01
1
2
3
4
5
6
7
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
   

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「音の向こうの空」第二十話 ①

第二十話:オリビエの戦い



「あん、オリビエってば」
可愛らしい声が耳元で囁き、オリビエはまどろんでいたことに気付く。
目の前にアマーリアの大きな瞳がある。

「あ、……おはよう」
ぷんと頬を膨らます少女に引っ張られ、もたれかかっていたソファーから体を起こした。
「お目覚めか」と、レイナドが笑う。

今日はオーケストラの各パートの代表が集まっていた。オリビエがレイナドのアドバイスにしたがって書き直した楽譜を手渡し、レイナドが打ち合わせをしている間ずっとアマーリアのピアノを聞いていた。その内、眠ってしまったらしい。
「すみません」
「もう、何度もキスしたのに」と、アマーリアが腕を組んで怒ってみせる。
「もう少し大人のキスだったら、しっかり目覚めたかもしれないなぁ」
笑って見せるのはアントニオだ。
「大人のキスって何歳から?」と少女は真剣に尋ねる。その可愛くかしげた姿に皆が笑った。

「オリビエ、このファゴットのパートだけど」と、ヴァイオリン担当のヒルダが話しかける。
「ここ、この演奏は不可能よ、ファゴットのレシスは意地っ張りだから、出来ないなんていわないけど、あの不安定な楽器じゃ無意味な努力をさせることになるわ。もし、重要でないなら、この旋律はヴァイオリンでカバーするわ。ヴァイオリンは五人いるから、なんとかなるし」
オリビエは示された楽譜をながめ、「うん、じゃあ、こうしようか」とサラサラと音符を書き直す。
「さっきまで涎たらして寝てた奴とは思えないな」と余計な口を挟むのはアントニオ。ニヤニヤ笑いながら、腕を組んで覗き込んでいる。

「寝てる間に考えたんだよ」
冗談なのか、本気なのか分からないオリビエの返事に、アントニオは肩をすくめる。
本当に考えてあったかのようにあっさり編曲する青年に、ヒルダは目を丸くしていた。

「ほんと、よく拾ってきたわね、この才能を」
「教会の仕事の前にロスティアーノさんに教わるんだ。ただ作曲するだけじゃ、誰にも楽譜を書いてあげられないから」
「珍しいわね、あの偏屈じいさんが誰かを教えるなんて」
ヒルダが目を丸くすれば、「そ、アウスタリアの芸術監督さまは変わり者だからね。オリビエと気が会うんだ」とレイナドは一人悠然と自分のために茶を注ぐ。
ロスティアーノの名は彼ら音楽家の間では有名なようで、オリビエが彼に師事していることを知ると、無名の青年音楽家の実力を疑っていた奏者たちも納得してくれているようだ。


あれから三日ほどが経過し、オリビエもバイエルヌ歌劇団の皆に慣れてきていた。気さくな彼らは軽口をたたきながらも実力のある音楽家たちだった。
にぎやかな中にエミリーはいない。あの初日以来、顔を見せない。

「アントニオ、エミリーはいつになったら出てくるんだ?」
「お前が尻に敷かれているからだろ?首に縄つけてでも引っ張って来いよ。あの暑苦しい笑顔がないとどうも物足りないんだよな」
団員たちがからかえばアントニオは「尻の下はいいぞ」とわけの分からない反論をし、笑っている。オリビエはその様子をじっと見つめていた。
レイナドが軽く肩を叩く。

「君のせいじゃないさ。エミリーは気が乗らないと何も出来ない性質なんだよ。困ったもので以前からね、メンバーと揉めたこともあるんだよ」
オリビエは目の前に置かれたカップに視線を落とし、両手でそれを抱えた。
まだ十月の半ばだというのに、夜は冷たい。ストーブの中で薪が小さく呟いた。
「これから侯爵家に戻って、侯爵のために演奏するんだろう?」
レイナドは駄々をこねながらも寝室へと連れて行かれるアマーリアを視線で見送っていた。オリビエもお休みと手を振る。

「はい。侯爵様がお休みになるまで」
「いつ、休むんだ?」
「え?」
「早朝から教会に行くんだろう?午後からこの時間までここでコンクールの準備、帰ってから侯爵の世話。その合間に編曲もして。いつ休んでいるんだ?眠っていないんじゃないか?だから、さっきみたいに」
「いえ、あれは。夕食に少し、ワインを飲みすぎたんです。すみません。あまり酒に強くないので」
「……それならいいが。コンクール本番に体調を崩してもいけないからね、何よりもコンクールのことを優先してくれ。君の肩にはここにいる団員三十人の将来がかかっているんだ。失敗は許されない……特に、あの大公の下ではね。ほら、噂をすれば」

レイナドが溜息をつきながら視線を向けたのは、開かれた扉。ジーストが付き添い、マクシミリアン候は皆の挨拶を受けながらくつろいだ服装でいつもの自分の椅子に座る。
「オリビエ、何か弾いてくれませんか」
「はい」
ここにいる間は逆らわない方がいい、それがレイナドをはじめとする皆の意見だ。オリビエはピアノに向かう。

マクシミリアン候は、まるでリツァルト侯爵のようにオリビエの曲を聞きたがった。真似をしたいのかもしれないとオリビエは想うが、そこは追求できるわけでもない。
午後九時近い。そろそろリエンコが来てくれる時間。

ここ最近の雨の多い天候はこのヴィエンヌの街を丸ごと冷やそうとしているように思える。この時間の雨は冷たい。オリビエの前では無口なリエンコは、コートを着こんで馬車の前で黙って待っている。きっと、雨の中立ったまま。招き入れてやりたいが、それは許されない。
僕のこの演奏が彼に届けば、しばらくまだそこに行けないのだと分かってくれるだろうか。濡れないように馬車の中で待っていてくれればいい。雨が止むといい。この冷たい夜の風が、少しは彼に優しくしてくれるといい。

しばらく奏でたところで、ふとマクシミリアン候の身じろぎに気付いてオリビエは演奏を終えた。
広いこの居間にはストーブと暖炉があり、マクシミリアン候やオリビエのいる暖炉の周辺とは丁度反対側になる位置にストーブが置かれている。オーケストラの奏者はそちらに集まっている。じっと、座って静かにしていた。
彼らはオリビエと違い、この屋敷に泊り込んでいた。
楽器をすえてあるこの部屋はこうしてマクシミリアンが来ない限りはオーケストラのための部屋になっている。
ランプと暖炉の炎、二つの明かりにオーケストラの楽器が煌いて見える。オリビエの演奏する白いフォルテピアノは中でも最も豪華な装飾がされ、妖艶なほど美しかった。


「大公様、僕はそろそろ、帰らせていただきます」
一人だけ帰る場所のあるオリビエは、マクシミリアンが睨むように見ているのを気付かないふりをしながら、コートを手にとって部屋を出る。
雰囲気のせいだろう、視線を合わせたオーケストラのメンバーも「おやすみなさい」というオリビエの挨拶にも黙って見送る。
向こうに遮ろうとする衛兵がいたらどうしよう、と密かに緊張しながら毎夜この扉を開く。開いた先が闇なのは、ほっとする。
オリビエが冷えた廊下に一歩踏み出したところで、とん、と肩に乗る手がある。
「!」
振り返れば大柄な衛兵、ジースト。
「お送りします」と。明るい室内を背に、逆光になった男の表情は読めない。


次へ♪
スポンサーサイト

「音の向こうの空」第二十話 ②

第二十話:オリビエの戦い



ずっと肩に置かれた手が気になりつつも、オリビエは黙ってエントランスへと向かう。古い造りの屋敷は二つの大広間を回りこむように廊下があり、そこからはすぐにはそれと分からないよう使用人の部屋へとつながっている。だから、今そこを歩くのは二人きり。

寝静まるほどの時間でもないが、響く自分の足音にジーストの腰のサーベルが金属音を重ねオリビエはかすかに緊張する。

早くリエンコのいるところへ。

広間へ続く小さな支度部屋の前まで来たところで、突然ジーストはオリビエを突き飛ばした。
わ、と。思わず声を上げ、オリビエは暗がりに転がった。支度部屋の中にはランプの明かりが届かず、真っ暗だ。

「何をするんですか!」広間への入り口を隠すカーテン、その縁を飾る房が床についた手に触れる。
暗闇はあの時の麦畑を思い出させた。
自然、恐怖心がわく。
あの時は暗闇に刃が光った。

ぐ、と押さえつけられ、背に壁を感じた。
「何を、ジーストさん」
「リツァルト侯爵とお前は、どんな関係なのだ?毎夜、床を供にしているのか?夫人に逃げられた侯爵は寂しさのあまりお前に夢中か?」

その口調には嘲りの笑いが含まれている。のしかかる男を、気付けば膝で蹴り上げていた。

「侯爵様を侮辱するな!そんな下卑た想像しかできないなんて、恥かしくないか!」そう怒鳴りつつ、同じことをアンナ夫人も想ったのだと。それが、どれほど侯爵やオリビエを苦しめたのか、悲しくさせたのかと悔しくなる。
「そんな風に脅さなくても僕は今、あのオペラを仕上げることに夢中なんだ!こんなに一つの曲に時間をかけたことは初めてで、すごく楽しい。それを邪魔するのは、大公様の命令に逆らうことじゃないか!」

く、と。腹を押さえていたジーストは笑った。
「分かっていないな。大公様が何を望んでおられるか。考えれば分かるだろう?」
「……?」
「大公様にはオペラなどどうでもいいことだ。もともと兄上の趣味には関心がなかった。マクシミリアン候はこの件が終われば連合軍の将校として参戦する。戦場でこそあの方は生きる。その大公様がお前にこだわり、参戦を遅らせてまでコンクールに参加させる理由が分かるか?我らが戦場において価値を見出すのは命だけ。いいか、オリビエ。リツァルト侯爵からお前を取り上げる、そんな程度で済むはずがないだろう?」

侯爵様を、殺すとでも言うのか。

ぞくりと震えた。
気付けば壁に押さえつけられた体はびくともしない。
「……侯爵様に、何をするつもりだ」
「人の心配をしていられるのか?お前を温室の薔薇に例えた男がいる。大切に育てられたそれを摘み取れば枯れてしまうと。ふ、笑止。我ら軍人に花の価値など分からん。散ろうが枯れようが、踏みにじろうが関係ない。大公様のためならこの場でお前を殺すことも厭わん。二度と私の前で笑えなくなるほど、痛めつけることもな」

口をふさがれた。



オリビエが馬車にたどり着いたとき、予想通りリエンコは降りて待っていたのだろう、冷たくなった手でオリビエを支えた。すっかり雨は止んでいたが、返って澄んだ空気がひやと頬を刺した。
「あの、どうしました、オリビエ様」
体の痛みにどうしても緩慢な動作になる。

オリビエは「大丈夫だよ。寒かっただろう、遅くなってごめん」と笑った。
ここ最近、帰りの馬車でオリビエはいつも眠ってしまっていた。レイナドの言うとおり、少し疲れていた。リエンコがいてくれるから余計に安心してしまうのだろうが。侯爵家に到着していつも「オリビエ様、起きてください」と肩を叩かれるのは少し気恥ずかしい。
けれど今日はそれどころではなく、受けた傷に気付かれないようにしているのが精一杯だ。

「オリビエ様、いつもお疲れです。大丈夫ですか」拙いドイツ語で言われると、オリビエは笑った。乗り込んで座席に身を沈める。馬車の振動は殴られた背や腹に鈍い痛みを伝えたが、それでもこれで帰れると思えば緊張もほぐれてくる。リエンコはどうぞ自分にもたれて休んでくださいと言う。オリビエがひどく疲れているのだと思い込んでいるようだ。それなら、と。オリビエは痛む体を隠して、そっと肩を借りた。

「大丈夫だよ。僕が眠ってしまうのはリエンコがいてくれて安心できるからだよ。ありがとう。このこと、誰にも言ったらだめだよ」
そうして、眠ったふりをして眼を閉じた。

心配してくれる侯爵様や皆には罪悪感もあるが、オペラを作り上げていく作業は面白かった。侯爵様のため、自分のため。今はコンクールに全力を尽くそうと考えてきた。レイナドもロスノも協力してくれている。
充実していた。

しかし。
まだ、なにかマクシミリアンは企んでいるんだ。コンクールだけじゃない、なにかを。
命のやり取りにのみ価値を見出す彼らが、父の敵と思い込んでいる侯爵に望むのはやはり。
命なのかもしれない。

その想像はひどく恐ろしく、オリビエは震える拳を胸元でそっと握り締めた。



翌日はからりと晴れ、乾燥した冷気が頬をぴりぴりとさせる。教会の仕事は休みで、朝から鈍い痛みを残す体を引きずってオリビエは再びマクシミリアンの屋敷を訪れた。
今日はオーケストラと音を合わせるのだ。大切な日。自分の曲を初めてオーケストラが奏でる、それはきっと感動的だろう。

マクシミリアンやあの衛兵ジーストさえいなければ楽しいのだ。
皆、オペラを成功させようと必死なのだ。

大理石のエントランスを登り、衛兵の立つ扉の向こうで出迎えたのは、ジーストだった。
思わず一歩後ろに下がったオリビエの腕をつかむと、強引に引っ張る。
「放せ!」
慌ててオリビエが手を振り払うと、男はニヤと笑った。

「昨日は楽しかったよ、オリビエ」
嫌な記憶がよみがえる。

「おはよう、オリビエ」
馬車の到着に気付いたのかレイナドが現れ、助かったとばかりにオリビエはそちらに駆け寄った。ジーストを警戒しぐるりと遠回りするのも忘れない。
「おはようございます」
「冷たかっただろう、ストーブに火を入れさせた。今日は大広間だからね、この時間は日当たりが悪いんだ。こっちだ」
「もう、皆さん、おそろいですか」意識は背後のジーストに残したまま、オリビエは早足でレイナドの示した広間へと向かう。
ジーストは楽しんでいるだけとしか思えなかった。ちらりと振り返れば、笑顔が浮かんでいるように思えた。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十話 ③

第二十話:オリビエの戦い



僕の邪魔をするつもりなんだ。契約を結んでしまったが最後、コンクールを止めることはできない。逃げ出すことも出来ない。
とにかく、うまくやり過ごすしかない。ジーストと二人きりにならなければいいんだ。流石に皆の前であんなことはしないだろう。

いつの間にか押さえていた脇腹を「どうした、腹でも痛いのか」とアントニオにからかわれ、オリビエは「緊張しているんです」と笑った。

二つある広間のうちの一つがオペラの舞台になっていた。と言っても練習用。木材がそのままむき出しになっている、仮の舞台だ。
舞台係の話では専用の大道具は少し離れた工房で作られているらしい。ここにこれ、と、架空の舞台装置を示して見せた。
まだ木の若々しい香りが残り、その前に並んだ楽器と椅子、そこに座るオーケストラの皆も落ち着かないらしくざわざわと話しこんでいた。
真ん中にオリビエの弾くピアノ。彼らはオリビエの姿を見ると「おはようございます」と挨拶をしてくれ、オリビエも「よろしくお願いします」と応える。
レイナドが指揮棒を持つと、空気が張り詰めた。

「冒頭、序曲『夜明けの窓辺』から」
静かにレイナドの声が響き、指揮棒がぴたりと宙に停まる。

オリビエは息をゆっくり吸い込んだ。指はすでに鍵盤を感じている。冷たい象牙の白い鍵盤は指を吸いつけるようだ。ふと音色を想像する瞬間、レイナドの手が動いた。

ピアノの独奏から。
この時間に相応しく、清んだ空気が心地よく頬をなでるような旋律。極限まで小さい音、ためらうような一音一音に軽やかな鳥の声が混じる。それはピッコロ。朝の空気を揺らし、眠っていたものを目覚めさせるような美しい鳴き声に空気を描くピアノが呼応する。ヴァイオリンが軽やかなスタッカート。
かすかな音のずれが生じ、レイナドが手を止めた。

「オリビエのピアノは聴くな、耳をとられて、テンポが遅れる」
ファゴットの数人がしまったとばかりに顔を見合わせた。
「あ、すみません」
オリビエが謝ると、ぶ、と舞台の上で座って眺めていたアントニオが噴出した。
「オリビエ、お前が謝ることないんだぜ」
「アントニオ、邪魔するなら向こうへ行っていて欲しいな」
「はいはい、黙っていますよ、監督」
まだ出番のないアントニオは呑気に伸びをして、ステージの真ん中で横になった。

「ほら、もう一度」ざわついていたオーケストラを再びレイナドが引き締める。

充実していた。さすが選帝侯がそろえてきた楽団だけある。レイナドの要求に即座に応えて見せる。楽譜どおり、それでも、オリビエが見本にピアノで演奏してみせると、どこか違うと首をひねり、楽譜に表現しきれないものを見つけ出そうと懸命だった。

幾度かの休憩を挟み、午後には第一幕まで、レイナドが納得する程度には演奏できた。
昼食にもあまり食欲がないオリビエをレイナドが心配し、三時には夕方までの長い休憩をくれた。いくつかのパートで課題が発生したこともある。
オリビエの演奏を聴きたがるものもいたが、レイナドが「それじゃ、オリビエの休憩がなくなるだろう」とたしなめ。オリビエは大広間から締め出された。

「いいから、庭でも散歩して休んできなさい。顔色も悪い。そうだ、私の部屋で横になっていてもいい。アントニオ、案内してくれるかい」
昨夜、痛みであまり眠れなかったオリビエは、好意に甘えることにした。

階段をアントニオの後について昇りながら、冗談ばかり言うアントニオに笑いをこらえるのが大変だ。笑えば腹が痛んだ。
アントニオは「お前、もっと早く来いよ、のろいな」と踊り場でオリビエが追いつくのを待った。

「おや、どちらへ?」

その声は、オリビエの正面。アントニオはそちらを眺め、二階の廊下からジーストが姿を現した。
「!」

オリビエは足を止めた。

「ああ、監督の部屋で王子様はお昼寝だそうだ」とアントニオは妖精の役よろしく大げさなお辞儀をしてみせる。それをまったく無視してジーストはゆっくりアントニオの脇を過ぎ、オリビエに向かって降りてきた。
身構えるより先に、どん、と、突き飛ばされて壁に背中を打ちつけた。
「な!?」
思わず声を上げかけた。
壁に追い詰められ、胸倉を掴まれてすでにオリビエは捕われの身。そうとは見せない俊敏さでジーストは狩を楽しむ。
腹に突き出された拳。
う、と息をつまらせオリビエが倒れかかれば、捕食者は戦利品とばかりに引きずる。

「レイナドの部屋か。案内してやる」
「ジーストさん、あんた、何を!?」慌てて追いかけるアントニオの声。

乱暴にジーストは扉を開いた。

連れ込まれる、そこで、二人きりになったらまた。
オリビエは必死に扉にしがみついた。

「ほら、逆らえる立場なのかな?」
次に腹に受けた衝撃に一気に視界が暗くなり。廊下に、見上げたアントニオの驚いた顔。

助けて……。
言葉にはならなかった。
床の冷たい感触が頬にある。
「大公様のご命令だ」
かすむ視界に脅しの言葉が降ってくる。斜めに見えるアントニオは唇をかみ締め、身を翻した。

そうだ。
大公の命令…アントニオも逆らえば職を失う。
歌を奪われる。

強引に引きずられながら、オリビエは何か大切なことを思い出しかけた。
どこかで、これに似た、何か。悲しみを味わった気がする。
どこかで。

切なさと供に眼を閉じたが、腹をつま先が突き、目を開けば嬉しそうなジーストの顔。そんな余裕はなくなっていた。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十話 ④

第二十話:オリビエの戦い



肩をゆすられ。目覚めれば、レイナドがのぞき込んでいた。
「大丈夫か?少し熱があるんじゃないか?」

ベッドに、横たわっていた。
レイナドの部屋、だろうか。あのまま、何度か殴られて。
服の下の見えない痣を想い、オリビエは静かに息を吐いた。そっと、毛布の下で自分の身体を確かめる。脇も、背中も、どこもかしこも軋んで悲鳴を上げていた。

「大丈夫、です」
「体調が悪いなら、泊まって行ってもいいんだよ?医者も呼べるが?」
レイナドの優しい顔。

気付いてない。アントニオは黙っているんだな。
言ってしまおうか、やめてもらえるだろうか。
レイナドなら、ジーストから護ってくれるだろうか。

柔らかい枕にオリビエは頬をうずめた。熱っぽい身体に冷たい枕が心地よかった。
起き上がろうとするだけの気力はまだない。動かすのが怖かった。

「ほら、起きられないんだろう?」
甘えるように枕にしがみついているオリビエにかすかに笑みすらこぼしながら、レイナドは「少し働きすぎなんだよ、休んだ方がいい。本番で君なしでは成り立たないんだ」と。オリビエの背中をなでた。
「…!!」
びり、と響く痛みに眉をひそめ、オリビエは枕に顔を押し付けてごまかした。
体中が痛む。それでもジーストは顔や手足を避けているのだ。それはオリビエにとっても救いだ。
侯爵様に知られたらきっと心配させてしまう。
どんな同情を貰っても、この仕事をやり遂げるしかないのだ。苛められようが、殴られようが。そうしなければ、マクシミリアンに雇われ一生ジーストともお付き合いとなる。
ぞっとして、こみ上げるものに吐きそうになる。

「おい、大丈夫か?」
背中をさすってくれるそれがまた痛み、オリビエはうずくまる。

「…はい。あの、夕食後の練習には、参加しますから。もう、少し休んでいていいですか」
「医者はいいのかな?」
オリビエは頷いた。
本当は、そばにいて欲しかった。一人は怖い。
だが、引き止める理由がない。
「……あの」
「夕食には呼びに来るよ」そう、穏やかに笑って、レイナドは立ち上がる。

「あの、成功すると、思いますか」
「ん?」

「僕の、あの曲で成功できると思いますか?僕は、失敗できない、怖くて」

震える理由をそこに見つけたと思ったのだろう、レイナドは目を細めた。
「大丈夫。君の曲は素晴らしい。君以外の誰にも書けない曲だ。皆も君に敬意を持っているよ。明日には最後まで皆に覚えてもらう予定だ。歌も入れて通し稽古に入りたいんだよ。流石にエミリーも顔を出すだろう。だから、君がまず、自信を持ってくれないとね。またエミリーのあの剣幕にやられるぞ?何しろ、団員の未来がかかっているんだ」

笑いながら「また後で」と部屋を出て行った。
団員の未来。

エミリーと同じ、皆は大公を信じている。成功のために雇われ、期待されていると信じている。

ジーストの言うとおり、大公が僕や侯爵様をいたぶるために失敗を願うのだと知ったら。
折角、皆がまとまってきているのに。
レイナドはどう思うんだろう。大公を恩人だといったエミリーはどんな顔をするんだろう。

僕が逃げ出したら。皆にも侯爵様にも迷惑がかかる。コンクールに成功さえすれば、劇団の皆は仕事が続くんだ。レイナドがいうとおり、皆の将来がかかっている。

怖い、けれど。痛いけれど。僕は耐えて成功させるしかない。
痛むのが身体だけでないことに、オリビエは気付いていた。



レイナドが夕食だと呼びに来て、いつの間にか眠っていたオリビエは目を覚ました。
笑われながら、「大丈夫です」と答え。
皆の待つ広間へ向かう。そこには全員分の食事が並べられ、長いテーブルにはずらりと皆が並んで座っていた。暖かい暖炉の炎にパチと薪が答え、その上で焼かれたチキンが香ばしい色でオリビエの視界に飛び込んできた。
そういえば。あまり食べていなかったことをまずは胃が訴えた。

食欲が戻ってきていることに、オリビエ自身が嬉しく感じている。自分の身体が、まだ大丈夫なのだと証明された気分になった。
やるしかない、そう。諦めるわけには行かない。

アントニオが「おい、お目覚めかい、王子様は」と手を振って自分の隣を指し示す。席に座ったオリビエに、ほら、鳥の燻製だとか、野菜の酢漬け、俺は嫌いだがお前は食べろとか、そんなことをいいながら次々と大皿の料理を取り分けてくれた。
「ありがとう」
笑うオリビエに「…ごめんな」と。悲しげに笑って見せた。
アントニオもつらいのだ。
「うん、いいんだ。分かってる」
「大丈夫か」
オリビエはチキンにかぶりついたまま頷いた。
「美味しい」

「ああ、そうだろう?なあ、俺には理由を教えてくれるか」
「気にしないで。大公様の命令に逆らえば、貴方だってここにいられなくなる。分かります。僕は大丈夫だから」

背を向けたアントニオを見つめながら何か思い出しかけた、あれはファリの街角で別れたアネリアだ。
彼女の悲しみは背中の痛みと供に心に残っていた。彼女はもっと痛かっただろう。彼女にとって裏切ったのは僕の方だったから。
僕はアントニオと同じ、追い出される彼女を見捨てたんだ。自分のために。

心配そうに見つめる男に、オリビエは微笑んだ。持っていたフォークを皿に置く。皆は、信じているんだ。打ち明けるわけには、いかない。

「そりゃあさ、俺じゃ何の役にも立たん。だけどさ」
「じゃあ。エミリーを明日。絶対につれてきて欲しい。僕は、このオペラを成功させるんだ。僕自身のために、それに、みんなのために。だから、脅しても何してもいいから、つれてきて欲しい」
オリビエの表情は真剣だった。
「あ、ああ……」
何度か瞬きをしてアントニオは約束した。必ず、明日は全員を揃えると。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十話 ⑤

第二十話:オリビエの戦い


ふあ、と三回目の欠伸をし。ヨウ・フラが居間の隅で眠気覚ましのコーヒーを貰っていた。

エリーゼはその隣に座ると、「また、遅くまでお仕事するの?」と少年の髪をなでる。
「んー、もう少しで書きあがるんだ。新聞社でね、話をしたら興味を持ってくれて。ほら、この間アウスタリア軍がリエージュを落としたばかりだし。市民の興味をそそるいい機会だって。僕の記事は、きっと市民に受け入れられるってさ」
「すごいわ」
「し、オリビエが起きちゃうよ」
言いながらもヨウ・フラはそばにある少女の肩を引き、軽く口付ける。
「もうっ」
エリーゼは照れながらもそばに横たわるオリビエが目を覚まさないかとそちらを見つめる。


オリビエは風邪でも引いたのか元気がなかった。侯爵が今夜の演奏は取り止めにし、湯に浸かってから休みなさいと命じた。リエンコが準備している間にオリビエはソファーで眠ってしまっていた。
鳥の夢でも見ているんだろうか、とヨウ・フラは想像しながらオリビエの寝顔を見つめる。

「大変みたいね」
エリーゼがそっと毛布をかけてやった。
「でも、充実しているみたいだよね。コンクールまで後二週間なんだ」

オリビエは毎日マクシミリアンの屋敷に通い、オペラの準備を進めていた。通し稽古も始まり、仕上がりが近いのだという。まったくの素人のオリビエが曲を書き、それを一つの作品に仕上げていくレイナドやアントニオたちにオリビエは刺激を受けているようだった。
それは、オリビエの演奏にも磨きをかけ、侯爵は時折、「これでよかったのかもしれない」と呟くほどだ。それはヨウ・フラも同じだった。

「なんだ、オリビエはまだここにいたのか」
リツァルト侯爵が姿を見せると、すぐその後からリエンコが「風呂の準備ができました」と入ってくる。
「オリビエ」
ヨウ・フラが肩を叩く。
ぴくと青年は震えた。
「なんだよ、起きなよ」
「あ、うん」
寝ぼけているのか、ひどく緩慢な動作のオリビエに業を煮やしたか侯爵が手を伸ばしかける。

「無理をしているのではあるまいな」
「いいえ、大丈夫です!!」
慌ててオリビエは起き上がる。そばにいたリエンコが支え、ゆっくりと歩き出す。

二人を見送りながら、ヨウ・フラは首をかしげた。
「オリビエさん、本当に元気ないわ」
呟いたエリーゼにヨウも頷き。そちらをと見れば侯爵もじっと二人の出て行った先を見つめていた。
「それとなく、聞いてみます」
溜息と供に少年が言葉にすれば、侯爵は目を細めた。
「僕も、心配だからです。オリビエはあんな頼りないくせに、意地を張るときがあるから」
アーティアとのこともそうだ。アンナ夫人とのこともそう。心のどこかに重くのしかかっているはずなのに、平気なふりをして笑っている。
オリビエは素直な子供のようでいて、本当のところは隠している気がしていた。
それも、自分以外の誰かのために。


美しいタイルに飾られた浴室は、湯船から漂う温かい湯気にしっとりと湿っていた。
温かい湯に浸かる、痛むだろうか。オリビエはそこが気になっているものの、嫌だとは言えずにいた。
「入らないのですか」
リエンコがまじめな顔をしてオリビエの着替えを籠に置いた。
「入るよ、一人で大丈夫だから、お前は外に」
「傷が痛みますか」

知られていないはずだった。
リエンコは体の割りに小さめの頭をかすかにかしげ、オリビエのまん丸な目に笑って見せた。
「何で、知ってる?」
「眠っている時に。見ました」
帰りの馬車の中で?でも、ちゃんと服を着ていたはず。
「服を……」
「こうして」
と、リエンコは自分の上着をまくって見せる。
無邪気とも思える行動に、どんな顔をしていいのか分からなくなる。頬が熱いのを思わず手で押さえていた。怒っていいのか笑っていいのか。いや、とにかく、寝ている人間の腹をのぞくってどういう神経なんだ!
「どうしてそんなことするんだよ!」
「痛そうにしていました」
「だからって」
「心配です」
オリビエは黙った。
「熱が出るほど、痛むのは、よくないです。傷を見せてください」
オリビエは首を横に振った。自分でも、見たくはない。
見たからと言って、治療できるわけでもないだろう。痛みがなくなるわけじゃない。
「心配です」
片言の、少し変な発音のドイツ語がなんだか腹立たしい。
「どうせ、我慢するしかないんだ、だから放っておいてくれ。僕は……」
リエンコが壁のランプを遮り、影がかかる。見上げるほど身長差がある。逆光に表情の見えないそれは、あの男を思い出させた。
ぞくり、と。
思わず体が強張る。
つと伸びる手に眼を閉じた。
「侯爵様に、話してないですね?」
「それは」
「話します」
「ダメだよ!そんなの!」
叫んでいた。

「どうしたんだ!オリビエ!」
駆け込んできた、ヨウ・フラ。その背後には侯爵。
それを塞ぐように、座り込んでいる自分をリエンコはそっと抱きしめた。
「オリビエ様は、無理してます」
次の瞬間、リエンコの身体は跳ね飛ばされ、そう、そんな表現がぴったりだった。タイルの床に鈍い音と一緒に男は転がり、その前に侯爵が立ちはだかっていた。
「あ、違う!あの、待ってください!」
慌ててオリビエはさらに拳を振り上げた侯爵の背にすがりついた。
「オリビエ!どうしたんだよ!侯爵様も、待ってください」
思わず悲鳴を上げていたエリーゼに気をとられながらも、ヨウ・フラがリエンコと侯爵の間に割ってはいる。
「落ち着いてください、侯爵様。リエンコ、大丈夫?何があったか、聞かないと!」
さらにリエンコに詰め寄ろうとする侯爵の勢いを背に受けながら、ヨウ・フラは悔しそうに見上げたリエンコを見つめた。その目に異様な迫力を感じた。ドイツ語が拙いから大人しく見られるが、リエンコも普通の男だ。母国語で話せばどれほど饒舌か分からない。
何か、そう、ロシアの言葉で早口でしゃべった。

それはヨウ・フラには意味が分からなかった。背後の侯爵が、ふと力を抜きはなれる。見開かれた目、次に何かロシア語でリエンコに返事を返す。
その確かめるような口調に、ヨウ・フラもオリビエもただ二人を見比べているしかない。
何回かロシア語が交わされ、最後に「心配です」とドイツ語。
その一言がリエンコから発せられオリビエは感づいた。
侯爵に、話したのだ!

「リエンコ、黙ってろって!」
そう、怒鳴ったときにはすでに、振り返った侯爵はオリビエの目の前で。
オリビエを悲しそうに見つめていた。
「ルードラーを呼ぶ。いいな」
その視線に耐えられず、オリビエは視線を床に落とした。

「あの、なにが?」
ヨウ・フラの問いかけは無視され、「ルードラーを呼びなさい。今すぐだ」と侯爵が命じる。
「なんだよ……」
「早く。オリビエが怪我をしたといえば、来てくれるだろう」


次へ♪

「音の向こうの空」第二十話 ⑥

第二十話:オリビエの戦い



情けないことに、オリビエはこうなったことで肩の力が抜けたような安堵を感じていた。
黙っているつもりだった、心配させても仕方ないのだからと。
それでも医師に診てもらい、骨や内臓には異常はないといわれればホッとする。
ただ、ルードラーはこつんとオリビエの頭を小突き、「もっと早く、言うべきだね」と本気で怒っているようだった。

オリビエからはよく分からなかったが、腹や背に受けた傷は、痣になって赤紫に変色していた。そのまだらを体中にまとっている青年を見て、ルードラーですら言葉を失った。
のぞき込んでいたヨウ・フラは口を手で押さえた。

治療を受けながらオリビエが途切れ途切れに説明した出来事に、皆深い溜息で応えた。
「あと、少しです。だから、大丈夫。僕がここで逃げ出したら、団員の皆が困りますし。僕自身も契約違反で大公様に雇われなければならなくなります。なるべく一人にならないようにしますし」そう笑ったオリビエは、薬が効いたのか今は眠っていた。
その静かな寝息が規則正しくなる。
「バカだな、もっと早く言えばいいのに」と、オリビエに話しかけていたヨウ・フラやルードラーも、いつの間にか厳しい表情に変わっている。

リエンコが「私がおそばにいます」と戦場に赴く軍人のように姿勢を正した。侯爵は黙って頷き、医師は派手にため息をついた。
「いつでも呼んでください。こんな暴力は許されないのに!」
悔しそうに派手な音を立てて大きな鞄を閉じた。薬品のビンがかすかに不協和音を奏でた。
人は皆、平等に幸せになる権利がある。ルードラーの持論だ。ヨウ・フラも強く頷いた。

「侯爵様には、申し訳ないけど。僕は貴族も軍人も嫌いです。弱いものの痛みが分かってないんだ。戦場で命を懸けるなんて偉そうに言ったって、結局は歩兵の犠牲の上に胡坐をかいているだけなんだ。それを、まるで自分たちは特別に勇敢とでも言わんばかり。僕ら市民がどれだけ日々戦っているか分かってないくせに!」
侯爵も、軍人だったリエンコも黙って少年の言葉を聞いていた。

「誰もが、自分の人生を懸命に生きているんだ!オリビエだって!」
し、と。声が高くなった少年に侯爵が静かにするようにと促し。

「私に責任がある。マクシミリアンが恨んでいるのは私だ。直接話してみよう。だが、このことはオリビエには言うな。心配をかけたくない」
全員が同時に頷いた。



久しぶりに顔を見せたエミリーは不機嫌を隠さない態度で、オリビエの背後に立つリエンコを睨んだ。
「なあに、王子様は遅れてくる上に護衛つきなんだ」
感情を尖らした歌手の声は仮の舞台に響き渡った。稽古の途中だったのだろう、舞台袖に隠れていたアントニオが顔をのぞかせた。

「すみません、遅くなってしまって」
「いや、君は教会の仕事もあるんだ、仕方ないさ」
レイナドがオリビエを出迎え、リエンコには広間の隅に椅子を用意してくれた。
「おはよう、オリビエ」
「いろいろ考えすぎるなよ、舞台は順調だよ」
と、オーケストラの団員が笑って声をかけてくれる。オリビエはリエンコに大丈夫だよと視線を送り、自分の場所、ピアノの前に座った。

「何よ、無視するわけ?あたしに何か言いたいことあるんじゃないの?」
腰に手を当てたまま、舞台の上からエミリーが睨みつけていた。
「おい、エミリー、言っただろ?いろいろオリビエも大変なんだ」
アントニオがエミリーの肩を押さえる。

レイナドも、「エミリー。散々休んでおいて君がそこで威張るのもおかしいだろう?」と釘を刺す。
「煩いわね!ちょっと苛められてるからって同情してどうすんのさ!監督だってお坊ちゃまが可哀想だなんて本気で思ってるわけじゃないんだろ?大公様がオリビエを嫌うなら、オリビエに何か悪いところがあるんだろう?自業自得じゃないか」
本当にあんたはお人よしなんだから、とアントニオにも当たる。

アントニオに聞いたのだろう。
オリビエは唇を噛んでうつむき息を吸う。そのたびに背中とわき腹の痛みがやけに響いた。
団員たちが何の話だ、とざわつき、アントニオはエミリーに「いい加減にしろよ!」と声を荒げた。

このままではまた、意味のない喧嘩になってしまう。オリビエは顔を上げた。舞台から見下ろすエミリーと視線が合う。

「いいんです。エミリー、確かに僕はマクシミリアン候に憎まれている。ここにいれば酷い目にあう。だから、一生雇われたくなんかないし、早く契約を果たして自由になりたい。貴方たちは逆だろうけど、目的をかなえる方法は同じはず。このオペラを成功させて、コンクールで賞を取る。それのために、今は協力するしかないんだ。僕の考えは間違ってないと、思うけど」

見回せばヴァイオリンのヒルダが「ええ」と声を出し、視線の合った皆が黙って頷いてくれた。
ぱんぱん、とレイナドが手を叩く。
響き渡るそれに皆は監督に注目した。

「エミリー、オリビエの言うとおりだ。オリビエの曲を聞いてみるといい。例え、オリビエをここに呼んだ理由が不可解なものだとしても、契約内容がわたしたちと違っても、わたしたちのオペラを成功させるには彼が必要なんだ。オリビエ、第二幕のアリアを」
す、とレイナドが手を上げ。
よく訓練された犬のように、オーケストラ全員が一気に集中する。

鍵盤に手を置けば、オリビエはすでに体が音楽を欲していることを自覚する。奏でたい。それがどんな時でも、どんな曲でも。どんな想いでも。

音は僕自身。

恋人たちの優しい愛を奏でるアリアはピアノを中心としたシンプルな三重奏。ヒルダのヴァイオリンは音の粒に色を塗り、チェロは二つの音を包み込む。

漂う風に甘い香りが添えられているような、金色の音色に皆がうっとりと目を細める。これをじっと聞いていられるのは嬉しいね、と以前団員の誰かが言っていた。
ここに、エミリーの声があれば完成される。

オーケストラの皆が舞台上のエミリーを見つめた。
期待に満ちた彼らの視線に、エミリーは一度大きく息を吸った。
ふと。視線が遠く、そう今そこにはいない観客を見つめる。
響き渡るソプラノ。

『私の愛しい人、愛しい歌。夜の闇にも美しく響き。遠いあの地まで届くだろうか。愛しい人に届くだろうか。この愛を、この歌を』

隔てる山々、大河には冷たい流れ。それでも私の歌には翼が生まれ、愛するあの人を包み込む。と歌は続き、アリアが終わると、レイナドは続けて次の朗唱を促した。
いつの間にか広間には一杯に膨らんだ熱意がこもっていた。

扉をかすかに開けたところで、立ち尽くしたままの幼い少女にリエンコが気付く。うっとりと聞き入るアマーリア。リエンコは音もなく立ち上がると、自分が座っていた席を少女に譲った。幼い淑女は丁寧にお辞儀をし、ちょこんと椅子に座る。床に届かない両足が愛らしく、時折音楽に合わせてリズムを取った。

なぜ、苦しい思いをしてオリビエが続けようとするのか。皆のため、契約のため、それだけでないことをリエンコは実感した。団員やオリビエ、その周囲を彩る人々の憎悪も愛情もすべてを糧に作り上げられる芸術。その美しさにはかなうものがないのかもしれない。
夢中になっているオリビエは生き生きとした表情で、リエンコの入れるチョコレートを抱えた時より輝いている。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十話 ⑦

第二十話:オリビエの戦い



午後の休憩で皆が茶を飲んでいるところに、久しぶりにマクシミリアン候が顔を出した。その背後にはやはりジーストが立つ。
広間の日当たりのいい席で皆と茶を飲んでいたオリビエは思わず立ち上がった。そのすぐ脇にリエンコが寄り添った。
リエンコの存在を認めると、マクシミリアンは目を細めた。嬉しそうに見える。隣のジーストはと見ればリエンコとにらみ合っていた。

緊迫した空気に感化したのか、メイドが茶を一つひっくり返す。
「おっと、大丈夫かい」
アントニオが倒れたカップを拾い上げ、慌てるメイドの持つトレーを引き受けた。メイドが何度も謝る声を聞きながらオリビエは、マクシミリアンとの間のテーブルに薄い紅のシミが海のように広がるのを視界の隅に見ていた。
カップが音を立てた瞬間にリエンコはオリビエを背後に庇った。
その姿にオリビエはエスファンテの衛兵ズレンを思い出す。僕は、護られてばかりだ。

「リツァルト侯爵から話は聞きました。体調が悪いそうですね、オリビエ。傍に仕える者を用意するといっていましたが、なるほど。優秀な衛兵のようですね」

衛兵ではなく下男だが。そう見えても仕方ないくらいリエンコは逞しい。そ知らぬ顔でそばに立つジーストをリエンコはじっと睨んでいた。

「下男のリエンコと申します」と。表情一つ崩さずにリエンコは丁寧に挨拶した。
マクシミリアンはそれには目を細めるだけだ。

「聞かせてもらいましょうか。オリビエ。そうですね、アリアをいくつか」

はい、と慌てて立ち上がったのはレイナドだ。
それが合図だったように、団員は皆自分の持ち場に急いだ。

背後から追い越しざま、ぽんとオリビエの肩を誰かが叩いた。アントニオを想像し振り向けば、エミリーが「しっかり頼むからね」と拗ねたような顔で言った。

最後にピアノに向かうことになったオリビエを、皆が振り返って待っている。信頼に満ちた視線にオリビエは嬉しくなった。
レイナドが曲名を告げ、オリビエはピアノの前に座る。
ちらとリエンコと視線を合わせ、それから指揮者を仰ぎ見る。

今は、自分に出来ることをするしかない。

エミリーの静かな独唱から始まるアリア。張り上げるだけでない歌声は子守唄のような優しさを秘め、包み込むようにピアノが加わる。
フレーズを一つ歌い上げたところでオーケストラの伴奏が始まる。


 ***

「見たかい?あの大公様のお顔」
そう嬉しそうに声を弾ませたのはファゴットのレシス。ヒルダが「うふふ」と笑い、「最高の出来だもの、ね」とオリビエにウインクを送る。笑い返せば、他の誰かがオリビエの肩をぽんと叩いて労をねぎらう。
「絶対に一等賞を狙えるぜ」
「この楽団でよかったわ、監督も一流。作曲は新進気鋭の天才」
「もちろん君たち奏者の力あってだよ」
口々に互いを讃えあう。

大公がアリアを聴き終え広間を後にしてから、団員は改めて休憩を取っていた。
去り際にもの言いたげな顔をしたジーストも、マクシミリアンが「当日を楽しみにしています」と先に歩き出すので仕方なく後について出て行った。
「いつも一言多いジーストも黙っていたもんな」
と、若いファゴットのレシスが肩をすくめた。
「そりゃ、リエンコさんが怖かったからさ」
笑いが広がる。

その中でオリビエだけは浮かない顔をしていた。
「ちょっと、庭で外の空気を吸ってきます」
そう言って立ち上がると当然とばかりにリエンコもついていく。



夕暮れの庭は冷たい風が吹き、大理石のモザイクで出来た遊歩道をオリビエは肩をすくめて歩いていた。木々の葉が気分を助長するようにざわりと鳴った。
「オリビエさま、寒いです。早く中に」
リエンコは自分の上着を脱いでかけようとする。肩に乗せられるそれの襟元を引き寄せ、オリビエは振り返った。
立ち止まりじっとリエンコを見つめる。

「あの?」
リエンコは切れ長の蒼い目でオリビエを見つめ返す。
曇りのない、まっすぐな視線。

迷っていた。
僕は護られるばかりだ。

「侯爵様がマクシミリアン候にお会いになったんだね」
「ええ。あのままでは、貴方があまりにも」
「……僕は、護られるばかりだ」
「貴方のお仕事は音楽です。護るのは私の仕事です」
その、仕事に。オリビエは首を横に振った。

「あの。リエンコ。その腰の。銃だよね?そんなものもって、どうするつもりだったんだ?戦争じゃないんだから。そんな物騒なもの、止めてほしいんだ」
リエンコは意味が飲み込めないようで目を真ん丸くしていた。

「僕は、リエンコも他の団員たちも、危険な目にあわせたくなんかないんだ。だから、そういう武器は止めてほしいんだ。見つかったらまずいだろう?」
リエンコの持つマスケット銃は片手で操作する小型のもの。腰につけている皮の小袋には火薬と弾が入っているに違いない。

昼間、広間で咄嗟にオリビエの前に立ったリエンコ。あの時、リエンコの腰にあるそれにオリビエは気付いた。ただの衛兵では持たないような武器だ。ジーストも持っていない。軍隊で使われるようなそれは見つかったらただでは済まされない。
恐ろしかった。

「確かに僕は暴力を受けたけど、それは殴ったり蹴ったりで。命を奪うような恐ろしい武器を突きつけられたわけじゃない。銃は、一回でも使えば誰かの命を奪うだろう?そんな恐ろしい武器を持ってほしくないんだ」
「貴方を護るためです」
「それで誰かが傷ついたら、リエンコだって傷つく。僕は嫌なんだ。もし、そんな武器が必要になるような場面になったなら、僕のことなんか放って逃げてほしいんだ」
ふ、と笑われた気がした。薄暗くなりかけた中、風にリエンコの金髪がかすかに揺れる。
「護られてばかりの、僕が、偉そうなこと言って、申し訳ないけど。その……」
苦い、何か呆れたような笑みは、ズレンを思い出させた。ズレンなら怒鳴ったのかもしれない。籠の鳥が何を言うのかと。

「貴方は、可愛いです」

リエンコの言葉はそれだった。

「?……それ、言葉が違うよ」
リエンコは首を横に振った。
「明日からは、短剣を持ちます」
「……ありがとう」
理解してもらえたのかどうか分からないが。
オリビエは上着を脱ぐとリエンコに返した。銃が目立たないように。


リエンコがそばにいてくれるようになったからか、リツァルト侯爵の行動が何か功を奏したのか、ジーストはまるで興味を失ったかのようにオリビエを見かけても近づかなかった。リエンコもこれには拍子抜けだったらしい。
短剣すら使う機会がなくなったことは、オリビエにとって嬉しいことだった。


次回、第二十一話:「ヴィエンヌ・オペラコンクール」は1月19日(月)公開予定です♪

公開遅れちゃった~(><)ごめんなさい!!
楽しんでいただけたかな?
さて、いよいよ次回はコンクール!!
あと少しでヴィエンヌ編も一区切り。のんびりと長い作品になっていますが。
応援してくださると嬉しいです♪

「音の向こうの空」第二十一話 ①

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール


コンクールは五日間で行われる。
一日二組、午前、午後に一回ずつ公演される。それを審査員が判断するのだ。審査員は有力な貴族たちや、帝国芸術院の講師、院長であるロスティアーノもその一員だ。著名な詩人や哲学者、文学者など、多くの芸術に関わる人々がオペラを鑑賞し、優劣を決める。この日ばかりは宮廷歌劇場は身分に関係なく解放され、整理券さえ手に入れれば誰でも無料で観劇できる。前皇帝から続くことで、オペラは市民に娯楽として提供されていた。小さな劇場でのオペラも市民に人気があったが、この豪華な宮廷歌劇場で見られるとあって市民はこぞって押しかけ、お祭りのような騒ぎになる。このために遠方の町から来る者もいるという。

参加する歌劇団は全部で五つ。ティロル伯領、シュタイアーマルク公領、アウグスブルク司教領、ヴュルテンベルク公国、そして、オリビエたちのバイエルヌ公国。それぞれの選帝侯の推薦を受けている。

台本は三種類あるうちの一つを選ぶ。どれを選ぶか、同じものを選ぶ劇団が必ず出てくるので、そこは賭けのようなものだった。同じ台本で比較された方がよいのか、他と違う台本で勝負するのか。中には、二つ以上演じられるよう準備してくる劇団もある。

コンクールの日程は一週間前に発表され、その会合から戻ったレイナドが皆に伝える。
オリビエたちのバイエルヌはシュタイアーマルク公領の歌劇団と同じ台本だというので、連続しないようにと日程が調整され二日目の午前の公演となった。

宮廷歌劇場でのリハーサルはコンクールの前に一日ずつ、それぞれの劇団にあてがわれる。

冷たい風の吹いたその日、オリビエは直接劇場へと向かった。いつもどおり、リエンコが一緒だ。今日も馬車から降り立つとすぐに背後を固めるように立つリエンコに、オリビエは返って落ち着かない。
「あの、大丈夫だからもう少し、離れても」
ちらりと見下ろし、リエンコは一歩だけ後ろに離れる。
それじゃ何も変わらない。

建物の入り口に立つ衛兵がじろりと睨んだ気がして、オリビエは意味もなく緊張する。振り返ればリエンコは平然と衛兵を睨み返している。

「当日の入場券は右の列に並んでください」
そう、声をかけられて扉をくぐると、中は想像以上に熱い空気が漂っていた。
貴婦人の騒がしい集団や、家族連れらしき姿もある。
皆、当日の観覧のために入場券をもらおうと並んでいるのだ。それとは関係なさそうな様子の人も、柱の傍に数人ずつ集まってなにやら話し込んでいる。
オリビエが入っていくと、どうしてもリエンコが目立つらしく、じろじろと好奇の視線を受けた。

「どなたかしら?」小さい話し声が耳に届くが、オリビエがそちらに注意を向けようとする瞬間、リエンコが肩を押してさえぎる。奥のソファーの脇では立ったまま、新聞の取材らしい記者がレイナドと話している。
やはり歌手たちは人気のようで、貴婦人に囲まれたアントニオは得意の軽口で笑わせていた。


「久しぶりだな」
人々の喧騒を抜け、楽屋裏へと続く廊下。オリビエに声をかける男がいた。
狭く暗いそこで、オリビエは男を認めると笑みを浮かべた。
「アーティア!!」
駆け寄ろうとしたが、すぐにリエンコに引き止められ、転びそうになる。
「な、なんだよ、友達だよ!」
「暗いです。走ると危ないから」
離れるなといわんばかりに押さえられて、オリビエは仕方なく「わかってるよ」と足を止める。
「なんだ、怖そうなの連れてるな」
アーティアは以前と変わりない口調と笑み。オリビエは年上の音楽家をリエンコに紹介した。リエンコは眉をひそめただけで、口も開かない。
「ごめん、新しい下男のリエンコ。ロシア語しか分からないんだ」と、思わずオリビエが庇う。
「そうか、衛兵かと思った。いよいよ、明後日だな」
コンクールのことだ。
オリビエは強く頷いた。

「お前のことだ、きっと最高の作品に仕上げているんだろうな」アーティアは笑った。
少しやせたように見えるが、相変わらず少し癖のある黒髪が額にたれ、涼しげな目元でオリビエをまっすぐ見つめる。黒い服、青い瞳。

もしかして、侯爵の言っていたことは間違いだったかもしれない。アーティアが僕のことを侯爵様に告げ口した、それには何か深い理由があったのかもしれない。アーティアは悪くないのかもしれない。
その話題に触れるべきではないのかもしれないとオリビエがもう一度アーティアを見つめると相手は腕を組んでにやりと笑った。

「俺は、初日なんだ。シュタイアーマルクの劇団でね。お前には負けないからな」

え?
「俺もコンクールに出る。お前と同じ、作曲家としてね」
「アーティア……」
「お前とは覚悟が違う。先月、皇室室内楽団は解散させられた。俺には後がないんだ。じゃあな」
抑揚のない早口で並べ立て、アーティアはオリビエを押しのけるようにすり抜けようとする。
「あ、あの。アーティア!」

振り返えらせたことを、オリビエは後悔する。
アーティアの表情に、口調に。その言葉に。

「オルガニストも続けてるらしいじゃないか。お前がリツァルト侯爵を説得できるとは思わなかったぜ。【出し惜しみ】の亡命貴族に屋敷に閉じ込められて、音楽家としての希望も何も失うかと思ったのにな。残念だ」

それだけ言うと、アーティアは踵を返す。暗がりの廊下の向こう、明るいロビーへと消えていく。
オリビエは立ち尽くしていた。


工場へと会いに行ったときのことを思い出す。仕方ないなという顔をしながら、工場内を見学させてくれた。出来上がっていくピアノに喜ぶオリビエに、工程を丁寧に教えてくれた。
「俺は友達だからな、お前が嫌だと思うことも正直に言うから」
そう、言っていた。

ぽんと肩を叩かれ。
「あれは、よくない男だと侯爵様に聞いています」
リエンコに反論も出来ず、オリビエはうなだれた。
「分かってる」

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ②

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



コンクール前夜。離宮で舞踏会が開かれた。
今回のコンクールのために集まっている諸侯をもてなすためというのが本当のところらしいが、折角の招待だからと、オリビエたち楽団員は全員正装して宮廷の広間に立った。

いつもよりずっと華やかなドレスのエミリーに、アントニオが「お前舞台衣装で来たな?」とからかい、本当に?と真に受けたオリビエが逆に笑われた。
「あんたには妖精の衣装を持ってきてあげればよかったね」
すでにシャンパンで息を甘くしているエミリーはオリビエの首に両手を絡ませる。結った巻き毛がくすぐったくてオリビエは手に持ったグラスを盾にけん制する。
「あれ、女性のじゃないですか」
「乙女にぴったりじゃない?」
「ぴったりすぎて、エミリー、お前より目立つぜ?」
「ほんと、可愛げないわね、坊やは」
「僕のせいじゃないですし!妖精になんかなりません!」
すっかり二人に笑われて、オリビエは飲んでもいないのに顔を紅くしている。
「リエンコは入れてもらえなかったのか。気をつけて、飲み過ぎないようにね」
レイナドが肩を叩く。気をつけて、の意味は向こうにいるマクシミリアンとジーストを指していた。オリビエも頷いて、なるべく彼らに近づかないようにと踊る集団を見守る人々の背後で壁を背にした。

こうして自分ひとり傍観者のように広間を見守るのは嫌いじゃない。
舞踏会では演奏することはあっても、踊ったことなどなかった。正直なところ、ダンスをと誘われても困る。

舞台になれている劇団員たちは注目を浴びるのが好きなのだ。今もエミリーとアントニオが輪の中心辺りで貴族とはまた違う激しいダンスを踊る。それを見た他の劇団員だろう、歓声が上がる。町の酒屋のような雰囲気に気おされるように、距離を置いた広間の向こうには、貴族たちが集まっている。同じ広間の中でも、くっきりと二つの色に分かれているのだ。

曲が変わった。
広間のどちらかといえば上座よりにピアノを中心として室内楽団がいる。
珍しい、普通ならもっと会場の隅で、脇役のはずなのに。オリビエは視界をくるくると遮る人々の向こうをじっと見つめた。
あれは。
グラスを持つ手に力がこもる。

アーティアがヴァイオリンを弾いていた。

皇室室内楽団は解散だといっていた。確かに、そこで奏でているのはピアノ、ヴァイオリン、チェロだけの三重奏。この舞踏会のために集められたのかもしれない。
オリビエはそちらに向かおうと、人混みをすり抜ける。

アーティアと二人きりで話をしたい。今ならリエンコもいない。アーティアは歓迎しないかもしれない。やはり侯爵が言うとおり近づかない方がいいのだろうか、でも。

ざわ、と空気が変わる。
曲が終わったのだ。一斉に踊っていた人々が雑談を交わし、潮騒の様にざわめきが増した。踊りつかれた人々が飲み物にありつこうとし、人の流れが変わる。オリビエの目の前にも人の列が出来ていた。気付けば、自分の脇にメイドが盆を持って立ち、そのためにオリビエの周囲に人が集まっている状態になる。
どうにかここから抜け出そうと、流れに逆らうように手に持ったグラスを高く掲げ、人のいない方へと歩き出した。
ちょうど、人垣を抜けたところ。目の前にジーストの背中。反射的に慌てて陰に隠れた。


…何をやっているんだ、僕は。こんなところで殴られるわけじゃないのに。隠れる必要なんかないのに。
それでも足が動こうとしないのは、あの痛みを覚えているからだろう。丁度壁際。大理石の花台の影に隠れる形になった。名も知らない黄色い花の甘い香りの下、オリビエは道に迷った子どものように座り込んでいた。誰かが観察していたなら、不審に思って声をかけただろう。
幸い、ちらりと視線を流す人々はいても、丁度運ばれてきたチキンのローストに意識は奪われている。オリビエだけが花陰で自分の心臓の音を聞いていた。

「ありがとうございます、大公様」
聞いたことのある声だ。
こちらに背を向けるマクシミリアンとジースト。彼らに向かって、アーティアが膝を折って挨拶をしていた。
「いや、君の才能を埋もれさせるのは惜しいと思ったのですよ。活躍を期待していますよ」
と。穏やかな口調はマクシミリアン候だ。

どうして、アーティアが大公様と親しげなんだろう。
活躍を、って。コンクールのことだろうか。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ③

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



「酔ったの?」
「わ!」
見上げたオリビエに、エミリーは目をまん丸にした。

「何、おどおどしてるのさ。さ、乙女ボウヤのピアノを聞かせてよ。ほら、さっさとしないと目立ちたがりに先を越されるわよ。ほらほら。ここからコンクールの前哨戦は始まっているんだからね!」
「ほら、急げよ。オリビエ」
アントニオがオリビエを引っ張り起す。
「あの、でも」

前哨戦?ってなんだろう。

見回すと、楽器の周囲には各劇団の団員だろう、誰が演奏するかでもめている姿もある。
ここは関係者の集まる場所、ここで目立っておけば有利ということだろうか。アーティアが演奏していたのは、そういうことだったんだ、と。何となく理解しながら、背中を押されるままオリビエはピアノに向かう。
通り過ぎる視界に、アーティアの黒い服がちらりと流れた。

視線を合わせることが出来なかった。

「ほれ、ここじゃ」
「!ロスじいさん!」
ピアノの前にはロスノが陣取り、オリビエを手招きしていた。

「あの……」
「今日は聖歌はだめじゃぞ。踊れないからの」
背中からアントニオに押され、ロスノに手を引かれ。オリビエはピアノの前に座った。

「楽しく踊れる情熱的なの、お願いね」とエミリーは複雑な注文をする。
「無理じゃないか?オリビエには。情熱的って柄じゃないよな」
とアントニオが苦笑いする。
「あら、乙女ボウヤだって恋くらいしたことあるでしょ?愛しい彼女を思い出してさ、情熱的な夜を再現してみなさいよ。さあ、弾いて!」

愛しい、彼女。
ふと。赤い髪の少女を思い出す。くるくるとオリビエの曲に合わせて踊ってくれた。ワフンと吼えるランドンは尻尾を意味もなく振りまくっていた。リズムが違うと尻尾に文句をつけるご主人に、ますます嬉しいのか千切れんばかりになってしまう。
それを見て何度笑ったことか。

オリビエが奏で始めたそれは少女と走る犬。カツカツと床に爪を鳴らし、ぐるぐると二人の周りを駆け巡る。目が回るのか途中で逆になるのがまた面白く、それを少女は抱きしめる。

軽快なリズムの円舞曲。長調の軽やかな音色は展開部からはテンポを遅くし、オリビエは踊る少女の赤いコート姿を夢見る。

白い雪の中、二人で散歩してみたい。美しいこの街の景色を見せてあげたい。
きっとはしゃいで走り出し、そうして立ち止まって振り返る。
息は白く風に乗り、オリビエはそれを受け止める。今なら、お腹一杯パンを食べさせてあげられる。僕の、力で。
会いたい。
抱きしめたい。
舞い散る雪と戯れる少女。赤い髪をなびかせて、踊る。

温かく柔らかい旋律に、踊る女性のドレスは揺れる。花のように、こぼれる木漏れ日のようにまぶしく。転調し、円舞曲は夜想曲に似た緩やかな旋律となる。高音のかすかなアルペジオはますます聴くものを切なくさせる。一人また一人と足を止めた。

広間にはいつの間にか雑談の声は消え、最後の一人が踊る足を止めたときには、全員が楽器を奏でる青年を見つめていた。

「あれは、どなた?」と貴婦人がメイドに尋ねるが、メイドも視線をピアノと青年に向けたまま首を傾げる。
「……オリビエ、オリビエ・ファンテル。バイエルヌの劇団に所属する作曲家です」
傍らに立った黒髪の男が受け取ったシャンパンのグラスを掲げた。静かに立ち上る泡のむこうに、音は柔らかく流れていく。

「負けはしない」

かすかにつぶやいた男のそれに、メイドは思い出す。この男もどこかの劇団に所属するのだ。先ほどまでヴァイオリンを奏でていた。

アーティアはシャンパンに透けるオリビエごと一気に飲み干し、グラスをメイドに渡すと身を翻した。

冷たい夜に、扉を開く。
ひゃ、と幾人かが寒そうに震えた。夜風にカーテンが舞い、慌ててメイドが扉を閉めた。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ④

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



ふわ、と風が吹いた気がした。
空気のにおいが変わった。
キシュとの心地よい思い出や、馬鹿な期待は夜風に覚まされた。

演奏を静かに終えると、オリビエはかすかに微笑む。自分自身に。
まだ、僕は忘れていないのか。


「……ぼうや」
キシュに会いたい。
「オリビエ、ほら、ぼうっとしないの!」
「え!?」
顔を上げれば、拍手の中にいた。
「ほら、立って挨拶!」
エミリーがいつの間にか隣に立っている。
人垣に囲まれて注目を浴びていることに気付いて急に恥ずかしくなった。
慌てて、侯爵家での演奏会のように、感謝の礼をする。

拍手の波が自然と割れ、目の前に陣取っていた貴婦人たちがそそと脇に避ける。
その向こうから、立派な体躯の紅の衣装を来た男性。両脇に近衛兵を従えている、彼は。

「皇帝陛下……」
つぶやいたエミリーの声に、名前を思い出し、オリビエは慌てて膝をついた。

「変わった曲だった。これほど踊りにくい円舞曲は初めて聴いたぞ」

アウスタリア帝国皇帝、同時に神聖ロウム帝国皇帝でもあるレオポルト二世。その声を初めて聞くオリビエは思わず顔を上げてしまった。
踊りにくい円舞曲、だったのか。皇帝の表情は読めないが、よくなかったと言うことなのか。だけど、拍手や聴衆は一体?
「陛下、かねてから私が可愛がっております、オリビエンヌ・ド・ファンテルです。以後、お見知りおきを」
ロスノが皇帝の脇で膝をついていた。
「そうか、ロスティアーノが珍しく弟子を取ったと聞いたが。お前のことか。次は踊れる曲にして欲しいものだな」
そう、目を細める。

オリビエは頬が赤くなるのを感じていた。いつの間にかいつもの気ままな演奏で、僕はリズムすら崩してしまっていたのか、と。あまり覚えていないために、どう、応えていいのか分からない。

「口が利けないのか?」
「わ、いえ、あの。すみません」
恐縮するオリビエに、ばか者、とロスノが囁く。
「踊れないとは、聞き入ってしまうからじゃ。お前のあの手の演奏を聴きもせず踊れるものはそうはおらんよ」
「え?」
「陛下、よろしければバラードなどお聞かせできますが」ロスノがオリビエの背中をおしながら申し出る。
「ふん、いいだろう。ピアノ一つでこの広間を静まらせたものを初めて見た。オリビエ、面白い男だな」
「あ、はい」
静まらせた?

ぶ、とエミリーが噴出した。
「あんた、ばか?自覚がないわけ?ものすごく褒められているんだから、ありがたき幸せとか何とか言うのよ、ふつうは」
「あ、はい。ありがとうございます。すみません、演奏に夢中で気付きませんでした」
何があったのか、ヨウ・フラなら心得ていて、こうだったんだと教えてくれるのだが、ここにはいない。

うながされて、オリビエは再びピアノの前に座った。
皇帝とのやり取りを聞き取ろうと、もぞもぞしていた人垣の向こうも、演奏が始まれば静かになる。

初めて、オリビエの奏でる音が包み隠さず披露されたと言ってもよかった。
コンクールの審査員や諸侯が集まる中、無名の青年はその場の全員を夢中にさせた。
あの場にいれば、リツァルト侯爵は鼻を高くしただろうと、後にロスノが屋敷で語ることになる出来事だった。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ⑤

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



オリビエの名は、一夜にしてコンクール関係者に知れ渡ることになった。
これにはレイナドも楽団の皆も満足で、機嫌をよくした劇団員たちは自分たちの公演を明日に控えた初日、勉強とばかりに皆で他の劇団のオペラを観劇することにした。

劇場の後方に全員で陣取り、立ったまま舞台を眺める。そこより低い位置になる舞台はランプの明かりと舞台を照らすシャンデリアに美しく輝いて見える。昼間だというのにそこは別世界のようだ。

「すごい人だね、こんなに大勢の人、クランフ王国でのパレード以来だ」
オリビエはそれだけで目を輝かせている。
「ねえ、ほら、あれが皇帝陛下でしょ、少し離れたほうにロスノじいさんもいるわよ」
「あのあたり、芸術院の会員とかじゃないか?」
「あ、ヴォルフガング卿は?」有名な作曲家が見られるかもしれない、オリビエが身を乗り出すが、隣にいたレイナドにポンと肩を叩かれた。
「あの方は体調を崩されたそうだ。皇室室内楽団も解散させられたし、まあ、このコンクールも、今年限りかもしれない」
全員が監督を振り返る。
「あ、ああ、悪いね。悲観的なことを」
はん、とエミリーは笑った。
「いいさ、今年あたしたちが有終の美を飾るわけだね」
「そうそう、歴史に名前が残るんだぜ」
アントニオが胸を張る。
「し、ほら、はじまる」

満員の観客席。指揮者が現れ、オーケストラの前に立つと、客席に向かって一礼する。
ざわめいていた人々が一斉に彼を見つめていた。
その背後にピアノに向かうのは、アーティア。
オリビエは祈るように手を胸の前で合わせている。

思えば、こんな風にアーティアの真剣な演奏を聞くのは初めてなのかもしれない。侯爵家ではいつも、僕のことばかりだった。アーティアがどんな演奏をするのか、オリビエは複雑な寂しさより、今は期待に緊張していた。

幕の開く前の舞台下で、オーケストラは先ほどまでの音合わせを終える。
指揮者が皇帝陛下に捧げます、と挨拶し、団員を振り返る。

息を呑む音が、聞こえてくるようだ。
静まり返った劇場内。微動だにしない指揮者の次の動きを期待して、皆の視線が集まる。緊張の糸が今にも音を立てて切れてしまいそうなほどの沈黙の後。

不意に指揮棒が息を吹き返す。
ピアノ。
高音からトリルで始まる、爽やかな朝の曲。

音の粒の揃った丁寧な演奏、指揮棒が空に飛び立つ鳥のように動き出し、オーケストラが加わった。
精緻を極めるような。神経質な演奏。音の揺れや装飾音を一切排除したような、張り詰めた美。
規則正しく模様を刻むアラベスクを思わせる。オリビエにあれだけ厳しく指導しただけはある。アーティアの音楽に対する考えは、ロスノさんや侯爵様とは違う。けれど決して間違っているわけではない。
完ぺきな演奏に、オリビエは不思議と嬉しい気分になり、傍らにあった柱相手に抱きついていた。

「ね、これ」
と。隣で立っていたエミリーが肘でオリビエをつついた。
「え?」
「この曲よ」
「おい、これは」

バイエルヌ歌劇団の全員が、互いを見合わせ、それからオリビエに視線を移した。
「え?」
「あんたの曲と同じじゃない!」

あ、と。そこで初めてオリビエは気付いた。
これまでアーティアとは同じ楽譜を共有していたために、意識していなかった。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ⑥

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



アーティアの演奏するオペラ。それは、音色こそ違うがまさしくオリビエたちの楽曲と同じ旋律を持っていた。序曲、アリア、一幕が終わる頃には、これがただ似ているだけでは済まされないほどであることを誰もが理解していた。
「どういうことなんだ?!」
「盗作されたんじゃないか?」
団員がざわめく中、アントニオが派手に立ち上がった。
「絶対盗作だぜ、俺が確かめてきてやる!」
来い、と手を引かれオリビエは楽屋に連れて行かれた。

分かっていた。あれは自分の楽曲。だけど。どうして、アーティアがそんなことをするんだろう。

アントニオに引かれ、背後に憤るエミリーを連れてオリビエは暗い廊下を早足で歩いていた。幕間に間に合わず公演が終わるまで待たなくてはならなくなった。控え室の前で、苛立つアントニオの強い手に握られ手首が痺れるほどなのに、オリビエは必死で考えていた。
どうして、アーティアが僕の曲を演奏するんだ。
理解できなかった。

「あの、もし、盗作って分かったら、どうなるのかな?」
「そんなの、国外追放よ。そうでしょ?」エミリーが怒りのまま判決をくだした。
「ま、二度と音楽の世界で活躍は出来ないな」と、アントニオが下方修正する。
「ボウヤ、まさかあんたじゃないでしょうね!」
「ち、ちが…」
「おい、来たぜ」
成功を喜ぶシュタイアーマルクの楽団員たちに囲まれ、アーティアは笑っている。
オリビエは拳を握り締めようとし、改めて「あ、アントニオ、手が痛いよ」と。八つ当たりを受けていたことに気付く。当のアントニオの青ざめた怒りの表情はすでに、オリビエより目の前の敵、シュタイアーマルク歌劇団の作曲家アーティアに向けられていた。


「ふざけたことを言うな。俺はこの原曲を編曲したんだ」
アーティアは詰め寄る三人を従えるように控え室に入ると、上着を脱いだ。
「迷惑だ、出て行ってくれないか」とアントニオを睨み返す。
言い張られると思っていなかったためかアントニオはひるんだ。
「もう、しっかりしなよ、あんたは」エミリーが背中をつつけば、アントニオは慌ててオリビエの荷物から楽譜を引っ張り出した。
「見てみろ、これがオリビエの書いた原曲だ、あんたたちのはそっくりだろう?これを使ったとしか思えないだろうが!」
「それ、俺が書いたんだ。ほら、これと同じだろう?」
アーティアは傍らにあった別の楽譜を示し、オリビエを真っ直ぐ睨みつける。
「!」
そうだ、確かに、あの楽譜はオリビエの演奏をアーティアが楽譜にしてくれた。当然、アーティアの書いたものだ。

「え?そうなの、オリビエ」
「あ、あの」
確かにアーティアが書いたといえばそうなのだが、曲は。
「オリビエ、ここで盗作だなんてしてみろ、二度と音楽の世界に戻れないことになる。いくら俺でもそんな馬鹿な真似はしないさ」
そう言うアーティアは、口元に薄い笑みすら浮かべている。

どれほど危険なことが分かっていて、なぜ僕の曲を使ったのか。真実が明らかになったら、アーティアは大変なことになるんじゃないだろうか。

「そんな不名誉な言いがかりは止めて貰いたい。俺たちの生活や未来がかかっているんだからな。オリビエ、俺はお前に音楽を教えてやったのに、お前は俺を陥れるような真似をするつもりなのか?随分な性格だな、お前」
笑っている。

追い詰めたはずの犯人が予想外の余裕の笑み。混乱したのか、アントニオもエミリーも今度はオリビエを見つめている。
真っ先に口を開いたのはエミリーだ。
「乙女ボウヤ、まさか、本当にこれ、この人が書いた物だって言うんじゃないだろうね!」
オリビエは、皆を見回した。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ⑦

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



マクシミリアン候の屋敷の広間で、全員が集まっていた。見学に行った出演者だけではない、大道具やプロンプター、照明の係りまで。全員だ。

舞台の上に立ったまま腕組みをするもの、自分の席に座り落ち着かない様子で足を揺らすもの。彼らの視線をピアノの前に座ったままオリビエは一身に受けていた。

黙り込んでしまったオリビエは、誰が何を言っても口を開こうとしない。エミリーが詰め寄ろうとすれば、庇うようにリエンコがオリビエの前に立った。

「いい加減にしなよ!黙ってたんじゃ分からないよ!言えないってことは、あんたが、盗作したってことなのかい!?」
だれもが、怖くて口に出来なかったそれを、エミリーが鋭く突きつける。

「……そんなことする奴じゃないだろ?」
「そうよ、きっと、あいつらが」
「だけど、どうやって?確かにこのオリビエの楽譜は、オリビエの字とは違う」
それは、オリビエが編曲した時の筆跡とまったく違っている。誰が見ても、明らかだ。
「あんた、あのアーティアと知り合いなんだろう?裏切られたんだろ?楽譜、渡したの?それとも書いてもらったの?」
問い詰められても黙ってうつむいたまま、オリビエはじっと何か考え込んでいる。その肩にリエンコが手を置いた。
「よくない、男です」
庇う必要など、ないではないですかと。リエンコの視線は語る。
「……」

アーティアが楽譜を写し取るとすれば、最後に会ったあの日。僕が作曲したものを楽譜にした、あの日だ。
ビクトールに蹴られた僕はそのまま寝室へと休み、アーティアは一人階下へ。
あの時、ヨウ・フラは僕を心配しそばにいた。
あの翌日アーティアは。侯爵様に、オルガニストの件を密告したのだ。
どうしてそんなことを。問いかける自分の内のもう一人は理解している。成功したいのは、誰も同じ。欲が出ることもある。友達と偽って騙すことだって、やる人はやる。
じゃあ、最初からそのつもりだったのか。
初めて出会った、あの時から?

オリビエは小さく首を横に振る。

「何とかいいなよ!あんた、皆を裏切るつもりなのかい!?」
エミリーが怒鳴る。
「どっちでも、いいさ。そうだろ?」
アントニオの言葉に皆が舞台に寝転がる男を見つめた。エミリーの矛先は素早くそちらに方向転換。
「何を悠長なこと言ってるんだよ、アントニオ!」
「黙って聞け。どっちがどうって、もう相手のは公開されちまった。後でやる俺たちが圧倒的に不利だ。同じものやるんだ、どっちがどう盗んだとかじゃない、問題は俺たちのオペラをどうするかだぜ」

静まり返った。
「やっぱり、あんた、疫病神だよ」
エミリーの呟きはオリビエに突き刺さる。
「あんたが災厄を運んだ。それが気に入らないんだよ!責任とりなよ」

広間は静まり返っていた。
「皆さん、お帰りなさい!」と、顔を覗かせた無邪気なアマーリアを、様子を悟ったメイドがとどめる。レイナドが今はダメだとメイドに首を横にふり、同時に立ち上がったヒルダと供に、少女は扉の向こうに消えた。
「なあに?ねえ、ヒルダさん、だめなの?」わずかに少女の不満げな声が響く。
その閉じた扉を見つめていたオリビエは、再び視線を床落とした。
その手はぎゅっと握り締められたまま。

「エミリー、君の言うとおりだ。オリビエに責任を負ってもらう」
レイナドが睨むリエンコを無視し、その向こうのオリビエに向かって話し始めた。

「オリビエ、今からすぐにアリアを全曲、作曲しなおすんだ。それ以外の演奏はすべて、君の即興の演奏で乗り切る。オーケストラを合わせる時間もないし、楽譜を書く間も惜しい。アリアだけなら、歌う歌手が覚えるだけで済むから明日の朝には間に合う。エミリー、アントニオ、オペラはどうやっても歌なしじゃ成り立たない。大変だろうが、君たちにかかっている」

ざわ、と楽団の皆が顔を見合わせる。
「あたしたちはプロだからね。できるさ。坊やは、どうなのさ」
「……やります。失敗したら、全部、僕の責任です」

「よし、そうと決まったら独唱のアリアから行くぞ。アントニオ、君は全部で四曲だったね。他の歌手は妨げにならないよう別室で待っていてくれ。楽団の皆も、だ」

レイナドの指示で、広間はリエンコを含めた四人だけになる。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十一話 ⑧

第二十一話:ヴィエンヌ・オペラコンクール



ピアノの前に座り、オリビエは白いそれに映る自分に溜息を吐きかけていた。
アントニオはオリビエの肩に手を置き、「まあ、気楽に行こうぜ」と笑ってくれた。
黙って頷くオリビエに、レイナドが話しかけた。
「オリビエ、君が何を考えて黙っているかは想像できる。あの曲は以前君が言ったとおり、すべて君が書いたものだね。皆には言わない、約束しよう。だから私たちにだけは本当のことを言って欲しい」

オリビエは顔を上げた。
そうだ、確か原曲の楽譜を持ってきたときに、アーティアに書いてもらったとレイナドに話したのだ。

「まず、私から話そう」
レイナドは傍らの椅子を引き、座った。
「私は以前、オリビエに台本を渡すため侯爵家を訪問した。その時、オリビエの友人としてアーティア・ミューゼと出会った。あれはまだ、初夏だったね。それからしばらくして彼が突然私を訪ねてきた。あの楽譜を持ってね。この作品を見て欲しい、これでオリビエの代わりに自分を雇って欲しいと。私は、彼の演奏を聴いたことはなかった。だから、聞かせてくれと頼んだ」

オリビエはあの日、レイナドに出会ったことに興奮し喜んでいたアーティアを思い出す。
なぜかオリビエに対して意地悪だった。

「けれどね、オリビエ。アーティアは君とは違う。あの楽譜に書き込まれた全てをアーティアは演奏できなかった。演奏できないものが、それを書いたと言い張る。私は曲を聞いてとっさに君を思い浮かべた。君なら楽譜に書かれていないものも表現するだろうと。彼の様子から君の作品に違いないと確信した。だから、アーティアの申し出を断り、追い払った。自分以外の誰かになろうとしてもそう簡単には行かないものだと、そう、彼を諭した。まさか、シュタイアーマルクの楽団に入っているとはね。今回、彼は随分努力してきたんだろう、張り詰めたいい演奏だった」

オリビエはそこで微笑んだ。
「はい、アーティアの演奏はよかった。彼は、音楽家でいるべき人です。あの、楽譜は。僕が即興で演奏したものを、彼が譜面に写してくれたものです。その日以来、アーティアは姿を見せなくて、僕のほうもごたごたしていたから」
やっぱり、とアントニオが派手に頷く。
「でも、アーティアの文字だし、僕が演奏したものだという証拠なんかない。これがアーティアなら、きっと何かしら自分の作品を護ろうとしたはずなんです。僕には、音楽家としてそういう部分の意識が足りない。結局、僕の落ち度なんです」
アーティアはこんな危険な真似をしてでも、音楽家として生きようとしている。正しくはないかもしれない、だけど、その意識は立派だと思う。

「ほんと、乙女ボウヤだな。呆れるくらいお人好しだ」
アントニオが腕を組んで睨む。
「すみません……」
「友達も恋人も、何を犠牲にしてでも音楽家として生きる、ま、あの男の行動は理解できる。獣の世界と同じ、弱者が敗者だ。俺なら、あの男を蹴倒してでも自分の作品だと認めさせる。あの男が二度と楽器に触れられなくなっても平気だ。向こうもその覚悟さ。こっちに牙をむいているんだ。だが、お前は違う。獣たちの中、一人まっとうな人間でいる。噛み付かれても耐えようとしている。だから逆に、エミリーじゃないが、お前を見ていると苛立つんだ。お前はどこか必死じゃない。何か、欠けている。性格なんだろうし、悪い奴じゃない。嫌いじゃないさ。だけどな。だからこそ、周りが心配して気をもむんだ。そうだろう?」

オリビエはアントニオの顎が示す方、つまり傍らのリエンコを見つめた。
リエンコは小さく肩をすくめた。
「オリビエ様は、可愛いです」
ぶ、と。アントニオが噴出す。
「ま、オリビエ、今回は必死になってもらわないとね。皆の未来がかかっているんだ」
レイナドの言葉にオリビエは頷いた。

「あの作品をオーケストラの皆と演奏できないのは悔しいけど、やっぱり僕は誰かを蹴落とそうとは思えない。ただ。僕は、僕の最高の作品を演奏してみせます。生まれて初めて、皆で一つの作品を作ってきて、とても楽しかった。いつも一人きりで演奏してきた僕にとって、こんなに楽しいことはなかった。何の問題もないなら本当にずっと、この歌劇団で作曲し、演奏したいと思いました。多分これが、アントニオやエミリー、レイナドさんと演奏する最後だと思う。だから、絶対に後悔しない物にします」

次回、第二十二話:「そこから見つめる未来」は2月2日(月)公開予定です♪

らんららです♪日記もサボりすぎなので(笑)ここに生きてるよ~ってメッセージをば。
現在、ヴィエンヌ編の次を書き始めております…オリビエ君の未来。
結末に向かって、すべての物事が静かに動いています。

ピアノの音。この物語を書いたことで興味を持って習い始めたわけですが(←影響されやすい)
つくづく、音色の美しさにうっとりです…オリビエ君の時代、モーツァルト、ベートーベン、あたりですか。
でもらんららが妄想しているオリビエ君の演奏は、少し後のショパンのそれに近いかな。
特にノクターンが好きなので、ぜひ、聞いてみてください♪ノクターンという分類はオリビエ君の時代にはまだ、出来ていなかったらしいです。(でも作中で使ってしまったな~許して…^^;)

まだまだ、知れば知るほど深い歴史と音楽の世界。
少しでもその魅力を感じ取っていただけたら嬉しいですっ!
では、また。二週間後に~!!

プロフィール

らんらら

Author:らんらら
のんびり小説を書いています
日記ブログはこちら♪

ランキング参加中です♪

クリック よろしく~♪

FC2Blog Ranking

最近の記事+コメント

FC2カウンター

リンク♪

小説ブログの皆様

カテゴリー

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。