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「音の向こうの空」第二十二話①

第二十二話:そこから見つめる未来



昨日と違い、ひどく冷え込んだ雪の日。
朝から積もっているそれは、人々の足をとどめ、会場内の人の数も初日に比べれば少なかった。湿り気のある冷たい風がともすれば扉の隙間から足元をぬぐう。
オーケストラのいるはずの場所に。今はオリビエとレイナドの二人だけ。


「どうして、オリビエだけなんだろ?」
背伸びするエリーゼを背後から支えながら、ヨウ・フラは首をかしげる。
同じ疑問を持つのだろう、場内はやけにざわざわと人声が響く。
バルコニー席の一つにリツァルト侯爵、ヨウ・フラ、エリーゼそしてリエンコが集まっていた。遅れてくるルードラー医師も同席する予定だ。緋色のカーテンと大理石の彫刻、金の刺繍に囲まれたそこは弧を描くように並び、舞台を囲んでいる。眺めのいい上階の席は貴族たちで埋まっている。

「一人で全部、演奏するから」と、短すぎる説明だけつぶやいて、リエンコは周囲などどうでもいいと言わんばかりに舞台を見つめる。
「なんだよ、それ!?」
「どういうこと!?」
エリーゼがリエンコの手を取ると、流石にリエンコは無視するわけにもいかず振り返って説明した。
「アーティア・ミューゼがオリビエ様の楽曲を使いました。だから、オリビエ様たちは新しい曲でやります。昨日から寝ないでオリビエ様は曲を作りました」
いきなりリツァルト侯爵が立ち上がる。
『そ、れは。マクシミリアンの、差し金か』
低く唸る言葉はエリーゼには何を言っているか聞き取れない。思わずヨウ・フラにしがみつく。ヨウ・フラもただ、二人のやり取りを聞いているだけだ。
リエンコも母国語で続ける。
『分かりません。ですが、侯爵様のお覚悟を無駄にするオリビエさまではありません。昨夜作曲なさった曲だけでも十分、対等に戦えるかと。これまで台本の作者と同じイファレア人の歌手たちや監督のレイナド氏と物語の精神性や背景について深く話し合っただけあって、新しい曲はより素晴らしい出来です。ですから』
リエンコはここで目を丸くしているヨウ・フラたちを振り返った。
「大丈夫です。オリビエ様は、侯爵様に育ちました」
助詞を一つ間違えた意味不明な表現を置き去りに、リエンコは舞台を見ろといわんばかりに顔を背けた。
「大丈夫かな」エリーゼが密かにささやき、「意味わかんないけど、多分」と、ヨウ・フラはその手を握り返す。

アーティアがオリビエの曲を使った。あの日、そうだ。オリビエが作曲した日、アーティアが楽譜を書いた。
あれだ。
あの時、もっと気をつけていればこんなことにはならなかったのに。ここ最近の出版物の増加で楽譜も販売されるようになった。作曲者の知らないうちに増刷され売られているようなことも多い。まして、あれはアーティアの筆跡。言い張られれば、オリビエにもどうしようもない。
友達だとオリビエは信じていたのに。

ヨウ・フラは自分の勘が当っていたことに、苦い気持ちになる。
「がんばって、オリビエ」エリーゼが小さく言葉にする。
「オリビエはたった一人で、戦場に立ってるんだ……絶対に、負けられない」
ヨウが呟く。
「マクシミリアン……」
再び座り、かすかに呻いた侯爵は椅子の肘掛をきつく握り締めていた。


痛いほどの好奇の視線と、冷たいその場所でオリビエは吐き出した自分の溜息が白く漂うのを視界に認めていた。
漆黒のピアノ。鍵盤は石の様に冷たく、音あわせのために軽く弾いた音階もどんよりと沈んで感じられた。静かに息を整える。
オリビエの前に楽譜はない。ただ、ランプの頼りなげな明かりの下、黒い鍵盤がつやつやと光っている。

昨日の午後から始めたアリアの作曲と歌手たちの稽古は日付が変わってからも続いた。オリビエが目覚めたときには、ピアノの前に座っていた。

エスファンテでの最後の夜を思い出す。
キシュと別れ、悲しみを音に吐き出し続けた夜。記憶も残らないほど弾き続け、目覚めた時には侯爵が傍らにいた。あの時と同じ。体は疲労していたが、夜に浸り何かが洗い落とされた心は朝日のように清んでいる。
僕はあの時、ここヴィエンヌに来ることを決意した。その決意が間違っていないことを、今日、自分自身に証明してみせる。

あれから、二年が過ぎた。僕は、少しは成長したのだろうか。変わっていないのだろうか。
分かりはしない。だけど、変わりたくないものもある。
誰かが僕の音楽を聴いて、幸せになってくれたらいい。

次へ♪
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「音の向こうの空」第二十二話②

第二十二話:そこから見つめる未来



会場内のざわめきが、公園の森を思わせた。侯爵家の窓から見ているだけでは感じ取れない葉のざわめきに似ていた。それが不意に静まりかえる。
まるで、風が止んだように、時が止まったように。
場内の明かりが消された。暗い大きな劇場は、夜を飲み込んだ空。わずかにバルコニーに灯されるランプだけが星のように瞬く。

脇に置かれたランプの炎が揺れる。二人を照らす唯一の灯りは、落ち着いた表情のレイナドを照らす。目が合った。
レイナドの指揮棒がわずかに動く。
その第一拍は無音。最も緊張の高まる曲の始まり、音のないそれに虚をつかれた観衆が止めた息を無意識に吸い込む瞬間。
追い討ちをかけるようにオリビエのピアノは清らかな風を運び込む。それは人々の動悸を誘い、同時に不穏な夜明けを予感させる。物語の始まり。朝の美しさに潜む不安な未来。清らかであればあるほど、人々の心を蝕む。
エリーゼは傍らのヨウ・フラにしがみついていた。
「綺麗、でも切ない……」
徐々にリズムは遅く、力強い旋律に変わっていく。目覚めたパン屋、物売りの声、走る子供たち。この雪の日に、春の日差しすら感じられる。
温かい音色。
それが旋律なのかリズムなのか、オリビエの指先が織り成す繊細な音の変化なのか。分かるものはいない。ただ、そう感じる。
数分の序曲が静かに終わり、音もなく幕が開く。普段なら、そう、ここで拍手だが。違う。客は感嘆の溜息で演者を迎えた。
すでに会場中が物語りに、オリビエの音楽に飲み込まれ一つに解け合っている。

物語は悲しい恋、すれ違う想い。エミリーのソプラノは胸に刺さるかと想うほど鋭く強く発せられたかと思えば、女性らしい脆さを垣間見せる。歌手の人生を語らせるかのような曲、歌声。そして、演奏。
台詞の朗唱にもオリビエは絶妙な音量の音色を添えた。歌手たちは励まされるかのように語り、追われるかのように嘆く。

―――愛する恋人を残し、セリーノは戦場へと旅立つ。その朝がついに来てしまった。
何度も愛を確かめたジュジュは今静かにベッドで眠っている。
一人先に目覚めた男、セリーノは夜明けの美しい窓辺で不安を歌う。

窓に立つセリーノの背をそっと見つめ、ジュジュは一人悩んでいる。
優しい恋人は結婚の約束もせずに旅立っていく。
ジュジュの家族はそれを喜んでいる。
戦場に旅立つ男に娘を縛られては憂いが残るばかり。
生きて帰れるかもわからない男に未練を残してはいけないと。自分を思いやり恋人は黙って旅立とうとする。

セリーノを送り出し、嘆き悲しむジュジュに継母が語る。
これでよかったのよ、無事戻ってこられればその時にまた、愛を語ればいいのだと。
継母は喜んでいた。これで娘に来た嫁入りの話を進めることができるのだと。あれはよい縁談、娘のためにも私のためにも。

街の門を出ようとするセリーノ。甲冑は心まで重くさせる。
空にも怪しげな雲が流れ、生暖かい風が吹く。聞こえてくるのはカラスの声。
お前は死に向かうのか。死に向かうのかと、繰り返す鳴き騒ぐ。
十字軍の遠征は尊いもの。セリーノが逃げれば愛しいジュジュにも呆れられるだろう。

軍隊は進み始める。
呼び止めるジュジュの声にセリーノは振り向く。
失いたくない、失いたくないと泣くジュジュと最後の抱擁。セリーノは愛している、と言葉を重ねる―――

アントニオとエミリーが抱き合う、二重唱のアリアは切なくそして力強い。ピアノだけの演奏に歌手の声は際立った。
痺れるような感覚に包まれ、ヨウ・フラは傍らのエリーゼの強く握る手に応えられずにいた。
オリビエの曲は侯爵の次に長くたくさん聴いてきた。
明るい日差しの入る居間で、オリビエが気ままに奏でるそれは心を癒してくれた。勤め先で嫌な事があっても、オリビエの曲を聴き、その呑気な笑顔を見ていれば、八つ当たりをしつつも気持ちが晴れた。
そんな演奏を温かく優しい、そう思ってきた。
だが、そんな言葉では今のオリビエの演奏は表せない。
何が違うのか分からない。ただ、何かがこみ上げてきて、思わず目が潤む。人は、言葉に出来ない心地よい衝撃を受けたときに、感動したと言うのかもしれない。
何かこの音楽に応えたい、黙ってはいられない、けれど表現できない。だから、普段は決して泣くことなんかしない少年も、今は頬に伝うものにも気付けずにいる。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十二話③

第二十二話:そこから見つめる未来



第一幕を終え、はぁ、とヨウ・フラが溜息を吐き出すと、同じタイミングのエリーゼと目があった。
「すごいわ」
「うん、すごい」
そんな感想しか言えない自分が情けないが、見回せば侯爵は言葉もなく、リエンコはなぜか涙ぐんでいるようにすら見える。
その向こう、少し離れた下段の席には演奏できなかった楽団員たちがいた。雪に耐えるひな鳥のように身を寄せ合い、じっと舞台を見つめている。たった一人楽器の前にいるオリビエを祈るように見つめていた。

第二幕の四つのアリアでアントニオが見事な声を披露し、会場は沸き立った。それもすぐに、オリビエの演奏が始まれば波を打ったように静まる。まるでオリビエの放つ音一つ一つが大切な台詞で、この物語を感じ取るには不可欠なもののように。
歌手は言葉で奏で、オリビエはピアノで語る。

―――遠い南の地、空を仰ぎセリーノは闇夜に声を聞く。愛しい人は元気だろうか。
元気だろうとも。
今でも私を思っているだろうか。泣いていないだろうか。
泣いていないだろう。
こだまのように繰り返すカラスの鳴き声。
泣いていない、泣いていない。新たな春を喜んで。
聞き耳か、とセリーノは体を起こす。カラスの声などに惑わされない。不吉な声、黒い姿。お前などどこかへ行け。

戦場で傷つき、疲れたセリーノが街に戻る。そこは新しい季節を向かえ花が咲き乱れる。教会の鐘がなる。飛び立つカラスに不吉な予感を覚えるセリーノ。

ジュジュの継母はセリーノを見つけると街から追い払ってしまえと衛兵に命じる。
継母は「娘は心変わりしたのだ」と、お前などより伯爵様との婚礼を望んだのだと笑い、セリーノを追い払う。
再び戦場へ戻るがいい、伯爵様のご命令だと。


引き裂かれ、ジュジュの姿を目にすることもできずセリーノは奴隷のようにつながれて戦場へと戻される。
カラスは嬉々として頭上を飛び回り、セリーノは怒り狂う。
この裏切りにどうして報いてくれようか。
私はこのままこの南の戦場で命果てるまで戦うのか。
仲間が倒れ、セリーノは追い詰められる。敵は黒い装束、不気味な言葉を話しながらセリーノを囲む。カラスが鳴く。
セリーノは死を覚悟する。カラスよ、あざ笑うがいい。お前が振りまくその不吉があの娘にも降りかかるように。私の苦しみと同じ苦しみをジュジュに。そのためにならこの魂、売り渡しても惜しくない。

突然闇が訪れた。不吉な月が空から隠れ、夜は真の闇になる。
敵から逃れたセリーノは闇に感謝する。泣き騒ぐカラスが何羽も何羽もセリーノの周囲、変わり果てた戦友の上に降り立つ。
お前の願いをかなえてやろう、お前の魂と引きかえに。そう聞こえる。

お前は悪魔か。セリーノの問いにカラスは首を傾げるばかり。カラスはカラス。だが願った瞬間闇が訪れ、敵は消えた。それは本当のことだ。
いいだろう、約束だ。私がこの恨みを晴らしたときには我が魂をお前にやろう。
闇に誓い、セリーノは血に染まる敵軍の黒衣に身を包む。カラスに護られたこの命、この姿。カラスと名乗り街へ向かう。私は不吉を振りまくカラスなのだ―――

アントニオが声色に迫力を添え、憎しみは身を滅ぼすのだと忠告しようとする妖精に刃を突き立てる。
雷鳴のような鋭いピアノの音が舞台を薙ぎ払い、暗転。
第二幕を終える。


観衆の深い溜息がためらいがちに吐き出され、暗がりの場内には緊張感が満ちている。
ばたばたと羽ばたきの効果音に人々はびくりと肩を震わせた。
雰囲気にそぐわない華麗なオリビエの演奏は、伯爵家でのジュジュを表す。今は豪華な屋敷の窓から、あの日の朝のセリーノのように空を眺める。


―――溜息と供に訪れたのは生暖かい風。
雷鳴がとどろき、ジュジュは怖がり慌ててベッドへと隠れようとする。
窓辺に停まるカラスが鳴いた。不吉な声で何度も何度も。不安がるジュジュに母親は上機嫌で花嫁衣裳をかざし、ほら、美しいわ、とても似合うわ。と満足げだ。
そこに伯爵が現れ、花嫁の母親とひとしきり抱擁を交わす。
「婚礼の祝いには、街の全員に祝福されよう。盛大な祝いだ」そういう伯爵にジュジュは語る。
「街の女たちは父を夫を戦場へと借り出されています、それでは祝福など出来ますまい」
伯爵は考え、「では半月後、すべての兵を呼び戻そう。その時こそ婚礼の祝い。盛大な祭りを行うのだ。宣言する、すべての兵士は戦いをやめ、街へ戻るのだ」
そこに伯爵に客だと小間使いが伝える。
漆黒の衣装をまとった東の国の大使だそうです、薄気味悪い男です。不安げに告げる小間使い。

伯爵が部屋を出れば継母がジュジュに詰め寄る。
「お前は何を考えている?兵士の中にあの男を求めてなのか」
不意に二人に襲い掛かる闇。激しい羽ばたきとともにランプを倒し、カラスは泣き喚く。
悲鳴を上げ継母はジュジュを置いて逃げ出した。
暗がりになった室内で、ジュジュは一人座り込んでいる。
あの人なら、あの勇敢で優しかったセリーノなら、私を抱きしめて助けてくれたのに。
けれど私は彼を裏切った。
戦場へと去った彼を裏切った。この罪は消えることがないだろう。

「そうだお前が殺したのだ」
いつの間に入り込んだのか。漆黒の衣装、目深にマントを被った男が立っている。私はカラス。真実を知っている。
「お前が戦場にいるセリーノを殺したのだ」男は恐ろしい台詞をはいた。
「セリーノはお前を恨み呪って死んでいったのだ」

あの人が死んだ。
あと少しで愛するあの人を呼び戻せるところだったのに。何のために私は。
運命は待ってくれなかった。あの人の待つ場所が地獄だろうと天国だろうと、私は会いに行きます。
ジュジュは泣きながら眼を閉じ、自ら剣を胸につきたてる。

悲鳴、雷鳴。カラスが泣き喚く。
セリーノが抱き起こしてもジュジュは目を開けない。
流れる血に震えながら、セリーノは嘆く。

愛を確かめもせず闇に魂を売った自分を呪う。カラスよ、愛しい人の命を返して欲しい。そうすれば私の魂は永遠にお前にやろう。

ふいにセリーノの姿は溶けるように消え、後には黒いマントだけが残る。

無音。
静まり返った中、ゆっくりとジュジュが体を起こした。
伯爵が部屋に戻ってくる。
「ジュジュよ、悲しい知らせだ。セリーノが戦場で命を落とした。昨日、遺体が見つかったのだ」

私は、命を救われた。
静かに歌うジュジュ。
愛しい人が私を救った。死んではならないと。
遠い戦地から羽ばたく鳥のように私の前に現れて、私を救った。
そして許してくださった。

これでお前は伯爵様と結婚するしかないのよと説得する継母に、ジュジュは笑った。
「いいえ、私のうちに宿る命は、セリーノの子。伯爵様との結婚は出来ません。最初から、お断りするつもりでした。お怒りはごもっとも、罰はこの身で受けましょう」
嘆く継母。伯爵は膝を落とす。
だが、と。伯爵は顔を上げ「セリーノはもういない。勇敢なセリーノの子、愛しいお前の子。わが子として供に育てよう」伯爵はジュジュの手を取る。

舞台は一転、華やかな婚礼の祝いの席。軽やかな円舞曲。窓辺にたたずみ花嫁衣裳のジュジュは遠くを眺める。カラスが鳴いている。悲しいのか嬉しいのか。
そこに伯爵が寄り添い、ダンスに誘う。
すべては時の仕業、我らはただ今を喜び踊るだけ。歌おう、笑おう。
歌いましょう春の鳥のように、歌いましょう黒い翼のカラスのように―――

十五名の歌手たちは、全てを演じきった。

最後を飾る合唱は、劇場内を熱い想いで満たした。拍手が沸き起こり、まだ、そう、幕が下りてもいないのに観衆は立ち上がり歓声を上げた。一緒になって軽やかな曲に体を任せた。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十二話④

第二十二話:そこから見つめる未来



すべてを、出し切った。
オリビエは鍵盤から両手を放した瞬間。そう、実感した。
ピアノの余韻と供に胸に何かが満ちる。
振り返れば、レイナドが手を差し出し、それを取って立ち上がる。
うわんと会場内が唸ったように思えた。それは聞いたこともないような大きな歓声だった。

「こっちよ」と。間近な声に振り返ると、エミリーが笑っていた。引かれるまま、舞台へと昇る。
歌手たちが一列に並ぶ真ん中に、レイナドとともに立った。

生まれて初めて、舞台というものに昇った。
そこは、人々を見下ろすところではなかった。
遠く未来を予感し思いを馳せた、あのライン川の川岸を想う。見たことのない景色をこれから見るのだと、力強く感じた、あの熱い思いが胸にこみ上げた。あの時隣に立った侯爵様は、今向こうで見守ってくれている。
僕は不器用だけど、間違ってなかった。苦しんでもがいて、空を想った。飛び立つことを願いつつ、飛び立てばいつか落ちるのではないかと恐怖した。自分が弱かったのだ。
こうして、皆に支えられ見守られ。飛び上がったそこから遠く見通す世界には、まだ見たことのない、感じたことのない感動が待っているのかもしれない。


背を叩かれ、エミリーが抱きつき。だれだろう、頭をなでられた。
もみくちゃにされながら、控え室に戻る。
途中、ヨウ・フラとエリーゼ、ルードラー医師が待ち構えていて、「すごかった!」「感動したわ!」と讃えた。
リエンコにも同じように抱きつかれ、オリビエは「苦しいよ」と笑う。
その向こう。リツァルト侯爵が穏やかに見ていた。そう、いつもの二人きりの演奏の時のように。
オリビエは姿勢をただし、しばらく見つめてから、頭を下げる。

「リツァルト侯爵様、貴方は本当に素晴らしい音楽家を育てました。昨晩ほとんど寝ないで全十五曲のアリアを作曲したんです、その上、あの即興の演奏。素晴らしい出来だった!」
レイナドがオリビエの肩を叩き、侯爵に感謝を述べる。
その時にはもう、楽団員たちも集まり、にぎやかな集団は廊下一杯に広がりながら、控え室へと移動を始めた。

と、不意に先頭の誰かが動きを止めた。
「!」
せき止められるようにして、オリビエも立ち止まる。
少し前を歩くアントニオが脇に避けると、その向こうからマクシミリアンが姿を見せた。
傍らには、ジースト。
「奇抜な演出でしたね、レイナド」響く声がひやりと水を浴びせる。
「あの、大公様。これには、わけが」と、レイナドが険しい表情のマクシミリアンに説明しようとする。
「理由などどうでもいい。オリビエ、一人きりで、まあ、よくやったと言っておきます。お前一人で済むものなら楽団員はいらないですね」
全員が静まり返った。
いらない、とは。どういう意味なのか。
「ですが、あの。もし、入賞できれば私は残らない約束です、それでもいらないと……」
手をあげてオリビエを制するとマクシミリアンは「く」と笑った。
「どちらでも結構。劇団が残るのか、お前が残るのか。入賞を逃してもお前を手元における。あの演奏が私のものになるならそれもまた、一興です」
ぞく、と。オリビエが震え、傍らのヨウ・フラがその腕をぎゅっと握り締めた。
「きっと入賞します。新聞の一面に、僕が記事を書きます」
「……」
「形式は変わっていても、その芸術性はどこよりも優れていました。脚本もよく出来ていましたし、歌手もいい。同じ台本のシュタイアーマルクと比べても明らかです。何しろ、今日のあの作品は二度と聞けない。これを見ることが出来たものは幸い。貴重な感動を決して忘れてはいけないと、記事にします」
ヨウ・フラの胸のうちにはすでに記事が出来上がっているようだ。

「ふん、生意気な。まあ、どちらでもいいでしょう。明日が、楽しみですね、侯爵」
リツァルト侯爵は黙ってマクシミリアンを睨んでいた。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十二話⑤

第二十二話:そこから見つめる未来



「レイナドさんは?」
控え室で紅茶を貰い、少し落ち着いたオリビエはいつの間にか人の減った室内を見回した。
気付けば室内にはアントニオだけ、他の歌手と楽団の皆は午後からのティロル伯領のオペラを観るのだとつい先ほど出て行った。
「あの人は営業活動さ。この会場に来ている貴族や諸侯に掛け合って、出張公演なんかを取り付けてくるんだ。たとえ賞が取れなくても、コンクール作品だと銘打てば各都市で人気が出る。拠点はバイエルヌでも、そこから動いちゃいけないってことはないからな」
「ふうん。……あの」
オリビエはカップを膝に抱える。少しだけ残った紅茶はランプの明かりをきらりと跳ね返す。
この劇団で、様々な町へ行って公演する。
それはひどく魅力的で、オリビエの心を揺らす。
「ま、お前は辞めるんだろう?」
アントニオの一言は明るく、優しく、「気にするな」と言っているように思える。

「僕は。本当は、リツァルト侯爵様にお仕えしながら、続けられるなら…」
「オルガニストは辞めるのか?」
「あ……」
「教会のオルガンもよかったが、俺はお前の才能はやっぱりピアノが一番発揮できると思う。まあ、オルガニストって職は安定しているからな、捨てがたいだろ。オリビエ、いろいろやってみるのも大事だろうけどな、何もかも一度にやろうなんて、贅沢だぜ」
オリビエは小さく頷いた。
「僕のオルガンを…聞いてくれていたんですか」
アントニオは肩をすくめた。「あの頑固なエミリーを説得するのに、俺が努力してないとでも思うのかい?」
エミリーと教会に来てくれたんだ。
「ありがとう。あの、また機会があったら是非、手伝わせて欲しいんだ。すごく、楽しかった。いつも、たった一人で演奏してきたんだ、だから」
背中を叩かれた。
「俺たちは仲間だ。いつでもお前を歓迎するし、レイナドなんか、誘拐してでも連れて行きたいって本音では思っているさ。そうなったら兵隊王の兵士と同じ、逃げ出せばむち打ちだぜ?」
「冗談でも嫌です」
身をすくめて背を叩くアントニオを避けるオリビエに、いつもの大きな笑い声で応える。
「なあ。お前がこの町のパールス教会にいてくれるなら、俺たちはいつでも会いに来られるだろ。お前の演奏を聞けるんだ。流れ者の俺やエミリーには、そりゃ故郷が一つ出来たようなもんだ。だから。お前はこの街で俺たちを待ってろよ」
「待つんですか?」
「ああ、で、いつでも俺たちをもてなす。うん、そりゃいい考えだ」
「随分ですね」
笑いながら、肩を叩きあう。
二人はリエンコが呼びに来るまで、他愛ない話を続けていた。


次へ♪

「音の向こうの空」第二十二話⑥

第二十二話:そこから見つめる未来



リツァルト侯爵はルードラー医師とエリーゼと供に先に屋敷に戻ったという。ヨウ・フラは早速記事を書くんだと意気込んで新聞社へと向かったらしい。リエンコはそれを見送ってきたのだ。
次に会うのが宮殿であることを互いに祈って、オリビエはアントニオに別れを告げた。受賞した劇団員は宮殿に招かれることになっている。

「明日の発表まではゆっくり屋敷で休むようにと、侯爵様のご命令です」
リエンコはいつもどおりオリビエの傍らに立ち、音も立てずに歩く。
歌劇場のロビーは次の演目が始まっているためにがらりとしていた。
その片隅、日の差さない場所に男が一人。

「あ、あの、リエンコ、僕」
アーティアだ。
オリビエが駆け寄ろうとしたのをリエンコが阻む。
「リエンコ、大丈夫だから」
「よくない男です」
腕をつかまれたまま振り返れば、アーティアは足早に外に出て行くところだ。
行ってしまう!
「放せって!」
オリビエが珍しく怒鳴る。響く声にリエンコの手が緩む。

次の瞬間にはオリビエの背中を見ながら、リエンコは白い息を吐く。
バイエルヌの劇団を賞賛する観衆の中にあってただ一人、アーティアは立ち上がることが出来ずに頭を抱えていた。その後姿をリエンコは思い出していた。
アーティアがどれほどの力を尽くしたのか知らない、それでもたった一晩で書き上げ、即興で演奏するオリビエのほうがはるかに魅力的な演奏をした。
現実を突きつけられたアーティアが何を思うのか。「自業自得、か」と。ロシア語のそれは誰にも聞き取られずに流れて消えた。

「アーティア!」
聞こえない様子で、冷たいみぞれの降り出した通りを男は早足に歩いていく。
「待って!アーティア」
物売りの声に負けないようにオリビエが叫ぶ。
ぬかるんだ足元、水溜りを避けようとした紳士とぶつかりそうになり立ち止まると、目の前を乗合馬車が通り過ぎる。
「アーティア!」
届くだろうか。
ひどく悲しげな背中に。

栗毛の馬が吐く白い息の向こうにアーティアは立ち止まっていた。
こちらに背を向けたまま、他を拒絶する後姿は冷たい空気に溶け込もうとしている。

「あの、アーティア」
振り向かないその手を掴めばひどく冷たい。
正面に回りこんでオリビエは少し背の高い男を見上げた。
眉間には深い皺、以前よりやせて見える。鋭い視線はまだオリビエをそれと認めていない。一度その視線の先をオリビエも振り返るが、何があるわけでもない。
「アーティア、大丈夫?あの、アーティアの演奏……」
視界が黒く。
「え?」

抱きしめられていた。
「すまない」
耳元に聞こえてくるそれ。
「お前の曲を俺は盗んだ。なのに、お前は何も言わなかった」
アーティアの表情を確かめたい衝動に駆られ仰ぎ見ようとしても、近すぎて見えない。オリビエは黙ってうつむいた。
僕は、素直に信じられなくなっているんだろうか。
どんな顔をしているんだろう、僕は。
オリビエはそのまま、ただじっとしていた。アーティアの肩で溶けた雪が頬にあたり、ちくと冷たい爪を立てる。
「生きていくために仕事が必要だった。俺は、卑怯な真似をした。すまない……怒っているんだろうな」
くぐもって聞こえる声に、小さく応える。
「僕は、怒ってはいない、よ」
「そうか、よかった。お前は優しいな」
やっと解放され一歩離れれば、アーティアは笑っていた。
これは、仲直りなのだろうか。
オリビエはかすかに首をかしげながら。それでも先日とは違うアーティアに期待を隠せない。
「怒ってなんかないよ、きっと、何か理由があるんだと思って」
「オリビエ、お前の演奏はすごかったよ。やっぱり才能があるんだろうな。俺が、曲を盗んだことでお前がどうなるか心配だったけど、安心した。あれならきっと、入賞する。そうなったらお前はバイエルヌに行くのか?あの領邦の劇団は有名なんだ。羨ましいな」
いつの間にか傍らにリエンコが立っていて、オリビエの肩にコートをかける。
「いや、僕は入賞できたら辞めるんだ。ここヴィエンヌを離れられないから。そういう契約なんだ」
アーティアの目が丸くなる。そして、笑顔。
「じゃあ折角入賞しても、バイエルヌの劇団には作曲家もピアノ弾きもいなくなるのか!?」言葉とは裏腹にアーティアの声は弾んでいる。
うん、とオリビエが頷けば今度は肩を掴まれた。
アーティアの笑顔がなぜか苦い気がしてオリビエは唇を噛んだ。なんだろう。

「俺のシュタイアーマルクの契約はこのコンクールまでなんだ。お前の後任にぜひ推薦してくれないか……」
背後のリエンコが何か怒鳴りかける。
その腕がアーティアを掴む直前に。オリビエはアーティアを突き飛ばしていた。
「な、にするんだ」
自分でもどうした衝動なのか説明がつかない。だけど。
それは。あまりにも都合がよくないだろうか。
「あの、アーティア、君はバイエルヌの皆に迷惑をかけたんだよ?彼らは盗作騒ぎのためにコンクールの舞台に立てなかったんだ。これまで準備して、練習してきた彼らの努力をすべて、無駄にしたのに……」
それなのに、彼らの中に入りたいって言うのか。
アントニオが笑わせ、レイナドが皆をまとめる、あの仲間に?

「作曲家が必要だろう?ピアノを弾く人間も。お前が出来るなら俺だって出来る。それとも俺にお前の代わりは勤まらないとでもいうのか」
アーティアの表情は一変した。見開いた目は人のものとは思えないほど冷たい光を讃える。痩せた頬は引きつり、あからさまに憎しみを放った。
思わずオリビエは一歩下がる。
だけど。
「そうじゃない、彼らは真っ直ぐ必死で努力してるんだ。アーティア、君みたいに」
「……なんだよ」
「卑怯なこと、しない。他人の痛みの分からない人たちじゃないんだ……大切な、仲間なんだ」
かみ締めるように吐き出した言葉にアーティアは目を見張る。
「だから、彼らに近づくのはやめて欲しいんだ!」
「お前こそ、のうのうと俺に笑いかけるじゃないか、俺がお前の演奏を見てどれほど呵責に苦しんでいたか、どれほど打ちのめされたか!何の苦労もないお前に何が分かる!どれほど力が足りなくとも、俺は生きていかなきゃならないんだ!」
飛び掛るアーティアからリエンコがオリビエを護る。
つかみ合いになり、オリビエはリエンコの背に押され、よろめいた。
通りを歩いていた人々が「なんだ、喧嘩か」と群がり始めた中、誰かが「ありゃパールス教会のオルガニストさんだ」と声をだし。「大丈夫ですか?」とオリビエに声をかける。
大柄なリエンコに突き飛ばされ、幾人かの見物人に支えられたアーティアは、ふんと顔を背け、「俺はマクシミリアン候に気に入られている。お前の世話にならなくても入れるさ」と残し、人垣を掻き分けるとその向こうに消えていった。
「オリビエ様、大丈夫ですか」
オリビエは頷いた。

「アーティア…本気なのかな」
「入っても、あのイファレア女に首を絞められます」
くす、と。オリビエは表情を緩めた。エミリーならそうかもしれない。

『マクシミリアンに利用されただけのあの男が、正式に雇われることはないだろう。盗作を暴露されれば雇い主の評価も下がる、そんな捨て駒に慈悲などかけまい。噂が広まればあの男を雇うものなどいない、どこに行っても門前払いだろう。だがそれを知れば、この人はまた同情してしまうか』
ロシア語でぶつぶつと呟くリエンコにオリビエは首をかしげる。
「何?」
「いいえ。風邪を引きます。屋敷に戻りましょう」
そっと肩を叩くリエンコの手は、温かかった。


次回、第二十三話「強く、強く。」は2月16日公開です♪

オペラの物語、どこまで描くかすごく迷いました~。結局、脚本らしく(?)書いてしまったけど…古典劇だから単純かつどこか詰めの甘い内容にしてみました…どうだったかなぁ?

さて。次回。コンクールの結果は…その後のオリビエは?
たくさんの人に支えられてオリビエは成長していく…?(笑)
楽しみにしてくださると嬉しいな~♪

18世紀はこんな世界その4

最近おなじみの「クラシカジャパン」で何となく観ていたオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」。
モーツァルト作曲の著名なオペラですが、その中でメイドが二人のお嬢様にチョコレートを作ってあげるシーンがありました。
資料では知っていたけれど、やっぱりこの時代に貴族はチョコレート(現在のような塊じゃなくて、ココアに似た飲み物だった)を飲んだんだ~と。それを風刺の効いたこの作品で描いているって言うところが面白い♪

劇中では「30分もかけてかき混ぜるのに、私は匂いをかぐだけ…」なんて、メイドは嘆く。
まったく、貴族はなんて贅沢なんだ、という当時の民衆の気持ちが出てますよね~。
その脚本ではお嬢様が帰ってくる寸前に、メイドはそいつをちょっぴり味見しちゃう。(笑)

このメイドは二人のお嬢様に恋人を裏切って浮気するように、恋を楽しみなさいとそそのかす役柄なのです。
うむ。最初の登場でチョコレートを盗み飲みするだけで彼女のキャラが見事に表現されているな~。さすが!

私の小説の中ではオリビエの好物です。
無邪気な彼は甘い物好き。お酒は弱いけど、甘いソーテルヌのワイン(貴腐ワイン)なんかが大好きだろうな~♪
それをヨウ・フラは「贅沢だ」と文句を言う。
勧められても黙って見ているだけだったビクトール。
リエンコはきっと、無表情で黙々とかき混ぜたんだろうな……30分も(笑)
きっとメイドたちは嫌がって、力のあるリエンコにその役が回ってきていたわけです。
リエンコは料理なんか出来ませんがオリビエが喜ぶから、褒められたくてがんばる(←どういうキャラだろう…^^;)


なぜにチョコレートの話題、かというと。
バレンタインデーが近いので♪
我が家の入籍はバレンタインデー♪つまり記念日♪
…甘い一夜?
ご想像にお任せしつつ…

2009.2.11

「音の向こうの空」第二十三話①

第二十三話:強く、強く。



コンクールの三日目。すべての公演が終わったところでロスノは他の審査員とともに劇場の奥にある広間に集まっていた。
そこには昼の食事が用意されている。
この季節に脂の乗る白身魚のグリルとジャガイモのグラタン、温かいトマトのスープ。給仕が順に配るものを視界に納めながら、順に審査員の顔を眺める。
もちろん上座にはアウスタリア帝国皇帝レオポルト二世。今朝の寒さが応えたのかかすかに鼻を紅くしている。ロスノの隣には芸術院会員の詩人、文学者、哲学者、法学者。周辺の領邦の選帝侯や大司教が顔をそろえる。
「おや、バイエルヌのカール四世侯のお姿がないが?」
ロスノが気付き、隣にいた哲学者が肩をすくめた。
「どうも、カール四世侯は体調を崩されたらしいですよ。噂では危険な病ではと、ね。だから、バイエルヌの歌劇団は弟君のマクシミリアン候が率いておられた」
「…病、とな」
ロスノは眉をひそめた。ここには、コンクールに参加した他の領邦の選帝侯も居並ぶ。カール四世の代わりにマクシミリアンがというわけにも行かないのだろう。だとすれば、オリビエのバイエルヌは不利ではないか。
代表を送っている選帝侯はそれぞれの歌劇団を押すに決まっているのだ。つまり審査員十五人中四票はライバルの歌劇団に入る。
「今年は面白い作品が多かったな」
そう、レオポルト二世皇帝がワインを味わいながら、審査員を見回した。

「シュタイアーマルクの楽曲は面白みのあるものでしたな」と、文学者がひげをなでれば、「いや、あのピアノだけのバイエルヌも見事だった」と哲学者が笑う。ザルツブルクの大司教も大きく頷いた。以前、オリビエには聖堂で演奏してもらったことがあるのだと大司教は静かに語った。
興味深そうな皇帝レオポルト二世の表情に、ロスノはいい手ごたえを感じていた。あのオリビエの演奏に、皇帝陛下はひどく感動していたのだ。隣で見ていたロスノは立ち上がってオリビエに拍手する皇帝陛下を見ていた。
その後も、オリビエの生い立ちや、どんな青年なのかとロスノに盛んに尋ねてきた。皇帝の一票は重い。

「あのバイエルヌの作曲家の演奏、あれは即興のものだそうですよ」と、シュタイアーマルクの選帝侯が肉を切りながら話す。
「どうも、なにか問題があったらしく、仕方なくあの形式になったらしい」
「それで伝統的なオーケストラではなく、ピアノだけだったのか」
感心する様子の哲学者に、「しかし、あれは奇抜すぎた気もするが」と文学者が眉をひそめた。


「即興、とは。二度と聞けないということか?」
レオポルト二世がフォークを置いた。「ええ、もちろん、そういうことでございます、陛下」と、半分バカにしたような口調でシュタイアーマルクの選帝侯が話す。
「もともと、このコンクールで賞を取ったオペラは、この宮廷歌劇場で公演する決まりになっています。即興で、二度と同じ演奏が出来ないのであれば、たとえ入賞となっても上演できない。あのバイエルヌは審査から外すべきですな」
「大体、ピアノだけのオペラなど、寒々しくていけません。あのような形で陛下の御前で演ずるなど、本来なら辞退すべきだったと思いますな」

「今回、ツヴァイブリュッケン家はカール四世公のご都合で、弟君のマクシミリアン候が指揮したようですが、そこがまず間違いでしたな。かのマクシミリアン候は芸術には縁がない。戦場で走り回ることを生きがいにしているような人物ですからな」
「音楽を聞く耳など持ち合わせておられないでしょう」
冷笑が沸く。

コンクールに参加している選帝侯たちが、盛んにこの場にいないバイエルヌを貶めようと悪口を並べ立て始めた。
ロスノは眉をひそめ、これがオリビエの悪口にでもなったら反撃してやろうと口に残るジャガイモをワインで流し込む。

「私も、同じだ」
短い一言を発した人物を皆が見つめ、黙る。
レオポルト二世、アウスタリア帝国皇帝だ。

「私もマクシミリアンと同様、芸術には縁がない。お前たちの言うとおり、音を聞く耳を持たず、感動する心もないかもしれん」

ごくりと。ロスノの隣にいたシュタイアーマルクの選帝侯は唾を飲み込んだ。

昨年即位したばかりのレオポルト二世は前皇帝のヨーゼフ二世の改革政策をことごとく修正し、反対の姿勢をとっている。芸術にも金をつぎ込むことをよしとせず、これまで皇室に可愛がられてきた芸術家それこそ著名なヴォルフガング卿さえも解雇し、宮廷室内楽団をも解散させたのだ。そこにも前皇帝との違いを顕にしていた。

それらの政策は啓蒙思想を普及させようとするヨーゼフ二世の改革路線とは正反対なために、「芸術に理解のないお堅い皇帝陛下」という非難じみた記事となって新聞に載った。もちろん、それは皇帝自身の耳にも届いているのだ。

「いえ、あの、決して、陛下のことを申し上げたのではございません」
慌ててとりなそうとするが。
皇帝は腰を浮かしかけた彼らをジロと睨む。

「この宮廷歌劇場でのオペラの公演は減らす。そう決めてある。即興演奏のためにあのオペラが再現できないのなら、このコンクールで入賞した歌劇団の公演もなくてもよい。公演のためにコンクールをするのではあるまい?そうだろう?ロスティアーノ」

芸術を高貴なものと位置づけ、理解できないものに対して不遜な態度を取る。そういった貴族たちを皇帝レオポルト二世はうっとうしく思っていた。
けっして、皇帝自身が音楽やオペラを嫌っているわけではなかった。ただ、それらを利用し、芸術家ぶる諸侯が気に入らないのだ。
ロスノはよく分かっていた。

「おっしゃるとおり、オペラの芸術性を競い、優れた演出と作曲を選ぶためのコンクールでございます。だた、陛下。優れた作品を国民に開放し公演することを通じて、より多くの国民に言語を普及させ、教会の教えを広め、もって安泰な治世に資することも可能。先ほどのバイエルヌの即興の演奏も、一度きりというわけではございません。今回同様、次も即興で演奏できるでしょう。陛下、次にご覧になられる時には、また違う感動を与える作品になると思います」

ロスノの言葉に、皇帝は表情を明るくした。
明らかに嬉しそうな皇帝に、ロスノは付け加えた。

「あの演奏をしたオリビエは、パールス教会のミサでオルガンの即興演奏を毎週行っております。そのおかげでかの教会は信者を増やし、より多くの人を導き、喜ばせている。芸術とはこうあるべきだと、私は思います」
ふむ、と満足げに頷く皇帝。

「し、しかし、ピアノだけなど……」と食い下がるシュタイアーマルクの選帝侯に、「何の話だ。私は聞く耳を持っていないのでな。私が思うとおりに決める」と。レオポルト二世はにやりと笑って見せた。

次へ

「音の向こうの空」第二十三話②

第二十三話:強く、強く。




オリビエは久しぶりに侯爵家でゆっくりとした午後の時間を過ごしていた。
この日、教会の仕事は休み。結果の発表をマクシミリアンの傍で待つのも落ち着かないので侯爵家に留まっていた。レイナドたちはオリビエもと誘ったが、オリビエは何処で聞いても結果は同じだからとにっこり笑った。
気が早くお祝いだと駆けつけた『足長の店』の主人が腕を振るい、二人のメイドも夕食は盛大な晩餐会だと張り切っていた。広間でばたばたと準備を進める彼らの声が時折響き。侯爵はうるさいのか眉をひそめる。

もし、入賞できなければここにはいられず、リツァルト侯爵のために奏でることも出来なくなる。この少しの時間をも惜しむように、オリビエは居間でピアノを奏でる。侯爵は昼食後のコーヒーを運ばせ、そこでオリビエの演奏を聴きながらゆったりとした時間を過ごしていた。
エリーゼとアナンも時折庭を眺めながら、落ち着かない様子で紅茶が冷めるに任せていた。

午後になってようやく晴れ間を見せた空から、庭には少しばかりの陽だまりが出来る。傾いた日差しの残照が木々を白く染め、眩しそうにそれを眺めながらエリーゼは公園に集まり始めていた人々に気付いていた。
オリビエの曲を楽しみに教会に通い、オリビエがコンクールに出ることを知った彼らが集まっているのだと想像した。皆、オリビエを応援したいと思っているのだ。
当の本人は演奏に夢中で、心地よさそうに音を浴びている。
気付いていないのだろう。

大勢の人間がオリビエの音を愛し、讃えていることを。
そのおっとりとした人柄さえ不思議な感動を誘うことを。

庭に、何かが迷い込んだ。
穏やかな風景を乱す少年が、小走りにかけてくる。
手を振って。

エリーゼが立ち上がった。
「ヨウだわ!」

オリビエもさすがに演奏をやめた。
庭を横切ってきたヨウ・フラは、手に何か持っている。
それを盛んに振りながら、満面の笑み。

「やったよ!!オリビエ!一等だ!一番なんだ!オリビエのオペラが一番になったんだ!」
その声は庭にも、居間にも響き。
公園から人々の拍手が届く。
それを背にヨウ・フラは一気に駆け寄るとオリビエに抱きついた。
「おめでとう!」
おめでとう、そう繰り返しながら、ヨウ・フラの視線は侯爵に、そしてエリーゼに。その場にいる皆に祝福を振りまき、もう一度最後に目の前の青年の腕を取って見つめる。

「オリビエ、バイエルヌの歌劇団が一番なんだ!街の広場で宮廷の伝令が触れ回っているよ!皆、大喜びだ!」


ヨウ・フラが持ってきた紙には、コンクールの結果が記されていた。
一位バイエルヌ、二位にシュタイアーマルク。オリビエは目を細めた。
「よかった、アーティアも」
「それ、ちょっと納得いかないけどさ」
ヨウ・フラが口を尖らせるが、「だって、曲はオリビエさんのだもん、当然よ」とエリーゼが笑い、「当然だもん」とアナンが真似る。
「仕方ないか」と、少年が肩をすくめれば、「まるでお前のことのようだな」とリツァルト侯爵が笑った。
「ですけど、侯爵様。当のオリビエがこんな様子だから。僕が代わりにごく普通の反応をしてみせてるんです」
「え?なにが?」
オリビエは庭先からの拍手に応えるために庭に出ようとしていたが、首をかしげて振り返る。
「だから。ほら、オリビエ、みんなが待ってるからさ、行きなって」

オリビエの傍らにはリエンコが立ち、開かれた扉から歓声が漂ってくる。庭に立ったオリビエは公園に集まった人々が庭を囲うフェンスの向こうで手を振り、投げかけられる祝いの言葉に笑って応えている。

「ほんと、よかったわ」ポツリとエリーゼが。
「うん、ホントに。怪我をさせられてきた時にはどうしようかと思ったけど」
ヨウ・フラも少女の隣で頷いた。
「ね、侯爵様。よかったね」とアナンがリツァルト侯爵の手に小さな手を伸ばす。さりげなく手をつないだ少女は、見上げて首をかしげた。
「侯爵様?」
「いや、あれも、かつては幼かったが」
何度か眩しそうに瞬きをし、窓からオリビエを眺める侯爵をアナンは不思議そうに見ている。
「侯爵様はオリビエのお父さんみたいね」
「アナン!」
エリーゼが恐れ知らずな妹に慌てる。
「あれが、息子ならと。……思ったこともある」
目を細める侯爵の言葉に、ヨウ・フラもエリーゼも目を丸くした。

彼らの視線など、侯爵にはどうでもいいようだ。ただ、じっとオリビエを見詰めていた。

子供のいない侯爵がどんな想いをオリビエに向けてきたのか、ヨウ・フラはいくつか想像してみるが。僕には父親の気持ちは分からないなと、死んだ自分の父親を思い出していた。

次へ

「音の向こうの空」第二十三話③

第二十三話:強く、強く。



夕食前には、レイナドや楽団の皆が侯爵家に訪れた。
リツァルト侯爵に、「大公様から、預かってきました」と。あの、オリビエのサインのある契約書を手渡した。

丸められたそれは外気をまとって手に冷たく、ブルーのリボンを解いてオリビエは中を確かめた。確かに、あの時の契約書。これで。契約は果たされたことになる。
オリビエは自由だ。
肩を侯爵に叩かれ、顔を上げれば囲んでいる皆が微笑んでいた。

「おめでとう」
そう、ルードラーが祝福した。

「あの、レイナドさん、大公様のお屋敷でお祝いがあるんじゃないんですか?」
エミリーが肩をすくめた。
「お祝いなんて状態じゃないんだ。もともとマクシミリアン候はカール四世様ほど、オペラ好きってわけじゃなかったからね」
その肩を支えるようにアントニオが叩く。
「ま、いいからさ。今日のところはお祝いだ」
いつも通りの笑顔のアントニオとは裏腹に、劇団員は皆浮かない表情だ。

嫌な予感がする。オリビエは皆を見回した。
「どういうことですか?何かあったんですか」

「大公様は、宮廷歌劇場での公演を辞退するおつもりなのさ。そうなれば、あたしたちは必要ないだろ。ま、あんたがいないんじゃ、詐欺だもんね。コンクール優勝のオペラって触れ込みなんだしさ」
「オリビエのせいじゃないさ。オリビエがいなかったらコンクールにも辞退するハメになったさ」
「だからせめてオリビエを祝ってあげたいって、皆で押しかけたのよ」とヒルダも笑う。

劇団を解散させる、というのか。

優勝した劇団は宮廷歌劇場で一年間公演できる。その後は各地でその作品で上演して回る。それが通常だった。
僕が、辞めるから。

「ってのは、建前でさ。オリビエ、ねえ。本当に、あんたとはもう一緒にやれないの?あんたがいてくれれば、大公様もお考えを変えてくださるかもしれないだろ?」
皆が口に出しにくい言葉を一番に発するのは、やはりエミリー。オリビエの手を取る。

「リツァルト侯爵、是非、オリビエの力をお借りしたいのです。オリビエのことは、私達が護りますし」
レイナドの言葉に、楽団の皆が頷いた。
コートも脱がずに訴える彼らを侯爵は微笑みもせず眺める。

「オリビエが決めることだ」
リツァルト侯爵は静かに言った。

許可と受け取った何人かがわ、と沸き立ち、冷静なレイナドがオリビエを見つめる。
その視線を追うように、全員が契約書を持ったままのオリビエを見つめた。

皆で作り上げる音楽は、楽しかった。刺激に溢れていたし、新しい発見もたくさんあった。契約や暴力で縛られていなければ、いや、脅されてもそれでも楽しかったのだ。
何の心配もなく彼らとの共演できるならそれほど素敵なことはない。可能であるなら続けたいと思ってきた。

「……あの。オルガニストも続けたいし、僕は侯爵様の楽士だから…契約とか、そういうのなしでできるなら」
オリビエが双方を見比べながら口を開く。アントニオが頷いている。楽屋で話したことが記憶に昇る。
一度にすべては出来ない、だけどうまく調整が出来るなら。侯爵家での時間が減ることになるが、それも侯爵様が許してくださるなら。

オリビエは雇い主をじっと見つめた。
本当に侯爵様は何も口を挟むつもりがないらしい。
かすかにオリビエに応えて頷いたように見える。

「待った!オリビエ。何、馬鹿なこと言ってるんだよ!ただ働きするつもりなのか!?僕が契約の内容を確認してやるからさ。ねえ。侯爵様。これからオリビエは自分の音楽だけで食べていけるくらいに有名にならなきゃいけないんだから。いつまでも侯爵様のお世話になってるようじゃだめだからね!いい加減お人よしから卒業しなよ」
ヨウ・フラがオリビエとレイナドの間に立ち両手を広げる。

「なんだ、生意気だな」とアントニオが睨みつけると、ヨウはふん、と笑い返す。
「ヨウはほんと、しっかりしてるよね」
オリビエが面白そうに笑う。ヨウ・フラは「頼むからさ、オリビエ、他人事じゃないんだから、もう少し緊張感を持ってさぁ」と頭を抱え、その姿に皆が笑った。

これで公演ができるかもしれない、私から大公様に頼んでみるよ、とレイナドがその場をまとめた。


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「音の向こうの空」第二十三話 ④

第二十三話:強く、強く。



広間に料理が並んだ頃、ロスノとパールス教会の大司教も祝いに駆けつけた。さほど広くないそこに思い思いの料理を皿にとって、予定外の立食パーティーとなっている。ワインを片手に審査の経緯をロスノが面白そうに語るのを、侯爵をはじめ皆、興味深く聞いていた。
ロスノはニヤと笑って、「オリビエ、その内皇帝陛下からのお召しもあるかもしれんぞ」と。わしが推薦しておいたからと自慢げに胸を張った。

「ほら、もっと飲めよ」とアントニオがワインを手に取る。オリビエはすでに酔った様子で「ええと…」と優柔不断。
実際、かすかにぼやけた思考でオリビエは自分が今つまんでいるフリットが海老なのか魚なのかすら分かっていない。
「もう、だめです」
なぜか隣に立つリエンコが生真面目にアントニオを睨んだ。
「お?なんだ、ロシア人。こんなおめでたい時に、相変わらず硬いなぁ!ほら、代わりにお前が飲めよ」
注がれたワインをリエンコが顔色一つ変えずに一気に飲み干したのにはアントニオも言葉をなくす。
「ロシア人は酒に強いんだな!」にしてももったいない飲み方をしやがって、と侯爵の秘蔵のワインを惜しそうにアントニオは自分のグラスに注ぐ。
「すごいね!あんた、あたしと勝負するかい?」
なぜかエミリーがリエンコに宣戦布告し、喜んだアントニオが両手に今度はもっと安いワインのボトルを抱えてきた。
ヨウ・フラはエリーゼと寄り添って庭を眺めているし、アナンは楽団の皆に可愛がられてはしゃいでいる。ロスノと大司教、侯爵は小さい丸テーブルを囲んで腰を下ろし、ルードラーはヒルダと向かい合ってチキンをつまみながら親しそうに話している。
オリビエはふと熱くなった溜息を吐き出すと、楽器に向かう。

もともと、楽士は皆が楽しんでいる影でその場の雰囲気作りに力を注ぐ。決して主役になるものではない。
オリビエは丁度正面に見える、ルードラー医師とヒルダの間に特別な感情が生まれかかっているのではないかと目を細め、スローテンポのバラードを奏で始めた。二人は丁度同じくらいの年齢に思えたし、誠実で温かいルードラー医師がいつまでも一人なのはおかしいとオリビエは常々思っていた。
バイオリニストのヒルダはバッサウの出身で小柄で聡明な美しい女性だ。ぴったりなんじゃないだろうか。
二人の笑顔はオリビエを幸せな気分にする。
この居間には、笑顔が溢れている。
僕はこれからも、この楽しい人たちと音楽を続けられる。
侯爵様に曲を聞かせることが出来る。
この手に馴染んだピアノで、たくさんの想いを紡いでいける。誰かが、それで幸せに感じてくれたら。
ああ、きっと今は、僕が。この中で一番幸せな気分だ。
酔いも手伝ってオリビエは夢中になる。

その演奏はいつの間にかその場の主役になる。奏でている本人はまったく気付いていないが。オリビエの演奏はいつもそうだ。
人を心地よくする。
皆が聞き入り、拍手するタイミングを待ちわびているのにも関わらず、オリビエはただ夢中で奏で続けていた。


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「音の向こうの空」第二十三話⑤

第二十三話:強く、強く。



夜通し続いた祝宴も朝日が照らせば幸せな疲労感を体に残す。
オリビエはいつ自室に戻ったかも覚えていなかったが、ぼんやりと天井を見上げ寝転んだまま伸びをした。
ここちよい枕を振り返ると抱きしめ、もう少し眠っていたい誘惑に耐え切れずに顔を押し付ける。
幸せなまどろみは扉を叩く音で破られた。


リエンコだろうと「どうぞ」と枕の中から声を出す。
「まだ寝ているのか。午後には宮殿に招かれているのだろう?」

オリビエは顔を上げた。
リツァルト侯爵は濃紺の上着に白いスカーフ。きっちりと帽子を被った姿は、どこかで見たような。
オリビエは慌てて起き上がると、床に裸足で降り立ち挨拶をする。
苦笑いする侯爵の背後で荷物を抱えたリエンコがくすと笑みをこぼした。

笑わなくても、とそちらをチラと睨むとオリビエは
「おはようございます。あの、朝早くからお出かけですか」と荷物と侯爵の姿を見比べた。
侯爵が手にしたコートから、工場でないどこか遠いところに行くような気がした。

「お前に、話しておきたい事があってな。わしはこれからクランフ王国へ向かう」
クランフ王国。
「そ、それは?あの、エスファンテに帰られるんですか!?」
それとも、アンナ夫人を追うのか?
侯爵が目を細め、リエンコに「荷物を馬車に」と指示した。リエンコは一礼して扉を閉め、室内は二人きりになる。
明るい日差しを届ける窓から、パールス教会の鐘の音が入り込む。

「あの?」
侯爵は苦笑いした。
「オリビエ、わしはアウスタリア軍の一人として、戦場に向かう」
え?
「そ、そんな、こんなに突然ですか?あの、戦争って、あの」
「亡命貴族どもをな。統制する人間が欲しいそうだ。我らが亡命の折、越えたライン川を覚えておるか?あの場所よりずっと北部になるが、マインツの辺りの川岸で戦線がしかれているのだ。そこへ向かう」
「……本当に、あの、侯爵様は戦争に反対だったのでは…?」

「護るべきもののためになら、戦わねばならんときもある」

昨夜の幸せが嘘のようだ。
馬鹿みたいに明るい日差しが足元にかかり、オリビエはそれを睨むように見つめていた。その先にある、侯爵の長靴が憎らしいほどつやつやしている。その姿で、まるで新兵のような真新しい姿で。僕を置いていくのか。毎日侯爵の帰りを待って、世話をしてきたメイドやリエンコを、置いていくのか。
冗談のような、いや、夢を見ているのかもしれない。

オリビエはもう一度、ごしごしと目を擦った。

「お前にな。話しておきたいのだ」
夢の中の侯爵は、ホンモノのようにいつもの仕草でオリビエに座るよう示す。オリビエは黙って自分のベッドに腰を下ろした。

おかしい。
こんなこと。

何度も首を横に振るオリビエに、深い溜息が聞こえた。
顔を上げれば、椅子に座り少しだけ首をかしげてオリビエを見下ろす侯爵がいる。
ホンモノ、なのか。
夢ではないのか。

「一度しか言わん。だから、しっかり聞きなさい」
リツァルト侯爵の厳しい口調にオリビエは姿勢を正した。

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「音の向こうの空」第二十三話⑥

第二十三話:強く、強く。



現実なのだ。
これは、よく分からないが。どうしてこうなっているのか、おかしな気がするが。
本当に、起こっているのだ。

「オリビエ、お前の両親の事故のことを、知っているかな」

オリビエはびくと、拳に力を入れた。
うつむいたまま頷けば、ロントーニが突き止めた事実もか、と。侯爵は静かな視線を向ける。
「はい。あの、事実かどうかはともかく、両親は、あの、当時の司教会に殺されたと」
「仔細は語るつもりはない。そのためにお前がよい気分になるはずもない。ただ、当時の国王暗殺の陰謀を隠蔽するために、二人は殺された。その事実をわしは知っていたが。恩人であるロスレアン公のお立場のために、口を閉ざした。……憎んでもよいのだ」

憎めといわれても。
両親の死が、誰かのせいだとしても。オリビエの心に沸きだすのは悲しみだけだ。

「…では、あの。なぜ、僕を引き取ってくださったんですか」
「お前が生まれた年。丁度、アンナが二歳になる娘を亡くしてな。あれは、嘆き悲しみ……想像できるであろう?ここ最近のようにずっと塞ぎこんでいた。
それが、ふらりと出かけて戻ったと思えば、赤ん坊を抱えていた。ビクトールに尋ねれば、屋敷に出入りしていたラストンが、妻と生まれたばかりのお前を連れてわしからの祝いの礼にと尋ねて来ていたのだ。アンナはそれを見かけ、お前を母親から預かると自室にこもってしまった。

メイドたちも、皆、慌ててな。わしはアンナが可哀想でならなかった。ラストンにお前を養子にしたいと申し出た。侯爵家の跡取りとしてだ。悪くない話だ。ラストンは迷った。
だが、お前の母マリアは毅然として言った。子を失う母の想いは私も同じだと」

部屋に閉じこもったアンナは半日でてこなかった。お前をわが子のように扱おうとしたのだ。だが、すでに乳は枯れ、泣き出したお前に困ったアンナはメイドを呼ぶために部屋を出た。そこで、わしが取り上げたのだ。
泣き崩れるアンナに、マリアが言った。
「この子を愛してくださるというなら、この子が支えを失った時、手を差し伸べてください。私達がこの子の世話を出来なくなった時、病気でも事故でも、そうなったときに是非、わが子として可愛がってください」とな。

お前の両親は、あの事件で死んだ。
わしはあの時の約束を思い出していた。
すでにアンナの心も癒え、落ち着いていた。お前を奪おうとしたあのときのことなどすっかり忘れているようだった。
それでもお前を引き取ったのは、お前を子供としてかわいがるためではない。音楽家を必要としていたからでもない。ただ、ただ。罪悪感だったのだ。お前の両親を見殺しにした、そのためにお前は独りきりになった。
罪悪感だった。

嬉しくはないだろう?真実など、そんなものだ。
人の感情など分からぬものだ。
大人しく従うお前を見ていれば、わしは更なる罪悪感にさいなまれた。まるでお前を引き取るためにお前の両親を見殺しにしたかのような錯覚に陥ることもあった。何も知らず笑うお前を見て憎んだことさえある。

お前はただ、従順に音楽を奏で続けた。
わしはお前を閉じ込め、縛りつけ、こんなにも世間知らずな男にしてしまった。だが、お前は、笑って「幸せだ」というのだ。
わしに音楽を聞いてもらえるのが嬉しいと、笑う。

お前は、不思議な男だ。
わしはロスティアーノが言うような芸術の理解者ではない。
ただお前の音楽を誰よりも長く聞いてきた。
いつの間にかそれが、わしにも救いになっていた。
わしは罪深い。多くを奪ってきた。若い頃は戦争にも行った。一族は時代の流れに弾かれ、故国から追われた。こうして、クランフ王国からも逃げ出し、アンナを失い。ヴィエンヌでも留まることを許されない。
あまりよい人生だったとは。お前のように幸せだったとは言えん。

亡命しこの異国に来た。毎日工場に通うようになり、家族を養う大勢の工夫を見てきた。わしは理解した。人は何かを得るために生きているのではない。護るために生きているのだと。この歳になってな。やっと分かったのだ。

自分のためでなく、護るべき愛するもののために生きる。それが、生きるということなのだと、な。だから今、戦場に向かうのだ。

オリビエ、人生は長いようでいて短い。
お前は、お前の愛するもののために生きるがいい。もう、閉じ込めようとは思わん。
お前の。多くを奪ってきた。

すまない。

「侯爵様……」
「わしは、お前に出会えてよかったのだと思う。オリビエ。わしのために、レクイエムを作ってくれないか。お前の音楽が、わしの生涯を安らかなものにしてくれる。お前に命じる、これが最後だ」

レクイエム。それは、死を覚悟しているのか。

「戦争に、など。行ってほしくありません。私が、一人前になろうとしたのは貴方から離れたいからではありません、貴方を支えたいからです。ずっと、ここにいろとおっしゃったじゃないですか」

「ばか者。泣く歳ではあるまい?わしは死にに行くのではないぞ。わしが帰るまでに曲を作っておきなさい。マクシミリアン候はもうお前に手出しすることはない。バイエルヌのレイナドと契約を結ぶのもお前の自由だ。ただし、ヨウ・フラやロスティアーノ、周囲の人間に必ず相談しなさい。お前一人では何を約束させられるかわからんからな」

溜息を吐く。侯爵は静かに笑った。穏やかな笑みで、「身体には気をつけるのだぞ」と身を翻す。
慌てて、オリビエが立ち上がると手を上げて制した。
「見送りなどするな」

「侯爵さま!僕は、待っていますよ、ずっと、だから」
必ず無事に戻ってください。
その言葉は扉の向こうに消えた侯爵に届かなかった。

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「音の向こうの空」第二十三話⑦

第二十三話:強く、強く。



なぜ、リツァルト侯爵が戦場に向かうことになったのか、誰も教えてくれなかった。ヨウ・フラは「さあ、理由までは知らない」とそっぽを向き、リエンコは「リツァルト侯爵様でなくてはお勤めできないです」と。
「だけど、侯爵様は戦争は嫌がってたはずなのに」
一人心配するオリビエに、「信じて待ちましょう」とリエンコは笑った。


その日の午後、宮廷からの迎えの馬車が来ても、オリビエの気持ちは晴れない。初めて入るホーフブルク宮殿もあまり興味をそそらなかった。
衛兵を見るたび、その制服が今朝の侯爵を思い出させ悲しい気分になる。
「おい、しっかりしろよ。二日酔いか?」
アントニオが背中を叩くのもどこか遠い感覚で聞き流した。
近衛兵たちが整列し、警備のためだろうか行進しながらオリビエたちより先に広間へと入っていく。まるで軍隊だ。
またそんなことを考え立ち止まっていると、丁度馬車で到着したマクシミリアン候が降り立つのを待つ形になった。
先に降りて扉を開くジースト。

突然、なにか。
オリビエは思い出した。

マクシミリアン候はこの件が終われば連合軍の将校として参戦する。戦場でこそあの方は生きる。
その大公様がお前にこだわり、参戦を遅らせてまでコンクールに参加させる理由が分かるか?リツァルト侯爵からお前を取り上げる、そんな程度で済むはずがないだろう?
そんなふうにジーストが言った。

戦場。
侯爵様が何かマクシミリアン候と話しをして、僕への暴力はなくなった。
マクシミリアン候はもう僕には手を出さないと、侯爵様はおっしゃった。
それは、まさか。

自然睨みつけるオリビエに、すれ違いざまにジーストが拳を振り上げた。
「!」
寸前でアントニオがオリビエを庇い。
ふん、と笑いながらジーストはマクシミリアンの後を歩いていく。

「なんだ、あいつ」
「…マクシミリアン候は、戦争に、行くのかな」
「あ?」
オリビエの呟きにアントニオは聞き返す。
「だから。あの」
「マクシミリアン候はライン戦線の指揮官として参戦なさるそうだ。あの人にとっては歌劇団なんかどうでもいいのさ」
ライン戦線。侯爵様が派兵される、同じ戦場だ。

オリビエは唇を噛んだ。
僕は。護られるばかりだ。


広間でレイナドやエミリー、ヒルダたちと合流し見守る貴族たちの中でバイエルヌ歌劇団にこの年最も優れたオペラ作品の栄誉が与えられた。
オリビエたちの前に立つマクシミリアンは皇帝レオポルト二世に恭しく頭を下げ、場内からの拍手に笑顔で答えた。
「オリビエのピアノは本当に素晴らしかった。宮廷歌劇場での公演にはまた違う演奏をしてくれるのだろうな」
レオポルト二世の言葉にマクシミリアンは困った顔をした。
「オリビエとの契約は……」
「はい、あの。皇帝陛下」
オリビエが進み出るとマクシミリアンの隣で膝をついた。
「私の演奏だけでなく、このバイエルヌ歌劇団を支えるオーケストラが素晴らしい演奏をお約束します」
「うむ。楽しみにしておるぞ」
マクシミリアンの視線を感じながらオリビエは頭を下げる。

皇帝が二位のシュタイアーマルクの劇団へと言葉をかけに向かうのを見送りながら、オリビエは立ち上がる。
「お前は」眉をひそめるマクシミリアンに、オリビエは一つ息を吐いた。
ここで。僕が強くならなきゃいけないんだ。

「バイエルヌの歌劇団全員をこれからも雇ってください。その条件でなら、僕はご協力します。必要でない劇団員は一人もいません。皆、貴方を劇団の庇護者として尊敬しています。だから。これからも、彼らを大切にしてください」
ジーストが一歩前に出ようとするのを、マクシミリアンは手を上げて制した。
「ふん。生意気なことを言うようになったものですね。どちらにしろ、私は不在になる。劇団の運営はレイナドに任せます。好きにするといい」
ふわとした毛皮のマントを翻してマクシミリアンが背を向ける。オリビエは顔を上げた。柔らかく強い、オリビエの真っ直ぐな視線は。何を感じさせたか、ジーストを立ち止まらせた。

「侯爵様を」
マクシミリアンの背中が止まる。
「リツァルト侯爵様を、お願いします。貴方は類希な才能をお持ちです。そして、部下の信頼厚い指揮官だと伺いました。優れた指揮官とは部下の命を救うものだと。ですから」
侯爵様を…無事に帰して欲しい。

「部下が馬鹿でなければ、な」
振り返りもせず、マクシミリアンは歩き出す。

もし、僕がリエンコなら。腰に武器を持っていたなら。
迷わず目の前の敵に向けていたかもしれない。それがどんなに意味のない、一撃だとしても。なのに。僕は。
護られるばかりだ。

アントニオが肩を叩き、エミリーが手を握るまで、オリビエは凍りついたように立ち尽くしていた。

次回「第二十四話:待ち、願う」は3月2日公開予定です♪

さて…
やっと侯爵様の気持ちを語ることが出来ました…。
オリビエにもっとも深く関わってきた侯爵様の生き方。どう思われました~?
どうなってしまうのか、オリビエはどうするのか。
次回、お楽しみに~♪

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