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「音の向こうの空」第二十七話 ④

第二十七話:革命の表裏



昨日の荒れた天気を塗り替えるようにファリは見事に晴れていた。ぬかるんだ道を馬はご機嫌よく走り、シェビエはライン軍の歌を鼻歌に都を眺めながら進む。
通りの両脇には五階建ての共同住宅が並び、尖がった屋根からはかすかに煙が流れる。昼を前にして街は一日の始まりから少しだけ落ち着きを取り戻したかのようにまばらな人馬を残して静まっていた。通りかかった水売りに声をかけ、馬と自分のための水を買う。

「ファリは初めてなんだ、随分立派な町だな」
シェビエが笑えば、水売りはそんなもんですかい、とたいして嬉しそうでもない。
水を分けるひしゃくに視線を奪われていたシェビエが一口喉を潤そうとした時、大きな鐘の音が鳴り響いた。
思わずむせて、危うく大切な水をこぼすところだ。
「な、んだ、今の。こんな時間に鐘が鳴るのか」
水売りは遠く聖堂の方角だろう、そちらを眺め、呟いた。

「また、誰かが処刑されたんですよ」
「そうか。…仕方ないさ。そういう、ご時勢なんだ」
政治犯は許されない。この新しい体制を守るためには、反乱の種は種のうちに。それは軍隊の中でも同じだ。シェビエは一気に飲み干した。
「血が流れるから花が売れる。人が飢えるからパンが売れるように」

若い伝令兵の言葉に水売りはかすかに皮肉な笑みを浮かべて見送った。


人が群がる処刑場の脇をシェビエはわざと選んで通り抜けた。
見物席の脇には儲けた席料を数える商人が、小物じゃ金にならんと呟いている。
処刑が終わったために人々はばらばらと波が引くように減っていく。その後に踏みつけられた新聞が風にあおられた。ふと目に止まりシェビエはそれを手に取った。
裁判、反乱、亡命貴族、とだけ大きな文字が目に入る。後はよく分からないが、兵舎の誰かに読んでもらおうと荷物の中にねじ込んだ。
広場に作られた柵の内側には不気味な機械が見える。ギロチンとはこれか、とシェビエは眉をひそめた。重そうな刃を持つその禍々しい機械は人々の視線を集め、まるで教会の聖像だなと皮肉な気分になる。

国民公会の方針に従うと宣誓しなければ僧侶は僧侶とは認められない。旧勢力の貴族出身の僧侶は反発したり騒動を起したり、亡命したものもある。
教会の資産、つまり僧侶の資産もまた国に没収されていた。

すべての人が平等で、すべての人に幸せになる権利がある。そう説いてきた神の教えは人の力で実行に移される。祈るだけではかなえられないと皆が知ってしまったのだ。

再び鳴り響いた鐘。
立ち止まっていた自分に気付き、シェビエは馬を引き歩き出した。




シェビエが陸軍本部に到着し、エリー将軍に面会できたのは昼すぎのことだった。詰め所の一階で兵士たちが席に座り、休憩を取っているその片隅で小さなテーブルを前にシェビエはエリーと向き合った。若い将軍は金の巻き毛を一つに結わえ、涼しい蒼い瞳で手渡した書状に眼を通す。

「あの、こんな場所では話もしにくいのでは」と。余計とは思いつつも、周囲の笑い声にシェビエはさらに声を潜ませ将軍に提案する。場所を、変えたほうが。

「いや、執務室には誰の目があるか分からないからね。ここでいい」
冷静に答えるエリーは視線をシェビエに向けることはない。
書状の内容を知らないシェビエはエリーの表情から伺おうとじっと見つめる。若い将軍だとは聞いたが、マルソーより年下に見える。くるくると伸びた金の髪は貴族出身なのではないかと思わせた。エリーの整った容貌にいつの間にか興味が移り、背を丸め上目遣いで見つめるいつもの癖が出る。

「君、一人なのか」

え?と。言われた意味が飲み込めず、シェビエは椅子にのけぞるように顔を上げた。
「同行したものはどうした」
「あ。ええ、オリビエっていう男を連れて行くように、マルソーさんには命じられたのですが、エスファンテで亡命貴族だと判明したんですよ。それで、その地の駐留軍に任せてきました」
溜息が聞こえた気がして、シェビエは手紙を手にしたエリーの顔を覗き込もうと首をかしげた。
「あの、なにか」
「いや。エスファンテ、か。かの地はどういう様子だった。豊かな土地だと聞いている。ここ数年、あの街では飢饉の影もない」
「麦は生っていましたけど。農民と街の議会がもめているようでしたよ。土地の所有を巡って、意見が対立しているのです。あの街を去った領主は市民に街を委ねたらしいですが、今の法律じゃ亡命貴族の資産は国のもの。市民はそこに反発しています。よせばいいのに」
「……前線の背後を護る、大切な土地だというのに」
エリーは呟く。
前線には、親友のマルソーがいる。

次へ♪
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「音の向こうの空」第二十七話 ⑤

第二十七話:革命の表裏



夜半のカフェは気だるい昼間よりは熱い言葉が行き交っている。ファレ・ロワイヤルの一角のカフェ『エスカル』も同様。
酒の入った男たちは今日の裁判の行方を語りだしていた。
「亡命貴族だぜ、それがどうして無罪だ」
「農民の反乱で仕方なく外国に逃げたんよ。国境の町ではよくあることらしい。飢饉と農民一揆、慌てて国外に逃れて戻ってみれば王国は革命が起こっていたってよ」
「いや、おかしいだろ。避難するならここに逃げ込めばよかったんだ、そうだろ」
「何でファリなんよ。ファリが何でも中心だと思うなよ」
「誰もそんなこと言ってない。自分が田舎ものだからって貴族の味方か、お前は」
数人が言い争いをはじめた。ファリの訛りと地方の訛り。地方から終結した義勇軍はファリの市民兵とそりが合わない。
「田舎とはなんだよ」
「本当のことじゃないか!」
店の片隅。小さなオルガンのすぐ脇のテーブルに、一人男が座っていた。
黒い髪は短く、腰のサーベルと肩の徽章で軍属と分かる。
常に鋭い視線も今は伏せられ、手元に置かれたワインのグラスを眺める。背後で立ち上がった男たちの振動でいくつかの波紋が揺れた。
不意に男が口を開いた。
「裁判員と陪審員が決したことだ。それ以上言うなら法廷侮辱罪に問われるぞ」
青年の声は鋭く、低く。男たちは慌てて目をそらし、次の話題を探そうと新聞を肴に酒をあおる。
「なんだよ、あれ」
ぼやく声。
「し、マルセイユの連隊長だぜ、ズレン・ダンヤ。エスファンテから参戦してすっかり連隊長の座を奪った男だ。今は司法長官の秘書なんだ。切れ者なんだと」と誰かが応える。今度はマルセイユ連合軍の噂話に夢中になる。

放っておけ、とズレン・ダンヤは自らに語り、溜息と供に椅子に身体を預けた。かた、と椅子がオルガンに当たり音を立てる。かつてそのオルガンでこの騒がしいカフェを静まらせた青年がいたことをズレンは知らない。
忌々しげにオルガンを振り返るその視界に、放っておけない人物が店の扉を鳴らして入ってきた。
男の姿を見た瞬間、十数名の客が鞭打たれたように立ち上がり、皆一斉に男に対して頭を下げる。御用を伺おうと手をもむ主人に、「紅茶を」と笑い、男はまっすぐズレンのテーブルへと足を運んだ。
エリー。現在国民衛兵の南部を指揮する将軍。バスティーユでの活躍と若く麗しい容姿とで南部軍では革命の象徴的な存在として崇拝者も多い。平民出身の彼は国民公会のどちらの党派に属するのも嫌っているために、思想のない戦争屋と揶揄する記事が出るなど敵も多い。失脚させようと何かしら裏から手が廻されているという噂もある。

エリーはにこやかに微笑みかけ、ズレンの正面に座った。
「…」ズレンが黙って自分のワイングラスを手に取る。

「知っているか。オリビエが戻ったそうだ」
ズレンはぴくりと眉を揺らし、視線をはじめてエリーに向けた。
「貴方がご存知ということは。捕まったのですか」
黙って頷くエリーに、溜息が届く。

「…エスファンテですか」
「ああ。あそこはダンテス中尉だ。調査委員が向かったそうだ。彼には。オリビエには取引する土地も資産もない」
つまり死刑。
「あの馬鹿……」
かすかな苛立ちをズレンに感じ、エリーは目を細めた。

「かの侯爵と話したか?」
エリーの問いはズレンを最近悩ませているそれだ。
「ええ。取引するものは持ち合わせていないとおっしゃっています。土地も権利もすべて市民のものだと。それは、今のエスファンテでは不味いことになる。国民公会は国境の町の自治を嫌う。侯爵が土地も資産もすべて国民公会に譲渡すれば、街の混乱もあの方の命も救われるのに」
「欲のない方だ」
「おかげでエスファンテの街は二分されています。また、馬鹿が革命もどきを起さなきゃいいが」
「気になるなら、戻ってみたらどうだ」
「…貴方はお忙しく、動けない、ということですか。私にオリビエのことを伝えるのも、そういうことでしょう?」
「可愛がっていたと聞いた。だから知らせただけだ。好きにすればいい。私は私の考えで動く。かの地の動乱をどう防ぐのか、国境の街、あの先のライン戦線にはマルソーもいる。ヴィエルテの二の舞は、ごめんだ」
ヴィエルテ。この西の街は革命政府に反発する僧侶が市民とともに抵抗を続けていた。市民の誰が反乱分子で、誰がそうでないのか。調査委員は「ごく平和な村です」と報告するがその数日後には国民衛兵が何者かに襲われる。軍は対応に苦慮していた。
革命政府が人民を代表する大義名分を持つ限り、村ごと焼き払うなど出来はしないのだ。

「あれも。革命に対する理解が不足している。真に市民のためを思えば、扇動している僧侶たちは身を引くべきだ。リツァルト侯爵がなさったように」
ズレンの手元でグラスが揺れた。白いワインを静かに揺らし、男は一気に飲み干した。
添えられたチーズと干しぶどうは手付かずだった。
「早期に亡命したリツァルト侯爵は賢明なご判断だった、と。それは政府内にも理解者はいる。しかも侯爵はかつて三部会の議員だった。それも、平民に味方した数少ない貴族議員だ」
エリーが目の前に置かれた温かい紅茶に目を細めた。
「だからこそ、釈明の余地もあります。もう一度、お話してみます。数人の議員に頼まれてもいますし」
「議員、か」
「ええ。国王が幽閉されている今、王党派*1議員は少しでも力のある理解者を求めようとしています。リツァルト侯爵を味方に引き込みたいのでしょう。国王の逃亡事件以来、共和派*2の方が優勢ですから。共和派は王党派に力を与えるくらいなら自陣に侯爵を引き入れたい」
つまり、どちらも影では侯爵の生存を願う。
「ズレン、お前は王党派なのか」
「いいえ。どちらでも」
ズレンは立ち上がり、最後までエリーと視線を合わせることもなく立ち去った。
残された干し葡萄の一粒を枝から千切り、エリーはまだ熱い紅茶を手に取る。
エリーが親友のために尽力を惜しまないように、ズレンはオリビエを護ろうとするだろうか。
メジエール工兵学校時代から、あの男は冷徹だった。有無を言わせない判断力と洞察力。身分の差がなければ今頃はもっと高い地位にいただろう。革命に乗じて表舞台に上るかと期待もした。結局のところ、貴族出身の士官が幅を利かせる軍内にあって思うところもあるのかマルセイユ連合軍に身を置き、ファリに来てからは議員の秘書まがいの仕事をしているらしい。
「本来なら。あの男こそ、前線で軍を率いるにふさわしいのに」
小さく呟いたそれは、葡萄と一緒に噛み砕かれ誰の耳にも届かずに終わる。

(*1:王党派。国王の元で国民の選出した議会が政を行う啓蒙専制主義を目指す派閥。*2:共和派。国王という存在な必要なく、国民だけで政を行おうとする党派。)


カフェの外はすでに冷たい風が吹き始めていた。
コートの襟を引き寄せるズレンに、今まさに馬車に乗り込もうとしていた一人の夫人が声をかける。
「あら、ジョスパーのナイフじゃない。丁度いいところに。彼も後から来るのよ、私のサロンにいらっしゃいな」
ズレンは司法長官ジョスパーの秘書として雇われて以来、議員の連中にそう呼ばれていた。軍人上がりの議員ジョスパーはどちらかといえば頭の回転は遅い。そこを補うズレンの存在は議員たちから揶揄を込めてナイフと呼ばれた。声をかけたフラン夫人は女性ながら内務大臣を勤める。先日もジョスパーをサロンに呼び、戻ってきたジョスパーはすっかり陶酔し夫人に骨抜きにされているようだった。
ズレンは肩をすくめ、「申し訳ありません、フラン夫人。私のような無骨者が貴方のサロンにお邪魔しては、興ざめというものでしょう。どうぞ、お構いなく」とにべもなく笑ってみせる。
夫人はこちらもわざとらしく目を丸くして見せると、「残念ね」とオヤスミナサイの言葉を残して馬車に乗り込む。そのすぐ後に、夫人の取り巻きがズレンを睨んでいく。
サロンではなく。国民公会や党派のクラブで話すべきだろうと心の中でつばを吐き、ズレンは歩き出した。

国民公会では先日から国王を裁判にかけるのかどうかが議題にされている。党派はいくつものクラブに分裂し、論争に明け暮れる議会に飽きたのか興味深く見守る市民も今はいない。民衆はこの国の行く末などには無関心。革命によって得たものをどう保つのか必死になっていた。財を成せば守りたくもなる。
かつて利己主義に走った貴族たちは、規模を小さくしブルジョアや市民といった姿となって国にはびこる。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十七話⑥

第二十七話:革命の表裏



人気のない通りで辻馬車を雇い、ズレンは深夜訪れるものの少ないそこへと向かった。
アベイ監獄。ほんの二ヶ月前、反革命主義者と誤解された囚人が大量虐殺*されたその場所だ。「薄気味悪いんで、急いでくださいよ」と御者はズレンを降ろすとすがるように馬のそばに立った。(*1792年『9月虐殺』と呼ばれる事件。反革命主義者がパリ市街を襲うなどという噂に翻弄された市民が恐慌を起こし囚人を襲った)

ズレンは裏口に立ち、小さな鉄の扉を叩く。
少ししてのぞき窓から気配がし、扉は開かれた。
門兵に「いつもすまないな。誰にも知られないよう、こっそり楽しんでくれ」と、紙に包んだワインを一本手渡した。それを持つ手に紙幣が一枚。受け取りながら兵はにやりと笑う。
誰にも知られないよう。

ズレンは牢獄の最深部へと進む。虐殺騒ぎ以来囚人は減り、通りかかる牢はほとんどが空。掲げたランプの炎の音すら聞こえるくらいに静まり返っている。

ぬるぬると湿気の垂れる壁、床は歩く場所を選ばせるほど異臭を放つ液があちこちに溜まっていた。この吐き気のする匂いだけはいただけないとハンカチで口元を覆い、手にしたランプ以外何にも触れないようにズレンは細心の注意をはらっていた。衛生状態の悪いこういう場所ではどんな病が運び込まれているか分からない。

目的の牢の前に立つと、足元に置かれた小さなトレーに、手をつけていないパンらしい塊が残っていることに気付く。
「侯爵様」
かすかな物音。すぐに「だれだ」と返事が聞こえた。
「ズレンです。すみません、お休みのところ」
侯爵が眠っていなかったことは分かっているがそう口にする。
扉の向こうで、うむ、とかすかな声。

「これを。明日にでもお読みください。この男はヴィエルテの反乱を避けて外国へ行っていたという主張を通し、無罪となりました。侯爵様も同じ主張をなされば、あるいは無罪を認められるかもしれません」
く、と小さな笑いが届く。
「わしは市民に街を委ね、外国へ移住したのだ。追い出されたわけではない」
「ですから!それがよくないと申し上げております。領地はすべて国に譲ると、どうか書面を。そうなされば何の苦労もなく貴方は解放されます!」
「自分のために市民から土地を奪うなら、最初から亡命などしてはおらん」

落ち着いた声。姿を見ることは出来ないが、リツァルト侯爵はこの気の狂いそうな牢内にあってまだ健在なのだ。豪胆な軍人だったと聞いた。
ズレンは感心と同時に悔しくなる。腐敗した貴族もいるだろう、だが侯爵のように立派な人物ももちろんいる。それを議員たちは見抜けない、いや。見ようとしない。過去をすべて批判することが彼らの未来を正当化することだから。
そのために。
「貴方が、こんなところで命を落としたら……オリビエを誰が救うのですか」
「何?」
彼の名を出せば、気が変わるかもしれない、そう考えた自分と、予想通り反応を返す侯爵にわずかに苛立つ。ズレンは持っていたランプを右手に持ち変えた。
「オリビエがエスファンテで捕らえられました。亡命貴族として、です」
侯爵は黙った。
しばらく返事を待っていたが、扉の向こうは静まり返ったまま。
「かの地の領主として貴方が戻られれば、貴方の采配で裁判ができる。オリビエを救えるのです。貴方が助からなければ、オリビエも」
「ばかもの」と。それは溜息交じり、その上笑みを想像させた。穏やかな口調だ。
「オリビエ一人と、二万の市民とを比べろというのか。ズレン。わしがどちらを選ぶかなど、分かっておるだろう」
ズレンは口を閉じた。
「あの世で。あれが怒るかもしれん。それもまた、一興」

なにを言っても、無駄なのかもしれない。
ズレンは知らず深いため息をついていた。
「そうですか」
「ズレン。もし、お前に出来るなら。あれを助けてくれんか」


「!あなたは!」思わず扉を拳で叩いていた。
なぜ、何のために。
ずっと押し殺してきた疑問がズレンの口をついて出た。
「なぜ、オリビエをそこまで可愛がるのです!以前から、ずっと、ずっと疑問に思っていました。ご子息がおられないからですか!それとも何か別の理由があるのですか」

大きくなった声は反響し、うわうわと不気味な響きを残す。
ふはは、と。反響はいつの間にか侯爵の笑い声になっていた。

「いや、わからん。分からんのだ。お前も知っていただろう、あれはアンナと通じていた。わしの一言で人生を終わらせることも出来る弱い存在のあれが、妻を寝取るのだぞ。憎まなかったと思うのか。可愛がるはずもない。表舞台への道を断ち、女が出来れば引き離した。音楽家としての名誉も男としての幸せも与えるつもりなど無かった。だが。なぜか今も毎夜、あれの奏でる曲を思い出す」

「憎みきれん、というのか。あれの演奏は人知の及ばぬ領域だと思うのだ。人として男としてのあれを好まなくとも、音楽を奏でる生き物として惜しいと思う。神があれに与えた才能をわしが潰すことはできん。だた、それだけのことだ」

「私には。分かりません」
そう呟き、ズレンは踵を返した。
かつて、自分自身にも問いかけたことがあった。
彼らの亡命を見送ったあの日、なぜ少年にオリビエを頼むなど、口にしたのか。
なぜなのか、自分の中の答えは侯爵とはわずかに違うと感じる。霜で凍った窓のようにのぞこうとしていくら拭っても見えはしない。自分の胸のうちというのに。ズレンは苛立った。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十七話⑦

第二十七話:革命の表裏



ズレン・ダンヤが深夜の面会を果たした数日後。急遽、リツァルト侯爵の裁判が行われた。八月に設けられた特別裁判所が今や「特別」の枠を広げ、革命に反するものの裁きを引き受けていた。
十六人いる陪審員はブルジョアや哲学者など。中には貴族もいた。
ズレンがそれを知り、テュイルリー宮殿の法廷に入ったときには人の生死を諮る儀式とは思えないほど倦怠した空気が漂っていた。
議員席の司法長官がズレンに気付くと手招きした。
「随分、早い裁判ではありませんか」
そっと尋ねれば、長官は腹をなで「うむ、大臣のお考えだ」と髭を丸い指先で整えた。

「では、亡命し、我が国に反旗を翻すアウスタリア帝国軍に加担したことを認めるのだな」
そう、裁判長が侯爵に話しかけた。
「お待ちください!私はかつて、リツァルト侯爵の元で衛兵を勤めておりました。侯爵が亡命なさった時、故郷では市民が蜂起し、耐えられない状況でした!かのヴィエルテで難を逃れるため国境を越えたのと同様、侯爵も仕方なかったのです」
ズレンは立ち上がり、陪審員と裁判官に語った。
陪審員の一人として臨んでいたフラン夫人はまあ、と。めったに見ない青年の情熱的な姿に目を細めた。
隣に座る取り巻きの議員が小さく舌を鳴らす。

「ところが、だ」
裁判長は落ち着いていた。
先ほどまでの、淡々と麦を踏むように進めていたつまらない裁判にズレンが吹き込んだ風が心地よいとでも言わんばかり。声にまで張りがある。
「ヴィエルテと同様、と主張する亡命貴族はこれで十三人目なのだ」

く、と。笑ったのはリツァルト侯爵。
「ズレン、わしを恨むのは勝手だが、大人しく裁きを受けようというのだ、さらに貶める必要もあるまい。死の際に市民を犠牲にするほど業の深い人間ではない」
「侯爵……」
「裁判長、わしとこの男はかつて関連があった。だが今は何の関わりもない。追い出してくれんか」

裁判長が手を上げ、それに答え衛兵が駆け寄る。
両脇を固められ、ズレンは法廷を後にした。幾度も侯爵を振り返る。
リツァルト侯爵は二度とズレンのほうを見ることはなかった。

「ほら、出て行け!これ以上、侯爵に味方するなら、お前も反逆罪とみなして逮捕するぞ」
そう脅しつけ、ズレンを突き飛ばすと衛兵たちは戻っていく。
侯爵はズレンを巻き込むまいとわざと突き放した。
オリビエと同様、自分も庇われているのだと思えば、ふがいなさにズレンは座り込んだまま地を殴る。


「なかなか、麗しい信頼関係なのね」
透き通った女性の声。見上げればフラン夫人が扇子で口元を隠し立っていた。
向こうに見える夕日に後れ毛が金色に輝き、華奢な白い首を異常なほど美しく見せた。
分かっているのだろう、それを。ズレンの視線を促すように首から胸へと扇子が誘う。女流文士から今や立派な議員の一人である夫人は「これで刑が確定すれば、大急ぎで執行されるわ。今や議会は国王裁判でそれどころじゃないものね」と笑った。
ズレンは衛兵に投げつけられたマントのほこりを払い、手に抱えると立ち上がった。
夫人を完全に無視している。

「おかしいと思わない?この間まで、後回しにされていた裁判が急に行われたの」
「……国王裁判が忙しいからでしょう」
そう、自分で言ったでしょう、と。冷ややかにズレンは夫人を眺め裁判所を後にする。
そうしながらも、夫人の言葉が脳裏を駆ける。おかしい。なぜ、急がせた。かのエスファンテの土地を確実に所有したいと願えば、政府は忍耐強く侯爵を説得するべきだった。
なぜ、それを突然放棄したのか。それとも。共和党のうち、侯爵を引き入れれば戦力となると考えるジロンド派に対し、地方より中央集権を優先するモンターニュ派がその腹の内を行動に移してみせたのか。モンターニュ派は九月の反革命容疑者の虐殺騒ぎの主犯ではないかと新聞が書きたてたために独裁的な行動は控えていたはず。
司法大臣はモンターニュ派。やれないこともない。

このままでは。エスファンテの土地はどちらのものともつかず、早まった市民が反乱を起こせば。真にヴィエルテの二の舞。



鐘が鳴っていた。
不思議なほどそれはオリビエの気持ちを安らかにした。
パールス教会の音とは違う。それでも鐘が鳴ることは誰かが祈っているのだと思えた。ファリに到着するといわれた日の午後。覚えのある橋を抜け、建物が高くなるのを馬車から眺める。鐘の音が迎えるように包み、オリビエはそっと窓際に身体を預ける。
囚人として運ばれる心地は、悪夢に似ていた。両親を失った日、結末を知っているのに自分だけ納戸に閉じ込められた。だめだ、それじゃだめだ。お父さん、お母さん、と叫んで夢は終わる。結末は、繰り返す。どれだけ変えようとしても過去は変わらないのだと、目覚めるたびに思い知らされる。それでも夢に見るたびに、今度こそ、僕が両親を救うのだと必死になる。
それに似ていた。
侯爵様を救いたい。
救いたいのに僕は何もできないかもしれない。
その不安が悪夢を見せる。

うなされ目覚めると鐘の音に癒される。
衛兵が心配し、「医師がいるといいのですが」と、オリビエの額に手を当てた。

ファリに到着したのだと、馬車が止められた時。オリビエは熱のために歩けないくらいだった。衛兵に支えられて降り立てば、「私が薬を持っています」と、リエンコが荷物から薬を取り出した。
「風邪でしょう」と、衛兵に話しながらリエンコはオリビエの口に粉薬を注ぎ込む。
苦く甘いそれは吐き出したくなる。
「オリビエ様、飲んでください」
口元に水の器を当てられればオリビエは苦しくて、一気にそれを飲み干した。
ざらりとした薬の感触と、喉を刺激する水が飲み干した後に安堵に似た溜息を吐き出させる。
「もう一杯、水を」
火照った喉に水は心地よかった。
「ルードラー医師に頂いたものです。貴方は風邪をよく引きますから」
リエンコが笑い。オリビエはありがとうと礼を言う。
衛兵にオリビエを預けると、リエンコは「私はファリでも見物します」と、一人馬に乗った。
大柄なロシア人を見送りながら衛兵は「変わった人だな」と、呟く。
「見物も何もないだろうに。オリビエさん、貴方がもし」
死刑になるなら…。
そういいかけ、衛兵はいつの間にか眠っているオリビエに気付く。
「なんだ、背負わなきゃならんのか」
薬が効いたのか、青年の寝顔は穏やかだった。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十七話⑧

第二十七話:革命の表裏



ズレンがオリビエの到着を知ったのは、それから半日してからだった。
今、その報をもたらした女性を目の前に置き、住まいの近くのカフェで遅い夕食を取っていた。
「あ、これ、なに。美味しい」
逞しさすら感じさせるキシュは、目の前の魚の燻製をひっくり返した。
「お前の嫌いな魚だ」
う、と。動きを止めるキシュにズレンは呆れた溜息を吐く。
「大体、何でお前は単身ファリになんか出てきたんだ。俺は世話しないからな」
「うん。見届けたいの」
「リツァルト侯爵なら」
「違うよ。オリビエちゃん」
皿に視線を張り付かせたまま、キシュは敵のように肴にナイフを入れる。
「助けたい。でも、助けられないかもしれないんだ。だから力を借りたいの」

「あれがファリに着たのか」
ズレンの言葉に初めてキシュは顔を上げた。目を丸くしている男にキシュも口を尖らせた。
「なに、知らないの?」
「俺が何でもかんでも知っていると思うな。ま、情報は少なくとも、判断力がお前の数倍だからな。聞かせろ」
キシュは肩をすくめた。
「相変わらず。オリビエちゃん、いつの間にか侯爵様の養子になっていて、だからファリで裁判されるって言うんだ。そういうもんなの?」
頼りになる年上の幼馴染は、ファリや政府の法律に詳しい。質問の答えを待ってキシュはじっとのぞきこむ。青年の応えのうちに少しでもオリビエを救う何かが見つけ出すことが出来るかもしれない。
キシュの期待を裏切り、ズレンはフォークに刺した魚が頭から墜落するのもかまわず、じっとキシュの顔を見つめる。つまり二人は沈黙のまま数瞬見つめあう。
「養子、か。だから、そうか!」
だから侯爵は不用になり、裁判が早まった。
フラン夫人の問いの意味が分かる。オリビエの存在が政府に知られ、侯爵は不用になった。
リツァルト侯爵がうんと言わないなら、エスファンテを継ぐオリビエに譲渡の書類を書かせればいいのだ。それゆえ、公会はオリビエの到着までにこちらを片付けた。
オリビエも望んでいたわけではないだろう。公爵も知っていたはずはない。
それでも二人の関係が、決定的な離別を演出したのだ。


くそ、と。歯噛みする青年をキシュは不思議そうに眺めた。
「何か、あったの」

まずは。この娘にことの説明をしなくてはならない。オリビエが捕らえられたために侯爵は命を落とした。その事実を、どのタイミングでオリビエに知らせるにしろ。キシュに余計な動きをされては、助けられるものも助けられない。
侯爵は、最期まで寡黙で立派な男だった。

「ズレン?なに、泣いているの?」
キシュは見たことのない表情をした。
この際、理由など、どうでもいい。自らが後悔しない選択を。
ズレンは手にしたグラスを静かにテーブルに置いた。まだ、一口も飲んでいない酒はその夜、二度とズレンの口に運ばれることはなかった。
「いや。泣いている時間があるならば。しなければならないことがある。飲んでいる場合じゃない。キシュ。リツァルト侯爵様は。今日、処刑された」




不思議なほど、静かな午後だった。
裁判が滞りもなく決し、迅速に刑は執行された。
ズレンが処刑場に駆けつけたとき、すでに鐘の音が響き人々は「亡命貴族」という悪に一通りの悪態をついて侯爵の死を穢した。
この地に生まれた人ではなかった。遠いプロシアで生まれ、時代に翻弄されこの国に住んだ。国王の時代には軍に属し偉業を残したという。そのためにこの国の貴族として称号を得、国王の遠縁に当たるアンナ夫人を娶った。
この国で、生涯を安定のうちに終える予定だった。
革命を知り、民に土地を譲り退いた。
最期まで保身のために民の土地を取り上げることを拒んだ。誰もそれを知らず、誰もそれを賞賛しない。
今、ファリの市民が石を投げ、つばを吐きかけるその遺体が、どれほど愛情に満ちていたのか。エスファンテの市民なら理解しただろう。

キシュは小さな頭を震わせて泣いた。
「オリビエちゃんは、まだ」
「知らない」
「あたしが、あたしが悪いんだ。オリビエちゃんのこと、ばらしちゃった。だって、あんなところにオリビエちゃんがいるなんて、思わなくて。だって」
頭を、数回なでてやる。幼い頃から、キシュとはそんな関係だった。
「侯爵様に頼まれているんだ。あいつを助ける」
キシュはただ、頷く。
「方法はある。俺に任せてお前は大人しくしているんだ。余計なことをしでかしたら、今度こそオリビエを失うぞ」
「やだ」と。小さく呟いたキシュに、ズレンは苦笑する。素直さに欠ける。そこがこの娘の悪いところでもある。
「一つ聞いておきたいんだ。あの歌は、オリビエの作曲なんだな?お前、あの歌をあちこちで歌ってただろう。エスファンテに新しい義勇軍が通りかかるたび、酒場で歌を聞かせていただろう。なぜだ」
歌はいつの間にか革命の歌としてライン軍に広がった。ライン軍のストラスブール駐在中にある大尉が詩をまとめ司令官に献呈した。それが革命の歌となり、今やファリでも歌われている。それはキシュの企みかと、歌を耳にするたび疑問が渦巻いた。
「だってさ。ライン軍のあの人たちは、アウスタリアに向かうって言っていたし、あの人たちが歌えば、その。オリビエちゃんに届くかもって思って」
は、と。ズレンは切ない息を吐いた。
「だったら最初から、亡命させなきゃよかっただろう」
「だめ。侯爵様のそばにいなきゃ、オリビエちゃんは楽士でいられないんだ。あんなに手を大切にしていたオリビエちゃんが畑を耕すなんて出来ない。だけど。エスファンテに留まったら、それをしないと生きていけないんだ」
唇を噛んで、キシュはうつむいた。
「今度こそ、素直になれよ」
ズレンの言葉の意味をキシュは握り締めた拳と供に膝に抱えていた。

次回、第二十八話「牢獄の天使」は5月18日公開予定です!

「音の向こうの空」第二十八話①

第二十八話:牢獄の天使



これが。バスティーユなのかと、その大きさにオリビエは圧倒された。八つの塔とそれをつなぐ巨大な壁。馬車は跳ね橋を渡り、堀に流れる水が陽光をはじき、嫌がおうでもオリビエはそこに目が行く。眩しさに目を細め、今度は馬車の窓に顔を貼り付けるようにしてくぐり行く城門を見送る。
一つ、二つ。三つ。三つの跳ね橋を渡ってどうやら到着したらしい。
かつては要塞、その後は牢獄。所々崩れた城砦は革命の傷を物語る。
その薄暗い館内は平らでない石畳に躓きそうになる。うあ、と呟けばそれすら木霊し、聞きつけた誰かがなにやら声を上げる。囚人たちが変化を感じ取り、尋ねる。
「誰か来たのか。誰か死刑か。それとも日に三回目の昼飯か」
げらげらと笑う声。低く唸るような歌のような文句に、オリビエはぞくりと震える。

「すみません。ここは思想犯ばかりではないので」
衛兵が頭を下げた。
「大丈夫、独房ですから、オリビエさん」
何が大丈夫なのかよく分からないが、衛兵は貴方が無罪になることを祈っていますと無邪気に力いっぱい握手をし、背の曲がった牢番にオリビエを引き渡す。衛兵はいそいそとファリの我が家へと去っていった。
その嬉しそうな顔に、オリビエは少しだけ救われてまだ気だるさの残る身体を寝台に横たえた。
「せめて、藁があったら楽しいのに」
今や真の籠の鳥。音楽すら手元になく、オリビエはひたすら夢の中でピアノを奏でる。


夕日の当たる牢だったのが、せめてもの救いだった。暗がりに小さな高窓から差し込む神々しい金の光は、真っ直ぐオリビエの足元を照らしていた。ベッドに座り、きらきらと小さな埃が輝いて中空に揺れるのをぼんやりと眺めていた。
到着したときのような他の囚人の音は感じられなかった。息を潜めているのだろうか。すぐ近くで鐘の音が聞こえた。
ここにも礼拝堂があるらしい。オルガンはあるだろうか。
そんなことを考えながら、オリビエは心に浮かぶ旋律を奏でたくて空を弾く。
金の光の筋を鍵盤に見立て、そっと奏でる。

「お前だけには、聞こえるのか」
気付かなかった。

びくと、顔を上げ。扉を見つめれば格子の窓の向こうに見たことのある華やかな姿。
「あ、あの。エリーさん、ですよね」
立ち上がりそばに寄れば、ガチャと扉が開かれた。
「大丈夫だ。この男と話がある」そう牢番に告げ、エリーはその手に数枚の紙幣を握らせた。
牢番は赤い鼻をすすり、大げさに頭を下げて出て行った。
エリーがまるで居間のソファーに座るように、躊躇なくオリビエの寝台に腰をかけるから、オリビエは慌ててぐしゃぐしゃになった毛布を隅に押しやった。埃だらけの石壁、日の当たらない床、そこに降り立ったエリーは神々しくさえある。
とてもくつろげる場所ではないはずなのに、エリーは優雅な身のこなしで脚を組んでオリビエを見上げる。
「どうした、座らないのかな」
「あ、いえ」
慌ててちょこんと隣に座る。
「あの頃と、変わらないな」エリーに笑われ、それが初めて出あった王弟の屋敷でのことだと思い出す。あの時も、膝をそろえて女のように小さくなって座っていた。
「あの、お久しぶりです」
二度目なのだから、ほとんど初対面に近い。気さくなマルソーと違い、この綺麗な年上の青年はオリビエから見れば完璧な人間で、視線を合わせるのすら緊張する。

「ああ。そうだな。マルソーがお前を気に入っているのでな。幾度もお前の話を聞かされた。私は未だ、お前の思想とやらを聞かせてもらっていないが」
マルソーの言う、オリビエの思想。それは生き方でもありオリビエの音楽のことでもある。
「ここではあいにく楽器がないな」
何かしら弾かせてもらえるのかと妙な期待感を持った自分が恥かしくなり、オリビエはますます小さく縮こまる。
「マルソーと会ったそうだな。どうだ、前線は」

どう、といわれても。戦況など分からないし、第一長く滞在したわけでもない。二人で語り合ったことのどこまでを話していいのかオリビエにはわからない。マルソーは政府の現体制に不満がある。
オリビエは「マルソーさんには国境でお会いしました。僕が知り合ったあの頃よりずっと、精悍な、どこか怖い感じがしました」と、そこまで言ってエリーを見つめた。

「あなたも、ですね。僕は革命の初期でこの国を去りました。だから、どんな出来事がここで起こったのか、よく分かりません。ヨウ・フラ、あのバスティーユでマルソーさんと知り合ったという少年ですが、彼が語る革命は悲愴感に満ちていました。それでもヨウ・フラは革命は必要だといいます。僕もそれに反対はしません。でも、革命に関わるマルソーさんや貴方が幸せそうでないのは淋しく思います」
「まるで」
エリーの表情は歪んでいた。
「オリビエ、まるでお前が幸せかのような話しぶりだな」
オリビエは慌てた。何か、悪いことを言ったらしい。
「僕は、あの。何もかもがうまく行っているわけではないですが、自分を不幸だと思ったことはありません。音楽を奏でる環境にあって、それで大勢が喜んでくれる。友人もいますし、皆に感謝しています」
不意に、目の前が暗くなる。
「!?」
首に手が廻されている。息が苦しい、何か声を上げかけたところで、エリーの腕が離れた。荒い息の元、何をどう反応していいのか迷ううちにエリーが吐き出した。

「相変わらず、能天気。私はどうもお前が好きになれない。自分だけは血生臭い争いとは無関係だと、まるで高みから見物するようなお前の心が好きになれん。お前はなるほど幸せだろう。求めもせず、あがきもせず諦めて生きてきた。侯爵の庇護の元、主人の言いなりであることに納得し耳を塞ぎ眼を閉じ、自分だけはこれで幸せなのだと思い込んできた。だが、ただ生きるだけでも苦しまなければならない人間がいる。理想を掲げ、願いをかなえるためにあがき、泥にまみれる人間もいる。私はそういう人間が好きだ。お前には一生理解できないだろう」
オリビエは息をすることも忘れ、ただエリーを見上げていた。

「マルソーとは誓ったのだ。互いに戦場で血にまみれようとも、命を削り、この政治の裏の泥沼に絡め取られようとも、自らの思想と理念に恥じることのない生き方をしようと。そのマルソーが何ゆえお前を尊重するのか」
忌々しげにはき捨てると、不意に何か思い出した様子でエリーは目を細めた。
「一つ教えてやろう。お前の到着を待たず、リツァルト侯爵はこの世を永遠に去った」

何か、言いかけ。
オリビエは言葉にならずに唇をかみ締めた。

嘘だ、など。この男の表情からあるはずもなく。

オリビエが何も言わないのをしばらく見守り、エリーは再び髪をかき上げた。
「指が楽器を求めているのか。薄気味悪いな」
言われて気づき一度拳を握り締めたが、後は感情に任せた。嗚咽が漏れないようにするのが、精一杯だった。座ったまま膝を抱え、顔をうずめた。
気配でエリーが立ち去ったのが分かったが、どうでもよかった。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十八話②

第二十八話:牢獄の天使



肩を叩かれ、誰かがそこにいるのだと気付く。
どれだけ時間が経っていたのか。すでに牢内は闇に沈み、オリビエは自分の手足すら見えていなかった。

「おい、正気か」
肩を揺らす誰かが、窓からの月明かりでぼんやりと見えた。
「しっかりしろよ。オリビエ。生まれそこなった蝉みたいに、穴倉で死ぬつもりか」

例えるにしてもそれはないだろう、と。ふと思い。
「相変わらず、毒舌だ」と、思った以上にまともな言葉が自分の口から聞こえた。
先ほどまで何も出来ず悲しみで死んでしまうのではと思っていたのに。
僕はまともに人間のままだ。

「暗がりでよかったぜ、お前の泣き顔は見たくないからな」
ズレンは乱暴にオリビエの頭をぐりぐりとなで、背を叩いた。
「痛いよ」
「だろ」笑いながらの口調。ズレンはさらに強く背を叩く。たまらずオリビエは立ち上がる。
「痛いって!」
「ああ、まともに腹から声が出せたか。安心したぜ」
「ズレン。どうしてここに」
月明かりにすくめた肩の動きが分かる。
「お前を尋ねる前は、侯爵様の牢に通った」
侯爵様…。痛む胸を知らず押さえていた。

「牢に、どうして」
「侯爵様と取引をするためだ。エスファンテを国に差し出せば、助けられた」

ああ。そんなの、侯爵様ができるはずもない。
「お前にも、同じ話をしようと思っている」
「侯爵様を助けて欲しかった」
八つ当たりだと分かる、だけど。
「ズレンは助けられる場所にいたんだ、そうだろ!なのに、どうして助けなかったんだ!」
「やろうとしたさ。面倒だったがな、北部に逃れていたアンナ夫人まで引っ張り出した」

え、と。オリビエの言葉が途切れるとズレンは面白そうに笑い声を上げた。
「お前も知らなかったのか。あの人は一年前にふらりと戻ってきてな。ビクトールと住んでいたようだったがすぐに財産がそこをついたらしい、親戚を頼って北部の田舎に移ったのさ。侯爵を説得して欲しいと頼んだのに、なんて言ったと思う」
オリビエは首を横に振った。
分からない。あの夫人が、何をどう思うかなど分からない。侯爵を一番愛しているのだと思っていたのに。そのために苦しんでいたはずなのに、侯爵の元を離れていった。

「後悔しているんだろうな、侯爵には会えないと、いつものあのつんけんした様子でな。自分は早く帰国し、共和政府に宣誓して生きながらえているのに。侯爵の代理で署名させようとしたのにそれすらしようとしなかった。『侯爵様はエスファンテを犠牲にするような方ではありません。例え私がなにを言っても考えを変える事はないでしょう』とさ」

アンナ夫人が。
以前、ヨウ・フラがどうやら祖国に向かったらしいと情報をくれてはいた。それを確かめるつもりもなかった。見つけ出したからと言って何が変わるわけでもないからだ。
侯爵様が会いたいのなら、きっと探しに行っただろう。
侯爵様はそうしなかった。

「侯爵の遺体は、アンナ夫人が引き取った。今頃は北部の田舎に向かっているだろう」
そこで涙がこぼれていることに気付いた。
ズレンに気付かれないよう、そっと拭った。
「お前を助けるようにと、侯爵に言われている。分かるか」
オリビエはいや、と首を横に振る。
「どう考えても無理だよ」
「公会はエスファンテが欲しい。この不安定な情勢のまま領主を殺すことは出来ない。つまり、お前はまだ、すぐには殺されないってことだ」
「僕に、エスファンテを犠牲にして生き延びろと。……侯爵様がおっしゃったはずはないよね」
ズレンは黙った。
「そうするくらいなら、侯爵様がしてる。ズレン、何か…」
ズレンは立ち上がり、オリビエを見下ろした。
その視線が暗闇で見えなかったことは幸いかもしれない。
「どうした?」
なぜかぞくりと。オリビエは寒気を覚える。

「あの。助けてもらおうという人間がこんなこと言うのおかしいけど。その条件を侯爵様に示しても無駄なこと、分かってたんじゃないか」
ズレンほどの頭脳の持ち主が、無駄なことにアンナ夫人を探し出すまでして説得しようとした、それはどこかおかしい気がする。

「どうした?オリビエ、いいたいことがあるなら言えよ」
優しげなズレンの声にますます気圧され、オリビエの声は小さくなる。
「無駄なのに、どうしてその条件なんだ。他に、方法がなかったのか。それとも、目的が最初から」エスファンテの土地、だとすれば。
ズレンの言う条件は、『譲渡の書類にサインしろ、でなければ殺す』と。言っているのと同じだ。ぞくりとオリビエは震えた。今度はしっかりと自分を抱きしめ、状況を理解する。
優しげに話しかけるズレンは、それに気付いていないのか。それとも演技か。
「なんだ?」
「な、なんでもないよ」
オリビエは何度も頭を横に振る。僕は、こんなにも人を疑うようになってしまったのだろうか。そんなはずない、ズレンは侯爵様のために…。僕の、ために?

かつてエスファンテで革命が起こったとき。僕は人質として利用された。あれは幸運だっただけで、殺されてもおかしくなかった。
そんな扱いしかされなかった僕を、救うためにわざわざズレンが手間をかけるだろうか。

「オリビエ、次回には書類を持ってくる。よく聞け。エスファンテの土地が国に取られたとしても、改めて土地の再分配が行われるだけだ。これまで独自で分配してきたエスファンテのやり方がすべての人間にとって公平だったとはいえまい。考え方次第だ。今、国は法を整備し、多くの民を救おうとしている。けっして、エスファンテの市民が苦しむことになる話じゃない。じっくりと考えることだ」

「うん、……そうするよ」
平然を装い、オリビエはズレンが扉を静かに閉め、去っていくのをじっと聞いていた。闇の中、見えないズレンの表情はどんなだっただろう。
それとも、ズレンにとってエスファンテの土地を市民から奪うことは『死に比べればたいしたことのない代償』なのだろうか。だから、その条件を僕に突きつけるのだろうか。本当に僕を救おうとしてくれているのかもしれない。だとすればただ、価値観が違うだけだ。

僕は、こんなにも人を信じられなくなっている。

全てに感謝しなきゃ、と。演奏し想いを音に託すあの瞬間はいつもそう思う。誰かがこれを聞いて、少しでも心が和むのなら、幸せを感じるなら。僕はこの才能と環境を与えてくれた両親と神に、皆に感謝しなきゃと思っていた。
僕は、幸せだった。
怒りに満ちたエリーの顔が思い出される。
僕はいつも、幸せだった。
世間知らずとあきれるズレンの顔を思い出す。

唯一つだけ。僕が確信を持って言えるのは。
僕は侯爵様と同様。僕の命と引きかえに多くのエスファンテの市民を苦しめることは出来ない。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十八話③

第二十八話:牢獄の天使




同時刻。
ファレ・ロワイヤルから通りを一つ隔てた小さな宿屋に、金色の髪を束ねたエリーの姿があった。カードを楽しむ男たちの熱のこもったざわめき、テーブルに酒を置く音。片隅の小さなテーブルに壁を背にしたエリーともう一人、背の高い男が座っていた。
マントを着込んだままの男は、首に巻いたストールで顔半分が隠れている。薄い青の瞳。短い金色の髪。
リエンコだ。
「マルソーの手紙にありました。まさか、本当に貴方とは思いませんでした。84年に若くして亡くなったと、噂を耳にしておりました」
エリーの言葉は外国語だ。低い声で語らう二人に、周囲は何の興味も示さない。
どこかで大きな笑い声が起こり、皆がそこに視線を集める。
それに何の反応も示さず、リエンコは目の前に置かれた酒をただ眺めている。
死んだとされた理由も、今語るつもりは無いのだろう。
「あの時私たちはまだ新兵だった」エリーが続ける。
「感謝しています、だからこそ、こうして隣にいます。なぜ、貴方がオリビエを救おうとされるのですか」
「笑うかもしれないが。私は平和主義者だ。あの戦場でお前を救ったように、今オリビエを救いたいだけだ」
それ以上語ろうとしないリエンコに、エリーは溜息を吐き出した。テーブルで冷めるに任せていた紅茶に気付き手を伸ばす。
「貴方といい、マルソーといい。いや、侯爵もそうでしたね。私は理解しがたい」
「私があれのために行動し、侯爵が護り、マルソーが力を添えた、その理由を少しでも解したいと願うなら。力を貸してほしい」
「聞けば、分かるのですか」
オリビエの演奏を。
エリーの視線はカフェの片隅で花台にされているオルガンを見つめていた。
「思想と同じだ。あれの演奏は心を揺るがす力を持つ。誰にでも平等に感動を与える。それは人が成しえない神の業に近い」
エリーは肩をすくめた。
「もう一度、彼に会ってみましょう。少しでも救ってやりたいと思えたなら、考えてみます」
「ありがとう」
ストールの下、リエンコの低い声にエリーは今日何度目かの仕草、目を細めた。



翌日。すすけた窓の内側で、昨日と同じことを繰り返していると思われる男たちがカードに興じていた。そして、窓際の席にはこちらも昨日と同じ光景。いや、大柄な外国人は昨夜と同じストールで顔を隠しているが、傍らになぜか見慣れない若い女性を連れていた。
後から入ってきたエリーを認めると、女性は慌てて立ち上がり「あの、私、キシュっていいます」と頬を高潮させ大げさに頭を下げた。
田舎の娘らしい素朴な可愛さに、思わずエリーも頬を緩ませた。
「ファリは初めてかな」
「はい。こんなすごい町、驚きました」たどたどしい丁寧語が、キシュにとってどれほど困難なものだったかはエリーには分からない。ズレンがいたなら似合わないと腹を抱えただろう。
三人は小さな丸いテーブルを囲み、飲み物が揃うと世間話を切り上げた。
エリーはため息を吐きつつ手にした荷物から、大切そうに丸めた書状を取り出した。

「これは、オリビエがエスファンテの領主として署名したものです。今日の午後、オリビエのいる監獄へ行って来ました」


久しぶりに風のない穏やかな天候で、日差しを受けた牢内は暖かい。
うとうとしていたのか、オリビエは寝台にすがるようにもたれかかり、冷たい床に座り込んでいた。積み上げられた薄い毛布は丁度枕のように腕の中で丸くなっていた。
格子窓の額縁から見えるその姿はどこかで見た宗教画にも似ている気がし、いや、私までおかしな影響を受けているとエリーは首を振った。
陽だまりの中、亜麻色の髪が美しく透けようとも、華奢な肩や幼く見える寝顔が世俗を超越した何かだと思えたとしても。
これはただの、亡命貴族なのだ。

何の力もない、弱い男。

その弱い男は、目覚め、エリーを認めるとこういった。
「僕は貴方の力になりたい。貴方はエスファンテの政情が落ち着くことを望んでおられる。だから、僕はかの地を譲渡することに決めました」
と穏やかに笑い、書状のための紙とペンを要求した。
「それから」
オリビエは照れくさそうに笑い。
「ピアノを弾きたいのです。願いをかなえていただけますか」

オリビエの演奏を聴いてみたい。そう、考えたところにその提案はタイミングがよすぎ、エリーは考えておく、と応えたのみだった。

「だが。書類を書かせて気が変わりました。裁判の後、オリビエにはピアノを弾かせてみようと思います」
眉をひそめ書類を眺めているキシュは難しい単語が読めない。目を輝かせ、「じゃあ、オリビエちゃんは助かるんだよね!」と。腰を浮かせた。すっかり敬語など吹き飛んでいる。
「いや。違う。この書類は」
とどめたのはリエンコだった。
エリーが頷く。
「以前からズレン・ダンヤが取ろうとしていた、政府が欲しがっているものではありません。オリビエは侯爵としてエスファンテの土地と資産を市民に譲渡するという、書類を作ったのです」
「どういうこと?」キシュはリエンコを振り返り。
リエンコは小さくため息をついた。
「オリビエ様を無罪にするには、政府にエスファンテを差し出す必要があった。だがそれをこの書類で拒否した。エスファンテは市民のものだと証明してしまった。それを、奪って破りたいと言っても。お前はさせないのだろうね」
リエンコの視線を受けるエリーは素早く書状を取り返し丁寧に丸めている。
「貴方でなくともこれを処分したい輩は大勢いる。そのためにオリビエは私を選び託した。これは、私なりに考えたことです。オリビエの望みをかなえる。代わりに私は国境の平穏を手に入れる。キシュ、お前の街は救われる。将軍、オリビエは諦めてください」
「ま、待って!それって、オリビエちゃんが犠牲になるってこと!?」
慌てて書状に掴みかかったキシュは空を切り、転びそうになってリエンコに支えられる。
「静かに。彼が望んだことです」
「だけど!だけど……」
「リツァルト侯爵の遺志を継いだ、とも言える。弱い男だと思っていましたが、少し見直しました。だから、裁判の後ピアノを用意することにした。裁判の結果がどうであれ、私にも、貴方の言う神の業を感じられるかもしれない」
鮮やかな笑みを浮かべ、エリーは立ち上がる。
「裁判は5日後です」そう、言葉を残した。

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「音の向こうの空」第二十八話④

第二十八話:牢獄の天使



ファリの町にはこの時代の大都市の例に漏れず、寄り添うように流れるセーヌ川がある。かつてそれを盾に城壁をめぐらせた時代もある。ルーブル宮殿はその頃に町の西端を防御するために作られた。以来、時代に応じ形を変え、現在は広がったファリの町に飲み込まれるように中心に位置し、テュイルリー宮殿と供に巨大な四角い庭園を囲む政府庁舎となっていた。
庭園には丸い池と幾何学模様に配置された植栽、それを眺める宮殿には壮麗な彫刻が施されたファサード。その窓辺の一つ、ファリ司法長官の執務室には夕刻の気だるい空気が充満していた。庭の池の一つが陽光を乱反射し、それをはげかけた額に受けた司法長官が立ち上がる。

長官は帰り支度を始め、「ああ、今日は妻と肉を食べる約束でねぇ。厚切りを血の滴るくらいにやんわり焼いたのがいいんだよ」と。先ほど三名の処刑を見物した人間とは思えない。連日の裁判や処刑は司法に関わるすべての人間の感覚を麻痺させていた。
「奥様の誕生日と伺いましたよ」
「そうなんだ、たまには喜ばせなきゃいかんからな」
部下と穏やかな会話。
そこに冬の冷気をまとった男が到着した。
ズレン・ダンヤの顔を見るなりジョスパー司法長官はあからさまに嫌な顔をした。
この地方出身の部下は和やかな会話を台無しにする顔つきをしていた。
想像通り、ズレンは真っ直ぐ長官の前に立ち、「オリビエの裁判が四日後に決まったというのは、本当ですか」と。噛み付かん勢いだ。
それでも他の部下はズレンにかなわず視線をそらし、長官は仕方なく対峙する。
「大臣が決められたことだ」
この男にはこれが一番効く。そう思っているのだろう。
上司の名を出し自分がそうしたかったわけではないといい逃れているのだ。実際、ジョスパーにはどうでもいい裁判の一つだった。

それが読み取れるズレンはますます眉間のしわを深くした。
「エスファンテの土地についてはどうなります。あれは内務大臣も、司法大臣も気にされておられたはず」
「ああ、あれは。失敗だ。譲渡書類が出てきたらしいじゃないか。市民に土地を委ねると、若い侯爵が書状を残していたんだそうだ。エリー将軍が前線の伝令兵から預かったらしい。かの地に派遣したダンテス中尉は、ズレン。お前と通じていたはずだが。何もないと報告していたのではないか?あれはろくな働きを見せんな」
ズレンはぴくりと眉をひそめた。
ダンテスはもともと、ジョスパーの子飼いだった。自らの部下の失策を他人事のように語る長官に、ズレンは胸のうちで唾を吐く。
その呪いが通じたのか、長官は帽子掛けの脚に躓き、派手に転んだ。
「大丈夫ですか」
ゆっくりとした動作で、ズレンは痛がる上司を助け起す。

若い侯爵、つまりオリビエが書状を作ったというのか。
奔走し、オリビエのためと思う俺を裏切ったのか。俺の言うことを聞いていれば、簡単に助けられたのだ。取引の材料がなければ、救いようがない。

マルソーが伝令に託し、エリーが受け取ったなど、嘘だろう。彼らは同じメジエール工学院の先輩。平民出身の数少ない同志。だが、ファリに留まり、大貴族や国王に気に入られ、今や高い地位にいる。

それともキシュが何かしたのか。オリビエに泣きつき、民を救えと訴えたのか。あの娘が一人オリビエに面会できたとは思えないが。
いくつもの想像がズレンの中で渦巻き、ズレンは辻馬車を雇うと陽が暮れる前にバスティーユへと駆けつけていた。
この巨大な要塞を護る城壁に近づく。城壁のすぐ内側には堀があり、跳ね橋を渡らなくてはバスティーユには入れない。辻馬車をバスティーユ内に入れることはできないために、跳ね橋から先は歩かなくてはならない。アベイ監獄に比べ面倒な場所だ。
城門の裏口に程近い街灯の下で降り立つ。
夕日の赤に鉄の門は鈍く光る。
ズレンは視界の隅にいる男に気付く。気付いたが、無視して通り過ぎようとした。
今はオリビエを一発殴ってやらなければ気がすまない。

来訪者に気付いた哨兵が門を開こうと立った瞬間、背後に気配を感じズレンは飛びのいた。

先ほどの丈高い男。
淡い藤色のストールで顔半分を隠し、それでも堀の深い容貌から外国人だと分かる。伸ばした手には得物はなかったが、音も無く近づくのだからズレンの反応は至極当然ともいえた。
「音も立てず近づくのは無礼だと思うが」
ズレンはそう唸りつつ、懐の短剣を意識する。次にもし、相手が攻撃に出るのなら。
「いや。これは失礼」
少しおかしな発音ながら、男は肩を叩こうとした手を引っ込め、クランフ語を口にした。
「ズレン・ダンヤ。お話したいことがあります。エスファンテの楽士について」
何も持っていない、そう示す上げた両手にズレンはじろりと視線を流し、「いいだろう」と頷いた。

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「音の向こうの空」第二十八話⑤

第二十八話:牢獄の天使



程近いカフェに入ると、男は窓際の席を選ぶ。
「いらっしゃいませ。今夜は鴨が入ったの。夕食、楽しみにしてくださいね」と。メイドが男に笑いかける。
「ありがとう」
そっけない返答の男に、少しふっくらしたメイドは嬉しげに笑い返し、それからズレンを見つめ「お飲み物はどうされますか」と首をかしげた。
ズレンの視線が厳しいために途中から声が小さくなる。
「コーヒーを」男は二つだと手で示した。
メイドが去れば、ズレンはやっと息を吐き、椅子にもたれかかった。
強面の外国人はここで宿を取っているらしい。メイドが親しげになるにはそれなりの魅力、安心感を与える何かがあるのだろう。ズレンは張り詰めた警戒を少し緩める。
「名前を聞いていないが」
問えば男は「ああ」と。忘れていたといわんばかりにそっけなく応えた。
「オリビエ様にはリエンコ、と呼ばれている」
「様?…使用人には、見えないが」
どう見てもオリビエと並べばオリビエが従者だろう。そう想像したのを察したのか、リエンコはふふ、と小さく笑った。
それが、妙に似合わず、ズレンは見てはいけないものを見たような気分になる。
「協力したい。オリビエ様を救う」男は真っ直ぐズレンを見つめそういった。
「……協力、されても」つい、ズレンは言葉がこぼれる。
あいつは自分から、助かる道をふさいだ。ズレンが視線を手元のカップに落とすと、リエンコは笑った。
「署名のことを悔いているのか。道は一つではない。私は何をしてでも救い出す。貴方にその覚悟が無いのなら、見て見ぬ振りをして欲しい」
リエンコの視線は鋭く、決意の深さを物語る。
「何をしてでも、とは。あんた、物騒なことを考えていないだろうな」
「無実の人間をギロチンにかける。それほど物騒な世の中は無いと思うが」
ズレンは言葉に詰まった。
「亡命の何がいけないというのか。自由を謳う革命政府がおかしいだろう。人は行きたい場所に行き、住みたい町に住む。貴族が生きづらい世の中を作っておいて、逃げ出してはいかんなど。これほど無慈悲なことは無い」
リエンコの言葉は正しい。
そう感じてしまったからには、ズレンは反論もできない。
「私はこの国から、オリビエ様を助け出す。ズレン・ダンヤ。貴方は頭の良い人だ。出来れば敵に回したくはない」
「……あんたが、何者であれ。一生追われることになるかもしれないのだぞ」
リエンコは肩をすくめた。
「すでに祖国など失っている。制覇したい国も無ければ、上り詰めたい地位も無い。砂上の楼閣に夢見るときは終わっている。自らの信念を曲げずに生きる。それが、私の行き着いた答えだ。ズレン・ダンヤ。貴方は何を求めここに生きている。幸せそうには見えない」
「……悪かったな」
「オリビエ様に、会わせて欲しい」
もしかするとこれが。この男の真の狙いなのか。
そう思いつつ、ズレンは「まあいい。ついて来い」と。冷めたコーヒーを一気に飲み干し立ち上がった。

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「音の向こうの空」第二十八話⑥

第二十八話:牢獄の天使



監獄内に入るとリエンコはまるで知っているかのようにズレンの前を歩いた。中庭、礼拝堂、牢番は怪訝な顔をしたが、ズレンが「司法大臣が新しく雇った外国人傭兵だそうだ、怖い男らしいから怒らせるな」と耳打ちすれば、慌てて姿勢を正した。

扉を開けば、夕日が最後の赤をめいっぱい室内に注ぎ込んでいた。
その影、寝台の上でオリビエは丸くなっていた。
寝台の脇に小さなテーブルがあり、乗せられたトレーにはスープとパンが残されている。
ズレンが眩しさに立ち止まっている間に、リエンコがオリビエに駆け寄っていた。
その素早さにズレンは男に対する警戒心を呼び起こされる。

「あれ、どうしたの」
オリビエが間の抜けた声を上げ起き上がるとリエンコの緊張は一気に解け、それを見るズレンも深く息を吐く。
リエンコはオリビエの肩に手を置き、顔を覗き込み、それから食事をしていないとまるで母親のように注意した。
「…あんたは、なんなんだ」
ズレンが呆れた声を上げても、リエンコは聞き流す。
先ほどズレンと向き合っていたあの緊張感は消えうせ、ああ、今ならリエンコがオリビエの従者だといわれれば頷ける。

ふとオリビエと視線が合い。そういえば、こいつに腹を立てていたのだと今更思い出した。
それを察するのか。オリビエは視線をそらした。
「ズレン、あの」
「俺を信じなかった、というわけか」
オリビエは膝を抱え縮こまった。

それを見てリエンコは非難めいた表情でズレンを振り返るが、ズレンは立ったまま腕を組んで見下ろしていた。
「俺がお前を助けようと奔走している間に、お前は俺を疑った。馬鹿な取引をエリーとしたんだろう?」
「馬鹿じゃない」
「死ぬことがどういうことか、能天気なお前には分かってないんだ。格好つけて町を救った英雄のつもりか?みっともなくとも生き抜いて欲しいと、願う人間がどれほどいるのか、お前はちっとも分かっていない」
「ズレン…」
「もともと、お前はそういう性格じゃないはずだろう。そんな勇気は要らなかったんだ。音楽を続けるためなら、名誉も恋愛も、人生をも捧げるんじゃなかったのか!」
オリビエはゆっくり立ち上がる。

「あの、ごめん。僕は、どうかしてるんだよ。僕はやっぱり政治の裏側とか、取引とか苦手なんだ、よく分からなくなった。だから。僕が選べる最良のことを……」
飛び掛ったズレンを、リエンコは止めなかった。
襟元をつかまれオリビエは壁を背に押し付けられた。

「ふざけるな!何を犠牲にしても生き延びて欲しいと、俺が願ったことが間違いだとでも言うのか!」
街を犠牲にしてでも生きろと。ズレンのそれに胸が詰まった。

「だけど…侯爵様は、死んでしまったんだ。侯爵様は、エスファンテを護ろうとして、自ら死を選んだんだ!僕がそれを、その気持ちを無駄になんか、できるわけない!」

つかみ合ったままの二人を、まるで包むようにリエンコが抱きしめた。
「もう、いいです。二人とも。手を離してください。私が助け出します。それこそ、何を犠牲にしてもね」
低く囁くリエンコの口調は、妙な迫力がある。
涙をこぼしていたオリビエは慌てて拭い、ズレンは派手にため息をついて肩の力を抜いた。

「……確かに、オリビエ。俺は、リエンコのように全てを投げ出そうとは、考えなかった。お前や侯爵様のために自分を犠牲にするつもりなど、悪い。今もないんだ」
オリビエは黙って首を横に振った。
「僕も、ズレンのこと信じきれなかった。立場を悪くしたかもしれないね。ごめん」
「お前、馬鹿か。お人よしが。俺は、結局自分のために行動していたんだぞ」
「それでも、助けようとしてくれたんだろ。僕に、生きていて欲しいと想ってくれた」
「……馬鹿」
ズレンの瞳に涙が浮かんでいた。珍しいそれをオリビエは笑ってみていた。
「リエンコも、僕のために危険なことは」
「その話は終わっています。私は好きなように行動します」
リエンコはにっこりと笑い圧倒的な態度で遮ると、「いずれ誘拐しますから、その時には素直に私のいうことを聞いてください」とオリビエの手をぎゅっと握り締めた。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十八話⑦

第二十八話:牢獄の天使



ズレンとリエンコが牢獄を出たときには夜空に月が浮かんでいた。
昼間天気が良かった分、夜風は冷たい。
「オリビエ様、風邪を引かないといいですが」
心配をもらすリエンコにズレンは呆れて幾度目かの溜息を吐く。
「寒いな。リエンコ、部屋で飲ませてもらえるんだろうな」
「狭いですが」
「かまわないさ。だいたい、バスティーユが広すぎる。牢獄の癖に俺の部屋よりでかいんだ」
「元は要塞ですから。あそこから出たところを狙うしかないでしょうね」
「物騒な話か」
「ええ。大体の構造は理解していましたが、やはり難しい。貴方はテュイルリー宮殿には詳しいですか」
「おいおい」
テュイルリー宮殿はズレンの職場だ。

「ルーブル宮殿なら私でも出入りできますが、そちらはそこそこ警備が厳しい」
テュイルリー宮殿は裁判所もあるが、国民公会の議場でもある。現在の政府機関が置かれているのだ。それに比べ、テュイルリー宮殿と『水の回廊』でつながっているルーブル宮殿にはファリの市庁舎と同時に王立芸術院として使われているだけで、誰でも自由に出入りできた。
ズレンは目の前の大柄な外国人を眺めた。何をするつもりなのか。
「まあ、それなりには理解している。大臣の執務室にも出入りしているからな」
「では。協力していただける、ということですね。オリビエ様はよいご友人をお持ちです」
「友達じゃない」
「じゃあなんです?」
「……」
言葉に詰まったズレンの背を、音がするほど叩いてリエンコは笑った。
「上手く表現できない時は友達でいいのです」



先ほどの宿に着くと、にぎわうカフェの隅でおしゃべりに乗じていたメイドが駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。今ね、赤い幽霊の話を聞いていたのよ」
娘は父親に報告する子どものように頬を染めリエンコに話しかける。上着を受け取ると胸に抱えた。
「赤い幽霊?」ズレンが問えば、娘が先ほどまで張り付いていたテーブルを振り返る。
見知った女、キシュが手を振った。
「どんな話なのかな」
「あ、お話しするわ、ちょっと待ってね。母さん、リエンコさんが戻られたからお夕食をお願い。そちらの方もご一緒でいいよね?」
中途半端な敬語にズレンがにやりと笑い、どう受け取ったのかメイドは嬉しそうに満面の笑みで返す。


赤い幽霊はね。そう、語り出したのはキシュ。
「今から五百年前に、テュイルリー宮殿が出来たころ、そこで殺されたジャンっていう男の幽霊だって言う噂なの。当時、王宮内で起こった何かを知ってしまったジャンは、口封じで殺されたんだよ。それ以来、王宮の主が替わる前触れとして、体中を血に染めた真っ赤な幽霊が宮殿に現れるの。それが怖くてルイ十四世はベルサイユに移り住んだって話まであるんだから」
ズレンは目の前に置かれたワインを眺める。リエンコは聞いているのかそうでないのか、肉を口に運んでいる。これだけの料理を出すのだ、相当な宿賃を払っているらしいとズレンはそんなことも思う。
「話はここからなんだ」
キシュの声が低くなる。いつの間にかそのテーブルを囲むように集まっていた人々は息を呑んだ。
「つい最近。見た人がいるんだ」
キシュは大きな目をしっかり見開いて、周囲にいる一人ひとりを見つめる。
「タンプル塔の国王様が、赤い男が来たって、衛兵に訴えるんだって。だけど、だれもそんな男を見ていないの。だから幽霊じゃないかって噂が広がったの。国王様は自分が死ぬんじゃないかと怯えているんだ。毎日熱心にお祈りを捧げて、お可哀想な位だって」
「そういや、議会で国王様を裁判するとかなんか、そういう話になってるって聞いた」
「裁判ってことは、死刑もあるってことか?国王様なのにか?」
国王裁判。禁忌を犯すようなそれは、市民にとってある種の畏怖を思わせる。有罪になれば死刑なのか、そうなったら誰がこの国の主になるのか。そんなことをしていいのか。集まった人々の話題はそちらに移り、キシュは満足そうに笑うと、自分の肉にフォークを刺した。
「…何を企んでる」
そっと呟いたズレンに、ちらりと視線を流し、キシュは再び肉に向かう。
「皆知ってるよ。騒ぎになるのを恐れてテュイルリー宮殿では赤い服を禁止しているくらい。知ってるでしょ?衛兵は赤い服の男を見かけると追いかけるんだ」

次へ♪

「音の向こうの空」第二十八話⑧

第二十八話:牢獄の天使



にぎやかなキシュが自分の部屋へと戻れば、男二人のそこは静まり返る。
するりと何杯目かのワインを空にするリエンコに、ズレンは呆れた顔で見入る。
三十前半に見える、整った顔のロシア人。何者なのか。拙いクランフ語とオリビエに向ける甲斐甲斐しさからは想像もできない、裏の顔を持っていそうな男。
「あんた、国王陛下の幽閉されているタンプル塔まで、行ったのか」
わざとこの男は赤い服を着ていたのだろう。
リエンコは目だけで笑い。
「扉の鍵の在り処を教えていただこうとね。陛下はご自分の作品*のことになれば夢中で話して下さった。まして、自分を救い出してくれる相手になら」
(*ルイ16世は錠前作りを趣味としていた)
「だましたのか」
「裁判所からお救いするには、地下の秘密の通路を使わねばなりません。事前に扉を開けてお待ちしておりますゆえ、鍵の在り処をお教えください。そう言っただけだ。国王が裁かれるのがいつなのか知らないが、その時には扉は開かれているだろう」
オリビエのために、か。
そう呟いたズレンにリエンコは黙って頷く。

国王の反応が手に取るように想像できる。このことを無邪気にも側近に話したのだろう。だが衛兵も誰もリエンコの姿を見ていない。それを聞いて国王は赤い幽霊の噂を思い出した。「そういえばあの男、秘密の通路のことを知っていた、それはやはり幽霊だったからか」とかなんとか。気の弱い王のこと、騒ぎ立てたのだろう。
赤い服の男に皆が神経を尖らせるようになれば、オリビエを逃すには丁度いい目くらましになる。
「ズレン・ダンヤ。貴方にお願いがある。エスファンテのダンテス中尉を一度引き上げてもらえないかな」
「あれは、失敗したんだ。もう呼び戻している。土地の分配は街の議会に任せることになる。早いうちに個人のものにしろ、とルグラン議長にも知らせた。共同所有を禁じる法令を政府は作ろうとしているからな。ダンテスのことが何か、関係するのか」
「いいえ、ただ。エスファンテの市民が自由になることは、オリビエ様にとってもいいことですから」
「…俺は、赤い服を着て逃げ回るのは嫌だぞ」
くす、とリエンコは笑った。
「それは別にいますから。あなたはどうされます」
「水を差すようで悪いが俺にも考えはある。政府の人間なりのやり方ってのがな。オリビエに祖国は捨てさせたくない。あんたの計画が無駄になることを祈ってる。それが失敗したら好きにしてくれ」
「それはそれは。成功を祈ります。ああ、もしオリビエ様とのお別れをしたいのでしたら、裁判の日ロワイヤル橋の左岸で」
「今は、ナシオナル橋と呼ぶそうだ。革命政府が決めた」
「では、ナシオナル橋で」

次回最終話!!『空に羽ばたく』は6月1日公開予定です♪

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