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「音の向こうの空」第二十九話①

第二十九話:空に羽ばたく



リエンコとの会談から三日。オリビエの裁判を明日に控えた夕刻。
「気持ち悪いほど生温かいな」
ズレンは職場であるテュイルリー宮殿を出ると新鮮な空気を吸い込もうと息を深くした。この季節にしては珍しく温かい夜は空気まで湿り気を帯び、上着の袖すら重く感じられた。
夕日に照らされ、影が移ろう青年の頬には疲れが残っている。それでも瞳にはぎらぎらとした力を宿す。ズレン・ダンヤがそういう表情をしている時には、何かしら成功を手にしつつあるのだ。この数日の行動が実を結ぼうとしていた。

「軽く飲んで帰るか」
ひとり呟く。
侯爵が捕らえられファリに到着してからズレンの酒量は随分増えた。それを心配するものなどこの町にはいない。革命以来、国のあちこちから人を寄せ集めるファリは人口が増加し続けていた。人が集まれば物資は不足し物価は高騰。皆自分のことで精一杯だった。
ズレンにとって異臭を放つこの街はエスファンテに比べればゴミの中で暮らしているようなものに思えた。かつて川向こうのメジエール工兵学校にいた頃は、まだ町並みも今の半分だった。人間も建物も街も、いつの間にかテーブルクロスにこぼれたワインのように広がっていた。
マルセイユ義勇軍に参加し、いくつかの死線を超えこの年の八月にはファリ市内の暴動を目の当たりにした。エスファンテで自分が護ったようには、この国の宮殿は護られなかった。唯一命を賭して国王一家を護ろうとしたのはスイス人衛兵だけだった。金で雇われた外国人が最も信頼の置ける部下だとは、情けないことだった。国民衛兵は市民と国王、どちらについていいものか躊躇し、混乱した。
国王一家は「革命」の敵だったかもしれない、だが国民の敵であるかどうかは誰もわからなかったからだ。
市民も衛兵たちも、国民公会の法律と彼ら政治家が発行する新聞や噂に惑わされ、見失っている。政治家たちに国民を幸せに出来るとは思えない。
「幸せ、か」
何を求め生きるのか。「幸せそうに見えない」とリエンコに言われた言葉が浮かんだ。テーブルに置いたグラスを眺め、余計なお世話だと目を細める。
「何が一番、か。あいつみたいに単純で分かりやすい人生なら、幸せを掴むことも簡単だろうが」
亡くなった両親の遺志を継ぎ、上を目指してきたズレンのそれは、革命ですべてひっくり返った。弁護士や文士が政治家となって国を動かし、その背中を昨日までパンを焼いていた男が剣を持ち護る。それが国だというのだ。どれもが偽物に見える。

ふわりと、店内の空気が変わった。
顔を上げる。
いつかエリーがこの『エスカル』に入ってきたときと同じ、皆が視線を吸いつけられるような人間がこの空間に足を踏み入れた。
その気配にズレンは思考を止め、そちらを見やった。
エリーではなかった。
「……フラン夫人」
「いつもここに、と聞いたのよ」
フラン夫人の白い手が、席につくなりズレンのワインのグラスを奪う。赤い液体が赤い唇に上塗りされ、言いようのない嫌悪感でズレンは視線を落とした。
小柄で小さな犬を思わせる夫人は笑うと首をかしげる癖がある。そのたびに遮っていた向こうのテーブルのランプが覗き、ズレンは眩しく感じて眉をひそめる。
「なあに、相変わらず不機嫌な顔ね」と夫人は自分の眉間を指差す。それは貴方のせいでしょうと、ズレンはまた顔をしかめた。
「オリビエとは、友達なのね」
「……ええ」
オリビエの名を出すのだ、夫人の意図がなんなのか確かめてみる必要がある。低く囁く夫人にズレンは一瞬躊躇したものの頷いた。

「助けたいんでしょう?私のサロンにいらっしゃい。心配しなくてもいいわ、私一人だから」
年上のフラン夫人は華奢な手に華奢な顎を預けて首をかしげる。無邪気な仕草とは裏腹の提案にズレンはいくつか心の警鐘を聞いていたが。
「いいでしょう」と、婦人の手からするりとグラスを奪い返し飲み干した。
かすかに触れた夫人の手は、想像以上に冷たかった。

フラン夫人の言ったとおり、その夜夫人の家のサロンには他に誰も来ていなかった。
普段なら大勢がくつろぎ、議論を交わすだろうソファーには誰かの存在を形だけ残すクッションが二三個転がっていた。
かすかに花の香りがするのはこの場所の主が女性なのだと改めてズレンに思い出させる。
「さ、好きなところに座ってくださいな。今紅茶を入れるわ」
資料や新聞の積まれたテーブルの端を黙って眺め、ズレンは紅茶を温かいうちに飲み干した。

「ねぇ、ズレン・ダンヤ。あなた、あの亡命貴族を助けようとしている。でしょう」
それにはズレンは肩をすくめただけだ。不用意に口にしていい問題ではない。亡命貴族に味方する、それは共和政府に反抗するのと同等。
夫人はズレンのカップに二杯目を注ぎながら、笑った。
「司法大臣の下で働くのに、いいのかしら。信用されているんでしょう」
「……私の上司は司法大臣ではなく、ファリ司法長官、ジョスパー氏です」
く、と。小さく笑われた。
「誰もが知っているじゃない。あのジョスパーのナイフの振りをして、本当は司法大臣の表に出来ない仕事を手伝っている。ジョスパーがあれ程貴方を嫌っているのに、首に出来ないのは大臣の命令で貴方を雇っているからだわ」
ズレンは静かに息をつく。
肯定も否定もしない。
「随分な覚悟じゃない。亡命貴族を助けようなんて。出世を諦めるつもり?」
「まさか。ダンタン氏はジロンド派にも理解ある方です。私はこの国に彼は必要だと考えている、それだけです。もともと、私自身は派閥とは縁が無い」
「田舎から昇ってきたマルセイユ義勇軍、だからとでも?」
「ええ、それもありますね。何しろ私がここに来た時、革命はすでに釜に入れられたパンのようなものでした。私はただ、焼き具合を眺めているしかない」
「革命の仕上がりは貴方が決めると、そういうことかしら」
「たとえ話ですよ。それに。中身はあなた方がすでに作り上げている。後から何が出来るわけでもない」
ふふ、と我慢できなくなったようにフラン夫人は笑い出した。ちょうど、メイドの運んできたクッキーが香ばしい香りをさせ彼らの目の前に置かれた。
革命がどうなるのか。そんなもの、食べてみなければ分からない。
ズレンは夫人の止まらない笑い声を無視し、クッキーの一つに手を伸ばした。
それは想像以上に柔らかく、指先でほろほろと崩れた。砂で出来た脆弱な革命政府のごとく。
手にカスだけを残したそれを、拾い上げることもせずズレンは隣の一つをつまんだ。今度はそっと。

「私は貴方を買ってる。いいえ、私だけではないわ。ジロンド派が、よ。貴方のような人間が水面下で我慢している、惜しい話だわ」
「……なんのお話ですか」
「とぼけないでいいわ。ねぇ、私たちにつかない?貴方が大臣に命じられた表に出来ない仕事、随分お金が動いているそうじゃない。それを公表されれば大臣も危ういわよ」
「確証の無い噂で政敵を追い落とす、などという幼稚な発想を実行に移すには、あなた方の手も汚れすぎていると思いますが」
「オリビエを助けてあげる、といったら?」
女性にしては物怖じせず発言する。それが政治家としての彼女を築いた。腹を探り合う騙しあいは得意ではないのだ、夫人は我慢できずにカードを切った。
「私なら、助けてあげられるわ」
「あれは司法に委ねられている。今更なにをすると言うのですか」
お手上げですといわんばかりに肩をすくめ、穏やかな笑みすら浮かべるズレンには、言葉とは違う目論見がある様子。ズレンのカードを読みきれない以上、この交渉はフラン夫人に不利となる。
「貴方が我らに忠誠を誓い、司法大臣の素顔を語ってくれるなら。私が新たな司法大臣に就任し、政府のために忠誠を誓う音楽家に恩赦を与えてもいい」
ズレンは肩をすくめた。
「司法大臣が変わらずとも、オリビエは恩赦に値する。すでに約束は取り付けてあります」

―――司法大臣は苦い顔をした。丁度今のフラン夫人のように。
深夜、いつも密かに訪れる小さな酒場の隅で。司法大臣のダンタンはカエルに似た顔の大きな口をへの字に結んだ。
「私は君を信頼していた。残念だよ、君は私の行動に賛成してくれているものと思っていた」と、ズレンを責めた。
「いいえ。正しいことだと思いますが、費やした公費と理念をすべての人が正義だと認めるはずが無いことは、貴方ご自身も理解されておられるでしょう」
「それを公表すると脅しているのだぞ。君はその意味が分かっているのか」
抑えた声音にも大臣の焦りが見え隠れする。
「オリビエは真にかの歌の作曲者です。才能あふれ功績のある音楽家を、亡命貴族の養子になったというだけで死刑にすることの意味も、知っていただきたい」
「……その、音楽家とやらの恩赦も同じだろう。市民に理解されなければできない」
「オリビエの恩赦は誰よりも市民が求めることになるでしょう。その場でもし、市民の支援を得られないようなら私も諦めます。多くの人間がオリビエの生を望むのなら、大臣閣下には恩赦を。そのために議員の皆さんも同席願いたい」
―――同じ顔をしている。
ズレンは冷め始めた紅茶にあの夜の記憶を浮かべ、目を細めた。
「嫌な人ね」
フラン婦人の白い手が隙を見つけたのかズレンの頬に伸ばされる。
触れる寸前。青年が目を合わせ、夫人は一瞬の躊躇をみせた。ズレンの涼しげな黒い瞳は鋭く、年下のただの若者では無いものに変わる。夫人の中で、青年に伸ばしかけた手も、躊躇した行動も、いや、この夜この男をここに呼んだことすらも後悔に変わる。
「これでも飲み込まれないよう、必死なのですよ。地方出身の若造としては」
ズレン・ダンヤの声は耳元で聞こえ、後悔がすでに遅かったことを夫人は悟る。
青年の手は巧みに女を呼び覚まし、かなわないと認める頃には腕の中だ。
「私にはまだ、どの海で泳ぐべきなのかが見極められない。潜っては深みを恐れ、水面に上れば大波にさらわれる。漂うだけではいけないと分かってはいるのです」
この言葉にはズレン・ダンヤという青年の真実があるように、夫人は感じた。

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「音の向こうの空」第二十九話 ②

第二十九話:空に羽ばたく



何度夢見ても求める楽器は無く、目覚めて空を叩く指に気付いて溜息が出る。
高い天井をしばらく見つめ、オリビエは再び眼を閉じ毛布の上に乗せた手で奏でている。
自分でそう決めたとはいえ。死を迎える恐ろしさは言いようもなく、それを考えるたび自然に涙が浮かぶ。なぜだろう、こんなことになっている。そんな問いも震えて眠れない時間も繰り返し、これが続くならいっそ、早く裁判になればいい。決着をつけて、断頭台に登ればいい。
そんな風にも思えてくる。
リエンコが助け出すといってくれた。
ズレンが涙ぐんで助けたいといってくれた。
あの時ほど感謝し救われた時間はない。
けれど、それは一人きりになってしまえば夢のようにはかなく、今日こそは彼らが尋ねてくれるのではないかと期待ばかりしている。
黒い恐怖に沈み込む気持ちを、どうやったら浮き上がらせることが出来るのか。楽器に触れられない、ただその一点ですらオリビエを憔悴させているのに。

その朝、見たことのない男が牢番と供に来た。
「オリビエンヌ・フォン・オルファス・シュスター卿。貴方は今日、裁かれる。朝食に食べたいものがあれば言うがいい」
「あの」
オリビエはゆらりと立ち上がった。
「朝食は、いつもどおりでいいんです。ただ、礼拝堂で祈りを捧げさせてください」
そこにはオルガンもある。
「それは、オリビエ。死刑が確定したもののすることだ。貴方はまだ、そうじゃない」
オリビエはうつむき、ゆっくりとベッドに腰掛けた。
「では、朝食が終わる頃迎えに来ます。洗い桶と着替えを用意させますから、法廷に相応しい身なりに整えておいてください」
男はそう静かに語ると、出て行った。
牢番が、「あんた、音楽家だったんだってね。死刑が決まったら、オルガンでも弾いてもらいますよ」と。救いにもならない言葉を残していった。

その内、ぬるい湯を張った桶を下働きの若者二人が抱えてきた。
浸した布で身体を清め、最後に残った水で髪を洗った。
手伝ってくれた若者は、一言も口を利かなかったがオリビエが「ありがとう」と礼を言えば、少し赤みのかった頬をさらに赤くして、にこりと笑った。
ヨウ・フラも、こんな風に囚人を眺めていたのだろう。


ぬれて重くなった髪も、朝食を食べ終わる頃には乾き、オリビエは温かいコーヒーを最後にゆっくり飲み干した。
あ、チョコレートを飲ませてもらえばよかった、と。苦笑いする。
よくリエンコが作ってくれた。そう思い出せば胸がつまり、これでよかったんだ、僕が選んだんだと、息を吐き出し腹に力を込める。


バスティーユから馬車に乗るまで、オリビエは先ほどの男の後ろについて歩いた。視界に入る他の囚人と視線を合わせる気力も無く、ただうつむいていた。
礼拝堂が時を告げる鐘を鳴らす。
ふと顔を上げ。その瞬間、開かれた扉の向こう。明るい陽光が照らしオリビエは目を細めた。



裁判所はテュイルリー宮殿の細長い建物の一角にあった。かつて、広間として使われた場所で、同じ大きさ同じ造りの対になる部屋が国民公会の議場になっていた。
議会もそうだが、裁判も大勢の市民が傍聴に訪れる。オリビエが法廷に導かれて入っていったとき、余りの人の多さに一瞬立ち止まったほどだ。ぐるりと取り囲む人々は、バルコニー席から溢れんばかりにのぞき込んでいた。
ふと、声が聞こえた。
歩きながらオリビエは顔をそちらに向ける。
大勢が手を振っていた。その真ん中にキシュ。よく見れば、彼女の隣には父親のパーシー、その隣はメイドのヘスだ。とすれば。
モスの大きな身体はすぐに分かった。両手を派手に振って、オリビエ様、と叫んでいた。
涙が滲む。前で両手は縛られている、拭うこともできないから慌てて瞬きして涙を振り払った。

オリビエが被告席に立つと、正面に座った裁判官が髭を不機嫌になでつつ「静粛に」と繰り返す。その左右にも裁判官。三人並んだ背後に、十六人の陪審員が座っていた。
その中に、あのエスファンテに来た調査委員の三人もいた。
目が会うと、なぜか三人は穏やかに笑っていた。

オリビエが神に誓って嘘偽りは言わないと宣誓すると、司法長官がオリビエの罪状を読み上げた。
1789年秋に亡命したこと。父親に当たるリツァルト侯爵は亡命貴族を率いて戦闘に加わっていたこと。そして、法令に従わず、帰国の期限に戻らなかったこと。共和国に捧げるべき財産が無いこと。
「亡命貴族は死刑だ」と。傍聴席の誰かが叫んだ。
日ごろの鬱憤を晴らしたいのか野蛮な足踏みまで加わって、騒ぎ出す。
「静粛に」
一応言うだけ言って、静まる様子の無い市民を無視し、裁判官はオリビエに問いかける。
「罪状に間違いは無いか」
何一つ、疑う余地はない。
「間違いありません」
オリビエは答える。数瞬遅れオリビエの言葉の意味を理解しようと場内は静まり返った。
「僕は革命の年、故郷のエスファンテを市民に遺し、隣国へと向かいました。そこで数年、オルガニストをしながら静かに暮らしていました。戦争が始まり、リツァルト侯爵は僕の代わりに戦場に向かいました。僕は、父を救いたくてこの国に戻ってきました。父が残したエスファンテの財産はすべて、亡命する前に市民に分け与えました。だから、共和国に捧げるものは、…僕の命くらいしか残っていません」


「この人はただの音楽家なんだ。今も自分のことより市民のことを思っている。そんな人を、共和制の敵だと裁くのは間違っているよ!」

次へ♪

「音の向こうの空」

第二十九話:空に羽ばたく



響く声だった。
そこにいた多くの人と同様、オリビエも顔を上げキシュの赤い髪を見つめた。
「名前だけは侯爵様だけど、本当はただの意気地なしの楽士なんだから!ライン軍の歌を作ったのも、この人なんだよ!皆知ってるでしょ?」

なにを言う、と。陪審員の一人が立ち上がり、「あれは作曲者が他にいる」と怒鳴り返した。
「あの人はあたしが聞かせた歌を覚えていたんだ。それを元にライン軍の歌を作ったんだ。偉大な歌だよ!大勢がその歌を歌って、勇気を出して戦ったんだ!オリビエちゃんはこの国にたくさん貢献してる!」
喧騒が増す中、陪審員の一人あの年配の調査委員が立ち上がり、手を上げた。
「裁判官、ライン軍の歌はわが国に確かに大きな恩恵を与えている。その作曲者が彼なのかは、審議するに値すると思うが。傍聴の皆も賛成だろう」
どよめきとそれを上回る拍手が場内に広がった。
面白ければいいのだ。亡命貴族の裁判など、人が変わっても判決は毎回同じ。今回の珍しい裁判の成り行きは市民に期待を持たせた。
オリビエはただ、口をあけて取り囲むバルコニー席を見上げていた。

裁判官は「では、オリビエ、お前が作曲者だとどう証明する」と。
問われてもオリビエにはそんなことは分からない。
証明も何も、あれは。すでに僕の曲ではない。
視線を落とすと上から声が降りてきた。
「その人の演奏を聞けば分かります。同じ歌であって、でもまったく違う。もっと、なんていうか」
国民衛兵の一人だ。あのエスファンテの古城でオリビエの演奏に聞き入った男だ。傍聴席の隅で肩をすくめるようにして立ちながら、そう叫んだ。
「感動するんです!ホンモノだって思う。私たちでは歌いきれない、革命の深い思想を感じられるんです!」
拍手が。
男の言葉に傍聴席から歓声と拍手が沸き起こった。
普段の傍聴席と違う様子に、裁判官は眉をひそめた。
司法長官がなんだ、今日は騒がしい、と呟き。隣に座るズレンは「田舎ものが多いのでしょう」と笑った。
その通り、傍聴席の大半がエスファンテの市民だったのだ。それが分かるズレンは、高みの見物とばかりに腕を組んで裁判の成り行きを見守る。
傍聴席の隅に陣取るエスファンテ衛兵の数人がズレンに向かって小さな敬礼をする。かつて、ズレンの部下だった第三連隊の連中だ。
「あいつらまで……」
呟いたズレンを司法長官が睨む。
「なんだ、ズレン。知り合いか」
「ええ、まあ。古い友人がファリ見物にでも来たようです」



裁判官は「静粛に」と繰り返すが、オリビエの演奏を求める傍聴席の声は大きくなるばかり。その内、キシュが謳い始め、場内にライン軍の歌がこだまする。
その歌はどうにもクランフ人の心を沸き立たせるのか、いつの間にか陪審員やズレンの周囲に座っていた議員まで口ずさんでいた。
その席の一角、金色の髪を一つに束ねた男がそっと裁判官に近づき、耳打ちをする。
裁判官は男の顔を見直し、「しかし…」といったようだ。
「責任は私が取ります」と。にこやかに応えた将軍は、黙って手を上げた。
どこか、カリスマ性のある男なのだ。
盛り上がっていた傍聴席は繰り返していた歌をやめた。
静まり返ったところで、エリーに促された裁判官は「ルーブル宮殿にある楽器を運ばせる。その後で演奏させよう。それまでしばし、休廷だ」と宣言した。
拍手とざわめきの中、オリビエは係官に肩を叩かれるまで立ち尽くしていた。
その場の椅子に腰掛けると、改めて陪審員を見つめる。あの高齢の調査委員はエリーと何か話している。
演奏、させてくれる。
それはエリーが約束を守ってくれたということだ。

見つめていると、その内エリーはオリビエのほうに歩いてきた。
「少し話したい」と係員に言うと、係員は数歩離れた。
「リツァルト侯爵に敬意を表するからこそだ。毎夜お前の演奏を思い出すと語っておられた。皮肉なことだな。養子であるお前が捕らえられたために、侯爵の処刑が早まった。結果は同じとしても、言葉を交わすくらいはしたかっただろう。伝言だ。お前の音楽とともに生きられたことは幸せだったと」
エリーは整った顔に何の表情も見せず淡々と語った。
「……ありがとうございます。ピアノを弾けるのですか」
「いや、チェンバロだが。楽器ならどれも同じだろう。幸い、ここは宮殿。立派な楽器が保存されている」
「ありがとうございます」
オリビエは笑った。
その笑みにエリーは怪訝な表情をし、不機嫌そうに立ち去って行った。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十九話 ④

第二十九話:空に羽ばたく



オリビエは顔を上げた。
赤毛が群衆の中一際キシュを目立たせる。

視線が会ったと思う。
キシュが何か言いたげに瞬きした。
オリビエは目を細め、静かに微笑む。

二人のわずかな逢瀬は一層騒がしくなった傍聴席に阻まれた。なんだい、ありゃと一際響いた男の指す方角をオリビエも見つめた。
裁判所の裁判官が出入りするための扉から、きちんと上着を着込んだ男が一人、次には小柄な女性が。オリビエはその誰も知らなかったが、十数人いると思われる彼らを市民は知っているようで、拍手が巻き起こった。国民公会の議員の先生方だ、とオリビエの脇に立っていた衛兵がささやいた。
「先頭が司法大臣のダンタン氏、後ろにフラン夫人もいるな。今この国を動かしている、お偉いさんたちだ」
「議員……」

ズレンが彼らを迎え入れる。ふとフラン夫人という女性と目が会った。オリビエはただ見つめていたが、女性はかすかに微笑んだように見えた。
議員たちは場内の全員の視線を集めつつ、悠然と最前列に陣取った。
「かのライン軍の歌は革命の歌として、国民公会で認められている。その作者を判じるのに、議員の誰も立ち会わないではまずいだろう。裁判官、我らも同席させてもらいますよ」
裁判長は周囲の陪審員に視線を向ける。陪審員の何人かが頷いた。

「現在我がクランフ軍は外国に対し勝利を重ねている。丁度本日、サヴォワの併合が報告されたところだ。そこにいる男が、もし本当にライン軍の歌を作曲し、我が国民衛兵の勝利に貢献したのならば。単なる亡命貴族として裁くわけにはいかない。ここにいる全員が証人となる。オリビエ、お前が真の作曲者であるなら、私はお前の恩赦を提案する」
司法大臣の言葉を待っていたかのように、数人の男たちに抱えられ、チェンバロが運び込まれた。
人々はそれを見て歓声を上げた。
恩赦。
オリビエは司法大臣を、そしてズレンを見つめた。
腕を組んで「さあ、弾け」と、その表情は語っていた。
「オリビエちゃん、弾いてよ!あの時、あたしと一緒に歌った、あの曲を!」
キシュの声だと分かっていた。
それを背に受け、オリビエは解かれる戒めをじっと見つめていた。
「さあ、皆、待ってるぞ」
そう衛兵に背を押され、オリビエはチェンバロに向かう。

ちょうどバルコニー席の背後の窓から、美しいステンドグラスを透かす光が差し。法廷の真ん中に据えられた装飾の施されたチェンバロはきらきらと輝いた。

鍵盤に触れる手は、心をも解放する。
懐かしいチェンバロ。軽やかな感触、ピアノほど大きな音が響かずともどこか郷愁を誘う温かい音色。かつて侯爵家で、描かれた空をいつも追っていた。僕は幼かった。
狭い世界に生きていた。
音楽を続けるために、そうして生きていくために、捨てなければならないなら何でも捨てた。諦めることで生きていけるのだと、音楽を続けられるのだと信じた。恋人をも犠牲にした。良心の呵責も後悔も、自分自身を狭い籠に押し込め音楽に夢中になることで許されるのだと思っていた。
いつの間にか、僕は自分で檻を作っていた。

キシュが気付かせてくれた。ズレンが叱ってくれた。ヨウ・フラにも、アーティアにも。僕は皆のおかげで少しは変われたんだと思う。
僕の音楽で誰かが幸せになってくれればいいと願うようになった。
必要としてくれる人がそばにいる幸せに、僕は失って初めて気付いたんだ。

それならば。今、僕には奏でたい曲がある。

オリビエの指先がしなやかに鍵盤を走り、音色は金色の芳しい風となって周囲を包んだ。


「違う…けど」
キシュは呟いた。

ライン軍の歌、ではない。
ズレンは呟いた。
「あいつ、なにを考えてる」
「これはどういうことかね」と、司法大臣がズレンを睨みつける。

オリビエの曲は、幾度も牢の中で繰り返してきたもの。ずっと悲しみを積もらせ、胸に溜め込んでいた思い。感謝と哀悼。
オリビエはリツァルト侯爵を思い出していた。
幼いあの日。両親へのレクイエムを僕に依頼した。あの時から何年、貴方のために音楽を奏でてきただろう。誰よりも多くを聞いてくれた。僕の思いも感情もすべて、侯爵様は聞いてきた。そして、今やっと最後の依頼に応えられる。
侯爵様に捧げるレクイエム。オルガンではない、ここは聖堂でもない。だけど。手元を彩る陽光は神々しく、高い窓から僕を照らす。
どこかで、聞いていてくださるかもしれない。
感謝しています。

オリビエの演奏はあの即興演奏へと続き、切なく柔らかな響きはその場にいる誰も邪魔しようとはしなかった。
傍聴席の片隅、伝令兵のシェビエは深く息をし。リエンコの言葉を思い出していた。
天使、か。小さく呟いたその少し離れた位置。オリビエの演奏をと促した衛兵は、ライン軍の歌でないことに驚いたのも束の間、すぐに音色に引き込まれ胸の前で拳を握り締めていた。こんな素晴らしい曲を誰かのために奏でられるのなら、どんな言葉で祝福するより、相手を幸せにするのだろうと。ふとそんなことを考えている。
ズレンは一瞬立ち上がりかけ、そしてすぐに深く座りなおす。馬鹿だな、と。心の呟きが細める瞳に表れている。
エリーはじっと。ただじっと聞き入っていた。
一つも逃さず心に残そうといわんばかりに。途中から眼を閉じ、脳裏に浮かぶ親友の言葉を思い出す。オリビエの音楽は、生き方は、それだけで立派な思想なんだ、と。
多くを惹き付け、わけ隔てなく幸せにする。そんなこと、どんなえらい政治家だってできはしないぜと。今なら分かるのかもしれない。

キシュは。
ただ、泣いていた。
パーシーが気付いて肩を抱くが、それでも涙は溢れ続ける。
悲しいのではない。ただ、感情が溢れてくる。
そう、初めて会ったとき。窓辺から聞こえる曲に心惹かれた。いつの間にか覚え口ずさみ。声をかけられたとき本当はひどく嬉しかった。
貴族様で、侯爵の犬で。なにを言っても笑っている。我慢しているくせにと、それが悔しくて八つ当たりしたこともある。もっと、感情を吐き出せばいいのにといつももどかしく思っていた。だけど。そんなオリビエだから、この演奏が出来る。
すべての感情を、想いを優しさを音色に込める。
とても不器用な人なんだと。そうだよ、出会ったときから分かってた。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十九話⑤

第二十九話:空に羽ばたく



演奏は、いつの間にか終わっていた。
誰もが気付かないくらい心酔していた。
かた、と。小さな音を立ててオリビエが立ち上がる。
それ気付いた誰かが素晴らしい!と叫んだ。それをきっかけに拍手と歓声が包み込んだ。
オリビエは演奏会でしていたように頭を下げた。
そして手を上げると人々は静まり、息を潜めてオリビエの言葉を待った。

「ライン軍の歌は。誰のものでもありません。歌う国民皆のものです。私がこうして音楽を奏でられるのも、多分これが最後です。だから。私は私だけが奏でることのできる、私だけが贈ることのできる最大限の感謝を。我が父であり、主人でもあったリツァルト侯爵様に捧げます」

「でもそれじゃ、オリビエちゃん!」
キシュが叫んだ。
オリビエは微笑んで応えた。
「僕は、この才能を与えてくれた両親と育ててくれた侯爵様、そして僕を見守ってくれる大勢の人に感謝してる。それを伝えたかったんだ。ごめん、キシュ」
泣き出したキシュは何も言葉を継ぐことができない。
パーシーが「あんたはよくやったよ」と笑った。
「失っていいのだと思いますか」
そう、口を開いたのはズレンだった。よく通る声は、まだ演奏に酔った人々の心に染み入った。
「音楽を奏でることで生きてきた青年が、その全てを犠牲にしてエスファンテの民を救った。自らの地位や財産を固持しようとする貴族や僧侶どもと同じではない。彼の精神は尊ぶべきであり、彼の演奏する音楽は神にも近い。それを、人である我らが裁くことが出来るのか」
観衆が、そこに集ったすべての人が一斉に歓声を上げた。
自由を。彼に自由を。
それはうねるように包み込み、オリビエは呆然と立ち尽くしていた。
「すべての人に自由を!革命は皆のために。自由のために」
市民の誰かが、持っていた帽子を投げつけた。それにつられるように、様々なものが降ってくる。衛兵たちはそれを止めさせようとバルコニーへと続く階段に殺到し、その瞬間、誰かが投げた小さな箱から真っ白な煙が立ち昇り始めた。
「神聖なる裁判をなんだと思っておる、静まれ」
「か、火事だ!」誰かが叫んだ。

煙はあっという間に人々の視界を奪う。慌てた市民は駆け上ろうとした衛兵など突き飛ばし階下へ逃れようとする。すでに足元には白い煙が這い、転ぶものもいる。
「衛兵!」ズレンは叫び、大臣たちを庇いながら通路に立った。
ふと大柄な衛兵が近づく。
白く濁った空気の中、衛兵の姿をした男は立ち止まりズレンを見つめた。
リエンコだ、ズレンは瞬時に理解する。
何をしても救い出す、か。
「任せた」と。ズレンの軽く上げた手が語ればリエンコはかすかに笑ったように見える。


「何をしているの、衛兵!」
白い煙に加え響く女性の声が二人の間に割り込んできた。
逃げ出す群集に押しのけられ、転びかけたフラン夫人が衛兵と勘違いしたのだろうリエンコにすがりついたのだ。どこかで何かが爆発しさらに甲高い悲鳴を上げる。昔から女性の悲鳴が苦手なズレンは眉をひそめ、それが伝わったのかリエンコも表情の無いまま夫人を引き離そうとする。

「助けて!私を外に……」
腕をつかまれ押しのけるように突放そうとするそれが、衛兵でないと夫人ははじめて気付く。
「お前は誰…!?」
夫人が口を開け。
叫ぶまでの間に、二人が動いた。
ズレンは夫人の前に駆け込み、リエンコは今喰らいつこうとした得物に短剣を振り下ろした。
「きゃあ」
フラン夫人の台詞はズレンに抱きとめられ平凡な悲鳴に終わる。周囲の喧騒に紛れ誰も気付かない。ズレンはとっさに左手で引き抜きかけたサーベルでかろうじて短剣をわき腹で留めていた。
この男を背にする、それは瞬時に脳裏をかすめる戦法をすべて否定するに値した。ズレンは夫人を抱えたまま、身動きが取れない。
リエンコの左手はズレンのサーベルを握る手を押さえつけている。
「く……」
「なぜ、庇う」耳元で囁くリエンコ。
右ひじを背後に繰り出し身を翻すと、ズレンはやっと自由を得る。
そこは本能。夫人はズレンの背後に隠れ、こともあろうかズレンの腰の銃を掴んだ。
「止めなさい!」
「何者なの!衛兵!衛兵!」
叫びながら夫人は銃を振りかざすが。
リエンコは白い煙の中悠然と立っている。その姿は白銀の戦場に立つ獣。
「そんなもの、庇ってどうする」揶揄するように笑って見せた。
「政府や政治家がなんであれ、この国に革命は必要だった。今この人を殺させるわけには行かない。あんたがやろうとするなら、俺は防ぐしかない」
「護るものがあるなら、それはいいことだ、と。侯爵が私に遺した」
リエンコはふわりと身を翻した。リエンコが護るものは煙の向こう、すぐそこで助けを待っている。

夫人が震える手で弾を装填し、火薬を詰め終えた時にはリエンコの姿はない。
「フラン夫人、遠方から狙うならばともかく。接近戦に手間のかかる銃は役に立ちません。危ないですから、返して下さい」
しがみつくように震えて銃を握る夫人。ズレンは溜息を吐き、その肩を抱いた。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十九話⑥

第二十九話:空に羽ばたく



オリビエはチェンバロにすがるように手をつき、呆然と立ち尽くしていた。
どこかでキシュの声がした気がする。
「キシュ!」
叫んだとたん、煙を吸い込んでむせた。
滲んだ涙でますます視界は狭まり、目の前のチェンバロに描かれた美しい風景すら見えない。

誰かが肩をつかんだ。
「オリビエ様」
国民衛兵の姿をしていた。でもそれは。覚えのある感触。
「リエンコ」
どこかで、「赤い幽霊だ!」と叫び声が上がり悲鳴はますます大きくなる。
あの声、キシュだ。
仰ぎ見ようとするオリビエをリエンコは黒いフード付のマントで覆い隠す。
「さ、こちらです。早く」
被告人席から数段下の通路へと降りたところで、ドン、と何かに突き当たる。
人、と分かった瞬間、背後のリエンコの存在感が無くなる。顔を上げれば、目の前にはあの調査委員の老人。オリビエの肩越し、リエンコが今まさに何か武器をと懐に入れた腕を杖で押さえていた。
「……」睨むリエンコの目は煙る空気の中、妙に煌いて見える。
「ほ、余計な殺生は命取りだぞ。さ、火事だ、逃げるならあちらだ」
老人はにこりと笑った。
「佳い曲だった」
老人はそう囁くと、オリビエの背中を押した。行くがいい、と。
「あ、あなたは……」
「リツァルトとは、戦友だった」
「行きましょう」老人の言葉はリエンコの声に遮られた。
かすかなそれを耳の奥で繰り返しオリビエは意味をたどろうとする。リエンコは二人の間に入ると、オリビエを強引に歩かせた。
佳い曲だったと。侯爵様とは戦友だったのだと。
黙って送り出してくれるのは、侯爵様があの人にとって大切な人間だったからだ。ここまできてまだ、僕は侯爵様に護られている。
キシュやパーシー、モスも助けてくれる。
こみ上げる思いに胸元を押さえながらオリビエはひたすら走った。
フードにふさがれた耳はまた、どこかで赤い幽霊だと叫ぶキシュの声をかすかに聞き分ける。
僕のために。
キシュが僕のためにそうしてくれているなら、僕はとにかく逃げるしかない。



狭い視界の中リエンコに引かれるままいくつかの階段と廊下を走りぬけた。突当たりと思われる小部屋の隅、タペストリーの裏側にある扉を開くと周囲は一変した。狭い通路の壁は古いつくりで壁を支える円柱ものみで削った荒い跡が残っている。かすかにカビのようなすえた匂いもする。
真っ暗な中、人の姿も見当たらず静まり返っていた。
息を切らせオリビエが立ち止まるとリエンコは背中をさすってくれた。
しばらく狭い牢に閉じ込められ散歩すらしていなかった。だからか息が切れる。
「これを」
「はあ、ありがとう」
リエンコに差し出された皮袋の水を口に運んだ。かすかに甘く苦い、どこかで味わったような。躊躇は一瞬で、オリビエは一気に飲み込んだ。煙に荒れた喉は水を求めていた。
「エスファンテの多くの人が、貴方のために赤い幽霊を演じてくれています」
「赤い幽霊?あの、伝説の?」
それは確か、城の主が変わるときに姿を現すとか言う。
「ええ。この通路は秘密とされていますが存在を知るものも多い。施錠され入れなくなっていただけのことです。幽霊が走り回っている間に通り抜けなくてはいけません」
「古い通路だね」
オリビエは改めて通路を見回す。ランプに照らされるそこは濃い空気が充満しているように思えた。息苦しい。
「ええ。ルーブル宮殿が建てられた当初の古い地下通路を図面から消し、テュイルリー宮殿を建築した折に水の回廊の隠し扉でつないだのです。当時、王妃の部屋の奥、セーヌ川に面したプティキャビネの地下から密かに市街へと出られる通路を確保していた。何のつもりでもなかったと思います。ただ、秘密であること、自由になれる道があることが、当時の王家の人間には美しく思えたのでしょう」
自由になれる道があること。
「……王家の人でも、そんな風に思うんだね」
オリビエはアーチ状に積み上げられた昔の天井を見上げた。ランプに照らされるそれは不気味な形のオリビエ自身の影を躍らせて浮かび上がる。
薄いクリーム色の石は、この町の土の色に似ている。宮殿に使われている大理石とは明らかに違っていた。長い年月をこの光の無い世界で過ごし、音も無く風もない中に鎮座している。建物なのに、古くからある山のような存在感。見上げながら歩くと、地面が傾斜しているのか景色が揺らぐ。
「方向が、よく分からない」
目が回っている、のか。
真っ暗な地下通路は足元だけが頼り。いつの間にか掴んでいたリエンコの腕を引くようにして、オリビエは立ち止まる。
「あ、あのリエンコ。目が、回るよ」
何か、変だ。
リエンコが持つ小さなランプが、顔に近づいたような、気がする。
気付けば膝をついていた。気だるさに立っていられない。
この感覚は、前にも。たしか、熱の薬だとリエンコが。
「言ったでしょう、オリビエ様。誘拐される時は大人しく従ってください。ここしばらく眠れない日が続いたでしょう。貴方は少し眠っていた方がいい」

なんの、ことだろう。

次へ♪

「音の向こうの空」第二十九話 ⑦

第二十九話:空に羽ばたく



石の柱にうずくまるオリビエを、背後に庇ってリエンコは振り返った。
暗がりの通路の中。かすかな音に、眼を閉じたままオリビエは意識を保とうと耳を澄ます。
足音、かな。

「五人だけとは、侮られたものだな」
リエンコの声がじわりと石壁に響く。
誰もいないと思われた通路、円柱の影からゆっくりと男が姿を現した。
オリビエは背にした柱にもたれながら、それを見上げていた。
何が起こるのか、確かめようと頭を振る。
見たことのある男だ。
リエンコが足元に置いたランプに照らされ浮かび上がる。
「エリー、さん……」

金色の髪を獅子のようになびかせ、エリーはふと笑みを浮かべた。
「この暗がりでお分かりとは。流石ですね、将軍。オリビエはともかく、貴方を黙って逃すわけには行かないのです」
「私は祖国を追われた身だ。捕らえたところで何の得がある」
「本当に、目的はオリビエだけだというのですか。ここまで来て。タンプル塔に忍び込んだことこそ、貴方の真の目的でしょう。国王陛下は貴方に救われ国外に逃れるのだと信じておられる。貴方が訪れて以来、随分元気になられました。困りますよ。革命は国王裁判で一つの区切りを迎える。真の共和国が誕生する。今国王を逃すことは出来ない。ですから、貴方はだれに知られることもなく、ここで死んでいただかねば」
くと笑ったのはリエンコだろう。オリビエは何度も目を擦り、頭を振る。途絶えかかる意識を取り戻そうと拳を握る。その手にかすかに足元の砂がつかまれたことも、理解できていない。
「国王の妄想を真に受けたか」
「真実だろうとそうでなかろうと、貴方を国内で自由にさせておけるほど、今の我が国に余裕はないのです」
エリーの言葉は硬質な響きで、オリビエの耳に届く。

なぜここで、国王陛下の話になるんだろう。
必死に何か考えようとする。
ふ、と。リエンコが笑う独特な声が聞こえた。それはいつも、どこか不思議な気分にさせる。
オリビエが聞いていられたのはそこまでだった。


リエンコは被っていた帽子を取り、頭を振った。
短い金色の髪、精悍な顔をエリーと衛兵たちに向けた。
彫りの深いそこに瞳は翳を帯び、かすかに細く笑う。
「信じるべきものを誤っているとしか思えんな」
かつてロシアの軍を率いた男は本来の表情を浮かべた。
「惜しいですね、オリビエにその姿を見せてやりたかったですよ。貴方が下男など、ありえない」
言い終わらないうちにエリーはリエンコの最初の一撃を一歩下がってかわした。
指示する前に衛兵が飛び込み、それはすぐに血を吐いて倒れる。
白い肌、鋭い薄い青の瞳。血にまみれるリエンコは狩りを楽しむ狼のように。研ぎ澄まされた感覚で衛兵たちの隙をついた。
一人、二人。
三人目がサーベルを地に落とした音が通路に響いた時には、遺された衛兵が横たわるオリビエにと視線を向けた。
丁度ロシア人の男はエリー将軍と切り結び、短剣の不利な間合いを生かし逆に一気に詰め寄ったところ。この隙にこの男を人質に、と。衛兵はそう考えた。
不用意に近づき、オリビエの傍らに置かれたランプの明かりを遮る。影がリエンコの視界を横切り、それと気付かせる。
「オリビエ様」

呟く瞬間をエリーが見逃すはずも無く、サーベルの柄でリエンコの剣を持つ手首をひどく打った。
「!?」
表情一つ変えず、リエンコはその腕をつかむと引き寄せ、足払いをかけた。
渾身の打撃だったはず。ロシア人の太く長い手足はどれだけ頑強なのか。エリーが体勢を保とうとした足元、緩んでいた石畳の凹みにバランスを崩す。

オリビエの胸元を掴みあげた衛兵がサーベルを頬に当て「この男を」と。声を上げつつ振り替える。目的のロシア人は、目の前。
「!?お前…」
衛兵はサーベルを握る手首に衝撃を感じ、それが短剣で切られたのだと気づく前に。喉が裂かれた。

噴出した血は暗がりにどす黒く、周囲の石にしみこんでいく。
オリビエの頬にかかったそれを親指で拭うと、リエンコはゆっくり立ち上がった。
残る一人。
エリーは立ち上がり、腕についた砂埃を払った。
それすら優雅。
「以前は優男だったが。強くなったな」
「嬉しそうですよ、将軍」エリーは荒い息を悟られまいと、声を低く抑えている。
「嬉しいが、悪いかな」
「殺りがいがある、というのでは趣味が悪い」
「そういう趣味は無いな。エリー。革命は多くの血を吸った。もう十分ではないか」
「私は私の信念を貫きたいだけです」
「革命など、天候と同じ。信念でどうにかなるものでもない」
「だからこそ、自分が思うとおり行動するのみ。嵐だからとこもっていては何も出来ない。それがどう評価されようと、正義でなかろうとかまわない」
「ふん。以前の私はお前と同じように尽くした国に捨てられた。お前も一度失ってみるといい」
リエンコの声は冷たく響いた。
「自分が生きる目的としていたものを、な」

次へ♪

「音の向こうの空」第二十九話⑧

第二十九話:空に羽ばたく



ぐら、と。どこかで感じたことのある揺らぎにオリビエは眉をひそめた。
水音。
それも、流れるような穏やかな。
ぎし、と。耳元で何かが軋んで、オリビエは目を開いた。
真っ暗だ。
「?」
顔の上にかかる黒いマントを払い、起き上がる。
「隠れていてください」
リエンコの声が、すぐ上から降ってきた。
通路、今は水路だが、その先には出口らしきものがあるらしい。光を背負ったリエンコの表情は陰になる。
「あ、ここは」
「もうすぐ、セーヌ川に出ます。マントに隠れていてください。このまま下って、ブローニュの森から陸に上がり、国境を目指します」
「分かった」
出口が近づき、オリビエは眩しい光から逃れるように再びマントを被り、船底に横たわった。
かび臭い木の匂いを避けようとマントの襟元で口元をふさいだ。
「わ、何これ」
マントはさらに生臭い。それは、どこかで嗅いだことのある悪寒を呼び覚ます匂い。暗がりの麦畑。
「血?……!あ、あの衛兵とか、エリーさんは」
「少しばかり血を浴びました。我慢してください」
血を。僕が眠っている間に、リエンコは一人で五人も相手にしたのだ。
「ごめん、リエンコは大丈夫なのか」
「ええ」
ぎしぎしとリエンコの漕ぐ櫂の音に紛れそうなくらい、短い返事が返ってきた。


「リエンコ、あの。貴方は、何者なんですか」
「…下男。と言っても、納得しないのでしょうね」
オリビエが黙っていると、気配が近づきマントの上から頭をなでた。
「以前通路の鍵を得るため、タンプル塔に忍び込みました。ここで貴方と一緒に陛下を救い出し国外に逃せば、その功績は何かしら自分の得になる。そう考えた瞬間もありました」
八月の暴動以来国王はそこに幽閉されていた。警備も薄いわけではないだろう。それを、リエンコは忍び込んだ。僕を救い出したように、国王陛下を救うことも出来ただろう。
「ですが、気が変わりました。国を統治し権力をほしいままにしてきた国王は私の思うような方ではなかった。ただの一人の男だった。父親で、王妃の夫だった。市民は同情するでしょう、哀れを誘うには子どもの話を語るのもいい手なのかもしれない。だが子供も妻もいない私には情けないとしか思えなかった。だから、救うのは貴方だけにした」
リエンコは、過去に捨てた何かを取り戻そうとしたのかもしれない。それを諦めたのだろうか。権力だったり地位だったり、祖国だったのかもしれない。
「…あの、僕なんかのために」
「貴方を護る理由は以前話しました。それは私が決めたことです。オリビエ、生きるうえで価値を見出すものは人それぞれ。名誉も富も祖国すらなくとも、人は生きていける。貴方の人生に音楽が必要なように。マルソーはそういいたかったのでしょう。私もよく分かる。貴方のためにチョコレートを作る時間が、今思えばやけに楽しかったとね」
ぎしぎしと軋んだ扉の開く音。船が外に出たのだろう、昼下がりの陽光が黒い生地をかすかに透かし、オリビエは自分の手を見つめた。この手はこれからも、たくさんの音を奏でられるのだ。
「…リエンコ…」
「さあ、行きましょう。オリビエ様」
オリビエの想像の中リエンコはにっこりと笑う、それが。いつか、遠くなっていく。
ふとそんな予感がした。
「あの、ずっといてくれるんだよね?」
ふふ、と。あの不思議な笑い声が響いた。
「あなたは、かわいいですね」

  ***

騒ぎの続いている宮殿も、外から見ればそれとは分からない。冬の近づくこの季節、薄い灰色の靄をかぶったような空に午後の静けさ。ファリの街が最もくつろぐ時間だ。
子どもは昼寝をしているだろう。大人は午後の休憩へ。カフェや家に戻りしばし息をつく。この時間に騒がしいのは、裁判所と宮殿の屋根の鳩くらいなもの。
「いい風が吹いているな」
川下にはブローニュの森が太陽に黒々とした姿をさらしている。蛇行する川面は空を映す。風が時折、テュイルリー宮殿の喧騒を運んでくる。
ナシオナル橋のすぐ下流、船着場にズレンは立っていた。丁度樽を積んだ船がゆったりと前を通り過ぎた。
「何か荷を待ってるんですかい」と舫を結ぶ船頭に問われ「まあな」と笑ってみせる。

テュイルリー宮殿の地下は、セーヌ川に続く地下水路の水門へと通じる。
そこから小船で川沿いに下る。人目につかない下流で陸に上がるつもりだろう。
橋を支えるアーチの向こう、小さな船の陰を認め、ズレンは手をかざしてそちらを眺めた。
陽炎の揺らめく川面に船影が近づいてくる。輸送船に比べ小さい。船着場に沿って張り付くように並ぶ船の間をするすると通り抜け、こちらに向かってくる。
ズレンは手を上げた。
人目のあるこの場所、姿を見せるだけで通り過ぎるつもりだろうというズレンの予想を反し、船はズレンの立つ船着場に船体を寄せた。
船を漕ぐ大柄な男は黒いマントをはためかせ、帽子の下から顔を覗かせた。
風が覗かせる血にまみれたその姿に、ズレンは目を丸くする。
まさしく赤い男。明るい陽光の美しい景色の中、一人戦場に立っているかのようだ。
慌てて周囲を確認すると、先ほどの男は狭い石段を登っていったようで、地上から二メートルほど低いそこにはズレン以外誰もいなくなった。

「おいおい、なんだよ。あんたのその格好は」
「船を寄せるつもりは無かったのですが、貴方に頼みたいことが出来ました。宮殿の地下通路に一人、けが人を残してきました。ズレン・ダンヤ。貴方に任せます」
「オリビエは?」
どこかで何か声がし、リエンコの足元、木箱が二つ積まれた脇にうずくまる黒いマントがかすかに動いた。
「ああ。出なくていい、ばか。お前のさよならは国境で聞いた。二度もいらん」
出なくていいといっているのに、オリビエはもぞもぞと黒いマントを手繰り寄せる。亜麻色の髪がはみ出した。
「ズレン」
「オリビエ、忘れ物だ。皆の努力も俺の根回しも無駄にしてレクイエムを演奏したんだ、責任取って連れて行けよ」
オリビエは身を起こし、マントから顔を覗かせた。
「ズレン、それ……?」

「オリビエちゃん!」堤防の上、声が走り。
リエンコは思わず腰の剣に手を伸ばしている。
「待って、待って!!」
「ぎりぎり間に合ったか」ズレンが笑って迎える。
駆ける小柄な姿はあっという間にズレンの隣に立ち、そして。
とん、と。軽やかに飛び立った。
堤防の向こうに見えるシテ島の森、緑の背景にその赤い髪は眩しく輝く。
「わぁ!」受け止めるも何も出来ずに飛び乗られ、オリビエは思わず声を上げる。
「あ、ごめん!」
「危ないよ、キシュ、いくらなんでも無茶だよ!ちっとも変わってないんだな、君は」
野良猫のまま、それが本当は、嬉しい。
「あ?そんなこというの?」
尖がる口も、その口調も。以前のまま。
風が頬をなでた。キシュの髪も揺れその向こうの空が青く眩しい。
景色が流れ出し、船が再び川の流れに身を任せたことに気付く。
「あ……」
二人同時に呟き。
改めてファリの地、そこに残るズレンを見つめた。
ズレンはいつものつまらなそうな顔で一言だけ「じゃあな」と手も振らない。

「ズレン!ありがとう!あの、いつかまた、会えるよね!」
小さくなる青年は黙って右手を上げた。
何か言ったかもしれない。けれど、オリビエの耳には届かなかった。


いつか、また会いたい。
大切な友人は革命のこの街で一人生き抜こうとしている。

「大丈夫だよ、ズレンなら」
キシュはオリビエの隣に座り込み、オリビエと同じ方向を見つめていた。
「うん、そうだね」
ごほんと、リエンコの咳払い。
「二人とも、隠れてくれないのですか」

慌てて布を被り。
引っ張り込んだ野良猫は「なんか臭いよ」と顔をしかめながら暗がりの中オリビエの手を握った。
抱きしめれば髪がくすぐったい。
「あの時の、教会みたいだ」
二人身を寄せた教会の礼拝堂。神だけが見ている前で二人結ばれた。
僕らはあの時、神の前で誓ったのかもしれない。
あのときよりは幾分女性らしさをましたキシュの胸元を暗がりに想像する。息が首にかかればどうしようもなく愛しくなる。脈打つ体温をめいっぱい感じたくなってぎゅっと抱きしめた。

「ちょ、っと。苦しいってば!あたしはね、怒ってるんだからね。せっかくライン軍の歌を歌ったのに」
「え?」
「あんなところで歌うの、勇気がいったんだからね!心配させて、どうしていつも大変な方を選ぶのかわかんないよ、あんたは!大体、オリビエちゃん、いつの間に侯爵様の子供になったの、そんなの聞いてないし」
口調は尖っているものの、しっかり胸元にしがみつくキシュの手。
心配してくれたんだ、助けようとがんばってくれた。

「うん、ごめん。ありがとう」
「ごめんじゃない!私がどれだけ走り回って」
「黙って」
「だ……?」
黙らせるために口を塞ぐ、というにはしっかり廻した手はキシュの腰を抱きしめ離さない。
髪と同じくらい真っ赤になったキシュは息をつくと、オリビエを見つめ。黙って抱きしめられている。
伏せたキシュの睫に、オリビエは囁く。
「本当に連れて行っちゃって、いいのかな?」
「もう、……嫌なら帰るよ?」
二人を包むマントの黒い空から、逃げ出そうとするキシュを抱きとめる。
ちらりとリエンコの呆れる視線を気にしたけれど、オリビエは黒い空から抜け出すと新鮮な空気を胸に吸い込み目を細めた。
ずっと、夢に見ていた。

「ヴィエンヌで何度も君の夢を見たんだ。雪の美しい景色を見せてあげたいと思っていた。そばに、いてほしいんだ」
今なら、僕は彼女を支えられる。

「…この国は自由の国になったの。だから。あたしも自由になって、好きなところに行くことにしたの」
「好きなところ?」
「いつでも。オリビエちゃんの音楽が聞ける場所」
それはとても幸せなんだよ、と。キシュは野良猫のように笑った。

ふわと涼しい風が二人の頬をなでた。
川面には空。蒼い空が静かに映り、上も下も蒼一色。

そこを進む船はまるで鳥のようだ。
今、自由に羽ばたく。




ん~!!長かった!
長かったけど、楽しかった♪文字数数えてみたら原稿用紙1000枚を軽く超えておりました。
初めて歴史もの(らしき)小説に挑戦して、難しいところもたくさんありました。
詳しい方なら、「おやおや?」と思うところも多いでしょうね(^^;)
そこは素人小説の強み(?)好きなように書かせていただきました♪
改めてここで「この物語はフィクションです」と申し上げておきます。
励ましてくださった読者様、参考にさせていただいたサイトの管理者様。感謝しています!
楽しんでいただけたカナ~?

さて。
次回作。原案はあるものの、まだ手付かずの状態です。
再び中世フランス的世界。13世紀くらい、かな~。剣はあるけど魔法は無い世界。
女の子主人公!!でお送りしてみたいと思っています!
公開はまだ未定。
これまで約三年間。毎回公開日を予告して、ほぼその通りにしてきました。
が、これってとても大変なことでして…。
プロの作家さんならともかく、働きながらこれだけ描くとなると、準備不足が処々に…。ごめんなさい。
投稿するわけでもないし、お金を取るわけでもない。だけど、書くからにはちゃんとしたい。楽しんでもらいたい。
なので、ある程度書き進めて、「これなら連載できる」という程度まで描けたら、公開しますね♪7月中の連載開始を目指してがんばるぞっ!
というわけですので!是非是非、遊びに来てくださいね♪

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らんらら

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