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『音の向こうの空』第二十四話①

第二十四話:待ち、願う



オリビエが加わることで、バイエルヌの劇団は宮廷歌劇場で週末ごとオペラの公演を行うことになった。コンクールで優勝した台本にオリビエが改めて作曲しなおしたものだが、レイナドの意見で、毎回第二幕の冒頭と朗唱の伴奏はオリビエの即興演奏になった。それが公演のたびに違うということがヨウ・フラの記事で話題となり、中には何度も足を運ぶ貴族もいた。「あの演劇嫌いのレオポルト二世を夢中にさせた」それだけでも民衆の興味をそそり、いつも盛況だった。

マクシミリアン候はジーストが言っていたとおり、その年の内に戦場へと向かった。
そうして、侯爵家は主のいないクリスマスの季節を迎える。

珍しく雪の降らない静かな夕刻。オリビエは居間の扉に飾られた小さなりんごのリースにちらりと目をやり、興味もなさそうに目をそらした。あの日以来、オリビエは教会のミサから帰ると一人居間にこもった。夕食も、友人が尋ねてきているとき以外は一人で黙々と食べ、時には手をつけないこともある。そうして、リツァルト侯爵がまるでそこにいるかのように遅い時間まで一人で演奏を続けていた。
積もった雪は残照で薄桃色に染まり庭に浮かびあがる。暖炉の薪が時折音を奏で。オリビエは一人ピアノの音を振りまいていた。
「あのさ、オリビエ、今夜の約束」
上着を片手にヨウ・フラが顔を覗かせるが、ピアノの前で音にのめりこむオリビエには隙がない。しばらく待っているうちに、ヨウの背後にリエンコが立った。リエンコも正装している。二人は視線を合わせ、困ったようにオリビエを見つめた。
この夜、レオポルト二世から宮殿のクリスマスの舞踏会に呼ばれていた。そろそろ馬車が迎えに来る。
伝えてあったはずなのにオリビエは心ここにあらずで、降り積もる雪のような調べは悲しく冷たく。いつまでも鳴り止む様子がない。
しばらく黙って様子を見ていたヨウ・フラは、意を決しオリビエの隣へ。
その走り続ける手を掴む。

「!?」
まるで。今初めてヨウ・フラの存在に気付いたかのようにオリビエは目を丸くした。
「あのさ。今日の夜なんだけど。ロスじいから聞いてるよね?皇帝陛下のお招きで宮殿に行くって」
やっと肩の力を抜いて、オリビエは笑った。
「あ、そうだね。そう聞いていたね。広間でピアノを弾くんだった」
「…あの、オリビエさ」
何、と。あれ程悲しい音を奏でていたくせに、いつものフワフワした笑顔でオリビエは笑った。そうして笑いながらこれまでも多くを耐えて来た。その経験がオリビエをこうさせるのかもしれなかった。
オリビエは柔らかな色の髪を一つに束ねている。丁度肩に乗る小動物に似て、するりと背に隠れ姿を消す様はヨウ・フラの視線を誘う。侯爵が戦場へと旅立ってからというもの、決して髪を切ろうとしなかった。オリビエの想いがそこにいる。そっと背に隠れた想いは常に離れず肩に乗り、頬ずりし。きっと、オリビエを傷つけている。
「急いで着替えるよ、ごめん」オリビエは立ち上がっていた。
ヨウ・フラはなれない高い襟の上着の下で首をほぐし、覚悟を決めた。
「侯爵様のことなんだけど」
ヨウの言葉にぴくと。掴んだままのオリビエの手が震えた。ヨウ・フラはそれでも放すものかと力を込める。
「あのさ。皇帝陛下に頼んでみたらどうかな」
オリビエの強張った表情が少しだけ緩んだ。
「え?」
「だからさぁ、戦場から戻してもらうんだよ。だって、皇帝陛下なんだからさ、誰よりも権力があるんだ。オリビエのことを気に入ってくれているんだから頼んでみればいいんだよ。直接話せる機会なんかそうない、だから今日話してみればいいんだ。ロスじいだって協力してくれる。上手く行けば侯爵様、戻れるかもしれないだろ?」
一呼吸置いて大きく息を吸うとオリビエは目の前の少年を抱きしめた。

「オリビエー」と、ヨウ・フラはあきれる。もう、オリビエのほうが身長は低いくらいで、だからすぐに突き放された。
「ヨウ!ありがとう!!そうだよね、そうだ。頼んでみるよ。そのためなら僕は何でもできる!」
何かが解けたような笑顔をこぼすオリビエをヨウ・フラは見守っていた。
いつの間にか傍らに立つリエンコがオリビエの肩を叩き、「心配です」と一言。それにも満面の笑みでオリビエは頷いた。
「そうだよね、侯爵様、ご無事でいてくださるといいな」

ヨウ・フラも深い溜息を吐いた。
「心配なのはオリビエのことだよ。あのさ。ごめん、オリビエ」
「どうしたんだよ、二人して。皇帝陛下に頼んでみるよ、うまくいけば侯爵様、帰れるかもしれない。そうだよ!」

リエンコとヨウは顔を見合わせた。口を開いたのはヨウ・フラだ。
「ごめん。ずっと黙っててさ。もう、オリビエは察しているんだよね?侯爵様がどうして、戦場に行くことになったのか。分かってるけど、僕らが黙っているから知らない振りしてたんだろ。侯爵様のこと心配なくせに、何も言わないでさ」

「…ヨウ…」
重苦しいそれを腹に感じオリビエは椅子に座り込んだ。
想像は出来ている、それも、ひどく嫌なものだ。
認めたくない、真実と知るのも怖い。

少し伸びた前髪が額にかかり、それを払おうとする手が表情を隠す。ヨウ・フラは続けた。
「僕もリエンコも。ルードラーさんもロスじいも。皆、知ってるんだ。侯爵様はオリビエが…」
「ヨウ!」
オリビエは両手で耳をふさいでいた。
「聞きたくない、と思うけど……」
ヨウ・フラは拳で自分の胸を押さえた。
のんきな笑顔でいつもどおりを貫こうとしているオリビエ。見ているのが、どうにもつらかった。自分たちが隠していることはオリビエに感づかれている。それなのに周囲に気遣ってオリビエは知らないふりをする。無理をさせている。

ヨウ・フラはオリビエの隣に膝をつき、椅子に沈み込んだままのオリビエを見上げる。
背後に立ったリエンコは、そっと耳を塞ぐ手を掴んで引き剥がす。オリビエは綿で出来た人形のようにくたりと手を下ろした。力ないそれを元気付けようと、ヨウ・フラはまず、言っておかなければいけないことを口にした。

次へ♪
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『音の向こうの空』第二十四話②

第二十四話:待ち、願う



「皇帝陛下に頼むんだから、大丈夫だからさ。オリビエが責任を感じることなんかない、いいね」
オリビエは小さく頷いたようだ。
「侯爵様は。オリビエの代わりに戦場に向かったんだ。僕が調べた限りではアウスタリア軍の将軍はリツァルト侯爵の戦歴や経験、亡命貴族に対する指導力を必要としていた。でも侯爵様は年齢を理由に断っていた。そこにマクシミリアン候が将軍に入れ知恵したんだ。オリビエも亡命貴族。それも、二十歳から二十五歳という徴兵に当てはまる年齢。将軍はマクシミリアン候の私的な思惑なんかどうでもよかった。利用できるものを利用しようとして、オリビエを徴兵する代わりにと、侯爵様を呼んだんだ」
将軍。以前、マクシミリアンの屋敷で彼の前で演奏したことがある。あの場に将軍がいたこともマクシミリアンにとっては意味があったのだ。マクシミリアン候、穏やかな表情しか思い浮かばない。それがまた寒気を誘い、オリビエは小さく身震いした。
僕のために侯爵様は大公と話をした。それがどんな取引を導いたのか推測できる。
「……マクシミリアン候の、狙い通りなんだよね?僕への暴力を辞めさせようとして、侯爵様は」
命のやり取りにこそ価値を見出す彼らが、逆恨みする侯爵様に望むのは命。戦場で侯爵様がどんな目に遭うのか。オリビエは唇を噛んだ。
ずっと、毎晩のようにうなされた悪夢。
僕のせいで侯爵様は死んでしまうかもしれない。

「オリビエ様に心配させないように、黙っていることを約束しました」
リエンコが口を開く。
「でもさ、なんだか。逆効果だったからさ。余計にオリビエを苦しめちゃってると思うんだ。だから話すことにしたんだ」
ヨウ・フラはオリビエの両手を取って強く握り締めた。
「オリビエ。考えてみなよ。マクシミリアン候は確かに、有能な指揮官かもしれない。だけど、将軍にとってはリツァルト侯爵様も同じくらい重要な人材なんだ。当然、マクシミリアン候の身勝手な遺恨なんか晴らさせるはずはないんだ。きっと、侯爵様を護ってくださる。みすみす殺させたりしないさ」

「ヨウ」
「心配なら心配って言ってさ、戦況を知りたいなら僕に聞いてくれればさ、いつでも、できる限り力になるんだ。そういっただろ?オリビエ、あれ以来、侯爵様のこと何にも言わなくなってさ。悲しい曲ばかり演奏するくせに仕事ではいつもニコニコしていて、痛々しくてさ、こっちが参っちゃうよ」
痛々しい。情けない響きに幾度も瞬きする。
「泣いてもいいです」
リエンコの言葉に、オリビエは噴出した。
「リエンコまで!大丈夫だよ、僕は」
「僕らだけじゃないよ、オリビエ。エリーゼも、ロスじいも、ルードラーさんも。劇団の皆も。たくさんの人がオリビエのこと心配している。オリビエ、分かってないんだ。オリビエが思っている以上に皆はちゃんとオリビエのこと見てるんだからさ」
オリビエは黙った。
何を口にしていいのかわからず、思わず動いた手は鍵盤に向かおうとする。
「っと、待った。オリビエ、それは宮殿に行ってからだよ。まずは着替えてさ、ほら、侯爵様のためにも宮殿で最高の演奏してさ、皇帝陛下に訴えなきゃいけないんだからな!」
そう手を引かれ。リエンコに背中を押され。
オリビエは自室へと連れて行かれる。
いつの間にかオリビエよりずっと男らしくなっているヨウ・フラ。そばで口数少なく護ってくれるリエンコ。通り過ぎる廊下の脇から、ちらりとのぞいて微笑むメイドの二人。
「こんばんは」とエントランスの扉を開く可愛らしいドレス姿のエリーゼ。

感謝しなくちゃ。
オリビエは笑いながら少しだけ泣いた。

次へ♪

『音の向こうの空』第二十四話③

第二十四話:待ち、願う



オリビエにとって二度目となるホーエンブルク宮殿は、クリスマスのためか前回はそこまで気が回らなかったのか、以前よりずっと華やかさを増しているように思った。遠いイファレア南部から送られてくる季節はずれの美しい花々を配し、芳しいワインの香りと女性の香水が入り混じる。
オリビエたちが馬車から降り立つとロスティアーノが駆け寄った。
「遅いぞ、オリビエ。陛下もお待ちかねだ」
手袋をしたオリビエの手をまるで貴婦人にするように引くリエンコ。
「え?」
振り返ればヨウ・フラはエリーゼをエスコートしている。
これじゃまるで。と思うまもなく、「ほれ、行くぞ」ともう片方の手をロスノに取られ、オリビエは親に引かれる子どものように人混みの間を抜ける。着飾った貴族や名士たち。花畑と比べるには香水の強すぎるそこを縫うように進む。好奇の視線、どこかで自分の名を誰かが呟き噂する。
恥ずかしくなって「あの、一人で歩けるんだから」と反論したところで、左右に流れていた華やかな人垣が消えた。

目の前には真っ白なピアノ。美しい銀の装飾がシャンデリアの明かりを鏡のように映す。
リエンコが雪に湿ったコートを脱がせ、ロスノが椅子を引く。
周囲にはピアノを中心にした人の円が出来上がっている。丸い舞台、そこにオリビエはピアノとともに取り残される。
ささやき声は拍手に変わる。
オリビエは冷たくなった手を握り締め、そして開き。
美しく磨かれた鍵盤を見つめると息を吐いた。
いつの間にか静まり返っている周囲に気付きもせず。

向こうに立つリエンコを少し振り返り、その隣のロスノ、ヨウ・フラ。エリーゼ。大切な友人たちを順に見つめた。見守ってくれる彼らに最大限の感謝を込める。
指先が織り成す柔らかなタッチの音。深く染み入る温もりを音に変え、オリビエは語るように抱きしめるように奏でる。
リツァルト侯爵を送り出したあの日以来、オリビエは重い枷を心に抱いていた。それは引きずっても持ち上げても、叩いてみても消えることなく。常に心にのしかかっていた。昼間は一時忘れることが出来たとしても、眠るために目を閉じれば恐ろしくなった。
眠れない夜を恐れるあまりピアノの前で夜を明かすことも何度もあった。
だがそれは、自分ひとりだけではない、皆が。周囲にいてくれる彼らが供に分かち合ってくれている。
皆が侯爵様のご無事を祈っている。
それが天に届くように、神に伝わるように。
そして、皇帝陛下の心を動かせるように。
オリビエはこの聖夜に相応しい美しい旋律を奏でる。誰でも知っているミサ曲からいくつかのフレーズを借り、オルガンとは違う絹のような和音を響かせた。
再現部の最後をゆっくりはかなげに演奏し終わると、余韻を惜しむように静寂が満ちる。
聴衆の溜息があちこちでこぼれ。
「素晴らしい演奏だった」と。いつの間にか目の前にいたレオポルト二世の言葉と供に拍手が沸き起こった。

立ち上がり皇帝陛下に挨拶をすると、オリビエは再びピアノの前に座る。
軽やかな円舞曲を奏でても、バラードを披露しても。そこに集まった人々は踊りもせず立ったまま聞き入っている。
オリビエは数曲を終えたところで手を休めた。
「あの、どうか皆さん。折角のお料理が冷めてしまいます」
あ、と。広間に広がる香ばしい肉のにおいに気付いた聴衆は慌てて周囲を見回した。
メイドたちが困ったようにテーブルの脇で待ち構えている。サーブしようとしている料理は一つも減らず、ずっと持ったままだったのだ。
「どうぞ、オリビエ様も」
そうメイドに声をかけられ、オリビエも立ち上がる。
ワインを受け取ると芳しい香りに空腹を覚えた。
どこかで呼ばれた気がして顔を上げれば、ロスノが手招きしている。そのすぐ横に立つ皇帝陛下と視線が合い、オリビエは今日の最大の目的を思い出す。

次へ♪

『音の向こうの空』第二十四話④

第二十四話:待ち、願う



「お前の育ての親、というわけなのか」
皇帝が椅子の背に身体を預ければかすかにそれはしなる。オリビエは頷いた。
「はい。リツァルト侯爵様は啓蒙主義者というわけではありませんが、理解しようとされていました。人民を大切に考えられておられます」
亡命した時の経緯を語ればレオポルト二世は興味深そうに聞いていた。クランフ王国から発した啓蒙主義の革命が各国に余波を与えているのだ、興味がないわけがなかった。ファリでの三部会、国民議会の発足などファリの様子を尋ね、それにはヨウ・フラが緊張しながらも応えた。

「寡黙な男と聞く。逃げ出してきた、というわけではないのだな」
「はい、エスファンテのため自ら身を引かれたのです。各地で起こったような農民一揆が起これば、傷つくのは農民だけではありません、衛兵たちも町の人々も。ただでさえ食料が不足するような状態ですから、食糧の作り手である農民を戦いに向かわせるなど愚行であると。人民のために土地も武力も置いて来られたのです。町を出るときには、多くの市民に惜しまれました」
その時の様子を知っているのは、オリビエしかいない。あの時、オリビエは恋に破れ、町の様子など気にかけることもしなかった。
オリビエは自分自身のことで精一杯だったのに、侯爵様は自分以外の皆のために行動されていた。改めて周囲の人々を思い出した。
ズレンも、ビクトールも。アンナ夫人すら。
僕は、子供だったんだな。

「決まりとして僕が戦場に赴かなければならないなら、喜んで出兵します。ですから、侯爵様をお救いください。老齢にこの寒さは堪えます」
レオポルト二世は人差し指を軽く上げる仕草で側近を呼ぶと、飲み物を運ばせた。
広間の一角を大きなタペストリーで仕切った小部屋は、五人ほどがくつろげる広さで、毛皮を敷いたソファーが黒檀のテーブルを囲んでいる。
そこには今、オリビエとロスノ、ヨウ・フラ、エリーゼとリエンコだけが皇帝と向き合っていた。

「オリビエ、お前を戦場に送ることは出来ない」
皇帝の返事はそう始まった。
「馬にも乗れない貴族など、戦場に送れば迷惑だろう。曲がりなりにも貴族の称号を持つものを歩兵というわけにも行かん」
く、と小さく噴出したのはヨウ・フラ。
「し、しかし!」
「よいか、クランフ王国の軍の規律は乱れておる。かの国の軍事の多くを取り仕切ってきた士官たちは皆、貴族だ。大半が亡命した上に、残された士官たちも決して今の国民議会に従順ではない。市民から集めた素人の兵士とやる気のない士官。決して恐ろしい敵ではない」
ヨウ・フラが強く頷いた。新聞や噂でいろいろと知っているのだろう。
皇帝は続けた。
「ところが。オリビエ、我が軍も決して一枚岩ではない。ライン戦線周辺は、小さな領土を持つ領邦が治めておる。彼らの中には、すぐ隣に位置するクランフ王国の都市と親しく交易をしているところもある。民族としても隔たりはない。プロシアのフリードリヒ二世に感化され啓蒙思想を讃える選帝侯もいるだろう。彼らにしてみれば、帝国に席は置いているものの心はクランフ王国を求めている。いつ寝返るかもしれない」
オリビエは国境の村を思い出した。
自警団が自らを護ろうとしていた。
「そんな我が軍に、啓蒙思想を持つ指揮官はいらん。たとえ、経験豊富な亡命貴族だろうとな」
皇帝の口調が強まる。
「え?」
「リツァルト侯爵を除隊とする。不名誉かもしれん。それでもよいか?」
オリビエは思わず立ち上がる。
ヨウ・フラ、ロスノ、リエンコ。皆を見回す。
リエンコがはっきりと頷いた。それは、優しくオリビエの背中を押す。
「はい!ありがとうございます!」
オリビエは深く頭を下げた。

これで、侯爵は戻れるのだ。
出兵から一ヶ月。大丈夫、きっとご無事のはず。

次へ♪

『音の向こうの空』第二十四話⑤

第二十四話:待ち、願う



思えば、このクリスマスの幸せな気分は、ひと時の神からの贈り物だったのかもしれない。

年が明けた1792年1月。期待に満ちた思いで、侯爵を迎えるべくテッヘは侯爵の部屋を整え、リエンコは暖炉の掃除をした。オリビエは侯爵の好きなワインを買い込み、温かそうなひざ掛けを見かけると、オルガニストの給料をはたいて少し遅いクリスマスのプレゼントを用意した。
ヨウ・フラは知りうる限りの戦況を報告してくれるし、エリーゼは新しいテーブルクロスに美しい刺繍を施してくれた。
ヨウ・フラの話では、戦線までの道のりは雪に閉ざされ、皇帝の指令が戦線に届き侯爵が帰るまで、早くとも二ヶ月はかかるという。
だから、オリビエたちは少しずつ準備を進めながら、それぞれの仕事にも精を出した。
相変わらずパールス教会には大勢が訪れていた。
オリビエの楽譜を出版したいと話を持ってくる出版社も現れたが、オリビエの即興演奏を正確に再現できる楽譜を書けるものがいなかった。ヨウ・フラは何とかできないかと様々な音楽家に当たってみたが、誰もが無理だと断る。商売敵の手助けをしようという奇特な作曲家はそうはいないのだ。ロスノは最初から無理だと笑っているし、これを機にオリビエを有名作曲家にのし上げようというヨウ・フラの思惑はかなわなかった。
しばらくは不満そうにしていたヨウ・フラも、オリビエが「アーティアなら楽譜に出来るかもしれない」と口にするとぴたりと諦めて、「まあ、オリビエの演奏は生で聞くのが一番だし、二度と聞けないってのが売りだからね、しょうがないよ」と呟いた。それをまた思いついて、新聞の広告に乗せるから、オペラも繁盛した。
宮廷歌劇場だけでなく、他の劇場からも声がかかったが、それにはレイナドが無理させてはいけないと慎重になり、結局のところ、オリビエはオルガニストの務めとバイエルヌのオペラ、それ以外はゆったりと居間で音楽を奏でるという生活を続けていた。

突然の訃報は、三月に入ったときだった。
オリビエに約束してくれたレオポルト二世は二月に入って臥せていたが、ついに三月一日帰らぬ人となった。
あまりにもあっけなく、葬儀に参列した時も、国中の教会の鐘が悲しく鳴らされたときも。オリビエは何を感じていいのか分からずにいた。
人は、こんな風に、いなくなってしまうものなのか。
冷たい風に前髪が巻き上げられ、オリビエは震えた。灰色の空に雪が舞い出し。見上げたオリビエは侯爵に頼まれたレクイエムのことを思い出した。

帰ってきて、くれますよね。



オリビエたちの願いも空しく。戦争は終わる気配もなく侯爵が戻ることもなかった。
開けられるのを待ちわびるクリスマスのプレゼントはすっかり季節はずれになり、夏の日差しの中、自室のベッドの脇に置いたままのそれを、そっとなでる。赤い紙で包まれたそれは、毎日埃を払われているためにかすかにすれてしまっている。
今度、包みなおしてもらおうか。
そんなことを考えながら、オリビエは今日も教会へと足を運ぶ。


午後にはエリーゼと供に旧市街のロスティアーノの屋敷を訪ねた。
春先に腰が悪化したロスティアーノは自分では歩くことが出来なくなっていた。こうして時折オリビエが訪れては、演奏を聞かせていた。
明日には新たなアウスタリア皇帝フランツ二世の即位式が行われる。オリビエは前皇帝の葬儀と同様に招待されていたが、今回ばかりはロスティアーノと一緒には行けない。
枕元に招待状を置いたまま、ロスノはオリビエの演奏を聴いていた。
何も言わず時折眼を閉じ。眠ってしまったのかとエリーゼが毛布を整えようとすれば、にかと笑って少女を驚かせた。
「きゃ」
「何を驚いておる?」
「もう、ロスじいったら!」

ふほほといつもの変な笑い声を出しながら、演奏を終えたオリビエを手招きする。
「相変わらず、いい音を出すの。……オリビエ、少し話があるんじゃ」
不意に気難しくなる表情にエリーゼは勘を働かせ、席を外す。
毛布の下から差し出されたロスノの手は、以前の頑丈なものとは違っていた。
今年八十歳になる。
冷えた手を握り返し、オリビエは床に膝をついた。
「随分、冷たいですよ」
「ふん、こうなるとな。鋼のような強張った指は、鍵盤も押さえられん。情けないものよの」
オリビエはその手を励ますかのようにさすった。
「のう、何とかしてやろうと思っていたのが。そうは行かなかったのう。リツァルト侯爵を呼び戻せるかと思えば、レオポルトはさっさとこの世から逃げ出しおって。せめて、すべきことをしてからにして欲しかったものじゃ」
今や、あの時の約束が果たされる前に皇帝レオポルト二世が病に倒れたことは明白だった。どうしようもなかったのだ。
「僕は、待ちます。きっと侯爵様はお元気で帰ってこられます」
かすかに、ロスノの目が赤くなった。
「ふん、まずはわしの話を聞け」
「はぁ」
「リツァルト侯爵から預かっておるものがある。そこの二段目に封書があるはずじゃ」
オリビエはかすかに軋むチェストの引き出しを開けた。中にはただ一枚の封書が入っているだけだった。荷物も何も片付けられている。
ロスノの覚悟を見るようでかすかに手が震える。

「ほら、早くせんか。いつまでもエリーゼを待たせるつもりか」
「あ、はい」慌てて戻り、封書をロスノに渡した。
真っ白な表を眺め、オリビエに突き出す。
赤い蝋の封印が侯爵家のものだとオリビエは分かっている。中にある何かは侯爵が残したものだ。
「お前に。リツァルトは迷っておった。わしはそうしたほうがいいと勧めたが、あの男はこれからの時代に貴族であることが幸せになることではないと。返って足かせになるのではないかと恐れた。だが。最後まで迷っていたのだろう、わしに預けた。後はオリビエ、お前のサインが書かれれば成立する」
「え?」
「古いものじゃ。今のクランフ王国で通用する書類かどうかは知らんが、まあ、証拠にはなるじゃろう。お前を引き取ったときからずっと。馬鹿じゃの。お前を養子にしようかとずっとな、迷っておったのじゃ。まったく、あれ程の男が優柔不断なことよ」
封筒を開けばかすかにアンナ夫人の香水を感じる。
そう、かつてエスファンテの侯爵家でいつも香っていた薔薇の香り。
アンナ夫人が侯爵に贈られたもので気に入っていた。
中には丁寧にたたまれた紙が入っていた。
懐かしいとすら思える。侯爵の字。強く、勢いのあるその文字でオリビエを養子として迎えると書かれている。
「もし、リツァルトが戻らなかった時、あの屋敷も侯爵の資産もすべてお前のものになる。お前が一生困らない程度には用意していると言っていた。受け取っておくべきじゃと、わしは思う」
「侯爵様は、戻られます」
「そうじゃ。そのとき、息子として迎えてやれと言っているんじゃ」
二人の気持ちが胸に迫り、オリビエは何度も瞬きした。手紙に落とした視線を上げられずただ、「はい」と。オリビエは小さく頷いた。

次へ♪

『音の向こうの空』第二十四話⑥

第二十四話:待ち、願う



オリビエの祖国、クランフ王国は戦争の渦中にあった。右も左も前方も敵に囲まれていた。後退は出来ない、それが新しい民主主義への一歩だったからだ。
アウスタリア帝国は周辺の領邦、サヴォワもプロシアも力を合わせクランフ王国の王政を護ろうとしていた。人民が共和制を敷き自ら政治を行う、それは専制君主制あるいは啓蒙君主制を維持してきたそれらの国々にとって脅威だった。
すでに、国境の都市は市民からクランフの共和主義に歩み寄りを見せ、王政の支配から逃れようとしていた。
この年の八月、ついにクランフ王国の王家は国民議会によって幽閉された。
各地での戦闘は激しさを増していた。
十月。ライン戦線からのアウスタリア軍撤退の報が入ると、オリビエは待ちきれず、ヨウ・フラと供にミュニックまで迎えに出た。


郊外の丘にそれでも軍隊の様相をして、アウスタリア軍は戻ってきた。
並ぶ馬と人は、列を成してはいるものの整然とはほど遠く、誰もが疲れ果て、やつれていた。
そんな中、馬車の姿を認め、オリビエは駆け寄った。その脇に立つ馬にはジーストが乗っていたからだ。
「ジーストさん、侯爵様は」
大柄な男は馬上からちらとオリビエを眺め。ああ、という顔をした。
「亡命貴族どもは」
引き締まるオリビエの表情に苦い笑みを浮かべ、男は続けた。
「まあ、彼らのおかげでわれらは逃げ延びた、といえるだろうな」
「それは、どういうことですか!」
進み続ける馬の脇でオリビエとヨウ・フラは食い下がる。
馬が煩そうに尾を振っているが、気にするはずもない。
「私から説明しよう。我が宮殿に来なさい。アマーリアも喜ぶ」
馬車からのぞいていたマクシミリアンが声をかけた。
オリビエたちは顔を見合わせ、とにかく自分たちの馬車に戻った。



「オリビエ!」
駆け寄る少女はまた一段と女性らしさを増し、オリビエの腰にしっかりしがみついた。
「アマーリア、お父様にまずご挨拶でしょう?」と母親にたしなめられ、慌てて少女は顔を上げる。
「オリビエ、後で、ね」とウインクを残してマクシミリアン候に駆け寄っていく。
「なんか、久しぶりに見たけど相変わらずだな」との感想はヨウ・フラだ。
黙って肩をすくめるリエンコに背後を護られながら、オリビエは視線を合わせた夫人にお久しぶりですと挨拶する。
主の帰還に宮殿内は沸き立っていた。
オリビエたちは客人としてもてなされてはいたが、広間で行われた晩餐会に参加する気分でもなく、与えられた部屋で三人はじっとしていた。
「ね、ほら」と、ノックと供に扉が開かれ、アマーリアが顔を出した。
「あのね、お父様がオリビエの演奏を聞きたいのですって」
室内の湿った空気など気にすることもなく、太陽のような少女は笑ってオリビエの手を取り引こうとする。
それを握り返し、オリビエは穏やかに笑った。
「アマーリア。僕は、大切な人を待っているんだ。今は楽しい音楽なんか、弾けそうもない。だからお断りして欲しいな」
「?」
「いいから、出て行けよ!」と。声を大きくしたのはヨウ・フラだった。
誰かに怒鳴られた経験などないのだろう、アマーリアは凍りついたようになり、オリビエに助けての視線を送る。オリビエは首を横に振った。

「もう、もう!意地悪!」と。叫びながら部屋を飛び出していった。
「ったく。何考えてるんだか」
手をつけられることなく並べられたままの食事を見て、ヨウ・フラはため息をつく。
「食事を、しましょう。オリビエ様」
リエンコが二人のグラスに水を注いだ。
オリビエはグラスを受け取ったものの、膝に置いた手で玩ぶだけで、それ以上は何もしないつもりらしかった。
ヨウ・フラは水を飲み。それから、忌々しそうに肉にフォークを突き立てた。
ちぎったパンをリエンコがオリビエに示して見せるが、オリビエは首を横に振った。

戻ってきた軍隊の中に、亡命貴族は一人もいなかった。
この屋敷の入り口で、中庭で。ずっと立ち尽くして待っていたが、待ち望んだ姿は見つけ出せなかった。
考えたくないことばかりが頭の中を渦巻き、それはいつでもあふれ出しそうになっていた。ヨウ・フラが先に怒鳴ったから押さえ込んだが、そうでなければ怒鳴りつけたのはオリビエだったかもしれない。

静かな食事が、食べているのはヨウ・フラだけだったが、終わろうとしている頃。ノックと供に扉が開かれた。
ジーストを従えたマクシミリアン。
オリビエは立ち上がっていた。

「待たせましたね。まあ、座りなさい」
オリビエは再び腰を下ろし、あいていた一人用の椅子に腰掛ける男を睨み付けていた。

「説明しようか」
「お願いします」
「我らが戦線を張っていたルールズの街の市役所が襲われたのが始まりでした。二ヶ月前には北部の勝利を受け、士気の上がっていた我が軍は優勢でした。しかし、敵は内部にいました。市役所を襲ったのは農民たち。敵軍の共和政府に呼応して自分たちも自由をと、蜂起したのです。挟撃を受ける形となった我らは善戦しましたが、長く続く戦争に疲労は隠せない。先に逃げ出したのは他でもない、ルールズの衛兵たちです。市長と指揮官が殺されるとかの領邦の兵は散り散りになりました。残された我が軍は孤立し、何とか退路を保とうと戦っていました。その内、侵攻して来たクランフ軍は、亡命貴族を標的にし始めたのです。彼らは亡命貴族、彼らの中の裏切り者をまず倒そうとしました。我らはその隙に乗じて退却してきたのです」
「侯爵様は!?」
ヨウ・フラが声を発した。
「おそらく、捕らえられファリに連れて行かれるでしょう」

音は悲鳴に似ていた。
オリビエの足元に硝子が散った。
「オリビエ様」リエンコが肩に手を置いた。オリビエはそこにないグラスを持っているかのようにじっとしたまま微動だにしない。
「ファリでは、連日のように反革命派の人間を裁判にかけていると聞く」
「たすけ、だせないのですか」
誰もオリビエの言葉に返事をしない。
顔を上げ、マクシミリアン、ジースト、ヨウ・フラを順に見つめたが、だれもが視線をそらした。
「僕は、クランフ王国に帰ります!侯爵様を助けに行きます」
立ち上がったオリビエはすぐにリエンコの手で引きとめられる。
「放せよ!侯爵様の居場所が分かったんだ!助けに行く、だから、でなきゃ」
裁判が行われれば、死刑。
「放せ、リエンコ!」
叫んでも。オリビエは身動きできず、リエンコは必死で押さえつける。蹴っても、暴れても、終いには額を胸にぶつけても。押さえつける手が緩むことはなかった。
暴れ疲れ、オリビエはぐったりと座り込んだ。

「とにかく、好きなだけ滞在を許可します。どうするかはお前たちの自由です。クランフ王国の共和主義者どもは気がふれているとしか思えません、あの歌声。今思い出してもぞっとする」
マクシミリアンが疲れた顔をし、ジーストをつれて出て行った。

残された三人は言葉もなく。
しばらくして、リエンコが「オリビエ様、怪我してます」と。大人しくなったオリビエを座らせるとガラスの破片で切った膝に止血の布を巻いた。

次回、第二十五話:「祖国へ」は3月16日公開予定♪がんばれるかな~?(忙しい時期なので少し不安)

これが公開される頃は、ファミリーバドミントンの大会のために京都へ。
(大会自体は滋賀県ですけど、宿泊を京都にしました~)なので予約して自動公開します♪
久しぶりの京都なのに…一緒に行く仲間は体育会系~寺?仏像?別にどこにも行きたくない…って。
もったいなぁぁああいい!!シーズンオフとはいえ京都ですよ?京都!!
半日の観光、私が仕切って見せます!!なんて、まだ、これから計画するのだけど。間に合うか。
大会の結果と旅行の様子はいずれ、日記に…。


「音の向こうの空」第二十五話 ①

第二十五話:祖国へ



「お前さぁ、ほら。しゃんとしろ!」
と、笑いながら送り出してくれたのはアントニオだ。
レイナドは真新しい手袋をオリビエに握らせ、まだ国境付近の山中には雪が残っているからと、旅の無事を祈ってくれた。
最後まで反対していたヨウ・フラは、苦い顔をしたまま、それでも「絶対に、帰ってきなよ、待ってるんだからさ、皆。ロスじいだってオリビエが戻るまで安心して旅立てないだろ」と背中をたたき、珍しく涙ぐんでいた。
ミュニックに戻ってきていたバイエルヌの劇団員たちに別れを告げ、オリビエとリエンコは国境を目指して旅立った。

ヨウ・フラは事の次第を皆に伝えるため、オリビエの代わりに屋敷を護っていくためにヴィエンヌへと引き返す。
仕事もある上に、エリーゼに心配をかけることも出来ないだろうと、リエンコに冷静に言われ、ヨウ・フラは頷いたのだ。


二人は馬に乗り、旅の商人のようななりで国境を越えることにしていた。オリビエの素性が知られれば生きて帰ることはできない。

ミュニックから半日。スタルガルトの街を見下ろす丘の上まで来るとリエンコは馬を止めた。背中越しに絨毯のように見えるブドウ畑は既に山の陰に沈んでいる。遠く大聖堂の二つの塔だけが夕日に白く輝く。
まだ青さを残す空をオリビエが見上げ、鳥の姿を認めて眺めていると不意に前に乗るリエンコが馬を下りた。
「わ?」
落ちかけて、慌てて鞍にしがみついたオリビエは一人馬上に残され困り顔でリエンコの背中を見つめる。
リエンコは畑から桶を両手に持って出てきた男に声をかけている。
男はちらりとオリビエを見つめ、それから頷いた。
二人の会話を知りたいと何とか一人で降りてみようともぞもぞすれば、白馬は迷惑そうに鼻を鳴らし、ちらりと目だけでオリビエを睨む。
「…」以前降り方が分からなくて落馬した。
エスファンテで一人侯爵家に逃げ帰ったときだ。あの時は確かタテガミをロープ代わりにしようとして、振り落とされた。リエンコが降りたときの様子を思い出し、鐙(あぶみ)を使えばいいんだ、とゆらゆら揺れるそれにつま先を伸ばして探る。馬の腹の影になってうまく見えない。カチャと音を立てるがどうしてもこれ、といった感触に当たらない。オリビエは気付いていないが、それはリエンコの身長にあわせられている。オリビエが届くはずはなかった。

「これ、かな」
「オリビエ様」
「わ!」

結局、落ちかけたところをリエンコが支える。
「降りるなら言ってください」
「だけど」一人で降りるくらいできる。……と思う。
「危ないです」
ふう、と鼻息で苛立ちを吐き出し。オリビエは、結局自分が馬に乗れないのがいけないんだと思い直す。
僕は無力で、護られてばかりだ。
こうしてリエンコがいてくれなければ、一人で祖国に向かうことすら出来ない。
「この近くの農民です。一晩泊めてもらいます。……オリビエ様?」
「なんでもないよ。ありがとう」
リエンコは小さくため息をついた。


木造の小さな家は白い漆喰とレンガで出来ていて、実のところオリビエは初めてそういう家に入った。自分の生家も侯爵家も石積みで作られていたし、旅の途中で泊まった所も寺院だったり、古い城砦だったりと普通の人が普通に生活している場所というのは初めてだ。物珍しさに見回していると、
「なんです、なんか変ですか」
深いしわの刻まれた顔を曇らせて家の主人が首をかしげた。
民家が珍しい、とは商人にはあるまじき感想だ。
「あ、いいえ、違います。なんだかワインの匂いが染み付いている気がして」とオリビエがごまかせば、リエンコは「この人はワインが大好きです、すみません」と笑った。
「変なお人だね、まあ、どうぞ。二階は部屋が空いているからね、好きに使ってくれ」
白いものの混じる髪を小さく束ねた男は水の張られた桶で顔を洗い、無造作にタオルで拭った。
「あら、まあ、お客さんかい」と女将さんが顔を出し、ふくよかな手でオリビエとリエンコの肩を叩いた。
「よろしくお願いします」とオリビエがぺこりと頭を下げると女将さんは嬉しそうに笑い、さあさあ、と椅子を勧める。
家の主人はすでに飲みかけのビンのコルクを抜きコップにワインを注いでいる。
不機嫌そうだ。
「僕何か、悪いことしたかな」
オリビエのひそひそ声にリエンコは肩を小さくすくめて見せる。
「あの人はいつもああですよ、さ、あんたたちも座って。今、スープが出来上がったところですよ」
主人とは正反対ににこやかな女将さんは強引に二人を座らせると手馴れた素早さでスープ皿を並べていく。
灯されたランプにスープの湯気が透かされ美しい。柔らかなジャガイモの香りを運んでくる。オリビエは祖国のポテという煮込み料理を思い出し、塩豚と白いんげんの滋味に愛しさすら感じる。
「美味しいです。すみません、突然お世話になってしまって」
オリビエは主人を見つめるが、主人はワインを片手に干したソーセージにかぶりついている。
「いいんですよ、丁度ね、淋しかったところで」答えるのは女将さんだけだ。
「余計なこというな」
「だってあんた」
「この人たちはクランフ王国の商人だ。これからあっちに行くんだそうだ」
女将さんが黙った。
歓迎されていない雰囲気にオリビエは二人と隣のリエンコを見つめる。リエンコは黙ってスープを口に運ぶ。
なんだろう。
「北部じゃあ、クランフ王国の軍勢が占領してるって話だ。あれは、本当かい」
リエンコは顔を上げると、「はい。ルールズの街を拠点にして、東へと進軍する勢いだそうです」穏やかに笑った。
内容にそぐわない態度にオリビエはなぜか不安を覚える。
主人は深いため息をつき、「じゃあ、クランフ王国の奴らは農民を解放してくれるって言うのも、本当かい?」
と。その言葉に女将さんもスプーンを運ぶ手を止めた。
オリビエもリエンコを見つめる。
三人に見つめられてもリエンコは先ほどと同じ、穏やかな笑みで「はい」と答える。

これだけの広さの葡萄畑はこの地の領主のものだ。それを借りて耕し、ワインを作り納めて生活している主人にとって、農民解放は嬉しいことなのだろうか、それとも不安なことなのだろうか。
「畑は、どうなる」
呟く主人に、リエンコは「分かりません」と。あっけらかんと返事をする。
オリビエは視線をスープにそらした。

「息子は啓蒙思想だとか、そんなのに夢中になっている。わしらは伯爵様のブドウ畑を任せられている。うまい葡萄からいいワインが出来る、それで十分なんだ。わしら農民が自由になんかなる必要はない」
「息子さんは、どこに?」オリビエの問いに主人は目をそらしグラスを傾ける。たまりかねたように女将さんが片付けていた手を休めてオリビエの脇に立った。
「息子はね、クランフ王国で起こっている革命に憧れましてね。人民のためだとか何とかいって、出て行ってしまったんです。どこに行ったのか分かりませんがね。手紙が届いた時にはファリにいるって言っていましたけど。わたしらはここで、領主さんに任されたブドウ畑を守っています。そりゃ、収穫のほとんどは納めなきゃならないですが、あんまりよくない木の葡萄はうちでワインにしてましてね。それを売って生活しています。この人と喧嘩して飛び出していったとき、息子はこんなカスしかもらえない生活をいつまで続けるんだと、ここにワインのビンを叩きつけましてね」
と、レンガの足元を指差した。
オリビエはリエンコを見た。
ワインの香りがする、といったのは間違いではなかった。
息子に帰ってきて欲しいのだろう。テーブルに置かれたワインのコップは一つ余分に置かれている。オリビエはそれに手を伸ばした。
目を見張る二人にかまわずオリビエは笑った。
「僕にもそのワイン、いただけませんか」
しばらく黙ってオリビエを見つめていた主人はふん、とビンを差し出した。
「丁度、あんたくらいの年なんだ。息子はね」
「そうですか。僕も大切な人を探しにファリに向かうんです。お気持ちは分かります」
口にしてしまってから、リエンコがかすかに咳払いしたことに気付く。
ああ、そうか。商人だと偽っているんだった。
「あ、このワイン、美味しい!」
オリビエの声は必要以上に大きく、それには女将さんが笑った。
「北側の斜面にある、あんまりよくない畑の葡萄で作ったんですよ」
「でも美味しいです」オリビエが言い張るので、夫婦は顔を見合わせ笑った。
「もう一杯ください」
「オリビエ様」
リエンコの情けなさそうな表情に気付かず、オリビエは上機嫌でワインを飲み干した。
二人きりの家が淋しかったのだろう、農民の夫婦は二人に自家製のチーズや酢漬けを出してくれ、オリビエもリエンコも腹をいっぱいにして与えられた部屋に入った。
狭い部屋だったが、こぎれいに片付けられている。
うん、とベッドに横たわって伸びをするオリビエは少々酔ったようだ。
「オリビエ様、飲みすぎです」
「ん、ホントに美味しいワインだった。リエンコ、ごまかしてああいったんじゃないんだ。本当に、侯爵家でも高いワインや貴重なワインを飲んできたけど、負けないくらい美味しい。実のなりの悪い木からの葡萄で作ってあるとか言ってたのに。信じられないな」
横になったまま敷き藁の静かな音に身を任せ、オリビエは気持ちよさそうに頬を毛布に擦り付けた。藁のベッドは好きだ。
「よかったです」リエンコがオリビエの靴を脱がそうとかがみこむ。
「え?」
「心から、嬉しそうです。ずっと沈んでおられたから」

靴を脱がし並べ終えるまで、黙ってリエンコを見つめていたオリビエは呟いた。
「リエンコ。僕に、馬の乗り方を教えてほしい」
「え?」
「まるで侯爵様が僕に教えなかったみたいに想われているけど。本当は僕が嫌がったんだ。それも、僕の責任だ。今も乗れないことでリエンコに迷惑をかけてる。だから教えてほしい」
「どうして、嫌がったのですか」
リエンコが傍らに座れば藁は小さく音を出し揺れた。
「僕が侯爵家に来て一年経つかどうかの頃だった」
オリビエはごろと寝転んで天井を向き話し始めた。


次へ

「音の向こうの空」第二十五話②

第二十五話:祖国へ



「オリビエ。この見渡せるすべてが。わしの土地。わしが治めるエスファンテだ」
そんな風に、初めて北の牧場へ連れてきてくれたとき侯爵様が僕に言った。美しいエスファンテの全貌を眺め、僕は深呼吸する。

1785年。十四歳の誕生日を迎えたばかりだ。
牧場での避暑。侯爵は夫人と遠乗りに出かけた。オリビエは一人、山羊の子を見たり散歩したりして過ごしていた。
甘い、と感じるほど草原を抜ける風は柔らかい。背を、肩を、頬をくすぐる牧草にオリビエは身を任せていた。
夏の空は遠く高く。蒼い天がどこまで続くのかと思わせた。

「オリビエ様、危ないですよ、そんなところに寝転がってたら、馬に蹴られますよ」
声をかけたのはこの牧場の管理人ジット。
日差しを避けるつばの広い帽子を被り、オリビエを覗き込んで笑った。
「だって、気持ちいいんだ」
起き上がったオリビエに、ジットは傍らに立つ相棒を紹介した。
「去年生まれた馬です。まだ若いですがね。大人しいいい馬ですよ」
栗毛の馬はくるりと黒い目をオリビエにむけ、鼻を膨らめる。
艶やかな筋肉、美しい毛並みにオリビエは目を輝かせた。
「綺麗だね。触って、いいかな」
「どうぞ、ほら、怖がってると馬も分かりますよ。こうしてさすってやると気持ちいいんですよ」
ジットの手付きを真似て、オリビエもそっと手を伸ばす。見上げるようにして馬の首をそっとなでてやる。
ぶうと何か呟いて馬が首をかしげ、オリビエは慌てて手を引っ込めた。

「あはは!オリビエ様ったら、怖いんだ」
笑ったのはジットの背後からのぞく少女。
オリビエと同じ歳だ。昨日紹介されたときからオリビエは気になっていた。
「これ、サント」ジットが顔をしかめても、少女は日に焼けた頬を緩ませ笑った。
くるりと瞬く大きな瞳は東の民族の血が入っているのか、濃いまつげに縁取られどうしてもそこに目が行ってしまう。
「お屋敷でチェンバロばっかり弾いているからだよ」
む、とする。
「仕事だからだよ、それに怖くなんかないよ」
それが多少の無理を隠しているのを悟ったのか、サントはふうんと意地悪に笑う。
「乗れるの?」
「え?」
「馬に乗れるの?その歳で乗れないなんて恥ずかしいよ」
「!そ、それは、その」
初めて触れる、というのが実のところ。
馬車や侯爵の馬に近寄ったことはあっても、触るのは少し怖かった。街にいる馬たちは臭い匂いがしていたし、近寄ると尿をかけられるんだと乗合馬車の御者に脅されたこともある。
「オリビエ様はお前とは違うんだ。侯爵様に教えるよう言われている。馬は初めてですか」
「あ、うん」ジットに救われた。背後でけたけた笑うサントはこの際無視だ。
「乗ってみますか」
「だめだよ、怖がってるもん、オリビエ様は」
「そんなことないって、乗れる!」
勢いで言い張る少年に馬はもっとなでろと鼻面を突きつける。ぐん、と背中を押されよろめいた。
「わ、なに?」
「気に入られたんですよ」
馬は長い睫の下の瞳でオリビエを見ている。可愛い、そう思えた。
「乗っても、いいかな」
「まだ、あまり人を乗せた経験はないですが……」
「大丈夫だよ」オリビエは視界の隅にサントを見ながら、胸をそらせて見せた。
「じゃあ、少しだけですよ」
ニコニコと笑うジットは日に焼けた腕を差し出し、オリビエはそれに引かれるまま腰を支えられ馬にまたがる。鐙は思った以上に不安定で、傾いたブランコのようにぎこちない。
日差しを受けて温かいたてがみと鞍にすがり付いた。まだ若い馬の背はジットの首くらいで、本当の乗馬ならもっと高い位置から見下ろすんだろうけれど。身長の低いオリビエには十分過ぎるほど高い。草原の景色は、上から見てもあまり変らないが大柄なジットの顔が下に見えるのはどうにも不安だ。
「た、高いね」
足元の踏ん張りが利かず、つるつるすべる気がする馬の背は、動きに合わせて揺れる。しっかりとつながれているはずの鞍も心もとない。

「大丈夫ですよ、肩の力を抜いて。姿勢をしゃんとして。ああ、鞭を持ってきますよ。おい、サント、ここに。手綱を持っていてくれ」
声をかけられた少女は、牧羊犬と供に走りより「ふふ」と笑う。空を映して見上げるそれにオリビエは頬が熱くなる。
「走らせたらダメだぞ、サント」
「分かってるって」
ジットは馬小屋のほうへと歩いていく。
内心、足の下でもぞもぞと動く馬にどきどきしながら、オリビエは鞍にしがみついていた。
ふと、少女と目が会う。
可愛らしいくるくるとした黒い髪は肩までで、風になびく。白いワンピースは山の気候には寒そうな服だ。そこから出たすんなりした手足、日に焼けた胸元。風に揺れるたび、予想以上の丸みを帯びた胸元が見えてしまいそうで、オリビエはもじもじと自分の手を見つめていた。
「歩かせてみようか?」と、小悪魔は手に持った手綱をゆらゆらと揺らして見せた。
「え、そ、それは」
「冗談よ、無理だもんね、初めてじゃあ」
「無理なんかじゃないよ」
「無理よ」
「そんなことない。こうして、脚でさ」
オリビエは記憶にある侯爵の乗馬姿を思い出し、脚をとんと馬の腹に当てた。
馬はぶ、と鼻を鳴らして、ちらとオリビエのほうを目だけで追う。
「あれ」
「ばかだぁ」
サントに笑われれば、ますます何とかしたくなる。
「でもさ」
と、もう一度さっきより強く蹴ってみる。馬の足元を歩き回っていた牧羊犬と目があった。白と黒のそれは嬉しそうにわん、と吼えた。

「!?」
馬が動いた。
前足を浮かせたかと思うと、肢体をよじるようにしてひとつ鳴くと、サントを引きずり軽く走り出す。
「きゃ!」
「危ない!!サント、手を離すんだ!」
自分も必死にしがみつきながら、オリビエは何とか手綱を引き締め、馬を引きとめようとする少女に叫んだ。すでにサントは引きずられ、その力がかなうとも思えなかった。
このままサントが体勢を崩せば、馬に蹴られて大怪我をする。
オリビエは手を伸ばし、サントのつかむ手綱を握ると「危ない、手を離して!」
少女の手を引き剥がそうとした。
「あぶ…ない!だめ」少女は必死に手綱を握り締めている。
「放して、危ないよ!サント!」
遠くでジットのどなり声が響いた時、サントは小さな手を緩めた。
と、その瞬間。

視界が回った。

草の匂い。
肩をゆする、ジット。
何もかもが太陽の眩しい光に照らされてオリビエは目を開けていられなかった。

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「音の向こうの空」第二十五話③

第二十五話:祖国へ



ベッドで目覚めた時に、アンナ夫人が心配そうに覗き込み、リツァルト侯爵は気難しい顔で睨んでいた。
だから、自分が失敗して迷惑をかけたのだと知った。
「すみません」

オリビエの第一声に、侯爵は顔をゆがめた。
怒らせたのか。
「足でよかった」
足?

言われて初めて、右足に感覚がないことに気付いた。
裸足のそこは柔らかな枕に乗せられ、不思議な形に晴れ上がっていた。
「あ、……」
「ここにはまともな医者がいない。屋敷に戻るぞ」
まだ、牧場に来て数日。予定よりずっと早い。
「あの、でも」
僕のせいで、ご迷惑はかけられません。
言いかけた言葉は侯爵の視線の厳しさに、飲み込んだ。
ただ、黙って従うのが一番だ。



侯爵家に戻るまで、ジットの姿も、サントの様子も分からず、オリビエは痛みの増した足首と全身のけだるさに大人しくしているしかなかった。
侯爵家お抱えの医師が診てくれ骨折ではないと分かったが、それでもひどい捻挫と落馬したときの打撲とであちこちが痛んだ。
やっと、歩き始めた四日目に、モスが器用に杖を作ってくれた。
「これなら、オリビエ様に丁度いいです」
「ありがとう!ねえ、モス。サントは大丈夫だったの?ジットは?僕、迷惑をかけたのに、何も言えずに戻ってきちゃった」
モスは困った顔をした。


翌年、牧場に避暑に行ったときには、ジットの姿がなかった。
オリビエが乗ろうとしたあの若い馬の姿もない。
少し背が伸び、ますます大人っぽくなった少女は、オリビエを見かけると逃げるようにして姿を隠した。
追いかけて手を取れば、
「オリビエ様のせいなんだ。あの時、ジットさんはすごく侯爵様に謝ったのに。追い出されたんだ!馬だって、いつの間にか処分されていたんだから!」
サントはオリビエに怒鳴った。

そうして初めて、僕は自分と彼らの立場の違いに気付いた。同じ雇われるもの同志だと思っていた。けれど違う。僕が怪我をしたために、誰かが責任を取らされた。

かすかな牧草の甘い匂いを残して、サントは二度と振り返らない。
いつかジットさんが教えてくれた、白い小さな花が少女の立っていた場所に揺れていた。


山小屋の食堂には、羊肉のいい匂いがしていた。
「あの、侯爵様、ジットさんはどこかに行かれたんですか」
侯爵の手が止まった。
「あの、解雇されたんですか?……僕のせいで?」
「……お前には関係のないことだ。それより、少しは上達したのか?馬に乗れないなど、情けない」
「僕は、馬には乗りません…」
侯爵がかすかに眉をしかめた。

「あの、やっぱり苦手ですし、怖いから。怪我をしてもいけないし。なので、僕は、馬には乗りません」精一杯の反抗の印。自分が悪いのだと思う、だけどジットさんを追い出すことはない。
「ふん」
リツァルト侯爵がどう思ったのかは分からなかった。ただ、いつもの無表情なままで、ちぎったパンをスープに浸した。
「なあに?オリビエ、いつもの元気がないわね」
夫人が笑い、その頭に小さな白い花が揺れている。
きっと、サントの髪にも似合う。


翌朝、オリビエはまだしっとりと朝露にぬれる白い花を探しては、摘み取った。いくつかを束にして縛れば、可愛らしい花束になった。
妖精の名を持つ花。

それを抱えて、オリビエは使用人たちの住む小屋へと向かった。
少女は抱えていた飼葉桶をどんと置いた。
「あの、おはよう」
少女は無言でぎゅと唇をかみ締める。それは、拒絶なのか。

「こ、これ、君に似合うと思ったから」と、オリビエの差し出すそれ。小さな白い花が日差しに眩しく。首をかしげて少し恥ずかしそうに笑う少年も亜麻色の髪が花と同じ色の頬をなでる。
「白くて、細い手。綺麗な指ね」
「え?」
「違うでしょ?ほら。この手を見ればさ、分かるじゃない。あたしとあんたは違うの。あんたは貴族様だからね。あんたに近づいたらあたしも首になっちゃうかもしれないじゃない。もう、かまわないでくれる?」
「サント……」
肩をすくめるだけで、サントは実を翻す。あの時。そこに、楽器があったなら、僕はどんな曲を奏でたのだろう。ただ、足元に落ちる白い花のかすかな悲鳴に似た音だけが耳に届く。
あれ以来、北の牧場には行っていない。馬には決して乗ろうとしなかった。侯爵様はそれをどう取ったのか。何も言わなかった。

僕が真実を知ったのは、それから二年ほど経てからだ。
牧場を管理していたジットは生まれた仔馬を横流ししていた。あの馬も密かに売られていた。それを知った侯爵様はジットを解雇した。僕が怪我をしたからではなかった。サントはジットを父親代わりに育っていたから、事情を知らされていなかったんだ。

「ほんと、あの男には騙されたわ。我が家の牧場の馬を勝手に処分して。どうしたの?オリビエ」
「僕は、勘違いしていました」
真実を語ったアンナ夫人は「変な子ね、なんだと思ったの?」と僕の思い違いを聞くと呆れて笑った。馬鹿な子ね、と。
僕のあれはあてつけだった。侯爵様に対する、身勝手な幼い行動だったんだ。それに気付いても、今更。僕は侯爵様に何を言えるでもなかった。

語り終えるとオリビエは一つ息を吐き出す。
「だから、僕は今も馬に乗れないし、乗ろうとしてこなかった」
「オリビエ様、近くに礼拝堂があるそうです。オルガンが、あります」
リエンコはオリビエの指先を見ていた。いつの間にか指は何かを奏でている。
「明日、馬の練習をしながら行きましょう。昼過ぎにここを出ても陽がくれるまでには国境へ着きます」
「ありがとう。なんだかね。この家のご主人を見ていて、侯爵様を思い出したんだ」
息子を心配し、怒りながらも寂しさを漂わせる。
父親というものはそういうものなのかもしれない。僕にいつか、子どもができたらわかるんだろうか。
「あ、リエンコは、結婚はしてないの?」
子供はいるかな?いないかな。
「……」
黙り込んだリエンコにオリビエはまずいことを聞いたのだと悟る。
「ええと、ごめん」
「謝られても困ります。私は今に満足です」
「…ごめん」
ヨウ・フラなら知っているかもしれない。
戻ったら聞いてみよう。
そんなことを考えながらオリビエは横になって眼を閉じる。かすかに香る藁はオリビエを優しい気持ちにする。まるで鳥の巣だと喜んだときと同様、飛び立った後も羽を休めるにはちょうどよいのかもしれない。

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「音の向こうの空」第二十五話④

第二十五話:祖国へ



「旅の方が、珍しいことですね」と、司祭は笑った。
翌日リエンコが案内した礼拝堂は村の外れにあったが、そばに広場と泉があるために今も子供たちの駆け回る声が聞こえていた。

オリビエがよろよろとぎこちなく椅子に座る。
「この時間は誰も来ませんので、自由に弾いてくださってかまいませんが。大丈夫ですか?」
「馬に揺られるのが、慣れなくて。自分の足じゃないような気がする」
初めて触れるオルガンは幼い頃から親しんだかのように指が走る。痺れているはずの足も巧みに足元のペダルを踏んだ。
小さなオルガン。礼拝堂の中に響かせるのが精一杯のそれから、オリビエはなんとも甘い音を引き出す。葡萄の産地だけあって窓には葡萄のたわわな実が描かれ、深い赤紫が昨夜のワインを思い出させた。
ここしばらく、侯爵のことを思えば同じフレーズが浮かんでくる。自然奏でるそれは、オリビエの悲しみを表現する。ヨウ・フラが悲しい曲ばかり弾いているといったそれだ。
オリビエの中で侯爵のレクイエムにするならば、これだろうとかすかに思いはあるが。まだ、カタチにする気にはなれない。侯爵様は、きっと、きっと大丈夫。
思えばますます熱がこもり。
あの夏の牧場での苦い思い出もよみがえる。

「オリビエ様」小さなリエンコの声に我に返り、手を止める。
いつの間にか集まった子どもたちや村人の拍手を受け、慌てて立ち上がると礼をする。
「いやぁ、すごいですね」
「きれいだった」と子どもがすがりついた。

綺麗。
悲しい曲も想いも、未来ある子どもにはそう見える。
オリビエはかすかに救われた気持ちになって子どもの頭をなでた。
「オリビエ様、そろそろ発ちましょう」国境へ、とリエンコの厳しい表情は語る。
オリビエは静かに頷いた。



スタルガルトを過ぎるとそこは辺境の地。急な斜面を登り続ける馬は息を切らせ、リエンコは途中から歩くことにした。オリビエだけを馬に乗せ、自分は馬を引こうというのだ。それにはオリビエが反発し、「僕も歩くよ」と危なげながらも一人で降りる。
「では、あの峠までです」
リエンコは山道など歩いたことのないオリビエが、ぎりぎり歩けるだろう目標を指差して見せる。が、示された当人は足元の小さな草花や木々の向こうで葉を揺らす生き物に気をとられている。
「甘い匂いがする」
と、引き寄せられるように林に踏み入ろうとするから、リエンコは片手に馬の手綱、片手にオリビエという風体になる。
「オリビエ様。その花は茎にトゲがあって手を痺れさせます。ダメです」
「そうか。綺麗なのに」
まだ、そちらに気をとられて、ともすれば林の方へと近寄る。その足元を小さな蛇が走った。
「わ~」
情けない悲鳴らしきを上げた青年に、リエンコは「オリビエ様、面倒です。馬に乗ってください」と睨みつける。
「手綱を二つも持つのは大変です」
両手がふさがれての山歩きは大変なのだ。
「今の、蛇?だよね?」
「馬に乗ってください」
「すごいな、綺麗な模様だった」
「オリビエ様。侯爵様を助けに行くのではないですか?」
「……分かったよ」

促されてオリビエはまた馬上の人となる。
本当のことを言えば、なれない乗馬で尻が痛むから、歩きたかったのだ。
ふざけていたわけではないけれど、山の風景がものめずらしいのは仕方なかった。

馬に揺られ、ただ、前方の祖国を見つめているのは息苦しくさせた。
山々の向こう、川を隔て丘を越えたあの先にはエスファンテ。懐かしいと同時に不安がのしかかる。予定ではエスファンテで出来るだけ装備を整え、ファリに向かう。状況は分からないが、侯爵様が捕らえられているのはおそらくバスティーユ監獄。ヨウ・フラに聞いて描いた構造図はリエンコが持っている。
説得して助けてくれる政府ではないだろう。決められた期限までに帰国しない亡命貴族は死刑だと、そういう法律が制定されたという。そんな期限など一年以上前に過ぎている上に、リツァルト侯爵は戦場で敵として共和政府に歯向かったのだ。
裁判が行われていないことを祈るしかない。そうして、助け出す。
無謀なことだと分かっている。
ヨウ・フラだけがそれを口にし、反対した。

空気がさらに冷たくなって、空に黄色みが差す。アルフの山々が白く恐ろしいほどせり立って見える。かすかに山頂がかすむのは、強い風が雪を舞い上げているからだろう。
つんと鼻を刺す冷気に思わず顔を押さえ。黙り込んでいるオリビエを励ますようにリエンコが手を取った。
「リエンコ、ありがとう」ついてきてくれて。
「……オリビエ様、国境です」

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「音の向こうの空」第二十五話⑤

第二十五話:祖国へ



リエンコの見つめるそれは、以前とは違った。

川にかかる橋はそのままだが、川岸に沿って城壁に似た壁と見張り台。その周囲には馬やテントが見える。少し見下ろす位置のそこからはっきりと、サーベルを携えた衛兵たちの姿が見えた。壁に作られた木の門は兵士が護る。焚かれた松明は夕暮れに周囲の森を黒々と際立たせた。

「オリビエ様、どうしますか」
「……あれは、この辺境の軍かな?だったら、この辺境領のバーゼル伯爵は侯爵様と懇意になさっていたはずなんだ。説明すれば通してくれると思う」
風が変わった。頬に触れたそれと同時に、なにか。音を感じる。
オリビエが「あれ…」と声を上げ、リエンコはナイフを構える。
二人が聞き取った方角から、木々を掻き分ける音。踏みしめ鳴る枝、サーベルの鞘の音。あっという間に、十数名の男たちに囲まれていた。

「お前たちはなんだ」と男たちの代表らしい、一つだけ羽飾りのついた甲冑を身につける男が呻くように尋ねた。
聞きたいのはこちらだが。

オリビエは「あの」といいかけ、リエンコが「商人です」と応える。
「商人?」
明らかに顔を緩ませた髭面の男が先ほどの男の背後から一歩前にふみだした。馬がかすかに緊張し、鼻を鳴らす。
オリビエは慌てて手綱を掴みなおす。
「どこが商人だ?荷の一つもないのか?」
「食糧でも持ってるなら出してもらおうか」
「ああ、それともこの男が商品か?」
口々に好き勝手なことを言いながら、囲む輪を縮める男たち。
どこかの軍隊らしいが、皆下級兵士なのは訛りで分かる。
「よくみりゃ、クランフ人じゃないか、こいつ」
そう言った男が顔の半分を覆う白い包帯からじろりとオリビエを睨む。
「…そ、そうだけど」返事をしている途中に反対側から誰かがオリビエの脚を掴んだ。
「わ!!」
「やめろ!!」リエンコが叫ぶ。
リエンコが短剣を取り出せば同時に男たちはサーベルを振りかざす。

オリビエはただもう、必死だ。
サーベルを持つ包帯の男がオリビエを引き摺り下ろそうとする。
「離せっ!」
振り払おうとするのに。
構えられた刃がチカリと光る。
わー、と。叫ぶのと目をつぶるのと、思い切り暴れるのとで精一杯。勢いで馬のわき腹を蹴っていた。
ぐらと視界が揺れる。
馬がいなないて走り出した。

ものすごい勢いで流れる風景の中、オリビエはただ必死にしがみつく。
遠く、自分の名を呼ぶリエンコの声がしたようだ。

馬は一気に川辺の砦にまで駆け下りる。
派手に揺れる視界、かつて落馬した経験からオリビエはますます身体を堅くして、馬の首にすがり付いていた。

人の叫び声。ずると体勢が崩れかけ、思わず目を開ければ城壁が迫っている。
慌ててよける兵士たち。
止めてほしいと叫んだ。迫る壁。
「わぁー!」
ぶつかるつもりなのかと目を閉じ、身を硬くする。
馬がいななく。
息を荒く吐き出し、がつがつと地を穿つ蹄。

「もう、大丈夫だ」

大丈夫?
その声にオリビエは目を開ける。
気づけば馬は不満げに身を震わせているものの、しっかり抑えられた手綱に脚を踏み鳴らしていた。
馬の首にすがりついたまま、顔だけを上げれば目の前に衛兵の顔があった。
見たことのあるそれは。
「あ!」
「相変わらず、馬には乗れないんだな」

笑い方が派手で、豪快な黒髪の男。それはファリでであった近衛騎士だ。
にやりとオリビエに笑ってみせる。
「マルソーさん!」
「久しぶりだな、こんなところで会うとはなぁ」
「!!あ、そうだ、仲間が山賊に襲われて!」
勝手に山賊と決め付けオリビエは慌てて馬から降りようとする。
支えようとしたマルソーは、オリビエが予想以上にすんなり降りたので目を丸くした。

降りてみればやはり、マルソーはオリビエより頭一つ大きい。白いスカーフが首元に巻かれ、濃紺の上着には金の星がいくつも並んでいる。
「あ、あれ?マルソーさんがいるってことは、ここって、クランフ王国の軍隊?」
改めてオリビエは周囲を見回す。馬の手綱を預かってくれた衛兵が「国民衛兵といいます」と誇らしげに胸を張る。その小さな顔、白い肌。マルソーの背後にいる兵たちも、皆リエンコより小さい。クランフ人たちだ。
国民衛兵……革命を起した人民が、国民議会を開きそこで承認された軍隊。それは国軍でもあり、民衆の軍隊でもあると噂に聞いた。
侵攻している、とは、聞いていたけど。
複雑な気分になる。あの葡萄農家の主人が恐れた勢力はすぐそばまで迫っている。
マルソーたちは国境を越えてしまっているのだ。国境を越えるための橋を確保し拠点にする、ということだろうか。

「中尉どの、山賊らしき男がおりましたが」
と十数名の騎馬隊が囲んでつれてきたのは大柄なロシア人。
リエンコはロープでつながれながら、オリビエを見るとホッとしたように目を細めた。
「一人か?」
「あ、いえ、周囲に十数名の脱走兵らしき男たちが倒れておりました。あれは先日のルールズで逃げ出した衛兵だと思われます」

ルールズの逃亡兵…。オリビエはマクシミリアンの話を思い出す。それが、戦況を変えた要因だった。そのために、リツァルト侯爵は捕まったのだ。
「皆、倒しました」と。リエンコはオリビエに向かって笑った。
その笑顔の意味がオリビエを切なくさせる。
「ありがとうリエンコ。あの、マルソーさん、彼は僕の友達です」
オリビエは縛られているリエンコに駆け寄り縄を解いた。一瞬剣を向けようとした兵たちをマルソーが止めた。
「オリビエ、そいつはロシア人だぞ?」
「あ、うん。護衛してくれてるんだ」
ふうん、と納得のいかない表情のマルソーは、じろじろとリエンコを眺め回した。
リエンコはクランフ語の意味が分かっているのかどうか、時々見せる怖い顔でマルソーを睨み返す。

大柄な二人が腕を組んでにらみ合う姿は迫力がある。黒髪のマルソーに白っぽい金髪のリエンコ。例えるなら黒と白の熊。二頭は立ち上がったまま互いに唸り声を上げている、ように思える。オリビエは二人の距離が縮まらないうちに間に入った。
「……あ、あの睨みあわなくても」
「ま、いい。二人とも俺のテントへ。話したいことがある」

先に視線を緩めたのはマルソー。リエンコも表情から力を抜いた。
マルソーはオリビエの肩を二度叩き、傍らの部下らしき男に顎で何か示すと歩き出す。
後姿にサーベルが夕日を煌かせた。
「リエンコ、大丈夫。知り合いなんだ」
オリビエはドイツ語で説明すると、リエンコの手を引いてマルソーの後についていく。

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「音の向こうの空」第二十五話⑥

第二十五話:祖国へ



テントの中は広く、マルソーは肘掛付の椅子に座った。大きく開いた膝、寄りかかる姿勢に、なにか以前のマルソーと違うものを感じ取る。
「…マルソーさん、もしかして、偉くなったのですか?」
ぶ、と。噴出したのはマルソーだけではなかった。
隣に立つリエンコまで笑うから、オリビエは顔を真っ赤にした。
「なに笑うんだよ、変なこと言ってないよ?リエンコも言葉が分かるならあんな態度取らなくてもさ……」
「あの肩の徽章、あれは中尉です。見れば分かります」とリエンコがオリビエの肩を叩いて笑う。
「そ、そうなんだ。リエンコはよく知ってるね」
軍隊の上下関係などオリビエには興味がない。演奏会にくるような軍人は大将とか、将軍とかだけだ。それ以外の位階はしらない。リエンコの言う中尉がどれくらい偉いのか分からないが、ここでは一番偉い様子だ。

「ま、そんなところだ。そいつは軍隊経験があるんだろう。悪いがオリビエ、そいつの武装を解いて欲しいんだ。示しがつかないからな」
だいたい足音立てない奴なんて恐ろしくて、と。マルソーは笑いながら続ける。
「あの、僕らは別に……」
「オリビエ、言うなよ」
マルソーの目が険しくなる。どくり、と自分の鼓動を聞いてオリビエは黙った。いつの間にか胸の前で拳を握っていた。リエンコは腰の短剣を外して地面に置いた。
その手が離れると同時にマルソーの部下が拾い上げる。その機敏な動作に、自分たちが危険人物だと思われているのだとやっとオリビエは気付いた。

三歩離れた位置でマルソーは両腕を組んで二人を見つめている。
日に焼けた頬は少し痩せて、かつて奔放な近衛騎士だった頃とは何か違った。
「前回のルールズでは中々、いい戦績でな。亡命貴族を大勢帰国させた。お前の雇い主も国に帰った」
「!!侯爵様は!」
飛び出しかけるオリビエをリエンコが抑える。
「雇い主がいなくなれば、お前も帰国できるだろう?」
マルソーの低い声音は有無を言わせない凄みがある。

帰国?どういう意味だろう。
「侯爵様は」
「お前は何も持たず、雇い主も仕事も失って、帰るのだろう?」
畳み掛けるようにオリビエの疑問を一薙ぎ、マルソーはオリビエには何も言わせないつもりらしい。
オリビエは黙り込んだ。マルソーが何を考えているのか分からない。リツァルト侯爵の行方を知っているなら教えて欲しいのに。


「はい。国に帰ります」
答えたのはリエンコだった。
「オリビエ様の国に帰ります」
マルソーが不器用なクランフ語で話すリエンコに目を細めた。
「ああ、共和政府は協力するものは歓迎する。オリビエ、今夜はここに泊まるといい。明日には橋を渡れるだろう」
マルソーは部下にいくつかの指示をし、オリビエたちは衛兵に連れられて小さいテントに押し込まれた。


警戒されているためか、ランプ一つない。
暗がりでオリビエは膝を抱えて座っていた。
リエンコは先に運び込まれていた荷物を確認し、マントを引っ張り出すとオリビエの肩にかける。
それでもオリビエはじっとしていた。

「マルソーさんはあんな感じの人じゃなかったのに」
オリビエは覚えている限りのことを話した。
ファリで出会った頃は王妃付近衛兵で、オリビエをファレ・ロワイヤルに連れ出してくれた。そこで自由について語った。
「ああ、思い出せば、今マルソーさんが共和政府の軍隊にいてもおかしくないんだ。そうだな……そういえばバスティーユ監獄の時も活躍していたってヨウ・フラが言ってた」

そうだ。共和政府や革命にはマルソーもエリーも、ヨウ・フラも賛成なのだ。彼らは貴族じゃない。じゃあ、亡命貴族である侯爵様やその養子になることを決めた僕は、彼らからしたら敵なんだ。
自分が何を選択したのか、遠く感じていた革命が目の前に現れたかのようだ。
「貴族だからとか。関係ないです。マルソーさんは今もオリビエ様の友人ですし、ヨウ・フラも軍人を嫌っていますが、友達です」
肩を叩かれ、オリビエは「そうだね」と呟く。
「マルソーさんは、オリビエ様が貴族であることを隠してくれました。彼は味方です。きっと、オリビエ様がどうしてここにいるのか、分かってくれています。彼の言うとおりにするべきです」
リエンコは荷物から干した肉とチーズ、パンを取り出す。チーズをナイフで器用に切ると肉とともにパンに挟んでオリビエに渡した。
「ありがとう」
「ほら、荷物の中はそのままです。きっと、明日になれば馬も帰してもらえます」
「うん。侯爵様の居場所、聞けないかな」
水の入ったビンが目の前に置かれるのを見つめながらオリビエは手にしたパンを大事そうに抱えていた。
「…私は、動くと怪しまれます」
リエンコはナイフをテントの外の松明の明かりに光らせてみせる。
それは眩しくてオリビエは何度も瞬きした。
「僕、なら?」
「マルソーさんは、お友達でしょう」
リエンコは静かに言った。それは「やってみたらどうです」と声にならない言葉が聞こえるようだ。オリビエはごくりと唾を飲み込んだ。
僕なら聞きだせるかもしれない。
中尉どのと呼ばれるマルソーは以前の彼とは違って見えた。何を考えているのか分からず、だから少し怖い。マルソーは侯爵様を捕まえたのだ、僕のことも捕らえてもおかしくない。
自分が相手にとって捕まえるべき敵なのだという感覚は必要以上にオリビエをおびえさせる。子供の頃から鬼ごっこは苦手だった。
「…これまで誰かに憎まれたことが、ないのですね」と。リエンコは笑った。
籠の鳥、と誰かが表現した。
秘蔵っ子。
温室の薔薇。
「でも、大丈夫だよ」
オリビエはジーストの暴力に耐えていた頃を思い出す。あの時も恐ろしかった。でもやるべきことはやらなきゃならない。侯爵様のために。
手にしたパンを一気に頬張る。
むせかけて、リエンコに笑われた。

「これを。マルソーさんに差し入れです」リエンコが荷物から取り出したそれは、あの葡萄農家で貰った一本のワイン。オリビエがあまりにも美味しいと喜ぶので、持たせてくれたのだ。オリビエは夜の冷気に冷たくなりかけているそれを抱えて、テントを出た。

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「音の向こうの空」第二十五話⑦

第二十五話:祖国へ



夜風は冷たく、マントの裾がはたと足元を打つ。
抱きかかえるようにワインを隠し、マルソーのいる大きなテントへと向かう。

見張りの衛兵は近づいてきたのがオリビエ一人だと知って、サーベルから手を離した。
「お前、何の用事だ」もう一人が顎を上げ、オリビエの肩を乱暴につかむ。

「あの、マルソーさんにこれを差し上げようと思います。あわせてくれますか」
ちらりとマントの合わせ目からワインを見せると衛兵は「それなら、俺が届けておいてやるよ」と手を突っ込もうとする。
オリビエは慌ててビンをぎゅっと抱きかかえ「自分で渡したいんです」と声を大きくした。
にやにやしている衛兵がこれを手にしたら自分で飲もうとするに決まっているし、それじゃ目的を果たせない。
「マルソーさんに、会わせてください!」
「こいつ!」
「放せ、俺たちが」
髪を引っ張られ、強引にビンを奪おうとする二人に、オリビエは叫んだ。
「マルソーさん!助けて!」
口を塞がれかけたところで、テントから人影が出てきた。
衛兵は猫のように大人しくなった。



温かい毛皮を敷いたそこにオリビエを座らせ、マルソーは正面で胡坐をかいた。
「そういうものをちらつかせたら、兵たちは目の色を変えるぜ、オリビエ」
迷惑そうに睨まれ、オリビエは小さくなる。
喜んでもらえるかと思ったのに。
「オリビエ、心しておけよ。我が国の民は飢えている。以前の、お前が知っている街や人々じゃないぞ」
「……亡命の直前に見ました。パンのために、街の人たちが殺しあってた」
そう思い出せば、ヴィエンヌがどれほど平和なのかと思う。
民衆は貧しいものも富めるものもいるがオペラに興じる余裕があるのだ。

マルソーが精悍さを増した理由が、年齢や痩せただけではないことが理解できた。
その強い視線は真っ直ぐオリビエを見据える。
「オリビエ。革命は成功したが、それだけでは食糧は増えない。政府は民衆の憤りを外国や亡命貴族に向けておこうとしている。そうしなきゃ、革命政府は民衆の支持を得られず内部から崩壊する。分かるか?」
オリビエは頷いた。
「お前の正体は伏せておくし、黙って通してやる。だから、大人しくしておけ」
「…僕らは。侯爵様にお会いしたいんだ」
「やめとけ」
「侯爵様の居場所を教えてください」
マルソーは眉をひそめ、オリビエを見下ろす。

毛皮に座り込んで手をついたまま見上げる青年は、多少大人らしい顔つきになったものの相変わらず世間知らずのお人よし。そう思える。
「あんなのを連れてどうするつもりか知らんが、やめておけ。戦争なんだぞ。侯爵様も死を覚悟されている。お互い承知のことだ。お前が今更国に戻って何が出来るわけでもない。お前の祖国は、なくなったと思え」
「僕は。侯爵様の子供です。…この間」
養子縁組を、といいかけたオリビエの口は塞さがれた。目を真ん丸くしたマルソーは声を低くする。
「バカだな、素直にも程があるぜ。聞かなかったことにするぞ。いいな。オリビエ、それは絶対に誰にも言うな。お前は分かってないんだ。亡命貴族は死刑だ。その上、地方領主の資産を受け継ぐなんて知られたらまともな裁判も期待できない。おい、お前まさか、エスファンテに立ち寄ろうなんて、考えてないだろうな?」
「……」迷っている、と塞がれたまま呻いてみる。
「お尋ね者だって自覚しろよ」
お尋ね者。
「亡命したってことは、故郷を捨てたってことだ。文句言えないんだぜ。お前は面倒なことから逃げ出して、楽な外国生活を選んだ。自覚しろ」

オリビエは頷く。やっと離れた手に、ため息を吹きかけた。
祖国を失う。そういうことだ。
「僕は、侯爵様のために今、こうしているんだ。マルソーさん、侯爵様は僕があとを継ぐことを知らないのです。話したいんです、僕が、大勢の人が待っていると。僕のために侯爵様が命を落とされるなんて、絶対に……だめなんだ」
声が震える。
「お前……」
「僕のせいで、侯爵様はこんなことに。僕が無力だから……」
ランプの明かりが揺らめいた。敷き詰められた毛皮に手が埋もれる。この気持ちをどうぶつければいいのだろう。白いままの護られてきたこの手に。今も、鍵盤を求めるそれを握り締めて抑える。

頭をぐしゃぐしゃとなでられ、顔を上げると同時に雫がこぼれた。
「しょうがないな。ここにはオルガンはないからな、抱え込んでるもんなら言葉で話すか、泣いて流しちまえよ。お前は楽器さえ奏でられればどんな思想家も黙らせるくらい最強なんだがな、演奏できないと本気で腑抜けだな」
自分で言った言葉に笑い出すマルソーは、今も変わっていない。かつてファリでオリビエに自由を勝ち取れと激励し、その生き方は思想だとも言った。
懐の大きい、情深い男だ。


持ち込んだワインを半分ほど二人で空けたところで、オリビエは大体のことを話し終えた。
マルソーはヨウ・フラが元気だと聞いて喜び、ズレンのことは知っていると笑った。今はマルセイユ連盟軍の一員で、活躍していると話してくれた。相変わらず仏頂面だぜ、あいつはと。
アンナ夫人のくだりでは肩をすくめ、オリビエのコンクールの結果には手にしたグラスをオリビエのグラスに当てて祝った。

ランプの揺れる明かりの元でもマルソーが機嫌よく、軽く酔っているのが分かった。
「なあ、オリビエ。お前にも平等に革命が訪れていたんだな。もちろん、俺にもエリーにも、この国の皆に大きな変動があった。今までと同じではいられない時代の流れが大波みたいに押し寄せた。誰もが生き残ろうと必死だ。民衆はパンと平等を訴え、政府は革命を死守しようとする。その狭間で国王陛下は近いうちに裁かれるだろうし、今もファリじゃ反革命の疑いをかけられた人々が大勢投獄されているんだ。まるで、かつて国王や貴族が思想家を捉えてバスティーユに閉じ込めたように、専制主義者と同じことを革命政府はやってる。何にも、変わってないのかもしれんと時々嫌になる」

ま、これはここだけの話だぜ、と笑い。
落ち着いたオリビエの背をなでてくれた。

「お前の希望をエリーに託して、ファリに送りだすことも出来る。エリーならお前を侯爵に合わせることも可能だろう。ただ、オリビエ。会うだけだ。救えるとは思えん。エリーにも頼むな。それはエリーの立場を悪くする。彼は今、将軍の地位にいる。だが、軍隊はやる気のない貴族士官たちのサボタージュであちこちで苦戦してる。いつ責任を取らされるかわからん。国民公会の失敗には理由が必要なのさ。兵隊なんか腐るほどいると思ってるんだぜ、やつらはさ。ちょっときれいごと並べれば啓蒙思想に心打たれた若者が集まる。まともな後背支援も配給もないこんな軍隊に命を捨てる覚悟で来るんだ。可哀想なもんだ。だから、俺はそいつらのためにここにいるといっていい。政府のためとか、革命のためってのはもう」そこで、マルソーは苦笑いをこぼした。

「終わっちまったんだ。ただ、一人でも多くの兵を生きて家に帰してやる。それが俺の仕事だ」

革命の理想と現実にマルソーが苦しんだのは確かだ。人の生死を間近で味わう立場自体、オリビエには想像もつかない。黙って考え込み。

「とにかく、侯爵様に会いたいです。エリーさんにご迷惑はおかけしません」と頷いた。
マルソーは「じゃあ、口利きの礼にこの残りは頂くぜ」と半分残ったワインを掲げて見せた。相変わらず饒舌で、熱く語るマルソーにオリビエは目を細めた。
泣いて話したことで幾分心が晴れたような気がしていた。
ふと、聞き覚えのある旋律を耳にしてオリビエはテントの外を振り返る。

「ああ、ライン軍の歌だ。知ってるか?このライン戦線へ向かう軍のために作られた歌だ。勇ましいだろう?皆、あれを歌いながら士気を高める」
「あ、うん」
オリビエは小さく頭を横に振る。
あれであるはずはない。
この歌が。
かつて、たった一つ、少女に残したあの曲。
脳裏によみがえりかけた赤毛の少女と小さな町の教会。強引に振り払った。

次回、第二十六話は3月30日公開予定…うむむ。がんばります…

三月…春です…。お仕事の忙しい時期になってまいりました…。
「音の向こうの空」も、そろそろ終わりが近づいています。あと三ヶ月くらい、かな?
はい。どんな終わり方って…。まだ秘密。

がんばって書いていますが、もしかして納得いかなければ遅くなるか、あるいは少なめの公開かもしれません。
物語が終わりに近づくにつれ、筆が遅くなる傾向にあるので…これもすべて、エンディングに満足していただくための準備ですので~もし、間に合わなかったら、ごめんなさいっ(><)
応援してくださると嬉しいですっ!

「音の向こうの空」第二十六話 ①

第二十六話:故郷を去る者、還る者



翌朝、まだ日の明けきらない時刻。
オリビエは冷え込む中、リエンコの隣で毛布に包まっていた。
オリビエの中で最も鋭い感覚が先に目覚める。
人の声。無視しよう。目を閉じた暗闇の中、甘い夢とともにキシュの面影を何度もなぞるように思い出し毛布の端を握り締める。どこかで聞こえるライン軍の歌。それがキシュを思い出させる。

「連れて行くんですか」
けだるそうな青年の声。テントの外から聞こえるようだ。
「オリビエ様」囁くリエンコはすでにしっかりと目を見開いて外の様子を伺っている。オリビエは温かい毛布が惜しくてもう一度額を擦り付け甘えて見せるが、それはすぐに取り上げられた。マルソーと飲んだワインがまだしばらくは思考を妨げそうだ。
「眠い」
「オリビエ様。また、ワインですか」
知らず毛布を取り戻そうと伸ばした手はリエンコに掴まれ引き起こされた。
同時にふわりと冷たい空気が流れた。丁度、マルソーが入り口を大きく開いたのだ。
「なに毛布を取り合っているんだ、お前たち。すぐに支度しろ。伝令と供にファリに行ってもらう」

マルソーが示した伝令の青年はシェビエと名乗り、痩せた頬に迷惑そうな表情を載せて肩をすくめた。
「足手まといはごめんだから。あんたたちがどうしてファリに行くのか知らないけど、俺は伝令を目的とし、それが使命だ。言うこと聞かないならすぐに置いていく」
オリビエと同じくらいの年齢に見える青年はリエンコが睨んでいようと平気な顔で、さっさと自分の馬に荷物を乗せた。
リエンコが自分の白馬に荷を括りつける間、オリビエはマルソーのそばに駆け寄った。
「あの、おはようございます」
「ああ。シェビエと行けばエリーに会える。シェビエに持たせた手紙にお前のことも書いてある。ただし、協力してもらえるかどうかはお前次第だぞ。俺がエリーに命令できるわけじゃないからな」
はい、とオリビエは頷き礼を述べる。
「本当に、ありがとうございます」
「ま、俺にしてやれるのはここまでだ。いいか。忘れるな。お前は口に出来ないことを抱えて敵地に踏み込むんだからな」
まだ明けきらない空を背景に白い歯を見せるマルソーは朝日のように眩しい。侯爵様にただ会いたいだけじゃない。助け出したい。それはマルソーには言えなかった。オリビエは大きく頷き罪悪感を振り払うと「マルソーさんもどうか、ご無事で」と別れを告げた。


伝令の若者シェビエは二人の前を馬で駆け、オリビエが話しかけてもほとんど返事をしなかった。二人の道連れが迷惑なのだといわんばかりだ。
このまま国境を越えればエスファンテだ。オリビエはどの道を通るのかと尋ねたが「黙ってついて来い。ファリへの到着は七日後だから」とそっけない。
知っている人間に出会うわけには行かなかった。かといってシェビエはオリビエが亡命貴族だとは知らない。
理由を話す訳にもいかず、だから「どこを通るのか」とか「どの町に立ち寄るのか」とか。遠まわしな聞き方をするしかないオリビエはもどかしい。
初めて質問した時から半日経って、いよいよエスファンテが近づいた頃、丁度道の脇に河が見える静かな場所でシェビエは馬を止めた。

馬に水を飲ませているシェビエにそっと近づき、オリビエは三回目の同じ質問をした。
「あの、どの町を通るのか知りたいんです」
馬の耳がびくりとこちらにむくのと同時にシェビエの後姿も反応する。
振り返れば予想通り眉間にシワを寄せ小柄な身長から首をかしげた斜めの視線でオリビエを睨みあげる。
「お前、耳とか頭とか変なのか。黙ってついて来いっていっただろ」
負けるわけには。
「あの、だから、途中どういう街によるか教えてほしいんだ!」
「ファリ」
短すぎる返事にオリビエは言葉を失う。ファリって、それは目的地で。
途中どこにも寄らない、なんてことはまずありえない。
「シェビエさん、あの。途中にはどこにもよらないのかな?」
「知らないな」
「知らない!?」
オリビエの声が大きくなるとたまりかねたようにシェビエは耳を塞いだ。
「お前だって知らないだろ?そこのでかいロシア人。俺もスタルガルトの出身だから。クランフ王国の小さい村なんか知らないし、覚える必要もない。方角と、道さえ分かればファリにはたどり着ける」

ああ、そうなのだ。帝国領スタルガルト領邦の出身とすればシェビエは外国人。土地に不案内なのだ。地図はもちろん持っているだろうが、細かい地名など覚えてはいないだろう。わざわざ地図で道を指し示すほどの親切な性格でもない。
「あの。エスファンテはすぐそこの街で……」
「だから、俺に聞くな!」
「……そう」残念そうなオリビエにシェビエは腹立たしげに怒鳴った。
「大体、お前らが勝手についてくるんだろう?なんで、俺が不案内だからってお前らに申し訳なく思わなきゃならないんだ。違うだろ!」
大きな声を出すと一つ派手にため息をついて背中を向ける。シェビエは馬の鞍を締めなおしていた。
リエンコが白馬の脇に立てば馬は甘えるように頭を擦り付けた。オリビエはリエンコの背中を眺める。国境までの道のりはリエンコに任せていたけど、それはすごいことなのだ。僕も知らない道を、リエンコは簡単な地図とコンパスだけで的確に進む。

「あの、感謝しています。僕たちだけじゃファリには辿り着けないし。エリーさんにも会えない。シェビエさんの仕事を邪魔して申し訳ないと……」
「俺には関係ないから。寄りたいなら勝手に行けばいいし、寄りたくないなら避けて通ればいい。どちらにしろ、どこからがエスファンテでどこまでがそれなのかも俺は知らないから」
そういうとシェビエは馬にまたがった。前方の空を眺める。

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「音の向こうの空」第二十六話 ②

第二十六話:故郷を去る者、還る者



見覚えのある木々の向こう、エスファンテの境界を護る宿駅が黒ずんだ姿を見せていた。古い城砦を利用したそこに、オリビエもかつて立ち寄ったことがある。確か、そこでヨウ・フラに出会った。
エスファンテの衛兵が警護しているはずだ。
白馬に乗り、リエンコの背に隠れるように小さくなると、オリビエはあの時の様子を思い出す。お尋ね者と同じ…マルソーの言葉が思い出される。

「オリビエ様?大丈夫ですか」
「僕のこと、覚えている人なんかいないと思うけど」
「あれは、国民衛兵でしょう。エスファンテは国境の街。今は国民衛兵が街の衛兵に変わって警護しているはずです」
リエンコは近づいてくる城砦に目を細める。朝日が差し込み、壁の上に立つ衛兵が黒い影となって天に突き立つ。背にかかる銃がはっきりと見える。
馬が近づけばそれは、三人に増えた。

朝日をまともに受ける城門の前、両脇に立つ衛兵は眩しそうに三人を見上げ槍を構える。
「ライン軍第二連隊から、ファリへの伝令です。通過許可願いたい」
シェビエが馬から降り、マルソーのサインの入った書状を見せると、衛兵は槍を下ろした。
まだ若い衛兵は鮮やかなブルーの上着に黒い外套をかけ、白い縁取りの帽子に赤い羽根飾りをつけていた。白いスカーフが首元にあり、これが噂に聞くトリコロールの色なのだとオリビエは目を細めた。誇らしげな若い衛兵はオリビエと目があえばにっこりと人懐こい笑みを浮かべた。オリビエより年下に見えた。
「ご苦労様です」
何とか失敗せずに馬を降りられたことに内心ホッとしながら、オリビエは「ありがとう」と応える。青年の発音はヨウ・フラを思い出させた。
「ファリの訛りだね、ファリからきているんだ?」
そういわれた青年衛兵はリエンコに馬をつなぐ場所を指し示し、鼻の上にしわを寄せて笑う。
「ええ、この地域には大勢派兵されていますからね。マルセイユ連盟兵ばかりに任せては置けません。私たちも祖国を護りたいんです」
屈託のない笑みにはマルソーが護りたいと思う純粋な愛国心があった。義勇軍として徴募された若者だろう。
マルセイユ連盟兵とは、南東部のマルセイユを中心として多くの町から選ばれた衛兵たちの集まりを指す。各地から集められた有能で強固な意志を持つエリート集団はこのライン戦線でも活躍していた。八月のチェイルリー宮殿襲撃の事件以降ファリに駐在しているのだと聞いた。
誰かがライン軍の歌を口ずさむ。
行け、祖国の子らよ。と。オリビエたちを導く青年も歌いだした。城砦の中庭で槍を磨いている男も、絞めた鳥の毛をむしっている男も。オリビエとリエンコ以外全員が歌っていた。そう、目の前のシェビエもだ。唱和する声はこだまのように響き渡り、いつしかオリビエの視界に見えるすべての人が腕を振り上げ歌っている。高らかに天を仰ぐ。
それは苔むした古い城壁に反響し吹き抜ける風のようにうねった。
こんな風に歌が歌われるのをオリビエは初めて聞いた。
「いい歌だ。ライン軍は戦地で皆、これを歌うんだ。アウスタリア帝国軍なんか、歌声に驚いて逃げ出したくらいだ」
誇らしげにシェビエが笑った。
数千の兵士が一斉にこれを歌ったなら。マクシミリアン候が言っていた、不気味な歌の意味も分かる。

―――武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!―――

勇ましく血なまぐさい歌詞を叫びながら、捨て身で迫ってくるライン軍の勢いは大公を驚かせただろう。

それは、かつてオリビエが思いつき、キシュにあげた旋律だったかもしれない。けれどすでに歌は彼らのものになっている。

―――奴隷と反逆者の集団、謀議を図る王等
我等がために用意されし鉄の鎖
何たる侮辱か!何をかなさんや!
敵は我等を古き隷属に貶めんと企めり!
武器を取るのだ―――

反逆者とは、亡命貴族のことだろうか。奴隷とは旧体制に従うもののことだろうか。敬うべき国王をこんな風に歌う感覚自体がすでにオリビエの想像を超えている。オリビエはぞくりと寒さを感じて震えた。僕は、敵なのだ。
始めこそキシュとのことを髣髴とさせていた歌も、今は違う。

「オリビエ様、顔色が悪いですよ」
城壁に囲まれた中庭で座り込んでいると先ほどの衛兵が干した果物とワインを持ってきてくれた。シェビエは愛想もなく受け取ると頬張り、ワインを苦い顔で飲み下していた。
「ありがとう」
青年はリエンコをこわごわ見上げ、わざわざ回り込んでオリビエの脇に立った。
「あの人、言葉が通じるんですか?私はトルコ人ははじめて見ました」
「ああ、彼はロシア人なんだ。大丈夫、クランフ語もイファレア語も少しは話せるよ」
どうやら青年がオリビエにしきりに話しかけるのは、三人の中でオリビエだけがクランフ人だというところに理由があるらしい。
「ロシア人……蛮人だって聞きましたけど、なんか違いますね」
「え?」蛮人?思わずリエンコを見てしまう。リエンコはちらりと冷たい視線を青年に向け「ロシア人にもいろいろいます」とクランフ語で応えて見せた。
「わ、こ、これは失礼」
慌てて立ち去る青年を見送りながら、オリビエはリエンコにどう言ったものかとしばし考える。視線の意味を悟ったのかリエンコは笑った。
「気にしないでいいです。確かに、我らの文化は未熟。ほんの一世代前まで貴族でも手で食べ物を食べていた。音楽を楽しむ素養もない。ヴィエンヌで初めてオリビエ様の演奏を聞いたときには驚きました。この世のものと思えなかったです」
「え?」
「人間だと思えませんでした」
「……犬とか言われたことはあるけど」
かつて、飼い犬だった。確かにエスファンテにいた頃は。
オリビエの想像とは裏腹にリエンコはうっとりとオリビエを見つめた。
「天使とか、精霊とか……」
「はぁ、天使?!まじかよ!」リエンコのその恥かしい例えにはシェビエが噴出した。笑いすぎて苦しいのだろう、石垣にもたれて派手に背中を震わせている。
それにリエンコはなにやらロシア語でのろいの言葉らしき低い声を出し。
「何言ってるんだ、わけわかんねぇ。野蛮人はわけわかんねぇ!」
とますますシェビエは笑い転げる。
「野蛮人ってそんな言い方は……」
なだめかけたオリビエをまじまじと眺めシェビエはまた笑い出した。
「放っておきましょう」と言いながらもリエンコは何やら小声でロシア語の呪いを吐き続ける。言葉が分からなくて幸いとオリビエは手にしたワインのグラスを勢いよくあおる。
これからこの三人で向かう道中が思い遣られる。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十六話③

第二十六話:故郷を去る者、還る者




昼前にはオリビエたちは再び馬に乗り、街道を真っ直ぐ進んだ。ひたすら主だった街道を進むというのがシェビエのやり方らしかった。笑い転げて以来、どうやらご機嫌で一人ライン軍の歌を鼻歌で歌っている。
幸いなことに、シェビエの選んだ街道はエスファンテの中心街を通らない。そのまま隣の街へと続く。かつて、オリビエを連れリンスへと向かったロントーニ男爵の選んだ道。
今は黄金に輝く麦畑が広がり、実りの丘を成すそこはのどかな風が吹いている。
ふと、気付いた。
「だれも、いないね」
リエンコもかすかに振り返り、「はい。静かです」と頷いた。
もう、とうに収穫の時期のはずなのだ。この天気のいい日に作業をする姿が一つもないというのは異様だった。
静かでのどか。温かい日差しにオリビエはうとうととし、いつの間にかリエンコの背中にもたれて眠っていた。
十月の日差しは長く、遅い時間まで明るい。
長い午後を馬に揺られて進むのは退屈だ。
日差しのせいなのか、リエンコの体温なのか。ぬくぬくとしたそこに頬をつけて眠れば、エスファンテの自分の家のテラスを思い出した。日当たりがよく、十月には庭に漂う風がミモザの柔らかな黄色を揺らした。キシュに、会えるだろうか。
会ったら、なにを言うんだろう。

好きだと告白し、そばにいたいと願い。それを、彼女は拒絶した。
今更なんだ。何が出来る。
胸が詰まる。
今は、侯爵様のことだけを考えよう。

うっすら目を開けば日はまだ高い。
馬に揺られながら真上の天を眺めてみる。視界には空と縁取る金色の畑、くにゃりと曲がる変な雲。
くにゃりと。

「!危ないです!」
リエンコに引っ張られ、自分が落ちかけていることに気付いた。
「あ、ごめん。上見てたら目が回った」
「オリビエ様…ワイン、飲みましたね?」
「…あれ?そうだったかな」
「弱いんですから、やめてください」
「大丈夫だよ」
慌てて体勢を整えると。目の前にシェビエの横顔。
!?
いつの間にか二頭の馬は停まっている。
「ライン軍第二連隊から、ファリへの伝令です。通過許可願いたい」
シェビエが先ほどの砦と同じ台詞を繰り返した。
オリビエはうんと体を伸ばし、リエンコの背中越しの前方を眺める。
街道は十字に組まれた木の柵で封鎖されていた。
丁度、小さな川を越える橋の手前だ。
「これは、ご苦労様です。我らはこのエスファンテを護るダンテス中尉の第三連隊です。この先の古城を駐屯地にしていまして。どうぞ、お立ち寄りください。ダンテス中尉はこの国境の護りを担っておられます」
シェビエが令状を示そうとしたが、男は首を横に振り「それはダンテス中尉にお願いします。我らは判断できません」と肩をすくめた。

シェビエは不機嫌を隠さない。
「我らを疑っているとでもおっしゃるか」
「そういうわけでは。ただ、ここにはここのルールがあります。貴方の持つ令状一つで通れる道もあるでしょうが、ここは違う。ダンテス中尉のご判断を待たねばならないのです。何も、あなた方を敵としてみているわけではありません。城まで我らがご案内します」
シェビエは仕方ないな、と令状をしまい、リエンコとオリビエを見て顎で示す。
行くしかない、ということらしい。


古城。
それだけではぴんと来なかったが、天に突き出す塔を見つけオリビエは思わず声を上げた。
「あ、あの城!?」
「……ご存知ですかな?そこの方」
衛兵の男に尋ねられ、オリビエはいいえいいえ、と慌てて首を横に振る。

あの城。かつてロントーニ男爵が所有していた郊外の古城だ。
あの塔に閉じ込められ。そう、敷地の端に立つ礼拝堂でオルガンを奏でた。
オルガン。そうだ、ここには楽器がある。
自然と指先が鍵盤を求めてざわめく。
丸一日、楽器に触れていない。


衛兵に導かれて城の正面で馬から降りると、すぐにダンテスと名乗る中尉が駆け下りてきた。これこそ野蛮人、に相応しい太く黒い眉、顎からもみ上げまでつながった髭。以前マルソーを熊に例えた自分を恥じるくらい、ダンテス中尉は真実に熊らしかった。
シェビエと交わす握手の手まで、毛むくじゃらなのだ。
「前線からの伝令と聞いた。ご苦労」
「ライン軍第二連隊、シェルビエール・グーリンです。マルソー中尉より命じられた伝令のため、ファリに向かっています。どうか通過を許可していただきたい」
「ふむ。急ぎの旅かね」
シェビエが頷く。
ダンテスはちらちらとリエンコとその脇のオリビエを眺め。
「もうすぐ陽が暮れる。この土地は馬鹿な市民が多くて危険なのだ。ここで一晩休まれるがいい」
「市民が?」シェビエにダンテスは大きく頷いた。
「ばか者どもが、元の領主リツァルト侯爵の残した資産を勝手に分配して威張り腐っておる。亡命貴族の所有はすべて国のものだというのに分からん奴が多くてな。市街の各地に隊を配置しているおかげで、ここは寒々しいものだ。たいした歓迎も出来ないが、心地よいベッドくらいは用意できる」
「ありがとうございます」
シェビエは深々と頭を下げ、それから「彼らは衛兵ではなく旅の商人です。ファリまで連れて行って欲しいというので仕方なく引き受けました。どうぞ、お気遣いなく」とオリビエたちを顎で指した。
「ああ、かまわん。何しろ広い城だ。部屋を用意するがそれでいいかな?」
「はい。お気遣い、いたみいります」
リエンコが頭を下げ、オリビエもその影でぺこりと礼をする。
ダンテスは堂々とした貫禄のある男で、礼節のあるものには親切だった。リエンコの言葉が外国人にしては流暢だと褒め、「なかなか、鍛えられた佳い男だ。酒も飲めるのだろう?」と夕餉に誘った。


「僕は疲れたから、リエンコいいよ、行ってきなよ」
与えられた部屋で重い上着を脱いで身軽になったオリビエは躊躇するリエンコの背中を叩いた。
「大丈夫、僕はここで大人しくしているから」
「……」
「ほら、僕が同席したらまた、ワインを飲まされるかもしれないだろ?」
「分かりました。ここで、じっとしていてください」
心配そうに振り向きながら、念を押すリエンコをいいからいいから、と扉の向こうに押し出すと、そっと扉を閉める。
ふう、と息を吐いた。
古い建物に扉だけが新しくつけられている。まだ、留め金が磨かれたままの艶を残し、ランプの明かりに光っていた。
一人きり、ベッドに横になった。
両手を伸ばし、天井を眺める。暗がりにかすかに揺れる影に目を細め。
ずっと馬に揺られ、疲れた腰をぐんと伸ばした。
はふ、と。溜息に似た息を吐き出す。

吐き出したのにまだ、胸の奥は重苦しい。
ダンテスの言葉を思い出した。
リツァルト侯爵の残した領地、市民が勝手に分配した?
違う。
侯爵様は市民が作るだろう議会と、それで選出される市長に任せたはずだ。そこで、分配されたんだ。農民は自分の土地を持って自分のために耕す。
そうして初めて、この土地が潤うんだ。あれだけ見事に実った麦を、誰も収穫していないのはダンテスがなにかしているんだ。
気になる、だけど。
今は侯爵様のために急いでファリに向かわなきゃいけない。
侯爵様の命に関わるんだ。


とおく、かすかに人の声が聞こえる。楽しそうな談笑、広間での晩餐会だろう。この街に留まり、国境を護る代わりに市民から食糧を奪う。それは。
新しい体制といえるのだろうか。

不意に起き上がると、オリビエは部屋を出た。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十六話④

第二十六話:故郷を去る者、還る者



階段の下には衛兵が一人、眠そうに立っていたが、オリビエが頼むと笑って通してくれた。
「こんな夜中に、信心深いんだな」と。
目的の場所には覚えがある。礼拝堂の重い扉をゆっくり開く。かろうじて主だった柱に据えられたランプには明かりが灯っているものの、聖壇には新鮮な供物もなく、ろうそくも消えたままになっていた。
見回してみたが、誰もいない。
聖壇の脇から一段高い位置にあるオルガンまで暗い足元に気をつけながら進む。この礼拝堂のオルガンはさほど大きいものではない。オリビエの身長の二倍ほどのパイプが壁に据えられ、鈍い金属の光を放つ。
椅子に座り、ふいごに足を乗せる。ぐん、と踏み込めば楽器に命が吹き込まれる気がして、その最初の一音を響かせる瞬間がオリビエを幸福にする。
ピアノとは違う。だけど、息を吹き込み吐き出しながら奏でる楽器はあたかも呼吸する生き物。歌っているかのようだ。演奏していると対話しているようで不思議な高揚感がある。
パールス教会の立派なオルガンを思い出す。あれは大きなものだから専属の人夫がふいごを踏んでくれた。建物の一部として構築されることの多いオルガンは、場所ごとに違う形、違う響きをしている。
それもまた、人間のようでオリビエは面白いと思う。
城の建てられた時代のこの古いオルガンは、音色の種類は少ないが素朴で柔らかい響きが上質のファゴットを思わせる。パイプの主なところは金属だが、それは後から修復されたもので、もしかしたら元は木管なのかもしれない。
響き震えるオルガンにオリビエは柔らかい音とリズムを与える。
これほど苦しいのに、音色には美しいと思わされる。
何の力もなく、僕にはこの街も、侯爵様も救えないのかもしれないと不安で一杯になるのに。音に吐き出せば溜息は温かく、湯気をまとった紅茶のような穏やかな香りすら感じられる。
泣いている暇なんかない。
僕が今、こうしている間にも侯爵様は暗い牢につながれている。どんな思いでそこにいるのか。死を待つことがどれほど恐ろしいことか。
両親、ロントーニ男爵、リトー。レオポルト二世。すでにいない人々が脳裏を駆ける。
誰かを亡くすのは、つらい。
そんな話を、ズレンとしたな。

鮮やかに、この街での生活が思い出される。
悪戯のように楽しんだ、侯爵家での恋。仕方ないと従いながら、僕はアンナ夫人との危険な交わりに酔いしれてはいなかったか。本当に好きだったけれど、自分の立場と音楽を優先し大切にしてあげられなかったアネリア。僕は身勝手で。
仕方ないんだと檻に閉じこもった僕をキシュはからかって馬鹿にした。
ズレンは甘えた僕を突放したり、叱ったりしてくれた。
侯爵様は、ずっと見守ってくださった。結局、僕を一番大切にしてくれていた。護られていた。
僕は侯爵様のように誰かを大切にできただろうか。自分がどう思われても相手のために身を呈したことがあっただろうか。
僕にはまだ。侯爵様のためのレクイエムは書けない。そんな資格はない気がする。
だから、侯爵様。きっと、助け出します。

最後の響きが天窓からのぞく小さな月に届いた頃。
オリビエは拍手に我に返る。

立ち上がって振り向けば、先ほどの衛兵とその仲間だろう。十人前後の男たちが立ち上がって拍手してくれた。
「いやぁ、うまいもんだなぁ!中々戻ってこないから気になって見にきたら、仕事も忘れて聞き入っちまった」
「すごいもんだな、なぁ、あんた。あの歌、できるかい?」
一人が言い出し、そうだそうだ、と周囲の男たちも声をそろえた。
「ライン軍の歌を弾いてくれないか!」

オリビエは目を細め。
「僕が弾くとちょっと違ったものになると思うけど」
そう言いながら、再び鍵盤に向かう。
「おお、それだそれ!」
男たちが肩を組んで歌い始める。
が。
それはすぐにやんだ。
男たちは違う歌を聞くような気がした。あの勇壮な歌ではない、別のもの。アレンジされた低音は戦いを讃える陰に潜む苦しみや恐怖、悲しみすら描き出すような。兵士たちが目をそむけ、耳を塞いできた血なまぐさい現実を思い出させる。耳を塞げば音は聞こえなくなったかもしれない。やめろといえばオリビエは演奏を止めただろう。けれどオリビエの音色が響いた心はそのどれも選択しなかった。皆ただ、聞き入った。
一人は胸を押さえ、一人はごしごしと目を擦った。
同じ曲、同じ旋律。それなのにこれほど違うのか。
音は終わりに向かうほど優しく。甘さも切なさも感じさせるそれは、男たちが戦場では決して感じられないものを与えてくれる。
演奏を終えたオリビエに拍手するものはいない。
皆、自分の胸に迫った想いで精一杯だった。
「すげえな」涙をぬぐった男が笑った。
「あんた、何者だい?俺は田舎の母ちゃんを思い出したよ。戦争なんか、ってさ、いつも言ってた」
「俺は女房に会いたくなった。子どもが生まれたんだよな、昨日とどいた手紙にあった」
「何だお前、そんなこと一言も言ってなかったじゃないか!」
「水臭いな!」
「おめでとうございます」
オリビエが笑って手を差し出せば、男は嬉しそうに握手を返した。

「子供の顔を一目見るくらいの休暇はやれるぞ」
兵士たちは礼拝堂の扉を振り返り、そこにダンテス中尉の姿を認め慌てて姿勢を正した。
「あ、あの、彼らを責めないでください、僕が勝手にオルガンを弾いたからいけないんです」
「いや、素晴らしい演奏だった。とても、ただの商人とは思えないものだった」
中尉は笑っていた。その隣にリエンコ。リエンコはオリビエに歩み寄り、かすかに酒の匂いのする上着をオリビエの背にかけた。
「オリビエ様、風邪を引きます」
「ほら、でた。天使様だもんなぁ、笑えるぜ」とシェビエがけたけた笑いながら手に持った干し葡萄を一粒口に放り込んだ。
「やっぱり、この世のものとは思えない音楽でした」
とリエンコが笑い、「俺もそう思うよ」と衛兵が一人頷いた。
「さぁ、オリビエ様、お夕食がまだでしょう?部屋で……」
そう、リエンコがオリビエを促し、オリビエが歩き出したときだった。

「ダンテス中尉!中尉!!反乱です!市庁舎が襲われました!」
そう叫んで、転がり込むように男が駆け込んできた。

「出るぞ!馬を引け、召集を!」
ダンテスの一言で周囲は一変する。兵士たちはダンテスに続き飛び出していく。あっという間にオリビエたち三人は取り残され、礼拝堂は何事もなかったかのように静まり返った。
「反乱、って」
「夕食の席で聞いたのですが」
リエンコが肩に手を置き歩くように促しながら話してくれた。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十六話 ⑤

第二十六話:故郷を去る者、還る者



「クランフの国民議会、今は国民公会というそうですが、国家の財政難を克服するために亡命貴族の領地に目をつけたのです。接収し、国民に買い取ってもらう。つまりこのエスファンテの広大な農地は大半が国有財産ということになるのです。ですが、この街では公爵の亡命が早かったために先に民衆による自治が進んでいた。既に公爵様の土地は共同で耕され、街のために使われていたのだそうです。それを今更買い取れという政府に意見が分かれ、従おうとする街の議会と反対する農民とで争いが起こっているらしいのです」
「ダンテス中尉の隊は、街の議会に協力しているんだね」
「そりゃそうさ、いまや革命を妨げるものはすべて敵だからな。あの収穫されない麦畑を見れば、反乱を起こしているのが農民たちだってわかる。馬鹿だよな、したがっておきゃいいのに。どうせ、これまでだって、領主に従って麦を納めてきたんだ」
オリビエはシェビエを見つめた。
「なんだよ?革命は厳格な父親だぜ?無学な農民は革命の高い理想を理解できないのさ。躾に反抗してたらそりゃ殴られるさ。幼い民は成長して初めて父親の言っている意味が分かる。それまでは黙って従うべきだ」
「……農民がいずれ成長して、誰かの父親になれるなら、ね」
シェビエはオリビエの肩をドンと突き飛ばした。
「なれるさ!農民だって理解すれば分かる!俺の親父みたいなこと言うな!俺は貧しい農民のせがれだ、だけどな。革命の意味を理解して協力している。いずれ議場に立つような、国を動かすような仕事をして見せるさ!」
オリビエは目を細め、ただ黙った。
革命でのし上がるものもいれば追い落とされる身分もある。


その夜は古城で泊まり、翌朝発つと言い残し、シェビエは先に自分の部屋へと戻っていった。
「オリビエ様、そういえばこの城にオリビエ様にそっくりな絵があるそうですよ。マリア、聖母と題された絵画だそうで。見て見たいと思いませんか」
沈んだ様子のオリビエを元気付けようとするそれは、オリビエをますます大人しくさせた。
「……そう、そんなのがあるんだ」
男爵が好んで眺めていたあの母さんの肖像画。リエンコの中で聖母と天使という符合が一致するようで興味があるのだろうが。オリビエは嬉しくなどない。
「オリビエさま?」
不思議そうなリエンコが気の毒だが、全てを説明するのも気が進まない。オリビエはただ「ごめん、眠いんだ」と、一人先に毛布を被って横になった。

眼を閉じ、エスファンテの侯爵家を思った。確かここから馬なら遠くない。ロントーニの手から逃れ、市民が集まりだしている屋敷に辿り着いた、あれを思い出していた。あの時はズレンが護っていた。今は見知らぬ衛兵が、ダンテスの指示で護るのだろうか。反乱軍は農民たち。手に鋤や鍬を掲げ、パンを、と。
市民同士が争い、男も女も殴りあい殺しあう姿は思い出したくないのに浮かんでくる。
ぎゅと眼を閉じ、むかむかする胃を押さえ込むように丸くなる。
その内リエンコの小さないびきが聞こえ始め、低い音の一定のリズムに不思議な安堵を感じオリビエも眠りに落ちた。

悲鳴のような。甲高い声。
夢の続きだろうか。再び毛布に深くもぐって耳を塞ごうとするのにそれは、オリビエの聴覚に訴える。
人の、ざわめく声。怒鳴る声。
中庭だろうか。
三階のこの部屋も、窓が面しているから音が響く。オリビエは起き上がる。
聞いたことのある声が今ははっきりと耳に届く。
窓に駆け寄れば、朝日が昇る前の青白い空気の中、日陰の中庭に松明が白々と焚かれている。窓を開き覗き込む。
芝生と石畳、そこに兵士と市民らしき姿がある。上から見ればはっきり分かる。三十名くらいだろうか、市民は小さな丸になって庭の真ん中に集められ座り込んでいる。その周囲を兵士が槍を手に囲んでいる。
一際派手な赤い羽根飾りはダンテスだろう。
「静まれ!」怒鳴る声。
「あたしたちは正しいことを言ってる!あんたたちの言う法律が決められたのは去年のことだよ!その前の年にもう、この街の土地は皆のものだったんだ!今更、救世主ぶって革命政府ですって来られたって迷惑なんだ!」
赤毛、だ。

オリビエは部屋を飛び出していた。
背後にかすかにリエンコの声が聞こえるが、そんなことより。
あの赤毛、あの通る声。あれは。

階段下のあの兵士が「おはようござ」といいかけ、オリビエはただ、走り抜ける。
「あの!オリビエさん!?」

回廊を走り、アーチを抜け、中庭。冷たい早朝の空気に松明の苦い香り。
「キシュ!」
気付いた衛兵が横からオリビエを押さえつけた。
「キシュ!」

振り向いた少女は。美しく結い上げられた髪はもう少女というより女性で。頬は汚れ、殴られたのかかすかに腫れている。燃えるような赤の髪、縁取られる表情の強さは以前と変わらない。
あの、淡いブルーの瞳がいつも眩しかった。

「お、オリビエちゃん!」
ちゃん付け、なのかと微妙な表情の兵士たちに気付く余裕もなく、オリビエは振りほどくと駆けつける。
「キシュ」

あれ程悲しみ、二度と会わないと誓ったのに。
抱きしめ、それはずっと変わらない、華奢な痩せた感触。
しなやかで悪戯な猫のまま。
「キシュ、会いたかった」
と。口をこぼれた。
ずっと、ずっと願っていた瞬間。それはオリビエの中で何かを溶かした。溢れ流れる想いは春の雪解けに似ている。どう、表現していいのか。会いたかったのだ、ずっと。
会いたかった。

もう一度顔を見つめ、思わず口付けしたい衝動に駆られるが、頬の痛々しい傷がとどめた。
「……キシュ、君はどうして」
「こっちこそ、言いたいよ!亡命したあんたがどうしてここに」
ざわ、と。オリビエの中で警鐘が鳴り、駆けつけたリエンコが名を呼ぶのと同時。ダンテスが口を開いた。
「亡命だと?」

背後にダンテス中尉の気配。
振り返れば衛兵に囲まれ、オリビエも叛徒と同じ円の中にいる。

「亡命とは、どういうことですかな。リエンコ殿、確か商人の子息で外国へ勉学のために行っていたのだと、聞きましたが」
オリビエを追ってきたあの階段下の衛兵は隣に立つリエンコに槍を向けようかと構える。
オリビエはとっさに首を横に振る。
だめだ、リエンコまで捕まったら、いけない。

「私もそう聞き、雇われました」
表情に微塵も出さず、リエンコは言い切った。
「私も騙されたのです」
「ふん、なるほど。だから、あの肖像画、か。オリビエ殿、あの肖像画は貴族が描かせたもの。貴方にゆかりのある女性ということですかな」

「オリビエちゃん、あたし……」背後のキシュがごめんなさい、と呟く。しゅんとして素直なそんな姿は記憶になく、新鮮で可愛らしい。それを味わう余裕もなくオリビエは少女を背後に庇うように立ち尽くしていた。

敵陣に踏み込んでいたのだ。それを忘れた。

オリビエはダンテス、そしてリエンコを真っ直ぐ見つめた。

「あれは。僕の母、マリアの肖像画です」


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