ。初めてなんだよ、誰かに何か買ってあげるってさ」
ぶ、と飲みかけた少年が味わうまもなく吐き出しかける。

「あんた、バカじゃないか!?こんな貴族趣味のために自分の大切なお金を使うなんてさ!」
「侯爵様のお金で誰かに振舞うなんて出来ないよ。僕がヨウに飲んでもらいたいんだよ」
「あ、なんか。嫌な予感がしてきた。飲まないぞ、なんか頼むつもりだ。ろくでもないこと頼むんだ。そうだろ?大体変だと思ったんだ、オリビエがわざわざ自分で出かけてきて僕にチョコレートを奢るためだとは思えないもんな。理由を聞かなきゃ絶対飲めない!」

カップを抱えたまま睨みつける少年。オリビエは見透かされた気分で視線をそらす。
溜息を一つ吐いて。相談したいことがあるんだ、と切り出した。

昨日、侯爵にオルガニストの件が知られ、閉じ込められそうになったこと。反論し、結果的には許可をもらったことを話した。

「やった!それ、すごい進歩じゃないか!侯爵様、どんな顔してた?すっきりしただろ?やったね!そのお祝いなら、大歓迎だよ」とヨウ・フラがそこでカップを口にしたのでオリビエは少しホッとした。すっきりというほど格好のいいものでもなかったことは黙っている。オリビエは情けなく絶望的な気分で泣き崩れていたし、侯爵様が何故許してくれたのかもよく分からない。
「美味しい!!!」
「だろ?」
冷めかけたカップで小さく乾杯をする。その満面の笑みを。曇らせるだろうことが、少しばかり気が引けるが。

「それから。ビクトールなんだけど」
少年はカップの向こうでうん、と唸る。
「アンナ様と昨日出かけたまま、戻っていないんだ」
「え?」
「どう、思う?」
かすかな温もりを残すカップを惜しむように手のひらで包んだまま、オリビエは見つめている。
「エスファンテにいた頃にも奥様が友達の屋敷に遊びに言ったまま帰らない日もあったけど。この町にそんな仲のいい友達がいると思えないし。それに。テッヘさんがさ。二人が大きな荷物を抱えて出て行ったって、言うんだ」もしやそれが。もし、帰ってこなかったら。
僕はどうしたらいいだろう。
何も知らず、眠っている侯爵様になんと伝えたらいいだろう。いや、まだ。そうと決まったわけじゃない。
「いや、もしかしたら、もう帰っているかもしれないけど」でも。
「調べられるよ。オリビエ。明日あたり辻馬車の事務所に聞いてみるよ。遠距離ならきっと記録されてる」

見上げると、少年は真っ直ぐオリビエを見つめていた。
「大丈夫、僕はそういうの役に立つから」笑うヨウ・フラ。まだ十四、オリビエが両親をなくした頃と同じ少年なのにヨウは力強い眼差しをオリビエに向けた。真剣な表情はオリビエの恐れていることを察している。
「だからさ、そういう顔するなって。僕はあの二人や侯爵様ともたいして親しくないから。平気だよ。ほんと、世話が焼けるよねオリビエは。ズレンの気持ちが分かるよ」
「?ズレン?なんで?」久しぶりに聞いた名前。懐かしく、かすかに苦い。
オリビエは残っていたチョコレートを飲み干した。

ヨウは眉をきりりとさせ。それはあの青年衛兵の物まねだと分かる。前髪をかきあげる仕草。懐かしくてオリビエは目を細めた。
「…オリビエは鳥が好きで空ばかり見上げている。足元が見えていないから転ぶんだ。お前はヴィエンヌまで行くのだろう?頼むな。なんてね、かっこつけてさ、頼まれたから」
かちゃと自分の立てたカップの音が、サーベルの鞘の軋みに聞こえてしまう。
彼は。最後まで冷たい態度だったのに。

「ほら、灯が暮れる前に戻らなきゃいけないだろ。時間がないからさ。オリビエ、僕だっていつも付き合えるわけじゃないんだ。起こったことを嘆いても仕方ないし、あんたがしっかりしないとさ」
過剰な感傷がそうさせるのだ。ヨウ・フラが肩を叩く仕草までズレン・ダンヤを思い出させた。
「オリビエ。あんたがしたいように手伝うから。別に世話になったからって、侯爵様のために自分を犠牲にする必要はないんだからさ。分かってるよね?」
ヨウ・フラは「侯爵がオリビエを養えなくなったとしたら、オリビエはオルガニストか皇室宮廷室内楽団か、マクシミリアン候の音楽教師、という選択肢があるんだから」と笑った。

次へ♪

「音の向こうの空」第十八話 ⑥

第十八話:スープに沈む静かなる愛



まだ仕事のあるヨウ・フラと別れ、オリビエは一人侯爵家に戻った。
門の前で馬車から降り立つと、可愛らしい声に呼び止められた。
「オリビエさん!どうかしちゃったのかと思ったわ!」
と。両手を胸の前で組む少女はエリーゼだ。服を引かれ下を見ればいつの間にかアナレシアも貼り付いていた。

「お部屋にカーテンがかかっていて、入れなかったからビックリしたの」
「あ、ああ。今はね、侯爵様があの部屋で休まれているから。今日は窓を開けて演奏は出来ないんだよ」
「ふうん。お父様がオリビエさんはお休みだって言っていたけど、それでなのね」
「お見舞いしよう!」
叫んだアナンは手にしたアネモネの小さな花束をオリビエに見せる。赤いそれは最近よく見かける。中庭で風に揺れていた。

「あ、それ!侯爵様の中庭のお花じゃない!?」エリーゼも気付いた。
「うん、そうだよ。綺麗だったから」
にっこりと、小さな花盗人は微笑むと「侯爵様にあげる」と無邪気だ。エリーゼは真っ赤になって、「すみません、この子、ちっともわかっていなくて」と頭を下げる。
「気にしなくていいよ。侯爵様もきっと喜ばれる。こんなに可愛らしいお客様なんだから」
少しでも気持ちが和めばとオリビエは少女たちを連れて屋敷の門をくぐった。


すっかり顔なじみになっているテッヘは、エリーゼにお茶を運ぶ手伝いを頼み、少女も嫌な顔一つせず引き受ける。盆に乗った香ばしいお菓子にうっとりと鼻を近づけたところでオリビエと目が会い、顔を真っ赤にする。

かすかな音に、オリビエは部屋の扉を開いた。
ピアノの前。侯爵が立ったままぽろぽろと確かめるように音を鳴らしていた。
「侯爵様、起きたりして大丈夫ですか」
オリビエが駆け寄れば、侯爵はいつもの表情で「聞かせてくれんか」というだけだ。
顔色は昨夜よりはいい。
「もしよろしければ、先に風呂でもいかがですか。体が温まりますよ。ルードラー先生もおっしゃっていましたし」
「ビクトールがいないのだろう」
オリビエは一瞬言葉につまる。そういう仕事はビクトールがやっていた。
「あの、僕が……」
侯爵は黙り込んだ。

「あの、僕が湯を用意しますから。エスファンテでは全部自分でしていました。少々お待ちください」オリビエは逃げるように部屋を後にした。
「お風呂って?」とアナンがオリビエの後を追おうとし、エリーゼがだめよ、ととどめる。「貴族様のお屋敷にはお湯をためて浴びるところがあるのよ。それは気持ちいいんですって」
「お風呂!すごい!」
「寒い季節にはきっと天国ね」と笑いながら二人は侯爵のために茶を用意した。
「侯爵様、これ、お花です」

無邪気なアナンは花束を侯爵の前に持っていく。エリーゼは何か馬鹿なことをしでかさないかと妹を見つめていたが、侯爵が赤い花束を受け取り、アナンの頭をなでるのを見て安心する。

リツァルト侯爵はエリーゼたちにとって会話などしたことのない、身分の違う存在。それでも、教会に暮らす少女二人は大勢の人たちに囲まれて育っている。貧しい親子や病に侵された老人などを見てきていた。自然と侯爵の様子から感じ取るのだろう。
アナンは甘えるように侯爵と手をつなぎ、一緒になってピアノの鍵盤を指で叩く。強く叩けば大きな音、そっと叩けば柔らかく、そんな当たり前のことにも少女は楽しそうに笑い。それを侯爵も目を細めて眺めていた。
二人には決して恐い大人ではないのだった。

「侯爵様、どうぞ。お体が良くなりましたら、是非、教会にいらしてください。オリビエさんのオルガンはとても素敵です。教会に来る人の大半が音楽を聞きに来るんです。普段は聖歌やミサ曲ですけど、ときどきミサが終わった後にご自分の曲を弾いてくださるの。それがとても好きなんです。大人の男の人でも泣いちゃったりするんですよ」

エリーゼは侯爵の【出し惜しみ】を知らない。この場にオリビエがいたら少女の口を慌てて塞いでいただろう。
「そうなの、オリビエさんはすごいの。音楽の才能があるから、ロスじいもにこにこして褒めるのよ。楽譜も学校もいらないって」アナンも負けじと懸命に話す。
エリーゼは首をかしげた侯爵に紅茶を差し出しながら笑った。

「アナン、それを言うならこうよ。オリビエさんにとって音楽は学ぶものじゃなくて、表現するものだって。だから、芸術院で教えるような技術や理論は必要ないのですって。楽譜だって、オリビエさんと同じように演奏できる人がいないから、楽譜に残しても意味がないんだって。すごい褒め言葉だと思うの」
キシと。侯爵は自分専用の肘掛け椅子に座った。ぐんともたれると、天井を見上げる。
「エリーゼ。そのロスじいさんは。どういった人物なのかな」

「ロスノさんはロスティアーノ・エッフェルバッハさんといって、国立芸術院の院長さんなんです。皇室音楽監督でもあるんです。ちょっと変わったおじいさんだから、そんな風に見えないけど、偉い人なんですよ。あの人がずっと気に入っていたパールス教会のパイプオルガンを、オリビエさんに弾かせるだけでもすごいことだと思うんです。だって、腰を痛めていたのに、納得のいく弾き手がいないからって、自分でずっとオルガニストを続けていたくらいで」

エリーゼはいかにオリビエの演奏を皆が待ち望んでいるかを語った。
侯爵は紅茶を口に含みながら黙って聞いていた。


夕食の時刻、丁度いいタイミングでルードラー医師が尋ねてきた。その頃には湯を浴び顔色も戻った侯爵はアナンにもらったアネモネがテーブルに飾られているのを満足そうに眺めた。すでに少女たちは帰途につき、赤い可愛らしい花束が男三人の静かな食卓に色を添える。

オリビエは黙り込んでいた。
侯爵は夫人がいないことも、ビクトールが戻らないことも何も言わない。もしかしたら知っているのか。それを確認することも出来ずに迷いはスープを運ぶ手元にも及ぶ。

「パンが必要かな?」
と。声に顔を上げれば小さなパンの欠片が手元のスープにぽた、と落ち。オリビエは欠片と侯爵、そして目を丸くしているルードラー医師とを見比べる。
「あ、いえ、すみません」

なんだか餌をもらう犬みたいだな、そんな変な事を考え。キシュを思い出す。コンソメの清んだ底にパンはしっとりと沈んでいる。

「慣れない仕事をさせたな、オリビエ。疲れたのだろう。今日は早く休みなさい」
侯爵は微笑んでいた。あまり見たことのない表情が多く見られる。なぜだろう。
この人はこんなに穏やかな人だったろうか。体調を崩して気が弱くなっているのかもしれない。
昨日締め上げられたときには、やはり怖い人だと感じたのだが。

「そういえば、ビクトールの姿が見えないね」
医師の何気ない言葉だった。
オリビエは口に運ぼうとしていたパンの欠片を思わず皿に落とした。
スープを吸ったそれは予想以上に音を立て、跳ねたスープが顔にかかった。慌ててナプキンで拭き取るが、不思議そうなルードラーには隠しようもない。

「どうかしたのかい?オリビエ」
「あ、ええと」
そのままナプキンで顔を隠してしまいたいくらいだ。
オリビエは侯爵の顔を見られずに視線をまた、スープに落とす。
ふ、と溜息が一つ。
「情けないことだがね。ルードラー。妻とビクトールは二人で逃げ出したのだよ」
そう語るリツァルト侯爵は穏やかに笑っていた。

「オリビエ、明日には誰か世話をしてくれるものを手配しよう。お前が家のことをするのは禁じる。大事な手に何かあってはいけないからな。……まあ。たまに背中を流してもらうのは、悪くないが」

侯爵様は知っていたのだ。だから、昨日。
反抗したオリビエに言った。「お前はここにいてくれるのか」と。
それに頷いた時、侯爵はオリビエを許したのだ。

侯爵が僕に向けた怒りは同時に、夫人とビクトールに向けたものだったのかもしれない。二人はここを去った。あの日二人が寄り添うところを僕が見てしまったから二人は慌てたのかもしれない。僕が侯爵様に訴えるのではないかと恐れ、この屋敷を出た。
だとしたら。
薄氷と化した夫婦の間を踏んで歩いたのは僕。ひび割れた氷の上で主人の周りを駆け回る飼い犬のように。
黙って忙しい日々をすごしていた侯爵。すべては夫人や僕を養うため。家族を失い一人きりになる寂しさは、僕にもよく分かる。

「オリビエ」
声に気付いた時、自分がスープに映っていることに気付く。
「お前はわしのそばにいるといってくれた。それでよいのだな」
そういった侯爵の表情は、亡命について来いと命じた、あの日と同じだった。悲しげな表情が気になっていた。ずっと。
それが笑みに変わるなら。僕の音楽を愛してくれるなら。僕は侯爵様のおそばに仕えるべきだろう。十三歳の秋、独りきりになった僕を侯爵様が救ってくれたように。
ああ、結局僕もリトーに似ているのかもしれない。

「はい」頷いたオリビエに侯爵は笑みを見せた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十八話 ⑦

第十八話:スープに沈む静かなる愛



ルードラー医師はオリビエがオルガニストをしていることを聞くと、「なるほどね、やはり君だったんだ」と巷で噂になっているのだと語った。
「最初は謎のピアニスト、その演奏が今は教会で誰でも聞ける。その噂は旧市街の拙宅にも届いていましたよ。侯爵様、明日あたり、ご一緒にどうです?私もここしばらく教会へ行っていませんでしたので」
黙り込んだ侯爵も、オリビエが「あの、是非。百年以上前に立てられた聖堂は美しいですし、オルガンを聴いてほしいです」と誘えば、うむ、と小さく頷いた。


翌日、侯爵家に泊まっていったルードラーとオリビエ、そして侯爵は三人そろって教会へと向かった。
夏の虫が森の木々のあちこちで彼らを歓迎し、侯爵は眩しそうに木漏れ日を見上げる。並んで歩きながら、オリビエは亡命の途中、川辺の岩に立ったことを思い出していた。あの時の侯爵の視線は力強く、明るい未来を見据えていた。

今は、少し、細められた目に映る新緑が表情を穏やかに見せた。

ロスノや司祭たちに、「侯爵様に知られると怖いんだ」と何度も話したから、どういう顔をされるか心配だ。突然休みをもらい、現れたときには侯爵を伴っているのだから、きっと皆驚く。

オリビエはいつもの通用口ではなく、今日は正面のアーチをくぐって、重厚な扉を開く。

ミサにはまだ早いために聖堂内はシンと静まり返っていた。
礼拝堂の柱ごとにランプを灯していたラドエル司祭を見つけ、オリビエが声をかける。侯爵を紹介すると、「娘たちがお世話になりまして」と笑い、エリーゼの父親だと知った侯爵は司祭に看病の礼を言った。
ラドエル司祭に案内され、オリビエも入ったことがない教会の奥、大司教の居室に通される。侯爵はパールス教会の大司教に「オリビエが世話になっております」と頭を下げた。
「素晴らしい才能をお育てになりましたな」と。大司教はオリビエに微笑みかける。オルガニストの件を認めてもらったのだね、とその笑みは語っていた。

恐れ入ります、と侯爵の声を聞きながら、オリビエは不思議な嬉しさがわいてくる。
これまでずっと隠されてきた。それは、もしかしたら僕が未熟だから、他人に聞かせるには恥かしい演奏だからなのかもしれないと思っていた。またそう思わなければ【出し惜しみ】の理由がつかなかった。こうしてリツァルト侯爵が自分を他者に紹介し、教会での演奏を許可してくれた。それはまるで一人前になった気分になる。
いつまでも子どもだとチョコレートのことは笑われても、大人として、男として、もちろん音楽家として侯爵に認められたのだ。
冬の暖炉に引っかかったままだった巣の中の雛は、やっと、この遠い地の初夏に巣立ちを迎える。今やどこまでも高く、飛んでいいのだ。窓から見える森の向こうの空は青く清んでいた。



「それで、侯爵様がロスノさんにね、僕がこの土地で音楽家として将来一人で生きていくにはどうしたらいいのかって、相談されたんだ。僕は仕事が始まったから同席できなかったんだけど、帰り際にロスノさんに言われたんだ。芸術には理解者が必要だ。お前はいい理解者を得ているって……」
侯爵も心配してくださっていた。オリビエにはそれが嬉しい。
「もう、いいよ、聞き飽きたよ。それで、とにかく芸術院でなんか資格取るんだろ?」
ヨウ・フラがソファーでぐんと伸びをして、欠伸を漏らす。
くす、と紅茶を運んできたエリーゼが「眠いの?」とヨウの髪に触れる。どうやら、二人はすでに恋人同士に見える。オリビエは目を細めながら、静かにバラードを奏でる。

「オリビエさんは侯爵様の自慢ばかりだし、ヨウは欠伸ばかり」
「自慢ってわけじゃないよ」エリーゼに笑い、「ただ、ちょっと嬉しかったんだ」と。その素直さがヨウ・フラに言わせれば子どもっぽいのだ。エリーゼはくすくすと笑う。
「コンクールは出ないことにしたんでしょ?それでアーティアさんも来なくなったの?」
どうやらその事実はエリーゼには歓迎すべきことらしかった。

「いや」
オリビエは演奏を止めた。

「え?コンクール、ロスノさんは反対していたのに」
ヨウ・フラが体を起こし、エリーゼは首をかしげたまま盆を抱える。
「コンクールの件は断るつもりだけど、まだ、マクシミリアン候に会えてないから確実じゃないんだ」
「じゃあ、アーティアは?なんで最近来ないんだ?」

言ってもいいものか、オリビエは迷った。

「あいつ、オリビエが侯爵様とうまく行ってるから、拗ねちゃったとか」
ヨウはいつの間にかアーティアをあいつ呼ばわりしている。苦笑しながらオリビエは説明する。

「違うよ。アーティアは、僕がこっそりオルガニストをしているって、侯爵様に報告したそうなんだ。わざわざビール工場まで訪ねて来たんだ。だから侯爵様は驚いて、昼の休憩時間に屋敷に戻った。そうしたら僕は教会に出かけていたし、アンナ夫人は手紙を残してビクトールと姿を消していた」

小さく溜息を吐き、減ってしまった何かを埋めるようにオリビエは紅茶を口に含んだ。
「侯爵様が。アーティアには近づくなと。僕が思っているような友達じゃないって、さ」
「やっぱり!」
ヨウ・フラは拳と手のひらをぱしんと叩き合わせた。
「あいつ、やっぱりなんか企んでたんだ。あいつがそそのかしてオリビエはオルガニストになったのにさ、それを侯爵様に告げ口するなんて、卑怯だよ。オリビエを引き摺り下ろして自分が侯爵様のお気に入りになりたかったんだ。いやらしい奴」
「ヨウ」
「…言っただろ?オリビエはお人よしなんだ。気をつけなきゃダメだよ」
「ヨウ!まだ、本当のことなんか分からないんだ。そんな言い方はやめろよ」

「そうやって、オリビエはアーティアのこと庇うけど!あいつはここに来るにも侯爵家のお金で馬車を使うし、オリビエと演奏会に行く時だって結局全部オリビエが出すんだって言ったじゃないか!」
「それは」
「オリビエには想像もできないかもしれないけどさ。僕は、多分アーティア以上に貧しいから分かる。背に腹は代えられないから、余計な費用はかけたくない。もらえるものは貰う、それは仕方ないさ。だけどそれは結局、侯爵家やオリビエを通じて援助されてるのと同じなんだ。僕は世話になった分、オリビエが困っているときには出来る限りのことをしたいと思っている。感謝しているからだよ。なのに、あいつはオリビエが大人しいのをいいことに威張っていて。侯爵様の前では態度が変わるだろ。その上、裏切るなんてさ、人間として間違っているよ!」
そう語る少年をエリーゼは眩しそうに見つめる。

いつか本当にヨウ・フラは思想家のように多くの人の共感を得て演説するようになるのかもしれない。

オリビエはアーティアに会いに行こうとしたが、それは侯爵に反対された。気にはなっていても、いざ会って何を言えばいいのかも分からない。

オリビエがアーティアと学んでいた午後の時間も、今はロスノと過ごすことが多かった。
国立芸術院の院長を務めているという(これはオリビエをかなり驚かせたが)ロスノの指示に従って、外国人でも宮廷室内楽団に入れるよう、資格を取ることになったのだ。そのためにまず芸術院の講義をいくつか来春から受けることになっていた。

外国人であるオリビエが安定した音楽の職に就くには語学力や知識、技術を保証する芸術院の修了証が必要だというのだ。
「お前さんが演奏するのに、そんなもの、何の価値もないのだがね」と。老人は笑った。
「第一わしも、何の資格も持っておらん。紙切れ一つで芸術を測るなど嫌な時代だ」

前の年にアウスタリア帝国の皇帝は代替わりし、跡を継いだレオポルト二世は芸術家への庇護に興味がなかった。そのために宮廷室内楽団も団員を増やそうとしていないし、宮廷歌劇場のオペラ公演も前年の半分以下に減らされているという。
革命や戦争が芸術家にも冷たい風となって吹きつけるようになってきていた。

革命の波。始まりはクランフ王国。それが嫌な時代を呼ぶかどうか。オリビエは自分の夢を熱く語るヨウ・フラを見つめていた。
貧しいものは革命を求め、金持ちは必死に護ろうとする。
両方を見ていると、これが一体誰の幸せを運び、何をよくしていくのかと、ふと恐ろしくなる。

ただ。努力することで夢が叶うことは必要だ。報われることが希望をつなぐ。
諦めてばかりではいけないのだと、自分自身も理解したばかりだった。
侯爵様に締め上げられたあの時。いつものように縮こまって、侯爵の命令に頷いているだけだったら。許しは得られず、籠の鳥のままだった。リトーの悲しい歌声と貫いた想いが、僕に勇気をくれた。

侯爵様も、ヨウ・フラも。アーティアも。皆が幸せになればいいのに。



そんな思いをのせ、オリビエは小さな礼拝堂でオルガンを弾いていた。
休日の昼下がり。古くて小さいそこにも、大勢の子どもたちが集っていた。オリビエが演奏しているその横では、ルードラー医師が順番に子どもたちを診察していた。
ルードラーは月に一度、こうして労働者地区の子どもたちを無償で診ていた。それを聞いてオリビエも手伝うことにしたのだ。手伝うといっても、荷物を運ぶのとオルガンを弾いて子どもたちを呼び寄せるくらいのものだが。

「貧しいものも、金持ちも。皆、同じ人間なんだよ」
そう穏やかに笑う医師の気持ちはオリビエの思いに似ていた。
「皆が幸せになればいいのに」
そう呟けば、ぽんぽんと背中を叩かれた。
「君のその気持ちと同じものを、全員が持たなきゃ、それは実現しないかもね」
「……それ、ヨウに笑われるんです。それは、オリビエが幸せだからいえることだよって」
「ふん。あのボウズらしいな」
「僕は、幸せだから」
「分かってないね」
「え?」
「いや。人にはいろいろな生き方がある。いつか、言っていたね。君の生き方を思想だといった友人がいると」
「はい」
「だからなんだろうね。君の周りには、自然と人が集る」
「え?」
見回せば、子どもたちが演奏を楽しみに膝を抱えて座っていた。
「君の音楽は優しく温かい。思想家が演説するカフェに集るのと、君の音楽を聞くために教会に集るのと。どちらが人を幸せにするんだと想う?」
オリビエは首をひねる。
「分かりません」比べられない気がする。

「優れた芸術や文学は、哲学に並び賞されるべきものだよ。今は一部の知識ある階級の人間しか理解できない。だが、いずれ。文化が時代を動かす時が来るさ。遠い未来かもしれないけれどね」
「ふうん。なんだか、不思議な気分ですね」
青年医師のさらりとした前髪が輝いて、そっちこそ十分哲学者みたいだとオリビエは密かに想う。

「僕は、君に期待しているんだ。まずは、この子達を大人しくさせることに成功している」
「じゃあ、もう少し弾きましょうか」
面白そうに笑ってオリビエがオルガンを奏でれば、喧嘩したり笑っていた子どもたちが聞き入った。
確かに少しは、貢献できている気がしていた。


次回「第十九話:約束、契約、罠」は12月22日公開予定です♪

「音の向こうの空」第十九話 ①

第十九話:約束、契約、罠



リン
店の扉は貼り付けた鐘を揺らし来客を知らせる。
そんな小さな音も人々のざわめきも心地よい昼の音色。
どんな音がするのか確かめるつもりなのか。楽しそうな視線を落とし、ゆったりとした手つきでオリビエはクレープにナイフを入れる。
バターソースのかかったクレープは添えられた野菜ごと美味しい音を立てた。

「じれったい食べ方をするよね」
隣でヨウ・フラが言えば、「オリビエさまは貴族様なんでしょう?そりゃ、ヨウさんとは違いますよ」と笑ったのは店の主人。
「貴族さまは口にものを入れたまま、しゃべらないんだよ。だから一口が小さくなるんだ。子どもみたいにな」と。オリビエの向こうに座る見知らぬ男が笑った。そういう男も肉の塊をかみしめている最中だ。ヨウ・フラは肩をすくめる。
「だってさ、こういうとこは仕事の合間に来るものなんだ。みんなさっさと食べて昼寝したいんだ。オリビエみたいに冷めるまで待って食べる奴なんかいないし」

昼休みのこの時間、ヨウ・フラの気に入っているカフェ【足長の店】はにぎわっていた。最近はオリビエがここに足を運び、待ち合わせて食事をすることが多い。パールス公園の近くにあるこの店はオリビエにとっても居心地のいい場所だった。
「待っているわけじゃないんだけど。美味しいから味わっているんだよ」
そう、オリビエが笑えば店主は嬉しげに胸をそらす。
カウンターの向こうは戦争の様相を呈しているのに、主人はカウンターに肘を置いてオリビエとヨウ・フラを覗き込む。そんな主人の背後から女将さんが「あんた、注文だよ」と声をかける。

「あ、ノットさん、侯爵様が来られるからそこ、空けておいてください」
オリビエの声は届いたかどうか。ヨウ・フラがすかさず隣の椅子に帽子を置いて確保した。
「侯爵様が?なんで?」
「この後、ビール工場を見学させてくれるって言うんだ」
「なんだ、遊びか」
「遊びって言うか、そうだけど」
自分にも何か手伝えることがあるかも知れないと、オリビエは考えている。

ビクトールの代わりに、工場で働いていたリエンコというロシア人が屋敷に来て世話をしてくれる。軍人だったというリエンコは淡い金髪の三十代後半くらい。とがった鼻と大きな体が特徴だった。
必要以上に口を利かないのは、クランフ人に慣れていないためにオリビエの前では緊張するらしいとからかうようにテッヘが話してくれた。確かに彼はオリビエの前ではいつも仮面のような顔をしている。そんな下男もヨウ・フラがからかったり新聞や世の中の噂話を面白おかしく話したりすれば笑った。
リエンコが見かけによらずきめ細かく世話をしてくれるので、オリビエは以前よりずっと時間に余裕がある気がしていた。だから、代わりに書類を書く仕事くらいなら手伝えると思い立ち、侯爵に工場を見せてほしいと頼み込んだ。
侯爵が手伝うことを承諾するかはまだ分からないが。

「僕は午後から新聞社に納品に行って、ついでに仕事してくる。つきあえないから」
聞かれてもいないのに少年は口にしたカップから、オリビエを横目で睨む。
「あ、なんだ、ごめん。ヨウも誘えばよかったね」
「別に!工場なんか、見たくないさ。今新聞社は忙しいんだ」
「ふうん」
拗ねたように口を尖らすヨウ・フラは、内心興味津々なのだ。それが面白くてオリビエはくすくすと笑っている。
「なに笑ってるんだよ。戦地からいつ記事が届くかわかんないんだ。差し替えなんかいくらでもあるからさ、印刷所だって気が抜けないんだから」


遠い祖国、クランフ王国では革命を進めた政府軍と、周辺諸国が連合した軍とが衝突し、戦争へと発展していた。
「クランフ王国の軍隊には市民の義勇兵が多く参加しているんだ。革命のために命をかけるのは、きっと彼らにとっては誇らしいことなんだよね。ヴェルダンの要塞が落とされたとき、降伏しようとする司令官の前で「クランフのために命を捧げると誓った」と自ら命を絶った若い義勇兵もいたんだって。そこに攻め入ったのが、プロシアやアウスタリア、それに亡命貴族。亡命貴族は自分の国の民衆を敵に回しても平気なんだ」と、淋しそうにヨウ・フラはいつものように新聞に載らない噂話をしてくれた。

「戦争だなんてねぇ。教会へ身内の無事を祈りに通う人も多いですよ。まあ、大半はオリビエさんのオルガン目当てですけどね」と店の主人がカウンターのオリビエに声をかける。パールス教会に通っていた一人だった彼は、オリビエがこの店に通うようになると、早速どこかで中古のピアノを仕入れてきた。
「いやぁ、自慢ですよ。オリビエさんの演奏が聴けるんですからね、この街じゃこの店だけだ」
オリビエが演奏するようになって確実に客を増やしていることをヨウ・フラは知っている。主人があちこちで客に宣伝して回っていることも。
「ノットさんは調子いいなぁ」とヨウ・フラが軽く睨めば、「いつもどおり、お二人にはサービスしますから」とウインクをくれる。オリビエの数曲の演奏で、いつも二人は美味しい食事を無料で食べられた。
「じゃあ、二、三曲だけだよ。この後、侯爵様と待ち合わせているから」
オリビエが席を立てば、待っていましたとばかりに客からは拍手が沸き起こる。いつものことなのに毎回顔を真っ赤にして照れているオリビエにヨウ・フラは呆れながら。それでも、こういうところで聞く演奏も悪くないと頬杖をつく。
眼を閉じれば、仕事の疲れも忘れられる。
オリビエの演奏はどうしてこんなに優しいのだろう。
同じタイミングで小さな吐息を吐き出した店長に気付き、少年は顔を上げる。そっと見回せば、あちこちから小さな溜息が聞こえている。
これを、侯爵は独り占めしていたのだ。
究極に贅沢なんだ、と。丁度、店に入ってきた侯爵を見つけ、「今は皆のものだ」といわんばかりにヨウ・フラはにんまりと笑って見せた。

リツァルト侯爵は一瞬目を丸くしたが。
いつも居間でするのと同じように、腕を組んで立ち止まる。そうするとなぜか、オリビエはその存在に気付き、軽く視線を合わせ微笑む。笑い返すでもなく、侯爵は席に着こうとこちらに向かってくる。やはり侯爵はオリビエにとって特別。長い間、二人はそうして同じ時間を共有してきたのだ。かすかに嫉妬のようなものを感じながらヨウ・フラはオリビエの隣を侯爵のために空けた。背もたれのない木の椅子を引く。

数曲奏でたところで侯爵がコーヒーを飲み終わり、それもまた二人にしか分からないタイミングなのだろう、オリビエは一礼して喝采を浴びながら演奏を終えた。
「オリビエさんにはいつもお世話になっていますよ」と店長が侯爵にサービスだとクロックムッシュを置いた。
「この間と音色が違うね。音も直っているし」
そう、上気した頬でオリビエが戻ってくる。人々の視線を浴びて少しばかり緊張するのだろう。
「調律を頼んでみたんですよ。オリビエさんにしてもらうのはいくらなんでも恐れ多いんでね。ほら、ランゲルク通りにあるシュタインさんとこの若い人」
「!アーティア!?」
オリビエは立ったままカウンターに身を乗り出す。
侯爵が顔をしかめたのをヨウ・フラは見逃さない。同じ気持ちだからだ。
「あの、アーティア・ミューゼって名前じゃないですか?ほら、黒髪でこう、前髪をこうしていて、ちょっときつい顔した」
そこでヨウが小さく笑ったのもオリビエは気付かない。
「え、そうでしたかね?確か、ヴァイオリンがご専門とか」
「元気だった?」
と聞かれても。店長は苦笑する。
「まあ、病気じゃないとは思いますが」
「オリビエ、座りなさい」
「あ、はい」
そこでやっと侯爵の厳しい顔に気付いたのかオリビエは大人しく座った。
ヨウ・フラの興味はすでにいい香りのブッフブルギニョンに移り、しっかりナイフを突き立てている。育ち盛り、大好物の肉でしかも無料とくればそれほど美味しいものはない。
オリビエはヨウの手前、侯爵に視線を戻した。
「オリビエ、今日の見学は中止だ。これからマクシミリアン候に会いに行く」
「え?こちらに来られているんですか」
ふふとやはり嬉しそうなヨウ・フラの笑みが視界に入る。
工場見学のときにはヨウも誘ってやろうとオリビエも目を細める。

「笑っている場合ではないぞ。わしも、ロスティアーノ氏も何度か掛け合ったのだが。オリビエ。例のコンクール。やはり出ることになりそうなのだ」
「え?」
すっかり、出ないつもりでいた。
宮廷歌劇場のヴィエンヌ・オペラコンクール。
「マクシミリアン候の兄、カール四世選帝侯とロスティアーノ氏が親しいのでな。何度か説得しようとしているのだが、マクシミリアン候は大人しく兄の言うことを聞くような男ではなくてな。今日、本人と直接話してみようと思うのだ。初めて書くオペラだと、向こうも承知のはず。結果にこだわらず可愛がってくれるのならよいのだが」
ありえないだろう、という渋い表情。
「……侯爵様、侯爵様のためにも、頑張りますよ。大丈夫です。実は一つ、書き上げたものがあります。それをオーケストラ用に編曲します。ロスノさんは難しいとおっしゃいますけど、でも。僕も挑戦してみたい」
そこで栄誉を受ければ、侯爵様も誇らしいはず。
店長にチョコレートを差し出されたからだけでなく、オリビエの瞳は輝いていた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十九話 ②

第十九話:約束、契約、罠



マクシミリアン候の屋敷はヴィエンヌの東部、オリビエの住む界隈から馬車でしばらく走ったところにあった。外門から石畳の馬車道が続き、使用人の住む建物や馬屋、作りこまれた庭園を走りすぎるとその先にロマネスク時代の建物が見える。
以前、ファリで立ち寄ったロスレアン公の別邸にも似ていた。
侍従に恭しく迎えられ、オリビエはかつての侯爵家を思い、すぐにそれを振り払った。

今は違う、だけど。あの頃よりずっと、オリビエは侯爵を身近に感じていたし、楽しかった。権力も資産も、地位も。失ったからと言って、必ずしも不幸になるわけじゃない。


「久しぶりですね」
相変わらず丁寧な口調のマクシミリアン候。リツァルト侯爵と握手を交わす間に、とととと、小さな足音が近づいてくる。
「オリビエー!」と。小さな桜色が抱きついてきた。
「アマーリア様」
マクシミリアン候の三女はすでに五歳。叫ぶ声もしがみつくその身長もすっかり変わっている。淡い色のドレスに髪にも同じリボン、肩にかかるレースが羽のようになびいた。
「会いたかったわ!相変わらず素敵ね、ね、お父様、オリビエをお借りしてよろしいかしら!私、新しい曲に挑戦中なのだけど、うまく行かないところがあるの」
早口で一気にしゃべる少女に、マクシミリアン候は「きちんと挨拶できないのかな」と軽く睨む。
「あ」と慌てて、少女はドレスの裾を両手で持ってちょんと膝を曲げて見せた。
「お久しぶりでございます、侯爵様、オリビエさま」
「アマーリア、私達は奥で話がある。オリビエ、すみませんが相手してやってもらえますか。貴方に会いたいがために、母親もいないこの地に一人で付いてきたのですよ。リツァルト侯爵、貴方もその方が都合がよろしいでしょう?」
オリビエは二人の話に興味があったが同席させてはくれないようだ。侯爵にとって都合が悪いとはどういう意味なのか。少しばかり複雑な表情の侯爵を残して、オリビエは少女に引かれるまま、中庭に面した居間へと向かった。



さて。と、マクシミリアンは見送った青年が少女と供に向こうの扉に消えるのを待ってつぶやく。侯爵に、ついて来いといわんばかりに視線を合わせた。
リツァルト侯爵より二十は若いマクシミリアンは階段を昇る足先すらどこか威厳を匂わせる。この季節にしては薄い上着の裾をひらと揺らしながら二階へと先を歩く。
ついていく形になる侯爵は、若獅子を思わせる男が見かけ以上に鋭い牙を隠していることを感づいている。
精緻な模様を描く窓からの明かり、リツァルト侯爵はかつて自分が暮らしていたエスファンテの屋敷を思い出す。今は失ってしまったその場所は、誰が歩み、誰が光を浴びているのか。

「教会のオルガニストにしたかと思えば、相変わらず【出し惜しみ】は続いているようですね。侯爵、兄から聞きましたよ。オリビエのコンクール出場について、いろいろと手を廻しているようじゃないですか」
二階の客間はごく小さな部屋だが、厚い絨毯、東方の模様を描いた螺鈿のテーブル。落ち着いた黒い漆塗りの家具で統一されている。
その中、一人白い毛皮のついた上着を従者に渡すマクシミリアンは草原の夜闇に立つ獣のようだ。
侯爵に椅子を勧めるでもなく、そのまま窓の外を眺める男は、振り返るとにやと笑った。

「オリビエには、我が屋敷でオペラを書いてもらいますよ」
「それはどういった目的でか、お教え願いたい。あれは、私が後見を勤めている。我が侯爵家の楽士として育てた。あれの作る音楽は私に権利がある」
ちらと侯爵を睨み、マクシミリアンは再び窓の外、昼下がりの中庭を眺める。
後ろに組んだ手が、癖なのかもじもじと自らの手のひらをなでる。
「オリビエは二十歳でしたか?もう、成人していますよね」
「……雇い主としての権利は変わらん」
マクシミリアンは振り向きもせず手を上げた。
それは侯爵の言葉を制し、そのまま人差し指を突き出して左右に振られた。
「ちがいますよ、侯爵。成人する、ということは。一人前の兵士として、戦場に送られてもおかしくないと、言いたいのです」

リツァルトはぴくりと肩を震わせた。
「オリビエも、そう。確か、亡命貴族の端くれ、ですよね。今、彼の仲間が大勢、クランフ王国へと進軍している。私もいずれ、このアウスタリアの軍に属するつもりでしてね。将軍とも親しいのですが。オリビエにも徴兵の報せが」

凍りついた空間を崩すように、マクシミリアンが声音を深く、低くした。
「いつ届いてもおかしくない」

亡命貴族を強制的に戦場に送るなど、やめさせたいと願った。
そのために、走り回り、アウスタリアの将軍とも面会した。
だが。
亡命貴族たちは、自ら好んで召集に応じたという。
だからリツァルト侯爵は、愛国心の薄い彼らの行動に呆れ、亡命貴族を護るために奔走することを諦めていた。徴兵の令が下ることを見逃した。
まさかそれが。こんな刃となって隠されていようとは。

「オリビエを戦場に向かわせるのは忍びないと思いませんか?あれは、そう、まともに剣も握れそうにないですね」

剣どころか。馬にも乗れない。

「しかし徴兵を断るにはそれ相当の理由が必要というものです。将軍にそれを認めてもらうために、彼の前でオリビエの実力を、音楽家としての才能を認めてもらうしかないのですよ。出し惜しみなどしている場合ではないでしょう」

マクシミリアンの言いたいことは分かる。
目論見どおり、何があってもオリビエをコンクールに出すつもりだ。

「あのミュニックでオリビエの演奏した音楽は素晴らしかった。アマーリアも懐いています。それに対する、私なりの感謝の印です。誰もがコンクールに出られるわけではないのですよ。ツヴァイブリュッケンの名を背に負うのです。むしろ、名誉なはず。その上、オリビエを徴兵から護ろうというのですから、まさか。反対などなさいませんよね?リツァルト侯爵」

マクシミリアン候は、優れた戦術家だという。
人を操り、戦況を把握し。若き大公は好んで争いの中に身をおく。そして常に戦果を収めているのだ。いつのまにかリツァルト侯爵は背水の陣。足元に沁み込む冷たい流れに、背筋が寒くなる。マクシミリアンは勝利を告げた。
「オリビエには、我が家に留まり作曲に励んでもらいますよ」
リツァルト侯爵は静かに拳を握り締めていた。



同じ昼下がりの日差しを受ける階下では、平和な時間が流れている。
少女は始めこそ自分の演奏を見てもらっていたが、その内オリビエに弾いて欲しいとねだり、膝の上に座って贅沢な連弾を試みていた。
メイドがお茶を運んでくる。中に顔を覚えているメイドもいた。オリビエが何か話そうとすれば、アマーリアはだめ、こっち、と邪魔をする。
メイドが来ては親しげに少女に声をかけるものだから、終いには「もう、邪魔しないで!オリビエは私のものなんだから!」と怒鳴って、来るたびに人数を増していたメイドたちを追い払い、部屋の扉を閉めた。
もう、と腰に手を当てて口を尖らせると、「これでやっと二人きりだもの」と嬉しそうにオリビエの膝にのぼろうとする。

コンコン、とノックの後。む、と少女は身構えた。またもや、邪魔者が現れたとオリビエにしっかりしがみつくからくすぐったさもあってオリビエは笑う。

「アマーリア」
マクシミリアン候が入ってくると、「もう!もう!もう!!!」と少女は癇癪を起しかける。
「さ、もう向こうへ行っていなさい」
マクシミリアン候が少女を軽々と抱き上げる。
「お父様、もっとピアノ弾くの、邪魔しないで」
少女は脚をばたばたとして暴れ半分泣き出していたが、マクシミリアン候は穏やかに笑ったまま、少女を部屋の外へと連れて行った。
メイドに預けられたのか、廊下で騒ぐ声が聞こえている。
「さて、すみませんでしたね、お守をさせてしまって」
微笑みながら平然と扉を閉める。
はあ、とオリビエは頷くしかない。少女の勢いにも圧倒されるが、それをものともしない候にも恐れ入る。父親というのはそういうものなのだろうか。
自分の父親を思い浮かべても、少し違う気がした。

オリビエはピアノの前で座ったままマクシミリアン候の隣に現れるべき姿を待ったが、扉は閉じられたまま。
「あの、侯爵様はどちらに?」とオリビエが尋ねれば、「先ほどお帰りになられた」と。
マクシミリアン候は笑った。

「え?」
帰ったって…一人で?僕を置いて?
急に心細くなる。

「貴方はまだ、まともに曲も出来ていないとのことですね。コンクールまで日がない。今日からコンクールまで、ここで暮らすのです。明日にはレイナドと歌劇団が到着します。オリビエ、よもや約束をなかったことにしようなどと考えていたわけではないでしょうね」
じわりと背に緊張が走る。ここで暮らすって、どういうことだ?
「あの夜、約束したでしょう。貴方の初めてのオペラは私が貰い受けると」とマクシミリアン候が語りながらオリビエの肩に腕を廻す。オリビエは慌てて立ち上がろうとする。
が。肩に置かれた腕は重く、呪縛のように身動きを封じた。
「あ、あの」
「嫌なのかな?」
どうしたものかと膝に拳を握り締めれば、耳元に候の息遣いを感じる。思わずびくりとし、その様子にマクシミリアンが笑った。
からかっているのか、脅しているのか。
「オリビエ。このコンクールは我がツヴァイブリュッケン家の名誉を担っています。失敗は許しません。そうですね。もし入賞しなければ、貴方は我が一族の音楽家として一生仕えなさい。リツァルト侯爵は貴方が決めることだと、おっしゃっていましたよ」
「そ、そんな、あの。僕は曲を提供するのはお約束しました、ですが。コンクールの出場や、ましてや入賞のお約束をした覚えはありません!」
訴えてみるものの、相手に動じる様子はない。背後にいる候の表情は見えない。かすかにピアノに映る暗がりの顔が歪んで笑っているように見えた。
「台本を貸し与え、我が芸術監督に直々に運ばせました。レイナドは貴方がコンクールに出ると約束したと報告しましたが?では、あれが嘘をついているというのかな?だとしたら罰してやらねばなりませんね」
!そんな。
「いえ、いえ…その」
「我が一族の音楽家となるのは悪い条件ではないと思いますよ。先日、わざわざ頼みに来た若者もいるほどです。亡命貴族に仕えるよりよほど貴方にとってよいことだと思いますが。何ゆえ、リツァルト侯爵にこだわるのですか」
「お世話になったのです。……僕は、十三歳の時に、両親を亡くしました」
「ふむ」
話し始めるとマクシミリアン候が腕を解いたので、オリビエはホッと息を吐き、続けた。話すしかない。
それで何がどうなるかなど、分からないが。
オリビエは侯爵に引き取られたときのこと、それ以降ずっと侯爵家に仕えて来たことを話した。今は一人きりになった侯爵に仕えたいのだと。
「ふん、ではなぜ。リツァルト侯爵は貴方にこだわるのですか?」
それだけは。オリビエにも分かりはしない。
首を横に振る。見つめた自分の足元に、マクシミリアンの靴が見える。いつの間にか正面に回っている。顔を上げると目の前に猛禽類を思わせる鋭い視線があった。
「分かりません」
オリビエは見つめ返す。なぜ、こんなことになっているんだろう。

「ふむ、まあいい。要はお前がリツァルトにとって大切であればいいのだ」
オリビエは眉をひそめる。どういう意味なのか。

「いずれ。侯爵の大切なものはすべて取り上げてやる」
「!」
にやりと笑う表情は壮絶な怒りを含んでいる。
「いいですか、オリビエ。私の前でリツァルト侯爵を褒めることは許しません。あの男は若い頃私の父と同じ戦場に立った。敵としてです」

リツァルト侯爵はプロイセンの貴族の血を引く。若い頃はプロイセンに住んでいたらしい。アウスタリアとプロイセンが争ったのなら1760年代の七年戦争だろうか。
アウスタリア皇帝の継承をめぐってプロイセンとアウスタリア帝国・クランフ王国同盟軍との争いがあったと聞く。

「分かりますか?かの七年戦争で、私の父は命を落とした。同じ戦場であの男もサーベルを振り回し戦っていた」
「それは、……侯爵様がお父上を、ということですか?」だから、そんな風に憎んでいるのか。
「そうに違いありません」
違いない?オリビエは目を丸くした。
「違うのですか?」
「いいえ、きっとそうに違いないのです。たとえ、あの男が直接父上を殺めたのではないとしても。あの男は父上を殺した軍兵の一人。憎まれて当然ですよ。プロイセンの皇帝の代替わりを機にクランフ王国へ逃げ出しておいて。今は、そこからも追われる身。まともに祖国も持たない情けない男です」

戦争。それは、誰の責任でもないだろうに。マクシミリアン候には憎む対象が必要なのかもしれない。たまたまそこに、侯爵が当てはまってしまった。
リツァルト侯爵はクランフ王国の社交界でも重鎮として扱われ、亡命した今もアウスタリア帝国政府に重用されている。その事実がマクシミリアン候には気に入らなかったのかもしれない。
このまま僕がここにいては、何か侯爵様によくないことになるのかもしれない。

オリビエは立ち上がった。
捕まえようとするマクシミリアンの手を逃れ、壁際にかけてあったコートを手に取る。
「あの、僕は帰ります。台本にそって書いた楽譜が侯爵家にありますし。僕は今、パールス教会でオルガニストとして勤めています。ですから、こちらにお世話になるわけには」
「ここから通えばいいでしょう。楽譜も明日、我が衛兵と供にとりに戻ればいい」
マクシミリアン候はテーブルにあった呼び鈴を鳴らす。
誰か、人を呼ぶのだ。
オリビエは慌てた。ロントーニ男爵との件を思い出す。誰かに拘束されるのはたくさんだ。
「いいえ!僕は帰ります。明日、またお伺いします。レイナドさんともお話しなければなりませんし、ですから。今日は」
「馬車など出しませんよ?侯爵はお前を置いて帰りました。五里の道のりを一人きりで歩いて帰るつもりですか」
広い居間をオリビエは早足で扉まで向かう。あせっているせいか、自分の足音が耳に響く。
「それは……それでも。帰ります」
五里…歩けば三、四時間だろうか…。道も分からない。
それでも、ここにいるのは嫌だ。
オリビエが扉を開こうと手を伸ばすと、向こうからそれは引かれた。
「!」
「大公様。お呼びですか」と、大柄な衛兵が帽子を取る。腰にはサーベル。オリビエの視線は男の胸ほどしか届いていない。オリビエは小山のような男の脇を抜けようとし、足を止める。何を察したか、男はオリビエの行く手をふさいだ。眼前の手袋をした手、男の腰の剣から背後を振り返れば。マクシミリアン候がこちらに歩み寄る。猛獣の笑みをたたえて。
オリビエは一歩下がろうとし、背後の衛兵は背に突き当たる壁となる。

「お願いです、僕は約束を守ります。初めてのオペラは貴方に差し上げます」
拳を握り締めていた。
「コンクールには出るのだな?そこで、お前は必ず賞を取るというのだな?」
唇をかみ締める。
衛兵が目を細める。それはオリビエに対する哀れみなのか、嘲笑なのか。

「はい。……ですから、僕を侯爵家に、帰して下さい。お願いします」
「その男が証人だ。よいな?」
オリビエの目の前の衛兵は「はい、確かに」と。
「確かに、オリビエ様は大公様とお約束なさいました。オペラコンクールで賞を取ると」
「そうだ、それが出来なければ一生私に仕える。我が一族の音楽家として、一生面倒を見てやろうというのだ。公証人たる私が約束する。これは契約だ。オリビエ。明日、必ず来るのだ。その時には正式な証文を用意しておく」

これは、なんなのだ。どうして、こんなことになるんだ。
これではあのミュニックでの夜と同じじゃないか。
よく分からない理屈で僕を思うとおりにしようとする。

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「音の向こうの空」第十九話 ③

第十九話:約束、契約、罠



マクシミリアンの用意した馬車に揺られながら。オリビエは頭を抱えていた。どうやって侯爵様に説明しよう。侯爵様は、どう思われるんだろう。なにか避ける方法があっただろうか、僕はまたバカなことをしたんだろうか。
せっかく侯爵様がコンクールに出なくてもいいように交渉してくださっていたのに。
「僕は……」
なんて、約束をしてしまったんだろう。


屋敷の外へと小さくなる馬車のランタンを眺めながら、マクシミリアンは傍らに立つ衛兵に視線を戻す。
「素直な青年ですね」そう笑ったのは先ほどの衛兵だ。腕を組んで侯爵の背後で同じ窓を見つめる。
「オリビエはリツァルト侯爵に大切にされ、籠の中で育ったのです。籠から出れば危険があることを知らずにね。侯爵が護ろうとしたそれが仇になる。お前に任せますから好きなようにしていいですよ。少し脅してやるのも楽しそうです」低く笑うマクシミリアンに、衛兵は「お人の悪いことです」と肩をすくめた。
「それより先日、我が領邦を尋ねてきた音楽家がいましたね。ここヴィエンヌに住んでいるとか」
「はい、ミューゼと名乗っておりましたな。レイナドが追い払っていたようですが」
「どこに住んでいるのか、調べなさい。会いに行きます」
「はい。しかし大公様、将軍はすぐにでも貴方様を参謀にとご希望でしたが……」
「コンクールまでです。それが終われば入隊します。戦場に発つ前に、これだけは始末しておきたいのです」
衛兵は膝をつき、一日も早く大公様の願いが叶いますよう、お手伝いいたします、と。恭しく頭を下げた。



オリビエが屋敷に戻ると、テッヘとシェイルが転がり出るようにかけて出迎えた。
「オリビエ様。お帰りなさいまし!ご心配申し上げておりました」
「侯爵様は?」
オリビエのコートを受け取りながら、シェイルは「旦那様はお帰りになるなり寝室にこもってしまわれまして。ご一緒のはずのオリビエ様が戻られないので心配で」と早口でしゃべる。
「どうなさったのか、お伺いしたくてもあの侯爵様のご様子では、とても。リエンコが声をかけて、逆に怒鳴り返されてしまって、もうどうしたらいいのかと」
テッヘが「これ、シェイル」と、声を小さくする。
メイド二人を引き連れる形になっていたオリビエの前に、階段から駆け下りてきた侯爵の姿があった。

「侯爵様、遅くなりました」
なんと説明しよう。オリビエは視線を合わせられない。そんな青年を黙って見つめ、リツァルト侯爵は目を細めた。
「……ピアノを」
それだけ言うと、侯爵はずんずん居間に向かって歩く。
オリビエは二人に、「大丈夫、いつもどおり夕食の準備を頼むよ。リエンコには僕から話しておくから」と笑いかける。
二人は侯爵の後を追うオリビエを見送り、顔を見合わせ。それから、台所へと向かう。


居間に入ると侯爵はまっすぐ自分の椅子へと向かった。その後姿を眺め、オリビエは口を開いた。
「あの」
「……なにを、約束させられてきた?」
侯爵の言葉は、全てを予想しているように思える。
オリビエは視線を床に落とした。
「コンクールの入賞を…。失敗すれば」
「お前をわしから取り上げるつもりだろう」
やはり、ご存知。マクシミリアン候に同じ話をされたのだろうか。

「……はい。明日、正式な証文を用意されると…すみません。僕が、機転が利かなくて」
ふん、と侯爵の吐息は扉の前に立ち尽くすオリビエにまで聞こえる。

「お前に非はない。わしもマクシミリアンを説得できなかった。しかし……そうか、そうまでして帰りたかったか」
かすかに笑ったように見えた。
「わしは、お前をおいて帰った。よいのだぞ。わしの下を去り、マクシミリアンの庇護に入れば、お前は何の心配も要らぬ。好きなだけ音楽を奏でられる。あの男はわしのように閉じ込めようともしないだろう」

瞬きの向こうで侯爵は悲しげに笑う。白いものの増えた髪。夕日の窓を背にその姿はひどく小さく見える。
滲んで見える。

オリビエは黙ってピアノに向かった。
奏でるのは、あのレクイエム。幼い頃の演奏はシンプルで深い。余計な奏法はいらない。音の余韻が耳に重なるたび、孤独の悲しさを増していく。あの時、突然の両親の死を受け入れられず、泣けなかった僕は。音を奏でることで涙していた。泣き続け、泣きつかれた時顔を上げれば、侯爵様が笑ってくださった。
だから、この最高に憂鬱なレクイエムは温かい優しさで終わる。朝日の差し込むチェンバロに描かれた風景に。新しい夜明けを感じさせて終わるのだ。
「僕は約束を果たします。コンクールで必ず、結果を出してみせます」



翌日、オリビエは教会の仕事を終えるとマクシミリアン候の屋敷へと向かった。雇った馬車は遅くとも午後九時には迎えに来ることになっている。その時にはリエンコが来てくれるはず。オリビエを一人、マクシミリアンの下へ送り出すことを心配し、侯爵が手配してくれた。
森を一望できる小高い丘陵地。秋の風は日暮れが迫るほど急速に冷え込む。コートの襟をぎゅと握って馬車を降りるオリビエを、アマーリアが駆け寄って出迎えた。
この子の存在だけが心を和ませる。

抱き上げると「オリビエ、何かいい匂いがするわ」と首にすがりつくから、「多分、チョコレートですよ。お好きですか」と笑う。「大好き、大好き!」と繰り返して嬉しげな少女を抱えたまま、オリビエはメイドについて、昨日と同じピアノのある居間に案内された。
そこには見知った男が待っていた。

「レイナドさん」
「お久しぶりですね、オリビエ。楽譜を持ってきたね」オリビエが頷けば、レイナドはアマーリアを促し、不満そうな少女を用意されていたお茶と菓子で手名付けるとオリビエと供に楽譜に見入る。
「……これは?」
「僕の演奏をアーティアに楽譜にしてもらったものです。演奏と少し違うところもありますが、これからオーケストラ用に編曲しますから、そのまま手を加えずに持ってきました。何しろ僕は初めてだから、レイナドさんにご相談しようかと」
ふむ、とレイナドはもう一度楽譜を見つめる。
アーティア・ミューゼね、と。レイナドが呟くのをオリビエは不思議そうに首をかしげる。
「曲調は素晴らしい。もう少しすれば、歌を担当するものが来るよ。アントニオとエミリーというイファレア人の夫婦だ。ベテランだから、君の曲を聞けば歌のための編曲に力を貸してもらえるだろう。結局歌い演じるのは彼らだからね。私は主にオーケストラ用の編曲を」
「はい、ありがとうございます」
にっこり笑うオリビエに、レイナドはそっと顔を近づけた。
「なにしろ、私も生活がかかっています。このコンクールは二回目ですが、私の前の監督はこのコンクールで解雇されましたから」と、こっそりと囁く。
向こうではアマーリアが好物のお菓子のジャムだけをなめ取って、メイドに呆れられていた。

「私も、歌手たちも。協力を惜しみませんよ。むしろ、貴方が作曲者として選ばれたことは幸運です。ガウソンではとても役立ちませんからね」
「そういえば、ガウソンさんはお元気ですか?」
「……一月前に解雇されました」
オリビエは、ごくりと喉を鳴らした。
「代々音楽家を務める家系のものでしたが。ツヴァイブリュッケン家は、ホンモノを好みます。力のないものはいつでも捨てられるんですよ」
確かに、雇い主の気分次第で楽士は解雇される。革命前のクランフ王国でもそう言った話は聞いたことがあった。
だからこそ、オリビエも自由がなくとも侯爵にもアンナ夫人にも従ってきたのだ。
友人のように親しげに、と夫人が腹を立てたのも分かる。何をどうしても雇う側と雇われる側。そこには明確な上下関係があった。

オリビエはこの屋敷に用意されているフォルテピアノに触れる。豪奢な金の飾りがつき、彫刻の施された脚、贅を尽くした白いピアノ。白い鍵盤はまだ珍しかった。
顔を上げれば、レイナドは楽譜と台本とを並べて真剣に見つめている。
オリビエは昨夜もう一度読み返した楽譜を思い出し、冒頭から演奏を始めた。
夜明けから始まる。
描かれた台本はイファレアの古典劇。遠く離れた恋人同士に魔の象徴であるカラスが黒い翼で疑惑の種をまき、互いを信じられなくなっていく悲しい物語。恋人を貴族に奪われた男は魔に魂を売り渡し、自らを死んだことにした。姿を変えカラスを名乗る。奪い返そうと愛する女に偽りの真実を吹き込む。カラスの言葉を信じ込んだ女は悲しみ、かつての恋人を殺してしまったのだと、自ら命を絶とうと胸に剣を突き立てる。
自らの愚行に気付いた男が嘆くシーンで、伸びのある歌声が混じった。

『私のこの胸の痛み、確かな痛み、だがカラスには涙もない。
美しい乙女を、愛する乙女を。こうして私は失うのか。こうして私は失うのか。』

響きのよいバリトンにオリビエが顔を上げると、がっしりした黒髪の男性と少し大きすぎる目元の女性が立っていた。イファレア人らしく、堀の深いはっきりした顔立ちの二人は遠目にも目立ちそうだ。
「だろう?今のあたりは」
そう笑った男性はアントニオと名乗り、オリビエに手を差し出した。
「はい、よく分かりましたね」オリビエが笑う。
「当たったか。俺も中々やるもんだな」アントニオは自分の胸を親指で示して誇らしげに笑った。男性がアントニオ、女性はその奥さんでエミリー。二人ともオペラ歌手だ。いつの間にか楽譜を手にオリビエのそばに立って聞いていたレイナドはオリビエを二人に紹介してくれた。
「オリビエンヌ・ド・ファンテル。作曲とピアノを担当するクランフ人だ。まだ二十一と若いが、腕前は今、聞いたとおりだ」
「ふうん。監督が期待しろっていうからもっと男前を想像したのにさ」とエミリーはオリビエの前に立ってじろじろと眺めた。豊満な胸元が組んだ腕で強調される。
「おい、何を期待したってんだ。十分、色男じゃないか」アントニオが呆れて笑えば、
「だってさ、あたしより小さいだろ?若いだろ?」とエミリーは鼻をつんと上向かせる。
「そりゃ、お前が悪い」笑いながらアントニオが歌い出す。
『私なら可憐なスミレを愛します。楚々と風に揺れる春の花、若き乙女、亜麻色の髪を揺らした白い頬』
アントニオの歌声は心地よく、オリビエの指は自然と鍵盤を走る。
亜麻色の髪の美しい乙女を。と歌いながらアントニオがオリビエの髪をなで、「僕?」と目を丸くすれば、今度はエミリーが冴え渡るソプラノを響かせた。
『おお、余りある日の光を神はなぜあの乙女に与えたもう。我にこんな影ばかり残して、あの乙女に光を与えたたもう。我にはこの影しかないのに』
それらがこの台本の一部だと気付き、オリビエは美しい声に曲を添える。
柔らかな演奏は伸びやかに歌うエミリーの声に華やかさを増す。

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「音の向こうの空」第十九話 ④

第十九話:約束、契約、罠



二人がそれぞれの心情を重唱し、離れていく恋人の第一幕の最後を歌いきると、レイナドが手を叩いた。
「おいおい、オリビエも、それ楽譜と全然違うだろう。それに朗唱に曲をつけなくてもいいんだ」
「でも、すごい、歌いやすかったよ」と。エミリーはオリビエの首にしっかりまとわりついて、亜麻色の髪をきゅと引っ張って女性のように結って見せようとする。
「わ、やめてください」
「ほら、乙女」

じゃれあっている二人を放っておいて、アントニオはレイナドの持つ楽譜を覗き込んだ。譜面と台本とを見比べた。しばらく眉をしかめて追っていたが、その内諦めたのか顔を上げ。

「音楽があるのもいいな。監督、適当でいいんじゃないか?」
「いや、朗唱(レチタティーヴォ)に伴奏はつけない。大体お前たちが、気分で歌を変えるから演奏がついていけないだろう」
「ついて来れてたぜ?なあ、オリビエ」
アントニオが振り返れば、すっかりおかしな髪型にされているオリビエは、「あの、助けて」と涙目で訴える。願いも空しく。
ぶ、ははは!と響く声で笑われた。

強い香水をまとったエミリーが「ほら、乙女ボウヤは大人しくしてて」とさらに髪に何かつけようとするから、「乙女でもボウヤでもないですよ!もう!」とオリビエも反論する。
立ち上がると、エミリーは背が高く。オリビエはわずかに見上げる。

「……」大きい。
「今なんか言った?乙女」
じろりとエミリーに睨まれ。それでもこの扱いは納得できない。
「だから!」
オリビエはまだ何か髪を触ろうとするエミリーの手を取った。

取り戻そうとするエミリーの手をしっかり捕まえ、オリビエは貴族に挨拶するように膝をついた。エミリーの手の甲にキスする。
「な!」
不意打ちにエミリーは真っ赤になる。大柄でがさつな印象でもやはり女性。オリビエの優雅な仕草は物慣れていて、低い位置から見上げる上目遣いは凛々しい。
「僕は男ですし。貴方は女性でしょう?こんな……」
ぶははは。「お上品なお貴族様にはエミリーもかなわんなぁ!」
アントニオは腹を抱える。

エミリーはまだ顔を赤くしたまま、「しょうがないな、じゃあ、オリビエ君で我慢してあげる」とこれからは君付けで呼ぶことを決めたらしい。
レイナドが「こういう奴らなんだよ。声は確かなんだがね」と肩をすくめ、オリビエははあ、と頷くしかない。

呆れ顔で大人たちを見つめていたアマーリアが、呼び鈴でメイドを呼んだ。
「皆様にお飲み物を。それからオリビエの御髪を整えて差し上げて」と。五歳の淑女はその場の誰よりも落ち着き払った口調で「大人ってすぐにふざけるんだもの」と。頬を膨らめる。
「お仕事しないなら、オリビエ、こちらに来て」
オリビエを取り戻そうとするのを忘れない。

「アマーリア様にはかなわないわね」とエミリーが笑い、休憩にしようと皆、アマーリアを囲んでソファーに座る。オリビエはブラシを持ってきたメイドとアマーリアのおもちゃにされていたが、どうやら普段に近い状態に戻ることが出来た。
「あのね、さっきの歌とピアノ、綺麗だったな。私は好きだわ」
アマーリアがそう話し。三人に押し切られる形でレイナドは「じゃあ、検討してみましょう」と苦笑いした。

歌手が役の「台詞」を語るときは通常伴奏を伴わなかった。人物の「心情」を歌い上げる詠唱(アリア)の部分はオーケストラの伴奏がつく。そこはオリビエも作曲してあった。
台詞の部分まですべて演奏するなら、ずっと演奏が続くことになる。
「これでは、オーケストラに負担が大きいな」
「パートを切り分ければいいんじゃないの?」
「台詞のとこはオリビエのピアノだけにすりゃいいじゃないか」
「……別に平気ですけど」
「オリビエ君は歌えないの?」
「歌えません」
「舞台栄えするのになぁ!」
「僕は男前じゃないですし」
「あ、なに?根に持ってる?」
「別に自分を男前だなんて思っている訳じゃないですけど、面と向かってそんな風に言われたのは初めてです」
「あら、傷ついちゃった?よしよし、いい子ね」
「子どもじゃないです!」

イファレア人のエミリーとアントニオは陽気で楽しい。いい加減なことばかり言って笑い飛ばすアントニオにレイナドも怒りきれないし、エミリーは五つほど年下のオリビエが気に入ったのか、からかってばかりだ。

オリビエは彼らが侯爵家に来てくれたら空気が華やぐかもしれないと。そこまで考えたが、侯爵が顔を渋くさせる姿を思い出し、一人で小さく首を振る。いやでも。協力してくれるといったロスノさんに、一度会ってもらわないといけない。
うん、と。自分の考えに頷いたところで、エミリーにバシバシと肩を叩かれた。
「ほら、オリビエも納得じゃない!」
「え?なにが?」我に返れば、彼らはまだ舞台の話を続けていた。

「舞台の隅にピアノを置いてね、オリビエは妖精の衣装なのよ。ひらひらとレースだらけの真っ白な奴!背中に羽よ、それで演奏するわけ!面白いじゃない」
「ええ!?」
アントニオは笑いつかれて腹を抱えている。
「絶対に笑えるわよ!」
「喜劇じゃないでしょう!?」
叩かれた勢いで、オリビエの手に持ったカップから紅茶がこぼれ、またひと騒ぎ。

「ごほん」
と。
騒々しい中に、咳払いが一つ。
アマーリアがその姿に気付いて「ジースト、面白いのよ、オリビエも舞台に出るの」と駆け寄り。

それが、昨夜オリビエを捕まえようとした大柄な衛兵だと気付いた。あ、と。オリビエの表情が変わるのを、レイナドは見逃さない。
そっとオリビエの腕に手を置いた。
「大丈夫、私達も一緒だ」
「あら、監督も妖精の衣装着るの!?」とエミリーとアントニオは大笑いしていたが。
レイナドの言葉を、オリビエはうつむいてかみ締める。
「皆さん、契約を交わしているんですか」
レイナドは黙って頷いた。

次へ♪

「音の向こうの空」第十九話 ⑤

第十九話:約束、契約、罠



昨日、マクシミリアンが言っていた契約を、するのだ。サインしたらもう後戻りは出来ない。成功しなければ、侯爵様のそばにいられなくなる。
テーブルに差し出された紙をじっと見つめた。
「オリビエ、約束だ。サインしなさい」
そこには立派な金箔が押され、装飾された文字で約束が書かれている。
宮廷歌劇場ヴィエンナ・オペラコンクールで入賞すること、それがかなわなかったときには、ツヴァイブリュッケン家の音楽家として生涯勤めること。

横から眺めていたエミリーが眉をしかめた。
流石に静まり返った中、オリビエは一つ息を吐き出して気分を落ち着けると。差し出された羽ペンで二枚ともサインを書き込む。
契約書を受け取って確認すると、ジーストはかすかに目を細め、
「オリビエ、昼過ぎには大公様が戻られる。アウスタリアの将軍もご一緒の予定だ。是非、演奏を聞かせて欲しいそうだ」
「……はい」
ジーストが部屋を出て行くと、ふう、とレイナドが息を吐き出した。
「なんだかな、ありゃ」と楽しい雰囲気を壊されたことに憤慨しているのかアントニオは口直しにとカップになみなみと茶を注ぐ。

「変じゃない」
そう、睨んだのはエミリーだ。
「変?」
オリビエは冷めた茶で気を落ち着けようとしていた。まじまじと契約書を眺めなおす。どこかおかしかっただろうか。渡されたものにはマクシミリアン候の割り印が施されている。

「普通はさ。失敗したら追い出されるんだよ。あたしだって、アントニオだってそう。なのに、あんたは逆じゃない。失敗した方が得なんだ」
「おいおい、見間違いじゃないのか?そんなの、あるわけないさ」
契約書には入賞できなければ一生音楽家として雇う、とある。それは間違いではない。

二人の言葉にオリビエはレイナドを見つめた。レイナドはどう想うんだろう。
音楽監督は首を廻しながら、思案し。オリビエの視線に応えると笑った。

「エミリー、アントニオ。オリビエにはここ以上に雇ってもらいたい場所があるんだ。辞めたくない仕事がね。そうだろう?」
黙って頷く。
「だから、オリビエにとっても失敗できない、ってことになる。それに、音楽家として勤める、っていっても内容は様々だろう?楽なものばかりじゃない」
「へえー、オリビエ君は恵まれてるんだね」と。エミリーは顔をしかめた。
まあまあ、となだめるアントニオにあんたはどっちの味方なのさ、と余計に眉を吊り上げた。

「大体さ、皆、血を吐く思いで生きてるんだよ!劇場に立つ前は浮浪民みたいに道端や中庭で歌った。どれだけ思いを込めて歌ったって、聞いてくれる人なんかない。追い払われるように小銭を投げつけられ、それを拾って命をつないできたんだ!あたしたちは大公様に感謝しているんだよ!!だから、熱があったって、寒くたって、笑顔で歌いきる。一度も舞台に穴を開けたことなんかない!ようやく得た仕事なんだよ?それがオリビエ君には納得いかないんだ!これが腹が立たないわけがないだろ!」
興奮して立ち上がったエミリーは、オリビエの胸元を掴む。

「あの……」なんと言えばいいのか。なだめようとオリビエも立ち上がれば、ぐんと腹の辺りを拳で押され、息がつまりそうになる。
「貴族のお坊ちゃまが道楽で音楽やるならあたしたちを巻き込まないで欲しいね!いい加減な気持ちでコンクールなんか止めときな!迷惑だよ」
「やめろ!エミリー」アントニオが引き剥がそうと怒鳴る。その時には、オリビエは大柄なエミリーに押され、よろけてピアノに背をぶつけていた。

間にレイナドが入り、アマーリアが泣き出し。
慌てたメイドが再びジーストを呼んでやっと騒ぎは静まった。

「いいかい!少しでも手を抜いたら、承知しないからね!」
捨て台詞をはいてエミリーは肩を怒らせ一人帰っていった。

「あいつも熱い奴だからな、悪いな」と。アントニオがオリビエの背をなでた。

「いいえ、彼女の言うことも正しいし、別に怒っていません。ただ。僕はエミリーさんがマクシミリアン候に感謝するように、僕を引き取って育ててくださった侯爵様に感謝しているんです。国を失って一人きりになった侯爵様は、僕の音楽だけを楽しみにしておられる、だから……」
レイナドが背中をたたき。アマーリアは泣きながらオリビエにしがみついていた。
「だから、成功させて見せます。皆が、幸せになれるように」
穏やかに笑い、オリビエは少女の髪をなでる。
「ごめんね、アマーリア。驚かせてしまったね」
少女はけなげに首を横に振る。
「一緒に、ピアノを弾こうか。アマーリアの演奏、聴きたいな」
少女が目を擦りながらオリビエの手を引いてピアノに向かい、メイドはそばに寄り添う。

その姿を眺めながら、「あー」と再びソファーに深く座りなおしたアントニオは、「よく分からんが」とレイナドとジーストに視線を送る。
二人が事情を知っているのは明らかだ。

レイナドは「彼の演奏を聞いてみれば分かりますよ。リツァルト侯爵は彼を育てたんです。それこそ温室の薔薇のように大切に。それを無理やり摘み取ってしまったら。薔薇は枯れてしまうかもしれない」と微笑む。
「そうでしょう?ジーストさん」
腕を組んで睨んでいた衛兵は、苦い顔をしていた。


午後になってマクシミリアン候は客を伴って屋敷に戻ってきた。
オリビエたちがオペラを語っていた場所は客人のものとなり、レイナドとアントニオは部屋の隅でオーケストラの編成を話し合うため椅子に座った。
大公と将軍とやらが話している間、オリビエは演奏を始めた。
邪魔をしないように静かな曲。

ピアノの音一つ一つを愛でるように、丁寧に弾くそれは時に軽やかに、時にしっとりと。オリビエは中庭で歌う歌姫を想像していた。イファレア人であるエミリーたちがどういう人生を送ってきたのかわからない。それでも、歌うことで生きていこうとした。

街の広場にはきっと、人も馬車も行きかい、物売りの声や子どもたちの笑い声。そんな中、空に向かって声を放つ。凍りつく冬には息をするだけで肺が痛むだろう。雪を肩に乗せ、白い息を吐き。そうして歌い、わずかなお金を得る。
カフェで歌わせてもらえれば、温かく、少しばかりの食事も分けてもらえたのかもしれない。オリビエの想像は【足長の店】。人々の人いきれで曇る窓ガラス。ストーブでは薪がパチと音を立て、香ばしいコーヒーが香る。
ふと気付くと、大公と客人のためにコーヒーが運ばれていた。

手を休めれば、マクシミリアンはふむ、とコーヒーに手を伸ばした。
「素晴らしいですな」
アウスタリアの将軍は髭の下を指先で擦り、それからカップを口に運んだ。
「いずれ、我が家の音楽教師にと願っておりますよ」
「おや、マクシミリアンどのはピアノを弾かれましたか?存じ上げませんでしたな」
「いいえ。娘が好きで。私は聞くだけですよ」

オリビエもメイドが差し出した飲み物で少し休憩すると、再び奏で始める。
今は昼寝をしているらしい、五歳のアマーリアに向けて、子守唄。リツァルト侯爵を憎むマクシミリアン候の行動は理解しがたいし、恐ろしくもある。それでもアマーリアの父親で、エミリーの恩人なのだ。人はそれぞれ、違う価値を持って生きているんだ。
そんな当たり前のことを、もう一度胸に刻む。

次へ♪

「音の向こうの空」第十九話 ⑥

第十九話:約束、契約、罠



夜になり風が強まる。この季節にしては冷え込み、早い時間にストーブに火を入れようとレイヌは火種を抱えて夫のいる居間へと足を踏み入れる。
「明日は雨が降るんでしょうか」声をかけた相手はピアノを弾き続けていたが、不意に派手に鍵盤を叩きつけた。
耳を塞ぎたくなるような音にレイヌは持っていたバケツを置くと慌てて駆け寄る。
アーティアは鍵盤に突っ伏し、乱暴に楽譜をなぎ払った。レイヌはばらばらと散るそれを拾い上げる。ため息をついた。
「貴方、どうしたの?大丈夫?」
起そうと手を添えるレイヌを、アーティアは振り払った。
「うるさい!」
「また、この楽譜なの。レイナドさんには断られてしまったんでしょう?いいのよ、今の生活で十分じゃない。貴方はよく働いてくださるし、春には子どもも生まれる。宮廷音楽家ですもの。その辺の貴族のお抱えの楽士とは違うわ。立派な夫を持って、私は幸せよ」
金髪をきりっと結い上げた女性は少しやつれた頬に、美しい笑みを浮かべた。
しかしそれをアーティアは見ていない。
鍵盤をじっと眺め。

「弾けないんだ」と呟く。
「どこが、違うんだ!同じ楽譜なのに、楽譜通りになら完ぺきに弾けるのに、違うんだ!あいつの演奏と、違う。もっと、深く、柔らかく。温かい」
女性は落ちていた上着を拾うと、呟く夫の背にかけてやる。
ここしばらく、レイヌの夫アーティアはずっとこんな調子でこもっていた。よく通っていた侯爵家にも行かなくなり、何かしら悩んでいるのは確かだった。
毎日、この同じ楽譜を眺めては苦しんでいる。
「深く、柔らかく温かい。同じようなことを噂で聞きましたわ。教会でそんな音楽が聞けるんですって」
ふと、呟き続けていたアーティアの声が止まった。
「たまには、お祈りに行きましょうよ」そう励まそうとする妻に、アーティアはゆらりと立ち上がった。
「ああ、そうだな。パールス教会へ」


翌日、乱れていた髪を整え、アーティアとその妻レイヌはパールス教会へと向かった。
雨の中、大勢の人や馬車が教会に集まる。
きょろきょろとしながら、レイヌが「すごい人ね。今日は何か特別だったかしら」と首をかしげ、それでも少しばかり嬉しそうに夫の腕に手を廻した。
寄り添う夫婦は黒い服の人の波に紛れていく。

静まり返った教会では、すでに座るところがないらしく、立ったままの人々が雨に濡れた帽子を払っていた。
揺らめくランプと高い天井の明かり、雨のために薄暗い空を透かしているステンドグラス。妖艶なほど煌くパイプオルガン。
礼拝堂からは演奏者の姿は見えない。その手前に立つ聖歌隊が見えるだけだ。中二階のその場所では、オリビエがいつもどおりオルガンの前に座っていた。

司祭が話し、祈りを捧げ。
聖歌隊は美しい声を響かせた。
ミサは滞りなく終わろうとしている。
「なんだか、拍子抜けよね。人が多いだけの普通のミサじゃない?」と。レイヌがアーティアの耳元で囁いた。
が。
よい一日を、と司祭たちが別れの言葉を交わすのに、集まった人々は誰一人動こうとしない。
「あの、何かあるんですか?」
レイヌが立ち尽くしたまま彫像のように動かないアーティアに話しかけるのを諦め、隣に立つ老人に声をかけた。
し、静かに。と。老人はウインクと供に笑った。
「?」

ふわ、とランプが揺らいだ。蝋燭の炎もすべての影を震わせる。
風?
この天気で窓を開けているのかしら、とレイヌが天井に顔を向ける。揺れた。
それは、オルガンの音。空気の力で音を響かせる楽器の音色は、礼拝堂の高いドーム全体を楽器に変える。
その旋律はふわりと舞い降りる雪のように静かにかすかに。それでいて美しい。
不意に軽やかに始まる音楽は雨粒のようにぽつぽつと煌いて落ち。
ランプの光に照らされる人々の髪が美しく見える。一つ一つが薄暗い海に漂う蛍のように。祭壇のろうそくが音に揺れ、人々はかすかにため息をはく。
胸にわいた想いを惜しみ、そっと静かに。感嘆をもらす。

「なんて、美しい」心の声を知らず言葉にしていたレイヌは、隣の老人に目配せされそれに気付く。口を手で覆い、隣の夫に目を遣る。
アーティアは泣いていた。

これほど美しい音楽を耳にしているのに、泣いている。苦しげに。
妻は心配になり、夫の肩に手を置いた。それは冷たく、びくりと震えると顔を上げた。
そのまま、アーティアは止めるまもなく礼拝堂を去っていく。

「!」
慌ててレイヌは後を追おうとし、振り返った瞬間。演奏が終わった。人々の歓声が包み込み、妻はその波に追われるように駆け出した。

公園にはすでに、夫の姿はない。
立ち尽くすレイヌに、一人の男が声をかけた。長いコート、金の縁飾り。髪は白い偽髪で黒い帽子が斜めに乗っている。背後に三人、従者が付き添う。大柄な衛兵らしい姿もある。
貴族だ。
「アーティア・ミューゼさんの奥さん、レイヌさんですか。ご主人によいお話を持ってまいりました」
「あの、貴方様は?」
「私は、マクシミリアン・ヨーゼフ。バイエルヌ領邦の選帝候の弟です」
マクシミリアンは穏やかに笑って見せた。
パールス広場には、ミサを終えた人の波が降り続ける雨を押しのけるように流れていく。



「夫は、何かに取りつかれているのです。何か、心にある演奏を再現しようとして、でもできない様子で。心の中の理想に追いつかずに苦しんでいます」
馬車の窓に打ちつけられる雨粒を睨みながら、レイヌは打ち明けた。この貴族の紳士はアーティアに仕事をくれるというのだから、レイヌはすがる思いで話し続けた。
工場の仕事が休みがちになり、毎日どこかへ音楽を教えに行っているのだといっていた。それが二ヶ月前に、突然一人ミュニックへと向かい、帰ってきたと思えばひどく落ち込んでいた。そこまで話して、ミュニックがバイエルヌ領邦の首都であることを思い出し、レイヌは顔を上げた。
「あの、もしや、夫が何のためにミュニックに向かったのか、ご存知で?」
マクシミリアン候は頷いた。
「貴方のご主人は我が家の芸術監督に会いに来たのです。オペラコンクールに出たいのだと。あいにく彼は固い男でしてね。すでに決まっている作曲家がいるといって受け付けなかった。アウスタリア皇帝が代替わりしてから、宮廷室内楽団は団員を減らそうとしています。音楽家が冷遇される時代、私としても貴方のご主人のように素晴らしい音楽家を失うのは惜しい」
レイヌは驚愕した。もしや、夫は宮廷室内楽団を解雇されたのではないか、と。だからあんなふうに乱れ、打ちひしがれているのではないか、と。
「!そ、それでは…」
「知り合いの貴族で、コンクールに音楽家を出したいという話がありましてね、アーティアにそちらを勧めようかと思います」
震える手を胸元に組んで、レイヌは神に感謝する。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
レイヌは深々と頭を下げた。

次回「第二十話:オリビエの戦い」は1月5日(月)公開予定です♪

のんびりと描き続けています…気付けば長い物語になっているなぁ~(^^;)
飽きずに読んでくださる皆様、感謝しております♪

最近ストーブ…流行なのでしょうか?ストーブの本などを本屋さんで見かけました。
アンティークなものなど、とても可愛らしくて。いろいろと妄想をかられています。
オリビエのいるヴィエンヌ、現在のウィーンですが、冬は寒い。
なのに、18世紀の劇場ではストーブ一つなかったらしいです。それでも温かい家から出て、観劇に来るんですから、よほど人気があったんでしょうね♪

本年の連載はここまで♪
来年も変わらず、隔週月曜日に更新します!うん。頑張る。
ヴィエンヌ編もそろそろクライマックスが近づいています。
楽しんでいただけるといいな~♪

プロフィール

らんらら

Author:らんらら
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